十五 亡霊の段 ――遊佐長教 朋友を裏切り、木沢長政 太平寺に死す――
十五 亡霊の段
天文十一年(1542年)。
元服を迎えた千々世は、名を冬康と改めた。“冬”の字は足利義冬の偏諱を賜ったものである。来年元服する義弟の野口万五郎は、冬長と名乗るつもりらしい。
恒例となっている細川持隆からの御下賜品。冬康には、朱漆の弓が授けられた。
「一張弓。本来は足利将軍家のみが持つことを許されるものだ。義冬公からも口添えいただき、なんとか制作してもらうことができた。黒漆と白漆を使わず、朱色の設えという条件になったがな」
武家は弓矢の家と呼ばれるだけあって、弓に関わる作法や決まり事は多い。弓を手に入れるにしても、家格や弓の腕前に応じた相応しさというものがあった。一張弓と言えば小笠原流弓術における秘宝中の秘宝のはずだ。見かけを朱漆で誤魔化すにしても、いち水軍の小倅に過ぎない冬康への下賜品としては明らかに不適当だった。
「お主は元長の遺児であり、義冬公の恩人でもある。謹んで拝領するがよい」
「は、は!」
気持ちが高ぶり、やや上気した面持ちで弓を受け取った。
「引いてみせよ」
立ち上がって弓を地面と垂直に、掌を耳ほどの高さに構えて、静かに弓を引いた。尋常ではない弾性と力強さを感じる。冬康の額に大粒の汗が浮かんだ。自在に使いこなすことができれば、矢はとんでもない威力と速度で飛んでいくだろう。
「天晴れ、よき構えかな。その年齢でそれほど引けるとはたいしたものじゃ」
「精進いたしまする」
「うむ。銘は何とするかな」
持隆の側近として仕えている之虎の方を見た。一張弓を羨ましげに見つめている之虎は、やはり持隆から賜った暁天という名の脇差を有している。
「虎兄が夜明けを冠する業物をお持ちですので……、こちらは“夕星”とでも名付けましょうか」
「おお、なるほど。確かにその弓で矢を放てば、人は宵の明星を見た気にもなるであろうよ」
勝瑞館に集った一同が感心したように息を漏らした。この海の男らしからぬ風流な気性の男は、四国の武人たちからも広く慕われている。
「これを持って、慶兄を助けにいければよいのですが」
「そうよな……。兵糧さえ充分にあれば」
持隆も無念そうである。
木沢長政による京占拠と貴人抹殺という企ては、三好宗三の手によって未然に防がれた。この一件で宗三はその声望を更に高め、反対に長政の勢いは大きく削がれることとなった。長政は貴種が逃げ出した後の京に入って無為に数日を過ごした後、虚しく河内へ帰っていったという。
一時は畿内中の貧民が反乱を起こしかねない気配だったが、この長政の空振りによって多くは無謀な蜂起を躊躇したらしい。長政に与する者は一万名ほどで打ち止めになっているようだ。
だが、それでも一万名である。長政の今後の行動次第では、それが数倍になる恐れもある。細川家も公方も早急な長政討伐を呼びかけているが、何しろ一昨年の飢饉で兵糧が少ない。飯盛山城、信貴山城(奈良県生駒郡)、二上山城(奈良県葛城市・大阪府南河内郡)など河内・大和境の山城を根城とする長政に籠城策を取られては、長期戦となることは避けられない。下手をすれば、楠木正成に攻め寄せた鎌倉軍の二の舞となる恐れがあった。
一庫で長政軍に敗れた長慶は、雪辱に向けて爪を研いでいる。夏には第一子が誕生するということで、戦意をしっかりと取り戻したらしい。いつまでもくよくよしてられぬと、調練や兵糧確保に励んでいるそうだ。
「とはいえ、焦ることはないさ。之虎。冬康。お主たちが力を合わせて、長慶を助ける日は必ずやって来る。それまでは実力の涵養に励むことだ」
そう言って持隆が慰める。その後の宴の場でも、冬康は之虎や康長たちと畿内情勢について語り合った。畿内に比べれば、四国は平和そのものだった。
*
いまは友の存在が支えだった。
この飯盛山城からは、畿内一円を遠望することができる。生駒山地と金剛山地を主な勢力圏とする長政から見て、すぐ西方は遊佐長教の支配下なのである。彼の居城である若江城、河内国の政庁たる高屋城(大阪府羽曳野市)など、河内の西側半国を領するその陣容は厚い。榎並城(大阪府大阪市)の宗三や越水城の長慶に対して、長教が盾になってくれている構図だった。
策は九割がた上手く進んでいたのだ。六郎の仇敵を餌に、敵を一庫に結集させる。その隙に長政は京を占拠し、貴種どもを粛清する。それが、孫十郎の抵抗によって一庫城では長慶たちに逃げられ、宗三の慧眼によって六郎や義晴の捕縛は失敗した。
宗三はやはり只者ではない。思えば、元長と丹波衆の仲違いを仕組んだ頃から宗三は長政の暗躍を突き止めていた。六郎の意向を操り、公方や大名との折衝実務を抱えさせ、更には長慶を利用し監視対象を分散させたが、それでも宗三の長政への警戒が緩まることはなかった。
「長慶、宗三、あの芥川孫十郎とやらも。皆、三好之長に連なる者たちではないか。大悪の一族がなぜわしの邪魔をするのだ。元長だけが出来損ないだと思っていたものを」
怒りに任せた独り言を繰り返し、部屋の中をうろうろと歩く。
傷は大きい。民衆蜂起というものは勢いが八分、理屈が二分である。京の貴人抹殺を失敗したことで、長政の行動に心を寄せていた者たちの間に白けた空気が漂った。反乱の指導に不可欠な、長政個人の威光が翳ってしまったのである。
六郎や公方が長政討伐を広言し始めたということも大きい。中央政府を敵に回すということが、民には相当の脅威に映るようだ。集まるはずの兵が現れず、集めた兵が逃亡することも多かった。
加えて昨日からは、紀伊国からの支援物資搬入が途絶えている。
これは不可解なことだった。紀伊に対して六郎たちが何かを工作できるとは思えない。
「琴はいるか」
呟いた。部屋の外にいては聞こえぬほどの小声である。
「ここに」
部屋の隅から返事があった。よく見れば、いつの間にか琴が座っている。
「紀伊からの連絡が途絶えた。お主、何か掴んでおらぬか」
「……」
琴は返事をせず、懐から一通の書状を差し出した。
奇妙に思いつつも、受け取って包みを開く。
「!」
手足がぶるぶると震え、顔に哀しみとも怒りとも分からぬ苦痛の色が浮かんだ。声を出そうとしたが、その口に腹の奥からおぞましいものが昇ってくる。堪えきれず、畳の上に吐瀉物を撒き散らした。その様子を、琴はいつもと変わらぬ冷ややかな目で眺めている。
書状には、遊佐長教の筆跡でこう書かれていた。
――長年の夢、黄金の夢が傷ついている。友よ。玉となりつつ砕けたまえ。死して伝説となりたまえ。君の犠牲が夢を癒すだろう。夢は熾火となって燃え続けるだろう。友情は永遠であり、夢もまた永遠である。先を譲ろう。待っていてくれたまえ。後は私に任せたまえ――
*
「花をいけるところを、見せろと」
「私は隣で茶を点てましょう」
堺の商人、田中与四郎が再び現れた。何度もつれない態度を取ったのに、諦めるつもりはないらしい。呆れつつも自分の心は揺れている。いや、喜んでいるのを認めない訳にはいかなかった。
「互いの所作を見せ合ってどうするの」
「心映えが通じ合うと思います」
今日の与四郎は、以前とは違って静かな自信に満ちている。覚悟のある顔、戦士の顔だった。こんな顔ができるなら、もっと早く見せてくれればよかったのだ。
申し出を承諾し、いねは花の準備に取り掛かった。
芝生城には簡単な造りの茶湯座敷がある。つるぎと之虎が茶の湯の稽古に励んだ場所だった。つるぎが死に、之虎が勝瑞館に移ってからは、この部屋に近づくのを意図的に避けていた。
つるぎから嫁ぎ先がない、と言われていたのを思い出す。元長を理想の男とするいねにとって、大抵の男はつまらない存在にしか見えなかった。某大名との縁談話もあったが、相手の小人物ぶりに呆れて即時に断っていた。長慶や康長は悩んだ末、阿波の有力国人である篠原家の嫡男が優秀だと聞くので、彼の元服を待とうかなどと話していたくらいだ。それはそれで、周りに気を使われているのが癪だった。
いま。花を手にしながらも、視線をつい与四郎の手元に向けてしまう。こうして狭い一室に二人でいると、思ったよりも迫力のある男だった。商人らしからぬ背の高さと、がっちりとした身体つき。何度弾かれようと、真っ直ぐにいねを求めてくる一徹。そうした荒々しいものを内に秘めつつも、釜を用意する眼差し、茶器を拭う指使いは、あくまで慈愛に満ちている。
(兄様に、似ているのかもしれない)
いままで自分は、この男の何を見ていたのだろう。商人ということで、軽く見ているようなところがなかったと言えば嘘になる。武人だ、町人だという外観や家柄に囚われて、内実から目を背けていたということか。
時おり与四郎と目が合った。彼は顔色ひとつ変えずに所作を続けているが、いねは真っ赤になって下を向いた。与四郎の手前は堂に入っている。よい師についてよい修行を積んでいるのだろう。思うがままに花をいけているだけの自分が、浅ましく思われた。
茶は温かく、おいしかった。いままで使っていなかった身体の奥底まで滋味が届いたような気がした。
「……与四郎殿」
「なんでしょう」
「私が間違っていたようです。器量も、風流も、私はあなたに負けました」
そう言うと、与四郎は心外そうな面持ちになった。
「勝ち負けを押し付けるような茶に、なっていましたか」
「いえ、私が勝手にそう思ったのです。あなたのお茶は、私の世界を広げてくれました。……本当は、ずっと前から分かっていたのです。兄や弟が新たな世界へ進んでいるのに、私はずっと子どものままで」
「……」
「父や母の霊魂に、甘えていたかったのです。お礼を言わせて。あなたは私を救ってくれたの。与四郎殿のお茶は、人の心を開くお茶なのですね」
素直に言うことができた。家族でもない他人に胸襟を開いたのは、生まれて始めてだった。
与四郎の瞳から、線となって涙が滴り落ちた。
「忘れ得ぬ言葉を、いただきました」
懐紙で涙を拭い、与四郎が頭を下げた。
「私も同じです。あなたが生けた花を初めて拝見した時。私は、遂に出会えたと思いました。あなたの花には山野の美しさが宿っている。それは、頭で考えたものではない、誰かに与えられたものでもない。誰もが知っていて、誰もが目に止めてこなかったものなのです」
「そんな……」
「私はあなたと一緒に、美のありようを前へ進めていきたい。二人で夢を追いたいのです」
与四郎の目線の先には、いねがいけた梅があった。古木の逞しい枝ぶりの白梅を三分、若木の鮮やかな紅梅を七分、大胆に瓶へ放り込んだものである。
「よく、分かりました。お受けいたします。……但し、ふたつ約束してください」
表面に出かかった愛嬌を押し込め、凛とした声音で念を押した。
「天下一の茶人になること。もうひとつは、海外との交易路を開くこと。これだけは譲れませぬ」
妻は命を懸けて夫の夢を支える。夫は、元長の夢を受け継いだ男でいてほしかった。
満面の笑みで与四郎が答える。
「お安い御用でございます」
*
「死なないで」
出陣の朝。身支度を整える長慶の袂を握り、あまねが言う。その見上げる瞳は赤く腫れていた。
「遺された母と子の辛さは、よく知っている」
あまねの唇が震える。動揺した時の癖が、微笑ましいと思った。
「それだけじゃいや。約束して」
「ふふ。そなたも身体を冷やすなよ。気分が悪くても、少しずつ食事を取るのだぞ」
「約束、してください」
すすり泣き始めた。先の敗戦。懐妊に伴う心身の変化。不安と心細さは並大抵ではないだろう。
「……約束はできぬ。できぬが、そなたが身籠ってくれたお蔭で、私はいま、すこぶる元気だ。礼を言う」
「ずるい。お前さまは、ずるい」
追いすがってきて袖を湿らせる。その頭をしばらく撫でてから、長慶は兵の前へ姿を現した。
摂津国、榎並城。宗三の手によって大改修がなされたこの城は、複雑な淀川水系と厚い防備施設に守られ、さながら水上要塞のようである。
長政討伐に向け、長慶は宗三や孫十郎たちと連日の軍議を重ねていた。
遊佐長教の内応が、情勢を大きく動かしている。長教はふたつの畠山を統合し、河内・紀伊の支配を盤石にする腹だ。公方は長教の行動を称賛している。長政を討ち果たし、畠山という六郎への対抗軸を手に入れられれば、公方にとっては一挙両得だからだ。
「遊佐長教を、信用するかどうか」
宗三が言う。戦後のことを案じてだけではない。寝返りが偽りならば、我々を河内深くまで進ませた上で長政と挟撃にかけることも可能だ。長教はそう疑われて当然の男である。
「しかし、じっとしている訳にもいかない。兵糧を無駄にするだけだ」
孫十郎は早く戦を開きたくてうずうずしている。
「考えなしに攻め立てて、山へ籠られるとやっかいだ。長政がいま、どの城にいるのかもはっきりしないのだぞ。城を一つひとつ落としても逃げられる可能性が高い」
「ああ、わしも城攻めは嫌だ。性に合わん。野戦でぱあっと片付けてしまいたい」
「相手の嫌がることをやるのが戦だ。長政も当然そう考える」
「自分のやりたいことを上手くやるのが戦だろう。おい長慶よ。黙っているが、何か策はないのかい」
長慶は窓から淀川の流れを眺めていた。いまの、二人の会話。何か聞き逃せないものがあった。長政の頭が冷静なら、籠城策を選ぶはず。野戦に誘導するためには、長政自身がそうしたいと思う必要がある。淀川。鷺が飛んできて、魚を捕らえた。水鳥は捕食を躊躇しない。長政が鷺だとすれば、魚は何だ。
「よいことを思いつきました」
宗三と孫十郎が顔を見合わせる。
「ほ、本当かよ。聞かせてくれ」
「但し、危険な策です。私と孫十郎殿は河内奥深くへ進軍し、信貴山と二上山のちょうど中間辺り、そう、大和川と石川が交わる付近(大阪府柏原市)に陣を敷きます。宗三殿は高屋城付近で進軍を止め、状況を見ながら長教の牽制と後詰めを使い分けてくだされ」
孫十郎がにやりと笑う。長慶の意図を理解した上で、彼の好みに合っていたのだろう。
「待て。それでは貴公たちの兵は五千ほどにしかならぬ。あの辺りは大和川の支流が複雑に入り混じる地。敗れれば逃げ切れんぞ」
「それくらいでなければ、長政は城を出てこないでしょう。それに、万が一長教が何かを企んでいるとすれば、それを見破ることができるのは宗三殿を置いて他におりませぬ」
「勝機を餌に、長政を誘い出すのか」
「過去の因縁も付け加えましょう」
長慶も不敵な笑みを浮かべた。策の細部を説明する。考え得る中では最善の策だと、宗三も認めた。
作戦が決まってからは、宗三は出陣直前まで孫十郎の陣を気にかけていた。孫十郎の下で侍大将を務めている、息子の宗渭が気がかりなのだろう。
「幾つか指示することがある」
自陣に戻って、配下諸将に作戦を伝えた。三好長逸。松永兄弟。和田新五郎。今回はそれぞれに役目がある。いまのうちから十全なすり合わせをしておく必要があった。
「……策は以上だ」
久秀の顔が引きつっていた。
「ほ、ほんまにこんなことやるんでっか」
とりわけ奇異な仕事を与えられた久秀が喚く。
「わい、やっぱり仕える殿さん間違えた気がしますわ」
「槍働きは苦手というからその役目を任せたのだぞ、しっかり励め。……長逸。真の要はお主だ。すまぬが、辛抱してくれ。一庫で負った傷も、まだ完全に癒えていないのにな」
「お任せを」
一庫では長慶を守って重い傷を受けた。それでも長逸が苦痛を顔に出したことはない。
「なんで長逸はんには“すまぬ”で、わいには“励め”なんや……」
隣でぶつぶつ言う久秀を無視して、長慶は進発の号令を上げた。
*
二上山城。警戒を強めた長政は飯盛山城を離れ、山深いこの地に潜んでいる。
伝令が入ってきた。
「偵察隊が戻りました! 敵兵は東高野街道を南下。遊佐長教と三好宗三は高屋城付近に待機し、三好長慶と芥川孫十郎が太平寺(大阪府柏原市)の南東に布陣した模様」
「信貴山に近いな」
「は、信貴山の三千、いつでも出陣可能です」
「敵兵は」
「高屋城が一万二千、太平寺が四千」
太平寺の兵数が随分少ない。長政の潜伏場所を飯盛山と見ているのか。
「なお、三好長慶はいつもの鳴り物衆を引き連れている他、具足を座らせた輿を運んでおります」
「……具足だと?」
「紺糸縅の立派な胴丸を掲げ、大将のように扱っているとか」
体毛が逆立った。かつての感情が蘇る。歯噛みし、宙を睨み据えて言った。
「小癪な。元長の亡霊などを呼び出して、黄泉の案内人のつもりか」
長慶の腹は分かる。過去の遺恨を兵に知らしめ、士気を極限まで高めようというのだろう。兵数の不足を補うにはそれしかない。
元長。長政にとって、最も恐ろしい敵があの男だった。生かしておく訳にはいかなかった。十年前、命を懸けた謀であの男を斃したのだ。元長の命を踏み台にして、長政は大きくなった。元長が蘇るということは、長政の歩みが否定されるのと同義だった。男の誇りにかけて、これだけは看過できない。
「よかろう。今日が三好元長の二度目の命日だ。我らも出る! 皆殺しにするぞ!」
二上山の兵、五千が山を駆け下りる。信貴山と合わせれば兵数はこちらの方が多い。元長と長慶に、必ず引導を渡してやる。長政と、長政に忠誠を誓った叛徒たちの士気は天を衝かんばかりであった。
「長教や宗三が駆けつけるまで、まだ猶予はある」
長政が兵に向かって語りかける。そして、長政の背後にはもう長慶と孫十郎の陣が映っていた。
「敵は寡兵。しかも我らはこの地を知悉している。……だが、ただ勝つだけでは駄目だ。あの調子に乗った若造の首を獲り、あのしみったれた具足を破壊するのだ。それこそが真の勝利だ」
遠目に、長慶軍の様子が見える。懐かしくもやかましい、鳴り物の大音量。甲冑もつけずに、素襖姿でいきっている長慶の姿。聞いていた通り、木の輿に乗せられた元長の青い具足。
「見よ諸君。あの隷属者の群れは何を考えているのだろうな! 王の犬が血染めの具足を掲げて、我らを討とうというのだ。奴らだけではないぞ。裏切り者の長教。陰謀尽きぬ宗三。犬どもが尻尾を振って暗愚な王を守りたいと言うのだ! 我らを古の奴婢に戻したくてたまらないのだ!」
兵の目つきが変わった。この場にいる一人ひとりが、革命の炎を胸に抱く勇者なのだ。
「そうはいくか。なあ皆。あいつらに恐怖を、報いを与えてやろう。我らの憤激が、その手に握った槍に漲っているぞ。あいつらの望みを台無しにしてやろうよ」
兵士たちは暴走寸前。一刻も早くあいつらを殺させてくれと、全員の顔が訴えている。
「さあ、いくぞ。犬どもに人の力を教えてやれ――。進め! 前進! 前進だ!」
喊声を上げて突撃していく。この兵すべてが、思いを同じくしているのだ。おお、果ててしまいそうだ。
敵の抵抗は激しい。奴らの士気も盛んだ。元長の甲冑などを持ち出した甲斐があったということか。
芥川孫十郎が思った以上に厄介だった。金縁の軍配を振り回し、巧みな用兵をする。しばしば、陣を割られかけた。それでも長政は孫十郎に構わず、長慶の陣に戦力を集中した。
「雑魚には構うな! 長慶の首を獲れ! 元長の鎧を破壊せよ!」
馬上の長政が、愚直に何度も繰り返す。それさえ果たせば敵の士気は折れる。大和川の支流が入り乱れる中、潰走させた敵兵を殲滅するのは難しくない。長慶を討ち果たせば天下は震撼する。畿内中の同胞が立ち上がる。長教と宗三も進軍を止める。そして……長教が戻ってきてくれるかもしれない。
こちらの圧力が少しずつ敵陣を崩す。あれは長逸か、よく粘っている。だが、あと少しで届く。長慶の首。見えた。長慶め、冷や汗に塗れて狼狽しておるわ。いつもの気取った顔はどうした。
「長慶――?」
違う。あれは、長慶ではない。
その時。
背後から騎馬の駆けてくる音。
振り向く。騎馬武者の群れが、後方から襲いかかってきていた。混乱した味方が、無残に突き崩されている。長身の武者が先頭で槍を振るい、長政へと至る道を切り開いてくる。その後ろには、若侍を護衛につけ、見事な当世具足を纏った涼しき大将の姿。
「おのれ、長慶かあ!」
叫んだ。刹那、長身の武者が突っ込んできた。槍。喉元を正確に狙っている。死。いま、終わるのか。
だしゅぶ。不気味な音が聞こえた。味方の侍大将が長政を庇い、胸を貫かれていた。
「……お逃げくだされ。長政様さえいれば、我らの革命は」
血泡を吹き、侍大将はそのまま息絶えた。
「亡霊でも見たか」
長慶の声。目が合った。静かに微笑んでいる。その顔は。怨みすら、抱いていないというのか。
「長政様!」
次々と味方が集まってくる。命を盾にして長政を守ろうとする。そして、一人ずつ殺されていく。
馬の尻を叩かれた。
「お逃げくだされ! 山沿いに、飯盛山へ!」
長慶の援軍は南から現れた。二上山へ戻れる可能性は低い。飯盛山には、まだ三千ほどの兵がいる。籠城することもできる。また一人、味方が死ぬのが見えた。投了の時なのか。歯の根が合わない。意味をなさない声を漏らしながら、長政は駆けていった。
長慶の追撃は厳しかった。死体が延々と続くさまは、大物崩れを思い出させる。元長。あの癇癪持ちを馬鹿にしていた自分が、まさかその息子の罠に嵌まって敗れるとは。
「元長よ。いまにして思えば、わしとお前は……似た者同士だったのかもなあ」
呟いた。全身に傷を負っている。供回りは一人ずつ敵の足止めに残り、誰も戻ってこなかった。
北に向かおうとしたが、敵と水に妨げられてほとんど進むことはできなかった。馬は死に、足も負傷した。
疲れた。巨大な楠木の根元に腰かける。ここは、石神社(大阪府柏原市)か。
「……元長よ。お前の武と夢は、長慶に引き継がれているのだな」
楠木に向かって話しかけた。この古木には王も民もない。黙って聴いていてくれる。
「羨ましくはないぞ。わしの夢もまた、畿内の大地に宿ったはずだ。権力を振りかざす奴を憎む気持ちが、民の心に根付いたはずだ。お上に頼らずとも、下種は下種なりに未来を切り開いていくはずだ」
「そんなことのために、これだけのことをしでかしたのか」
「……琴か」
隣に琴がいた。相変わらず、いつからいたのかは分からない。
「これを食え。力が出る」
紫色の、干からびた粒を差し出された。
「なんだ、これは」
「干し葡萄。志能備の兵糧丸だ。知られていないが、河内の土は葡萄を育てるのに向いている」
「今更、食い物など」
「黙って食え」
口に放り込まれた。舌に、うっすらと甘みが滲み出る。枯れていた口中に、唾液が溢れ出す。
「よく噛め。噛むことは、生きることだ」
噛んだ。噛めば噛むほど、甘みと、気持ちよい酸味が湧き出てくる。そして、涙と鼻水まで出てきた。
「泣くな。食ったら立て。走るぞ」
「なぜ、ここに来た。志能備はどちらの畠山でもよいのだろう。じき、長教の率いる尾州家が河内と紀伊を一統する。敗れたわしにもう利用価値はないはずだ。……ふん。長教め。憎んでやろうと思ったが、なぜかその気になれん。長年の友情というものは人を女々しくさせるらしい」
「……」
いつもと琴の様子が違った。自分で自分に、戸惑うような。
「ははん、分かったぞ。お主、わしらを眺めているうちに、わしらの生き方に魅せられたのと違うか」
「……」
「夢を持ったことはあるのか」
「……いや」
「家族は」
「血の繋がらぬ弟が、一人」
「その弟も後南朝に与しているのか」
「いや」
長政が声を上げて笑い始めた。敵兵に見つかることなど、もう恐れてはいない。
「ならば、黴臭い幻想にしがみつく老人など捨ててしまえ。弟のところへ行くのだ。平穏に暮らせば、自然と夢を抱くことができる。それが、人の営みだ」
楠木のお蔭か、干し葡萄のお蔭か。心気の充実を取り戻していた。
「最期に教えてやろう。夢とは叶わぬものだ。後に遺すものだ。だからこそ、散り際が大事なのだ」
「……逃げないのか」
「死に時は自分で決める。介錯を任すぞ」
脇差を抜いた。そのまま何ら躊躇せず、腹に刃を入れる。
噴き出た熱いものが、楠木の根が張る地面を朱く染めていく。
「かははは。見てみろ。わしの夢が。革命の炎が。国土の股座を、濡らして……おるわ……」
*
長教と宗三の兵が駆けつけ、逃げ惑う長政軍の掃討に加わった。
自分を警戒して、宗三は動かなかった。それでも長政は敗れた。俄かには信じがたいことだ。
長政の捜索は任せて、陣幕に戻った。人払いをして床几に座り、両の掌で顔を覆う。涙が止まらない。長政は生きてはいないだろう。唯一の友を失った。自分が裏切ったからだ。理性を信じて、正しいことをした。それでも、胸の疼きはどうしようもなかった。指の隙間から、泣き咽ぶ声が出ていった。
しばらくして、背中に人の気配を感じた。長教が命じるまで配下が入ってくることはない。
「……琴か」
「届けものだ」
嫌な予感がした。見たくないものを見せられる気がした。急に背筋が冷たくなった。さりとて、目を逸らす訳にはいかない。両手を下ろし、瞼を開く。それは、思ったとおりのものだった。
「最期に、何か言っていたか」
「お前を恨む気にはなれんそうだ」
「……立ち会ったお主は、何を思った」
「……何も」
「ちいっ。つまらぬ女め」
褒美は追って取らせると伝え、琴を下がらせた。あの女は余計なことを知り過ぎている。長教が公方と付き合っていく上で、後南朝のような過去の遺物は邪魔でしかない。もう少しで志能備は用済みだった。それを察知して、忠義を示したつもりなのか。彼女が持ってきたものに、もう一度目を向けた。抑えていた感情が、再び、先ほどよりも激しく暴れ出す。両手を合わせ、伏して長政に希った。
「すまぬ。すまぬ! ……すまぬ、すまぬ……。わしを、許してくれ……」
嗚咽は止むことがなかった。長政は笑っている。自分を見下ろして笑っている。
「成仏してくれ。笑わないでくれ。その顔をやめてくれ!」
首筋に冷たいものが当たった。長政に刃を当てられた気がして、鋭い悲鳴を上げた。
雨だった。尻が温かい。長教は糞を漏らしていた。
続く