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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十一 いかずちの段  ――三好長慶 西宮に地歩を固め、細川持隆 尼子新宮党の補給路を断つ――

十一 いかずちの段

 

西宮の民は、正式に領主となった長慶を盛大に迎えた。

西宮は古代から京と西国を結ぶ陸海交通の要衝であり、商工業や廻船業が栄えている。西宮神社の祭典やえびすかきと呼ばれる傀儡芸など、洗練された風流がよく根付き、まさに摂津国を代表する都市だった。

かつては三好之長と在地領主の瓦林氏が争いあったが、近年では海運諸都市をよく保護した元長の遺徳もあって、三好家への親しみはなかなかのものである。新たに越水城主となった長慶は若年ながらも幼少時からその活躍が噂されており、奉行としての才腕、連歌や古典を中心とした教養、更には今回の六郎を相手に回しての駆け引きなど、その有能ぶりを示す事例は枚挙に暇がない。西宮の民は六郎や尼子との戦に怯えつつも、新たな領主の可能性を強く期待しているようだった。

さっそく、民たちから祝いの品々が届けられた。多量の銭や兵糧に加えて、名産の名塩和紙や蝋燭、酒などである。近頃この辺りでは酒の醸造が盛んで、その美味は京や堺でも知られていた。挨拶に来た町の代表者が少し自慢げに話す。

「この辺りは昔から水がよいことで知られています。それに勤勉勤労、努力を尊ぶ民の気質。酒造りも改良に改良を重ねることでこの味を生み出したのですよ」

樽から、枡に酒を移してもらった。芳しい匂いが鼻孔をくすぐる。目を閉じた。よく磨かれた米と、清冽な水、麹師や酒師たちの真摯な思い。田、泉、酒蔵の光景が次々と脳裏に映った。少量を口に含む。神々しい。一滴一滴が光の粒になって消えていく。追いかけて、ひと口、ふた口とすすり込む。羽毛のように喉を酒が愛撫していく。快感。胃の腑から甘い香気が立ち昇る。これは蜜、いや花、いや竹だろうか。

「……素晴らしいな。ただただ驚いた。酒とは、こんなにうまいものだったのか」

民たちの顔に喜びと誇りが浮かんだ。選りすぐりの旨酒を持ってきたに違いなかった。

「それはようございました。土地の者も、神仙の妙味と言って愛でております」

「ほう、それは上手いこと言うものだ。竹林で清談を交わす賢人、雲海を飛ぶ鷹、神域から使わされた鹿。確かに、そういう霊験ありげな味であるよ」

「恐悦です。よろしければ、いずれ酒蔵にもおいでくださいまし。職人たちの励みとなりましょう」

「それはよい。きっとそうしよう」

感に入った民たちが扇と鼓を持って歌い始めた。

 

みよし野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり――

 

三好家にかけて気を利かせたのだろう。春には早いが場の色めきに合致している。扇を持った男が見事な舞を披露した。民、三好家臣の違いなく、合いの手やかけ声が飛び交う。民の舞が終わった後はこちらの家臣が阿波の勇ましい歌を披露し始めた。いつしか全員に酒が回され、場は宴の様相を帯びている。気づけば、長慶も民たちと肩を抱き合って歌っていた。

 

「新五郎……水をくれぬか」

生まれて初めての二日酔いだった。父がなっているのを見たことはあったが、見るとなるとでは大違いだ。驚くほどに何もする気が起きない。無理に身体を起こしても地面が揺れているのだ。小姓の和田新五郎が水を持ってきた。半分ほど飲んだが、後は身体が受け付けなかった。

「殿、そのお身体で政務は無理でしょう。お休みになっていては如何ですか」

「馬鹿を申すな。まずは鍛錬よ。四股を踏んで刀を振れば治る」

「せめてもう少しお休みを。そうだ、安芸の毛利元就殿から書状が届いております」

「む……。そうか、見せてみよ」

脇息にもたれて文を読む。六郎との和睦および摂津下郡領有の祝いを、細々とした長文で記してある。“西宮は美酒の地故に、深酒にはくれぐれもご注意”などという記述があり、驚いてしまった。まるで行動を見られているようである。

「新五郎、返礼に昨日の酒を何樽か贈ってやれ」

「は」

長い文章を読んだせいか、少し頭が冴えた。場内の奥庭にて、幼少時と変わらぬ鍛錬をいつも以上の時間をかけて行う。汗をかくことで、身体の澱みが散っていった。

 

部屋に戻ると長逸と斎藤基速が待っていた。女中頭のおたきが持ってきた湯漬けを食べながら、摂津下郡の政情について報告を聞く。想定通り、京で思われている以上に摂津は豊かだった。農工の生産高、商い高、民の数、交通量。いずれも年を追うごとに増加している。

その分、近隣には有力な中小国人が多かった。池田氏や伊丹氏などは侮りがたい実力を有しているし、宗三とも長政とも繋がりが深い。宗三は早晩六郎政権内での権勢を回復させるだろうし、長政は長慶とも六郎とも対立姿勢を明らかにしてくるに違いない。今後東側からの圧迫が強まるのは必然だった。

西側の脅威は何と言っても尼子である。播磨の赤松は既に敗れ、いまは三木の別所氏が必死の抵抗を続けている。別所の次は長慶の番だった。大内や毛利の動きも活発になっているが、尼子晴久がいつ撤退するかは分からない。いまも長慶のもとへは、尼子への寝返りを促す密使が無数に届いていた。

「東では国人衆の離合集散、西では大国同士の争い、ということだな」

「は。南は我らが地盤の四国と淡路ですが」

「北の丹波との縁を、深めねばならん」

長逸が意を酌んだように頷いた。そこに、基速が報告を付け加える。

「殿。淀川河口辺りに、平蜘蛛町という色里があるのをご存知でしょうか」

「聞いたことはあるな」

「この十年ほどで急速に成長した町ですが、いまでは大変な力を有しています。小さな色里ではありますが、畿内中から銭や情報が流れ込んでいるのです」

「面白いではないか。まずはそこをなんとかしろと言うのだな」

「これまで領主へ税を納めたことがない上、使者に乱暴して追い返すこともしばしば。治安の安定という面からも捨て置けませぬ。いっそのこと、成敗してしまった方が」

基速が断じた。もともと足利義冬の奉公衆だった男であり、こうした浮浪、遊侠の徒への嫌悪感が強いようだ。その点は長逸も大きく変わらない。

「町の主の名は松永久秀。もとは高槻辺りの地侍だったようです。それがしに命じていただければ、町ごと掃除して参りますが」

「まあ待て。そのような町も、新たな時代の萌芽かもしれぬ。一度訪れてみよう」

「な。あのようなおぞましい場所に、殿が」

「何ごとも否定から入るものではない」

綽々と長慶が話すのを、長逸と基速は苦い顔で聞いていた。

 

  *

 

平蜘蛛町の夜は、夥しい数の行燈で彩られている。この町で得られる快楽は、質も量も、他の色里を圧倒していた。畿内中からあらゆる生業の男が集まり、一夜の夢に抱かれて、銭と噂を町に置いていく。女たちは虹色の泡のように暮らし、ときには恋の熱情に酔うこともある。男も女も、ここでは生の感情に身を任せることが許されているのだ。

細川高国と細川六郎の争いに巻き込まれ、弟の長頼と共に故郷の高槻を離れて十年。生きるためにすべてをこの町につぎ込んできたと言っても過言ではない。いまやこの町には、公家や坊主までもが忍んで遊びに来るようになっていた。町の主、久秀の館は極彩色の装飾が施され、どの妓楼よりも淫蕩な空気を振りまいている。変わった建築で人を驚かせるのは愉しいものだ。

久秀の力を利用せんと、武家からの使者も増えていた。この前も細川六郎の内衆が密使としてやって来て、新領主の三好長慶を撹乱してほしいなどと頼んできた。三好長慶と細川六郎は一応和睦に至り、名目上は長慶が六郎に従属する形になった。それでも、水面下では色々暗闘があるのだろう。銭五千貫(五億円程度か)を用意できるなら考えてやってもよいと返事をしたところ、六郎の使者は顔を赤くして帰っていった。

今日の来訪者は畠山総州家家老、木沢長政の使いだという。長政も色々な噂がある男であり、少し興味を引かれた。客間に入ると、使者が平伏したまま久秀を待っている。これまでに久秀に追い返された者たちの話を聞いているのだろう。

「久秀殿におかれましては、ご機嫌……」

「おう!」

使者の口上を遮って、雷を落とした。

「なんやその二本差しは。なにこの町で無粋な真似してくれとんのや」

「は、はは、や、これは」

狼狽し始めた。出会い頭にがつんといわせることは、交渉の基本である。

「われ、わいに上等ちゅうこっちゃな」

「い、いえ。外します。お預けいたします」

慌てて刀を外し、久秀の供回りに差し出してきた。その様子を見届け、久秀は大儀そうに腰を下ろした。使者もあたふたと腰を下ろす。

「誰が。座ってええ言うたんやこら!」

「はいい!」

蒼白になっていた。あの長政の配下というので期待してみたが、たいした肝っ玉でもなさそうだ。長政の妖しい気骨に魅せられた、良家育ちのぼんぼんというところだろう。

「まあええわい。ほいで。なんか用なんか」

「はは、我が主、長政様の口上をお伝えに」

「……言うてみい」

「長政様はいずれ世直しの兵を挙げる所存。多くの国人衆が既に与同を表明しております。久秀様にも是非、お力添えを賜りますよう。よろしければ飯盛山城へお越しいただいて、長政様が目指す新たな時代の構想を直接お伝えいたしたく。こちらは、主の気持ちでございます」

使者が震える手で書状を渡してきた。五十貫の替銭(為替)。更に事が成った暁には望みの領地を与えると書いてある。

「えっらい大盤振る舞いやのう」

「ひ、久秀様の力を、我が主は高く評価しておいでです」

「はん。これだけの銭をようも動かしよる。その辺の国人なんぞ一発やろ。根来、熊野はさすが金持ちや」

「げえ!」

目を見開いて使者が後ずさりした。図星のようだ。長政が密かに紀伊国の有象無象から支援を受けていることを知る者は少ない。後南朝の残党と関わっている節すらあった。加えて飯盛山城での集会。長政の弁舌ぶりは坊主の説法顔負けで、一度話を聞くと皆が長政に心酔してしまうという。畿内各地の国人や惣村、町衆が調略されているのも事実だ。一向一揆ならぬ、長政一揆でも起こしたいのだろうか。

がたがた震える使者を、久秀は優しく諭した。

「あーあ、こんな機密までばらしてもうて。こら、飯盛山城に帰ったらわれ……あかん。気の毒でよう言わん」

「や、いえ、その、私は」

「ええんやで。とりあえず今日のところは、その替銭の証文だけ置いていき。ほんでな、久秀は確かに味方を約束しましたと伝えるんや。よかったな、われ、大手柄やで」

「よ、よろしいのですか」

「おう、ええで。せやけどな、残念ながらわい、病気なんや。しばらく動けそうにないんやわ。せやさかい、この銭は見舞いとして受け取っとくで。このことは二人だけの秘密や」

「そ、そんな。それでは」

「上手いこと、やっといてな」

久秀が笑顔で使者の肩を叩く。手に、びっしょりと汗がついた。舌打ちをしながら、使者を残して客間を出る。そろそろ町を見回る時間である。

 

  *

 

とと屋手代として、あるいは武野紹鴎の弟子として、与四郎は充実した日々を送っていた。日々の商い、様々な人との出会い一つひとつが自分の血肉になっているような気がする。人生の成長期というものなのかもしれない。

季節はもう秋である。堺から海路で西宮にやってきたが、潮風の中にも時候の移ろいを嗅ぐことができた。難波潟では風が冷たくなり始めると、あびという鳥がどこからかやって来る。何十羽かの群れが海面で魚をついばみ、きゅわきゅわ鳴いている様にはひょうげた味わいがあるものだ。

長慶の新たな居城、越水城には、連日大勢の客が訪れているようだった。商人、惣村の代表、中小国人、公方の使者連歌師法華宗一向宗の坊主など……もちろん、堺の商人も頻繁に顔を出している。いつの間にか、旧友は随分と偉くなっていた。

 

越水城の清潔な客間で、与四郎は一刻ほど長慶と談笑することができた。細川六郎と渡り合いながらまんまと摂津半国を分捕ったこの若者を、世間では感嘆したり恐怖したりしている。だが、久しぶりに会った彼は思ったとおりに立派で、思った以上に変わっていなかった。

「ときに千殿、あの花なんだけど」

客間の押板には、藤袴が飾られていた。竹籠にささやかな数の花がいけられており、鄙びた茶色、淡い紫の花弁、鮮明な緑の葉と、色の取り合わせにおとなしい美しさが感じられる。

「達者の手によるものと見たよ。都辺りから花師を呼んだんだね」

問われた長慶は、ぽかんと口を開いてしばらく返答に窮したようだった。

「や、あの花は、妹がいけたものさ。客をもてなすには殺風景だと言ってな」

昨日まで、叔父の康長と千満丸・いねの弟妹が来ていたのだという。

「え。で、では、妹殿は池坊にでも師事を」

「ふふ、阿波の山奥で暮らしている娘がかい。池坊など、聞いたことすらあるかどうか」

「まさか、独習で……この花を……」

これまで、茶会の場や豪商の邸宅などで何度も花を見てきた。それらの多くは豪華で、煌びやかで、そこにあるという主張が強烈だった。そうした花を茶湯座敷に飾ることに、なんとなく違和感を覚えていた。

この藤袴は違う。野にあるようにさりげなく、部屋に憩と趣を、主客に調和と情味をもたらしている。

(私が求める花は、このような花なのだ)

胸に稲妻が走ったようだった。もはや見逃すことなどできはしない。

「千殿。一度、妹殿に会わせてはくれまいか」

「お、おう。構わぬが……。愛嬌があるような娘ではないぞ」

「いいんだ。ただ、会ってみたい」

来てよかった。朋友がもたらした縁に、与四郎はこの上もない幸福を感じた。長慶はだいたいの事情を察したようだが、何も言わずに承諾してくれた。

 

  *

 

秋が深まってきた。京ではもみじが見頃を迎えていたが、あいにくの雨空である。日が沈むのも早くなってしまい、目的の邸宅に着いた時にはすっかり暗くなっていた。

「お頼み申す」

小姓の新五郎が訪いを入れた。幸い、宗三は在宅しているようだ。使用人は突然の訪問に戸惑ったが、無事に客間へ通してもらうことができた。隅で控えている新五郎はそわそわし通しである。

「何の用だ」

威圧するような気勢を発しながら、宗三が入ってきた。当然、長慶が愉快な客であるはずがない。

「見舞いに伺いました」

「なに」

「先日の戦では、あなたの配下に随分と死傷者を出してしまったでしょう。誤解から生じた戦故に、気持ちのよいものではありませぬ」

「白々しい……」

戦で傷つけた相手を見舞うなど、武家の規範から大きく外れた行為である。侮辱しているようにも映りかねなかった。

「これを。些少ではありますが、遺族や治らぬ傷を負うた者へ配っていただけませぬか」

合図されて、新五郎が証文を差し出す。少なくない額の替銭だった。宗三が内容を確認し、あらためてこちらを睨みつける。

「十年来の友も、手塩にかけて育てた部下もいた。その恨みを、こんなはした金で許せと言うのか」

「恨みを持ち出せば、私にとってもあなたは仇」

「小賢しい理屈を!」

宗三の怒号。外でも雷が鳴り轟いている。庭の方に長慶が視線を向けた。

「……古の頃、毬打に興じて帝の警護を疎かにした舎人がいたそうですな。それに比べ、死をも顧みずに主君が逃げ出す時間を稼ごうとしたあなたの、まことにご立派なお振舞い」

「ふん。わしの主は聖武帝ではない。細川六郎様だ。そしてわしも舎人などではない。誇り高き、細川家内衆なのだ」

「あなたは! あなたはそれで本心から満足なのですか。私たちのような小者が一族同士で憎しみ合って、虚しくはないのですか」

真情を吐露した。言わずにいられなかった。

「こんな、生まれ持った家督、家格が物を言い、それを守るために多くの命が儚く散っていく。こんな様が、人の英知と言えるのですか。こんなことを、人はいつまで繰り返すのですか」

「貴公の言い草は、子どもの戯れ言だ。夢想というものだ。源平の時代から、暴獣たる侍どもをどうやって統御してきたと思うておるのだ。すべては血統よ。血統がもたらす秩序よ。大の秩序を守るために、小の傷、小の矛盾が生じることは止むを得ぬ」

宗三は落ち着きを取り戻していた。厳正たる細川家家宰の顔だった。

「仮にこの世から家格というものがなくなったとしよう。貴公のような才ある者が伸び伸びと活躍できる時代が訪れたとしよう。……初めのうちはよい。新たな時代だと言って、様々なよい影響が生じる。民も喜ぼう。だが、いずれ貴公の命は尽きる。才ある者がそう都合よく次々と生まれはせぬ。それから後の世はどうなるのだ。……いま以上の混乱の時代が、権力を奪い合う乱世がやって来るのではないか」

責任ある大人が言う、正論である。この状況、新五郎の顔からは完全に血の気が失せていた。

「わしは、これからも細川家を守る。忠義を以て、秩序を守るのだ。貴公もまだ間に合う。理世安民などと口にするならば、真の理、真の撫民というものをよく考えてみよ」

「……」

その時突然、別の部屋から女が泣き喚く声が聞こえてきた。悲鳴と金切り声が混じったような、不穏な叫びである。何ごとかと新五郎が立ち上がって様子を伺おうとしたが、宗三が制した。

「驚かせてすまぬ、何でもないのだ。そのまま、そのまま」

「少し、長居をし過ぎましたかな」

長慶が暇を告げた。宗三が明らかに女の声を気にかけていたからである。

「……長慶よ、この替銭は、確かに預かっておこう。誰の手による銭でも、銭は銭だ」

「宗三殿」

「若者は道に迷うものだ。六郎様にはわしがとりなしてやる。早く帰ってこい」

 

宗三の屋敷を出ると、すぐに新五郎が泣きついてきた。

「よいことを思いついたなどと仰って、言われるがままについてきてみたら。殿は無謀過ぎます。宗三の館に単身乗り込んでいくなんて。こんなことを長逸殿に知られたら、私の首が飛んでしまいます。ああ、四国衆が赤松の援軍に向かったというこの時に。このようなお戯れをされている場合ですか」

「いやあ。言い負かされてしまったなあ」

長慶はけろりとしていた。

「あっけらかんとされている場合ですか。どうしてこんな危険な真似を。何の得もないではありませぬか」

「ふふ、分からぬか。色々と面白い話ができたではないか。や、得難き経験をしたものだよ」

いつの間にか雨は上がっていた。ぬかるんだ泥を避けながら、二人は三好屋敷へ帰っていく。

「新五郎よ、今夜は風呂を湧かしてもらおうか」

「は。そちらの方が遥かに容易い仕事でござる」

「これからも宗三殿への使いは、お主に頼もうかな」

「そ、それだけはご勘弁を」

どこかの屋敷からもみじの葉が舞い散り、水溜まりの上に浮かんでいる。雲が晴れてみれば、今夜の月は存外明るかった。

 

  *

 

来訪の知らせは突然だった。新五郎という若侍が前日に知らせてきたのだ。

予告通りの時刻に長慶は現れた。いつのまにか摂津半国の主になっている。遂に細川六郎と争ったと思えば、あっという間に和睦。何だか畿内中が彼に踊らされているようだった。

「来たか。そろそろだと思っていた。……来なければ、兵を摂津に向けていたところだ」

客間へ通された長慶に対して、父の稙通が笑いながら言い放つ。長慶は微笑んでその冗談を受けた。

「挨拶は抜きにして、用件から申し上げましょう」

柔らかな所作で居住まいを正し、あまね、稙通、晴通、あまねの順に視線を送る。不意に予感がして、あまねは胸が詰まるような苦しみを覚えた。なぜだか、その先を言わないでほしいとすら願ってしまう。

「あまね殿を、妻に迎え入れたい」

――時の流れが遮られたような気がした。亡羊と現実感を失い、周囲の音が聞こえなくなった。壊れた人形のような姿勢で、床に座り込んでいた。どれほどの間そうしていたのか。あの薫りに鼻先を撫でられた。気がつけば、稙通は扇子を広げて嬉しそうに顔を扇ぎ、晴通は何やら長慶に向かって怒鳴りつけている。そして長慶は、真っ直ぐにあまねを見つめていた。

「あまね殿のお気持ちは、如何でしょうか」

問われた。よろこんで。嬉しい。答えようとしたが、声が出ない。唇が震えた。開いた瞳から涙が溢れる。遠くのどこかで、ほれ見たことか、妹もこんなに嫌がっておるわなどと言う声が聞こえた。

「ははは。驚き過ぎて、声が出なくなったらしい。安心なされよ長慶殿。娘の気持ちは決まっておる」

稙通が言い繕ったが、そもそも長慶に焦った様子はなかった。変わらずに微笑んでいる。

「一言で、ゆっくりでよいのです。お気持ちを教えていただけませんか」

再度問われる。子どもをあやすような言い方に、かえって彼の強引な一面を見た気がした。そう思ったら、どういう訳か身体が楽になった。言葉が動き出す。一同が静まって、あまねに見入った。

「幸せに、してください」

少しだけ、またもや時が静止した。長慶は、あまねの声を味わうような様子を見せた。

「その言葉。生涯忘れないでしょう」

長慶が深々と頭を下げた。あまねもつられて頭を下げる。頭を上げるきっかけが分からないかのように、二人はずっと頭を下げていた。睫毛に溜まった涙が、ぽたり、ぽたりと等間隔で床に落ち続けた。

 

  *

 

尼子軍の分断は上手くいった。備中国備前国の境界線(岡山県倉敷市)付近に上陸した四国衆は、出雲と播磨遠征軍の連絡線を断ち切り、両者の間に布陣した。一方の播磨遠征軍に対しては、安宅水軍・野口水軍の助力を得た赤松晴政が播磨に上陸し、在地の国人衆を集めてなんとか足止めに当たっている。

持隆と千満丸にとって、この戦は三つの意味があった。ひとつは中国地方の安定化、もうひとつは赤松晴政への助力、最後のひとつは三好長慶の後顧の憂いを掃うことである。尼子の脅威が弱まれば、それだけ兄は畿内の政争に注力することができるのだ。

十三歳になった千満丸にとって、この遠征は初陣であった。尼子の勢いを冷静に分析すれば、勝機は薄い。それでも、学ぶところが大きいと持隆が連れ出してくれたのである。着慣れぬ甲冑に悩まされながら、持隆の供回りとして常に行動を同じくしていた。十二歳の千々世、その義弟の万五郎もついてきており、康長と共に船上で待機している。退却路・補給路として瀬戸内海は何よりも重要であり、安宅・野口・塩飽の水軍衆が海路を完全に掌握していた。

「大丈夫か。寒くはないか」

持隆が羽織をかけてくれた。冬が始まったというのに、この阿波守護様は半裸のような格好をしている。変わった人だが、いつも強く、優しく、逞しい。男らしい魅力に溢れている。反対に千満丸は長じるにつれてますます母のつるぎに似てきており、その美童ぶりがよく知られていた。

感冒などにかかってはならんぞ。流行病で壊滅した軍もある」

毛深く太い腕で肩に手を回してきて、抱き寄せられた。持隆はこうした身体が触れ合うような付き合い方を好む。早くに父母を亡くした千満丸にとっては、それが家族の温もりのようにも思われるのだった。

そこへ、伝令が駆け込んできた。

「尼子の播磨遠征軍がこちらへ向かって移動を始めました。赤松殿が追撃を仕掛けましたが、新宮党に蹴散らされて潰走したとの由」

「カカ、あの男は本当に頼りにならんのう。こうなると思っておったわい」

持隆が笑って周囲の配下に語りかけた。

「さて諸君。赤松への援軍という名分を失ったいま、我らがこの地に留まる理由はない。……が、誇り高き我ら四国衆が、尼子に背を向けむざむざ逃げ出すことなどできようか。ここは尼子へ一戦仕掛け、彼奴らの武者振りなど試してやるのも面白いと思うが。如何か、者どもよ」

すぐさま、“おう!”“やらいでか!”などと声が上がった。長年畿内で活躍してきた四国衆である。尼子のような新参勢力に対しては、我らを差し置いて何が上洛よ、という思いがあった。

「さて、千満丸よ」

持隆が小声で話しかけてきた。

「実戦で学ぶことは山ほどある。人が一生で経験できる戦などせいぜい数十回。初陣だからと無我夢中にならず、よくよく状況を観察し、おおいに血肉とせよ」

こう言う持隆に、つい父の姿を重ねてしまう。自分はまだ恵まれているのだろう。冬風を身体いっぱいに浴びながら、気を張りなおした。

 

尼子の遠征軍は播磨に領土保持のための兵を残している。こちらの兵数約五千に対し、向かってきたのは三千ほど。但し精鋭である。旗に掲げられるは、血のような紅色で描かれた平四つ目結の紋。まさしく、尼子久幸率いる新宮党に他ならない。

兵数の多いこちらは鶴翼気味に陣を横へ長く敷き、東側に位置する敵陣は魚鱗のような密集形態である。戦は正午頃に始まった。矢や石の応酬の後、長槍での槍合わせに続く。包囲する形にはなったが、敵は崩れない。前衛が負傷しても驚くような速度で後衛が立ち位置を入れ替え、陣を裂くことができないのだ。余程の調練を積んでいるのか、新宮党は集団戦術の練度が極めて高かった。

「構わず攻めよ! 兵の多さを活かすのだ」

持隆が叫ぶ。四国衆とて歴戦の強者が揃っている。新宮党がいかに強靭だろうが、腰を据えて戦えば勝てる。そう思った時。

 

“ヒュオオオ――”

 

谷間に吹く疾風のような音色。自陣の左側、北方から鏑矢が飛んできたのだった。

敵味方が思わず動きを止め、矢を放った主を見た。そこには白馬に跨った武者が一騎、陽光を浴びて銀色に輝いている。姿をよく見れば、漆黒の具足下に、貴重な銀箔を多量に使った鎧兜。手には大弓が握られていた。彼の後ろにも騎乗の武者が数十騎控えている。

「や、あれは銀蛇」

「そうよ、石見の銀蛇じゃ」

敵勢から歓声が漏れ出す。銀蛇と呼ばれた武者は大弓をしまい、異常に長い野太刀を手にしてこちらへ向かって駆けてきた。

「騒ぐでない! 援軍かと思えばただの小勢。それもあのいでたちは、まるで源平絵巻ではないか。いざ、昔人に当世の戦ぶりを教えてやれ。陣を締めよ、槍衾をつくれ!」

騎馬武者の突撃など槍衾の敵ではない。直ちに迎撃の構えが整った。銀蛇に率いられた騎兵たちが近づいてくる。まるで猪と思った瞬間、騎馬たちが散開した。騎馬たちは円を描くようにこちらの陣を左回りに駆け、騎射を浴びせだす。鶴翼の中段、持隆本隊。不意を突かれて陣に僅かな動揺が走った。銀蛇はそれを見逃さない。恐れもせず、単騎で自陣に踊り込んできた。白銀の野太刀が眩い。千満丸が瞬きをする間に味方の首や腕が幾つも飛ばされていた。

「やあやあ、我こそは石見の銀蛇、本城常光なり! お主らの前途は野末の石じゃ。覚悟めされい!」

また首が飛んだ。銀蛇が野太刀を振るえば、必ず人が死ぬ。それを理解した時、さしもの四国衆にも怯えが生じた。すると、それまで押し込まれていた新宮党も俄然力を盛り返してきた。銀蛇によって生じた傷を一糸乱れず新宮党が広げていく。こちらの陣はずたずたにされた。

「ちっ、これまでか。 退け! 退け! あたら命を散らすな!」

持隆が叫び、引き鉦が鳴らされる。鉦の音で自軍は正気に返り、陣を再度引き締めてじりじり後退した。尼子軍は追撃の構えを見せたが、兵力ではいまもこちらの方が多い。潰走には至らぬことを見て取ると、向こうも距離を取り始めた。

 

戦は終わった。上手く撤退したため兵の損傷は軽い。今後は水軍衆の力を使って播磨沿岸を襲い、尼子遠征軍の補給を消耗させる手筈だ。むしろ、それこそがこの遠征で成すべき戦術と言ってもよい。

千満丸は尼子の戦ぶりに心を奪われていた。強固な集団戦術と、突き抜けた個人武勇。この暴雨と雷のようなふたつを組み合わせれば、縦横無尽に戦果を上げることができることを知った。

(いつか、俺の手でもっと面白い戦をやってやる)

この実戦が、千満丸の戦才を大きく刺激したのだった。

 

続く