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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二 掛かり太鼓の段  ――三好元長 大物崩れを成し遂げ、木沢長政 次の一手を画策す――

 

二 掛かり太鼓の段

 

河内国飯盛山城(大阪府大東市四条畷市)。夜深く、城主の館には灯りがひとつのみ。

木沢長政は将棋盤を眺めていた。盤上には初期配置のように駒が並べてあったが、よく見ると敵陣の駒は幾つか歯抜けになっているし、自陣には玉将が二枚あった。

(この飛車め、よくよく悪運が強い)

自陣の飛車を扇子で軽く叩く。

元長の暗殺未遂事件は畿内でも噂になっていた。従者たちの警護が厳重で、刺客が元長に接近する直前に阻止されたという。首謀者は、元長と険悪な丹波の柳本賢治だと言われていた。暗殺に失敗した際は丹波に目を向けさせるように命じていたのだ。身に覚えない丹波勢は、細川高国か足利義晴の手先ではないかと反論していた。

もともと、元長と賢治が争うように仕向けたのも長政だった。互いの不和と不信を煽るような情報を流し、三好勢に偽装した部下が丹波勢を罵り、丹波勢に偽装した部下が三好勢を蹴り飛ばした。元長も賢治も短気だから、両者はすぐに本気になって争い始めた。だが、堺公方府の勢力分裂を恐れた細川持隆が、元長を説得して共に身を引いたことで手打ちになっていた。

「飛車角共倒れの手は失敗、飛車への奇襲も失敗か。角を狙った方が早いかな」

強者で知られるこの二人が揃っている限り、細川高国の逆襲はないだろう。そのまま年月が流れれば、堺公方府の権勢が定着してしまう。細川高国が細川六郎に、足利義晴が足利義冬に代わるだけ。世の仕組みは何も変わらない。元長が説く海外への展開とやらも、日本国内の下級武士や貧民層にとってはどうでもいいことだ。金持ちが、更に金持ちになるだけだ。

(それでは、意味がないのだ……。次の手を、急がねばならぬ)

明け方近くまで、長政は盤上を睨んでいた。

 

  *

 

享禄三年(1530年)、冬。

元長の暗殺未遂から一年と少しが経った。

芝生城の奥まった中庭で、今日も千熊丸は元長に朝稽古をつけてもらっている。毎朝、日が昇る前に起床し、身支度を整えたらすぐに稽古である。身体を少しほぐした後は四股と摺り足をみっちりと続ける。その後に木剣の素振りと弓射。仕上げに、元長か康長と組打ちを行う。日が昇り、城中が賑やかになる前に稽古を終えるのが常である。

朝稽古は千熊丸が元長に頼んで実現したものだ。暗殺者との戦いを見て、自分の実戦での無力さを思い知ったことと、父の力への憧れを強くしたことが動機であった。元長は特に何も言わず、あっさりと了承してくれた。あらためて対峙してみれば元長と康長の強さは恐るべきもので、千熊丸はまさしく子ども扱いに軽く捻られてしまう。聞けばこの二人、若い頃は“天狗の兄弟”と言われていたそうだ。

弓射までを終えたところで元長が声をかけてきた。これは、いつにないことである。

「千熊よ、今日はこれまで教えた稽古の総ざらいだ。この一年に、お前には特に大事なことを三つ教えた。ひとつずつ申してみよ」

「は。まずは……“緩・軟・伸”」

稽古を始めた際に、まず教えられたのがこの言葉だった。元長が言うには、いざという時に機敏な動きをするためには、日頃はむしろゆっくりとした動作で鍛錬を行う必要があるとのことだった。やってみると、これが存外にきつかった。四股も摺り足も、腰を下ろしてゆっくりと行うと、勢いをつけて素早く動く時よりも遥かに下半身に負荷がかかる。素振りも弓射も同様、ゆっくりとした所作を心がけると、考えなしに得物を扱う時より倍も早く息が上がった。

次に、力を抜くことだ。腕力そのものだけで人を投げたり殴り倒したりすることは容易ではない。投げる、殴る、刀を振るう。脱力し、身体の重みを手や刀の先に乗せることで、これらの威力が大きく上がることを学んだ。頭では理解しがたい事象だったが、元長に何度も投げ飛ばされ、また、木剣を弾き飛ばされしているうちに、父の肩や腕にはほとんど力が込められていないことが観察できた。無論、千熊丸はその域には達していない。

伸は姿勢を正すことである。四股も素振りも弓射も、千熊丸が猫背になったり腰が崩れたりした途端に元長の木剣で尻を叩かれた。姿勢については日頃の手習などでも母に厳しく躾けられていたから、この点だけは馴染むのが早かった。正中線が崩れていては、身体はよい働きができないのだ。

 

「次に、“秘するが勝ち”」 

朝稽古は早い時間のうちに人目を避けて行う。千熊丸自身、幼い頃から元長と共に暮らしていたが、元長がいつ鍛錬を行っているのかは知らなかったし、あれほどの武技を持っているとは思わなかった。暗殺未遂に遭った時も、元長は自分が直接手をかけたことを伏せて警護ぶりがよかったように処置していた。

「戦の、軍を率いた際の武名は高ければ高い方がよい。味方の士気は上がり、敵の士気は下がるからな。しかし、個人の武名が高いのは駄目だ。民や部下が怖がるし、手練れの刺客を送り込まれることもある。日頃は少し侮られるくらいでいいのだ」

自分の武勇を誇るのが武士の常だから、これは尋常の言ではない。このような考え方を大将の心得というのだろうか。

 

「最後は、“習慣こそ天性なり”。いまのところ、鍛錬を欠かした日はありませぬ」

すべてを聞き終え、元長は満足そうに頷いた。

「うむ、その通りだ。特に最後の点は大事だぞ。わしや康長がいなくなっても、弓射までの鍛錬は必ず毎日続けるように」

「はい!」

元気のよい返事に父は顔を緩めた。声が小さいと雷を落とされる。

(しかし、まるで……父上たちがいなくなるかのような物言い。やはり、また戦に出られるのだろうか)

この一年間、濃密に元長と接してきた千熊丸には父と離れたくない思いが湧いてきている。ここしばらく物思いに沈んでいる父を見ていたから、こんなことをそのうち言われる予感がしていたのだ。不意に、幼い時、赤子のいねが両親を独占して一人で泣いたことを思い出した。

「何を突っ立っている。組打ちを始めるぞ」

元長に声をかけられ、千熊丸はいまこの時に意識を戻した。

「父上、お願いします!」

少なくとも、日が地平線を離れるまでは元長を一人占めにしていられる。それで充分ではないか……。様々な思いも、やがて吹き出す汗と蒸気の中に溶けていった。

 

  *

 

年が明けて享禄四年(1531年)。

正月が明けてからも元長は部屋に閉じこもっている。

 

昨年から細川高国の反攻が始まっていた。

高国は元長たちによって京を追われたが、近江の六角氏、伊勢の北畠氏、越前の朝倉氏など諸国を廻り、遂には出雲の尼子経久備前の浦上村宗の助力を得ることで勢力を取り戻したのだった。尼子は中国地方を大内氏と二分する大名である。当主の経久は“謀聖”などと呼ばれ、一代で尼子の版図を拡げた名将として名高い。浦上村宗も経久に負けず劣らずの謀将であり、主君である守護の赤松晴政から実権を奪って、備前を中心に播磨・美作をも支配していた。幼い頃の足利義晴を保護していたこともあって、細川高国との結びつきは以前から強い。

更に痛手だったことに、高国派を抑えるべく播磨に出陣した柳本賢治が何者かに暗殺されてしまった。謀を好む浦上村宗の仕業とも思われたし、以前からの因縁がある元長の手によるものという噂も流れた。これで、堺公方府の士気はおおいに下がった。西から攻め上る高国軍は、既に尼崎まで制圧してしまっているのだ。

細川六郎たちは、今更のように元長・持隆を追い出したことを悔やんだ。恥も外聞もなく“恩賞は望み次第故、至急駆けつけたし”という矢のような催促である。

 

(いまや高国の勢いは万夫不当とも言うべきか。それに比べて、六郎たちのなんと頼りないことよ)

長年政権を担っていた者の底力を感じる。一時的に中央での権勢を失うことはあっても、流行に流されにくい地方部での支持はそうそう揺らがない。高国自身に、何としても政権を取り戻すという気迫と誇りが溢れているのだろう。堺公方府には、そうした厚みが足りない。

今更畿内に出陣しても、高国を打ち破る勝算は三分というところだった。勢いに乗る高国軍はますます兵力を増やすだろうし、反対に堺公方府の兵力は離散していく。もし首尾よく高国を仕留めたとしても、次は堺公方府から背中に矢を受けることが目に見えていた。

(それでも、行かねばならぬ)

堺に政権を築き、海外交易に重点を置いた国家運営を行う。夢はいまも熱を失っていない。腹の虫が借りを返せと騒ぐ。そうだ。高国も六郎も、足を引っ張る有象無象も。すべて、乗り越えていけばいいのだ。戦って戦って、戦い抜いた先にこそ未来は切り拓けるのだ。

(逃げ癖のついた男に、天運など降りてくるはずもないわな)

元長は立ち上がって、高笑いし始めた。部屋には元長のみだったが、そっと襖が開いて、つるぎや康長が何ごとかと覗いてきた。

「おう! ちょうどよい。わしは決めた。決めたぞ! 畿内に行く。もはや心は揺らがぬ。さあ持隆様に使いを出せ。わしは明日には発って堺で待っているぞ。支度ができた兵からどんどん上陸して参れ」

元長の矢継ぎ早な指示に、つるぎと康長が顔を見合わせていた。とはいえ、二人はこういう時の元長の頼もしさをよく分かっている。反論することもなく、すぐに準備にかかり始めた。

 

しばらくして、畿内復帰の段取りが整ってきた。

宣告通り、元長は最小限の供を連れて堺へ先発する。堺公方府での軍議、国人の懐柔や高国派の切り崩し、商人や寺社の調略など、やるべきことは数多くあった。

康長は阿波に残って持隆と共に四国の兵力を糾合する。持隆が四国兵を引き連れて上陸すれば、堺公方府の勢いも自然盛り返してくるはずだ。

元長は康長に耳打ちし、

「特に持隆様にはお願いしたい儀がある。こうこう……」

かねてより考えていた秘事を授けた。

「なんと。いつの間に……そのようなことをお考えになったのですか」

驚いた康長に対して悪戯染みた笑顔を見せる。

「わしとて、阿波で無為に過ごしていた訳ではないさ」

 

準備の終わりに問題が起こった。

千熊丸を連れて行くと言った元長に対し、

「私も参ります」

と、つるぎが主張しだしたのである。

何を言っているのだ、これは危険な出陣ぞ、下の子たちはどうするのだ、などと元長が宥めたが、つるぎは頑として言うことを聞かない。わけても拙かったのは、元長が他意なくこう言ったことだ。

「千熊の見識を深めるために同行させるまでよ。案ずることなどない、面倒を見る者なら堺にも心当たりがあるわさ」

この言葉尻をとらえて、つるぎは一層がなり立てた。

「本当は堺に妾がいるのでしょう?」

元長は慌てた。誤解である。誤解ではあるが……昔、千熊丸がつるぎの腹にいた頃、近隣の女に手を付けたことがばれた際の、つるぎの形相を思い出さずにはいられなかった。

妾や側室を許容するかどうかは女によって異なる。つるぎは、断じて許さない女である。

結局、後頭部まで刺し貫くような妻の眼光に負けて、言うとおりにするしかなかった。

康長には阿波の留守居に加えて、いねたちの面倒までも頼むことになる。千熊丸が同行すると聞いたいねが、私も行くと更にもう一騒ぎを起こしたことは言うまでもない。

 

  *

 

軍議は半日に及んだ。

堺公方府の本拠、海船政所には主だった味方が揃っている。足利義冬、細川六郎を筆頭に、元長、三好宗三、木沢長政、その他茨木氏などが列座しており、姿がないのは四国衆を集結させている持隆と、連絡を分断された丹波の波多野稙通くらいである。議論は元長が主張する決戦論と、宗三が主張する備中奇襲論のいずれを選ぶかで紛糾していた。

宗三の主張はこうである。細川高国の勢いは高まるばかりであり、いたずらにこれと正面から当たるのはよくない、義冬と六郎を危険に遭わすことに繋がる。こちらには優れた水軍衆もいるのだから、海を渡って浦上村宗の本拠である備中を奇襲すべきだ。掴んだ情報によれば、備中には村宗がかつて実権を奪った守護、赤松晴政が残っているだけであり、堺公方府の精鋭を以てすれば蹴散らすのは容易い。備中さえ奪ってしまえば高国・村宗も兵を引かざるを得ないだろう、と。

宗三の主張に、多くの者がもっともだと頷き合った。こうした議論の場では、危険の少なそうな案に人は流れる。宗三の弁舌は滑らかで、しかも自身が率先して渡海すると言った。そうした宗三の姿勢に一同の信頼が集まった。

一方で、元長は決戦論を強硬に主張した。宗三殿の意見は一見非の打ちようがない風に見えるが、実際は大きな危険をはらんでいる。それは、尼子経久の存在である。四国から目と鼻の先にある備中の守りが薄いのはいかにも胡散臭い。これまで進軍を続けてきた高国・村宗が神呪寺(兵庫県西宮市)に陣を敷いて動かないのも怪しい。これは、あらかじめ経久と申し合わせあってのものと思われる。奇襲したつもりが、逆に尼子に取り囲まれて殲滅されてしまう可能性が高い。だいたい、皆はここまでしてやられても口惜しくはないのか、正面から高国を打ち破ってこそ揺らいだ堺公方府の威信が取り戻せるのだ。畿内の民が見ている前で堂々と出陣し、鮮やかに勝ってこそ武士の本懐であろう。

元長の主張もなるほど、筋が通っている。だが、どうしても言葉の端々に、こうした事態を招いた一同の不甲斐なさをあげつらうような響きが出てしまう。六郎などは露骨に顔をしかめていた。議論の情勢は備中奇襲論に傾きつつあったが、元長が必死に抵抗し、なんとか膠着している状態だった。

 

その時、これまで黙っていた木沢長政が口を開いた。

「わしは、元長殿に賛成だ」

この意外な賛同者に、元長も含めて皆が驚いた。

「これまでの議論を聞いていたが、皆、どちらの案が正しいかは決めきれないのだろう。ならば、この危機に駆けつけてくれた元長殿の顔を立てるのが真っ当。四国衆の士気も上がるというもの」

道理である。長政の発言で議場の空気が変わった。元長・宗三・長政の三人の実力者のうち二人が決戦論を選んだのだから、他の者も義冬・六郎も、これを追認するしかなかった。高国・村宗を迎え撃つ主力は元長率いる四国衆。宗三は堺の守備、長政は京の守備を担当する。

「それでは、さっそく支度に取り掛かる」

元長は颯爽と退出していった。

 

  *

 

「宗三殿。先ほどは申し訳なかった」

皆が退出した後、宗三に長政が声を潜めて話しかけてきた。

「あれは考えあってのことでな……。あまり大きな声では言えぬが、わしは……元長がいずれ六郎様に害をなすと考えておる。先ほどの軍議でも六郎様などおらぬが如き振る舞いだったものな。しかし、まずは目の前の敵を取り除くことこそが肝心。元長が討死すればよし、高国を滅ぼしてくれればそれもまたよし……。手の打ちようは、幾らでもあるものな」

「……」

「いずれ、詳しく談合したいこともある。あらためて」

そう言って、長政は去っていった。

(六郎様に害をなすだと。それは貴公も同じであろう)

元長に賛成したことも、京の守備を志願したことも、長政の振る舞いは妙に引っかかるところがあった。何か、別の目的を持っているような……。

(だが、確かにいまは目の前の高国、目の前の元長だ)

六郎を守り、細川宗家を継承させるためには、あのような男と手を結ぶことも必要かもしれない。人間も道具も、癖や歪みはあってよいのだ。打ち捨てるのは、家臣としての分際を越えてからでも遅くない。

「……紹鴎の茶が飲みたいな」

軍議が終わっても、宗三にはなさねばならぬ仕事が多く残っている。戦の合間にも相論や陳情などが次々に寄せられていた。茶人仲間のところへ顔を出すのは、まだまだ先になりそうだった。

 

  *

 

千熊丸はつるぎと共に、堺の大店“とと屋”に預けられていた。

とと屋は魚問屋を主軸に蔵貸しや金貸しなどを広く扱っており、堺でも指折りの富商である。主の田中与兵衛は堺の自治組織である会合衆の一員でもあった。

近頃、富商のあいだでは茶の湯が流行していて、とと屋にも天王寺屋や皮屋などの有力者がしばしば訪れてきては喫茶を楽しんでいるようだ。

つるぎはもともと茶の湯に関心を持っていたようで、いまも与兵衛と皮屋の主である武野紹鴎に作法を習っている。つるぎは和歌が好きだから、連歌に精通した紹鴎の教えぶりは水が合うようだった。所作が“薄霧のまがきの花の朝じめり”の意に通じるなどと世辞を言われ、母は素直に喜んでいた。

千熊丸は、もっぱら与兵衛の蔵書を読み漁っていた。茶の湯も興味深くはあったが、それ以上に書籍の豊富さ、多様さに感激したのである。堺の風情や豊かさは驚くべきもので、建物も、道行く人の服装も、阿波とはまるで違っていた。何より感心したのは触れることのできる知識が極めて多いことだ。日本中から、更には海外から人と物が集まってくるこの土地では、その気になればどんな事柄でも学ぶことができるように思えた。

「千殿。書見もいいけど、少し休んで一服しようよ。茶菓子を貰ってきたんだ」

与兵衛の息子、与四郎が声をかけてきた。与四郎は千熊丸と同い年であり、気質も似ていたことからすぐに仲良くなった。いまでは互いに“与四郎”“千殿”と呼び合っている。与四郎にとってはあえて千熊丸を“千殿”と呼ぶことがおかしいのだろう。

縁に座って茶菓に手を伸ばす。前栽には種々の樹木や花が植えてあった。

「これは、うまいな。このようなものを初めて食べた」

小豆餡を包んだ柔らかな餅に珍しい芥子の実をまぶした菓子である。白く細密な見目は美しく、甘みと香ばしさが交わった味が舌を陶然とさせた。菓子に添えて、与四郎が入れてくれた麦湯もうまかった。

「ぷちぷちという歯ごたえがいいだろう。高価だから、子どもは普段食べられないんだ。分け前をくれた千殿の母上に感謝しないとな」

「こんなものが普段から食べられる。堺は本当にすごいところだ。……ところで与四郎、この本を見てみろ。“とりかへばや物語”、いったいどういう頭をしていたらこんな話を思いついてしまうのだろうな」

どんな話を振っても与四郎は千熊丸を感心させることを答えてくれた。同年代でこんなに話が合う者がいるということも、千熊丸にとっては大きな発見だった。

 

次の日、千熊丸は元長に連れられ、堺に上陸した細川持隆のところへ挨拶に伺った。昨日から今日にかけ、四国から続々と兵が到着している。広大な堺の港を埋め尽くするほどの軍船・輸送船の数だった。船着き場の方に向かうと、遠くから持隆が大音声で呼びかけてきた。何度かお目にかかったことはあるが、相変わらずよく目立つお方である。髪と髭は伸びっ放し、諸肌脱ぎの上半身は赤く日に焼けていて逞しい。野武士のような風貌なのに不思議と品を感じさせるのは、それこそ守護の血というものだろうか。

「どうだ元長! 一万の兵だ、約束は守ったぞ」

からからとお笑いになる。元長も笑って答えた。

「約束通り? はて。約束はもうひとつあったはずですが」

「カカカ、相変わらず図々しい奴め! 安心せい、細工は流々仕上げをご覧じろ! 何せこういう仕事は、お前よりわしの方が向いているからな」

千熊丸には話の方向がよく分からないが、楽しそうな二人を見ていると胸が温かくなった。元長と持隆は本当に強い絆で結ばれているのだと分かる。父は持隆と話している時が一番伸び伸びしていた。

「おう、千熊丸もおったか! 随分立派になったと親父が喜んでいたぞ。早く大きくなって、親父を楽させてやれよ!」

持隆は千熊丸のことも気に留めてくれた。そのことも喜ばしかったが、元長が知らぬところで自分のことを褒めてくれていたことが、何よりも嬉しかった。

出陣は三日後。堺で足利義冬・細川六郎による閲兵を行った後、陸路を北上する。他にも詳細を色々と確認してから、二人は持隆と別れた。

 

出陣式には、堺の民も多く見物に集まった。海船政所の前に、一万五千の兵が集結している。畿内の兵は京や各地の城に散っているので、大半は四国衆である。山猿扱いされるのかと思っていたが、人気は思いの外高いようだった。千熊丸はつるぎ・与兵衛・与四郎と一緒である。

「母上、父上の人気は本当にすごいですね」

千熊丸が話しかけると、与兵衛が代わって説明してくれた。

「四年前の京での戦以来、元長様の武勇は天下に轟いています。それに、元長様の配下には名高い“鳴り物衆”がおりますれば。民もひと目見るのを楽しみにしていたのですよ」

元長軍の鳴り物衆については千熊丸も耳にしていた。元長は大太鼓・小太鼓・鉦・横笛を一組とした鳴り物衆を十組抱えている。攻め太鼓や引き鉦といったように鳴り物を軍に組み入れることはよくあるが、元長の鳴り物衆は通常の五倍以上の規模であった。本来、太鼓・小太鼓の一組だけで、千人程度の兵は充分に統率できるのだ。元長の直轄兵は二千名程度だから異常な鳴り物の数である。藍や材木の売買、堺商人との結びつきなどで培った、元長の財力あってのことだった。

出陣にあたり、三献の儀式が始まった。足利義冬と細川六郎が各将の杯に酒を注ぎ、鮑、勝ち栗、昆布をつまみながら三杯を仰ぐ。大将の元長が杯を地面に打ちつけた。紺糸縅の胴丸を身に着け、弓を高く掲げる。紺地に、三階菱と釘抜の紋を白抜いた軍旗が上がった。瞬間、元長軍の鳴り物衆が一斉に大太鼓を叩く。

 

地面が揺れたのかと、千熊丸は思った。凄まじい音量である。耳というより内臓に響くような感覚だった。更に、大太鼓に続いて小太鼓と鉦が一斉に打ち鳴らされ、一万五千の兵が鬨をあげる。集まった群衆もおおいに歓声を浴びせる。生まれてこの方、体験したことのない音の世界が広がった。比喩ではなく、世界が本当に一変したように思えた。

(音というものには、これほどの力があったのか……。この鳴り物衆を、父上はどのように戦で使うのだろう。父上の戦を見てみたい。……そうだ、よいことを思いついたぞ)

千熊丸は夢中になって、与四郎に何かを囁き始めた。

その間、隣にいるつるぎは震える指先を合わせて元長の無事を祈っていた。

 

  *

 

春が過ぎ、既に六月に差し掛かろうとしている。

元長軍と高国・村宗連合軍の対峙は膠着していた。元長は天王寺、高国・村宗は野田・福島などに布陣している(共に大阪府大阪市内)。敵は四国衆の精強ぶりを警戒し、これまで小競り合い程度の接触しか生じていない。いまは、両軍共に戦の機を伺っている状況である。

長引けばこちらが不利だと言われていた。既に高国・村宗は京都を奪還し、近江に逼塞していた足利義晴が嫌な動きを見せている。京を守備していた木沢長政は、不利を悟って軍を退いた。撤退の際には堂々と高国軍と交渉し、京市街の狼藉を未然に防いだ。更にその後、風雨に紛れて軍を逃がし、追撃をかわしたというので長政の声望はむしろ高まっている。敵前から逃亡しただけなのだが、民の噂とは奇妙なものだった。

加えて、備中奇襲の恐れがなくなったことから、赤松晴政率いる敵の援軍が向かってきていた。援軍が到着すれば、こちらが一万そこそこの兵力に対し、高国・村宗軍は二万を大きく超えてくる。そうなる前になんとかせよと、細川六郎からは何度も催促が届いた。

だが、それからも元長は動きを起こさなかった。そうこうしているうちに、赤松晴政が敵陣に到着した。

 

陣幕の中、元長・持隆・長逸が顔を寄せている。酷い蒸し暑さ、全員の顔に大玉の汗が浮かんでいた。そして、それ以上に瞳はぎらぎらと輝いていた。

大将は元長である。家格では持隆が大将を務めるべきだったが、戦は元長の方が達者だということで、持隆は自ら一武将に留まっているのだった。若くして三好家家老格を務める長逸はその勇将ぶりを買われ、決戦の際には先陣を任されることになっていた。元長が二人に念を押す。

「手筈は整った。万事、抜かりないようにな!」

持隆も長逸も、心から満足そうに頷いた。

 

天王寺の決戦は、六月四日明け方近く、敵方の混乱と悲鳴を契機に始まった。

助太刀に駆けつけたはずの赤松晴政が、突如高国・村宗軍を攻撃し始めたのである。大軍を恃んで天王寺至近まで進軍していた高国・村宗軍は、闇の中、背後から飛んできた矢唸りに度肝を抜かれた。赤松晴政殿ご謀反という叫びが混乱を加速させる。後陣の晴政が寝返ったということはすなわち、備中に至る退路を断たれたということだった。

高国・村宗陣の叫喚を感知し、元長はすぐさま進発した。鳴り物衆が“駆け太鼓”を鳴らし、兵たちは直ちに駆け足での行軍を開始。敵軍を捕捉した元長は軍を二手に分け、村宗に持隆を、高国に自身と長逸を当てた。

「突貫!」

鳴り物衆が“掛かり太鼓”を打ち鳴らす。鼓膜が裂けそうな激音が高国・村宗軍を芯から恐慌せしめた。逃げても逃げても、背中から鳴り物の音が追ってくる。潰走し始めた敵兵ははらわたを棒で混ぜかえされたような心地のはずだ。決戦は頭から追撃戦、虐殺戦の様相を呈していた。敵陣に突っ込んだ長逸たちが次々と敵将を突き、首を掻いていく。辺りはたちまち血で染まった。天王寺で始まった殺戮は、淀川を越え、尼崎まで続いた。首のない死体で、淀川のいくつかの支流が堰止まったほどだった。

 

敵方の主だった武将は皆死んだ。

浦上村宗も討死していた。村宗の供回り衆は最後までよく主君を護ったという。下剋上で名を馳せた男だったが、部下からは好かれていたのかもしれない。

細川高国は、大物(兵庫県尼崎市)の藍染屋の瓶に隠れていたところを捕縛し、近隣の広徳寺で自害させた。土地の子どもに高国を見つけたらまくわ瓜をたらふく食べさせてやると声をかけたところ、じきに居場所を暴かれたのである。かつて天下を支配した男の威光も、童たちには届かなかったらしい。

この百年でも数多の戦乱はあったが、これほどの壊滅的な戦いは類がなかった。運命の転変とはなんと激しく、虚しいことだろう? 人々はこの戦を以後、“大物崩れ”と呼んだ。

 

「やれやれ、命拾いしたよ。まったく持隆様のお蔭でござる」

元長は持隆に頭を下げた。

「カカカ、まあその通りだが。もとはお主の着想よ、ここは二人の手柄と思おうぞ!」

持隆も、からからと笑みを返す。

赤松晴政は、かつて浦上村宗に父を殺され、守護の実権を奪われた。その後は村宗の配下のように扱われて長年屈服していたのである。血筋以外に能のない男だから、恨みはあっても恨みを晴らす実力がないと見做されていた。

そこに調略をしかけたのが持隆だった。持隆の妻は中国地方の大大名、大内義隆の妹である。高国と村宗を滅ぼせば、赤松家の復興が叶う。堺公方府と大内家が東西から支援すれば、尼子家も手出しはできない。晴政はこの話に飛びついた。大内義隆も、尼子経久の牽制を狙って了承してきた。

祖父之長の頃、三好家と大内家は不倶戴天の間柄であった。しかし、元長にとって大内義隆は海外貿易を広げる上で協調するべき相手だったのだ。

かくして、中国地方をも巻き込んだ二人の外交戦略の甲斐あって、堺公方府は大勝利を収めたのである。

 

  *

 

千熊丸はこの戦の推移を、天王寺北の高台にあるとと屋の別宅から眺めていた。

決戦が近いと聞き、与兵衛に頼み込んで入れてもらったものである。もっとも、大きな戦の時は見物に出かける民も多い。頼まれた与兵衛もその気になり、与四郎を連れて一緒に来ている。つるぎは同行せず、元長宿所の顕本寺大阪府堺市)で勝利を祈っていた。顕本寺は法華の名刹で、元長は法華宗の有力な支援者なのだ。

 

日が昇る前、元長軍の鳴り物が響いてきた。そして、日が昇って遠目が利く頃には、猛烈な追撃戦が既に始まっていたのだった。離れていても敵軍の恐怖が我が身のように想像できる。暑さも忘れ、足先から背中、首筋まで、鳥肌と痺れが駆け上った。

(父上には……鬼神が憑いているかのようだ)

だが。勝利を確信した千熊丸は、むしろ今後の流れに思いを馳せずにはいられない。

(戦が終わって、政治が始まる)

父の戦いが今度こそ報われるだろうか。なぜだか、そうはならない予感がした。

 

続く