きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十六 幼子の段  ――三好長慶 嫡子を授かり、遊佐長教 細川氏綱を廃人に仕立て上げる――

十六 幼子の段

 

腹は順調に大きくなっている。つわりの具合もだいぶんよくなった。太平寺の戦で長慶が大勝し、憂いが減ったことが大きいのだろう。

「約束通り、生きて帰ったぞ」

得意顔でそう言った長慶の頬を、泣きながらつねったりしたものだ。

 

季節は夏である。

乳房や腹部にあせもができないよう、こまめに肌を拭うように言われている。丹波から連れてきた侍女やおたきが拭いてくれることも多いが、今日は自分で手ぬぐいを当てていた。何度も着物を脱ぐのが面倒で、ついつい薄着になってしまう。肉付きがよくなった上半身を露わにし、下半身には肌着がぴたりと吸い付く。もともと見るところのない身体ではあるが、妊娠してからは人の目に無頓着になっていた。

「館の中とはいえ、昼間からその恰好はないだろう」

長慶だった。顔を赤らめた侍女たちが食膳を運んでくる。一緒に昼食を、ということだろう。

「夜だったらいいんですか?」

「茶化すな」

「お前さまの気が散るなら、ちょっと嬉しいです」

相手しておれぬと、長慶が首を振った。

つわりが起こってからは、軽い食事を日に三度、四度と取るようにしている。

昼食の菜は豆腐と豆乳だった。豆乳を飲めば賢い子どもが生まれると言って、稙通が大量の黒大豆を送ってきたのだ。それ以来、毎日のように豆腐と豆乳を摂っている。淡い黒色の豆腐は味も匂いも濃厚で、食べ慣れない者には少し辛いかもしれない。子どもの頃からこの味に親しんでいるあまねにとっては、逆に飽きることがなかった。

「相変わらずこの豆腐はうまいな。火を通さずともこれだけの味わいになるとは」

「毎朝、侍女たちが仕込んでくれますから。出来立てが一番おいしいんです」

「行儀悪いが、味噌と一緒に飯にかけて食うのがたまらん」

故郷の食べ物を夫が気に入り、あまねは嬉しかった。

それにしても、眼の前で飯をかき込んでいる男がいまや畿内を代表する武人だとは。おたきが言うには、これから畿内政局を左右していく男は三人。すなわち、細川家家宰の三好宗三。畠山家を牛耳る遊佐長教。そして我が夫、三好長慶であるそうな。

それから、摂津の有力国人である池田信正や、最近名を上げている芥川孫十郎、大和の若き新星筒井順昭などが続く。五畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)の外では、近江の六角定頼、阿波の細川持隆、丹波の父稙通などの存在感が大きいらしい。

いま名前が挙がった人物のうち、二人があまねの縁者なのである。おたきとの世間話の中でも、随分と冷やかされたものだった。

(有名になったからといって、家族が幸せになる訳ではないのに……)

実家では母を早くに亡くし、父と兄の喧嘩が絶えなかった。長慶も武名が高まれば高まるほど、大きな争いに巻き込まれていくのは間違いない。自分の考えがおかしいことは分かっているが、夫には出世をほどほどにして、家にいる時間を増やしてほしかった。

「どうした。気持ち悪いのか」

豆乳を飲み干した長慶が、気遣って聞いてくる。

「いえ、大丈夫です。お腹の子が、動いたような気がして」

咄嗟に誤魔化した。おたきは何でも夫に話した方がよいと言うが、長慶に向かって平凡に生きろなどと言えるはずがない。魚に陸で暮らせと言うのと同じことだ。そんな思いを知ってか知らずか、たぶん知らないだろうが、長慶は無邪気に喜んでいた。

「ね、お前さま。今日はずっといらっしゃるのですか?」

「ああ。戦後処理はひと段落したし、読みたい本も溜まってきたしな」

「たまには、あたしにも構ってほしいです」

長慶はそれもそうか、という顔をした。

「しかし、そなたは身重」

「身体を使わない遊戯ならいいんでしょう。すごろくとか、あやとりとか」

「なるほど」

「そうだ、いいこと思いついた。将棋を教えてください。お前さま、得意なんでしょう」

将棋、と聞いて長慶の顔に影が差した。憂いを帯びたような目色である。

「あの。将棋、いけませんでしたか?」

「や、構わぬ。いいだろう。将棋といっても色々あるが、どれがよいかな」

「お前さまが一番好きなのがいいです」

「ならば中将棋にするか。駒の数が多いから、ひとつずつ動かし方を見ていこう」

「はい!」

満面の笑み。思いがけない幸福だった。

(しっかりと化粧しておけばよかった)

ふと浮かんだそんな悔いも流せてしまうくらい、夫と二人で過ごす時が嬉しかった。盤面を挟んで勝負に興じつつ、密かに薫りを楽しむ。夏の日は長い。あまねの気が済むまで、一緒にいることができるのだ。

 

  *

 

研ぎあがった左文字を届けに本阿弥光二が屋敷へ現れた。

光二は面白い男で、本業の刀剣の他、書や画、茶器の目利きなどにも才覚を有し、宗三と話が合う。茶などでもてなしながら今日もつい長話になってしまった。

宗渭の話が聞けたのは収穫だった。太平寺の戦で、宗渭は長政配下の有力国人の首を獲った。その手柄を買われ、いまは六郎の身辺警護役に抜擢されている。光二は六郎にも気に入られているし、年齢も若いから、宗渭にとっても話しやすいようだ。宗渭に刀剣の目利きを教えてくれたりもしている。

宗渭は職務に励んでいるらしい。ひと頃の放蕩ぶりはすっかり影を潜めている。但し、残念ながら宗三とはいまでも顔を合わそうとしない。六郎や同僚も親子関係の微妙さは察してくれたようで、強いて二人を交わらせようとはしなかった。

宗三自身も、京を長政の魔手から守った功績が絶賛を博し、内衆筆頭に復帰していた。六郎の寵も完全に回復し、また、公方や朝廷からの信望も更に厚くなっている。権勢はかつて以上と言ってよい。

良くも悪くも、木沢長政の反乱によって畿内情勢は一変した。

影武者を使って長政を打ち破った長慶は要領よく港湾徴税権の拡大を六郎に認めさせた。一庫での敗戦を引きずらず、見事に雪辱を果たしたのはたいしたものである。懸念は、長慶の実力や名声が大きくなり過ぎていることだった。長慶が反旗を翻せば、細川家と宗三の全力を以てしても五分かもしれない。

長政の攻勢を凌ぎ切った芥川孫十郎は、旧領の返還が遂に認められ、芥川山城の城代にまで任命された。その武勇一本での成り上がりは多くの兵の心を掴み、最近は“と金孫十郎”などと呼ばれている。宗渭を預けた経緯もあり、宗三との関係も依然良好である。

河内・紀伊は、遊佐長教によって畠山尾州家が台頭し、畠山総州家は没落した。要するに、長教が実権を掌握したということだ。長政と同じ穴の狢とはいえ、長教は小心で、陰湿なところがある。それだけに隙が少ない。長教が畠山家の支配だけで満足していればよいが、よからぬ陰謀を企てている可能性の方が高かった。

その畠山家領国で消息を絶った、細川氏綱の行方も気にかかる。六郎は野垂れ死にしたと思っているらしいが、それは楽観視し過ぎだ。彼が再度蜂起すれば、家督を脅かされる六郎は激昂するに違いない。そこを長慶や長教に突かれれば、再び政権の屋台骨が揺らぐ。

(やれやれ。こう考えてみれば、悪いことの方が多いわ)

髪の毛を抜いて、左文字に吹きつけた。刃に触れた毛が、元からそうだったかのようにふたつに分かれる。惚れ惚れする切れ味だ。

ただ、何気なく抜いた髪が白かったことが気にかかる。気づけば今年で三十五。疲れが溜まりやすいし、冷えると腰が痛む。仕事の意欲はいまでも失っていないが、若い頃のような我武者羅さはなくなっている。代わりに、情が細やかになって、人当たりは丸くなった。三十代で人生観が変わると聞いたことがあるが、本当にそうかもしれない。

火焔のような刃紋を眺めながら、しばらく宗三は沈思していた。同じ刀でも、若い頃に眺めるのと、いま眺めるのでは心の動きが随分異なるものだ。

「あなた。お風呂が沸いていますよ」

妻が知らせに来てくれた。宗三が地位を取り戻した頃から、彼女の健康も随分よくなっている。風呂を勧めてくれるなど何年ぶりのことだろう。

「ああ。ありがとう」

にこやかに返事し、刀を鞘に納めた。人生に煩悶は付き物だが、必ず安心できる時はやって来る。

風呂。いつか、宗渭に背中を流してもらったり、孫と風呂に入ったりする日がくるのだろうか。

 

  *

 

初秋の頃。

あまねが産気を催した。城中が大騒ぎになったが、実際のところ男衆は何の役にも立たない。おたきたち女中が慌ただしく動き回る中、長慶は別室で家臣たちと吉報を待つことになった。

出産は又四郎の誕生以来である。あの時はつるぎの腹が大きくなり過ぎて随分な難産だった。双子か三つ子ではないかと言われていたのに、出てきたのは熊のような図体の又四郎一人。将来が楽しみだと、家中一同で盛り上がったのを覚えている。

「ほれほれ殿さん。そんなにそわそわせんと、でーんと構えて待っときなはれ。でーんと」

久秀が声をかけてきた。久秀なりに、主君の気持ちをほぐそうと気を使っているのだろう。

「お。さすが、三好家の陰の支配者は言うことが違いますな」

「いかにも、いかにも」

新五郎と基速が冷かす。先の戦で久秀が長慶の影武者を務めたことをからかっているのだ。

「なんやねんお前ら。わいはちゃんと、太平寺でもでーんとしとったし。ほんまやで!」

久秀が腰を抜かしかけていたことを知らない者はこの場にいない。どっと笑いが起こった。

「これこれ。久秀のお蔭で我々は長政に勝つことができたのだぞ」

おかしいのを堪えながら庇ったが、久秀は不満げだった。

「ふ、ふん。ほんまは長逸はんや長頼なんぞの手柄やと思てんねやろ。別に、嬉しくなんかないわい」

「おい、三十半ばの男が拗ねるなよ。気色が悪い」

長逸と長頼は黙って苦笑いしていた。

確かに、太平寺の戦いで最も手柄を上げたのはこの二人だ。長逸は毅然と指揮を執って、長慶たちが迂回して戦場に駆けつけるまで長政の猛攻を耐えきった。長頼の方は長慶の奇襲部隊の先頭に立って、八面六臂ともいえる暴れようだった。いまでは二人は、三好家の阿形と吽形のように扱われている。

 

「あら。立派なお侍が揃いも揃ってこんなところに。日頃偉そうでもこういう時はおとなしいんだから」

ぴりぴりした顔でおたきが部屋に入ってきて、遠慮なく男衆を罵った。

「喧嘩だ戦だと言っても、男は出産の痛みを経験できる訳でなし。女に言わせれば、男なんて本当に命を懸けることもない呑気な生き物ですよ」

「藪から棒にやかましいわい。おたきはん、あんた独り身やろ。子ども産んだことあんのかい」

「へえ。三人とも死んじまいましたよ」

「……すまん」

「よくあることよ。そんなことよりも殿様、いまは様子が落ち着いていますから。励ますなり、手を握るなりしてやってくださいな」

どうやらおたきは長慶を探しに来たらしい。

 

汗だくになっているあまねの顔を拭き、背中をさすった。腰骨の辺りを押すと幾分楽になるらしい。

「ありがとうございます。ね、お前さま。手を繋いで」

声音には気迫と覚悟が漲っていた。なるほど、確かにこれは女の戦だ。

「何か他にしてほしいことは」

「お水を」

器を口のところに運ぶ。姿勢を変えることが苦しいのか、自分で手を伸ばすのは難しいようだ。

もう一度手を握った。掌も汗でしっとりとしている。

俄かに、あまねの呼吸が荒くなった。握った手の握力が増す。こちらの骨が砕けてしまいそうだ。この薄い身体の、どこにこんな力が。

「ああ、あうう!」

目を閉じ、歯を食いしばった苦悶の形相。大地の奥底から鳴り響くような呻き声。

「はい! 殿様は部屋でお待ちを。早く!」

おたきに肩を揺すられ、退室を促された。

「あまね!」

名前を呼んだが、後に続く言葉は思い浮かばない。あまねは長慶に目もくれず、宙に向かって叫び続けている。かつてなかったような無力感だった。

 

何刻も部屋で待った。

悲鳴はここまで聞こえるほど大きい。地獄の亡者のような絶叫に、若い新五郎などは耳を塞いで震えていた。

「長逸よ。恐ろしいな、我が子の出産とは」

この中で子どもがいるのは長逸だけである。

「自身の無能を思い知らされます」

「それよ。獣とも悪龍ともならねば、人は人を産めないのだな」

長い。叫びは、あまりにも長かった。聞いている方が狂ってしまいそうだ。もはや家臣たちも何も言えない。ただただ木偶のようにその時を待つだけだった。

 

更にそこから一刻。

悲鳴がぴたりと止んだ。皆で顔を見合わせた瞬間、赤子の泣く声が館中に響き渡った。

「産まれたぞ!」

わっと部屋が湧いた。続けて、おたきが喚き散らしながら廊下を走ってくる。

「殿様―! 殿様―! 男の子ですよう、お世継ぎのご誕生ですよう!」

 

  *

 

誕生した若君は千熊丸と名付けられた。長慶の幼名と同じ名である。赤子の千熊丸を抱きかかえた長慶の姿を見て、家臣たちは感涙に咽ぶことしきりだった。

翌日から、次々と祝いの品が届き始めた。円滑な外交活動の上で、冠婚葬祭などでの贈答と返礼は欠かせない。家臣たちは返しの使いに諸方を走り回らねばならなかった。

「新五郎、どこかへ出かけるの」

「ああ。京の公方へ」

城から出たところで市場へ来ていた母に声をかけられた。最近、故郷の阿波から母を呼び寄せたのだ。父は戦で命を落とし、妹は嫁いでいった。母を一人にさせているよりは、一緒に暮らしている方がお互いに都合がよい。

「なんと。お前が、公方様への使いに」

「ふふん。これでも、いまをときめく長慶様の側近だからな。申次のようなことだってやっているのさ」

「まあ、まあ」

「ちょうどよかった。十日ほど留守にするから、頼むよ」

「ありがたい、ありがたい……。おっちょこちょいのお前がねえ。長慶様に足を向けて寝れないねえ」

母はいまにも拝みだしそうな勢いだ。新五郎は少し照れながら母の肩に手を置き、馬に跨った。

懸命に働く姿を見せることができて、思いがけない孝行をした気分だった。

 

訪う相手は公方の女房衆である。

公方、そして朝廷のおなごというものは、その辺の侍などよりもよっぽど大きな権力を有している。荘園を擁して経営に励む者もいれば、手広く銭を貸して金利を稼ぐ者もいる。将軍や帝の傍に仕えているため、自然と奏者のような機能発揮をすることになるし、文書の記録や発給なども行う。そうした彼女たちへは、各地の大名や寺社が頼みごとを持ちかけてくるのだ。要するに、公方には表の取次先である奉公衆の他、裏の取次先である女房衆がいるという訳である。

奉公衆の相手は、基速や久秀が適任だった。基速は理路整然と交渉を纏めてくるし、久秀は脅したりすかしたりの際どい駆け引きが上手い。

ところが、女房衆だけは新五郎が担当することになっている。長慶曰く、“鄙の朴訥さが愛玩されよう”ということだった。半信半疑だったが、実際、新五郎は女房衆からちやほやされるようになっている。良家の子女たちにはうぶな若い男が珍しいらしい。中には、わざと胸元や腿をちらつかせるような女もいて、思わぬ楽しい時間を過ごしたこともあった。

 

宮内卿局に、お目通り願いたく」

女房衆の局にある来客用の部屋に通してもらった。

目当ての上臈や中臈がやって来るまで下女たちに絡まれるのが常である。さっそく見知らぬ女が一人、顔を覗かせてきた。若い。十五、十六くらいだろうか。

「おお、お主が噂の和田新五郎か」

「は。そうですが」

「あの、太平寺の戦で十人以上の首を獲ったという。優しげな顔で、なんと勇ましいと称されていたぞ」

脇の下に冷たい汗が出てきた。どうやら、長頼の手柄が自分のものだと勘違いされているらしい。

「や、えー。……私は、ずっと殿の護衛をしておりましたので」

「ん?」

「あー、つまり、私が上げた首はその、ひとつだけでして」

今度は顔が熱くなってきた。こんな小娘相手に、なんでこんな恥ずかしい思いをせねばならんのだろう。

「きゃははは! なんじゃ、噂は虚報か。頼りないことよ」

腹がむかむかしてきた。殿や長逸様に叱責されるならともかく、戦も分からぬ女に。

勢いよく立ち上がって、新五郎は胸元を開いてみせた。

「無礼でござろう! 見よ、この胸の傷痕を。これこそ木沢軍の強者から殿を守って受けた名誉の負傷。返す刀で敵を討ち果たした際の名残ぞ。さ、遠慮はいらぬ。とくとご照覧あれ!」

怒られたとは思わないらしい。女は言われた通りにまじまじと胸板を見つめ、指先で傷痕を撫でるようにしていた。

「……痛そう。泣かなかったの?」

真顔で聞かれて、新五郎は困ってしまった。

「な、泣く訳がなかろう」

「ふーん」

胸に顔を近づけてきて、そのままこちらを見上げてくる。

「お主、強いんだね」

瞳の奥を覗かれた気がした。女は幼児のような満面の笑みを浮かべてみせる。

「私、強い男が好き」

「き、き、欣幸の至りにおざる」

頭を下げてしまった。からかわれているのか、遊ばれているのか。こんな掴みどころのない女は初めてだ。

「幹子殿、何をしているのです」

ようやく宮内卿局が現れてくれた。ばつが悪そうな顔をして、女が部屋から出ていく。

「失礼いたしました。……新五郎、またね」

ちろ、と舌を見せていた。女房衆とは思えない、奔放な姿だ。

(……幹子殿、か)

動悸が鳴り止まない。

帰路の間も、頭に浮かぶのは幹子のあどけない笑顔ばかりであった。

 

  *

 

冬支度が始まっていることもあって、堺の町並みは賑やかだった。海産物を広く扱うとと屋では旬の魚が所狭しと並べられている。祝言でも山海珍味を尽くした豪勢な膳が出されるのだろう。

「これは長慶様」

与兵衛が出迎えに現れた。その顔は喜びに満ちているが、随分痩せたように思える。与四郎といねの婚姻が決まった頃から、急に老けたそうだ。

「元長様の頃から親しくお付き合いさせていただいておりましたが、まさか、そのご息女をお迎えできるとは。たかが商人風情にはもったいない果報でございます」

「ふふ、謙遜はおよしくだされ。とと屋と言えば堺でも十指に入る豪商。与四郎は新進気鋭の商売上手であり、数寄者でもある。こちらこそ、光栄なことです。……ふつつかな妹でございますが、どうかご寛恕を」

「長慶様こそ慎み深い。いね殿の佳人ぶり、そう、つるぎ殿に瓜ふたつなことには驚かされました。与四郎があれだけ執着したのも無理はない」

「いねの嫁入りを、ふた親に見せてやれなかったのが心残りです」

案内されて邸宅の大広間へと進んだ。とと屋は商売仲間や取引先などが多過ぎるから、今日の祝言はごく近しい身内のみが招待されている。三好家からは、長慶と之虎が代表して参加していた。あまねは出産したばかりなので千熊丸と共に留守番をしている。

「よう兄上。遅いじゃあないか」

之虎が声をかけてきた。ちょっと見ない間に、随分と凛々しい男になったものだ。勝瑞館に入ったことで広い世間に触れ、心身の成長が促されたのだろう。大紋の中の身体も、相当に鍛え抜いてある様子だ。

「太平寺の話を詳しく聞きたいところだが、場にそぐわないな。それは後にして、次の間にいる新婚夫婦を見てきなよ。馬子にも衣装とはよく言ったものだぜ」

そう言われて覗きに行ってみると、正装した与四郎といねが座らされていた。祝言が始まるまで、夫婦はこうやって見世物になる宿命である。与四郎といねはもともとが美形で、体格もよいから、確かに着飾った二人は見目麗しかった。妹ながら、いねほどの器量よしは世間にそうはいない。

だが、そんなことよりも、二人がさっそく口論していることが気になった。

「ちょっと。言われた通りの小袖を着てみれば、何よこれ。真っ黒じゃないの。普通、花嫁衣装は真っ白で揃えるものでしょ」

いねは、黒生地に淡い白、青、緑などの草花や扇が描かれた、珍しい着物を纏っている。頭には白い、綿で作ったらしい帽子をかぶってはいるものの、全体として黒が勝っていることは否めない。与四郎の衣装も漆黒だ。白を基調とする夫婦が多い中、これは珍しいと言わなければならない。

「いや、この黒がよいのです。新たな美の世界を堂々と見せつけてやりましょう。来客はこの装いに感嘆するはずです。噂が広がって、真似をする者も続出するに違いありません」

「そんなこと言っているんじゃないの。そりゃ、これがよい生地、よい見目であることは私にも分かるわよ。それよりも、そうだね、普通じゃないよね、って共感してほしかったの」

「普通である必要などありません。自分がいいと思った格好をすればよいのです」

「違う。全然違う。議論したい訳じゃないわ。妻に何か言われたら、ああそうだね、ってまずは受け止めるのが普通でしょ。って、あら。兄様」

口喧嘩をやめて、与四郎といねは親しく挨拶してきた。長慶は苦笑いするしかない。

「……噛み合わない話をしていたようだな」

「そうなのよ。この人ったら、何でも真面目顔で返してきて。堺ではこんな野暮天を数寄者って言うの?」

与四郎の方は反論しないが、明らかに不機嫌顔だった。

「まあ待て。いねよ、ちょっと立ってみろ。……そう、動くなよ。……うむ。確かに白ばかりが花嫁の装束ではないな。黒い衣装が七、白い帽子が三。いいじゃないか。よく似合っているし、品もよい」

「兄上もそう思っただろう? これはたいした創意だぜ」

之虎も現れ、話に入ってきた。

「この模様を見てみろよ。抑えた色味で描かれた、菊、桃、松に扇。なんと趣深い柄じゃあないか。運筆の巧緻もすごいぞ。名のある職人の手によるものに違いない。と言うか与四郎殿、仕入れ先を教えてくれよ」

長慶と之虎に褒められて、与四郎の顔に笑みと自信が戻った。いねも矛を収めざるを得ない。

「これからは与四郎殿を義兄上とお呼びしなきゃあな。義兄上、姉上は父譲りの癇癪持ちだぜ。こつは、聞き流すこと、反論しないこと」

「ちょっと! 之虎!」

「この弟妹の騒がしさ。日頃の千殿からは、想像もできなかったよ。千殿も家ではこうなのかい」

「おいおい与四郎、私を苛めないでくれよ。それでなくても夜泣きで眠れず、難儀しているのだ」

困った長慶の様子を見て、四人は朗らかに笑い合った。

 

いねの姿は客たちから褒め称えられた。やはり堺の住民だから、平凡であることよりも進取に富むことを尊ぶらしい。とりわけ与四郎の師、武野紹鴎までが感心したものだから、与四郎の面目は充分保たれたと言えるだろう。

新郎新婦はなかなか座から離れられないが、客たちは移動しあって杯を酌み交わす。その武野紹鴎が長慶と之虎のところにやってきた。

「お久しぶりです。たいそうご立派になられて、いまやお父上を上回るほどの素晴らしきご活躍。歩く名物殿などと失礼を言っていたことが恥ずかしく。ここはひとつ、今日の吉事に免じてお許しくださいませ」

「何を仰せですか。幼年の頃、両親ともども紹鴎殿によくしていただいた恩、いまも忘れておりませぬ。今後ともよいお付き合いを」

「そう言っていただけると救われます。そう言えばお聞きですかな。かつてお父上が仰っていた審判国とやら。遂に、日本にも現れたそうで」

「えっ。本当ですか。それは、いつ」

「昨年の暮れに、九州に審判国の商人が漂着したとか。同行していた明人によれば、彼らはポルトガルという国の民だそうです。珍しい食材や衣類などを置いて、すぐ帰っていったそうですが」

「……そうですか。また、やって来るのでしょうな」

「来るでしょう。彼らは、“日本を発見した”と言っていたそうですから」

「ああ、貴重なお話を伺いました。さっそく、帰りに父の墓前に報告させていただきます。思えば、堺公方府は早過ぎたのですね。父の活動がいまだったら、世はもう少し味方してくれたでしょうに」

過ぎ去りし日々に黙祷を捧げた。あの頃から早十年。時代は未だ何も動いていない。

黙ってしまった長慶の隣では、之虎が紹鴎に弟子入りを頼み込んでいた。

 

  *

 

「遊佐長教に任せる」

「まあ。いまのは上手でしたわ。さ、も少し威厳を加えて、もう一度」

「遊佐長教に、任せる」

「きゃあ、素敵!」

夜遅く。河内と和泉の境目に位置する、某寺の庫裏。

三年近くかけた甲斐あって、教育の成果は満足いくものだった。

貴人の周りには妖艶な美姫たちが酒器を携えて群がっている。女は琴の配下であり、酒には志能備の秘薬を混ぜてあった。短期間では何でもないが、長い間服用すれば思考力が低下し、やがては薬入りの旨酒のこと以外考えられなくなる。彼の本来の配下は理由をつけて遠国に追いやったり、寝返らせたり、始末したりしていた。

長年の軟禁を経て、肌にはむくみが広がっている。目の精気もとうに失せた。細川六郎への恨み以外、情熱などは残っていない。初めの一年間は、人生で得た経験を捨てさせることから始めた。彼が政治向きの話をすれば天気の話で返し、怒りだせば褒めてやったりする。暴力は要らない。対話から論理や法則を奪うことで意志疎通のやり方を忘れさせただけだ。出鱈目な反応を延々と与えられたことで、彼の自我は着々と摩耗していった。

二年目からは、時おり長教が姿を見せた。薬入りの旨酒を飲ませながら、普通に彼の話を聞き、普通の相槌を返す。それだけで彼は長教をすがり、長教の来訪を心待ちにするようになった。

三年目からは酒に加えて女も与えた。長教の意に沿うことをすれば女は喜び、愉楽を貰える。そう理解できてからは、飲み込みが早かった。言葉を覚えた幼児と同じことだ。

「氏綱の仕上がりは気に入ったか」

琴が闇の中から話しかけてきた。長政の敗死後も、この女は変わることなく長教に仕えている。

「上首尾だ。六郎の愚鈍さに振り回される宗三。権威を否定して追い込まれた長政。わしは奴らとは違う。これで、わしの夢は安泰だ」

「……夢とは」

「決まっている。偉くなること。見返すこと。支配すること。贅沢すること。長生きすること。そのすべてをこの男、細川氏綱がもたらしてくれるだろう」

「それが、お前の夢か」

「男子として生まれたからには、栄耀栄華を願うのが当たり前だろうが。出世こそが夢、安泰こそが望みよ」

「……それは夢ではない。欲というものだろう」

そう言い残して、琴は消えた。いちいち癇に障る女だった。

(志能備封じの手駒を調達せねばな)

氏綱の傀儡化計画が済んでしまえば、もうあの女にも志能備にも用はない。

「そうじゃ。長教の、言う通りじゃ」

虚空に氏綱の声が木霊していた。

 

続く