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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十三 白無垢の段  ――細川六郎 天文の大飢饉に支持を落とし、三好長慶 波多野と婚姻同盟を結ぶ――

十三 白無垢の段

 

天文九年(1540年)の夏。

阿波の旅から帰国した田中与四郎は、久しぶりの我が家でゆっくりと身体を休めていた。阿波や船上と違って、柔らかい畳に寝転んで手足をいっぱいに伸ばすことができる。い草の匂いが常より甘く感じられた。

長慶の手引きにより、阿波国主の細川持隆との面会が叶った。阿波藍や木材の交易量を更に増やすことができる。息子による家業の繁栄は、父与兵衛を大きく喜ばせた。

生家であるとと屋は堺でも指折りの富商だが、上には上がいる。天王寺屋など、日明貿易を手掛ける商家は別格の存在とされていた。日明貿易がもたらす物は富だけではない。唐風の数寄や芸術は堺を通じて畿内へ伝播していく。当然、天王寺屋の津田宗達は茶器の目利きでも指折りの実力者だった。名物と呼ばれる茶器は、ほとんどが唐物なのだ。

(まずは商売繁盛。そうでなければ、茶の修行もおぼつかぬ)

茶の湯への傾倒が、結果として与四郎の商魂を高めている。それにつけても、日明貿易が羨ましかった。とと屋は国内の交易路しか有していない。明国が海禁政策を取る限り、密貿易ですら参加者が絞られてしまう。仮に資金を蓄えて名乗りを上げたとしても、新規参入は困難だった。

明の海禁政策は、当初は倭寇対策が主眼だった。しかしいまでは、成長し続ける明国沿岸部の在地勢力を統制する意味合いが大きくなっている。日本の商人にとっては甚だ迷惑な話だった。豊かな市場が目の前にあるのに、むざむざ指をくわえて見ているしかない。これは商人にとっては侮辱に近い。

(日本も明国も同じだ。商人の活動を理解できず、力を統御できず。その癖、偉そうに上から支配しようとする。銭稼ぎは不浄だと卑しむ目で見てくる。税あっての政権なのに、商売の邪魔ばかりして)

自分が六郎や公方なら、明国へ強気に開国を要求するのに。そんな妄想をするのは、決して与四郎だけではないだろう。

 

「難しい顔をしてどうした」

与兵衛が茶菓子などを盆に乗せ、部屋に入ってきた。

「あ、どうすれば目利きが上達するかなと」

「帰るなりそれか。ははは、お前もいっぱしの数寄者になってきたのう。まあ、こればかりはたくさんの名物に出会うしかあるまい。そう言えば聞いたか。三好宗三殿が九十九茄子を手に入れたらしいぞ」

「えっ! あの九十九茄子ですか」

「なんでも法華の乱で京を離れた町衆から、宗三殿の人物を見込んで託されたそうだ」

茄子型の茶入は、名物の中でも特に格が高いとされている。それだけに実物を見る機会は得にくい。一度だけ、紹鴎が愛蔵の茄子茶入を見せてくれたことがある。ぽっくりとした丸いなりに飴色の釉が柔らかく溶け合い、更に三筋の白い釉色が趣深い景色を描き出す。ひと目以来胸を焦がし続けているあの茶入。九十九茄子は、その紹鴎茄子に並ぶ逸品だという。

「宗三殿は武家ながら、当代第一の目利き力を持っておられる。その噂を聞いて、取り入ろうとそこらじゅうから名物が贈られてくる。しかし宗三殿が手元に置くのは僅かで、大抵は銭に変えてしまうらしい。それが、かえって見事なのだな。宗三殿が手放さなかったということは、その品こそが大名物だという訳だ」

「いざとなれば、価値を釣り上げておいて大金を得ることもできると。いやはや、あの方は武人の枠に収まりませんな。武野紹鴎殿も手放しで褒めておられました。父上は、昨年の茶会で宗三殿が披露した茶器を聞きましたか。松島の茶壺。北野肩衝。志野丸壺。牧谿の画。青磁や唐銅の花入。数え切れぬ天目の茶碗。南蛮渡来の香入まであったとか。ああ、それに九十九茄子。やはり名物は、然るべき人のところに集まるのですね」

「せっかく商売で手柄を上げたのに腐るでないよ。真面目に研鑽していれば、いつかお前も立派な茶人になれるさ。焦るのは若者の特権だが、ほどほどにな。それより、阿波での首尾はどうだったのだ、おい。商いの話などではないぞ」

どきりと胸を打った。できれば避けたい話題だったのだが、父は当然強い関心を持っている。家の一大事にもなるからだ。

「……断られました。すげなく」

親子して、情けない顔を浮かべた。与兵衛がおうむ返しに声を出す。

「断られた、か」

「はい。武人以外に嫁ぐつもりはないと。それも、元長殿や千殿と肩を並べるくらいの男でなければ嫌だと」

「そ、そんな男が、日ノ本に何人いるというのだ」

芝生まで行って、いねに求婚してきた。阿波の山野は穏やかだったが、目当ての娘は峻烈だった。長慶には内諾を得ているものの、まるで効果がなかった。

「女として生まれた以上、天下を獲る男に添うことこそ本望。そう言ったきり、顔も見せてくれませなんだ。弟の千満丸殿はあれこれとよく世話をしてくれ、茶器の話などで盛り上がったのですが」

「弟などどうでもよいわ。……ああ、まさしくつるぎ殿の娘よな。長慶殿が生まれる前、つるぎ殿は吉野川に入って毎夜英雄の誕生を願ったというが。あれは本当の話なのかもしれぬ」

「ともあれ、一度千殿にも相談してみます」

「おう。長慶殿も波多野との婚姻で難儀したと聞く。ようやく嫁入りは年の暮れと決まったそうだが、起請文を出せとか散々な無茶を言われたらしい。案外、気の合う話ができるかもな」

いねを諦める気にはなれなかった。今回の旅でも見てきたが、彼女がいけた花は阿波の自然そのものの美しさがあった。美の意識、美の感性が常人とはまるで違う。そして、それ以上に彼女自身が美しかった。勝気な気性も、負けず嫌いな自分とはよく合うのではないかと思われた。いねと、二人で二人が思う美を完成させることができたら。

 

与兵衛がふらふらと立ち上がった。失意にありながらも、商いの指示だけは忘れない父である。

「落ち着いたら少し市場を調べてくれぬか。気になる点がふたつ。会合衆の間でも懸案に上がってきておる。ひとつは河内・大和からの武具発注が増えていること。それも、相当な広範囲から、少量ずつ注文が来ている。もうひとつは、替米証文(米の為替)が多数、行方知れずになっていること」

「替米、ですか」

「数年前までは豊作が続いただろう。それで米価が下がって、難儀した米商人が替米証文を叩き売った。期限の定めがないものをな。それを、買い集めた奴がいるかもしれぬ」

「なんと愚かな。破綻を先延ばしにしただけではありませんか」

「愚かでも、食うに困れば何でも売るのが商人だからな。翻って今年は異常な大雨が続いた。間違いなく酷い凶作になるだろう。飢え死にが多く出るかもしれぬ。そんな時、僅かに残った米まで替米の履行を浴びせられて吸い上げられたら」

「被害は米商人だけでなく、世の中全体に及ぶということですね。銭の価値も暴落する」

「そうだ。このことも長慶殿の耳に入れておいてくれ」

武器を取って争う戦と、銭と米を使って争う戦。ふたつの戦が近づいているのだろうか。思案が浮かべばすぐ動くのが与四郎の習慣である。さっそく長慶に宛てて、長い書状をしたため始めた。

 

  *

 

秋。想像を絶する凶作が日本中を襲った。後に天文の大飢饉と呼ばれる厄災である。

被害は激甚だった。餓死する者が続出した上、疫病までが流行。各地で盗賊が跋扈し、治安の悪化は著しかった。米の高騰により、銭の価値は著しく下落した。銭一貫で米一石だったのが、五貫出しても十貫出しても米が手に入らない。潰れたり夜逃げしたりする商家も多く現れた。

米と銭の混乱は、必然、政治への不満を惹起した。甲斐では、飢饉の中にあっても遠征を繰り返した武田信虎に対して国人衆の不満が高まっているという。安芸に攻め込んでいる尼子の大軍も、補給線の不安により士気が大きく下がっているらしい。反対に、尼子を相手に三箇月も籠城している毛利元就の戦ぶりが評判になっていた。

その他、大名小名に変わりなく、あらゆる統治者が飢饉への対処を求められた。施米を施す者、隣国への侵略を企てる者、民の締め付けを厳しくする者、税の取り方を切り替える者、国人衆に見限られる者――危機へ直面し、政治家は皆その器を白日の下に晒された。飢えという、生き物の根源に迫る課題が政に何かを問いかけてきているようだった。

 

わけても被害が大きかったのが、この京である。都市の性質上、朝廷、公方、細川政権、寺社など、非生産者の数が多過ぎるのだ。しかもそれら米を作らない者たちが優先的に食糧を確保していくのだから、庶民の困窮は推して知るべしだった。

宗三は備蓄米を開放し、私財を投げ打って米を集めるなど施しに努めたが、焼け石に水だった。死体が町に溢れ、寺や河原に積み重なっていく。町では応仁の乱以上の惨劇だと言われていた。朝廷や公方は祈祷を行うなど、民の非難をかわす術に長けている。怨嗟は、細川家に集中した。経験の浅い政権は初動に粗忽なものがあった。施米や炊き出しなどの対応でも、日時違いや動線の乱れが頻発した。

「六郎様、もはや猶予はありませぬ。繰り返しとなりますが、思い切った手を打たねば暴動も起こりかねぬ世情。幾分は被害が軽いと聞く四国や九州の大名に支援を要請してみましょう。次の大評定でも議題に上げ、全国横断で対策を検討するべきです」

これが三度目の進言だった。

「気が進まぬ。なんでわしが持隆や田舎大名に頭を下げねばならぬ。どうして自ら慌てふためかねばならぬのだ。お主は主君に恥をかかせたいのか」

そう言って、六郎は機嫌悪く去っていく。再び宗三を重用するようにはなっていたが、何かにつけて自分の意志を通そうとしてくる。二十半ばを過ぎた六郎は、お飾りの君主でいまいとする意向が強くなっていた。と言っても、賢君たるべく学問に励んだり、民の暮らしを視察したりする様子はない。ただただ反対のための反対を言い放つのみである。逆の言い方、民など放っておけと言った方がよかったかと、宗三は反省した。

事態は悪化している。京だけでなく、河内、摂津、大和などで妙な流言が出始めていた。この飢饉に合わせて、六郎や公方、公家、大寺社など、貴種への憎しみを煽る内容だった。

(この手口、間違いない。木沢長政の仕業だ)

宗三はそう推測していた。畿内の裏側で蠢いてきたあの男が、またもや何かしようとしている。民を煽動した上で、謀反でも起こそうという腹か。元長の死、一向一揆法華一揆、長慶謀反の風評と、あの男には随分好き放題させてしまったものだ。

幾つか手は打ってある。河内と細川領の境目、淀川流域に複数の城や砦からなる防衛線を築いた。複雑な淀川水系の守りもあり、摂津や京への侵攻は容易ではない。芥川孫十郎など、友軍の増強にも努めた。摂津下郡の支配を強める長慶とも、対長政という点では団結できるはずだ。懸念があるとすれば、宗三の不在時に六郎を狙われたり、京を陥れられたりすることだった。政権の宰相でもある宗三の弱点は、戦だけに専念できないことである。

(六郎様の覚えがめでたかったからこそ、いままであの兇徒を生かしておいた。動いてみよ、長政。いまの六郎様は、増長した貴公を許しはしないだろう。天下を舐めた報いを受ける時だ)

来年はおそらく長政との戦になる。そのためにも、まずは足元の飢饉を鎮めることだった。各地の米の量、価格を精緻に調べるよう指示を出す。地域ごとの具体困窮状況の把握、朝廷や公方が有する備蓄の調査、近隣国人への協力取付け、堺の会合衆との折衝。やることは山ほどあった。

摂津下郡では被害を最小限に抑えることができているという。やはり、長慶の手を借りたかった。

 

  *

 

祝言などの儀礼は、小笠原礼法が上とされている。求心力を失った公方は信濃の小笠原氏を取込み、権威の箔付けに利用していた。地方の大名などは重大な儀礼があれば、相応しい作法を学びに中央へやって来る。公方が懇切に指導することで、彼らは喜んで国へ帰っていく。公方に恩を感じるようにもなる。こうした素朴な求めがなくならない限り、朝廷や公方が真に力を失うこともないのだろう。

三好家は小笠原氏の分家ということになっているが、そうした出自を頼りに思うことはなかった。そもそも、本当に小笠原氏の末裔かどうか疑わしいのである。曾祖父の之長あたりが自称し始めたのではないかとも言われていた。だからという訳ではないが、長慶個人は礼法に精通していても、人にそれを押し付けることはなかった。この婚礼でも、波多野家の意向を可能な限り尊重したつもりだ。

冬空の下、丹波に向かう。山道は霜のついた枯葉に覆われ、馬が歩む度にしゃりしゃりと音が鳴った。

 

一般の作法では、早朝から城門の前で何度も婿の使いが訪いを告げ、嫁の家族はもったいぶってなかなか門を開けないということになっている。大名ともなれば、夕方まで使者が待たされることもあった。だが、長慶の来訪を知った稙通は慌てて門を開き、手ずから長慶を城へ迎え入れた。朝まで家族による別れの宴が続いていたのだろう。中では真っ赤になった晴通が倒れていたが、長慶に気づくと俄かに絡んできた。

「きさま、ながよしか。いもうとをふこうにしたらゆるさんぞ。せいしをわすれるな」

呂律の廻らぬ口で、何度も同じことを繰り返した。仕舞いには、咽び泣いて手を握ってきた。

「すまぬな、長慶殿。こやつはあまねに死んだ母を重ねているのだ。決して悪い男ではないのだが」

「いえ、当然のお言葉です。私にも妹がいますから」

いねは、ようやく与四郎との縁談に耳を貸すようになっていた。いずれは元長も夢見た大商人、更には天下一の茶人になる男だと、長慶が断言したことが効いたらしい。それからも与四郎は芝生へ心尽くしの数々を贈っている。堺から届く宝に惹かれて、千満丸はすっかり与四郎の味方をしているそうだ。

「稙通殿。知っての通り、私にはもう父も母もいません。頼もしき義父を得て嬉しく思っています。……この宴の余韻も、本当によい家族なのでしょうな」

「なんの、父と息子の間すら上手くいっておらん。一家を治めるというのは、政治よりも難しいものだ。婿殿、あまねを頼みますぞ。あれが人並の幸せを得れば、それだけでわしの生きた甲斐があったと思う」

「義父の気持ちを受け継ぐことが、婿の仕事始めですね」

「はは。こんな話を聞くためにわざわざ丹波まで来てくれたのか。優しいお方じゃの」

稙通が拳を突き出してきた。長慶も腕を伸ばして、二人の拳を合わせる。ごつごつした稙通の手、日輪のような眼差し。あまねを育て上げたこの大きな魂が、ただただ尊く、ありがたいと思った。

 

丹波から西宮まで、駕篭で二日。休息に一日。そして、西宮神社での一日がかりの祝言儀礼。夜は、越水城内での宴。ここまであまねと口を利くことはできない。移動中も儀式の間も、嫁には実家が付けた侍女や見届け役がぴたりとかしずいており、婿は婿で口上だの挨拶だのに忙殺されるのである。

飢饉の傷が癒えない中、料理は質素だった。白米が盛られたのは神前と夫婦席だけ。魚介類はある程度並んだが、田畑の作物はほとんどない。止むを得ないとはいえ、出席者は侘びしい思いをしていた。

その時、得も言われぬ匂いが辺りに漂ってきた。郷愁を誘う芳しさ。波多野家からの贈り物、丹波松茸の網焼きだった。米の不作を招いた大雨は、茸の生育にはかえってよかったらしい。大ぶりな松茸が一同の歓心を煽る。焼き上がりに、阿波橘の果汁をひと雫。誰もがひもじさに耐えて暮らしている中、この松茸は数箇月ぶりの贅沢だと言ってよい。全員が無言で食らいついた。舌を火傷する者もいたが、その火傷すら飢饉の中ではご馳走だった。

長慶の領国では、銭の価値が一定でないことをよく周知している。銭・米ともに備蓄は厚い。四国から迅速に食糧を調達することもできた。商人から強制的に米を買い上げ、従来価格で市場に流し直すようなこともやった。結果、領内では飢え死にはほとんど起こっていない。それでも厭世の空気は蔓延しており、気が滅入るような事件も多かった。そんな中、この祝言は久々の明るい話題である。関わりの薄い庶民ですらこの慶事を喜んだ。

宴の間、時おり長慶はあまねの姿に目を止めた。白無垢姿のあまねは、まるで泥中の蓮のようだった。この飢えと戦と陰謀をこき混ぜたような暗黒世界の中で、彼女だけが真っ白に輝いている。そうして、その天女もまた、長慶に視線を送り返すのだった。

 

深夜になってようやく宴が終わり、重臣たちが下がっていく。祐筆に採用していた久秀が助平な笑みを浮かべてこっちを見ていたが、同じく警護役を任じた長頼に引っ張られていった。

床入である。清浄に整えられた寝室に、長慶とあまねの姿だけがあった。どうしてよいか分からないのか、あまねは布団にも入らずまごまごしていた。事前に火桶で暖めてあるとはいえ、部屋は寒い。長慶は手を取って、彼女を布団の中に招き入れた。布団の中は未だ冷たい。

「あ、あの」

あまねから話しかけてきた。久しぶりに話すような気がした。

「あたしで、よいのですか」

「……何を今更」

「こんなに、お尻も薄いのに」

「ふふ、あはは。しおらしくしているかと思えば、そんなことを気にしていたのか」

「だって、だって……。長慶様。あ、お前さまは、初めてでは……ないのでしょう?」

苦笑。再度あまねの手を取り、自分の胸の上へ置いた。

「動悸が早いだろう。私も、怖い。怖いのは同じだ。これからは、何もかもが二人一緒だ」

「……ほんとだ。激しくて、熱い」

「今日、明日。夫婦暮らしを例えれば、果てなき旅路に降りた霜。一足ずつに消えて行く――夢の夢こそあわれなれ。耳に残りしその音色、同じうあるは救いなれ」

抱き寄せる。いつの間にか、あまねの身体が火照っていた。瞳が潤む。白衣が濡れる。

「お前さま」

口を吸った。吸い合った。あまねの細い腕が男の背中に絡みつき、長慶の壮健な肉体が女を打った。

「この香り」

「そう、この薫り、ああ、溶けてしまいそう」

揺れる振り子は止まらない。

「このまま、恋の繭に閉じ籠めていたい」

そう呟くあまねの黒い髪を、ずっと撫でていたかった。

 

  *

 

年が明けて、天文十年(1541年)。

飢饉による重苦しい雰囲気を晴らせればと、長慶と地域の代表たちが談合し、西宮神社十日戎に合わせて様々な催し物が開催されることになった。自分の主君ながら、よい思いつきである。

祭礼に加え、長慶と千句講による連歌奉納、周辺の力自慢を集めた相撲大会、琵琶物語の朗読。子ども向けには、羽つきや射的、貝合わせなどなど……。深刻な生活状況の中とはいえ、もともと十日戎自体が人出を呼ぶものだから、この日は周辺諸国からも見物客が集まり大変な混雑だった。

家臣たちも交代で見物に出ることが許された。阿波の山奥育ちの新五郎にとっては都会の習俗が何もかも珍しく、一つひとつの催し物を覗いては心が賑わう。

とりわけ観客が集まっている場所があった。どうやら、西宮が誇る傀儡芸を見ることができるらしい。この芸の完成度は全国でも並ぶものがないという評判だったから、貴賤を問わず大勢の人々が集まっている。よく見れば、あまねと侍女たちの姿もあった。武家のおなごは人前に姿を見せるものではないそうだが、共に山育ちの長慶とあまねは固いことを言わない。西宮の民もそういうくだけた殿様夫婦を受け容れていた。

「よう、兄ちゃん」

通りかかった久秀が話しかけてきた。平蜘蛛町で痴態を見せて以来、新五郎はこの男が苦手である。祐筆に細々指示を出すべき斎藤基速も、恥じらいが頭をよぎるのか、強く出ることができていなかった。

「ええ趣味してるやんけ。演目を知っとるんか? 塩冶判官死出の旅言うてな。きれいな嫁さん貰て一所懸命働いてた侍が、悪党の上役に嵌められて死んでまうんやで。ほんまに酷い話や」

「な。筋をばらさないでくださいよ」

「ぎゃはは。お、見てみ。あまねの姐さんも来てるやん。かあー! ええのう、あのうぶさ。どんな女がええて、ああいう色の知り始めほど美しいもんはないわ。人生一回こっきり、恋の花開くときっちゅうやつやな」

「はいはい。おとなしくできないなら、余所に行ってください」

久秀を追い払い、新五郎は傀儡芸に見入った。糸で操られる精巧な人形。遊戯染みた芸かと最初は思っていたが、その動きは本物以上だった。三人の女が筋を謡い上げる。幸せな夫婦。武功。上官による妻への横恋慕。無実の罪。いつの間にか人形に合わせて新五郎も激昂し、嘆いていた。

やがて追いつめられる夫婦。山を越えて逃げることができるか。追っ手の無慈悲、もはやこれまで……。糸が切れたかのように夫婦の人形が崩れ落ちた。謡が悲劇を結ぶ。没入していた観客から、悲鳴と上官への怒号が上がった。そうした中、新五郎は滂沱と涙し、立ちすくんでいた。

 

  *

 

「之虎にこの短刀を与えよう。銘はないが、相州伝の大業物じゃ」

長慶の弟、千満丸が元服した。名を之虎と改めた彼に、持隆が祝いの品を取らせる。朝焼けのような紅の鞘から白金色に輝く刀身が現れた。

「“暁天”とでも名付けましょうか。これほどの品をいただけるとは、感謝、恐悦の極み」

之虎が優美に礼を述べる。眉目秀麗な彼に、その刀はよく似合っていた。

「うむ。人目を引く鎧や太刀もよいが、懐に逸物を忍ばせるのもまた格好よいものだ」

持隆も上機嫌である。三好兄弟を慈しむ心には一遍の翳りも生じていないらしい。いまも心から之虎の元服を祝っている様子。康長にとっても、心が温もる光景だった。

「ときに之虎よ。姉を芝生に置いたままでよいのか。こちらに連れて来たらどうだ」

之虎は今年からこの勝瑞館で持隆に仕えて、守護の統治というものを学び、支える予定だった。

「そう勧めたのですが、芝生がよいと。嫁入りの話が出ていますでしょう。それで拗ねているのです」

「おお、あの堺の与四郎だな。よい話だと思うがの。これからの時代、わしだって嫁ぐなら武士よりも商人がよいわ。カカカ」

「本人も頭では分かっているのでしょうが。一度断った手前、意固地になっているのですよ」

一丁前に之虎が答える。康長から見て、之虎といねはよく似ていた。似ているからこそ、気持ちが分かり合っているのかもしれない。

「さて康長よ。あちこち回ってもらいご苦労だったな。まさか毛利があれほど粘るとは、わしも思わなんだ」

毛利元就の頑健な抵抗、大内援軍陶晴賢殿の果敢な戦ぶり。共に見事なものです。兵糧の不安もあって尼子の士気は減退、遂にはあの尼子久幸を失い、総退却と相成りました」

「ううむ、あの新宮党を跳ね返すとは。大内と飢饉に助けられたとはいえ、毛利元就とやら恐ろしい奴」

「巧みな用兵、領民の掌握、友軍との連携など、いずれも水際立っておりました」

元就には鬼神が宿っているかのようだった。まるで、かつての元長のように。

「それに、あの陶興房殿の遺児、晴賢か。若い人物が出てきたなあ。この晴賢殿は長慶と同年代だろう」

「確か、晴賢殿がひとつ年上かと」

「ならば二十一歳か。案外、長慶の活躍を聞いて発奮していたりしてな」

「ははは。それは身贔屓というもの」

「いやいや分からぬぞ。阿波から小勢で畿内に渡り、時の政権を相手に摂津半国を手に入れたのだから。日本中の若者が嫉妬しておろうよ。なあ、之虎」

之虎の目がぴかぴかと光っている。どうやら、弟も偉大な兄に負けん気を抱いているらしい。

「カカ。来年には千々世も元服だろう。あれも楽しみな男だ。それに、十河の又四郎」

「もう十歳になりました。身体は並の成人よりも大きく、逞しく。その辺の大人では手に余るようで」

「元長が死んで、もう十年になるのだなあ。そうか、又四郎も大きくなったか」

「正月から溜め池で泳いで、義父の存春殿にこっぴどく叱られたそうです」

傍らの之虎が吹き出した。

「叔父上、その話は内緒にするという約束だったでしょう」

「おお、すまん。つい」

「よいよい。様々不幸はあったが、三好の家運も開けてきたではないか。げに頼もしき兄弟たちよ」

持隆が手を上げた。従者たちが酒などを用意し、宴が始まった。飲みなれていない之虎は頬が艶やかに染まり、その顔を持隆が愛おしそうに凝視していた。

 

  *

 

「長慶様、遅いですねえ」

女中頭のおたきが話しかけにきてくれた。今日もあまねは一人で食事を済ませ、夫の戻りを待っている。

本願寺の偉い人がお越しだったけど、まだ難しい話を続けているのかしら。新妻をこんなにお待たせして、憎いお殿様ですこと」

「いえ、いいんです。お仕事なんですから」

あまねはそう答えたが、唇の端が僅かに震えている。

長慶は忙しい男だった。午前中は奉行たちの報告を受けて指示を出し、午後にはどこかへ出かけていく。夜は書見をするか、来訪客の相手だ。細川家や公方、公家、寺社、町衆、四国衆など、さまざまな客がひっきりなしに会いに来る。今日のように接待が深夜に及ぶことも珍しくない。ときには反抗勢力の鎮圧や京の有力者への拝謁とかで、城を何日か空けることもあった。

それでも夜はよかった。遠出の予定でない限り、待ってさえいれば長慶は帰ってくるのだ。それにひきかえ、夜明けの辛さはあまねの胸を千々に引き裂いた。鳥が鳴きだす前に長慶は床から抜け出し鍛錬に出る。自分の半身を喪うような思いがして、あまねはつい引き留めてしまう。足を絡ませ、離さないようにすることもある。そうやってすがっても、長慶はいつもあまねの頭を優しく撫でて、さっさと行ってしまうのだった。

(あたしは色深なのだろうか。おかしいのだろうか)

一人でいると、延々とそんなことを考えてしまう。この数箇月であまねが思い知ったことは、結婚しただけで悩みや寂しさが晴れる訳ではない、ということだった。

「我慢ですよ、あまね様。女は皆そうなのです。恋しい人が生きているだけ、ありがたいと思わなければ」

おたきが朗らかに笑って、あまねの肩を揉んでくれた。温かい。水仕事で掌は固くなっているが、心地よい安心感があった。

「おたきさんの、夫は」

「とうに死んでしまいましたよ。男ってのは、どうして戦が好きなんでしょうねえ」

「……すみません」

「気になさらないで。でもね、あまね様。寂しいなら寂しいって、ちゃんと言わないと駄目よ。男なんて鈍感が着物を来て歩いているようなものなんだから。長慶様だって例外じゃないわ。いえ、むしろ、ああいう何でも分かっている風な人の方が女心には疎いものよ」

「そうなんですか?」

あまねが目を丸くした。あの人が鈍感……? そんなことがあるのだろうか。

「そうよう。夫婦って、通じ合っているようで全然そんなことないのよ。言いたいことは言わなきゃ」

「そうなんだ……」

「私でよければ、いつでも愚痴に付き合うわよ。遠慮なく遊びにいらしてくださいな」

「はい。ありがとうございます」

あまねの身体をくすぐってから、おたきは下がっていった。

気持ちがほぐれたような気がする。姉がいるとしたら、こんな感じなのかもしれない。

 

更に一刻ほどして、長慶が帰ってきた。心なしか、気持ちが高ぶっているようだ。

「あの」

「む」

「そんなに目を爛々とさせて、何か、あったのですか。本願寺から悪い知らせでも」

長慶が意外そうな顔をした。あまねが政務のことを聞くのは珍しい。

「ふふ。どうした、急に」

「お前さまがいつも何をしているのか、何に困っているのか……知りたいんです。あたしに何かできる訳ではないし、話せないようなことも多いんでしょうけど……」

本音だった。よく考えれば、あまねは長慶の人柄や薫りに惹かれて嫁いではきたものの、彼の仕事ぶりは世間の噂で聞くほどにしか知らないのである。叱られるかとも思ったが、夫の反応は穏やかだった。

「凶作で、米の値段が急騰しているのは知っているだろう。そこに、大量の替米証文をぶつけて巨万の富を築いた者がいる。前から存在は噂されていたが、それが誰だか分からなかった。それを本願寺の情報網が遂に暴いたのよ」

「どなたなんですか」

「うむ。尾張国守護代配下、織田信秀という男だ。津島湊の商人と手を結び、長年かけて相当手広く証文を集めたらしい。今回上げた利益は、全部で十万貫近いという話だ」

「じゅっ……! 米の価格が変わっただけで、それほどの」

小国の税収が、確かそれくらいではなかったか。いずれにせよあまねには想像もつかない金額だった。

「恐ろしい男だ、久しぶりに震撼したわ。米の相場で銭を稼ごうという発想は珍しくないが、実際にやった者は少ない。成功したものは更に少ない。これだけでも非凡なのだが」

「他にも、なにか……?」

「考え過ぎかもしれぬが、今後の銭の反騰まで見越しているとしたら。信秀の名、天下に轟くやもしれぬ」

銭は急落したはずでは。もうひとつ理解が難しかったが、長慶が声を潜めて説明してくれた。

「ここからは誰にも言ってはならぬぞ、波多野にもな。……実は、明からの貨幣輸入が途絶えつつあるのだ。米の収穫はいずれ回復するが、銭の流通量を増やすのは難しい。今年は凶作だったとはいえ、傾向としては作物の取れ高も、工芸品の生産高も、すべて堅調に伸びている。じき、銭が足りなくなるだろう」

「それでは」

「いま銭を貯めておけば、数年先には数倍の価値になるということだ」

難しい内容が続き、このひと時だけで頭がぼうっとしてきた。丹波では聞いたこともないような話だ。長慶はいつもこんなことを考えて暮らしているのか。

「しかし今回の荒稼ぎで、随分と周辺勢力の反感を買うだろうからな。本願寺も長島の信徒が飢えて、憤っているようだし……。さて、東海は今後どうなっていくか……」

長慶が東海地域の勢力絵図を開いた。床に入らずに、情勢の研究でも行うつもりのようだ。

「待って。……お前さま、もうひとつ、よろしいですか」

夫の傍に寄って、衣の裾を握る。顔を見上げた。

「もっと、一緒にいたい」

言った。言って、後悔した。面倒な妻だと思われたかもしれない。

「そうだな。うむ、わかった」

さらりと長慶は返事し、あまねの身体を布団へ運んでくれた。ほんとに、伝わったのだろうか……?

 

続く