きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十二 平蜘蛛の段  ――遊佐長教 二心を抱き、松永久秀 長慶に心服す――

十二 平蜘蛛の段

 

そこには奇怪な美しさがあった。

冬の夜。長慶は長逸と新五郎を供に、平蜘蛛町の視察にやってきた。淀川河口の低地帯に創られたこの町は、遠目からでも異様な輝きを放っている。妓楼から漏れ出す灯りに加えて、町内の小路それぞれに沿って黒鉄製の灯篭が設置されているのだ。この幻想光に誘われ、毎夜大勢の客が集まる。一年中祭をやっているようものだ、この町の主はさぞ荒稼ぎしていることだろう。

「やはり来るのではなかった。道行く男どものだらしない面。あざとい品を作ってみせるおなご衆。こんな悪所に殿をお連れしてしまって、元長様やつるぎ様に合わす顔がありませぬ」

長逸がうんざりした顔で零した。新五郎も同調している。

「長逸はこの町が怖いか」

「な」

「ふふ。本気に取るでない。しかし、平蜘蛛町とはよく名付けたものよ。低地に貼り付いた町に八本の小路が放射状に通い、中央には広場があるのか。おう、屋台が出ておる。あれは焼き豆腐かな」

楽しげに見物する長慶を、むっつり二人の従者が後を追う。その様子を遠巻きに男たちが監視していた。男たちの人数は徐々に増え、監視の輪が狭まっていく。無論、長慶たちも気づいている。真ん中の広場にわざと移動してきたのだ。

「蹴散らしますか」

「待て」

相手の出方を待つ風に、長慶が広場の中心に立った。もとより、爽やかな浅葱色の素襖姿の長慶は、この淫靡な町ではどこか浮いている。何か妙なことでも始まるかと、道行く遊び人たちが足を止め始めた。

そこへ二人の男が近づいてきた。共に齢は三十過ぎくらい。一人は中肉中背で、彫りが深い顔立ち。紅色の生地に白い鳥の羽が描かれた、派手な羽織を纏っている。もう一人は痩せた長身の姿で、顔は無表情。細く鋭い目が印象に残る。二人とも、いかにも大物の侠客といった風采である。

「三好の殿さん、でんな」

地下の言葉丸出しで、羽織の男が話しかけてきた。

「いかにも、私が三好長慶だ。そういうお主はこの町の主、松永久秀かな」

「ほっほう。わいもたいしたもんや。あの有名な長慶様に知ってもらえてるなんてなあ」

にたあと久秀が笑う。不似合いな客人を嘲る風がある。動きかけた長逸を、長慶は手で制した。

「ほんで。こないなところに何の用でっか。殿さんが欲しいのんは白粉の匂いやのうて、母ちゃんの乳の匂いなんちゃいますう」

わざとこちらを挑発するような、猪口才な口の利き方だった。ここで領主が激昂してしまうと民は久秀の味方をする。群集の心の動きをよく把握しているのだ。

「ほう。人妻の乳も用意せずに、色町を名乗っているのか」

「ああん」

「色事の深奥でも見物できるかと期待したが。つまらんのう。帰るか、長逸、新五郎」

「おいわれ。ちょい待たんかい」

乗ってきた。色の道に一家言ある者は総じて気位が高い。かつて祖谷の地で求聞持法を修めた際、同行した真言宗の坊主の一人からその道のことを様々聞かせてもらった。その道は凡人が想像するよりも遥かに奥が深く、ちょっと思いつかないような趣味嗜好も存在するらしい。

「わざわざ指南しいにお越しくださったんかい」

久秀が食いついてきたことを確認し、長慶は突如高笑いを始めた。いつの間にか様子を見物に黒山の人だかりができている。

「ふふ。そんなことのために領主が来るか。松永久秀。私はな、お主を支配したいのだよ」

「……上等やないかい。なんぼわれが戦上手でもな、三人では勝てんでえ」

久秀の配下が次々と集まってくる。見物客の中にも随分混じっていたようだ。優に百人はいるか。

「たわけが!」

一喝した。突然の長慶の大声に、久秀たちの動きが止まる。

「今夜の稼ぎをふいにするつもりか! 後々の障りもあろう。町の主なら、町のことを一番に考えぬか」

「ど、どの口が言うんや」

「そこで私はよいことを考えた。相撲だ! 互いの代表を出し合い、相撲で決めよう。なあ、皆の衆よ」

久秀が呆れて抗議しようとしたが、それを見物客の歓声が掻き消した。畿内にその名が轟く三好家と、自主独立の平蜘蛛町との相撲対決。これほど面白い娯楽は例がないであろう。

「こちらの代表はこの長逸だ」

「なんと」

珍しく長逸が慌てた。

「そ、それなら私が」

「新五郎よ、それには及ばぬ。あの長身の男、相当の手練れと見た」

これまでのやり取りを黙って見守っていた久秀の隣の男。場の状況に追い込まれた久秀が指名したのは、やはりその男だった。

「がああ! 行け、長頼。この阿呆な騒ぎを鎮めてこい!」

無言で長頼が諸肌脱ぎになる。躊躇していた長逸も、長頼の気配を察して目つきが変わった。

 

町の中央広場で突如始まった相撲。

長逸と長頼の勝負はなかなか決しなかった。長逸は家中でも随一の武辺者である。その長逸が渾身の吊り、おっつけなどで攻めかかるが、長頼は長身ながらよく腰を沈めて体を崩さない。初めから長期戦を覚悟していたのか、長逸の体力を消耗させようとしているようにも見えた。

「せや! 粘れ粘れ!」

久秀が隣で叫んでいる。このままだと長逸の不利だ。長逸自身がそれをよく分かっている。腰を落として長頼を引き寄せ、寄り倒しにかかった。戦場で首を掻っ切る際、長逸が最も得意としている技だ。だが、長頼はその動きも読んでいた。空中で身体を捻って逆転を図る。両者が同時に落ちた、どちらだ。

「……同体かな」

「よっしゃ、一服したら取り直しやな」

「いや、観客は待ちきれまい。私とお主で雌雄を決すればよいではないか」

長慶が進んで、長逸と長頼の両者を称えた。その上で自身も諸肌脱ぎになり、久秀を手招く。完全に、見物客は次の展開を期待していた。久秀が震える。怒りか、武者震いか。

「やったろやないけえ!」

羽織を脱いで久秀も立ち上がる。

「お主も、男だな」

「やかましいわ!」

手をついた。立ち合い。がっぷり四つで組み合う。久秀の顔に戦慄が走った。長慶がびくともしないのだ。

「……化けもんか」

久秀の身体が汗に濡れる。掴んだ腕、寄せ合う胸に熱と湿り気が伝わってきた。微かに笑みを浮かべ、長慶が腕を解いた。距離を取る。久秀はこちらを攻めあぐねているようだ。一歩前へ。久秀がたじろいだ。その面を、思いっきり張った。一発。二発、三発。更にもう一発。見る間に久秀の顔が腫れあがっていく。よろめいた。そこを見逃さず、再度横から組みつく。二丁投げ。久秀の身体が宙を舞う。流れに合わせ、長慶も受け身を取った。息を呑む観客、一瞬の静寂。やおら、長慶が立ち上がった。

「うーむまたもや同体か。これは残念、今日は一旦退くとしよう。やあ、さすがは松永久秀殿であるな」

衣装を直し、長慶たちはその場を離れた。久秀は脳が揺れるのか、長頼が甲斐甲斐しく介抱している。宙に向かってぶつぶつと悪態をついている彼に構わず、見物客たちは大歓声で町の主を包んでいた。

 

  *

 

深夜。河内国飯盛山城に程近い農村。そこから外れた一棟の空き家に、五十人ほどの人の群れが詰め込まれている。全員が覆面などで面貌を隠しており、傍目には素性が分からないのだが、一人ひとりが名の通った国人や商人、惣村の代表者などであった。その中に、遊佐長教も混じっている。

三好長慶を火種に使うことを諦めた長政が、遂に自ら動き始めた。辻説法か念仏講か。長政の思想を直接、群衆に向かって語りかける。前後に、相応の銭もばら撒く。燎原之火。瞬く間に長政に与同する者が増えていた。しかも驚くほど統率が取れており、機密の保持が徹底されている。

いまも、長政の腹心が明国の歴史を解説している。かつて唐や漢と呼ばれた隣国は、歴史上、何度も民衆の反乱によって政権が打倒され、天に選ばれた新たな皇帝が降臨してきた。これを易姓革命という。翻ってこの日本国ではどうか。なるほど、帝は尊い。その徳はいまも失われていないかもしれぬ。だが、公家はどうか。公方は。寺社は。千年に及ぶ家柄の支配が、民から奪ったものは膨大である。どれだけの時が流れても、その罪は忘れられることはない。なるほど、いまの貴種どもに罪の自覚はないかもしれぬ。だが、貴種として生まれてきたことそのものが大罪ではないか――などと、なかなか流暢な弁舌である。

客に混じった長政の配下が、要所要所で“そうだ!”“許せねえ!”などと合いの手を入れる。男が立ち上がって、武家に家族を乱暴された挙句に財産を押領されたことを吐露する。会場には灯明がひとつきり。部屋の隅では一定の調子で鼓が打ち鳴らされ続けている。こうした工夫を積み上げることで、秘密集会の熱気は自然と高まっていく。

亢奮が最高潮に高まった時、長政が部屋に現れた。一同の喝采で迎え入れられる。

「同志よ、いよいよ時は近い。家格の反転が成る時は近い! 我ら下種が、あの、許されざる貴種どもに取って代わるのだ。諸君の全身全霊を捧げよ。新たな時代に、皆の命を捧げよ!」

たいした教祖様だった。大仰に腕を振り回し、堂に入った演説ぶり。覆面越しでも居並ぶ連中の目が輝いているのが分かる。心酔と渇仰の波動が渦巻いていく。

昔から、純粋な男だった。貴種とは言えないまでも恵まれた家に生まれ育ち、若い頃から博学と人柄のよさで有名だった。だが、一族の不幸とその原因たる貴種どもへの憎しみ、紀伊で植えつけられた中央への怨念が、彼を純粋な兇徒へ変えた。長教は、そのすべてを近くで見てきたのだ。

 

中座し、会場を後にした。

場内の熱気と裏腹に風は刺すように冷たい。

「どれだけ部屋を暖めようと、季節を変えることはできぬ」

一人、呟いた。

馬を進める。居城、若江城は騎乗なら一刻もかからない。冬の夜に出歩くような民もいない。

気配を感じた。いつの間にか、馬の隣を女が歩いている。歩いているのに、馬と速さが変わらない。

「琴か」

「無事に保護したぞ」

「ご苦労。あのお方の処遇は、わしが直接差配する。誰にも気取られぬようにな」

「承知」

すう、と琴が離れていき、次の瞬間には姿が消えていた。後南朝の残党は、長教と長政、ふたつの畠山を天秤に掛けている。いずれの密命にも従うし、いずれの密命も漏らさない。それが紀伊で交わした契約だった。

それでも、長政は隠し事をしない。

それでも、長政は変わってしまったのだ。

「永遠に変わらぬ、二人の友情」

遠い昔に那智和歌山県東牟婁郡)でそう言ったのは、長政だったか、自分だったか。

もう一度繰り返してみたが、枯れ枝のざわめきで自分の声が聞こえなかった。

 

  *

 

「なんや、また来たんかい」

ぶすっとした顔で久秀がぼやく。顔にはまだ青痣が残っている。

「今日は客として来た。しっかりもてなしてくれよ」

供は斎藤基速と和田新五郎である。長逸も誘ったが、強い調子で断られてしまった。同じように基速も嫌がったものの、町を視察して売上と収支を類推せよという命令には抗えなかった。

「ちっ。ちゃんと銭は払ってや。ほんで、どの筋がええんでっか」

客として来たせいか、前回の相撲で懲りたせいか。久秀の態度は幾分改まっていた。

平蜘蛛町には八本の小路が通っており、それぞれの筋には特徴を同じくする妓楼が集まっている。歩く筋をまず決めることで、店を選ぶのが楽になる仕掛けだ。色商売としての筋は、茶屋筋、見物筋、女郎筋、変化筋、男娼筋、折檻筋、夢幻筋の七本がある。前者ほど客数が多く後者ほど単価が高いらしい。残る一本には風呂屋や久秀の館、遊女の寮、生活品を扱う店などがある。

「茶屋筋はおなごと酒を飲むだけ、見物筋はおなごの猥雑な芸を見るだけでっさ。女抱くなら、女郎筋か変化筋に行きなはれ」

「変化筋とはなんだ」

「巫女、尼、公家の姫さん。普段近づけんような女に女郎が化けるんですわ」

「よく考えるものだ」

「はん。そのうち人妻変化も用意しときますわ」

横で基速が顔をしかめていた。聞くに堪えないといった風だが、長慶は構わずに話を続けた。

「折檻筋とは」

「縄で縛ったり、鞭でぶったり、面罵を浴びせたり。大ごとにならん程度の痛めつけでんな」

「おなごは嫌がらぬのか」

「ちゃうちゃう。痛めつけられんのは客の方ですわ。趣味のええ大人の集まりやから、紹介状がないと店には入れまへん。けっこうやんごとない客も多いんでっせ。いっぺん、公家でも坊主でも袖まくってみ。何人かに一人は蚯蚓腫れこしらえてますわ」

光景を想像したのか、新五郎は吐き気を催した様子である。

「最後の夢幻筋は、女は脱ぎまへん。ただ、舞を見せたり音を鳴らしたりするだけですわ」

「ほう、それが一番の高級商いなのか」

「それだけの価値があるっちゅうことですわ」

「ならば、そこに行ってみるとしよう。案内せい」

しぶしぶと久秀が先導していく。長頼が様子を見に来たが、雰囲気に安堵したのかすぐに警備へ戻っていった。長頼は久秀の実弟らしい。兄の姿を見て表情を和らげたようにも思えた。

 

妓楼の一室で、男物の黒羽織を纏った女が猿楽を舞う。先ほどまでは琵琶を弾いて“とはずがたり”を謡っていた。猿楽も琵琶物語も、定法からは大きく離れている。だが、女が創りあげた世界へ客を引きこむような迫力があった。いつしか町の喧騒は聞こえず、同座する者の存在を感じず。世界の中に、女と長慶だけがいた。女の舞、一挙手一投足に宇宙の真理が隠れている。しかし、寿命のすべてを使ってもそれを掴むことはできないのだ。

舞が終わった。女が平伏し、長慶の声を待つ。しかし、長慶はしばらく動かなかった。女の動きの中に、声の中に、つるぎやあまねの姿を見たような気がしていた。その余韻が忘れられなくて、夢想の中に意識が閉じ籠っていた。

「どないでっか、殿さん」

「む。……うむ、素晴らしかった。このような絶技を見たのは初めてだ」

「あら、お上手」

女が柔らかく膝行して、長慶の傍に近づいてきた。品よく微笑み、酒を注ぐ。女は龍吉と名乗った。

「どこで覚えた」

「それは、言わぬが花」

扇子で口元を隠し、龍吉は身体を少し揺らした。身体の動きは艶やかな女のそれだったが、気風には男のような後腐れなさ、清々しさを感じる。齢は……よく分からないが、東寺曼荼羅のような、奥深い美しさを宿している。こういう女もいるのだな、と思った。

「このお龍も色々あったんですわ。察したってな。ま、ごゆっくり」

久秀が立ち上がって、基速と新五郎を連れて出ていった。会話の糸口を見つけられず、長慶は龍吉に酒を注ぎ返す。ふと、あまねのことを思った。やましいことはしていないが、ここにいること自体が既にやましいのかもしれない。

「女の人のこと。考えていらしたでしょ」

「……」

「大悪の大出再誕だなんて聞いたから。どんな恐ろしい人かと思ってましたよ」

「すまんな。このような場で、どういう話をしたらよいのか知らないのだ」

「じゃあ。いままでのことを話してくださいよ」

「いままでのこととは?」

「お父上。お母上。子どもの頃からいままでのこと、ぜえんぶ」

少し戸惑ったが、やがてぽつり、ぽつりと語り始めた。龍吉は静かに、微笑んだまま聞いている。喉が渇くちょうどよい頃合いに、酒を注いでくれる。夜更けまで、二刻も、三刻も長慶は話し続けた。町の喧騒が、今度は本当に静まっている。龍吉の姿勢はずっと崩れることがなかった。泣いたり笑ったりしないし、意見を挟むこともしない。それが心地よかった。

語り終えた時、龍吉が一言だけ漏らした。

「ああ、やっぱりお武家は嫌ですねえ。少うし、思い出してしまいましたよ」

少しだけ、感情が目元に出ている。

「龍吉殿も」

「妙だなんて、かわいい名前の時代もあったんですよ」

それ以上は語らずに、酒を酌み交わした。

松永久秀とは、どんな男だ」

「六分の侠気に、四分の熱。いい男ですよ。町は清潔だし、手当もいい。乱暴な客は追っ払ってくれる。子どもには客を取らせないし、年寄りにも病人にも仕事を与えてくれる」

「……」

「こんな世の中、暗い暗いと思っていましたけれど。この町の灯篭を眺めていたら、けっこう明るいなあって。捨てたもんじゃないなって考え直しちゃいますもの」

「そうか。そうだろうな」

なぜだか嬉しくなって、長慶も微笑んだ。

「久秀様のこと。よろしく頼みますよ。殿様がも一度いらっしゃるのを、ずっと待ってらしたんだから」

「……」

「あら、寝ちゃったんですか。大変」

座ったまま眠る長慶に、龍吉が真っ白な絹の布団を掛け、横にしてくれた。そのまま明け方まで長慶は熟睡し、一片の夢すら見ることはなかった。龍吉は窓辺に腰かけ、朝靄の中で徐々に光を弱めていく灯篭をずっと見つめていた。

 

  *

 

八条の棲家に、三好宗三が現れた。こんな薄汚いところへやって来た客は長慶以来である。用向きは事前に聞いていたが、孫十郎には現実感がなかった。

「ようこそいらっしゃいました。あいにくの侘び暮らしで、ろくなもてなしもできませぬが」

「いや、構わぬ。粗野にして無骨、されど惰にあらず。わしはこういう景色が好きだな」

へつらっている風には見えなかった。細川内衆として威張り散らしている印象を持っていたが、思いの外さっぱりとした人物なのかもしれない。

「書状は拝見しました。わしを一軍の将に推挙していただけるとは、まことですか」

「うむ。軍備の増強は焦眉の急。尼子が出雲に撤退したとはいえ、細川家の天下は未だ盤石ではない。国人を統率できる有能な武人をよく遇したいとの、六郎様のご意向じゃ。貴公の武辺は知られているし、わしの縁戚でもある。いずれ旧領の芥川も取り返せるよう、手を回させてもらう」

畿内を騒がせた尼子の進撃は、播磨で遂に止まった。野戦で敗れた細川持隆が、海上からの奇襲で尼子の補給を寸断したのである。大内家が尼子対策に本腰を入れたこともあり、いまは機にあらずと判断したのだろう。上洛は断念したものの、孫十郎個人としては尼子の勢いに敬意を抱いていた。しがらみの多い細川家の下で働くより、余程楽しそうだった。

「しかし、よいのですか」

「何がじゃ」

「わしは長慶殿と仲がよい。ご存知でしょう」

「ふ。そのような些事を気にはせぬ」

意外に思った。宗三と長慶は先日も戦で殺しあった仲である。今回の軍備強化だって、六郎が長慶を脅威に思ったからではないのか。それとも、長慶とは別の脅威が迫っているとでも言うのか。

「ただ、貴公にひとつ頼みがある」

「おう。言ってくだされ」

「身内の恥を晒すようだが。我が愚息、宗渭を探し出して、貴軍の侍大将として取りたててやってくれぬか。わしを通さずに、わしに知られずに」

「何やら、事情がおありのようですな」

「厚かましい願いだが、他に頼れる者もいない」

天下の重鎮が自分に頭を下げている。

「がっはは。よく分からぬが、承ろうよ。宗渭少年と言えば、たまに噂を聞くこともある。なんとかなるでしょう」

「……かたじけない。この恩、忘れぬ」

「水臭い。同じ一族ではありませぬか、細かいことはよろしかろう」

指揮官の装束など幾つかの手土産を置いて、宗三は丁重に辞去していった。六郎に一度遠ざけられたが、最近では再び権勢を盛り返しているらしい。他の内衆とは、やはり何枚も実力が違うのだろう。長慶には悪いが、宗三もなかなか話せる男ではないか。

受けた恩は返す。受けた借りも返す。自分は自分で、思うがままに生きていたい。窮屈な京の町は好きではなかった。求めるのは戦だ。次の戦はいつだろう。晴れ舞台が訪れる日が、いまから待ちきれなかった。

 

  *

 

「愛しい長慶様は近頃色町通いにご執心らしいな。結婚前の男の性とはいえ、けしからぬことよ」

晴通がわざわざそんなことを言いに部屋にやってきた。妹に構ってもらいたいのだ。

「長慶様のこと。何か事情がおありなのでしょう」

強がってはみたが、唇が震えているのが自分でも分かる。噂はあまねの耳にも入っていた。心中は決して穏やかではなかった。

「いっぱしの賢妻気取りか。あまね、本当によいのか。今ならまだ間に合うぞ」

「女に二言はないです」

「お主たちが惹かれあっているのは百歩譲って認める。でもな。婚姻は家と家との盟約だ。波多野と三好が戦になれば解消するのが筋なのだぞ。あの男が摂津半国だけでおとなしくしていると思うのか」

「難しい話は分かりません」

「分からないふりをするのはやめろ。尼子が去ったということは、三好と同盟する意義も減ったということだ。父上は嬉しそうに婚礼道具など揃えているがな、妹がみすみす不幸になるのを黙って見ておれん」

晴通は長慶憎しだけで言っている訳ではない。母の死をいまだに引きずっているのだ。

「この婚礼に当たって、わしは長慶に熊野三山の誓紙を求めるつもりだ。三好が謀反でも起こせば即座にあまねの身柄は返してもらう。それぐらいせねば国人衆も納得しまい」

「……好きにして。ね、兄上。お願い。しばらく一人にしてほしいの」

そう言って晴通を部屋の外に追い出し、うつ伏せになってあまねは泣いた。自分は報われない恋をしようとしているのだろうか? 長慶を好きになってはいけないのだろうか? 家族と長慶の両方を大事に思うことは許されないのだろうか? 答えのない問いが何度も頭の中を巡り、涙は尽きることがなかった。

 

  *

 

「また来たぞ」

長慶が現れた。今日の供は、三好長逸一人のようだ。

「こんな年の暮れに、しかもまだ朝やんけ。店開きは日が暮れてから。正月三箇日は休みでっせ」

「今日の目当てはお主だ。上がらせてもらうぞ」

館の客間へ、遠慮なしに長慶が入ってくる。いつもながら涼しげな顔の殿様だった。

「……ま。そろそろお出ましやと思ってましたわ。あの堅そうな奉行さんと、若い兄ちゃんは元気でっか」

「呆けてしまって、しばらく使い物にならなかった。いったい何をしたのだ」

「しっかりもてなしただけなんやけどな」

部屋に長頼が入ってきた。長逸と視線を交わす。互いに、ある種の敬意を抱いているようだった。

「本題に移ろう。久秀。長頼。私に仕えよ。私の臣となれ」

長頼と顔を向け合い、無言で頷いた。

「わいら、殿さんには一目も二目も置いてまっさ。その辺の武士とは器量が全然ちゃう。せやけどな、殿さんがその器量で、何をしていくつもりなんかが分からへん。なんぼ立派でも、どこに向かうか分からん船にはよう乗りまへんわ」

真剣な思いだった。こちらは肚と肚のぶつけ合いを望んでいる。それは、長慶を認めたということだ。

「こちらもそのつもりで来た」

目を閉じて、長慶が居住まいを正す。長慶も本気だ。それだけ、自分を認めてくれているのか。

「話そう。私の夢を。野望を」

長頼と二人して、思わず身を乗り出していた。

「まずは夢の表側。私は畿内第一位の力を蓄えた後、細川家と公方による秩序を克服するつもりだ」

「……あ?」

「天下を獲る。家格による武家秩序を破壊し、以後は才覚や資質を基軸に新たな秩序を築く。有能な者は、商人でも職人でも海の向こうから来た者でも、等しく政権に登用する。たとえ色里の長でもな」

「ちょ、ちょい待っとくんなはれ。そんなことしたら」

「今度は天下を巡る争いが起こる。そんなことができるのかと気づいてしまえば、他にも天下を狙う大名が現れる。反対に、いまの秩序を守ろうとする者も現れる。国はいまよりも乱れ、争いは大規模になっていく。日本中の人間が、天下とは何か、どうあるべきか、真剣に考えるようになる。やがて人々が戦に倦みだす頃、最も声望高く、最も民をよく治める者が、新たな時代を開いていく。日本の歴史が、一歩前へ進む。そうなればこそ、明やタルキーなどという屈強な外国勢とも互角に接することができる」

長慶が語る話は、久秀の想像を絶していた。この男は人の世界を天上から眺めているつもりか。

「久秀、分かるだろう? 戦、訴訟、政策発布。十のうち九は、各地の大名や国人が自前で行っている。どうしても解決できない問題だけが中央に持ち込まれ、その五は細川が、一は公方が、一は朝廷が、残りは三者で押し付け合って裁決している。いまや、商売も宗教も海を越え始めているのだぞ。こんな乱麻の如き政体で海外の列強とやっていけるものかよ。この際、日本に生きるすべての者の考えを、ものの見方を、行動原理を、一新してしまわねばならぬ。私は……その先導役を引き受けたいのだ」

「あ、あんた、狂ってるんか。世間の頭の中身を変えたいから、そのために天下を獲る言うんか」

「痛快だろう?」

平然と言う。確かに、四国の一豪族に過ぎない長慶が中央政権を簒奪すれば、日本中がひっくり返る騒ぎになるだろう。東国にいようが西国にいようが、誰も無関心ではいられない。

「どんな頭してたら、そんなこと思いつくんや」

「さ。すべては天道よ」

大変な話を聞いてしまったと、久秀は半ば悔やんだ。本気だ。長慶はまさしく本気なのだ。しかもこの男、本当に実現しかねないものを持っている。長慶に惹かれてはいるが、こんな話に付き合ったらろくな死に方をしないはずだ。ああ、わいの一生が狂ってまう、宿世の曲がる音が聞こえる。

「……夢の裏側とやらも、聞かせてくれんか」

やっと、それだけを絞り出した。長慶は幽かに笑った。

「たいしたことではない。天下に大乱を招こうと、道半ばで不幸に遭おうと。心魂だけは常に平らで、静かでありたい。それができれば、よい一生だったと思える気がするのだ。……ふ、高望みというものかな」

哀しい笑顔だった。既に何かを予感しているような、覚悟しているような。父の最期を思い出した。故郷を戦で追われた時に、しんがりを引き受けた父の横顔。こんな風な笑みを浮かべて、母と兄弟を逃がした。

「ずるいわ。そんな顔されたら、よう断らんわ。降参や。お手上げや。ええな、長頼」

久秀の諦めた苦笑いに、長頼が力強く頷いた。弟も同じ心情にあるはずだ。

「松永兄弟の命運。平蜘蛛町の財産。すべて殿に捧げさせてもらいます。以後、よろしゅうに」

「うむ、よい心がけじゃ。褒めて遣わすぞ、久秀」

久秀は思った。これからの一生は、この殿様に振り回されて終わるのだろうなと。

「ほ、ほな。とりあえず、飯の用意でもさせてもらいますわ。おい長頼。飯や。酒や。ちゃっちゃと支度せい」

ふと、供の長逸に目をやった。腹心の彼でも、今日の展開には驚くものがあったらしい。仏頂面を保っているが、膝が小刻みに揺れている。ひょっとしたら、長慶に振り回される者同士なのかもしれなかった。

 

平蜘蛛町の自慢料理、ふぐ鍋を用意した。いい料理人を雇っているから、味には自信がある。龍吉も現れて長慶に酌をした。家臣となった以上、主君をさっそく喜ばせたいという思いがあった。

長慶が箸を伸ばした。旬を迎えてぷりぷりと弾力よく、丁寧に下ごしらえされた身。出汁は一級の昆布。つけ汁だって醤と酢、煎り酒、生姜を混ぜた料理人の特製だ。さあ、喜んでくれ。褒めてくれ。

「久秀よ。お主はかわいいところがあるのう」

「……は?」

「私には毒もありますが、上手に使えば有能な家臣ですよとな。……おう、これはうまい。たいしたものだ」

皆に注目されて、久秀の顔が真っ赤になる。膝立ちになって手を振った。

「か、勘違いせんといてや! そんなんとちゃうし!」

一座に明るい笑いが起こった。

「まったく。あたしゃ、こんな風に落着すると思ってましたよ」

立ち上がった龍吉が、扇子を片手に即興の舞を見せた。その所作には、優しい祝福がこもっていた。

 

続く