きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十一 審判の段  ――三好長慶 帝の即位式を警護し、田中与四郎 四十を前に天命を知る――

四十一 審判の段

 

永禄三年(1560年)の一月。

雲霞の如き群衆が見物する中、長慶は帝の即位式に伺候、警護役を務めあげた。毛利元就の貢献が大きかったとはいえ、先帝の崩御から僅か三年で即位式を実現させた長慶の手腕は朝廷から高く評価されており、報いとして長慶が修理大夫、慶興が筑前守に任官、加えて長慶は御剣を下賜された。

義輝や奉公衆がどう思おうが、もはや朝廷や京の民衆にとって天下の守護者は三好家であった。

「帝はいまも崇敬を集め、公方は軽んじられつつある。両者で何が違うのだろうな」

思いつくところがあって、近侍していた基速に水を向けてみる。

「さ、難儀な問いかけでございます。武力を有するか否か、でしょうか」

「それもあろう」

「神統」

「うむ、二千年続くと言われれば迂闊に手出しもできまい」

「他にもありますか」

「私は“変わることができるか”だと思い始めている」

基速は興味深げに長慶の言葉の続きを待っている。

「神代より帝の位置付けは幾度も変わってきた。自ら武力で日ノ本を平定したかと思えば、豪族との連合統治になり、藤原氏の栄華、院政の試みを経て――源平、南北朝では“旗印”に掲げられる御苦難にも遭った。南北一統後は静かに世を見守られ、世の移ろいを受け容れられておられる。私のような下種をも慈しんでくださるのだからな」

「……殿がどうかは置いておいて、なるほど、変わらぬようでそうではないのが帝だと」

「高度な判断の積み重ねなのだ。飢えようが、築地が崩れようが、“権威”の重みだけは変わっていない。いや、むしろ増しているようにすら思える」

「あらためて考えてみれば、途方もない……。公方も権威は充分に有していますが」

「変わることができるかどうか、だろうな。変われなければ人々は別の公方を求めるようになる」

「まさか、義冬様ではないですよね」

「足利ですらない何かだ」

「殿ならば」

「まだ実は固い。熟すのは次の世代になるだろう」

天文以降に生まれた者。いま十代、二十代の若人たち。

あと三十年、慶興が五十になる頃には人心は更に変わっているはずだ。

「隠居して、眺めていられれば楽しいだろうな」

「お戯れを。屋敷に戻れば、さっそく水争いの実地検分を報告させていただきますので」

「む……」

 

数日後、京の長慶屋敷に異人が訪ねてくることになった。

訪問者の名をガスパル・ヴィレラという。しばらく前から都に住み着いているキリスト教の高僧で、市街で熱心に布教を試みているようだ。既に長慶の意向を受け、義輝との謁見、京での布教許可は叶っている。しかしながら公家、寺社、その他様々な者からの嫌がらせや暴力は止むことがなく、長慶名による布教の允許、迫害への禁制を得ることを求めてきているのだった。

そこまでして都での布教に執着するのは、首府で一人の信者を得ることが、地方で百人の信者を得ることに等しいことを理解しているのだろう。

これまでは政治上の配慮から、長慶が直接キリスト教徒と接することは避けてきた。が、即位式直後のいまなら何の気兼ねもない。幼少時から関心を持っていた遥か西方の民に触れられるのは楽しみだった。

 

現れたのは二人で、ヴィレラの他にロレンソという盲目の日本人がついていた。

ヴィレラ。堺で目にした金や赤の長髪をした異人とは異なり、坊主頭で、黒の衣を纏っている。どうやら外見を日本の坊主に合わせることで、民衆の反発を防ごうとしているらしい。顔立ちは南方人に似て目が大きく、眉が濃く、顔の凹凸がはっきりしているが、山中に湧く泉のような静粛さが漂う。ただ、残念ながら日本の言葉には不慣れであるようだった。

ロレンソ。元は九州の琵琶法師だったが、山口でザビエルの説法に感銘を受け、キリスト教に宗旨替えしたのだという。ヴィレラに代わって、交渉や弁舌などの実務は彼が行う。いかにも弁が立ちそうな、度胸がありそうな面構えをしていた。

なかなか面白そうな組み合わせである。

ロレンソが訪問主旨を口上し、キリスト教の教え、福音なるものを説き始めた。

長慶は瞑目し、口を挟まずに一通りを聴くことにした。内容はこれまで聞きかじったものとそう大差はない。デウスというただひとつの全能神がいて、その教えに従わなければ地獄に落ちる、不幸にして日ノ本の民はこのキリストという者が伝えたという教えをいままで知らなかった、とくとく教えに従って極楽と救済を得るべし、というものである。

ロレンソの舌は滑らかで、なかなか聴き心地はよかった。幼い時分なら虜になったかもしれない。

一通り終わって、感想を求められた。少し意地悪なことを色々と思いついてしまう。礼を失しない程度に突いてみて、大陸西部の情勢を掘り下げてみたくなった。

「確かにこのキリストの宗門というものは、すべてが私には善良なものと思われる。その上で、幾つか質問をしてもよろしいかな」

好意に満ちた長慶の言葉に、ヴィレラとロレンソは深い感動を覚えたようだった。

「ハイ、ヨロコンデ」

ヴィレラ自らが頭を下げて快諾する。

「イズラームというよく似た教えを奉じる、タルキーという大国があると聞く。イズラームとキリスト教は何が違うのか教えてくれぬか」

ロレンソが青ざめ、ヴィレラの顔が紅潮した。

「ディアーボ……ルコンキイスタ……」

「……イズラームとはキリスト教を真似た邪宗でございます。お耳に入れるほどのこともありませぬ」

「邪宗がそれほどの帝国を築けるものかな。ヴィレラ殿をそうも動揺させられるものなのか」

「ヴィレラ様の故国はイズラームの侵略を受けたことがあるのです。平に、この儀はご容赦を」

想像通り、キリスト教国も彼らが説くほど万全な幸福の中で暮らしている訳ではないらしい。

「そうか、悪いことを聞いた」

「いえ……」

「ならば問いを変えよう。キリスト教の中にも、天文の争乱のような宗派争いがあるのかな」

「ぐっ」

「……テスタンチュ」

聞き取れないが、またもヴィレラが口の中で何かを呟いている。もちろん意味は長慶には分からぬ。

「な、なぜ。どうしてそのようなことをお聞きになるのです」

「堺の商人が言っていた。店が傾いた時、まず考えるのが新たな儲け話を探すことなのだとな。寺の坊主もそうであろう、都を追い出されたから念仏の教えが広まったのだろうが」

「……」

「極西の本国では、キリスト教内の葛藤、そしてイズラームの侵略が続いている。だからこそ新天地を求め遥かな布教の旅路に就いた。素直に教えを受け容れる民を見つけたら嬉しいものな。大方、そんなところではないのか」

「……」

相当の痛恨事を直撃してしまった様子である。ヴィレラもロレンソも黙して呆然とするばかりだった。

「勘違いなさるなよ。このようなことを知ったからとて、私のあなた方に対する敬意は些かも揺らぎはしない。むしろ、私は嬉しいのだ」

「……?」

「海を越えて訪ねてきてくれた偉大な勇気の持ち主と友人になれたこと。遠く西の彼方でも人の世はさほど変わらないようであること。それに、私の空想もなかなか捨てたものではないと分かったこと。ふふ、ふふふふ」

この場に元長や持隆がいれば。寂しい思いは確かにある。それでも、彼らから受け継いだ好意だった。

「最後に教えてほしい。“最後の審判”とは何だ。これだけは噂で聞いてもよく分からなかったのでな」

「は、はは……」

怯えさせてしまったかもしれぬ。

だが、ヴィレラは直ちに豊かな平静を取り戻した。併せて、気丈に、懸命にロレンソが説法を再開する。

見事である。

まずは地獄について。始まりに死の門。大河を渡った先には様々な刑罰が亡者を待っている。血を吸う鬼に殺される、血の涙を溜めた池に沈められる。心臓を燃やされ、精神を毒され、手を合わせて祈っても許されることはない。悪魔の巣窟に昼夜の別はなく、暁の夜明けに殺され、夜まで待てずに再び殺される。悲痛と嘆きに満ちた地下室の旋律はいつまでもいつまでも続くのだという。

どうも、寺の坊主が説く地獄とよく似ている。どちらかの伝説が、どちらかに伝わったものであろうか。

「終末の審判。世界最後の日、デウスはすべての人間に究極の裁きを行います。巧妙に罰を逃れてきた者も、墓に眠る死者すらも罪を隠すことはできません。咎人は永遠の地獄に落とされるのです」

「それで、その審判がどうキリストの教えに繋がる」

「デウスの子キリストが我々の罪を引き受けてくださりました。それ故に、我々は生前の罪を許され、審判の後に天国へ行くことが許されるのです」

「ふむ……。よく似てはいる。しかし、根本のところで違うところもあるものか」

「……?」

「審判なら、もう下っているというのに」

「え?」

ロレンソは言を追うのに必死だった。一方、ヴィレラは長慶の心中を測ることに努めている気配である。

「いや、何でもない。希望通り、允許状と禁制は授けよう」

「おお! かたじけなき仰せにございます」

「但し特別扱いはしない。揉め事を起こせば処罰するし、一揆の組成を無視することもない。嫌がる者を無理に改宗させることも許さぬ。それに、朝廷に近づくことは許可しない」

「かしこまりました、三好様にデウスの祝福あれかし……!」

彼らにとって充分な成果だ。しばらくは布教も順調に進むだろう。こちらとしても交易や硝石確保、朝廷、寺社との関係それぞれを考えれば、この辺りがちょうどよい落としどころだった。

そうして、帰り間際になってヴィレラが声をかけてきた。

「ミヨシンサマ」

「なにか」

「……デウスアベンソーイ、ボアヴィアージ」

何か、励まされたような気がした。異人の瞳に混じり気はなく、真からの親切を告げてくれたようだ。

分からないなりに、異国の聖職者と心が触れ合ったような感覚を抱いた。

 

後日、久秀を始め、多くの者から抗議を受けた。三好家中には法華宗などの信徒が多いのだ。

「なんぼ商売繁盛が大事やからって、やってええことと悪いことがありまっせ!」

「……少数がキリスト教徒になり、ささやかな南蛮寺ができたとて何の障りがある」

「ああいうのは白蟻と一緒なんですわ。放っといたらどんどん増えて家が傾いてまう」

「案じることはない。あの教えはそこまで広がらぬ」

長慶が断言した理由が分からないため、久秀は言葉を失った。

一向宗と似ているように言う者が多いが、深いところで違うことが分かった。キリスト教は日本の大地とは繋がっていない。根付かせるなら教義を変えねばならぬが、そこまではできるまい」

「……ほんまでっか? 聞いてる話とちゃいますけど」

「いずれ分かる」

「いずれって」

「適当に取り締まり、適当に目こぼししてやれ。世論をよく見ることだ」

「また難しいこと言わはる……」

「お前ならできる」

それきり、家臣や寺社からの苦情は上手く流すようにした。

審判教も日本の風景を彩るひとつの色になればよい。黒でも白でもなく、風のような淡い色に。

 

  *

 

春も終わりに近づき、一存は亡き存春が遺した水田に苗を植え始めた。

戦や政務の関係で十河城と岸和田城を往復する日々を送っている中、泥に浸かって家族と苗を扱う時間は和やかでよい。

三好家では商いに精を出している者が多いが、どちらかといえば一存は農作業の方が好きだった。子の熊王丸は手伝いを怠けがちだが、妻の尚子は思いの外楽しそうに田植えをやる。九条家のお姫様は泥を嫌がるものかと思っていたが、彼女に言わせれば真の公家は稲作を尊ぶのだという。

田をいじることは、身体を鍛えることに似ている。うまい米づくりは、強い己づくりなのだ。一粒ずつ小石を拾い、根気よく土を起こし、手間をかけて草を抜き虫を除く。やればやっただけ稲は応えてくれた。そうして育てた新米を炊き、大盛りによそった際の持ち重りと芳しさは無上の喜びである。

「水を張ると、夏が近いって気持ちになるわあ」

「わしもだ。毎年毎年、この時ばかりはご先祖様に頭を下げたくなる」

「へえ、一存様でもそないな孝行心出さはるんやなあ」

「素晴らしきは溜め池よ。過ぎ去った大勢の汗と知恵が、いまを生きる我々に恵みを授けてくださるのだ」

「ふうん、ほおん」

にこにこと尚子が横目で一存の顔を覗く。頬に泥が跳ねているが、それがまた可愛らしいのだった。

「んっん、とにかく、精を出さねばな」

「あい。おいしいお米がでけたらええね」

「讃岐の米はうまい。和泉の米もうまい。日当たりがよいからな、水さえあれば上等に育つ」

「ほんまやねえ。都の人も、お米食べに讃岐に来はったらええと思うわ」

「慶兄も久しく四国に来ておらん。たまにはゆっくりしにおいでまいとでも言ってみるか」

「一存様はお兄様思いやねえ」

「当たり前だ、父親代わりに育ててもらったのだからな」

「うち、仲のええ家族って好きやわあ」

苗を丁寧に入れながらも、歌うような夫婦の会話は続く。

熊王丸が大きくなって、次子の万満丸は岸和田の松浦家に入れた。二人だけで過ごす時間が長くなり、新婚当初のような照れ臭さが蒸し返している。

思わず身体が熱くなって、胸や首筋にできた湿疹を掻いてしまった。

「ああん、めっ。泥のついた手えで掻いたらあかんよ」

「あ、うむ、すまぬ」

「なかなかようならんねえ。いっぺん、出湯にでも浸かりにいったら?」

「湯治か……」

「有馬の湯(兵庫県神戸市)は、よう効くて評判なんやて」

「ぬう……。そうだな、河内の方が落ち着いたら……。おい、尚子も行くか」

「うちはええよう。たまにはしっかり羽伸ばしておいで」

ならば、白雲と共に身体を手入れしてくるか。馬にも骨休みは必要なはずだ。湯で身体を洗ってやれば喜ぶかもしれぬ。

もう一度胸元を掻きかけた指を止めて、田植えに意識を戻す。今日は実にいい天気である。

 

  *

 

香西元成の戦死は、まるで自殺のようだった。

長逸や長頼と共に宗渭も迎え撃ったのだ。策も何もない。千名足らずの兵で北から京に侵入しようと突っ込んできて、たちまち包囲されて壊滅した。元成は暴れるだけ暴れた後、仁王立ちになって刀を天に掲げ、おもむろに自分の喉を突いたのだった。

止めることも組みつくこともできなかった。不器用な武人の最期を見届けたという思いだけが残る。

「敵ながら」

「……」

宗渭と共に長年京を脅かし続けたこの男の死を、長逸も長頼も憎からず思ってくれたようである。長逸は遺骸を丁重に葬るよう指示を出してくれた。許しを得て、宗渭も同道させてもらう。

「六郎様を迎え入れろと……仰るのですね……」

冥福を祈り、遺髪を一族のもとへ送る手筈を整える。元成の死に顔には満足と解き放たれた安心とが同居しているように見えた。

 

同日、若狭で波多野晴通が息を引き取ったと知らせが入った。

最期まで丹波の奪還と、妹の帰還を願っていたらしい。長頼のもとには助命された波多野旧臣が多数仕えており、たちまち陣のあちこちですすり泣く声が聞こえてきた。

父親の稙通と比較されることが多かった。当主を継いでからは侮られるばかりで、国人の多くは離反し、遂には八上城を失ってしまった。だが、負け続けるうちに晴通を慕う者は増えていった。実際、松永兄弟や長逸の猛攻を何度か食い止めてもみせたのだ。一介の国人として、等身大の人間として、どこか人の心を揺さぶる男であった。

 

両名の死を報告するため、長逸と宗渭とで芥川山城を訪れた。

黒猫を抱いた長慶は無念そうに

「他の道はなかったものかな」

とため息のような声を出した。

「稙通殿との約束、半分は守れませなんだ。申し訳ありませぬ」

長逸が頭を下げる。本当は、丹波の攻略も晴通の捕縛も、自身の手で成し遂げたかったのだという。

「すべては私の責だ」

「いえ、それがしの」

「……よそう。少しでもよき未来を手繰るまでだな」

三好家に入って驚いたのは、特に長慶と長逸がそうであるが、責任感が異常に強いことだった。敗れた相手の宿命を悼み、勝った自分の浅慮を省みる。こんな天下人がいるのかと、鮮烈な印象を抱いたものだった。六郎とはまるで違う。だが、宗渭は六郎のことも好きなのだ。

「六郎殿は病の兆候があり、宗渭の母と弟は若狭に残っている。そうであったな」

「はっ」

よく遇してもらってはいるが、いまでも長慶に話しかけられると落ち着かないところはある。

「河内への出陣が近い。六郎殿との交渉、任せてよいかな」

「お、俺でよいのですか」

「お主が適任であろう。困ったことがあれば長逸に頼るがよい」

「……承知、いたしました」

河内の畠山高政が、呆れたことに安見宗房を勝手に復帰させていた。これでは、三好家が何のために高政へ援軍を送ったのか分からなくなる。畿内を治める長慶としては毅然とした対応が必要だった。

管領のひとつをこれから攻めようとしていながら、もう一方には温情をかけようとしている。融通無碍と言ってよいのか、長慶の判断には既に家格の差というものが存在していないかのようだ。いまにして思えば十年前、宗三と共に管領の家格も死んでいたのかもしれない。

 

  *

 

五月十九日。

今日は午後から雨が降っていたが、夜には上がった。

静かだった。琴がいなくなって一人きり、あまねは写経に励むだけの日々を送っている。

琴から預かった長慶と正虎への手紙は封をしたままである。あまねに宛てた手紙にはこれまでの礼の他、さる場所に預けた後南朝残党の軍資金を換金する符丁が記されていた。もう必要なくなったものだから、あまねの余生を送る足しに使ってほしいと……。結びには、一度畿内に帰った方がいいと勧めてあった。

何度も繰り返し読んでみたが、頭には何も浮かんでこない。ただただ瞼に涙が浮かんで、矢も楯もなく琴の無事を祈るだけだった。

――馬の蹄の音、怒号を上げる男の声が聞こえた。西からやって来た武者が、何かを叫んで回っているらしい。すぐに、家々から人が飛び出してきた。松明の光が群れて動く様子は怖じ気を感じさせる。

戦の知らせだろうか。七日ほど前に進発した今川家の大軍が、そろそろ織田信長が籠る城を囲む頃だという話は聞いている。岡部の里の男も大半が出陣しており、いまは女に子ども、老人しか残っていない。

……城攻めをするなら勝報が届くには早過ぎる。

これは、悪い知らせに違いなかった。

あまねの寺から程近い、朝日山城麓の館に人々が集まっていく。佳の判断を仰ぐつもりなのだろう。

まさか、正綱殿や元信殿が。佳のことが案じられ、あまねも表に出ることにした。

「討死された! 討死された!」

ほどなく、泣き声混じりの声が届いてきた。やはり――いや、聞きたくない。しかし――。

「あの」

幼子を抱えた女に声をかけた。

「何か……どなたかの身に」

「討死されたんですよう!」

女が嗚咽する。

「お、岡部の侍がですか」

「今川様だよ! ああ、これから駿河はどうなってしまうの……!」

不安が一気に出たのか、女の呼吸がおかしい。背中をさすってやりつつ、この国に訪れた重大な危機に、あまねですら思いを馳せずにはいられなかった。

天は義元を挫き、信長を選んだ。この日はきっとひとつの節目に、あの、江口での戦いのように……。

 

数日が経ち、合戦の経過や死者の数もおおよそは伝わってきた。

幸い正綱や元信は無事とのことだが、元信はいまも鳴海城(愛知県名古屋市)に留まって織田軍と弓矢を交えているという。正綱もいつ帰ってこられるかは分からなかった。

里の混乱は治まっていない。

今川家領国にあって義元の存在は主柱そのものだったのだ。後継の氏真が健在とはいえ、国は乱れ、従属していた国人はここぞとばかりに裏切るに違いない。信長だけではなく、盟約を結んでいる武田家や北条家がどう動くかも分からなかった。

あまねとて元は武家の女である。乱世の定めは嫌というほど知っている。

「あまねさんはいいわね……。家のしがらみなんかなくって、どこにでも行けるもの」

佳が漏らした言葉に、見舞いに来たあまねは動揺を隠せなかった。佳のせいではない。日頃忘れている、実家に対する申し訳なさがむくむくと膨らんだのである。兄の晴通は、いまもどこかで三好家と戦っているのだろうか。家のことをすべて放り投げてきた自分は、人でなし、不孝者と謗られても仕方のない身なのだ。

「そう、そうね」

あまねの様子を目にして、佳は直ちに悔いて頭を下げた。

「ごめん! ごめんなさい……。いま、私、どうかしていた」

「いいの。ほんとのことだもの……」

「何もかもが気がかりで」

「いいのよ」

笑みで返して佳の肩を軽く揉んでやり、写経を岡部家の仏壇に納めて暇を告げた。

帰り際、佳はあらためて先ほどの件を謝り、その上で本心からあまねの帰国を勧めてきた。

 

  *

 

「なんだこれ! すげえなあ! おい茂三、お前すごいものこしらえたなあ!」

「は、はは。もったいなきお言葉を」

「いやあ、こいつはいい。まだあるのかい」

「それが、もう材料があまり……」

長慶のところに顔を出してみれば、茂三の創作料理を試しているところだった。相伴にあずかったそれは平たい餅の上に“ケイジョ”、それに海苔とたまりを乗せて火に炙ったもので、匂いの香ばしさ、味わったことのない重厚な旨味、蕩けるケイジョと餅の口当たり腹溜まりのよさが相まった見事な逸品なのである。

「ふふ、気に入ったか。ロレンソか会合衆かに言って、ケイジョをもっと分けてもらわねばな」

なんでもキリスト教の坊主が贈ってくれたものらしいが、乳が腐って固まったようなこの代物、そのままでは食えたものではなかったそうだ。だが、捨てるのも気が引けるので茂三に料理法を研究させてみた。結果、たまりや味噌を塗って火を入れるのがよろしいということになったのだと。いかにも父らしい話である。

「父上。せっかく茂三の腕も上がったことだし、御成でもやりませんか」

「ほ。上様を」

「ええ。最近は公方とも上手くいっているし、世間を安心させられるでしょう。誰も見たことのないような贅を尽くせば、日ノ本の第一人者が誰なのかもはっきりさせられる」

「ふむ。なかなかよい着想だ。慶興、己で仕切ってみるか」

「もとよりそのつもりです。世の中全体を驚破せしめてやりますよ」

それから、茂三に向かって再度問うた。

「どうだ茂三。最近、父上は飯をよく食っているか」

「あ……それが……」

「構わぬ。少し、減ったな。夏のせいか食欲が働かぬ」

「お疲れなんですよ! いよいよ畠山と絶縁でしょう、河内攻めが済んだら少し休まれたらどうです」

「ふ……何を企んでいる」

「父上の重荷、背負いたくなってきました。何だか最近、力が有り余ってましてね!」

威勢よく言ってはみたが、長慶は動じることなく慶興の胸の内を凝視している。

「東海が揺れている。母に会いたくなったのであろう」

「ちっ、何でもお見通しですか」

「私も会いたい」

ひと時、場が固まった。茂三がいそいそと部屋から出ていく。

「ははは! いやに素直じゃないですか、やはりご無理ばかりしているから! そうです。父上、あなたよりも格好よくなれば母上は戻ってきてくれるのですから。今川領が荒れていくいまこそ好機、戦も政も、俺が!」

「……琴からの繋ぎが絶えたのは気になるが……。うん、よかろう。やってみよ」

「よっしゃあ! エーイ!」

思いの外、話は簡単に纏まった。自分の実績を評価してくれたのか、時勢の移ろいか、長慶の退潮かは分からない。何でもよいから、向こう五年で長慶に追いつき、追い抜いてやろうと固く誓うのだった。

 

  *

 

風と天気に味方され、寧波への船旅は快適なものであった。

もっとも、与四郎が相当の心配りをしてくれていたお蔭である。いねが同行することになって、それまでに立てていた段取りをすべて再点検し、あらゆる不備や疎漏を排してくれていた。天候だって過去何十年の事例を調べて決めた日取りだからよかったのに違いない。

市場には堺ですら見たことのない品々が数多溢れていた。倭寇や密貿易が盛んであるとはいえ、供給に比べれば需要がまるで足りていないのは明白だ。三箇月の滞在の間、いねは品質のよい鮫肌や玉薬の調達先と話をつけることができていた。

定期交易には至らなくても、珍しいものであればさばくのは容易い。例えば……香芹、秋桐、迷迭香、そして麝香草。大陸の料理には香草を入れることが常で、日ノ本の食事とは風味が大きく違う。最初は口に合わなかったが、食べ慣れるうちにやみつきになった。どこかの土地の日常が、こちらの非日常なのだ。

商売の目途が立つと、与四郎はいねを湖州(浙江省)に連れていった。

 

いねが名産の絹を仕入れることに努める間、与四郎は寺院や水郷を見て廻っていた。遊びにきたのかと腹が立ったが、そのうちに夫が並々ならぬ意気込みでいることに気づいた。一緒になってから、初めて見るほどの活き活きとした相貌である。宝心庵を創ったときですらこれほどの精彩は感じなかった。遂にはいねの手を引いて太湖に舟を浮かべ、悠久の絶景すら無視するような勢いで叫んだのだ。

「分かった! 確かに分かったぞ!」

「……いったい、何なの」

「日本の美は、大陸の美とは異なるのだ」

興奮した面持ちで与四郎は言う。

「そんなの……当たり前じゃない」

「当たり前であるものか! 均整、純白、無窮。素晴らしいさ、まさに憧憬! だがもう、我々には我々の美がある、まだ誰も気づいていない美の価値、美の軸が! 私は気づいた、見抜いたぞ、ふはははは!」

「……」

「変わる、茶も花も変わる。日ノ本が変わる。いね、私は千殿を追い抜くかもしれないな!」

なんとなく、夫が言いたいことは分かった。吉野川の下流に生まれた者が芝生にやってくると、しばらくは水の清冽に驚き、喜ぶが、居座ることはしないでそのうち河口の暮らしに戻っていく。一人ひとりの吉野川、一人ひとりの美しきもの。もとより吉野川と太湖を比べようとは思わないが、男は気にする生き物だったな。

「さあいねよ、陸羽に挨拶だ。謝辞を述べよう、仁義を通そう。曇りなき下剋上をご照覧いただかねば!」

父の夢を追った私と、茶の源流を追った与四郎。明までやってきて、似た者夫婦であることに気づいた。

 

続く

 

 

四十 統治者責任の段  ――畠山高政 掌を返し、松永久秀 大和に侵入す――

四十 統治者責任の段

 

秋と冬の境目、長慶は体調を崩して十日ほど臥せっていた。

密かな鍛錬の甲斐あって身体は丈夫な方だと思っていたが、齢四十も近くなって長年溜まった疲れが出てきたものかもしれない。おたきや茂三が大騒ぎで看病してくれたこともあり、昨日くらいからは館の中を歩くのも苦ではなくなってきている。それでも大事を取って、もう一日は寝転んでいることにした。

与四郎といねが芥川山城を訪れたのはそんな折のことだった。客を出迎えられる格好ではなかったが、身内のことである。簡単な身繕いだけをして二人の前に姿を見せた。

春が来れば、この夫婦は寧波に旅立つことになっている。一年ほどで帰ってくるとはいうものの、生命の保障はまったくないと言ってよい。難破し、亡霊船となって大洋を彷徨うかもしれぬ。倭寇や大陸の野盗に襲われる可能性もある。一万の兵でも護衛につけてやりたい気持ちだったが、費用と効果が釣り合わぬと与四郎には笑われた。

逆に、三好家が高値で買い付けるであろう品目の売り込みを受ける始末だ。確かに、三好家はいまや堺の商人にとって最大の大口顧客となっている。戦になれば鉄砲が要るし、公家や坊主との付き合いには贈り物が欠かせない。之虎や久秀の影響で茶器や更紗を欲しがる将も増えるばかりだった。長慶自身、珍しい書籍や南蛮菓子になら小遣い銭を使ってもよいかなとは思う。

「我々のことより」

与四郎は言う。

「千殿こそ気をつけた方がよい。何もかも上手くいき過ぎている、こういう時が一番危ない」

「与四郎もそう思うか」

「思うとも」

「成功は運、滅びは必定。じたばたしてもな」

「ちょっと! 何を縁起でもないこと言っているのよ!」

いねに怒鳴られ、長慶は目を閉じた。やり過ごすのが一番である。

「落ち着きなさい。千殿風の物言いというものだ」

「兄様のそういうところがよくない。周りをいたずらに不安にさせて、趣味が悪い!」

「む……すまぬ」

こんな調子だから、なかなか本音も漏らせない。それとも、本音だと察したから怒っているのだろうか。

「ま、ま……。私が言いたいのは、公方や畠山家のことだよ」

「加減はしているのだが」

「大店の商売が駄目になった時、何が起きると思う? ……奉公人が分裂するのさ。見切りをつけて他の店に移ろうとする者、周りの様子をただ伺う者、新たな儲け話を懸命に考える者。それらで八割だな」

「残りの二割は」

「先鋭化する。かつて上手くいったやり方にしがみつき、根も葉も切り落として、伝統という幹だけを必死に守ろうとする。そうやって、ゆっくりと店を潰していく」

「……」

「厄介なことに、大衆はそうした話がお好みときている。銭は出さずに口だけは出して、残念な二割の方に味方するのさ。何が言いたいか分かるだろう?」

「ああ、よく分かる」

商家も武家も大差はない。人の頭は過去を尊ぶ方が楽で、未来を描く方が苦しいようにできている。楽と苦が戦えば、十中八九は楽が勝つ。だからこそ、己の終着点も想像がつくというものだ。

「でも、それは公方や畠山の話でしょう?」

武家の世界では、大衆すなわち兵力だからね。家を建て直す知恵はないけど、募兵には喜んで応じる」

「そんな……そんなことって」

「よいのだ。いね、そういうものなのだ」

「だって、兄様は民のためにって頑張ってきたんじゃない。それなのに」

「いずれは使い捨てられる。そこまで受け容れてこその統治者よ」

「馬っ鹿みたい……何よそれ……」

「ふふ。与四郎も随分鋭くなったものだ」

会合衆に加われば、自然とね」

「おい、いね。お前泣いているのか。すべて仮の話、絵空事ではないか。真に受けるでないよ。そうならないように気をつけよう、と話しているのだ」

「知らない! 馬鹿! 兄様の馬鹿! あなたも嫌い! こんな嫌な話、聞きたくなかったわ!」

与四郎と目を合わせた。どうしよう? どうしようもない。声に出さずとも意見は一致している。

長慶は寝込むふりをし、与四郎は厠へ行くふりをして場を離れた。

いねはしばらく拗ねていたが、通りかかった夜桜が膝に乗ってきたので機嫌が直った。慶興が拾ってきた猫だが、世話は長慶がしている。日頃の恩を返してくれたのかもしれない。

 

  *

 

安芸の海は何度も通ったことがあるが、港より奥に上陸するのは初めてだった。

案内の康長、実務方の長房、親善大使の冬康。それとは別に、義弟の冬長率いる水軍衆が護衛についている。これだけの面子を揃えたのはそれだけ相手が手強いからだった。

長慶や之虎に正面から挑むに等しいと康長は言い切る。ならば、この旅は偉大な兄たちに並ぶための試練なのかもしれない。

毛利隆元と事前の調整を重ねてきた長房も、細かな数字の確認、予想される効果の裏取りなどで、毛利家の実務力は目を見張るものがあったと証言していた。他家の懐事情も、鍵となる朝廷の人物も、ほぼ正確に把握していたらしい。元就の軍才と謀略で伸し上がった家だと思われているが、その土台では多くの誠実な者たちが汗を流している。こうした点も三好家とは似ていた。

既に朝倉家や本願寺などが献金に同意してきている。

朝倉家は公方からの依頼に応じてきた。人のいい朝倉義景が朝廷への貢献に賛同したのか、家として公方の要請を何度も無視してきたことを気にしたものかは分からない。若狭を挟んだ長頼との緊張緩和を期待してのことではないかという声もあった。

本願寺顕如は長慶が直接口説いてきた。本願寺首脳部は過去を水に流した長慶に対し好意的で、三好家が法華宗の大旦那であろうが、長慶個人が大徳寺に参禅しようが、顕如の縁戚に当たる六郎と戦おうが、一貫して親密な態度を崩そうとしない。悲惨な争乱で負った傷も癒え、石山は大寺社町として発展している。その発展の裏に、長慶による畿内の平穏があったこともよく承知しているのだろう。

安芸にも一向宗徒は多い。本願寺からも口添えがされている。もとより長慶と元就との間には書状のやり取りもある。あとひと押し、直接会って口説くべきだと長慶は言った。

毛利が大内から分捕った財を吐き出せばそれでよし、出さなければ三好家が追加で献金すればよい。いずれにせよ、僅か三年で帝の即位式が叶おうとしていた。

 

吉田郡山城で一同を待っていたのは元就・隆元父子の他、口羽通良ら家臣衆であった。押し売りを追い返すような扱いを受けることも想像していたが、空気は極めて穏やかなものである。“これが怖いのだ”と康長が囁いた。

挨拶が一通り済んだ後で、本題に移った。

事前にすり合わせた内容を長房が朗々と説明していく。時おり隆元や通良が細目の説明を求めたが、それに対する長房の返答は皆を満足させるものだった。

思い切って、銭五百貫。

三好家を介した朝廷の要求金額である。だが、これはいかにも過大な希望だった。五百貫もあれば、堅固な城を築くことも、多くの鉄砲を調達することも、それこそ石見銀山奪取に向けた遠征を起こすことも可能なのだ。ある程度の献金はやぶさかでないにしても、実利に乏しい即位式のためにそこまでの投資を行う必要は薄い。まして、別途警護役の負担を行うにしても、当の三好家が百貫しか出そうとしていないのである。

「百貫が妥当な線だ」

隆元が答えた。そちらもこれくらいが落としどころだと考えていたのであろうと、明晰そうな顔に書いてある。事実、百貫からどれだけ上乗せできるかが勝負だと長房は考えているはずだ。とまれ、毛利家当主の判断は下された。

「三百貫では如何か。大内家の朝廷への篤志はいまも忘れられておりませぬ。中国を継ぐ者として、都にその名を広める好機でございましょう」

長房も簡単には引き下がらない。

康長と通良も議論に入り、しばらく十貫単位の詰めが続いた。

「二百貫。貴公も朝廷も、充分に満足できる額のはず」

隆元が終止符を打った。長房の手札は使い果たしている。よい論戦だったが、元就を背にした隆元の迫力が上を行っていた。長房にも冬康がついているが、元就と冬康では実績に天と地の差がある。

「ううむ……」

「父上もよろしいでしょうか」

隆元が元就に水を向けた。まずは隆元が仕切り、結びに大殿を立てる。父子の関係は良好のようだ。

「まだ、安宅冬康殿のご意見を伺っておりません」

「む、確かに。存念あらばお聞かせ願いたい」

自分の腹は見せず、先に相手の大将の動きを測る。老人にはまるで隙がなかった。

「ならば申し上げましょう。……毛利殿には五百貫出していただきたい」

「なっ!」

元就以外の、長房や康長を含めた全員が絶句した。

「そ、それは幾らなんでも暴論、無礼というものでござろう」

呆れ顔で通良が抗議をしていくる。

「無礼? 無礼とは次のふたつでしょう。ひとつ、毛利家の財力を安く値踏みすること。ひとつ、他所の家はこのくらいだからと、世間並の枠に毛利家を納めようとすること」

「……ぬう」

「考えは申し上げました。元就殿のご返答やいかに」

言葉を使った斬り合いである。刀を再び元就に返した。

「……石見には本城常光という素晴らしい武将がおりまして」

「噂は届いております」

「あのような男と手を結ぶことができれば、千貫などすぐにも稼ぐことができるのですが」

長房が“何の話だ”という顔をし、隆元と通良が“またこの話か”という顔をした。

「まだ、その時宜ではないと仰せですかな」

「大内家の後継などと。我々は銀山も、博多の港も手に入れていないのです」

「山口の蔵から得たものがあるでしょう」

「炎に呑まれたものをどうしろと」

本音かどうかは分からない。隆元の判断を尊重しているだけのようにも思えた。

「……」

詠むか。

つるぎから授かった力。底知れぬ謀神をもあわれと思わせるはやまとの歌なり。

 

古を記せる文の後もうし さらずばくだる世ともしらじを――

 

「……防長経略を責めておられるのですか」

「公と万民への奉仕。焼いた者の責務であると、私は確信しています」

「……」

元就の表情を見つめていた隆元が首を振った。誰よりも早く、元就の心境を察したのだ。

「山口は、美しい町でした」

「許してくれるか、隆元」

「道楽とは思いませぬ。活かし方を考えることにいたします」

康長が熱っぽい視線を冬康に向ける。ひと呼吸おいて元就が宣言した。

「二千貫」

「なんですと」

やられた。冬康も目を丸くするしかなかった。

こんな額を出されては、日本中の話題は元就ただ一人に集中する。朝廷の希望する額を遥かに超え、即位式は古今例のない壮大なものになるだろう。銭集めや段取りをした三好家の手柄は忘れ去られる。

はっきり言えることは、元就は思いつきで動く男では断じてないということだ。ならば初めからこうすることも選択肢に入れていたことになる……。

経緯を思い返す。康長と長房が安芸に行こうとしていたところ、長慶が冬康を指名して同行することになったのだ。では、長慶もこうした展開を予想していたのか。冬康ならこれくらいは吹っかけると。それを受け、元就なら上を行く手立てを出してくると。

「長短あれど、ここは毛利に栄誉を譲ること、毛利の財貨を摩耗させておくことが今後のためよ」

長慶の思惑が聞こえた気がした。元就と長慶。比べて、自分はまだまだ小さい。もっともっと飛躍せねば彼我の差は縮まらない。だが、どうやれば空を飛べるのか、冬康には分からなかった。

 

  *

 

高屋城から湯川直光とその郎党が去っていく。

あれだけ揚々と広かった背中がいまは酷くみすぼらしい。無理もない、と高政は思った。河内の新たな守護代にしてやったが、決裁せねばならぬ書類を溜めるばかりで何の成果も上げられなかったのだ。すぐに国人や民衆からの不満が噴出した。それでなくとも河内の民は口やかましい。直光の頬は痩せこけ、目の光が失われるのにそう時間はかからなかった。

深夜、手折った書類を風に乗せて遊んでいる直光を見回りの兵たちが発見し、それで解任が決まった。解任してよかったと思う。このまま役目を続けさせていれば、完全に人格が破壊されていただろう。

いまは、長慶から借り受けた奉行衆が実務をさばいてくれている。彼らの力は素晴らしく、積み上がっていた書類は三日のうちに整理された。幾つかの案件は高政も意見を求められたが、幼児でも正しい判断ができそうなほどに論点と論拠がまとめられていて、まったく気苦労を負わなかった。なんだ、長慶はこんなに楽をしているのかと呆れたほどである。

ただ、長慶の配下が政務を牛耳ることに対する重臣たちの反発が日増しに強まっていた。このままでは民が三好家の方を当てにするようになるし、機密情報が長慶に筒抜けになるというのである。

じゃあお前たちが代わりをやるかと高政が問えば、彼らは途端に尻込みした。情けない連中ではある。家を分けて争っていた分、また、遊佐長教や安見宗房にすべてを任せていた分、畠山家全体に目が届く人材が育っていないのだった。ようやく分かってきた。地味でも陰気でも、施政には文官が不可欠なのだ。

そんな時、一通の密書が高政のところに届けられた。

 

「よく俺の前にのこのこ“面あ”見せられたもんだな、ええ?」

「それでも高政様はお越しくださりました。……私の値打ちがお分かりになったのではありませぬか」

長慶の探索から逃げ延びた宗房は、実は高屋城からすぐ近くの寺に匿ってもらっていたらしい。

「どういうつもりだお前」

「私をもう一度“配下”にしてもらえませぬか」

「ああ? どの口が言うんだおら、次は“歯あ”へし折ってやろうか」

鼻を蹴り潰されたことを思い出し、宗房の額には汗玉が浮かび始めた。

「畠山家には実務方が不足している。三好家に頼っていたら国を乗っ取られてしまう」

「は! そん時は“戦”だよう」

「戦だけが国を治める者の務めではない。そのことに高政様はお気づきになられたはずです」

早口で宗房がまくしたてる。彼なりに命運を賭した弁舌のつもりらしい。

「木沢長政の“亡霊”が何言ってんだおう。主君追い出すのがお前らの“教義”だろうが」

「仰っていたでしょう、私は“中途半端”な男なのです。半端者は“機を見るに敏”が取り得故」

「頭あ湧いてんのか。お前なんかと手え組んだら、それこそ三好が黙っちゃいねえよ」

「“殿”。その儀、秘計がございますれば……」

「ああん」

袂から宗房が書状を取り出す。封には、三淵晴員の署名が記されていた。

 

  *

 

元就の三男、小早川隆景の解説は驕るでも誇るでもない、淡々としたものであった。厳島合戦の経過を現地で当事者から聞くことができるとは何よりの土産話である。

海に生きる者同士、隆景は冬康と気が合うようだ。冬長も交え、互いが根城とする海域の潮の流れや帆の張り方を楽しそうに話し合っていた。

三好四兄弟では冬康が一番目立たないと言われている。長房自身、日頃は之虎の天才ぶりを傍近くで見て学び、一存とは若い頃武術で競い合った仲である。一方で、頻繁に顔は合わせるものの、冬康について多くを知っているとは言い難かった。されど、兄弟の絆を繋いでいるのも、民の忠心を三好家に繋ぎ止めているのも、実は冬康の力が大きいのだと康長などは言う。

畿内の有力者の子弟を船に乗せてやり、数日の旅を体験させるようなこともやっていると教えてもらった。ささやかな旅であっても、幼い子どもは多くを学び、意識を一段高める。親は喜び、子はやがて三好家に親しみを抱く有力者に育つ。気の長い話だが、なかなか上手いやり方だ。

実際、毛利元就に突きつけた交渉術も見事だった。冬康本人は“負けた”と言っていたが、常人ならば百貫だけを貰って喜んで帰っていたことだろう。どれだけ都で元就の評判が上がろうが、所詮、京は三好が抑えているのである。どうにでも情報操作はできるのだから、一貫でも多くの銭を供出させるに如くはない。

そうこうしているうちに、隆景配下の操る大船が厳島に接近してきた。康長が呟く。

「待ち人来たる」

苦笑いを浮かべる隆景の家臣たちを見ると、当地で義冬がどんな風に思われているかが察せられた。

 

久方ぶりに再開した義冬は、三好家の一同に遠慮なく罵声と嫌味を浴びせてきた。

大内家、続いて毛利家にはよくしてもらっていると。それに引き替え、三好家の不忠ぶりは目に余るものがある、義冬の恩を忘れて義輝を担ぐ長慶、育ての親を葬った之虎、どいつもこいつもこの二人を諌めようとしないのはどういうことかと。

要約すればこれだけのことを、二刻以上に亘って絡んでくるのである。だいたい、細川持隆が育ての親であることは誰も否定しないだろうが、義冬がいったい長慶に何の恩を授けたというのだ。せいぜい斎藤基速を貸し与えたくらいだが、あれも基速が義冬を見限ったと言えなくもないではないか。大内だ毛利だと言うが、ここでこれだけぐちぐち零すということは現在の暮らしに満足していないことの証に違いないぞ。

冷めた目で長房は聞いていたが、冬康と康長は恭しくいかにもごもっともという態で頭を下げ続けている。天下に混乱しか与えぬこの男をどう扱うかは、近年の三好家・毛利家共通の悩みであった。足利義輝が三好家に対して融和の姿勢を見せ始めたこともあり、三好家としては義冬を担ぐ必要性が薄れてきている。その癖、義冬は上洛と義輝追放をいまも唱え続けているのだから、庇護している毛利家は堪ったものではない。西で大友、東で尼子と対峙している中、公方にまで睨まれても何もよいことはないのだ。

それでも、この御仁が強い正統性を有していることに違いはない。二百年に及ぶ生活習慣の積み重ねは、足利と聞けば頭を垂れる習性を人々の髄まで植えつけている。長慶や関東の北条家は例外であり、足利姓の人物と反目したい者などいまだ少ない。

実のところ、隆景からは“二千貫の代償のひとつとして、義冬を阿波へ連れて帰ってもらいたい”と打診を受けている。毛利家からすれば三好家との関係が気まずくなって大内家に移ってきたというだけで、進んで義冬を招聘した訳ではない。大内家を滅ぼしてみれば、なぜかそこに将軍候補の一柱が住んでいたというだけのことなのだ。西国経営に専念したい、畿内の揉め事に関わりたくない、というのが本音なのだろう。

連れて帰れば、今度は公方との関係が当然悪化するのだろうが……。

いずれにせよ、軽率に決められる類の事案ではない。一旦長慶のもとへ持ち帰るということになった。

「ふん、少しは心を入れ替えたか。ちっ、ええい、腹が減ったわ。飯にするぞ、飯だ」

文句を言い続けることに飽いたのか、唐突に食事を要求し始めた。

「そうじゃ、余が釣ってきた穴子があろう。あれをな、割いて塩焼きにせよ。おお、牡蠣も食いたいの」

自分の家臣であるかのように隆景に指示を出していく。それに対して不快を顔に出すでもなく、整然と手配を進めていく隆景。ほどなくしてよい匂いが漂ってきた。

「んふふ。冬の穴子はよいぞ、釣るのは難しいがな。こつがあるのよ、分かるか冬康」

釣り自慢を始めた。やはり冬康は朗らかに相槌を打っている。一字を与えているだけあり、何だかんだで義冬は冬康のことを気に入っているようだ。

「ほら、牡蠣も食わぬか。汁を大事にな。って、うお、熱っ。火を入れ過ぎじゃ、まったく……」

一人で騒ぎ続けている。“俺は船に残る”と言った冬長の気持ちが分かるような気がした。

「康長殿」

「どうした」

「偉い人を囲んだ食事って、どうして偉い人が話し続けるのでしょうね」

肉厚の穴子も水気をたっぶり湛えた牡蠣も卓抜した海の幸である。できれば味に集中したい。

「ほう、長房にしてはよい問いをする」

「……ただの雑談ですよ」

「上座に座る機会が増えれば分かる。あれでな、義冬様も気を使っているつもりなのだ」

「あれでですか」

「沈黙が続いて下の者が話題に悩むよりはましだろう。上の不出来は後々酒の肴にもなる」

「はあ」

「ま。冬康に任せて飲もう、食おう」

義冬の性根は邪悪ではないということなのだろう。ただ、将軍職と京への執着が異常に強いだけで。

公方との関係が悪化すれば、再び擁立論が盛り上がるはずだ。四国衆の利権拡大の好機にもなる。そうなった時に備えて、義冬との関係を強めておいても損にはならなさそうだ。

 

  *

 

都からの急報は信貴山城を歓喜させた。

「っしゃあ! おおきに帝! よかったのう、正虎!」

「か、かたじけなき……う、うう、うわああ」

後は言葉にならなかった。遂に、朝廷から楠木家が勅免されたのである。楠木正成から実に二百年、晴れて正虎は朝敵ではなくなり、日の当たる世界を歩けるようになった。号泣、果てなき号泣。胸中には様々な思いが去来していることだろう。一族の忍従、父祖の無念、光なき生涯、志能備衆の頭目に身を転じた姉の覚悟。咽び泣く声は皆の温かな感情を揺り動かし、城中一同の涙を呼ばずにいられない。

「せや、さっそく姉ちゃんにも知らせたるんや」

「はい……はい……!」

難しい交渉だった。後南朝の脅威が去って久しい。残党など久しく現れてはおらぬ。楠木を赦免すれば河内や大和の民心も和らぐ。いや、太平記の普及により楠木に同情的な者は日本中にいるのだ。銭も必要ない、帝への尊崇を集めるまたとない機会だ。長慶と久秀で色々と主張したが、前例を曲げることを極端に厭う公家衆はなかなか首を縦に振らなかった。久秀と慶興で抑えきったが、公方奉公衆の反発も甚だ強かったのだ。楠木の復権が足利の正統性を揺るがすことを彼らは心底恐れていた。

結局、即位式の実現に向けた働きと、楠木の末裔が表向き正虎くらいしか目につかないことが決め手となった訳である。何であれ吉報は吉報、これで大和の統治にも弾みがつく。

大和はその名の通り小さな日本とでもいうべき国で、さして広くもない国土に数多の寺社や国人衆が割拠している。早くから商工業が発展してきたこともあり、町衆の力もすこぶる強い。武家としては、かつて木沢長政が西部を支配しかけたところで滅び、その後は筒井順昭が台頭したがいつの間にか公方の手で暗殺されてしまっていた。いま、大和すべてを支配するような勢力は存在しない。だからこそ新参の久秀がつけ込む余地も充分にあり、既に長政の影響下にあった地域は久秀に服している。

長政の匂いがいまだに染みついている信貴山城の印象を変えるべく、久秀は天守の増築を命じていた。大和の民は信心が厚いから、寺社風の大建築を尊ぶ風潮があると聞いている。壮麗な城郭は支配力の強化に直結するはずだった。

畠山高政が安見宗房と和解していた。宗房を見逃したことも、実務が回らなくなった高政が彼を起用することも長慶の思惑通りである。

真の河内攻めが迫っていた。大和一職を預かる者として、支配権の確立を急がねばならぬ。

 

  *

 

いよいよ織田信長との決戦が近い。大国尾張との戦は熾烈なものになるだろうが、実力は義元率いる駿河遠江三河衆の方がずば抜けており、万にひとつも敗れることはあるまいという風評だった。

佳は正綱や一族の元信、親しくしている松平の若君などの無事を祈り、毎朝あまねのところを訪れては共に写経し、経をあげていく。武功よりも無事を願うところが母なのだと、強く意識せずにはいられない。

そんな折、琴の様子がおかしくなった。

寺の一室に引き籠り、姿を現そうとしない。案じて様子を伺いにいっても何も話そうとせず、しかしながら顔には濃い涙の跡が残っている。例がないことであった。あまねから見れば琴は人界から隔絶した存在で、心身を崩すとは思いもよらないことなのだ。

それから更に五日ほどして、京から届いた風聞に地域が騒然となった。あの南朝方の忠臣にして悲運の武将、楠木正成の子孫が勅免されたというのである。南北朝が合一して久しいとはいえ、南朝に殉じた一族を今更のように赦免するとは奇妙な知らせだった。今川氏は一貫した足利氏の忠臣、北朝方である。当然、領国の民もその薫陶を受けている。楠木正成の伝説に同情を抱いてはいても、南朝方におもねるような帝の叡慮を人々は訝しんだ。

(これも、もしかするとあの人の……。時を同じくして琴が……)

琴のこれまで。言動と事実、結びつく。星降るような直感の閃き。

余計なことなのかもしれない。

それでもそうせずにはいられなかった。

里が噂に沸いたその夜、あまねは琴の背中を抱き締めていた。何も言わずに……。

逃れようと思えば琴には容易い。だが、琴も動かなかった。石仏を抱いているかのような感覚を覚えた。

そのまま時が過ぎ、やがて灯りの油も尽きた。

「何をする」

琴の声、ひと雫。波紋の如く暗闇に広がる。

「くすくす、今頃?」

押し当てた胸がようやく温かい。

「……明日。虚空蔵山(静岡県焼津市)に登らないか」

「うん、いいよ」

「寝よう。妾も眠る」

「一緒に寝てあげようか?」

「……馬鹿」

 

岡部の里から虚空蔵山は遠くない。山に育ったあまねの足なら登頂までを含め一刻もかからなかった。

道中、琴は一言も発しない。山頂の香集寺に入り、眺めの良いところまで進んで腰を下ろした。商船の行き交う湾岸、駿府の町並みと富士の山とを一望し、あまねは思わず喜悦の声を漏らす。

そうして、琴の心が落ち着くのを待った。

「……もう、大方は察したのだろう」

「あたしの口から言ってほしい?」

「いや」

琴が立ち上がり、景色を背にして語り始めた。

「妾は河内楠木家の末裔である」

「……」

「そして、これは誰も、勅免された弟も知らぬことだが……さる、やんごとなきお方の血を継いでもいる」

予想は当たっていた。だが、その上に、いまだあまねには想像もつかない事実が秘められているらしい。

「まさか、勅免が叶うとは予想だにしなかった。お前の別れた夫は恐ろしい男だよ、妾のしたことはまったくの無駄骨だった。修羅道に堕ち、この手を、この胸を、穢れた血と毒に染めてきたというのにな……」

「……」

「いままで世話になった。もう、妾は往かねばならぬ」

「いきなり、何」

悪寒がした。凍てつくような、経験のないほどの。

「家の名も弟の身も晴れやかになったいま、妾の存在は、妾だけが知る秘事は、もはや妨げでしかない」

「いや。駄目よ」

「それを抜きにしても、妾はあまりにも多くの命を奪い過ぎた。この身に流れる尊き血に申し訳が立たぬ」

「違う」

「王のけじめだ」

そう言い切って三通の手紙を取り出し、あまねの前に置いた。

「お前と、長慶と、弟の正虎に宛てた。後を頼むぞ」

「待って! あたしと生きていこうよ。ね、誰もあなたを責めたりなんかしない」

「宿命が苛むのだ。……さらば、お前との暮らしは楽しかった。穏やかだった。……夢のようだった」

「後生だから……」

「往く時を決めた。くっく……見ろよ、海と山と里、すべてがあるぞ。ああ、美しいなあ……!」

琴が背後の風景に向けて腕を拡げた。その一瞬間後、あまねの視界は蝶の群れに覆われた。

「えっ……何――琴? 琴……琴!」

そこにはもう誰もいなかった。取り残されたあまねは地に落ちた紙の蝶に額を埋め、別れを苦しんだ。

 

続く

 

 

三十九 まろうどの段  ――三好長慶 長尾景虎に因縁をつけられ、三好之虎 旧主を偲んで踊る――

三十九 まろうどの段

 

「ほんま、あいつら殿のこと舐めてまっせ!」

「おう、左様か」

怒りのあまり馬を駆け通して芥川山城までやって来た。それなのに、長慶ときたらちっとも本気になってはくれない。

「ああもう、思い出すだけで腹立つ! ええんでっか、あんな口汚い連中のさばらしといて!」

「先ほどからその調子だが、肝心の悪口雑言とやらの内容が曖昧でよう分からぬ。いったい長尾の家来が何を言ったというのだ」

「そ、そんなんわいの口からよう言われへん」

「構わぬ。申してみよ」

にやにやと長慶が攻め立ててくる。

「……歌を詠むのに夢中で戦のやり方忘れたんちゃうか、とか」

「ほう。他には」

「ほ、本物の女が恐いさかい、絵巻物の女眺めて喜んどるとか……」

遊佐長教の娘を娶ったという長慶の嘘は、既に世間にはばれてしまっている。子どもを増やそうともせず、いつまでも独身のままでいる長慶のことを変に思う者も多い。

「なるほど。越後侍も上手いこと言うものだな」

「感心してる場合ちゃいますわ」

越後の長尾景虎が大勢の兵を連れて上洛してきていた。景虎自身は粛々と義輝や公家などと面会を重ねているようだが、暇を持て余した家来衆の粗暴さは目に余るものがあった。景虎の言いつけで民草に迷惑をかけるようなことはしないが、三好家には含むものがあるのか挑発染みた言動を振り撒くのである。特に酷いのが長慶に対する中傷で、これには久秀も辟易としていた。

「慶興はそうだそうだと笑っていたか」

「や、一見そんな風やけど、内心めっちゃ怒ってまっせ。あれで若殿は殿のこと大好きやし」

「そんなものかな。しかしまあ、私に対する地方の見え方はそんなものだろう。気の毒な細川様を下剋上し、あろうことか公方の政務を壟断する不心得者。天下大乱の首謀者、唾棄すべき成り上がり者――」

「やめてえな!」

わいの大事な殿を、どいつもこいつもご本人までなんやと思ってるんや。

「ふふ」

久秀の哀願を一笑に付すと、長慶は短冊にさらさらと何かを書きつけ始めた。

「この歌を適当に広めておけ」

 

連歌 ぬるきものぞというものの 梓弓矢も取りたるもなし――

 

「おおっ! お見事だす」

長慶らしい、風流の利いた反論である。これなら京雀はこぞって長慶の味方をするだろうし、越後衆は赤っ恥をかかされることになろう。

「それよりな。よいことを思いついたのだが」

「へ」

「安見宗房攻めがあるだろう」

「準備は万端でっせ」

「宗房をな、大和方面へ追いやれ」

「は?」

「公方勤めで鈍くなったか」

出た、と思った。長慶が思いつくよいこととは、家臣からすればだいたい酷いことである。

「まさか、大和を」

「そうだ。河内は一旦高政を立てる。その間に大和を我々の勢力に組み込む」

本気だ。同盟国を捨て、長慶は五畿内すべてを直轄下に置くつもりなのだ。

「……いままで以上に天下の顰蹙を買いまっせ」

「建前安、実力高を更に進める頃合いだ。まだ人には言うなよ」

「へ、へい!」

胸の内、機密中の機密を明かしてくれた。それだけでもう意気込みは高まるばかりである。

「それでだな」

「まだ何ぞ?」

「お前には摂津下郡から大和へ国替えを命じる。大和は切り取り次第、“一職”支配を認めよう」

「うえ、ええ! ほ、ほな滝山城は」

「他の若い衆に任せる」

「そんな阿呆な!」

滅茶苦茶だ。精魂込めて治めてきた豊かな摂津を捨て、興福寺やら筒井やらの利権がぐちゃぐちゃに入り乱れた大和をなんとかしろというのか。こんな横暴、聞いたことがない。

「頼んだぞ」

「いやいやいや、待ってえな! なんでわいなん」

言った瞬間、自分でも思い当たるものを察知した。松永兄弟への妬みである。

「お前いま、家中のやっかみ逸らしかと思っただろう」

「や、あ、え」

「それもあるが、真の狙いは違う。目指すは武士と領土の分離だ」

「ど、どういうことで」

「このまま我々の勢力が広がっていけば、一番難儀するのは何だと思う」

「あ……そういうことでっか。政策の浸透、公平な税務」

「よし。従来の領主を追い出し、私の配下を送り込むことが増えていくだろう。いずれ武士の転属、転勤が当たり前になる。私財や独自の主従関係を築く前に異動させれば、内乱の芽を摘むこともできるしな」

「そら世は安定するやろけど……なんちゅう酷い時代や。そんなん、誰もついてけえへんちゃいますか」

「だからお前が前例をつくるのだ。なるほど、領地替えは期待されているからなのだな、難しい役目に挑戦すれば出世できるのだな、様々な環境での経験が人を育むのだな。お前がそう皆に示すのだよ」

「こんな年寄りにえげつない……えぐい……公方の仕事もあんのに……」

目の前が真っ暗になるとはこのことだ。長慶の言う通り石成友通辺りが我も我もと手を上げるだろうが、それなら彼らにやらせたらよいではないか。

「友通の顔を思い浮かべただろう」

(なんで分かんねん……)

「本当に大事なことはお前にばかり甘えてしまう。頼む、久秀」

手を取られ、頭まで下げられてしまった。こうなってしまっては観念するしかない。

「もう……ほんまに……今回だけ! 一回こっきりでっせ!」

「うむ」

「普通やったら謀反とかされるんやで! 忘れんといてや!」

「うむうむ」

芥川に来るのではなかった。

いったい自分は何歳まで長慶に振り回されるのだろう。

 

  *

 

以前の上洛時にも挨拶を交わしたことがあるが、相変わらず思い込みの強そうな顔をしている。

北野天満宮京都府京都市)へ参詣する折、唐突に景虎から昼餉の招待を受けた。義輝や近衛前久等、反三好の姿勢が強い者たちと昵懇な相手であるだけに意外な思いを抱いたものである。

通り一遍な会話の後、長慶の前に運ばれてきたのは漆の重箱に敷き詰められた料理であった。食材を皿に分けないで、すべてを一緒くたに入れている。しかしそれが野暮ったくはなく、心を浮き立たせるような華やかさに彩られているのだ。昆布と炊いたらしい飯の上には、煮しめた赤茶色の魚の身や緑色の菜などが配されていた。

春日山新潟県上越市)の“鱈飯”にござる。ご賞味あれ」

毒など入っておらぬとばかりに、同じものを景虎ががっつき始めた。

鱈の煮物。棒鱈は畿内でも流通しているが、これほど上質な代物は滅多に口に入らぬ。匂い、甘い。口に入れる。甘さが膨らんだ。熟練。調味と持ち味の見極め。ほろおり崩れる身肉を噛みしめれば、舌は北の荒海の如く波打ち跳ね上がる。

飯。昆布で足腰を補強された飯。鱈に合う。すこぶる合う。飯。鱈。飯。鱈。止まらぬ。辛みある青物。息を吹き返す。飯。鱈、ああ、もう鱈がないではないか。

「……」

「お分かりだろう。越後の風流、都に遅れを取るものではない」

「ふ……ふふ……はっはっは」

「何がおかしい」

「や、景虎殿はお優しい大将だ。遠慮のう、仰天しておったとお伝えなされよ」

久秀が調子に乗って、越後兵の立ち寄りそうなところすべてに例の歌を流布していた。恥をかかされたと配下から訴えられ、真に受けた景虎が仇を取りにきたのだろう。

「愚弄するか」

「なんの。こんなうまいものを馳走してもらったなら、ただで返す訳には参りませぬな」

「ふん。礼など要らぬ」

この酒臭い若武者が何を欲しているか、つぶさに慶興から知らせを受けている。

越後衆は毎夜毎夜公家や奉公衆の館に現れてはしこたま飲んで騒いで帰っていく。自然、その言動なども慶興の耳に入ってくるのだ。

「鱈の分、上杉家家督。飯の分、関東管領職。青物の分に近衛前久殿の関東下向も添えましょうか」

「増長を! それを決めるのは帝や上様でござろう!」

「いかにも。だが、彼らだけでは調整に手間がかかります。あなたは急いでいるのでしょう?」

「……くっ」

越後で武名を高めた景虎のところには、北条や武田に追われた者たちから救援の懇願が相次いでいる。その中には本来の関東管領上杉憲政の姿もあった。仄聞する限り、景虎は困窮者の頼みを断らない性分である。世間からもそう思われている。つまり、救援に動かねば景虎の求心力は落ちるということだ。

景虎とて、長慶がその気になれば朝廷や公方の決裁は永久に先延ばしになることを承知している。

「誰に何を吹き込まれたか分かりませぬが、景虎殿は私によい印象を持っておらぬ様子ですな」

「人がどう言おうが知ったことではない。我は、三好殿の嘘が気に入らぬ」

「ほう、嘘」

「そうだ。理世安民と掲げながら守るべき秩序を破壊し、新たな時代がどうした、仕組みを改めるべきだとほざいて混迷を招いている。言葉遊びに夢中で、真剣に政へ向き合っておらぬ証左ではないか」

「痛いところを突きなさる」

「抜け抜けと!」

「しかし、民のよりよき明日のために知恵を絞るのも政でしょう」

「菩薩にでもなったかのような思い上がり。そも、人の知恵には限りがあるのだ。不確かな思い込みで世を導こうなどとは神仏の冒涜に他ならぬ。立ち止まって、目の前で困っている者を一人でも多く救うことこそが人の善美、義の真実というものであろう」

なるほど、景虎という人物が少し分かったような気がする。要はどこまでも民意に従順なのだ。どこまでも純粋に過ぎるのだ。確かに、どうなるか分からない将来の話に関心を示す者など十人に一人である。逆に、恨みを持つ者、不満を抱く者、何かを取り返したい者は幾らでもいるし、欲求内容も分かり易い。支持を募る、兵を多く集める、勢いをつけるためには、景虎の姿勢は極めて優れていると言えるだろう。

だが、それは衆愚を生む。衆愚への迎合は多大な時を一瞬の熱に変じて、虚しい徒労だけを残す。

これ以上畿内で活動させてはならない。景虎は堰だ。痛み止めだ。昨日を称える者だ。

「困っているのが私でも、景虎殿は助けてくれますかな」

「なんだと」

「ふふ、ご存じでしょう。同族の誼、信濃小笠原長時殿を迎えております」

「む、そうであったな」

「本領回復、助けたくとも信濃は遠い。長尾殿のお力を頼みとすることができれば」

「……ぬう」

これでよい。それでなくとも景虎は北信で武田晴信と睨みあっている。

武田や北条には悪いが、この非凡な求心力は東国に張りつかせておくことだ。九条家への対抗心から長慶を目の仇にしている前久貴公子も、この期に色々と現実を見てくればよい。

それにしても……信長には急げと言われ、景虎には止まれと言われる。結局、自分はちょうどよい塩梅なのか、どっちつかずで敵を増やしているだけなのか。実に面白いものである。

 

  *

 

銃口。こちらに狙いを定めている。馬鹿が、鉄砲は面で使うものだ、一点狙撃などできる訳がない。

そう思った一存の肩口を銃弾が掠めた。

「ちっ、馬鹿はわしか!」

いや、点で動いた敵もやはり馬鹿なのだ。彼が次の動作へ移る前に白雲は間合いを詰め切っている。

「しいりゃ!」

利き腕を吹っ飛ばした。敵が鍛錬に費やした年月も、自信も誇りも、すべてが飛鳥の翼に乗って消えていく。追いかけて届く絶叫。その頃には既に白雲は反転していた。

「退けえ!」

このままでは被害が増えるばかりだ。一存が食い止めている間に一人でも多く兵を逃がさねばならぬ。

「しつっこい!」

群がる僧兵を薙ぎ払う。肉弾戦なら相手ではない。警戒すべきは飛び道具だけだった。

一存の闘志がまるで挫けていないことが分かり、根来衆どもも追撃を躊躇する。血路は開けた。

「おのれ、おのれ――」

負け戦だと。このわしが敗走だと……。

 

「進軍を止めるとはどういう了見だ!」

「や、お言葉ですけど、一存殿こそなんであんなに突出したんでっか。殿からわいらが受けた命令は、宗房と根来衆の合流を阻止することでしたやろ」

「口答えするな! 殿、殿と、お主には意気地というものがないのか!」

「わいは」

「やかましい!」

床几を蹴られた久秀がひっくり返り、顔に泥がこびりついた。一存のあまりの剣幕に周囲の兵たちも微動だにしない。こいつがまともに動いておれば軍が分断されることもなく、背後へ回り込んできた伏兵に鉄砲を浴びせられることもなかった。死んだ者たちのためにも言うべきことは言っておかねばならぬ。

「……」

見上げる久秀の瞳にはありありと不満の色が浮いている。それがますます気に入らなかった。

「よい機会だから言っておく。少しばかり慶兄に気に入られているからといっていい気になるなよ」

長慶も、どうせなら長逸か長頼を送ってくれればよかったのだ。久秀は所詮色町の男、武人ではない。

「……えろう、すんまへん」

「次に足を引っ張ったら命はないと思え!」

死傷者を出したとはいえ、兵力はいまだ七千。宗房派の根来衆紀伊国人連合軍は一万を超えるが、戦線を守るだけならば何の問題もない。しかし、壊滅させることもできていたはずなのだ。

戦の機微を掴もうともせず、長慶に忠実でさえあればよいと思っている。こんな連中ばかりが増えている気がしていた。

(糞、痒うて堪らぬ……)

胸元の湿疹を掻き毟る。夏の戦は蒸すことこの上なく、皮膚の調子は悪くなるばかりである。

ええい、もう一度単騎で出陣し、百人首でも召し取ってきてやろうか。

 

  *

 

見性寺の広場には千人近い民が集まってきていた。

大和の町衆が始めたという“盆踊り”を阿波流に楽しもうと、之虎が大勢を集めたものである。とはいえ、阿波の民に人前で踊る習慣などはない。これから何が起こるのかもよく分からず、国主の指示を待っている様子だ。当然、康長も長房も盆踊りなどはやったことがない。

太鼓、鉦、笛の音色が聞こえてきた。長慶と同様、之虎も鳴り物衆を抱えている。ただ、音はいつもの戦仕様ではない。軽快な拍子、高揚を誘う調べ。手持無沙汰にしていた民衆の腰も浮き立ち始める。

楽曲に乗って、勝瑞館から之虎と愛染衆が現れた。密集した全員で諸手を天に掲げ、小跳ね気味の運歩で踊り流れてくる。その様はひょうげているようなやけに真剣なような、見ている者を思わず笑顔にしてしまう愉快さが充満していた。

「さあさあ皆の者よ、今宵は無礼講。農民も漁民も坊主も武士も、一丸となって踊り明かそうぞ」

之虎がよく通る声で群衆を鼓舞し手招く。いまこの時、民はあらためて自分たちの主を誇りに思ったに違いない。全国に名を轟かせている殿様が、こんなにも気さくに領民へ接してくれるとは、と。

次々と踊り手が増えていく。中には、之虎の方に向かって手を合わせてから踊りに加わる者までいた。

渦。騒祭の渦。原始の熱狂がたちまち産声を上げた。

「おなごも混じらねえかい!」

遠巻きになって様子を見ている女たちを挑発する之虎。準備万端、愛染衆が彼女らに笠を配った。

「はあっはは、顔が見えなきゃあ恥ずかしくねえだろうさ」

お膳立てされれば女は弱い。一人、五人、十人……あっという間に百人からの女衆が踊り始めた。

なんだこれは。日頃は細やかな性質の阿波人が、ここまで熱い情熱を放出するものか。

「やはり之虎様は素晴らしい……。民の心を完全に掴んでおられる」

陶酔したように長房が呟く。

「うむ、もはや“興王”とでも呼ぶべきだな」

「戦、商い、風流。何もかも之虎様は最上の才覚をお持ちです」

「お主は踊らんのか」

「後学のため、この光景を目に焼きつけておかねば」

「また付き合いの悪い奴だと言われるぞ」

「康長殿だって見ているだけではないですか」

「年寄りには刺激が強い」

騒ぎを聞きつけたのか、家に残っていた者も次々と広場に集ってきているようだ。

踊りなら銭はかからないし、祭があれば民衆は不満を溜めこまない。そこまで計算したのだろうか。

「私は、之虎様が国主になられてよかったと思っているのですよ」

「……軽々しく言うことではない」

こういうところが長房はよくなかった。

「でも、現に阿波の国力は増すばかりではありませぬか」

「実利ばかりを見るからお主は之虎に追いつけないのだ。なぜ之虎が見性寺を選んだのだと思う」

「? 勝瑞館の隣だからでは」

「……もうよい」

盆踊りとは賑やかな鎮魂なのだろう。慈愛も殉死も、いまだ人々の記憶に新しい。之虎の凄味は人の心を掴むところにあると、さっき自分で言っていたではないか。

「しかし、河内では戦が始まっているというのに、どうして之虎様は出陣しないのでしょうね」

「次の段階を見ているからだろう。長慶は本当に手強い相手を前にした時、初めて之虎を頼る」

「安見宗房を追い出せば、河内国畠山高政のもとに安定するのでは」

「……」

「も、もしや」

「いまお主が思ったとおりだ。こういう話なら相変わらず鋭いな」

長慶と之虎の腹は明確だ。宗房追討を名分に大和へ侵入。更に、高政の治政が暗礁に乗り上げたところで河内を取り上げる。常に畿内の争乱の元凶であった河内を、いよいよ直接支配しようというのだ。

「そんなことしたら、日本中の武家を敵に回します!」

「いまでもそうではないか」

「ますますそうなりますよ! いいですか、守護の仕組みができて以来、五畿内をひとつの家が支配したことなどないのですよ、いままでは細川家中の下剋上くらいに思ってくれていた者たちも三好が他家へ侵略を始めたとなれば本気になって抵抗してきますよ。だって恐ろしいじゃないですか、あの細川家とあの畠山家を併呑した家が出来てしまうのですよ!」

「分かっておる。少し落ち着け」

「止めないと。危険です」

「すべて承知の上だ」

「そんな阿呆な話がありますか、いまのままで何の不自由があるというのです」

「まだ、細川が三好に代わっただけだからだろう」

「それだけでもとんでもないこと、家の序列を乗り越えてしまったのですから!」

「長慶はもっと先を見ている。もちろん、之虎もな」

「分からない……分からない……いたずらな直轄地の拡大など、賢明な君主のやることではない……」

長房とて長慶が勢力拡大方針に舵を切ったことくらい心得ている。しかしながらそのやり方は、各地の紛争に介入し、三好の影響下にある国々を増やしていくものだと思っていたらしい。従来の領主を立てて間接的に支配するのと、領主を追い出してその地を自らの手で治めるのとでは話がまったく異なる。ましてその第一歩が、この十年来の盟友にして細川家と並ぶ三管領の名門、畠山家だというのだ。

「……分からぬなら踊ってこい」

「え……」

「踊ってこんか!」

「は、はい!」

尻を叩かれた長房が踊り手の群れに飛び込んでいった。気づいた之虎が笑顔で迎え入れている。

そう、理屈ではすべて長房の言う通りなのだ。子どもの陣取り遊びでもあるまいし、単に領地を拡げればよいものではない。組織に必要なものは政の質であり、民忠であり、収支である。そういう点では、難題が山積している河内や大和は魅力的な土地ではなかった。厄介ごとを進んで引き受けるのと同じなのだ。

だが、それでも“大きさ”を手に入れなければならない時がある。大きさにはそれだけで力があるのだから。五畿すべてを合わせた力より大きな力は日ノ本に存在しない。三好がそこまで大きくなれば、時代は真の節目へ突入していくに違いない。

長慶も之虎も、康長の想像を超えて大きくなった。こうなれば、どこまでも見届けるしかないではないか。

あらためて盆踊りの様子を眺めた。長房の踊りは思ったより達者である。

 

  *

 

動き始めた三好家は強大だった。

初戦こそ宗房派の根来衆十河一存松永久秀を撃退したものの、まともな抵抗はそれまで。鬼神が憑いたかのような一存の猛撃に紀州兵は河内に入ることができず、その間に長慶と松永長頼が北部から河内に押し寄せた。

宗房とて戦はなかなかにやる。木沢長政以来の古強者も多く擁している。それでも、高政が三好側についていることで河内衆の士気は上がらず、野戦を挑めば連敗。けたたましい喊声と鳴り物に、呆気なく宗房は城を捨てて落ち延びていった。ほとんど何の障害もなく、高政は高屋城と河内支配を回復することができた訳だ。

「……“これから”どうすっか考えねえとな」

往来右京に向かって呟く。彼は高政派の根来衆で、この戦でも高政をずっと護衛していた。

「どなたを家宰になされるか、皆が気にしております」

木沢長政、遊佐長教、安見宗房と、河内は長年に亘って筆頭家老の専横に蹂躙されてきた。国が豊かな分だけ利害調整が難しく、どうしても当主より実務に秀でた家臣に権力は集中しやすい。簒奪を防ぎ、なおかつ政治を安定させるためには、腹心選びが何より重要である。

「俺の下にいる奴あ“武闘派”ばかりでよお。“知恵者”がいねえんだよな」

高政がぼやくと、右京も下を向いた。この男も僧兵の伝統通り、暴力恫喝は得意でも管理や振興には縁がない。

「ゆ、湯川直光殿などは」

「ああ、そうだな。散々“世話”になったし“いい思い”もさせてやらねえとな」

親しい家来の中で一番まともに領地を治めているのが直光である。但し、彼の縄張りは温暖な南紀で、主要街道が何本も走り各種産業が高度に発達している河内国とはいかにも風情が異なる。

「その下には、何人くらい手が要るものなのですか」

「よく分かんねえ。細けえことは嫌いだ」

「……」

「ま。“青っ白い”話だ、青っ白い長慶殿にでも相談してみようぜ」

「なるほど、妙案ですな」

長慶は話せる男だった。いまも、宗房を追って和泉では十河一存が睨みを利かせているし、大和には松永久秀と松山重治が入っている。大和西部の国人衆はもともと畠山家と親密であり、高政の後押しがあるため調略も順調に進んでいるようだ。

未来は実に明るい。長年続いた畠山家の内訌が遂に終息するのだ。高政の手でかつての権勢を取り戻せば、再び管領職を得ることも充分に可能だろう。

高政は右京に宴の用意を命じた。まずは酒、祝い、労いである。

 

  *

 

坑夫たちは大内の時代が辛かったと口を揃える。貿易の関係で大内の増産命令は激しかったらしい。この銀山を狙っている毛利も、大内と大差はないと考えられていた。尼子は伸び伸びとやらせてくれるし、本城常光は石見国自慢の猛将である。

常光は“銀蛇”と呼ばれ親しまれていた。おおらかで、健やかで、親分肌で、おだてられると弱い。蛇とは狡猾で不気味な生き物だと思っていたが、この辺りではどうも感覚が違うようだ。

人柄だけではなく、戦のやり方も蛇そのものだった。常人には分からぬような悪路を抜けるのが特技で、埋伏も、埋伏している敵を見つけるのも上手い。敵を捕捉すれば遠巻きに矢を浴びせ、締め付けるように相手を衰弱させていく。機を見ては躊躇わず毒牙のような一撃を喰らわせることもあった。あの毛利元就吉川元春を敵に回して互角以上に戦っているのは見事なものである。

 

常光の守る山吹城(島根県大田市)を力攻めで落とすのは不可能だと元就も悟ったらしい。士気、兵糧、九州の不安も頭をよぎったであろう。万を超える毛利の大軍が遂に退却し始めた。

「と金殿!」

銀蛇が叫ぶ。

「任された!」

孫十郎が石見兵を率いて間道を駆ける。目指すは銀山の南西、降露坂。急ぐことが心地よかった。

 

常光の読み、道の選択は完璧だった。孫十郎の手勢が正面に現れ、毛利軍の先頭集団は明らかに狼狽している。落ち着かせる時間を与えてはならない。叫び声が起これば後続の不安が募り、常光による追撃が一層効果を増すのだ。

「斬り込め!」

金縁の軍配を突き出した。鉱山で生きる男の寿命は短い。日頃から死と隣り合わせに暮らす兵たち、肝っ玉が銀より重いことが自慢である。毛利勢も精鋭ではあったが、軍とは予期していない事態には弱いものなのだ。突如出現した孫十郎の突撃は、孫十郎が期待した以上の恐怖を敵に与えた。

「雑魚に構うな! 陣を突っ切れ!」

腰を据えて挟み撃ちにするようなことはしない。孫十郎の役目は敵の喉首に牙を突き立てることだ。

斬る。突く。走る。敵の構え、気勢が濃密になっていく。旗。一文字に三つ星。見えた。騎乗の敵将、色々威の腹巻。間違いない、毛利元就だ。あと五十歩、目が合った。されど元就は落ち着いている!

「父上!」

新手。三つ引両、ならば吉川元春か。斬りかかる、その隙に元就が動いた。逃さぬ。

「どこを見ている!」

元春。若い。強い! この膂力、元就に意識をやったことを悔いた。一転、阿修羅の如き連撃に対して防戦一方になる。孫十郎勢の足は完全に止まってしまっていた。

地鳴り。聞こえる。悲鳴と喊声。

野太刀を掲げた常光の本隊が山津波となって押し寄せた。追撃。孫十郎によって分断された毛利軍を次々と呑み込んでいく。孫十郎と打ち合っていた元春は舌打ちをして俊敏に走り去っていった。

大将首は逃がしたが、防衛戦としては大勝利である。付近には毛利兵の死体が散乱していた。

 

「祝着祝着。さすが畿内で鳴らしただけはある、よい客将を得たものよ」

常光は上機嫌だった。吉川元春に対する敗北感は拭いきれなかったが、孫十郎とて居候先の戦果は嬉しい。常光に倣って地に跪き、土地神である“大元様”へ勝利の礼を言上した。

畿内に比べ、石見の民は神仏へよく祈ること甚だしい。何かあれば大元様の託宣を望み、何もなくても日々の暮らし成り立つことを金山彦神に感謝して供物を捧げる。

いつしか孫十郎は、石見から、常光の傍から離れたくなくなっていた。

 

続く

 

 

三十八 あけぼのの段  ――足利義輝 織田信長の上洛を喜び、三好長慶 細川藤孝と桜を愛でる――

三十八 あけぼのの段

 

心惹かれる招待だった。こういう密会なら進んで出向きたい。人を知る、知恵を得る、誼を通じるには対面こそが最適で、伝聞や書状といった手段にはおのずと限界があるのだ。

何しろあの織田信秀の嫡子である。斯波氏や同族、実弟などとの争いを切り抜け、大国尾張をほぼ一統してしまってもいる。その器量と野望には常々関心を抱いていた。

「……まさか、天下執権殿へこうも簡単にお目通りが叶うとは思いませなんだ」

やや甲高い声で信長が感想を漏らす。

会合は深夜、堺の三好邸で行うこととした。ここならば信長の宿所からも近いし、人目に触れる恐れもない。表向き、信長の上洛は義輝への謁見を目的としている。和睦したとはいえ、長慶とも気脈を通じていると知られれば公方はいい顔をしないだろう。信長がそういった気遣いをするのは当然だし、長慶としても体裁にこだわるつもりはなかった。

「気兼ねなく。私もあなたに会ってみたかった」

長慶の反応は信長にとって予想外だったらしい。嬲られるようなことも覚悟していた顔だった。そのせいか、からかっているのかとでも言いたげである。

「三好殿に気にかけていただくほどの武功もありませぬが」

「……織田信秀殿。ふふ。全国に群雄が割拠する中でも、信秀殿ほどの武将はそうそう現れますまい。若い頃。いずれ天下に名を上げれば、覇を競う相手は信秀殿になるのではないかと考えていたのですが」

「親父がですか」

「既に天に昇り、星となられたのは残念でしたな」

ますます意外そうである。信秀のことを久々に思い出したのかもしれない。もしくは、若い時分の長慶が信秀に着目していたことに怖じ気でも覚えたのだろうか。

それにしても、信長とは思っていることが素直に顔や声に出る、なかなか気持ちのよい若者であった。

「……烈しい、嵐のような親父でした。長生きしたとしても……蒼天のような天下を創ることはできなかったと思います。銭稼ぎの革新が、そのまま治世の革新に繋がる訳ではないのですから」

「確かに……世を鎮めるには銭の力だけでは不充分。何か、天道のようなものの加護が必要になる」

「げにも。新たな時代を創造する覚悟のある者だけに天は味方するのだろうと思う。そしていま、日ノ本の未来がここ、畿内に生まれようとしている。だからこそ上洛し、三好殿のお話を伺い、足利公方の様子を見極め、堺の賑わいに触れてみたかった……」

「よき志」

知るべきことを知ろうとしている、という印象があった。人間世界の実態を直視する強靭な意志、学んだ事柄を己の血肉に取り込む精神の健全。

「うつけと呼ばせていた俺には分かります。三好殿はまだまだ手を抜いておられるでしょう」

「ほ……興味深いことを申される」

「誰も知らぬ、遥か遠い未来までを見据えておられるはず。なぜすべてを皆に伝えないのですか」

「……民も。家臣も。充分によくやってくれている。いま以上の速度を求めることはできぬ。求めてしまえばかえって知性への不信を呼ぶ。見えないもの、見たくないものまで見せつけるのは……残酷でしょう」

「手ぬるい! 人はそこまで弱きものでしょうか。愚かなのでしょうか。そうやって十歩先から待っていないで、無理にでも皆を一歩、二歩先へ引き摺っていくべきでは」

俺ならそうする、という言い方であった。長慶の言葉が、信長の繊細なところを傷つけたのかもしれない。だが、理とは信長が思うほど英雄一人の志で成り立つものではないのだ。

「味噌はお好きですか」

「大好きです……が。それがどうしたというのです」

「急いでこしらえた味噌はうまくない。我々の役目は豆を茹でて麹を混ぜるまでだと思いませぬか。美味をつくるのは時間と、豆自身の力だと」

「……人間五十年。悠長にしておれば味噌ができる前に寿命が尽きてしまう」

「だからこそ人は子を遺し、後継者を探し求める」

「……」

信長は納得していない。自分の思うように長慶が世を動かしてくれないことにやきもきしている。

だが、ここまで喰らいついてくるとはたいした男ではないか。尾張一国を治めるだけでも難事業で、しかも四方を敵国に囲まれている。そんな中にあっても、信長は真剣に日本の行く末を考え続けてきたのだろう。各地に信長のような人物が生まれているのだとすれば、天下をかき混ぜてきた甲斐があったということだ。

「俺がもう少し大きくなったら。また、お時間をいただけますか」

「楽しみにしていましょう。が、今川は手強い」

「考え抜きます」

「うん」

「……三好殿」

「なにか」

「親父を褒めていただき、ありがとうございました。きっと墓前に報告いたします」

宵闇の中を信長が退散していく。言葉は無遠慮だが、衣装や作法は生真面目なほどであった。

ずば抜けた力量と大志。これは、もしかすると今川との戦にも生き残るかもしれない。

(げに人は多きものよ)

慶興の好敵手になる日がくるだろうか。それとも、その前に来るべき日が来ているだろうか。

 

  *

 

今川義元に対抗するべく尾張を纏めあげるには、大義の旗印が何としても必要である。まして、信長の家格は斯波氏の一家臣に過ぎないのだ。

謁見を許可し、信長を後押しするかどうかは公方内でも議論があった。今川に肩入れし、さっさと兵を伴って上洛してもらった方がよいのではないかという声も大きかったのである。奉公衆の中にも親三好派と反三好派がいて、反三好派にとって最も困るのは各地の大名が互いの潰しあいに夢中になることだった。

義輝自身はどちらでも構わないと考えていた。所詮、朽木時代には誰も義輝の謁見など求めなかった訳である。いまになってぞろぞろと都に上ってくるのは決して義輝の威光にひれ伏すためではない。信長も本心から公方の支援を必要としているのか。むしろ、京畿視察の名目に使われているのではないか。

そんな諦観もあって、まずは信長に会ってから判断しようということになった。

そして、信長の威風堂々とした居住まい、恬然とした口上は反三好派一同をいたく感動させたのだ。

もともと織田家は献金を惜しまないことで名が売れている。そこに才気を漲らせた若き当主信長の登場。藤英などが期待を強めたのも無理はない。いや、義輝自身、久々に尊き大樹といった言を寄せられ、心が浮き立つのを抑えられなかったのだ。

「はん、なんや皆して。あんなんうちの殿さんに比べたらどうってことないわい」

松永久秀は面白くなさそうだった。信長がどうというより、隙あらば長慶こそ最高と言いたい様子である。伊勢貞孝のような連中はきょろきょろと義輝や久秀の反応を見極めようとするばかりだった。

いま、奉公衆は幾つにも分断されている。藤英を中心とした反三好派。貞孝を中心とした日和見派。久秀率いる親三好派。泰然と構える慶興と藤孝。三好家から出向してきた二人が加わったことで、さほど大きくもない組織が更に複雑な様相を呈している。

慶興や久秀も含めて、一応は全員が義輝の考えを尊重している。義輝にとってはひとつの集まりである。だが、奉公衆同志になると情報の共有がなくなり、言い合いのような形になってしまう。だいたいは久秀が極端なことを言って、藤英が声を荒げ、慶興が宥めてやや久秀寄りの結論に導いているのだった。

三好家の力を取り込むためには、慶興か久秀をまずは取り込む必要がある。とはいえ、そう考えることも見越して長慶はこの二人を送ってきているのだろう。

 

義輝の館は室町御所から南、武衛陣(京都府京都市)と呼ばれる辺りへ移っている。京への帰還が成ったとはいえ、無聊は隠しようもない。中途半端に行事があり、中途半端に判断を求められる。真に大事なことはすべて芥川山城で決められているにもかかわらず。

自然、義輝の御所を訪れる者も二線級の人物ばかりになる。日が沈めばその客も途絶える。晴員に相当締め上げられたのか、藤孝の来訪も近頃は少ない。月の下、一人木剣を振るう夜が続いた。

ある晩、謹慎している晴舎の使いだという女が現れた。

すらりと背は高く、胸と尻の肉付きが滑らかで、小さな顔の中で瞳だけが大きい。

(井守に似ている)

それが第一印象だった。

「進士晴舎が末の娘、久乃と申します」

丁寧な挨拶ぶりよりも、肌が濡れていないか気になってしまう。口元は豊かで柔らかそうだった。

「ほう、晴舎にそなたのような娘がおったか」

「最近まで宇治に避難しておりましたの」

もっとも、晴舎に未知の係累がいても不思議ではない。彼の表の役目は礼法や包丁術の指南であり、裏の役目は晦摩衆の統括である。どちらも日本全国を渡り歩く職務であり、各地に女や縁ができるのも当たり前だと思われていた。信長の次は美濃の斎藤義龍が上洛してくることになっているが、その知らせを繋いだのも晴舎の縁者、明智某だと聞いている。

「それで、久乃殿は何をしに参られた」

「上様の退屈を癒すようにと」

「ほう。何ができる」

「お望みならばどのようなことでも……」

小娘の分際で、義輝を射竦めるような眼光を放つ。その不敵さが男の獣欲に巻き付いてくる。

「舞ってみるか」

道成寺の真似事でもよろしければ」

「面白い」

ならばと義輝は鼓を取り出した。藤孝ほど上手くはないが、ある程度の稽古は積んである。

いいよお、ほう!

謡までは知らぬ。

鼓の囃子ひとつで充分と、色艶やかに久乃の肢体が躍動する。

「うふ、うふふふ」

「いよ、は、ほ! さって、どうした!」

「申し訳ありませぬ。何だか、とっても楽しくなってしまって! ふふ、あははは」

すりすりすりと官能をそそる足の運びが加速していく。細い白首には汗が浮かんでいる。

あの汗とひとつになりたい、そう思えば鼓の音色はますます冴えわたっていく。

 

  *

 

斎藤家の使者との交渉には慶興も立ち会った。

当主の義龍は急病との理由をつけて上洛を断念していた。実際に持病を抱えているという噂もあるし、信長を畿内で暗殺しようとしたことを恥じたのだろうという噂もあった。

いずれにせよ、義龍が名族“一色”の姓を名乗ることを義輝は承知したのだ。

「“斎藤”では国を治め難く、さりとて今更“土岐”に戻ることもできぬ。“一色”に着目したのはよかったな」

義輝は素直に感心していた。父の斎藤利政を討ったという義龍のことを初めは軽蔑していたそうだが、その後の義龍の懸命な働きぶりの噂を聞くようになって考えを改めたらしい。

課題や状況に応じて姓を変えることはよくあることである。大半の民は情報や理屈を吟味したりはしない訳であるし、よく知られた姓を名乗ればそれだけでありがたみを感じるものなのだ。世の中を見れば、“三好”という田舎守護代の姓のまま栄耀栄華を恣にし、“松永”や“石成”といった聞いたこともない姓を名乗る者に重責を担わせている長慶の方が珍しい事例に属する。

「壊れたものは元には戻らない。ややこしい父を持ってしまうと気苦労も絶えないのでしょう」

「汝も似たようなものであろう」

「俺? 色々言われはしますが、俺の父はただの気のいい中年男子ですよ」

「……」

「そりゃそれなりに重圧は感じますがね。程よい荷物は生きるために必要ですから」

「長慶が程よいとな」

「ま。日頃暮らす上での話です」

「掴めぬ奴」

ここ何日かで、義輝からは険が取れたように思える。諸大名が義輝のもとに参上してくるのが嬉しいのか、他にいいことでもあったのか。

琵琶湖で出会った頃の義輝は、何か思い詰めたような顔の若侍であった。伸び伸び楽しく旅をしてきた慶興と違って、どこかから逃げ出してきたような切迫感があったものだ。

戦場で対峙した義輝の軍は、充分に意志統一ができていない脆さがあった。あれは生き死にの勝負にまで持ち込む気がなかったのではないか。

京に戻った義輝は、妙に三好家に対して融和姿勢だった。役職や宝を気前よく下賜してくれるのだが、それが妙に肩が凝るような気の配りようで、無理をしているように思えた。

“若殿、気い許したらあきまへん。油断したら後ろからバッサリでっせ”

久秀などはことあるごとにそう忠告してくる。

実際、久秀の言う通りだとも思う。奉公衆の一部からは根強い反感や憎しみが滲み出ているのだ。

それでも、慶興は義輝のことが嫌いではなかった。自分の空の下、こんな不器用な男がいてもよいではないかと考えてしまう。慶興が上手くやれば、いずれ老いた長慶と、運命を受け容れた義輝とが仲良く語りあえる日も来ることだろう。

「あのお紋とかいう芸妓はどうしている」

「……もう地上にはいません」

「む、悪いことを聞いた」

「構やしません。どうしたんですいきなり」

「奇瑞というべきか。踊りや音というものは不可思議な力を持っている」

「そうですね」

音と聞いて思い浮かぶのは長慶の鳴り物衆である。あれは祖父の元長が考案したもので、いまや太鼓だけで城が落ちると評判だった。

「政を前にした時、余はつい武勇と知略だけに頼ってしまう。もう少し五感を磨かねばならぬな」

「粋なことを仰る。次の評定は踊りながらやりましょうか」

「ははは。老臣どもが卒中になってしまうわ」

なんとなく分かった気がする。遊女か歩き巫女にでも惚れたのだろう。

朽木で色気のない青年時代を過ごした人だ、威儀を正しているつもりでもうぶいものが見え隠れする。公方と公家の距離が遠くなるのにつれて、近衛家から迎えた正室との関係も冷え切っているはずだった。

「いいことを教えて差し上げましょうか」

「なんだ」

「男は女の五感に惑い、女は男の武勇と知略に憧れ申す。上様の強みを見せつけてやることですな」

「な、なにを突然」

「大事なのは女に流れを合わせないこと。戦と同じく、機を見ては力攻めを躊躇しないこと」

すべて久秀の受け売りである。こういった方面ではあの爺さんは権威だった。

「おい、余は」

「さ。俺に格好をつけても仕方ありますまい。戦の前に矢玉を使ってはもったいのうござる」

「……」

義輝はどこまでも純真なのだ。つまり、からかえば滅法面白い相手である。

しばらくは話題に困ることはなさそうだ。

 

  *

 

晴。鞍馬の春。満開の雲珠桜。

鞍馬寺京都府京都市)での花見には慶興、基速、久秀の他、連歌師の谷宗養、公方の奉公衆、歌に自信のある公家など大勢が集まってきている。政治向きの集いというより桜を歌題に風流を楽しもうという場であるから、様々な人物が入り混じってはいても殺伐さや腹の探り合いの気配はない。皆、心から泰平を楽しんでいる様子だった。

今年は気候がよく、京も鞍馬も柔らかな桜色と瑞々しい新緑に覆われている。古歌の如くに“都ぞ春の錦なりける”といった景観。何百年も変わらずに人々はこの眺めを愛で、心を揺さぶられてきたのだと思う。長い長い年月の線上にいま長慶が立っている。きっと、百年後も、五百年後も変わらずに人は鞍馬山へ登ってくるのだろう。その頃には誰も長慶のことなど覚えていないで、ただただ春の静かな喜びを楽しむことができるようになっているのだろう。あと十世代もすれば、いい加減人は内乱に飽きているだろうから――。

(ふふ。それとも、明国やキリスト教国と海を跨いで戦をしているかもな)

豊かな地方と貧しい地方では戦にならない。

初めは限られた集落だけが豊かだった。

やがて畿内に都ができて、地方はそれに従った。

そのうちに西国も東国も豊かになってきて、源平争いの果て、鎌倉に武家の政権が誕生した。

人の知恵には限りがなく、痩せた土地にもいずれは田畑や市場が生じ並んでいく。いま、日本中で戦が起きているのは、それなりにどこもかしこも豊かだからだ。全国が芝生や祖谷のような山里だけだったとしたら、――略奪や反抗は生じたとしても――真っ当な戦など起こる道理がない。

明は古からの大国である。キリスト教国は海を渡って交易を行う実力を有している。明とキリスト教国の間にはタルキーという甚だ強大な帝国があると聞くし、一昔前には大蒙古帝国もあったのだ。海運技術が更に発展すれば、海外交易が更に盛んになれば、いずれは摩擦も諍いも生じるのは止むを得まい。海を越えて戦をするとなれば、莫大な銭と人手が必要となるが……。

(与四郎ならば、明に攻め入って沿岸部の利権を奪えというだろうな)

寧波や澳門(マカオ)は日本と南蛮諸国の間にあって爆発的な成長を期待できる港であるが、明はあくまで海禁政策を崩そうとせず、日本やポルトガルへ門戸を充分に解放しようとしない。与四郎たち堺の商人はそれが不満でならないのだ。

(しかし与四郎め。自国の政より他国の政に不満を言うとは、図太いというか大物というべきか)

もしかしたら、元長の志をもっともよく受け継いでいるのが与四郎といねの夫妻なのかもしれぬ。望もうが望むまいが、海外と戦になる時代は来る。それならば、舐められないように富を蓄えておく、有利な立場に立てるように外交を進めておく。そうした備えが必要になるということだった。そのためには何よりも自国内を安定させることであり、海外の情報を数多く自国内に流すことだ。よい意味でも悪い意味でも、島国では自国のことにばかり目が向いてしまう。

(しかし、まだまだ……一足飛びにはできまいな。父上、やはり堺公方府は早過ぎたのです)

そこまで考えて、長慶は自嘲して一人笑った。

この美々しい桜を見ながら、自分はいったい何を考えているのだろう。

「殿、どうなされました」

基速が案じたように訊ねてくる。この老臣もまた、堺公方府の生き残りであった。

「父上のことを思い出していた」

「桜にまつわる思い出でも」

「いや、堺公方府のことをな。あの頃、私はほんの小さな子どもで、お前は義冬様の側近だった」

「お懐かしいことを……。殿のご権勢、このよき日を知れば、元長様もさぞお喜びになるでしょう」

「それは違うな。遅い、緩いと叱られる気がしていたところだ」

「……殿は己に厳し過ぎます」

「そう言えば父上と叔父上は天狗兄弟と呼ばれていたそうだ。こんなことを考えてしまうのは鞍馬山僧正坊による霊障なのかもしれぬ」

「またよく分からぬことを……」

基速は長慶の戯れ言を巧みに流す。何でも真に受ける長逸、大げさに一喜一憂する久秀とは違った。それでいて相当複雑な話にもついてこられるから、話し相手として重宝していた。

「父上、こちらでしたか」

慶興が現れて声をかけてきた。見ると、もう一人利発そうな若者を伴っている。

「こちら、細川藤孝殿です。父上にお会いしたかったと」

「藤孝にございます」

「ほう。あの、神社から油を盗んで学問に励んでいたという」

「へえ、そんなことがあったのか」

「……お恥ずかしい限りです」

「や、気になさるな。私はむしろ感心しているのだ」

才能にも色々あるが、環境や生活習慣に左右されない才能こそが真の天才なのだと思う。義輝と共に朽木で隠棲しながら、百芸万巻を修めたと評判の男。都に行けばしばしば藤孝の噂を聞いたものである。長慶の方も興味を持って、一度顔を見てみたいと思っていたところだった。

こうして現実に若者の風采を眺めてみれば、思わず“なるほど”と納得してしまう。へりくだったところがある訳でもなく、かといって己の実力を誇示する訳でもなく。自然体の好奇心と健やかな知性を存分に宿している男、誰からも敬意を抱かれるであろう男であることが気配となって伝わってくる。

「長慶殿に一度お伺いしたかったのですが」

「なにかな」

「この十年で時代は大きく動きましたが、あと、何と何とを満たせば戦が止むのでしょうや」

これには長慶も驚かされた。桜の前でこんなことを思う人間が他にもいたとは。

訝しい顔つきをする周りの者を置いて、散策しながら話すことにした。

「戦がお嫌いか」

「無論、戦も人の本性なのだろうとは存じております。だが、戦はあくまで手段。明るき未来に至る確信があればこその戦でございましょう」

「ふふ。お主は面白いな」

「……長慶殿が日ノ本の夜明けだと思えばこそ、公方も降った甲斐があるというもの」

藤孝は“和睦”ではなく“降った”と言った。余計な虚飾は要らないと言いたいのだろう。

「どうであろう。夜明け前こそ最も暗く寒いものだ」

「このまま長慶殿が武家を一統し、世の中の成り立ちを変えきってしまうのでは」

「それを決めるのは私ではないな」

「慶興殿ですか」

「それも一案」

「他にも」

「お主もその一人。上様も。毛利も、織田も、長尾も、斎藤も、今川も。堺の会合衆本願寺根来衆などもそうだ。名もなき無数のいまを生きる者たちもな……」

「万民の合意が要るとでも」

「安定に向けては誰かが強大な力を握らねばならぬ。されど、その施政は一握りの者が牛耳るのではなく、広く多様な知恵を結集する仕組みを築かねばなるまい。家柄や神仏が先にあるのではなく、辿り着くべき国家の姿が先、そこから逆算して秩序を組み上げていく。そうでなければこれまでの繰り返しだ」

「無理難題に聞こえます」

「そうだ。内乱をしている方が楽というものだな」

「……」

「せっかく上等の天性を与えられたのだ。その恩は時代に返すといい」

「時代に、返す……」

 

をちこちの 木すゑを見れば白雲の 花にかさなる春のあけぼの――

 

「お主のお蔭で一首浮かんだ。礼を言う」

「今度は連歌にお邪魔してもよいでしょうか」

「歓迎しよう」

新たな才が次々と開花している。花さえ数多開けば、放っておいても蜜が、種が世に満ちていく。

逸らなくても次の時代への間合いは着実に縮まっているのだ。

「殿お! ええ加減にしましょうや、皆さん首長うして待ってまっせえ!」

久秀の呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみれば久秀と慶興がこちらに目を向けていて、しかも、少しばかり藤孝を妬んでいるようだった。

 

  *

 

一、長慶本人の抹殺は不可能。標的は外縁、思わぬ者から。

一、義輝を誘導する必要。但し、それと知られぬよう。

一、六角と畠山には当主本人も気づいていない底力が眠っている。遠国大名は当てにするな。

一、三好家の家来衆を分断。偽りの被疑者を仕立てあげる。

一、晴員、晴舎、晦摩衆のみでやり遂げる。その他の者は巻き込まない、信じない。

「以上だ。力を尽くしてくれるな」

「喜んで」

星ひとつ、灯りひとつもない漆黒の内庭で珠阿弥が返事する。姿は見えぬ。おそらく問うた晴舎ですら見えていないのだろう。暗黒の中を自在に徘徊し、確実に仕事を遂げる殺人者。こんな男に狙われては、晴員とてどうやって生き延びればよいのか分からない。

「仕込みに二、三年はいただきましょう」

「構わぬ」

「大仕事だ、大仕事。くく、くふふふ……」

珠阿弥の笑い声が小さくなり、やがて聞こえなくなった。足音ひとつ起こさず、どうやって消えたのか。

同様の指令を、晴舎は幾人もの晦摩衆に与えている。細々とした指図はせず、手段や判断はすべて彼らに一任していた。晴舎の生涯をかけて育て上げてきた者どもにはそれで充分なのだろう。

「後は待つだけだな」

「ああ。おとなしく謹慎していることにしよう」

もはや義輝の承認すら要らぬ。我ら両名が足利公方二百年の生霊となりて怨敵一切討ち果たすのみ、長慶が死出の旅路を南無三案内仕るまで。この霊魂地獄に落とされようと前途足利十代の繁栄あらば悔悟も要り様にあらず、ただ忠心現の救済を求めて――。

 

  *

 

人と一緒に風呂に入るのが苦手だった。

冬の間に患った身体の冷えを癒すべく、佳が気持ちよさそうに湯を楽しんでいる。白衣を身に着けてはいてもすららっと伸びた艶めかしい身体は隠しようもなく、人魚のような気品が際立っていた。湯から離れたところで見守っている琴にしてもそうだ。片膝立ちの姿勢が彼女の弾むように満ちた肉体を強調し、濃密な色香は突き上げる欲動を誘っているかのよう。

女でも酔いしれてしまいそうな身肉に挟まれ、あまねは湯の中にずぶぶぶ顎まで浸かっていた。自分の貧相な身体、誰からも求められていない身体がみっともないもののように思えてしまう。恥ずかしいというよりお目汚し、相手に申し訳ないと思ってしまうのだ。

男というものから長く離れている間に、自尊心がますます衰えてしまったのかもしれない。

 

春になっても冷えが落ちない佳のために、熱海の湯治宿(静岡県熱海市)に逗留していた。三河の安定が上首尾に進んだことで、いまは戦の気配もない。北条・武田と三国間の同盟を結んでいることから、熱海の界隈はとりわけのどかなものである。

佳は湯に入り、休んで水を飲んで、再び湯に入ることを繰り返していた。正綱が戦から帰ってきたこともあって、心身の緊張も解けたのであろう。たまにはゆるりゆるりと休ませてあげたかった。

そんな彼女を宿に残し、あまねと琴は海沿いの小路を歩いていく。

行きつけになった飯屋がある。朝風呂の後に立ち寄って飯と魚を出してもらうのが楽しみになっていた。熱海の鯵は妙に人懐っこい味がする。春先の小ぶりなやつを粗切り造りにしても堪えられないし、干物を炙って白飯と和合させれば口福この上もなかった。これで酒があれば言うことはないが、尼風の態で朝から呑むのはいかにも体面がよくない。

食後は、二人で海を眺めた。初めて出会った頃にもこんなことがあったと思い出す。海は須磨と繋がっているし、熱海を逃げ延びた魚も西宮辺りで釣られているかもしれない。

「あたし、海が好き」

「そのようだな」

中身のない言葉でも、琴はとりあえず受け止めてくれる。

「琴は、好きな景色はあるの」

「……そんな贅沢は許されぬ」

「景色は誰のものでもないじゃない」

「生を喜ぶために生き長らえたのではない。つとに思う、妾がこんな暮らしをしていてよいのかとな」

時々、重苦しい陰を見せる。あまねはいまだに琴の過去を知らない。問わないし、琴も話そうとしない。長慶との約定であまねの護衛となり、いまだにその関係が続いている。妙な間柄ではあった。

浜辺から童の泣き声が聞こえた。松の木を見上げて喚いている。竹とんぼが枝に引っかかったらしい。

声をかけて宥めてやり、松の幹に手を当てた。

「おい、登る気か」

「得意なのよ」

「馬鹿、腿が見えるぞ」

頭上から声が届く。いつの間にか琴が枝の上にいた。竹とんぼを落としてもらい、童が駆け去ろうとする。

「こら、ありがとうだろう」

「いっけねえ、ありがとうお姉ちゃん!」

琴は童に手を振ってから、あまねに松葉を落としてきた。避けると、今度は松ぼっくりをぶつけてきた。

 

続く

 

 

三十七 渦蜜の段  ――三好長慶 足利義輝の帰京を許し、細川六郎 抗戦と延命の狭間でもがく――

三十七 渦蜜の段

 

瓜生山を降りて、塗り輿で相国寺に向かう。

輿の周りは義賢が、それを取り囲むように長慶たちが供についている。長慶の気が変われば助かる術はない。一抹の不安はあったが、信用を失ってまで長慶が約束を反故にすることもないはずだった。

輿に乗る直前、伊勢貞孝がどうしようもない様子で頭を何度も下げているのが見えた。政所執事職にありながら私益を追求し、あまつさえ義輝を裏切った男。あの返り忠があったからこそ他の奉公衆の離反も相次いだ。晴舎は暗殺を進言してきたが、血生臭い風評が立つ割に得られる実利は少ないからと処置を見送っていた。ここで卑しい顔を見せられるくらいなら、いっそ始末しておいた方がよかったかもしれない。

沿道に集った民衆からは聞くに堪えないような言葉を浴びせられた。彼らにとって義輝は、いたずらに京の平穏を脅かした叛徒に映っているようだ。二百年以上も京の主であった足利公方が、いまでは流民の如き扱い。付け加えるように、そんな義輝を許した長慶の慈悲深さを群衆は褒め称えていた。

「耳をお塞ぎくだされ。あのような悪口、長慶の“仕込み”でござろう」

徒歩で横についている晴員が囁く。確かにそうかもしれない。だが、仮にそうだったとしても、民衆の心を巧みに操っている長慶の政治手腕はやはり恐るべきものだ。見物客すべてが仕込みのはずがない。遠国から訪れた旅人も、諸大名の間者も混じっていよう。野次を繰り返しに聞いていれば、なるほどそうかと思うようにもなるだろう。十日もすれば、日本中にこの様子が伝わっているだろう……。

 

「本当にこれでよかったのでしょうか」

義輝に充てられた部屋にやってきて義賢が言う。自ら和睦を後押ししておきながら、いざとなって判断に自信が持てなくなってきたらしい。晴員は呆れて声も出ないようだ。

「斡旋、大義である。乱を治めたそなたの功績、苦しからず思うぞ」

「は、はは」

安堵したように面を下げる。これから長慶に取り込まれる義輝にすがってどうしようというのだ。これなら、和睦に反対して去っていった六郎の方が余程気骨があるというものだ。

 

広間に入って長慶・慶興父子の前に座る。殊勝にも、二人は平伏したまま待っていた。長慶の背には曇りない義輝への敬意が滲み出ている。こういう態度を自然に取れるから長慶は厄介なのだ。

両者の間に義賢が座り、晴員は義輝の斜め後ろに控えている。正式な和睦儀礼に先立ち、この五人で実質の下交渉をしておく手筈だった。

「長慶。慶興。面を上げよ」

促されて父子が顔を見せた。更に風格を増した長慶。そして――。

「あっ」

「おっ」

義輝と慶興が同時に声を上げた。両者の異変に何ごとかと他の三人が訝しんでいる。

「……お主が慶興か」

「お目見え叶い……光栄です」

忘れようもない、琵琶の湖岸で出会った芸人熊吉である。そんなことが起こり得るのか。

慶興は横目で長慶の顔色を気にしていた。なんとなく事情は分かった気もするが……。

「うむ……。頼もしげな英気、よいお子を育てておるな」

「恐悦にございます」

長慶が涼しげに返事し、慶興との間にあった微妙な雰囲気をすうっと薄めた。

それからは淡々とすり合わせが進む。

義輝の帰京。三好と六角の停戦。

晴舎による根来衆の煽動をやめること。

近江から姿を消した六郎一派の処置は長慶に一任すること。

公方は永禄の元号を使用すること。

義輝のために御所を新造すること。その費用の七割は三好家が負担すること。

長慶が没収していた朽木まで義輝に付き従った奉公衆の所領は、三分の二が返還されること。

義輝は長慶に寝返った奉公衆を許し、公方政務への復帰を認めること。

但し、政務の滞りを回避するため、奉公衆に慶興と松永久秀を加えること。

朝廷、寺社、町衆などとの折衝・裁許・税務は引き続き三好家が受け持つこと。

加えて、奉公衆の主戦派であった晴員・晴舎は責を負って謹慎すべきこと。

「よいのだな、晴員」

「は。事前の取り決め通りにて」

義輝には住むところをくれてやるから、京の権益は変わらず長慶が握る。五月蝿い六角や晴員は口を出すな。そう言われているのと同じである。しかも、最後の条項は晴員と晴舎が自ら付け加えたものだった。責任の所在を明らかにすることで、義輝の身に累が及ぶのを防ぎたいということだったが……。

それ以外にも何か存念があるのかもしれぬ。それならそれでよい。

義輝は義輝で、如何にすれば三好家の力を我が物とできるか考える必要がある。つまるところ、長慶や慶興が公方に絶対の忠誠を誓うようになればよいのだ。この父子を新たな足利家忠臣とするべく、自分に尊氏公の如き武徳が備わればよいのだ。

尊氏公は度量が並外れて大きく、家臣の諫言も進んで受け容れたという。和睦の後、自分も三好の美点を学んでみようと思う。同じ強みさえ有していれば、人は自然と公方の方を敬うはずなのだから。

ひとつになろうぞ。慶興に目を向ける。視線に気づいた慶興は、なぜか歯を見せて笑いかけてきた。

 

  *

 

「皆には気苦労をかけた。……いま。安堵している者もいるだろう、甘いと不満を抱く者もいるだろう」

芥川山城、評定の間には主だった家臣が集結している。四国からも康長と長房が出席していた。

長慶が発する言葉を聞き漏らすまいと、誰もが集中して次の声を待っている。

「この日が訪れたことを私は嬉しく思っている。……和睦のことではない。和睦すべきか、断固戦うべきか。皆の中から多様な考えが出てきたこと。老臣から若い連中に至るまで、我が事として天下のあるべき姿を議論しあった。挙句、民草までが自在に弁舌を振るい始めた。私はそれが嬉しい」

はっと気づかされた思いがした。“世間の頭の中身を変える”。確かに長慶は口にしていた。聞いた時は珍しい大望だと思っていたが、あれから二十年、夢想が現実になってきているではないか。細川家の家督争いをしていた頃は、政治は武家だけ、それも一部の貴種だけのものであった。理世安民を掲げた長慶が、本来はどうあるべきか、そもそも何を大切にすべきかを問い続け、人々のものの見方を少しずつ変えてきた。畿内で何が起こっているのかを見極めようと、各地の大名が間者を寄越してくるようにもなった。

気になって長頼と久秀の横顔を盗み見る。彼らは二人揃って涙を流していた。その姿には全身全霊で長慶に仕えてきた誇りが満ちている。この兄弟は長慶が語った夢を欠片も疑っていなかったのだろう。

「和睦はあくまで政。現状ではこれが最適と判断した、されど情勢によっては再び政体を変えねばならぬ。和睦を押した者もそうでない者も、今後起こることをよく見極め、各々の天下を求め続けてほしい……。私からは以上だ」

ふと、長逸には長慶が遺言を唱えているように聞こえた。何を馬鹿なと目を閉じ、邪念を追い払う。

続いて慶興が今後の方針を説明していく。若殿の政務ぶりもすっかり板についている。

軍略。近江方面が落ち着いたいま、当主と家臣の争いが本格化してきた河内、昔から河内の政情と深く結びついている大和、同じく河内との関わり深く根来衆どもが闊歩する紀伊、これらへの対策を強化。

外交。都の安定ぶりを全国の大名に訴求。上洛を促し、あわよくば帝の即位式の費用を捻出させる。先帝の後奈良天皇は十年、その前の後柏原天皇は二十年も即位式の実現に時を要している。新帝の即位の礼を向こう数年で執り行えれば、治世の回復を日本中に印象付けることができるはずだ。

内政。高潮被害の復興も含め、港湾の整備をあらためて促進。三好家所有の商船も更に増やす。軍需物資である硝石や鉛の需要が高まっていることから、堺を中心に御用商人の囲い込み、南蛮貿易の掌握に努める。併せて阿波の藍染を手本に、地域地域の名産品づくりを奨励。

宗教。従来通り各宗派へ等しく敬意を払い関係を維持。相論の和解、一揆組成の抑止を目指す。但し、禅宗については大徳寺を若干立てることで、公方との関係が強い五山を牽制。また、九州方面で信者を増やすキリスト教については慎重に情報を収集していく。

人事。慶興と久秀は公方組織を要領よく壟断。長逸は筆頭家老として家中を統制、政務補佐には石成友通を当てる。長頼は丹波統治に加え、若狭に圧力をかけて六郎を燻り出す。その他、四国衆に行き渡る権益が少ないと不平が出てきていることから、今後領地が拡大する際は褒賞の配分に留意することが確認された。

一通りの内容が終わったところで、長逸が宗渭の処遇を補足する。

「既にお聞きのことと存ずるが……。六郎一派の重臣、三好宗渭の内応を認めようかと思う」

「……」

「各々方、如何」

あの宗三の息子とはいえ、もともとは同じ三好一族である。粘り強く交渉を続け、遂に細い糸を手繰り寄せることができた。ただ、やはり宗三の跡取りであるし、宗渭自身が丹波で何度も三好軍を破っている。自然、皆の視線は松永兄弟に向けられた。

「ま、ええんちゃいまっか。来る者は拒まへんのが殿の流儀でっしゃろ」

長逸へのあてつけでも言うかと思っていた久秀が、存外真っ先に帰参を認めた。宗渭の実力を素直に認めたのか、あるいは茶釜を譲った宗三の遺徳だろうか。

「長頼もええやろ?」

黙って長頼が頷く。多くの部下を宗渭に殺されたはずだが、それは久秀も長逸も、それこそ宗渭も同じことだと割り切っているのかもしれぬ。長頼の潔い人柄には好感を抱かずにはおれない。

「ならば、その様に進めさせていただこう。……なお、向こうからはこのようなものが」

宗渭から贈られてきた品を取り出し、長慶の前へ差し出した。

脇差か」

「は。宗渭は刀の目利きに長じているようですな」

長慶が袋から鞘を取り出し、そのまま刀を抜いた。

短刀とは思えぬ存在感、怪しく揺らぐ刃の光。部屋が幾分冷えたような感がある。

「……夜空の如き沸出来。相当な業物であるな」

「正宗の作と聞きましたが」

「ふむ、どうだ慶興。差してみるか」

「えっ、よろしいのですか!」

先ほどまでの君主然とした顔から、おもちゃを与えられた子供のような顔になる。こうした表情の変化は長慶の若い頃と似ていた。いや、長慶はいまでもそうか……。

「私はこの岩切があるし、この間も上様から“大般若長光”を賜ったのでな。過分な贅沢は身に重い」

之虎の兄とは思えない言葉だったが、実際に長慶はいまも質素な暮らしをしている。

「ありがたき幸せ!」

評定はそのまま終わり、弾けるように喜ぶ若殿の姿をしばらく皆で見守っていた。

この父子がいる限り、三好家は安泰だと思った。

 

  *

 

河内から離れた後は、紀伊の湯川直光のところで匿ってもらったり、進士晴舎に雇われた往来右京と和泉に“ちょっかい”をかけたりしていた。が、特にめぼしい成果は得られていない。

考えてみれば足利義輝は先頃まで朽木に追われていたし、細川六郎はいまでも若狭かどこかに潜んでいる。斯波家は朝倉・今川・織田などに浸食されて虫の息であるし、畠山当主であるはずの自分は放浪している始末だ。まこと、公方・三管領の没落は甚だしいものがある。

威光は三好家に収斂していた。高政自身、和泉で十河一存の軍勢に遭遇したが、“鬼十河”の武威を恐れて根来衆の足が竦んでしまうのを目撃したのである。根来鉄砲衆の実力ならばいい勝負ができると思うのだが、舎利寺の敗戦がいまも尾を引いていて、肝が縮んでしまうのはどうしようもないらしい。もっとも、根来衆といっても様々な派閥があって、安見宗房と近しい一派は三好への復讐心をむき出しにしている。

宗房の味方の敵は、高政の味方である。実力も申し分ない。高政の要請であれば大義名分も立つ。やはりここは、三好長慶の助力を求めるのが最善であるように思われた。

 

向こうが手配した堺の宿屋の一室に入った。

右京たち側近は部屋の外に待機させて、部屋の中には高政と長慶、その弟之虎だけである。之虎とは初対面だったが、長慶からは畿内南部の軍略を四国衆に任せるつもりだと紹介を受けた。既に十河一存が讃岐と和泉を掛け持ちで統治している。ならば、河内の高政には之虎が助力してくれるということか。

兄弟ではあるが、三好之虎の印象はまるで長慶と異なっていた。長慶は穏やかな歌人といった風だが、之虎は男気と色気が混じりあったような匂いが毛穴から立ち昇り、薄花桜の羽織を纏ったその姿は海色の虎か獅子のようである。当代最高の数寄武将という評判だが、それよりも隠すつもりのない野心と軍才が鼻につく。

「ろくな“見返り”も用意できねえけどよ……。安見宗房を“やっつける”のに手を貸してくれねえかな」

高政としては最大限下手に出たつもりである。

「喜んで助太刀いたしましょう。畠山家と三好家、長年の交誼もあることですし」

柔らかに長慶が応える。ただ、畠山と三好が同格であるかのような物言いが気になった。

「河内での戦は久しぶりだなあ。あの時と似ている。敵は河内衆、根来衆、大和衆なんだろう」

「宗房は“中途半端”な小者だけどよ、周囲には古強者が多いんだな。けっこう“やる”んだわ、これが」

「そのようですね。下ごしらえに七、戦は三がよいと思うが、どうだ之虎」

「それがいい。高政殿にも色々と尽力いただきましょう」

こちらとしても異論はない。河内・大和・紀伊は国人や小領主の数が多いから、三好家の力で調略を行えば効果も大きいだろう。無論、高政も先頭に立ってやっていく所存だ。

「お主たちがおらねばどうしていたか正直分かんねえ。“感謝”するぜ」

礼を言った。数えるほどしか下げたことのない頭である。三好側も相応の受け取り方をするべきだ。

「いえいえ……。弱気、逃げ腰は高政殿には似合いませぬ。畠山の再興、きっと掴まえてみせましょうぞ。当家はいただいた誠意の分だけ光を放つ性分でございます故」

応じて之虎が笑顔を見せる。獲物を前にしたような肉食獣の瞳。かつて遊佐長教の野望を叩きのめし、細川持隆を殺して四国を簒奪してしまった男。

(こいつは……俺のことまで“餌”と思っているんじゃねえだろうな)

おぞましい獣性を垣間見た気がした。だが、河内に復帰するためにはこれしか方法がない。

その後のことは……その後で考えればいいんだ。

 

  *

 

阿波を訪れるのは久しぶりだ。

之虎が指定した大毛島(徳島県鳴門市)には既に大勢の茶人が集まっていた。いずれも堺や奈良、京などで名の売れた面々である。やはり、之虎が開く茶会ともなれば集まってくる者も豪華だった。

海に突き出たこの辺りは冬風が強く、天気がよくても身体はどうしても冷えてしまう。どうしてこの場所を選んだのか、与四郎にはいまひとつ合点がいかなかった。いねは“どうせろくでもないことを考えている”などと言っていたが、確かに之虎のこと、何か奇抜な趣向を凝らしているのかもしれない。

高台になっているところに、新たに普請したらしい庵が二軒建っていた。之虎の姿はまだ見えぬ。案内の者に言われるまま、与四郎たちは一軒目の庵に足を踏み入れた。そこで、どよめきが生じた。

「こ、こりゃあ」

「珠光小茄子、三日月の茶壺、ああ、この肩衝も近頃手に入れたと噂の……」

「こちらには刀剣が飾られている。名高い“備前長船光忠”も」

そこには之虎所蔵の、五十種を超える名物が陳列されていた。皆が驚いたのも無理はない。至宝とは厳重に保管し、信のおける者にだけちらりと見せるものである。警備の侍が見張っているとはいえ、こうして庵の中を“鑑賞して回る”ことができるよう飾り台に並べるなど、正気の人間が思いつくものではない。

(なるほど……。このような美のあり方、関わり方もあるか。明け透けに過ぎるようにも思うが……)

認めたくないという思いと、やられたという思いが同時に湧いてきた。与四郎の好みとは言えぬ。しかし、民が、素人がおおいに喜ぶことは間違いないだろう。茶人とて、こうして名物を惜しまず披露してくれれば効率よく目利きを学ぶことができるのだ。

「驚いてくれたようだな」

いつのまにか背後に之虎が立っていて、与四郎の肩に手を乗せた。義弟であり、同じ武野紹鴎門下、若い頃から茶の湯を学びあった仲である。互いの好みも知り尽くしているつもりだった。

「驚きましたとも。悪く言えば乱暴……されど、新たな美の胎動を感じます」

「名物を粗末に扱うなと言いたいのだろう。そうだな、いずれ見せびらかす用の贋作でもつくってみようか」

「声望を高めるにはこれ以上ないやり方ですね」

「兄上は歌ばかり詠んでいるけどよう。連歌は銭がかからねえだろ? 茶の湯に比べりゃあな。これからは、名を売りたい武家が名物を漁る時代になっていくぜ」

威信は銭で買うことができる。朝廷への献金、寺社への寄進、橋や港などの整備。それらに比べれば茶器はまだとっつき易くお手頃である。

「分かり易い見せ場を設けて茶の湯に関心を持たせ、それなりの品を高く売りつけろとでも」

「そんなことしたら姉上がまたまた儲けちまうわな、はっはは……」

非凡なことを色々と思いつく男である。宗三が愛でた茶器は高値で取引されたものだったが、意図的に、いま以上に名物の価格を釣り上げていこうというのか。そんなことをすれば、与四郎たち堺の茶人、之虎、あるいは久秀など、既に一定量の名物を抱え込んでいる者ばかりが儲かってしまうではないか。

「悪賢い義弟殿ですな」

「嬉しそうじゃねえか義兄上も」

互いの腹に拳を当てあい、笑い声を漏らしあった。

 

隣の庵は紹鴎好みの正調な茶湯座敷で、之虎が順番に客を招いていく。人数が多いため待ち時間も長くなるが、名物を眺めていればそれも気にならないという仕掛けだった。通常の待合とは大きく異なるが、これもひとつのもてなしである。

与四郎の番になった。

こちらの庵は思った以上に温かい。炭を増やし、湯気を出し、更には客の目に入らないところに火鉢でも置いているのかもしれない。

之虎の所作は端正かつ爽やかである。締めるところはしっかりと締めてくるところが長慶とよく似ていた。武士でここまで茶をやれる者はいないと言ってよい。

一汁三菜も逸品だった。まるで京料理のような品のある味わい。腕のよい料理人を抱えているようだ。

「よい馳走でした」

「今日は菓子の代わりに珍しいものを用意してみた。感想はこの後に、な」

そう言って取り出したものは瑠璃の大鉢であった。中は水か何かで満たされており、その上に阿波橘の輪切りが幾つか浮かんでいる。

「“渦蜜”と名付けた」

大鉢と同じような瑠璃の器に小分けしてもらった。阿波橘の香気、さらさら消える旅の疲れ。口に含む。予想以上に冷たい。汲みたての井戸水を使ったのだろうか、部屋の温さとの鮮やかな対照。舌を喜ばせる酸味、その後に追ってくる甘味。身体から抜けた水気がそのまま戻ってくるような心地よさに浸る。

「橘、砂糖の他に……若干の塩を入れていますね」

「おっ、よく分かったなあ。ほんの少しだけ煎り酒も混ぜてある」

「渦蜜とは」

「鳴門の大渦な、昔っから茶を点てているように見えて仕方なかったんだよ」

「ほ……」

「この国の大名物、茶席に取り入れない訳にはいかねえよなあ」

「商人風情には思いもつかぬ雄大さ。ふふ、おみそれいたしました」

満足そうに之虎が頷く。単に名物を褒められるより、自分の発想を褒められる方が嬉しいに違いない。

「来年の夏にはまた戦だ。世話になるぜ」

「河内ですか……。畿内を転戦するのも苦労が多いことでしょう」

「なに、京も大坂も河内も似たような遊び場さあ。どこへでも行ってやろうさね」

「之虎殿は、まるで天下とじゃれあっているようですな」

「ははは、そいつは一興」

もうじき正月、人の交わりが盛んになる時候である。間違いなく堺は之虎の話題で持ちきりになるだろう。身近にこんな数寄者がいたのでは、与四郎が天下一の茶人と呼ばれるのもまだ先のことになりそうだ。

 

  *

 

永禄二年(1559年)。めでたい新春ではあるが、通夜のような重苦しさしかここにはない。

いや、思い返してみればこの十年、心から楽しむことができる正月などなかった。恐怖、失望、強がり、後悔、嫉妬。負の感情だけを味わい尽くした十年間だったとでも言おうか。

六郎も、もはやどうにもならないことは分かっているのだ。

公方は長慶と和睦し、三淵晴員たち主戦派一同は隠居してしまった。

縁戚である六角は六郎への協力を惜しまないと言ってはくれるが、江北の浅井、美濃の斎藤、伊勢の北畠、領国の家臣や国人衆など、様々な課題があり過ぎて手が回らないのが実情。

丹波を取り戻しに出陣した波多野晴通は松永長頼にこてんこてんにやられてしまった上、高熱を発して寝込んでしまっている。うわごとで妹の名を呼び続けているのが哀憫を誘うと人々は話していた。

ここ、若狭の武田家は家中が不穏な上、南から長頼、東から朝倉に睨まれていて動こうにも動けない。六郎の存在を同族争いに利用するくらいが精々だった。甲斐の武田家にも当たってみたが、北信濃への侵攻、越後の長尾景虎との睨みあいで中央に構っている暇はないといったところだ。

唯一の希望は駿河今川義元である。彼は五年もすれば軍勢と共に上洛してあるべき秩序を回復し、細川家の再興にも協力すると言ってくれている。しかし、五年先ではどうしようもなかった。目先の助けにはなれないと宣告されているのと同じだと、しばらくしてから気づいた。

一人でいると、六郎は途端に気が小さくなる。

自分は、細川家はどうなってしまうのか。

昭元と名乗っているらしい、我が息子は息災だろうか。憎き氏綱めが軟禁されているのは構わないが、昭元も同じような目に遭っているのではないか。

怯懦だと世間に侮られようとも、悪い想像をするだけで我を忘れてしまうのはどうしようもなかった。

「和睦……和睦じゃと……! 細川家を簒奪した長慶に頭を下げよと言うのか、糞、糞!」

文机を蹴り飛ばす。筆や墨が散乱して畳を汚したが、そんなことは六郎の知ったことではない。

「天下に君臨した細川家の意地があるわ、意地がな!」

襖に爪を立てて破いた。六郎のために武田が呼び寄せた絵師が描いた唐獅子が無残な姿になる。

「義輝の腰抜けめ、義賢の役立たずめ!」

正月飾りの餅をぶん殴る。

「固あ!」

変な音がして、右の拳を酷く痛めた。

それで、ようやく我に返った。だが、手と同じ右側の鼻穴から血が滴ってくる。

「殿!」

慌てて香西元成が入ってきた。残ったまともな家臣はこの猪武者くらいである。

「……大事ない。紙を、紙をな」

鼻血がよく出ることから止め方も心得ていた。寝転んで鼻をつまんでいればそのうち治まる。

「宗渭からの便りはあったか」

仰向けのまま、鼻声で報告を求める。

「は。まずは三好長逸の預かりになった模様。見張りがついているため大胆な行動は難しいようですが」

「三好家の様子は」

「……悪くない、と」

宗渭の放出は、六郎が生き残るための最後の手段だった。万策尽きた時の命綱を準備せねばならぬ。これは、残った元成も含めた全員の総意だった。無論、宗渭の弟の為三を人質に取ってはいるが。

「殿。繰り返しにはなりますが、わしが死ねば、遠慮のう宗渭を頼ってくだされ」

「もう、他に手立ては残っていないか」

「残っておりませぬ」

「そうか……うっ」

鼻血が喉に逆流してきて、口から血を吹き上げた。元成が六郎の上半身を起こし、背中を軽く叩く。

「おいたわしや」

「ぐっ、あ、はあはあ」

いつもより血の量が多い気がする。執念が血の気を呼び寄せるのだろうか。日頃と異なることは何でも吉祥だと、自分に言い聞かせた。

 

  *

 

正月の祝いを届けに九条邸へやって来た。まだ寒いのに、かわうそがちょろちょろ現れて長慶の足もとにまとわりつく。どうやら自分の匂いを覚えているようだ。これほど人に馴れたかわうそは珍しい。

門を潜ったところで出迎えを待っていると、急に強いつむじ風が吹いて埃を巻き上げた。驚いたかわうそが庭の方へ逃げていく。築地の内側でこんな風が吹くのは奇妙だった。

「ほほほ……どうです」

館の中から九条稙通が声をかけてきた。

「どう、とは」

「いまほどの風は麻呂が呼び寄せたものです……ふふ、ふふふ。飯綱の法、完成に近づいてますやろ」

「……」

「驚いて声もよう出さへんみたいですな」

「もう一度、見せていただけないでしょうか」

「えっ……」

「……」

「ん、ん。やめときましょ、神通力を使いすぎたらくたびれてしまいます」

「……では。上がっても、よろしいでしょうか」

「もちろん。ようおこしやす」

 

三好家や本願寺などの支援もあって、稙通の暮らしぶりは随分改善しているようだった。

「尚子殿がいなくなって寂しくはありませぬか」

「麻呂には源氏物語があります」

「……確かに」

同じように古典を精読していても長慶とは少し違う。独り身の辛さなどには無縁のようだ。

「それに、十河殿はようやってくれます。日根野の荘園も根来衆から守ってくれてるし」

「尚子殿の支えあってのことですよ」

話題は互いの近況から、様々な政治向きの話に移っていく。

稙通からは即位式の資金がまだまだ不足していることを仄めかされた。既に、三好家からは銭百貫と、警護の役目を負担することを表明してある。これを呼び水にして各地の大名や寺社に協力を要請していくことを伝えると、一応は納得したようだった。ゆったりしているように見せかけて、稙通はしたたかで誇り高い男である。彼の顔を潰すようなことは極力避けた方が賢明なのだ。

近衛前久の話題にもなった。おいおい越後の長尾景虎が都を視察しに上洛してくるが、どうやら前久はそのまま景虎に同行し、東国へ下向するつもりなのではないかという。景虎は交易などで得た莫大な銭と、剛勇で有名な越後衆の武力を有している。そこに近衛家の威光が加われば、景虎が東国の新たな盟主となることも考えられた。あの貴種は東国に自分の意のままになる王国でも築くつもりなのだろうか。

それから、キリスト教について。

「再び畿内へやってこようとしているようですな」

「嫌やなあ……性懲りもなく。長慶はんからも厳しいに言うたってくれませんやろか」

「デウスとやらの教え、一向宗法華宗をこき混ぜたようなものだと聞いていますが」

「やめてえな。どこぞの異国の神さんが唯一至高やなんて、口にするんも忌まわしい」

「これは、稙通殿のお言葉とは思えませぬ」

「なぜに」

「誰あろう、稙通殿のご先祖こそ日ノ本に仏教を広めた主導者ではありませぬか。源氏物語のかな文字だって、異国の文字を受け容れたからこそ生まれた代物でしょう」

「そんなことは承知してます。……異人や異教を帝に近づけたらいけませんのや。見知らぬものが流行ると、きまって悪疫も流行る。そうやって、古来夥しい犠牲者が出てきたんです」

「遥か昔、仏教とともに疱瘡が伝来してきた。それで、ご一族が次々と亡くなられたのでしたね」

「同じ過ちを繰り返さんための前例です。この京で軽はずみなことだけはせんといてな」

「……分かりました。朝廷や帝を守り抜くことはお約束しましょう」

堺でも、南蛮貿易から戻ってきた者はしばらく海上で様子を見てから上陸させている。未知の病魔とはそれほどに恐ろしい。だが、そうした代償や危険を呑み込まねば技術も商売も情熱も停滞してしまうのだ。

「長慶はん、あんたは恐い人や。何でもかんでも自在に変えてしまう。どんな無理筋でも長慶はんがやるとなんでか角も立たへん。都で十字や魚の紋様がはためくようになったら末法のやり直しやわ」

「ふふ。よくキリスト教のことを調べておいでではありませぬか」

「ザビエルやらいう異人が来た時、色々と話を集めましたんや」

「ほう、初耳でした」

「調べて、調べて、調べて……見送るんが、公家の心得いうものです」

「ふ。ならば、考えて、考えて、考えて……選択することが、私の使命でしょうな」

ああ菩薩様には敵わんと、稙通が扇で顔を隠した。はぐらかし方にも品があるのはさすがである。

 

続く

 

 

三十六 虫かごの段  ――三好慶興 初陣を飾り、石成友通 近江商人を接待す――

三十六 虫かごの段

 

味方の軍勢が京を埋め尽くしている。既にその数は一万五千。しかも、動員した兵は長慶・慶興父子、京周辺の長逸、摂津下郡の久秀だけで、長頼、之虎、冬康、一存、長房など、三好家戦力の大半は温存しているのだ。

対する公方勢は僅かに三千程度。いまでも足利家に忠誠を誓う朽木周辺の地侍と、細川六郎残党、六角義賢に借りてきた若干の近江衆……などの寄せ集めが瓜生山や如意ヶ嶽(共に京都府京都市)に陣取っている。世間に健在を示すために挙兵したはずが、吹けば飛ぶようなその軍勢はかえって京童の物笑いの種になっていた。五年の流亡は、こちらが思っていた以上に残酷だったのかもしれない。

「じゃ、ちょっと先陣切ってきますね」

そう言って馬を進めようとした慶興の肩を、すかさず長慶が掴まえた。

「待て。初陣で気が逸るのは分かるが、大人の指示があるまで動いてはならぬ」

「そうじゃないんですよ。父上だってお分かりでしょう、敵陣の備は士気にムラがある。死ぬ気の奴もいれば嫌々付き合っている奴もいる。こういう時は鼻先に一発ぶちかましてやるんです」

「……之虎のようなことを言う。だが駄目だ、断じて許さぬ」

「俺を信じてくれないんですか!」

「初陣の子どもを先駆けに使う親がどこにいる!」

「そういうくだらない面子を取っ払ってきたのが父上でしょうが!」

「お前の身を案じているのだ!」

「ご自身こそご用心、俺が公方だったらこの機に刺客を送り込みますがね!」

突然始まった父子喧嘩に周囲の兵たちが騒然とする。長慶の怒鳴り声など聞いたことがないはずだし、慶興の人物はよく知られていない。長逸や久秀が別の陣にいるため、仲裁できる者もいなかった。

慶興には確信があった。慶興が正しいことを言ったから、驚いた長慶が感情を面に出したのだ。長慶が正しいと思っているということは、つまり絶対にその通りになるということなのだ。

動くならいまだ。敵が一手動く前にこちらが二手動くのが戦の肝である。初陣の自分を構って動きが鈍くなってしまってはつまらない。恥ずかしい。足手まとい。

長慶の後方を指差して叫んだ。

「父上、危ない!」

その声が終わらぬうちに周りの兵が一斉に長慶を囲んだ。長慶だけは息子の虚報を見破っていたが、数十名の精鋭にまとわりつかれてはどうしようもない。

「違う、慶興を押さえよ……」

「行って参りまあす! エーイ!」

間隙を縫って駆けた。慌てた兵たちが後からついてくるが、速度を落とすことなく敵陣に突っ込んでいく。

 

単騎で走ってくる慶興を見て、明らかに士気の低い敵の備は判断が遅れたようだった。槍衾をつくるのも忘れてざわざわこちらを指差している。思い出したように矢を放つ者もいたが、すべて長巻で叩き落とした。

「はっはは驚破しやがれ!」

弓を構えた敵兵から、一人、二人と叩き斬っていく。敵陣は完全に腰砕け、心底から驚いていた。

「どうしたどうした何しに来たんだお前らよう!」

逃げようとした奴を馬で追い散らし、踏み止まろうとした奴をぶった斬る。楽しい。東国への旅以来、久々の昂りだった。楽しい、楽しいじゃないか戦!

「お待たせえ!」

勝正だ。慶興が穿った敵陣に、勝正率いる摂津の若侍たちが乱入してきた。どいつもこいつも、慶興と勝正で鍛え上げた気のいい奴らである。これで戦力は十倍、勇気は百倍だ。

「よっしゃあいけいけやっちめえ!」

押す。ひたすらに押す。二百人近かった敵の備えが、僅か三十人程度のこちらの勢いに退いていく。

“ドオォン!”

耳を破るような鳴り物、地を揺らす大軍の駆け足。長慶の本隊が近づいてくる。これで、敵方の動揺は恐慌に変わった。瓜生山の茂みへ我先にと争うように逃げ込んでいく。

「ようしいまだ、退却!」

「ええ、追撃じゃないのか熊さんよう」

「退却ったら退却だ! 急げ!」

「エ、エーイ」

あんな連中を追っ払っただけでは敵全体の士気は揺るがない。鼻面をぶん殴るのはこれからだ。

それに勝正にはもっと大きな手柄を上げさせなければならぬ。出奔の責を負って返上した勝正の領地はいまも回復していないのだった。

 

長慶に全力で詫び、その上で鉄砲衆の借り受けを頼み込んだ。長慶は慶興の企みを即座に理解し、快く百名からの鉄砲足軽を用意してくれた。但し、その前に胸板を本気で殴られ、兵が見ている前で悶絶させられてしまったが。長慶の鉄拳を受けた慶興の鎧は胴の部分が大きくへこみ、元には戻らなくなった。

殴られたのは仕方ない。軍規に反したのだから牢に放り込まれてもおかしくはない。しかし、立ち上がった慶興に対して、兵たちは蔑視を向けるどころか褒め称えるように集まってきたのだった。そして、長慶の拳の跡が残った鎧が羨ましくてならぬと撫でまわす。

長慶はただ苦笑いするのみである。

「急いでいるのだろう」

「そ、そうでした。もう一度行って参ります!」

 

前線に出していた部隊がやられた時、必勝を誓う敵側の中核がやることは決まっている。すぐさま挽回し、士気の回復に努めることだ。先ほどの慶興同様、腕に自信のある小勢を繰り出し、大暴れして、さっと退く。皆の溜飲は下がり、一丁腰を据えて籠城しようかという気にもなってくる。

果たして、瓜生山からは一団の屈強な男たちが駆け下りてきた。旗印を見るに六角家の援兵のようだ。落ち目とはいえ六角武者の武勇はよく知られている。初戦の贄には最適な相手だった。

同数程度の兵をこちらも繰り出し、小競り合いの末、わざと後退させた。山の麓から町中へ……。本陣からは離れたところへ……。敵は勝機とばかりに追ってくる。見物していた公家や坊主が慌てて逃げていくのが見えた。逃げなければ、じきに面白いものが見られたものを。

退く。六角家が誇る強弓、なんとか盾で防ぐ。この弓矢だけは本当に侮れない。

更に退く。町並。四つ辻。ここだ!

「野郎ども!」

長巻を天にかざした。陽光、慶興を包む。同時に潜んでいた鉄砲衆が民家の屋根の上に姿を現す。

「括目! 驚破!」

四叉路に入り込んだ敵衆に、四方から鉄砲を撃ち込んだ。轟雷と共に叫喚と血煙が湧き起こる。

「勝っちゃん!」

「エーイ!」

槍を構えた勝正が、かろうじて生き残った敵兵に向かって飛び込んでいった。

「はははは、一日に二度くらい勝ってみせなきゃ父上を追い越せねえよな」

からからと笑ってみせる。周りでは勝ち鬨が上がった。まずはここから、よしよしこの調子である。

 

  *

 

第一戦の惨敗は直ちに自陣に広まり、六郎一派が籠る如意ヶ岳は失望に染まっていた。

近江で無理やり集めた地侍を小手調べに前進させたところ、たちまちのうちに敗走してしまった。怒った三淵藤英が六角家の強兵と共に反撃に出たが、敵将に上手く誘導され、壊滅的な被害に遭ったのだ。藤英は命からがら逃げ戻ったらしいが、既に逃亡する兵も出始めているという話だった。

病を押して出陣してきた六郎はこの報を聞いて気分が悪くなったのか、陣幕の中で眠りに落ちている。勝利が何よりの妙薬、敗北がこの上ない害毒だった。長慶への復讐を遂げるために勇んで参戦したが、結果として六郎の身体を更に痛めることになってはしないか。

六郎だけではない。丹波から若狭に逃れてきた母の具合もよくなかった。これまで面倒を見てくれていた晴通が丹波を奪還すべく出陣したため、いまは弟の為三だけで看病を続けている。母が生きているだけで羨ましいと晴通は言ってくれたが、亡き父の姿を求めて徘徊する姿を見るのは辛い。

手詰まり感があった。

この戦、やはり勝ち目はない。公方が期待していた、遠国の大名が駆けつけてくれるような都合のいい話などありそうになかった。今川家や甲斐の武田家などには六郎もせっせと手紙を出していたが、生返事のようなものしか返ってこなかったようだ。領国を獲りあっている大名が戦をやめて仲良く上洛してくるなど、幼児の妄想のようなものだ。そんな妄想でも頼みとせざるを得ない自分たちが情けなくてならなかった。

民の間では、“公方が三好殿に謀反”と言い広まっているらしい。天地が逆転したような話を違和感なく語りあう民草に違和感がある。だが、世間は確実に長慶を公儀だと認め始めていて、我々のことは治安を乱す邪魔者だと考え始めている訳だ。

「思い悩んでいるな」

声をかけてきたのは香西元成だった。もともと讃岐の国人であり、一族の多くは十河家に降っているが、元成だけは返り忠を潔しとせずに抗い続けている。

「奇襲でも仕掛けようかと」

「やめた方がよい。長慶本人が出陣している。偵察に出てみたが、隙は微塵もなかった」

丹波で何度か侵攻を防ぐことができたのは、地勢、霧、敵方の連携疎漏に助けられたからだ。

「ならば本陣を」

「長慶の暗殺は無理だ。何百丁の鉄砲を潜ませてもいる」

「……俺に、浄玻璃の力があれば」

「焦るな。お主はよくやってくれている」

軍事一筋、武張った男が今日は随分と優しい。いつにない様子に何かの決意を感じた。

「元成殿?」

「そろそろ、殿の未来を考えねばならぬ時だ」

「と、言いますと」

「わしとお主、そして晴通殿。皆が揃って戦うばかりでよいものかな」

元成の言いたいことが瞬時に分かった。先に言わせてしまったことを面目なく思う。自分も同じことを考え続けてきたのだから。

「分担」

「分かるな、わしや晴通殿では難しい」

「晴通殿の妹御なら」

「そういう風に扱われるのが嫌で姿を消したのだろうさ」

「俺にとっても父の仇です」

「元は同じ一族だろう」

「……元成殿。ええ、分かっては、いたのです。しかし……」

落涙を止められない。元成の目にも光るものがあった。

行き詰まってはいても、割り切れるものではないのだ。

「宗三殿なら、何より殿のお命を大事になさるはずだ」

「……はい」

「楽な道を選び、難儀な道をお主に押し付けている。わしを憎むなら憎んでくれて構わん」

「滅相も」

「託したぞ」

事実、長逸や石成友通からの調略は伸びてきていた。誘いを受けつつ、こちらの要望はひとつでも多く呑ませる必要がある。そのような折衝や調整ができそうなのは宗渭くらいだった。実務ごとを得意としていた他の内衆は既に死んだり、逃げたり、裏切ったりしている。

六郎の陣幕と、瓜生山の本陣を交互に眺めた。どちらにも動きは一切見られない。

長慶の陣を見下ろせば、篝火が煌々と燃やされ、兵が活気よく動き回っているのだった。

 

  *

 

戦場からは少し離れた鴨川のほとり、下賀茂神社京都府京都市)からやや北に友通の京屋敷がある。この辺りは地代が高いため、普請は思い切った投資だった。自分の強みを活かすにはこれしかないと覚悟を定め、私財の多くを注ぎ込んでようやく手に入れた邸宅である。

暮らすための家ではない。閑静で、長慶の屋敷からも御所からもそう遠くはなく、典雅な気配が漂う。要は、接待のために設けた場所なのだ。

当代一の名儒と呼ばれる清原枝賢の講義は大受けだった。近江商人という者たちは志や人倫を尊ぶ性向があるから、明経博士が“商売に通じる論語”などと口にするだけで狂喜するのである。どれだけ財を成そうが京の貴人からは卑しい下種と見做されてきた者たちにとっては、商いに学問という背骨を持ち込むこと自体が偉大な発見なのだった。堺や奈良の商人が茶の湯を創造したのと同じように、いずれは近江商人も商いの聖道のようなものを大成していくのかもしれない。

無論、友通は商人たちの奥底に潜む葛藤や誇りを見逃さない。言葉を選んで相手の喜びそうなことを伝え、相手が口惜しがっていそうなことに水を向けては本音を引き出していく。場を三回ほど設けただけで、彼らと友通の距離はぐぐっと近づいている手応えが合った。

戦の才は二流だが、実務処理や接待の腕は一流だと自分で思う。もともとたいした生まれでもないから頭を下げるのは苦にならない。胃腸が強いから酒は幾らでも飲める。睡眠時間もあまり必要としない身体だった。何より、知らない人と付き合い、知らない話を聞くのが好きなのだ。

授業の締めに枝賢が言う。

「楽しみて淫せず、哀しみて傷らず。三好殿ほどこの言葉が似合う人物はいまの世におりますまい。釣合、均衡、調和、中庸……。その上でなお、独特の風韻までをも有しておられる。商家の方々にとっても範にすべきものがありましょう」

近江商人たちが大きく頷く。確かに。それに引き替え六角殿は……。定頼殿の頃は楽市楽座も上手くいっていたが……。口々に感想を漏らしあう。日頃から三好家に重宝されているだけあり、枝賢の弁術は聞き手を“その気にさせる”力に優れていた。

戦が始まり、商人は京で立ち往生しているのだった。迂回して近江に帰ることもできるが、それだと荷の運搬料が馬鹿にならない。戦があれば野盗の類が現れるから、慣れない道を行くのは危険も大きかった。彼らを保護し、仮の住まいや生活費を工面し、何なら一席設けてやる。地道な仕事だが、近江の調略や長慶の名声向上という点では効果が大きい。

松山重治や池田勝正などは槍働きで手柄を上げようと必死だが、自分はこっちの方が性に合っている。そして、長逸は存外こうした裏方の事績をよく見てくれているのだ。誰でも思いつく仕事は他の連中に任せ、友通は工作や分析を担当することが増えていた。普段は長逸の下で働いているが、長慶や之虎に直接報告する機会も出てきている。提案が採用されたことも一度や二度ではなかった。自由に使える資金や人手だって徐々に増えていく。

松永兄弟には先を越されたが、次に続くのは自分か、篠原長房であろうと思っている。五十歳を超えた長逸や久秀には頑ななところが出てきていた。直接会って話せばいいのに、自分の方から足を向けるのを嫌がったり、遠慮したりする。長慶の目を気にして、重臣同士で手柄争いのようになることも珍しくなかった。こうした中で長慶が重宝するとすれば、国主並の視座を有しながら、一実務者として走り回り、皆の間を取り持ってくれる能吏であるに違いない。それが出来そうな人物は自分と長房だけなのだ。

何度か顔を合わせて仕事をしたことがあるが、正直なところ頭の良さでは長房に敵わないと思った。だが、自分がいるのは畿内で、長房がいるのは四国だ。出世の機会は断じて畿内の方が多い。知恵の不足は泥臭い調整や礼遇の量で補うことができるはずだ。

そう思えばこそやる気も活力も湧いてくる。

「さあ皆様、宴に移りましょうず。今宵も奇縁おいおい機縁、近江と三好の友誼は商いによし世間によし五倫によし、経世済民理世安民でございますよ……」

 

  *

 

長慶がそれぞれの陣を視察して回っているのが分かる。

様子が見える訳ではないが、人が歩くほどの速さで歓声が起こっていく理由は他に考えられない。昔から長慶は妙に兵から人気があった。長慶に名や生まれを訊ねられ、うむうむと頷かれるだけで彼らはすっかり参ってしまう。きっといまも、いつもの薄藍色の素襖姿で兵たちに手を振っているのだろう。

喜びと誇りに満ち満ちたあの騒ぎは、まるで帝の行幸や英雄の凱旋を迎えているかのようである。晴員にはそれが我慢ならなかった。本来ならばあれは義輝に向けられるべきではないのか。どうして長慶のような逆賊に民はおもねるのか。偽善、擬装、欺瞞、すべてを凝縮したようなあの奸物に。民草が愚かなことは重々心得ているつもりだったが、とうとう善悪の区別もつかなくなってしまったのかと思うと遣る瀬無い。

やるべきことは数多い。天下を私する三好一族を滅ぼし、詭計に翻弄された朝廷や寺社の目を覚まし、邪心に囚われた民へ正しき振舞いを指導せねばならぬ。

ところが、どう考えても大義はこちらにあるのに、晴員に賛同する者が現れない。同僚の進士晴舎と彼が率いる晦摩衆、嫡子の藤英、落ちぶれきった細川六郎一派くらいしか心強い味方はいなかった。二男の藤孝は昔から何を考えているか分からない上、義輝に迷いを植え付けようとするところがある。本来は共に義輝を支えるべき奉公衆は、伊勢貞孝を筆頭に大半が長慶へ寝返ったままだ。守護大名どもは義輝に同情を寄せはするが、実際の行動に移す者がいない。それどころか三好に続けとばかりに、名分や家格に頼らず、実力で周辺地域を支配しようとする者が出てくる始末だった。

肝心の義輝も、最近はどうも様子がおかしい。長慶を打ち破るというより、長慶との対話を望んでいる節があった。そこに兵の損耗を渋る六角義賢が追従するものだから、晴員からすれば“勝つ気はあるのか”と愚痴のひとつも言いたくなる。

実際、戦況はすこぶる悪く、士気も低迷したままだ。初戦で三好慶興に大敗を喫しただけではなかった。若い慶興の活躍に触発されたのか、三好一族の長老格、長逸が尋常でない厳しさで瓜生山を攻撃してくるのだ。晴員も防戦に努めたが、高地の利があるにもかかわらず、槍を合わせれば必ずこちらが負けた。殊に長逸嫡子の三好弓介や長慶・長逸両名に重用されていると聞く松山重治の奮戦は凄まじく、多くの将兵が討ち取られてしまっている。

ここに至って、晴員は見たくなかった現実に向き合わざるを得なくなった。

味方はいない。世論は長慶の方を支持している。戦でも勝てない。外交で包囲網を築くこともできない。それでも、長慶の天下、長慶がやろうとしていることを認める訳にはいかない!

「どうしろというのだ!」

顔に当てていた扇子を投げ放った。利きの悪い左腕だったため、扇子はあらぬ方向に飛んでいく。

――しまった。そう思った時、ちょうど現れた晴舎の指が扇子を捕らえた。

「荒れているではないか」

「当たり前だ」

「報告。義賢殿は本気で和睦を考えているぞ。既に三好に使者を送っている」

「なんだと!」

普段は何も決められない癖に、こういう時だけ行動が素早いことに腹が立つ。

「中立の態で公方と三好の間に入れば、六角の評判は上がる。兵も減らない、民や家臣には褒められる。義賢殿の喜びそうなことだ」

「長慶が受けるとでも」

「案外受けるかもしれぬぞ。いや、むしろ受けた時の方がわしは恐ろしい」

「……なぜだ」

「京を追われれば、いっそ今川や長尾を頼って東国に行くこともできる。義稙公の前例だってあるのだ。だが、京に入れば我々は飼い殺しにされよう……。淀城(京都府京都市)に押込められている、細川氏綱のように」

「うむ……。あの淀殿は遊佐長教の手で廃人にされたのだったな」

「人はそう言うが、真相は分からん。長慶が氏綱の回復に尽くしたという話を聞かないことは確かだ」

「おい」

「おう」

「考えがあって来たのだろう。聞かせてくれ」

晴舎の顔をじっと見据える。よく見れば深い皺が随分と増え、眉や髭もすっかり白くなっていた。

「……人に頼るのはやめにしないか」

「む」

「二度も仕損じた。だが、三度目が大事との言葉もある」

この五年間、晴舎は晦摩衆の調練に心血を注いでいた。死人が出る、無関係の者を巻き添えにする、非情に卑劣を重ねた冥府魔道にその身を置いてきたのだ。

「いかにも……」

「年を取った。老い先短いこの命が道連れを欲しておるのよ」

「たとえ上様が望まぬやり方でも」

「歴史に悪名を残そうとも、わしは足利を守って死にたい」

「……晴舎」

「うん」

「よく言ってくれた。友よ、後世がどう評そうがわしだけは知っているぞ、お主の崇高な忠義を知っているぞ」

「……うん」

晴員の心もこれで定まった。正攻法を捨て去ることに幾分の安心を覚え、晴舎と謀略を企むことに胸のときめきを感じた。年寄りの妄執と思わば思え、老境が生み出す酷薄を召し上がり候え。本懐を果たすはここよりぞ、逝ねや長慶、滅せよ下剋上――。

 

  *

 

追放案、弑逆案、和睦案。          

この三案を巡って、いまや三好家中はもとより、公家や商人、農民までもが議論を交わす有り様だった。再び始まった三好と公方の争いは今後の日ノ本を占う分水嶺であると人は言う。三好が足利を超越し、天下に覇道を示すのか。それとも長慶が持ち前の寛容を発揮し、惨めな足利を許すことになるのか。いや、誓約を守った例のない足利公方は滅びてしかるべきなのか……? 長慶の決断を賭けの対象にする者まで現れていると聞く。

既に総勢一万五千の四国衆・淡路衆が上陸を開始している。南では根来衆が不穏な動きを見せているが、このままでは東山一帯に籠る公方勢などひとたまりもないことは明らかだった。

之虎たちと合流するために尼崎へ下向した長慶のもとには、連日、大勢の訪問客が詰め寄せてくる。義輝の安全を懇願する足利旧臣、長慶の慈悲を求める高僧、あるいは六角打倒後の近江権益に唾をつけようとする商人。情と欲に彩られたその様子は一種の説話集のようですらあった。

会談は法華宗の某寺を借り切り、長慶・慶興・之虎・冬康・一存の五人だけで行われる。無回答を貫いた康長と基速は除き、事前に主な家臣の意見は聞いてあって、長逸・久秀は追放案、長房は追放に加えて義冬を呼び戻す案、友通・重治は弑逆案、長頼が和睦案であった。これはそのまま彼らの勢力基盤における世論と一致していると判断してよい。

主に四国で活動する長房の姿勢は、地方ではいまも“足利”の威光が大きいことを示している。義輝を追放することまではよくても、それに代わる神輿がないと民心慰撫が難しいという訳だ。確かに、多様かつ広大な領地を治める現実解のひとつではある。

次に、主に畿内で活動する者たち。もともと畿内は進取の気風に富み、民心の変化が激しい。節操がないと思えるほど、彼らは足利なき世を受け容れつつあった。違いがあるとすれば、年長者は殺しては後が面倒だと知っていて、若年者は殺してしまえば清々すると考えているというところだろうか。見方を変えれば、長逸や久秀は現状の維持を望み、若い衆はもっと大胆な変化を望んでいるということかもしれない。

武闘派の長頼が和睦案を支持していることは、他の者たちを不思議がらせた。だが、これは無理のないことである。長頼は、最も血なまぐさい争闘を繰り広げてきた丹波を治めているのだから。あの無愛想だが人のよい好漢は、どこかで憎しみの連鎖を断ち切らねばならぬことを誰よりも理解しているに違いなかった。

日本中の武家も成り行きに注目している。長慶のもとには地方からの使者や書状も多く届いていた。尊氏を支えることで興った家がある。南北動乱で武功を上げた家がある。応仁の大乱を生き抜いた家がある。足利の存亡は、各地方の権力構造をも大きく揺るがすことになるのだ。

民草。家中。外交。そして、この国の未来。すべてを背負って長慶が会談に臨む。

 

口火を切ったのは一存だった。

「簡単なことだろう。公方は慶兄に兵を向けた。何度も約束を破った。二度も刺客を送ってきた。やったらやり返されるのが世の習いだ。当たり前のことを当たり前にやるのがいい世の中なんじゃねえかな」

弑逆案。単純ながら力強い道理を含んでいる。

「同感だな。もういいじゃあねえか兄上よう。三好長慶様は旧い時代の権力者を打倒し、希望に溢れる新時代を開きました、めでたしめでたし。それくらい分かり易くなきゃ人の興味は集まらねえぜ」

之虎が同調する。落ち着いた物言いを意識しているようだった。持隆を殺めて以来、之虎はこの種の話題に対して繊細である。皆もそれが分かっていて、しばらくは沈黙が続いた。

 

瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ――

 

冬康がおもむろに歌を詠んだ。視線が一斉に集まる。

「この歌は……慶兄の切ない恋を題材にしたい訳ではなく」

どっと笑いが巻き起こった。この弟は、長慶をからかうことで場の空気を変えてしまったのだ。

「悪霊と化した人間は恐ろしい」

「追放や弑逆が次の大乱を招くと言いたいのか」

「ええ、要はそういうことです。更に言うなら――。聞こえるでしょう、鈴虫が鳴いています」

「む……」

季節は秋。寺院の庭では鈴虫の大合唱が始まっていた。

「鈴虫を野に放てば、ああやってたくさん仲間をこさえ、やがて喊声を上げることになりましょう」

「……」

「虫かごにさえ入れてしまえば」

冬康の言いたいことは全員に伝わった。さすが、水が岩を磨くように柔らかな口上である。

それまでおとなしく聞いていた慶興も冬康に賛同した。

一寸法師はさあ。食われたように見せかけて実は勝っていたんだよな」

「ほう」

之虎が感心したように甥を眺めている。

「公方を打ち出の小槌にしてやることだと思いますがね」

にやりと不敵に笑う慶興、それを温かく見守る之虎たちの姿を見て、長慶は一同の意見が出揃ったと判断した。

「言い足りぬ者はおらぬな」

「ははは。実際のところ、兄上の腹は初めっから固まっていたんでしょうが」

「ふ。之虎の瞳は誤魔化せぬか」

弟も息子も、長慶の判断に異を唱えるつもりなどない。その上で、言いたいように言わせてくれた長慶を気持ちよく受け止めている様子だった。

「和睦だ。公方と戦う時代から、公方を使いこなす時代に舵を切るぞ」

 

  *

 

三好はあえて和睦の道を選んだ。公方を敬うというより、もはや公方などどうでもよいからだ。そんな風に認識されるよう、長慶は世論を冷酷に誘導していくつもりなのかもしれぬ。

とはいえ会談は思っていたよりも短く済んだ。夜を徹した激論になることも考えていたのである。拍子抜けしたが、大事なことを決める場というのは得てしてこういうものかもしれない。

ただ、安心した途端、無性に腹が減ってきた。

「海を渡って早々、皆もくたびれたであろう。ささやかだが夕餉を用意してある」

之虎の心境を汲み取るかのように長慶が手を打った。その合図で運ばれてきた膳にはほのかに色づいた飯と、たっぷりのとろろが入った鉢、海苔と葉わさびを乗せた皿が配されている。

「うはっ」

一存の機嫌よい声が聞こえた。走りの山芋はなかなか手に入るものではない。

さっそく、銘々が飯にとろろをかけて啜り込む。

「これは」

「……目覚ましいな」

「うめえ!」

口々に喜楽を口にした。飯には仕事がしてあった。この安らぐ匂い、茶。ほうじ茶。ほうじ茶で炊いた飯。温かなその飯椀にひやりとした真っ白のとろろ。ねばこい。飯に絡む。口中に絡む。しかしここにもよい仕事、絶妙の配分で出汁を効かせてある。意外なほどに喉切れがよい。甘い芳しさに包まれ腹に落ちていく。

「……加えて、この」

海苔。葉わさび。とろろ飯をひと口。もうひと口食べてから、次のひと口に海苔。膨らんだ。何もつけずに更にひと口。唇に粘り。そこで葉わさびを齧れば、清々、清新!

ふと一存の方に目をやれば、どおるどおるると熱中してかっ込んでいる。

「ははは。一存め、まるで野武士の兵法」

「ふふ。口に合ったようだな」

長慶が目を細める。

「兄上よう。これをつくった料理人、ちょいと貸してくれねえかな」

「茂三をか? 構わぬが……」

戦が終わるなら、風流天下一に向けて動き出すべき時が来たということだ。

いまだ誰も見たことのない情景が俺の内にある。それを形にして世に問う、そろそろやってみようか……。

 

続く

 

 

三十五 ひとつの段  ――六角義賢 息子義治に軽んじられ、三好長慶 永禄改元に当たって足利義輝を仲間外れとす――

三十五 ひとつの段

 

暦の上では秋だが、朽木では早くも雪が積もった。

さく、さくと足音が鳴る。義輝も藤孝も雪国の暮らしに慣れてきており、歩き損ねて転ぶようなことはない。その一方で、前を進む老人は何かがおかしかった。雪を踏む音が聞こえぬ。足跡もほとんど残っていない。羽毛のように軽やかな運歩である。それでいて異常に進むのが早く、ついていくだけで精一杯だった。

老人の名を塚原卜伝という。五十年も前から名の知れた兵法家であり、七十に近いいまでも腕前には些かの衰えもない。“剣聖”とまで言われるこの老人が生涯三度目の廻国修行に出たという噂を聞きつけ、晴舎に命じて来訪を請うた。卜伝は快く招聘に応じ、このうら寂しい土地にやって来てくれたのである。

晴員や藤英の苦々しい視線にもめげず、義輝と藤孝は三十日に亘って剣術の指南を受けた。卜伝の技量は恐るべきもので、二人掛かりでも敵わないどころか、汗一筋かかせることすらできなかった。義輝の身分におもねって軽く打たせてくれるようなこともしない。そのことに不快感はなかった。むしろ義輝を一人の男だと認めてくれているようで嬉しくさえあった。師弟の絆というものは、家格や立場を超越したところにあることを知った。それを易々と受け容れられた自分が不思議だった。

朽木を発つ前の日。卜伝は人気のない林の奥へと二人を誘った。

「……この辺りでよろしいでしょう」

木剣を構えるように言われた。言われた通りに正眼に構えると、同じようにして卜伝が正面に立った。

「これまでお二人には新当流における基本の型をお伝えして参りました」

「……」

「最後に珍しいものをお目にかけましょう。そのまま動かれませぬように」

構えたまま、卜伝の次の行動を待った。

卜伝は動かない。

意識を剣先から滑らせていき、卜伝を見据えた。その瞳には何の情も籠っていないように思われる。

剣の技を見せるのではないのか。気迫、殺意。雪の一片ほどもなかった。

――冷たいそよ風が頬を撫でた。

さくり、という音。

何かが雪の上に落ちた。そう思った時、卜伝が一歩だけこちらに踏み込んでいることに気づいた。

足下に目を移す。

「なっ」

木剣の刀身が横たわっている。思わず自分の手元を見つめた。柄は握ったままだ。そう、刀身の中ほど。鏡のような断面。切断されている。折られたのではない! 卜伝の得物を見た。ただの木剣だ。木剣で、木剣を切断したというのか。手応えはなかった。いつ卜伝が剣を振ったのかも分からなかった。

「藤孝! 見たか!」

ぶるぶると藤孝が首を振った。いつも鷹揚としている彼でさえ仰天して目を見開いている。

「面妖な……」

考え込む義輝を余所に、卜伝がにこにこと藤孝を手招く。藤孝にも同じように木剣を構えさせた。

(見極めてやる!)

瞬きなどするまい。神速、石火、逃しはせぬ。何が起きるかは分かったのだ。

卜伝。

痩せた老人の身体。

どこにも力みはない。意識すら籠っていないように思える。

とっかかりがない。そう考えた時、僅かに卜伝が動いたように見えた。弾指の一瞬だ。

さた、といって藤孝の刀身が落ちた。汗が目の中に入り、慌てて義輝は顔をこすった。

卜伝が二人に向かって静かに語りかける。

「“ひとつの太刀”と申します」

「……自分の目で見ても、とても信じられぬ」

「こういう境地もある。珍奇な風光を見物したとでもお思いくだされ」

「……」

藤孝と目を見合わせた。よく見れば二人とも指先が震えている。

「この技で人を斬ることはできるか」

「殺すことも活かすことも」

卜伝が優しい表情で答える。義晴、父性、偉大な大人。老人の中に渦巻く神気を感じ取った。

剣聖。

これが剣聖か。

「ひとつの太刀とはどういう意味じゃ」

「それは根源」

「……?」

「それは万物が辿り着くところ」

「……」

「知ってしまえば簡単なことだったのです。ひとつところに帰すもの。あの大空、この大地」

大空。熊吉。お紋が舞う琵琶の海。

何もかもがひとつ……?

「左様。上様も拙者も、この雪の下に眠る蕗の薹ですらも。身体がそれを体得した時、命と刀もひとつに極まりましょう」

「政もか」

「到達した者は戦も政も恣、神仏と合一することすら叶いましょう。蛮勇も陰謀も、祈りも情動も絶望も。洗いざらいが一点に寄せられてくるのですから。……それが、到達するということです」

「卜伝殿は」

「一歩先んじたに過ぎず」

「余にもできるだろうか」

「やってみることです」

その通りだ。やってみなければ分からない。掌を顔の前に上げた。震えは止まっていた。

「ひとつ」

「ひとつですとも」

「そうか、ははは、ひとつか!」

けたけたとはしたなく笑い声を上げ始めた義輝を、藤孝が面白そうに眺めている。

「遂に見つけたのですね」

「うむ! ひとつ! ひとーつ! ひとおおおつ!」

叫び続ける義輝を置いて、卜伝が藤孝に話しかけた。

「藤孝殿、三好様とはそれほどの……?」

「ひとつの極意。誰よりも先んじているのが三好殿でしょうな」

「むう……あの悪之長の曾孫がのう」

「之長殿とご面識が」

「若い頃に少しな」

「お聞かせいただけませぬか」

藤孝は卜伝に続きを促したが、それを義輝が制した。

「細々した話はどうでもよい! 卜伝殿、もう一手。まだ日は高い、さあさあこれへ!」

老人の昔話は長くなる。そんなことをしている間に卜伝は去ってしまう。

藤孝にうらめしい顔を向けられたが、義輝はあえて無視した。いつも義輝に意地悪をする仕返しだ。

卜伝は何もかもを分かったような表情で木剣を手にした。

「よき公方様かな。三好様ともひとつになれば万民が喜ぶでしょうに」

「はっは、いまなら何でもできそうな気がするわ!」

陽光が雪に跳ね返る。頭上の葉が雪の塊を落としてくる。義輝の乱撃は雪の粉を一帯に巻き上げた。それらをすべてかわしながら卜伝がふわりふわりと宙を飛ぶ。

 

日が沈み、月明かりが曇るまで義輝の稽古は続いた。一歩も動けなくなった義輝を、藤孝が背負って帰った。藤孝が晴員に激怒されていたが、義輝はやはり気に留めなかった。

 

  *

 

帝の崩御により、長慶たちは多忙を極めている。大葬の資金供出、中陰に関わる相論の裁許。いつの間にか、父は朝廷儀式のおおよそを掴んでしまっていたらしい。長慶の判断はひとつひとつが実に的確で、公家たちも進んで三好家の意向を確認するようになっている。

基速が言っていた。公家は有職故実に詳しいが、有職故実しか知らないのだと。彼らは前例がどうして生まれたのか、どのような思いで築かれたのかを考えようとしない。先祖代々そうだったから、遥か昔からこうだったから以上を想像する力に乏しいのだ。

長慶は違う。いまを生きる政治家として、実際の課題に取り組んできた人物である。だからこそ百年前、千年前の政治家の考えが腑に落ちる。我が事のように思考をなぞることができる。前例をつくった者たちの気持ちを追いかけることができる。結果として、長慶は異常な速さで有職故実を体得し、公家に解釈を伝授するような逆転現象が生じることになる。

反対に、朽木御所には一人の使者も向かっていない。公家たちが行こうとしないし、国境の関所では三好家の兵が厳しく見張っている。朝廷や寺社では、朽木に籠って大葬の手助けをしない公方を公然と非難する声が上がり始めた。役に立たぬ犬は犬の棟梁と呼べぬという訳だ。

公方のこととはいえ、あまり気持ちのいい話ではない。

だが、すべてが父の意向に沿って動いているのは間違いなかった。

長慶はこの際、改元の手続きも朝廷と三好家だけで完結してしまおうと考えているようだ。重臣たちを芥川山城に集めて父は言った。

「公方や六郎を討つことは大事ではない。彼らを斬ればかえって追い慕う者が現れよう。成すべきことは、民の心、世間の意識を変えてしまうことよ。なあんだ、彼らがいなくても大丈夫じゃないか。いなくなった方が上手くいくじゃないか。そう気づかせてやることよ。ならば、どうすればそう成るのか、一同心を砕いてほしい」

慶興は、父が動き始めたのだと思った。

公方も細川家もいなくなった京を治めて五年近く。守備に適さぬ都を長慶は悠々と守り抜いてみせた。畿内の復興は進み、新築・修繕の槌音がいまも鳴り響く。商いが盛んになり過ぎて銭が足らず、近頃では銀や米による代替が進んできた。米が主要通貨となれば、銭を使い慣れていない者も一丁商売を始めてみようかという気にもなる。大内家の崩壊もあって、堺を中心とした南蛮交易や日明密貿易の取扱高も増加する一方。市場や港には物が溢れていた。

治安もすこぶる良好である。かつては土一揆や宗教一揆畿内を荒らしまわっていたと聞くが、いまは影も形もなく。独立心旺盛だった国人衆も、ほとんどが長慶の支配に服した。高潮の被害はあったものの、それも能吏たちの迅速な処置で大きな騒ぎにはなっていない。

明らかに、畿内は暮らし易くなったのだ。

長慶の善政を民は喜び、公方や六郎のことを思い出す者は減るばかり。

しかし、それでも数百年かけて築きあがった足利・細川の権威は崩れ去ってはいない。“いまは”長慶が特別なだけで、“普通なら”公方が都にいて、細川家や畠山家がそれを支えるべきだ。そうした形が本来は自然なのだと世間は思っている。ふとした拍子に元の形に戻そうと言い出しかねない危うさを孕んでいる。“五十年前はよかった。あの頃は……”と軽々しく考えるのが民であり、人の常なのだから――。

こうした声に出さぬ声を、父は冷静に観察してきた。

その上で、ここからは更に一段ことを進めるつもりなのだろう。

「長逸。東国の情勢を報告せよ」

「は。上洛の気配を有しているのは長尾、斎藤、織田。長尾は公方や近衛家が盛んに接触していますが、景虎本人は都の情勢を見極めること、本願寺との交渉を進めることを重視している模様。斎藤は家中の分裂を纏めるために、織田は今川へ対抗するために権威を欲しているようですな」

「うむ」

「目下、本気で公方を助けようとしている者はおりませぬ。武田晴信などは信濃守護の確約が得られれば公方に用はないという腹でしょう。……但し」

駿府

「ええ。今川義元尾張侵略完遂まで、あと二、三年というところでしょう。織田と斎藤が力を合わせればともかく、信長と義龍は宿敵の間柄。尾張勢の勝ち目は薄いかと存じます」

「公方と争うならいまのうちということだな。六角の調略はどうだ」

「上首尾です。義賢嫡子の義治、日野の蒲生定秀・賢秀父子などを中心に」

「よし」

長慶の頭にはこれくらいの内容は入っている。慶興も含め、一同に聞かせるために問うたのだろう。

基速、久秀、長頼、それに石成友通や松山重治などが頷きながら耳を傾けている。

「皆の者、聞いての通りだ。年が明ければ、やがて公方が怒り狂って攻め込んでくる。いつでも出兵可能な態勢を整えるとともに、民の間には公方が狼藉を企んでいると流布しておけ。迷惑な輩が山の向こうからやって来るかもしれぬとな」

「はは!」

一座が長慶に向かって頭を下げる。黙って聞いていた慶興も皆に合わせて腰を曲げた。

「せっかくだ。慶興も意見があるなら申してみよ」

評定の場で水を向けられるのは初めてだった。父が自分を認めてくれたように思えて心が浮き立つ。

「は……。いまいまの話に異存はありませぬが」

「ふむ」

「父上は公方を克服した後、どこまでを目指すおつもりなのでしょうや」

「ほう、どこまでとは」

「単刀直入に申しましょう。日ノ本の武家を一統する気があるのか、ということです」

家臣たちがざわめき始めた。考えたことはあっても口にはしない話だからだろう。

「ふ、大きなことを言う。確かに、いずれ向き合わねばならぬ問いであるな」

「朝廷がいま以上の力を持つことはありませぬ。寺社は強靭な僧兵や一揆を有してはおりますが、ひとつに纏まることはできますまい。これまでやってみせたように、父上ならば充分に御することができる」

「……」

「残るは黴臭い武家の旧弊を破壊し、新たな時代と秩序を築くのみでしょう。天下人だと世間は言うが、実態は畿内と四国の太守に過ぎませぬ。父上もご存じのはず、地方はいまも伝統という名の魔物に支配されている。苦しんでいる。理世安民、遍く全国に行き届かせるべきではありませぬか? 日ノ本すべてを安らかに治めてこそ真の天下人というものでしょうが」

「よう言わはった!」

上気した久秀が立ち上がり、長頼や長逸もそれに続いた。皆、慶興の言葉に打たれたらしい。

だが、聞きたいのは長慶の答えである。果たして長慶が口を開く。

「やるなら、民の理解を得ながらゆっくりとだ。短気短慮では務まらぬ……。できるか、慶興」

「できますとも!」

「ご立派あ!」

いちいち久秀のかけ声が五月蝿い。しかし、父はいま、確かに志を認めてくれたではないか。

「容易くはないぞ」

「できると信じるからできるのです」

歯を見せるようにして笑った。長慶も微笑み返してくれる。主君の二人を取り囲み、家臣たちが鯨波を上げ始めた。

 

  *

 

父上には難しいですかな。

はあ、これだから父上は。

……お爺様がいればなあ。

息子に顔を合わせる度、ため息混じりにそんな嫌味を言われる。義治が自分のことを軽んじているのは明らかだった。たかが十二歳の子どもがだ。誰かが入れ知恵しているはずだが、心当たりが多すぎて見当がつかない。

義賢から見れば息子の義治の器量は自分とそうは変わらない。鳶の子は鳶だ。罪は鳶を生んだ鷹の方にある。名族六角家の衰退は、自分程度の後継者しか残せなかった定頼に咎があるのだ。それなのに近江の国人衆は定頼の時代を懐かしみ、義賢の指図に従おうとしない。

「……晴員殿のお気持ちは分かるが、いまはそれどころではないのだ」

「悠長なことを言っている場合ではありませぬぞ。やがて東国から諸大名が集結してきます。早めに手柄を上げておかねば恩賞も不足しようというもの」

「その通りです。殿、ご決断を」

重臣の後藤賢豊が三淵晴員と一緒に決起を促す。賢豊は六角家の支配が弱まる中でも義賢を支え続けてきた忠義者であり、粗末には扱えない。だが、蒲生を始めとした他の家臣は三好との開戦に断固反対、京や堺との関係悪化を恐れる近江商人衆も同様の態度を決め込んでしまっている。京奪取への後詰めを約すにも、兵も銭も集まらないようでは話にならないではないか。

「三好が蔓延っているからこそ我らが軽んじられるのですぞ。六角の武威を再び示そうではありませぬか!」

「うーむ」

「義賢殿が立ち上がれば必ずや各地の大名が続きます。よいのですか、好機を逃しても」

「ううむ……」

そんな上手い話のはずがない。上手くいきそうなものならとっくに賢い連中が動いているはずではないか。皆が様子見をしている時に突出するのは外れくじを引くのと同じである。これまでの生涯、果敢に挑戦してよい結果を得られた例などなかった。実際、隣の義治の顔には“父上には無理だ”と書いてある。

「殿!」

「うん……いま少し時を。時をな」

三好が目障りなのは間違いない。できることなら排除したいとも思う。それだけだ。それ以上はどうしたらよいか分からない。とりあえず、他の大名がどうするつもりなのかを知りたいと思った。

 

  *

 

春。前年に新たな帝(正親町天皇)が践祚したが、新しい暦はまだ発表されていない。一先ず今年は弘治四年(1558年)ということになる。

長慶が人質として預かっている六郎の嫡子を元服させてやったという話を聞いた。驚くやら呆れるやら、兄のお人よしには限度がないのかと思う。元長の仇の息子に昭元という立派な名前まで用意し、おおいに祝ってやったとのことだが、何を考えているのかまるで分からない。だいたい、自分も六郎に同じように扱われ、長じた後は六郎に反旗を翻したではないか。昭元が長慶と同じことをしない保証がどこにあるというのか。

「六郎殿とは果てのない戦を続けているし、氏綱殿は人事不省といっても差し支えない容態と聞く。まだ細川の名に利用価値があると踏んで、千殿の手元に置いておこうということだろう」

「……」

聞きたいのは正論ではない。夫に望むのは傾聴、共感の姿勢である。与四郎にそんな技能を求めても仕方ないことは長年の夫婦暮らしで心得ているから、いねも今更声を荒げたりはしない。黒鉢に紅い木瓜を黙々いけながら夫の言葉を聞き流す。

(いい年になっても千殿千殿と……。自分だって“千”の姓を持っている癖に)

与四郎は長慶のやることなら無批判に信じるところがある。

逆に、いねの言うことは軽んじるというか、素直に聞き入れられない傾向があった。

いねやつるぎは珍しい事例であり、世間に茶の湯をやる女はいない。与四郎は茶人として徐々に名を上げているが、女の客をもてなす経験も素質も不足している。むしろ、男だけを相手にしているから襤褸が出ないのかもしれなかった。

「ところで、寧波(浙江省)行きの話が纏まるかもしれないよ」

「本当?」

我ながら機嫌がたちまちよくなった。

大内家の滅亡により、正規の日明貿易の道は絶たれた。このことが却って密貿易の隙を拡げており、従来は利権に入りこめていなかったとと屋にも機会が巡ってきているのだ。こうした話を拾ってくる与四郎の嗅覚には信頼を置いている。

「無事に肥前松浦党と接触することができた。二、三年の内には実現の目途が立つだろう」

岸和田の松浦守が病死し、養子入りしていた一存の次子が跡を継いだ。松浦家は肥前平戸の松浦隆信と繋がりを有している。松浦隆信は知る人ぞ知る密貿易の首魁である。

「一存が商売に役立ったのは初めてねえ」

「日除け暖簾の手形が客を呼んでくれているではないか」

「あんなの子ども騙しよ。それより、私も行くからね」

「どこに」

「決まっているじゃない。寧波」

与四郎ができの悪い梅干しでも食べたような顔になった。

「な、何を言っているのだ、淡路や四国ではないのだぞ。寧波がどこにあるのか分かっているのか」

「船で一箇月。風を見ながら往復で一年から一年半」

子どもの頃から海の向こうの話を聞いて育ったのだ。異国の話から耳を逸らしたことは一度もない。

「……命の保障はないぞ。あなたは身体も強くないのだから」

「そんなの覚悟ひとつだわ。戦と思えばいいのよ」

「店はどうする。子どもたちは」

「どうとでもなるじゃない。ちょっとお、いい加減にしてよ。私は三好元長の娘なんだからね!」

いねの気迫がただ事でないことを察し、さすがの与四郎も口をつぐんだ。

「本気、なのだな」

「夫婦はひとつでしょ」

夫の顎を指で撫で上げる。照れたような困ったような顔。こういう与四郎の表情が嫌いではなかった。

それきり夫は何も言わず、一人になりたいとばかりに宝心庵の方へふらふらと歩いていった。

 

  *

 

既に季節は夏の盛りに入り、朽木とて蒸し暑さは募る。じめじめとした湿気が衣服を蝕むが、左の腕は古傷のせいで思うように動かせず袖に風を入れにくい。何より、各地の大名から届いた書状に目を通していると脂汗が次から次へと浮かんできて、気を張っていないと卒倒してしまいそうだった。

“永禄元年”。あらゆる書状の末尾にはこの暦が記されてあった。公方は“弘治四年”を使い続けているにも関わらず、である。足利将軍が認めていない、それどころか相談すら受けていない元号が日本全国に浸透しているということだ。

朝廷と三好だけで決めた元号など、誰も認めるはずがないと思っていた。いや、本当は認めてくれるなと願っていたのだ。何の抵抗も混乱もなく、永禄は世間に受け入れられた。公方の統制下にあるべき守護大名ですら、“帝がお決めになったことだから”と唯々諾々である。長慶が巧みに帝の権威を利用していることは明白だった。

このままでは相当まずいことになる。完全に晴員たち奉公衆の失策だった。帝がお決めになった元号に従っていないということは、“足利将軍家は朝敵も辞さず”と宣言するに等しい行為なのだから……。

「消える……消えてしまう……二百年に亘る足利の天下が……足利の輝かしい未来が……」

晴員はこれまでにない焦燥に駆られていた。足利将軍が京から追われることはこれまでにもあった。だが、帝や朝廷、都の慣習と仕組みから“足利抜きでも苦しからず”を突き付けられたのは初めてなのである。

居ても立ってもいられず、晴員は奉公衆の召集と義輝の臨席を求めた。狭い朽木に暮らしているから、その気になれば一刻で全員を集めることができるのだった。

 

晴員は死力を尽くして決起と奮起を一同に促した。その弁は鬼気迫るもので藤英や晴舎たちには強く心を打たれた様子が見られた。このままでは公方の存在意義が消えてしまう。そうした濃い危機感を等しく共有することができた。連綿と受け継いできた使命を自分の代で失うということは、生命を奪われるよりも遥かに恐ろしいことであった。

兵を挙げることで意見は一致していた。沈黙を保っているのは藤孝と義輝本人だけである。

下剋上燃え盛る炎の時代に、上様を戴く永遠の秩序を……! いまこそ! 眩い未来を掴む時!」

腸を吐き出すような勢いで声を張り上げた。自然と涙も零れ落ちた。六十近い自分にできる、最期の奉公だと信じて泣いた。晴員の思念が場のすべてを抱擁していた。

しかし。

「よろしいですかな」

藤孝が発言を求めた。拒む理由はないが、賛同している風でないのは見て取れる。

「我らが集められる兵はせいぜい三千、よくて五千でしょう。権威が失墜すれば扱いも疎かになるは天然道理、上様をいたずらに死地に送るようなものではありませぬか」

「臆したか藤孝!」

藤英が弟に向かって激昂した。皆が同じ思いに纏まろうとしている時、決まって藤孝が異論を唱える。藤英は以前からそのことを憎んでいた。弟であるだけに尚更許せないのだ。

「この状況を放置すれば……東国の大名や尼子を結集させることも難しくなり申す。晦摩衆による長年の調略も無に帰してしまいましょう」

晴舎が違う方面から晴員を援護した。費やしてきた資源を無視できる者などいはしない。

皆の目が義輝に集中した。後は将軍の意向ひとつである。

「皆の意見はよく分かった。余も、いまは長慶に向き合う時だと思う」

「おお、上様!」

満座に安堵の笑顔が広がる。

「なるほど、勝ち目はないかもしれぬ。だが、そもそも余と長慶の闘争に勝敗などないのではないか。三好の栄華は余の栄華でもあるのではないか……」

「う、上様……?」

「離れておってはどこにも行き着かぬ。兵を出し、三好長慶に向き合おうではないか。彼奴が治める京都を味わい、学んでやろうではないか」

義輝が己に言い聞かせるかのように、途切れ途切れに考えを述べる。

腑に落ちぬものを感じた。またもや要らぬ知恵を吹き込んだのかと、晴員と藤英が同時に藤孝を睨む。事実、藤孝は満足気な様子で義輝を見守っていた。

 

  *

 

「ほう、豌豆を卵でとじたか」

紀州産のよい豆が手に入りました」

おたきと、おたきに養子入りした茂三が笑顔で膳を用意する。

慶興や来客がいない時、長慶はこの母子を食事に相伴させることが常であった。毒見という意味がない訳ではないが、それ以上に長慶の反応を直接見せることで更なる味の改良を期待しているのが大きい。

二人はその期待によく応えてくれていた。茂三はしばしば京や堺に料理を学びに行き、おたきはおたきで質のよい旬の食材をどこからか仕入れてくる。

“芥川に行くのは面倒だが、行ったら行ったでうまいものが食える”と、都の料理を食べ慣れている公家や坊主からも喜ばれていた。

「うむ……しみじみ穏やかな味だ。なるほど、卵でとじたことで一度にたくさんの豆を口に入れることができる。ひと粒、ふた粒と食べていては得られぬ豊かな食感。地母神の如き豌豆の味わい、すべてを許し給う卵の大慈大悲」

頷きながら食べ進む長慶を見て、母子はいつも心から嬉しそうな顔を見せる。

「その辺の偉い人と違って、殿は卵でも何でも嫌がらずに召し上がってくださる。我々も腕の振るい甲斐があります」

「確かに、育ちのよい者ほど馴染みのないものを口にしようとはせぬものな。されど、貴種は長生きして血を絶やさぬことが何より大事、己が身体を賭けに晒すことはできぬ。替えのきく私とは事情が違うさ」

「こ、これは異なことを。いまの世に、殿のお身体ほど大切なものがありましょうや」

「どうかな……。人は私のことを傀儡師のように言うが、実は私こそ天が操る人形なのかもしれぬぞ。私がいなくなっても、天がいずれ次の候補を見つけるだろうよ。それが慶興だったら言うことはないが……」

「おやめくださいよう、縁起でもない」

困惑したおたきが抗議する。茂三は固まってしまっていた。こうなっては長慶も笑みを向けるしかない。

「存念あっての言ではない。この卵とじを見ていて、ばらばらした武家もひとつに纏まらねばならんのだろうと思ったまでのこと。おい、長逸などに告げ口するでないぞ」

「は、はは」

何と言ってもこの二人は善男善女に過ぎる。食べものの話には好適だが、長慶の思いの丈をぶつける相手とするには無理があった。

(――あまねならば。聞くだけは聞いて、背でも揉んでくれただろうか)

別れた妻を想うのはこういう時である。愛惜ほどのこともない、柔らかな疼きを胸に宿す。頭の中で妻に話しかけ、返ってくるであろう応答を思い浮かべる。十年近くが経っても、あまねの顔ははっきりと思い出すことができるし、こういう風に年を取っているだろうと予測することもできた。

一人、空想に耽る。それだけで思い煩いの大抵は霧消していく。

 

昼食を済ませ、芥川山城の曲輪をうろうろと歩いた。歩いていれば何かしら課題が見つかるし、家臣の方からも話しかけやすいものだ。馴れ馴れしく兵の間に入っていくことはしないが、偉ぶって壁をつくるようなこともしない。

猫の夜桜と薩摩豚の一家が争っているのを見かけた。大方、豚の餌を夜桜が横取りしたのだろう。

「内乱相次ぐ辛苦の時代に、民が望む精に満ちた日々を……。なあ、分かるかお前たち」

膝を曲げて話しかけた。畜生には好かれる性分である。猫も豚も喧嘩をやめてすり寄ってきた。

 

続く