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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

五 祈りの段  ――細川持隆 三好家を後援し、三好千熊丸 虚空蔵求聞持法に挑む――

五 祈りの段

 

元長の一周忌は、持隆にとっても溜飲が下がる思いであった。

手打ち式の守衛は通常、仲介人が行う。それにかこつけて元長を慕う人々を守備兵に紛らせ、石山本願寺の中へ埋伏させておいたのである。参列者の手配が直前になったのがかえってよかった。会場守備に対する宗三の下調べは微に入り細を穿つものであったため、前もって準備をしていれば直ちに露呈しただろう。手打ち式の直前数日、宗三は和睦条件の最後の詰めにかかずらっていたのだ。

一時は本気で六郎を仕留めるつもりだった。本願寺と手を組み淡路を挟撃していれば、今頃は六郎の首を元長の墓前に供えていられただろうが、それで元長が喜ぶとは思えなかった。六郎を殺せば、畿内は更に荒れる。堺も衰亡し、海外交易の息の根が止まる。それだけは避けたかった。潰えた夢であっても、堺を出入りする大唐船を眺めていればその名残を感じることはできた。

それに、元長の遺児、千熊丸がいた。生前、元長は千熊丸の将来を非常に嘱望していた。あの時、元長が堺に残って時間稼ぎをしたのも、千熊丸に望みを繋げたからであろうと思っている。実際、今回の和睦斡旋や一周忌の着想も含め、千熊丸は実に非凡であった。思考に枷や制限がないのだ。千熊丸とその弟妹を元長に代わって育て上げることが新たな夢になりつつあった。

(子どもを持つとは、こういうことだろうか)

持隆には子どもがいない。それどころか、近頃は男色へ関心が移っている。持隆は諸肌脱ぎで馬に乗り、道行く人に立派な胸毛を惜しげもなく見せびらかしている。その胸毛を見つめる民の目つきで男色の気があるかないか判別すらできるようになっていた。

持隆の妻は西国の大大名大内義隆の妹である。かつて大内の先代、大内義興と四国衆は敵対する間柄だった。元長の祖父である三好之長を追いやり、京を支配したのが細川高国と大内義興だ。その後、中国地方で尼子経久が台頭し始めたため、義興は急遽帰国することになった。尼子への牽制もあって、四国衆と大内氏の関係は急速に改善することになる。その動きのひとつが持隆と大内との婚姻だった。

その大内は、博多を通じた明や朝鮮との交易で莫大な財を築き、世に大内風と名高い数々の文物を花開かせている。自然、博多や防長から阿波へ書籍、連歌、能、水墨画など、様々な大内好みの品や技能が流れ込んできた。男色の流行もそのひとつである。嫁いだ先に男色を伝播してしまうとは、妻はさぞ実家を恨んでいることだろう。

 

本願寺での一周忌の後、持隆と三好家一行は堺へ立ち寄って、あらためて顕本寺にある元長の墓へ参った。墓には近隣の者によって夏菊が供えられている。最期の時、傍らに置かれた元長の兜には夏菊が一輪挿してあったという。また、顕本寺の本堂には、元長のものだという血の跡がいまも消えずに残っている。一同は元長の死にざまを思い浮かべ、止めどなく涙を流すのであった。

 

三日ほど休息の時間を設けた後、堺の持隆屋敷にて三好家の今後の方針を話し合った。

持隆は三好家の主家に当たるが、頭ごなしにあれこれと指示する気はない。阿波では守護と守護代が親戚か友達かのように仲良く付き合う風があった。これは近年極めて稀なことで、出雲の尼子経久、越前の朝倉孝景、越後の長尾為景尾張織田信秀など、守護代やその配下が守護をも凌ぐ権勢を手にした例は枚挙に暇がない。それでも、元長亡き三好家をあえて圧迫する気にはなれなかった。

評定は持隆と長逸・康長の合議を基軸に、意見があればつるぎと千熊丸が口を挟むという体で進んだ。そうして決まった方針は次の通りである。

千熊丸の元服を待った上で、三好家再興の動きを起こす。

但し、堺公方府の復活にはこだわらない。政治上の目標は千熊丸が追って判断する。

千熊丸の元服まで、長逸が代わって畿内の地盤回復に努める。

康長とつるぎは、その間阿波の地盤固めと千熊丸を含めた元長遺児の育成に尽力する。

一同がいかに千熊丸を恃みに思っているかが、よく分かる内容であった。それだけ千熊丸の英邁ぶり、更には今回の活躍が皆の心を打ったということだ。堺公方府の復活にこだわらないという点は、あえて持隆が主張した。成長した千熊丸がどのような政治感覚を培うか、持隆はいまから楽しみであった。

 

  *

 

更に一年が過ぎた天文三年(1534年)の夏、京の都。

応仁の乱から衰微を続けていた祇園祭が、今年は大々的に開催されている。稚児披露に神輿洗い、山鉾巡行、各種神事と、ひと月に亘って続く壮麗な祭事に宗三もおおいに心を奪われた。何箇月も町衆や叡山、朝廷などと地道な調整を続けてきた甲斐があったと思った。

 

あの元長一周忌の後、六郎の声望は急速に回復していた。持隆と千熊丸が、この一周忌は六郎の寛大あってのものと世論を誘導したのだ。あれで六郎贔屓の民が増えた。その後、宗三や長政が本願寺に従わない一揆残党や細川高国残党を着実に掃討したこともあって、畿内には平穏が戻ってきている。六郎と共に宗三や長政の世評も高まるばかりだ。

それでも宗三自身にとって、山科本願寺の焼失や元長一周忌の運びは失点、屈辱に他ならなかった。もっと、よりよい手は打てたはずなのだ。持隆や千熊丸に借りをつくったようなのも気に入らなかった。持隆は畿内情勢への不干渉を貫いているが、元服した千熊丸が畿内に帰ってくると厄介である。

最も世を驚かせたのは三好千熊丸なのだ。弱冠十二歳の少年が天下の乱を鎮めたという噂は、武家一向宗、堺商人などの情報網に乗って日本国中に広まっている。幼少を理由に阿波から出てこない点も千熊丸の神秘性や話題性をかえって高めていた。一応は細川六郎配下という体裁だから、公家や坊主、町衆、更には将軍の足利義晴などが、千熊丸をひと目見たいと六郎に求めてくるのだ。そんな時、六郎は決まって不機嫌になった。

 

この祇園祭の再興で、世間の話題は六郎に向くはず。

それに、大内義隆織田信秀など各地の富裕層による猟官活動も活発になってきた。特に織田信秀は嫡男が誕生したこともあって、献金額を惜しまない構えである。取次ぎを頼まれる六郎の名声や財も、これから自然と高まっていくだろう。おいおい、六郎も細川宗家が代々受け継いだ官位、従四位下右京大夫を得る見通しだった。

こうした動きは自分の調整あってのものだと自負している。政権を獲った後に物をいうのは強大な武力や奇抜な着想ではなく、確かな実務の積み上げなのだ。公家や公方などとの折衝経験を経て、宗三の目配りや段取りの力は一層磨かれている。四国衆やあの油断ならない長政にはこうした点が足りない。

(そうとも。要は六郎様の政権を盤石にしさえすればよいのだ。わしが、そうしてみせる)

六郎が京に移ってから、宗三はいままで以上に忙しい日々を送っている。それでも、疲れは感じない。眠らなくてもよい身体が欲しい、もっともっと力を尽くしたい。そう思う自分はいま、幸せなのだろうと思った。

 

  *

 

四国での地盤固めは順調に進んでいる。

阿波の篠原氏、讃岐の十河氏、更には淡路の安宅氏や野口氏など、近隣の有力国人とはこれまで以上の友好関係を築くことができていた。義冬も持隆も特段の動きを起こそうとしていない以上、四国衆が将来性を感じられる勢力は三好家だけなのだ。女当主のようになったつるぎの才覚は国人衆に負けるものではないし、千熊丸の将来性もおおいに期待できると噂されていた。

その若殿はますますの発育ぶりである。身体が成長期に入ったのか、この一年で上背が随分と伸びた。周囲には知られていないが、元長伝授の鍛錬は毎朝欠かさず続けられており、木剣を振るう音にも凄味が出てきている。まだ組打ちでは康長に及ばないが、あと数年で並ばれてしまう気がした。政務者としての要領も飲み込みが早く、康長や長逸への適切な指示振りには驚かされるほどである。堺などの畿内各地とも頻繁に文や書籍のやり取りを行っているから、政情や流行にも如才なく通じていた。

千熊丸の弟妹たちも負けず劣らずの成長を見せている。長女のいねはつるぎに似た器量よしで、肝も太い。将来はどこかの有力大名へでも嫁ぐのではと噂されているが、本人は元長に並び立つ武将でないと嫌だと言っている。婿選びには難儀しそうだった。

二男の千満丸、三男の千々世も幼い時の千熊丸同様、傑出したものを見せ始めている。付け加えて千満丸は茶の湯、千々世は歌に関心を示していた。これは元長に見られなかった好みで、つるぎの影響なのだろう。教養はあって邪魔になるものではない。堺公方府での経験で、畿内の人間と付き合う上では不可欠なものだと康長も身に染みて感じていた。都会で生まれ育てば、茶の湯連歌、能、香合せ……などの感覚、更には古典や名所名跡の知識などが自然と身についている。それに引き替え阿波猿の蛮族ぶりよと、嘲られたことは一度や二度ではなかった。

末子の又四郎はすくすくと大きくなって、今年で三歳。腕白で明るく、同年代の子どもを集めて戦ごっこなどに夢中だ。力は幼児と思えぬほどに強く、声は歴戦の古強者のように大きい。元長を知らずに育ったはずが、なぜか一番元長に雰囲気が似ていた。子どもたちを率いて“それ、せめあげろ、とっかん!”などと叫んでいる様子には、幼い頃の兄を重ね合わせに見てしまったほどだ。

(いつか、又四郎と共に戦ってみたいものだ)

そう願ってしまう自分がいる。兄の死をいまも引きずっているのだ。

昔から、人の死を割り切ることができなかった。

館には仏壇を設け、元長のものも含めた、夥しい数の位牌を並べている。すべて康長と共に戦った者、共に生きた者たちだった。その位牌一つひとつを拭っては死者へ語りかけるのが康長の日課なのである。

「兄上。口さがない世間は、三好は短命の一族、祖父之長の悪業に呪われた一族と抜かします。確かに父上の死も、兄上の死も、あまりに早過ぎました。残された我らは途方に暮れたものでした。偉大な兄を持ったわしは情けないものでしたぞ。このまま兄の無念を晴らすこともなく朽ち果てるのかと、涙を流さぬ日はありませなんだ。ですが、それがいまでは随喜の涙に変わってきています。兄上が遺した子どもたちは皆、素晴らしい成育ぶりですぞ。我らはあの子どもたちに励まされ、望みを保つことができているのです。まことに兄上の命が星となって、あの子たちの身体に流れ落ちたのではないかと思わずにおられませぬ。どうか兄上、天からご覧くだされ。どうか、子どもたちをお守りくだされ……」

呟きながらつい頬を濡らす日も多かった。そうして、いつも最後にはこう祈るのだ。

「もうこれ以上、位牌を増やしとうない。次の位牌こそはわしのものとなりますよう……」

 

  *

 

秋が訪れた。今年は紅葉が早く、瀧寺のもみじは早くも色づきだしている。

 

散らねども かねてぞ惜しきもみじ葉は いまはかぎりの色と見つれば――

 

そんな歌を口ずさむ母の後ろを子どもたちがついていく様子には、なんとも言いようのない情趣と、平穏が感じられた。又四郎も千々世に手を引かれながら懸命に山道を登っている。

一行は二の滝の傍に腰を下ろし、もみじ狩りに遊んだ。かつて弘法大師が修行したという滝にもみじの色彩が重なる景色はとりわけ美しく、眺める者を飽きさせない。子どもたちはもみじを拾っては、私の方が赤い、おれの方が形がよいと競い合った。

帰り道に住職を訪う。住職はこの界隈では随一の知識人として知られていた。つるぎはしばしば千熊丸に漢籍や弁論を学びに行かせたものだ。

「千熊丸の元服まであと一年と少し。住職殿、それまでに何か、もう一段の学びを授けられませぬか」

「そうは言ってもの……。この若君には大抵のことを教えてしもうたし。聡い子なのじゃから無理に添え木をしようとせず、野に育てさせては如何かの。ゆくゆくは充分に名誉も果報も手に入れることができよう」

「いえ、そのような推量は当てにできませぬ。未来はあくまで不確かなもの、あらかじめできる限りの努力を行うのが人間の知恵というものでしょう」

つるぎは譲らない。千熊丸は母と住職のやり取りを黙って聞いていた。元長の死を経て、母の教育熱は高まるばかりである。母の慰めになるならと千熊丸も進んで受け容れ、様々な学問を積んできた。そのことが当主の重荷を忘れさせもしてくれたのだ。

「四国史上で一番の英雄を育て上げるつもりで、知恵を絞ってくだされ」

「ははは、弘法大師の御母堂になるのがお望みか」

住職が苦笑した。だが、つるぎの瞳が輝きを増していくのを千熊丸は見逃さなかった。

「なるほど、弘法大師か。……なるほどのう。千熊、母はよいことを思いついたぞ」

常にない迫力を母の視線から感じた。

「求聞持法。虚空蔵求聞持法の行を執り行おうぞ」

「そ、それは幾らなんでも無茶というものじゃ。求聞持法の内容はつるぎ殿もご承知であろ。英明とはいえ、まだ十三の、それも三好家のご嫡男に進めるような代物ではありませぬ」

「いや、思い起こせば吉野川に毎夜祈りを捧げた末に生まれたのがこの子。その甲斐あってか幼い時から仏の子とも言われてきたのじゃ。むしろ求聞持法くらいやり遂げて当然というもの。そう、将来の栄達を得るためには百日くらい城を空けても構わぬ」

母は、確かに“虚空蔵求聞持法”と口にした。まさかと、さすがの千熊丸も少なからぬ怖じ気を覚える。求聞持法とは四国ではお伽噺としてお馴染みである。寺などに籠り、毎日一心に虚空蔵菩薩真言を唱える。それを百日続け、きっかり百万遍真言を唱え終わることができたなら。あらゆる事象を理解し、また、覚えることが可能だという。かつて弘法大師空海が達成したというが、伝説はあくまで伝説である。

「本気ですか、母上」

「本気かなどと、武士とも思えぬ意気地のなさ。本気も本気、真剣に考えた末のこと」

(いま思いついたと仰ったではありませぬか)

そう思ったが、言えば話がややこしくなりそうだった。

「なんじゃその目は。やるのか、やらぬのか。城のことは康長殿もおる、安心せい」

住職があきらめずに思いとどまらせようとした。

「本当にやめた方がよい。過去、求聞持法を達成した者などほとんどおりませぬ。それどころか、頭が狂って命を失ったものすらいるのですぞ」

「なんの。これくらいのことがやり遂げられぬようで元長殿の無念を晴らせようか。千熊丸を常人と同じ尺度で測ってはならぬ。世の中には百日間、十万の兵を相手に籠城してみせた男もいたのじゃ。なぜ千熊丸に同じことができないと言い切れる」

母は千熊丸に対して確固たる信頼を置いている。そして、日頃から千熊丸の育成について思い悩んでいる様子もあった。既に、思いつく教育はすべて与え切ってしまったのだ。それでも千熊丸の器は満たされていない。このまま元服し、母の手元を離れていってもよいのだろうかと自問している節があった。

母の心情をなんとなしに察していたのは、自身も同じような思いを抱いていたからに他ならぬ。自分でももう一枚殻を破るために、何か大きな挑戦をする必要があると思っていた。大抵のことはやすやすとできてしまうが故に粘り腰だとか、逆境を打ち砕くような迫力が足りない。知恵ある者にはそう見抜かれるだろうし、実際にそうであると自覚もしている。唐突さに驚きはしたが、求聞持法ならば超えるべき目標として不足はない気がした。つるぎの言う通り、戦でも政治でも、いずれ艱難には遭うのだから……。

「分かりました、やってみせましょう」

千熊丸がそう言い切ると、住職は諦めたのか低いうなり声を発し、

「どうなっても知りませぬぞ」

と、負け惜しむように呻いた。

寺の外では、何も知らない弟妹たちが走り回っている。

 

  *

 

一揆や高国の残党狩りに、五百名ほどの手勢を率いて畿内を転戦していた。

宗三や長政の指揮下に入ることもしばしばである。宗三の、六郎家老としての才腕には敬意を抱いていたが、やはりこの二人の旗下で使われることは不愉快だった。ただ、長逸は感情を面に出すことはない。個人的な鬱屈よりも任務の遂行を大事にしたかった。実際、長逸は六郎配下の中でも目覚ましい戦果を上げている。

今回の出陣でも、波多野稙通と共に丹波の奥深くに潜んだ高国残党を散々に打ち破った。土地勘のある波多野の兵が敵を捕捉し、上手く窪地へ誘導した。そこへ先陣を切った長逸勢が逆落としに敵陣を穿ち抜いたことで、早々に趨勢が決まったものである。丹波衆とはかつて気まずい関係にあったが、こうした縁を幾度も紡いできたことにより、少なくとも稙通とは厚い信頼関係が織り成されている。

「長逸殿よ。もう、六郎政権に挑む者はいなくなったかな」

「そうですな。強いて言うのなら……畠山尾州家の動きが気にかかるくらいでしょうか。木沢長政の一件で総州家が没落し、河内や紀伊での権勢を随分回復したようですし」

「あそこの当主はたいした器量でもないと聞くが」

「それはそうです。ただ、遊佐長教という者がいて、こやつは油断ならぬ狐男との風評」

「左様か。木沢長政殿も相変わらず腹に一物ありげだし、河内という国はなかなか落ち着かないものだな。源氏の祖国だというのに情けないものだ」

「その源氏自体、内輪揉めが大好きな一族ですからな」

「違いない。ははは」

戦の帰路、長逸と稙通は馬を並べて進んでいる。戯れ言を言い合うくらい気安い仲になっていた。

「河内もそうだが、四国はどうなのだ。六郎殿はいまでも阿波の動きを一番警戒していると聞くぞ」

「それがしが身を粉にして働けば、そういう疑念も晴れていくと信じております」

「ふふん、長逸殿らしい答えよな。そちらの家中はどうだ。あの薫る中将殿はお元気にしているか」

「それは、殿のことでしょうか」

「あまねが、よい薫りがしたと申しておったよ。あれ以来何かと若殿のことを気にかけておる様子。元長殿の一周忌にも一緒に行きたがっていたしな」

「ほ。何やら甘酸い話ですな。文でも預かりましょうか」

「いや、それはよしておこう。最近は生意気でな。わしが勝手なことをすれば五月蝿い」

 

八上城へ戻る稙通を見送り、二人は別れた。長逸の手勢は日頃京か堺に滞在し、京の町衆や堺の豪商などとの関係強化に努めている。これからは堺へ向かってとと屋などと商談を行う予定だった。

稙通の娘、あまねが千熊丸に興味を抱いているという話には爽やかな驚きを覚えた。そう言えばかつて丹波を訪れた際、千熊丸もあまね姫が品のよい香を焚いていたと話していた。顔立ちやら気立てやらなら分かるが、匂いが取り持つ縁というものがあるのだろうか。古の貴族ならともかく、山岳武士の間では珍しい話だと思った。

その若殿が求聞持法に挑むという話を聞いた時は、さすがの長逸も反応に困ってしまった。細川宗家の内乱が起こったのは、そもそも細川政元という当主が飯綱の法という呪術に嵌ってしまい、政務や世継ぎ問題を打っ棄ったことが発端である。そういう憂慮をされぬよう内密に執り行うとは聞いているが、人の口に戸は立てられぬ。もっとも、本気で神秘の力を会得したい訳ではなく、根性試しのようなつもりなのだろう。四国の男として求聞持法に対する憧れは理解できた。

その求聞持法は、祖谷(徳島県三好市)で九月下旬から開始し、ちょうど元旦に成就する予定だという。大龍寺(同阿南市)や焼山寺(同名西郡)で行うことも検討したが、真言宗高僧の占術では祖谷が良地ということになったらしい。人目を避けるには都合がよく、それならと受け入れたものだ。

(なんにせよ、お身体を痛めねばよいが)

行の成功よりも身体の無事を先に祈ってしまう。年をとったかと、一人ごちた。

 

西国街道に出て、西宮付近まで進んだ辺りでけしからぬ噂を聞いた。

淀川支流の河口付近に平蜘蛛町なる色里ができて、近年大変な賑わいだという。一揆が金品強奪などで得た不正な銭も随分流れているようだった。もちろん税などは納めておらず、荒くれを率いて役人を追い返しているらしい。

「わしが領主ならば、そのような輩をのさばらせてはおくまいに」

一応調査するよう配下に命じた。すると、雑兵たちのほとんどがその平蜘蛛町のことを既に知っており、暇を見つけては足繁く通う者もいるという。思った以上に存在感が高まっているようだった。

 

  *

 

芝生から吉野川を渡り、南へ向かって山中を歩き抜いた先に祖谷はある。直線距離では芝生からそう遠くないが、実際に歩いていくとなるとひと苦労だった。芝生も充分山里ではあるが吉野川の水運もあって鳴門などと交流がある。一方、祖谷はかつて平家の隠れ里だったというくらいに世間と隔絶しているのだ。祖谷に近づくにつれて、川や谷の間にはかずらで編んだ橋などが見られるようになっていく。これも追っ手が迫った際に容易に落とせるよう、平家落人が考案したものだという。

同行はつるぎと供回り数名、真言宗の僧侶たちだけである。例によって康長が留守と子守りを頼まれていた。つるぎは徐々に健康を回復していたが、いまも万全とは言い難い。城に残るよう勧めたが、頑として聞き入れなかった。置いていっても後から来てしまいそうで、結局千熊丸が折れた。いまもつるぎは平然と山道を歩いているが、命をすり削るようなことにはならぬかと気がかりはつきない。求聞持法よりも、むしろ母の健康が気にかかった。

 

祖谷に入り、一行は好奇の耳目を集めた。芝生の人間ですらこの辺りの民には珍しいらしい。土地の古老には前もって使いを出していたため、滞りなく宿所に入ることができた。なかなか立派な茅葺の屋敷である。かつて落ち武者が多く住んでいたというのも案外本当のことかもしれない。

続いて求聞持法の準備である。僧侶たちと古老が議論し、場所は里に程近い洞窟が選ばれた。洞窟は大人が数人入ることができるほど広い。ここも平家にまつわる伝説があるようだった。

洞窟の中に僧侶たちが祭壇や燭台、茣蓙を設置していく。さっそく、明日から行が始まるのだ。

 

早朝。洞窟の中で千熊丸が中央の茣蓙に座り、周囲に座った三名の僧侶が記録を務める。秋深く、洞窟の中は厳しい冷たさである。それでも、寒さがかえって心魂を研ぎ澄ましている実感があった。

同行している僧侶は全部で十二名、うち九名が記録係、三名は瀧寺の住職を含めた見届け人だ。記録係は三名ずつ、一日ごとに三交代制で行う。三名はそれぞれ千熊丸の唱えた真言の数を記録し、一日の終わりにそれを突合。三名の突合が一致しない時は、二名が一致していればその数を採用する。なにせ一日当たり一万遍の勘定だから、記録係にも細心の注意と充実した気力が必要である。

求聞持法で唱える真言は“のうぼうあきゃしゃきゃらばやおんありきゃまりぼりそわか”というもので、これを一日一万遍唱えることを百日間続ける。何度か実際に試したが、日の出から日の入りまで唱え続けても七千五百回というところだった。しかも真言は正確に唱え、数は一万回ちょうどでなくてはならない。心身に与える負担は相当のもので、命を失う者がいるというのも誇張ではないようだった。

 

高僧による加持祈祷を行った後、いよいよ求聞持法を開始した。

千熊丸はすらすらと真言を唱え、百回を数えたところで深い呼吸を十回行う。そして、また百回唱える……ということを繰り返した。正確に百遍ずつ、一定の調子で数が積みあがっていく。

事前に唱え方については色々と試してみた。蝋燭の溶ける速さに合わせるようなこともしてみたが、蝋燭の品質が安定しておらず上手くいかなかった。結果、百遍ずつを百回繰り返すというやり方が信頼できそうだと分かった。百と百を、十と千に変えては駄目なのだ。どうやら、人間が気持ちよく覚えていられる数は百までのようらしい。

昼、しばしの休息を取った。行の間、女人は洞窟に近づくことができない。非番の僧侶が用意してくれた粥を食べ、冷え切った身体に僅かな温もりが戻る。その後も真言奉唱は順調に進み、夕刻に再度休息を取った後、再び真言を重ねた。唱え終えた数は無事、一万遍であった。

まだ初日を終えたに過ぎないが、肉体の苦痛は激しかった。堅い岩肌に茣蓙を敷いただけだから足や腰が固まってしまい、歩くのも難しいほどである。身体も芯まで冷えて歯の根が合わない。喉は既に会話が困難なくらいに枯れている。見かねたつるぎと供回りが近くで湧く温泉の湯を運んできて、足を浸けるように勧めてくれた。つるぎは肩や背を揉んでもくれる。そうこうしているうちに、千熊丸は布団に入ることも忘れて眠り落ちてしまった。

 

  *

 

千熊丸の身体がみるみる衰弱していく。自分が代わってやりたいと何度思ったか分からない。自ら考案した行ではあったが、子が目前でやつれていく衝撃はやはり大きかった。親の目ながら、千熊丸はたおやかで品のある貴公子だ。その子がいまや眼は落ち込み、肌の水気は失われ、頬はこけてしまい、まるで幽鬼のような相になってしまっている。足腰が痛んで満足に歩けないさま、かすれ声を絞り出すさまなどは寒村の老爺のようだった。千熊丸は毎日、夜明け前から参った身体を奮い起こすように四股や素振りを行って、それから洞窟へ入っていく。宿所に帰って来て眠るのは深夜である。目を背けることもできず、さりとて一緒に苦しみを分かち合うこともできず。つるぎも宿所に籠って同じように祈りを捧げる日々を送っていた。

 

千熊丸の様子が変わってきたのは三十日を過ぎた辺りである。身体の衰弱は変わりないが、瞳の輝き、底堅い精気の光が増している。弱気は微塵も感じない。千熊丸は一言、

「もう、慣れました」

と呟いた。異常な責め苦が、もはや日常となった。日常と異常の境を越えたのだ。この境地に達したのなら目的は果たしたも同然だった。歴戦の武者だけが持つような肝の太さが手に入れば、今後どのような辛苦に陥ろうとそうやすやすと潰れはしない。内心、身体の弱り次第によっては求聞持法を止めてもよいと思ったが、千熊丸はその後も平然と行を続けた。

 

六十日が過ぎた。厳冬である。山深い祖谷の地は雪に覆われ、時に人家の内ですら凍りつく。洞窟の中がどれほど凍てついているものか想像するだけで恐ろしかった。それでも千熊丸はゆったり気に行を進めている。周りの僧侶たちの中から身体を壊す者が出始めていた。

「父母の恩、祖先の恩、いまこの時に生を受けた恩。ありがたさの本性というものが分かった気がします」

本当に聖のようなことを言い出すようになった。

 

九十日。一日一万遍はまったく澱む様子がない。満願成就は確実だと思われた。祖谷の人々までが驚異の眼差しで洞窟を見守っている。僧侶も山人も、そしてつるぎも、このような人の姿を見たことがない。この子はまさしく虚空蔵菩薩がこの世に顕現した姿ではないかと人々は噂しあった。

「花は一年、人間なら五十年。生き物は決まった時間を生きるようにできています。同じ調子で繰り返す真言の一遍一遍がまるで私にはひとつの命のように思えてきました。そう思えば、一日に一万回の一生を生きたように感じられるのです。そう感じれば、自分の命すら草木と同じように扱える気がするのです」

千熊丸のこんな話しように高僧たちが熱心に聞き入る夜すらあった。

 

  *

 

大晦日の夜更け、九十九万遍目を仕上げた。

それではと立ち上がりかけた周囲の僧侶を制し、千熊丸は言った。

「いえ、このまま一万遍を続けます」

僧侶たちの驚きに構わず、千熊丸は真言を唱え始めた。こうなれば記録係も付き合うしかない。

更なる深淵にまで辿り着いたのか、疲れも、寒さも感じなかった。大いなる力が身体に降りてきたようだ。百遍、百回という意識も消えて、身体は真っ白な空間を飛翔し、果ては星空の海を泳いでいく。あの月を越え、日輪を越え、北斗星の頂へと至れ――。

 

天文四年(1535年)、元旦の正午。千熊丸は虚空蔵求聞持法を遂げた。

僧侶たちは涙を流しながら仕舞儀式の祈祷を行った。気がつくと洞窟の外が騒がしい。正月の行事も忘れ、祖谷中の人々が集まってきているようだった。

表に出ると、つるぎが飛びついてきて千熊丸を抱きしめた。同時に群衆の歓声が湧き起こる。

「本当に……、本当に……」

つるぎは何か言おうとしているが、嗚咽して声が出ない。

「母上、腹が減りました。正月らしく餅でも食わしてくだされ」

笑いながら、千熊丸が母を抱き上げた。

 

一行は、あらためて祖谷の人々から歓待を受けた。正月料理のお相伴ということで、山村ながらに膳はなかなかに豪華である。中でも、トチ餅の素朴で滋味深い味わいときたら。千熊丸は染み入るような喜びを抱いた。凝縮した山の霊気が身体の痛みを癒してくれるようだった。

呆れたことではあるが、餅にかぶりつき、酒を飲み、村人と語らいなどとしているうち、求聞持法を行っている最中に抱いた神秘の高揚感は消え去り、以前と変わらぬ日常の人格がそのまま戻ってきていた。いまとなっては坊主のような発言をしていたことが気恥ずかしくすらある。どこまで行の効果があったか知れたものではないと、顔に苦笑いが浮かんだ。

(母上に喜んでいただけただけでもよしとしよう。虚空蔵菩薩よ、ご利益を賜れるならば何卒母の安息を授けたまえ――)

祈ったまま千熊丸は崩れ落ち、宴席の場で鼾をかき始めた。

 

それから十日ほど、身体を癒す目的で祖谷に逗留した。高僧たちはいっそのことと出家を勧めてきたが丁重に断った。更に、公の記録には残さないよう念を押す。政治を行う上で宗教性を帯びることは諸刃の剣なのだ。虚空蔵菩薩の霊験で裁決を下した、などと言われるようになっては堪らない。

祖谷の森林を散策し、琥珀色の深い輝きに包まれた谷川などを眺めているのは例えようもなく愉快だ。坊主になる気はないが、世を捨てて仙人か天狗のように暮らすのは悪くないと思った。切り立った崖の上でぼおっとしていると、土地の子どもたちがやって来て度胸試しだと崖から小便を放つ。怖じ気ついてできない幼子がいたので、私も付き合うからと励ました。子どもたちは菩薩様も小便をするのかと囃した。

平家の末裔だと名乗る古老にも出会った。

「菩薩の若殿よ。そなた、天下を獲る気はあるのか」

「公方や細川家に取って代わるということですか」

「くっかかか。里の人間はすぐにそういう心得違いをするの。違う。まるで違うぞ。その時その時の支配者の座などどうでもよいこと。……いまでも真に天下を治めているのは、平清盛公なのだから」

 

続く