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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十七 天狗の段  ――足利義晴 細川氏綱・遊佐長教と秘密同盟を結び、篠原長房 夜叉子の逆恨みを買う――

十七 天狗の段

 

輝く日差しを浴びて、海辺の砂からは陽炎がゆらめいている。

天文十二年(1543年)の真夏日。勝瑞館では阿波・讃岐の侍を集めた組打ち競べが開催されている。暑気払いにいっそ思いきり汗をかこうと、之虎が進言し、持隆が認めたものである。

きっかけは、大内義隆が尼子の本拠である月山富田城島根県安来市)に攻め入り、大敗北を喫したことだった。戦は当初大内家の優勢で推移していたが、相次ぐ国人衆の寝返りで戦線が崩壊。あの“銀蛇”本城常光たちが襲いかかり、大内義隆陶晴賢毛利元就などの寄せ手は這う這うの体で逃げ落ちた。義隆の養嗣子もその中で命を散らしたという。

義隆は持隆の義兄に当たる。それ以来、持隆もどこか屈託そうだ。長慶の活躍に目を細める一方で、持隆は世の移ろいを寂しく思っている節がある。

「やあ。之虎、見たか。これで又四郎は八人抜きだぞ。あれで十二歳かよ」

そんな持隆も、今日の賑わいには心を弾ませている様子だ。之虎は持隆の顔を扇ぎながら、よいことを思いついたものだと一人満足していた。

浜が近い平場、四方形の陣幕を張った会場には百人ほどの参加者がひしめいている。組打ち競べは勝ち抜き戦で、勝者は場に残り、次の挑戦者を待つ。又四郎は年少ながら大人以上の体格で、先ほどから力任せに相手を投げ飛ばしていた。

「いけませんな。あれでは又四郎がまた調子に乗ってしまいます」

近頃の又四郎は腕白というより、増長している様子だと聞いている。

「兄貴の拳骨をくれてやればどうだ。お主が陰で身体を苛めておるのを、わしは知っているぞ」

「身内だと効果が薄い気がするのですよ……。兄に喧嘩で負けても、言い訳できるでしょう」

「カカ、違いない。そう言えば、あの与四郎といねも夫婦喧嘩が絶えないらしいな」

「互いに譲らないものだから。困った義兄と姉です」

又四郎が九人目を吹っ飛ばした。腕力だけならば既に四国随一かもしれない。他の参加者も尻込みして、次の相手がなかなか出てこなかった。

仕方ないと思って、之虎が手を上げようとした時だった。いかにも繊細そうな若者が、康長に背中を押されて出てきた。少年の顔には見覚えがある。あれは確か元服したばかりの篠原長房ではないか。どうやら姿が見えなかった叔父は、あの長房少年に肩入れしているらしい。

「お。何やら奇妙な」

持隆だけではない。観衆も、何ごとかという顔でざわめいている。怪我をする前に止めた方がよいのでは、という声も上がった。

周囲のどよめきに構わず、呼吸を合わせて立ち合いが始まった。又四郎は両手を上げて威圧する構え、長房は身体を半身に構えて左手を前へ突き出している。又四郎がじりじり間合いを詰める。気迫で長房を呑み込み、一気に捕らえようという腹だろう。又四郎が飛びかかった。速い。野生生物の如くか。しかし、長房は前の足を軸に身体を転換し、又四郎の側面に潜った。そのまま、又四郎の横腹へ体当たり。浅い。又四郎は崩れない。勝利を確信したのか、又四郎が姿勢を戻しながら拳を振り下ろす。長房はその腕を捕って、渦潮のように体軸を回転させた。

「あっ!」

又四郎と、群衆が叫ぶのが同時だった。又四郎の身体が弧を描いて宙を飛び、したたかに地面に打ちつけられる。足元がずずんと揺れた。鮮やかな長房の勝利である。歓声が湧き起こった。

「ははは、叔父上も人が悪い。あらかじめ冷や水を用意しておくとは」

「カッカッカ。又四郎の奴、頑丈なものよ。飛び跳ねて再戦を呼びかけておるわ」

真っ赤な顔で又四郎が怒鳴っている。自分の敗北が信じられないのだろう。逆に長房は憎らしいほどに冷静な顔つきだ。

「之虎よ。負けた悔しさがあれば、又四郎はますます強くなるであろうな」

「素直にそれを認められれば、でしょうねえ」

長房はその一戦限りで棄権し、結局は九勝した又四郎が一等ということになった。とはいえ、又四郎の顔に得意はなく、憤懣の色がありありと浮かんでいた。

 

  *

 

兵庫津へ来ていた父が、帰りに越水城へ立ち寄ってくれた。

商談のためだという話だったが、あまねと千熊丸の顔を見に来たというのが本音だろう。娘と孫の元気を確かめた稙通は、いたく満足そうだった。長慶の手を握って何度も礼を言う。丹波の土産を取り出しては、あまねの子ども時代の思い出を語る。千熊丸の遊び相手になった後、疲れて横になってしまう。

(ああ、父も老いたのだ)

久しぶりに会った稙通は以前より小さくなったように思えた。孫を抱いて相好を崩している姿、見たかったような、見たくなかったような。

(子どもがひとつ大きくなれば、父もひとつ年を取る。……それは、当たり前のことなんだけど)

父にはいつまでも元気でいてほしい。悲しいほどに素朴な、親への願いである。視界が潤みかけた。その中で、寝転ぶ稙通の背を目指して千熊丸が這っていく。あー、うー、と呼ぶ度に、稙通もううむと唸る。

そうして二日ほど西宮に滞在した後、稙通は帰っていった。

 

稙通が置いていった手土産の中に、大和の絵本があった。

「親が文字を読んで聞かせてやれば、子どもは賢く育つものだ」

毎晩千熊丸に読んでやるよう、くどくどと言われた。自分は息子と仲が悪い割に、育児論には一家言を持っているのだ。子どもの前では連れ合いの悪口を言うな、むしろ夫婦仲のよいところを見せろなどと、さも自分はできていたかのような説教ぶりだった。

実際に何日か試してみると、千熊丸もそういう習慣なのだと理解したようだ。そのうち絵本を叩いて催促するようになった。彼は“一寸法師”がお気に入りらしい。一寸法師が鬼を懲らしめる場面になれば、いつもけたけたと笑ってみせるのである。その笑顔が見たくて、あまねも絵本を読む時間が楽しみになった。

長慶が言うには、御伽草子の絵本出版とか、在家の仏師集団“宿院仏師”の活躍とか、盆の夜には皆で踊り明かすとか、大和では庶民の手による風流が花盛りであるそうだ。そうした気風が伝わってきて、京の公家や寺社、堺の商人たちにも刺激を与えているのだとか。詳しくは知らないが、赤子でも楽しめる文物を積極的に生産してくれるのはありがたいことである。

絵本を読んだ後、おしめを替えて、乳を吸わせた。あまねは乳房が小さい割に、乳の出がよい。体裁のためだけに乳母を雇うことはしなかった。やがて千熊丸が寝付く。最近はそれなりに長く眠ってくれるので、母親の負担もましにはなっている。顔を寄せて、千熊丸の薫りを吸った。長慶のそれと似ている。息子が、夫の不在を埋めてくれていた。

 

布団に移した時に、長慶が現れた。声も物音も立てない。その程度には夫も育児慣れしている。

「本日もご苦労様でした」

三つ指をついて、小声で長慶を出迎えた。木沢長政という男がいなくなってからも、河内や和泉は依然不穏な雰囲気なのだという。現地の分析やら国人衆の引き締めやらで、夫は相変わらず多忙だった。

「膝を貸してくれ」

そう言って、長慶はあまねの膝を枕に寝転んだ。千熊丸が産まれてから、夫は時々こうやって甘えてくるようになった。その心境はよく分からないが、妻にとっては嬉しく、また、誇らしいひと時である。

手を取って、掌や、指と指の間を押してやった。か弱い力で指圧されるのが、絶妙に気持ちよいらしい。しばらくすれば、夫もそのまま眠ってしまうことが多かった。

 

  *

 

室町御所。かつて花の御所と呼ばれたこの屋敷も、いまは規模、装飾ともに質素なものである。

義晴の嫡男、菊童丸は八歳になっていた。年が近い萬吉とは仲が良く、二人して足利尊氏公の話をせがんでくる。晴員が話す初代足利将軍の物語を、菊童丸は瞳を輝かせて聞き入っていた。足利の惨状、没落の失意と再起への執念を、子どもの頃から義晴に刷り込まれて育った若君である。不死鳥のような尊氏の生涯に憧れるようになるのは自然な成り行きなのだろう。

「尊氏公は戦に敗れてもすぐ味方が集まってきたのに。どうしていまは、誰も公方を救おうとせぬのじゃ」

「さ……。細川六郎と、それに与する佞臣たちの仕業にて」

「本当か晴員。本当なのじゃな。余に、足利家に咎はないのじゃな」

「もちろんです」

現状への不安が菊童丸にこんな質問をさせてしまう。晴員にはそれが不憫だった。

「兵というものは安心するために戦い、平穏を得るために人を殺します。尊氏公のように悠然となさいませ。菊童丸様がまず安心し、心身の平穏を得ないことには、十万の兵が集まることなどありますまい」

萬吉がそう言って菊童丸を慰めた。和泉細川家へ養子に出した萬吉は、今年で十歳。晴員の二男ということになっているが、本当は義晴の隠し子だった。秘密を知っているのは義晴と晴員だけである。

「萬吉はいつも落ち着いているのう」

「人の悩みは千年前から変わっておりません。ならば悩むだけ無駄というものでしょう。……いや、しかしその悩みの中に、人の人たる価値があるのやも」

「……よく分からぬ」

「人の歩みにおいて、勝者と敗者の価値は等しい故。一切は合一なのです。抗う、受け容れる、単純な対立に意味はありません。その時が来たらば、菊童丸様にもお分かりいただけましょう」

「その時……な。分からぬが、萬吉が言うならそうなのかもなあ」

萬吉の話は理解し難い。どこでこんな妙な言い回しを覚えてくるのか、晴員もいまだに分からなかった。だが、菊童丸はそんな萬吉がお気に入りなのだ。

 

「待たせたな」

客間に遊佐長教を通していた。この男が放つものなのか、独特の臭気が漂っている気がする。

公方奉行と畠山家家老として表向きのことを話した後、本題に移った。

「秋口に。但し、これは小勢」

「畠山は動かぬということだな」

「まずは健在を示し、国人衆の切り崩しを」

「うむ、六郎に愛想を尽かしている者は数多い。所詮は宗三頼みの坊やだからな」

畿内の覇権争いは、例えるなら国人衆からの人気競べである。家格や権勢に加えて、日頃の内政や外交、戦ぶりが国人衆の動向を決める。政元や高国の時代に比べて、六郎の支持基盤はいかにも脆い。公方が権勢を取り戻す機は熟しつつあるのだ。

「この際、三好長慶や細川持隆にも声をかけようと思っています」

「妙案よ。六郎はそもそも元長殺しの主犯、長慶は実際に兵を挙げたこともある」

「離反には至らなくても、疑心暗鬼は生まれましょう」

長教がせせら笑う。河内・紀伊の実質的な国主となったこの男には、策士特有の自惚れと、成り上がり特有の傲慢さが感じられた。元が小心な天狗は性質が悪い。

「委細承知した」

「もう一点。後南朝について耳をお貸しいただきたいことが」

後南朝、だと」

「残党の巣を、紀伊で見つけまして」

耳寄りな知らせだと言わねばならない。公方や朝廷では、いまだに南朝勢力を忌み嫌う者が多い。

「一網打尽にするつもりですが、彼奴らは異能の手練れ揃い。ついては、晦摩衆のご助力を頼みたく」

「……」

公方の力をよく理解している。晦摩衆とは“晦ます”からもじった組織で、諜報や工作、更には暗殺などを専門に行う。この集団は、かつて九代義尚が鈎の陣(滋賀県栗東市)で甲賀・伊賀衆に敗れたことをきっかけに創設された。その後、細川政元による政権簒奪や、義晴が三好元長に追われて朽木(滋賀県高島市)に避難した中で、徐々に体制が強化されていった。奉行という人種は実務を取り上げられても仕事を疎かにしないもので、暇になった公方はもっぱら陰謀や密議に力を注ぐようになったのである。公方がいまでも一定の影響力を有しているのは、晦摩衆の陰の働きも大きい。

「考えておこう。物事には順序がある」

「左様。氏綱殿の決起をご覧いただいてからですな」

それからも二、三の情報を交換し、長教が退出していった。

額や首筋の汗を拭う。真夏の密談は熱気と陰気が籠ってよくない。長教のいた跡には禍々しい臭気が残っている気がする。充分な換気を命じて、晴員は風がよく通る縁側に移動した。下女の幹子が、気を利かせてよく冷えた瓜を持ってきてくれた。

 

  *

 

秋になって、行方を晦ませていた細川氏綱が挙兵した。槙尾山(大阪府和泉市)から四方に激を飛ばし、細川六郎打倒を呼びかけたのである。

和泉や河内には、木沢長政が撒いた毒が染みついている。現政権への反感を抱く国人や高国勢力の残党などを糾合し、氏綱軍の兵力はたちまち一万を超えた。

いつものことではあるが、六郎の怒りは甚だしかった。細川宗家の家督を脅かす者の存在は絶対に認めない彼である。精鋭を集めて、和泉国へ先制攻撃を仕掛けさせた。長慶、宗三、孫十郎、池田信正、病の稙通に代わって波多野晴通、和泉国守護代の松浦守など、自軍の総勢は一万五千。六郎方の迅速な進軍により、氏綱軍は各所で部隊を撃破され、どこかへ落ち延びていった。

 

帰路、長慶は宗三に誘われ、榎並城に立ち寄った。

淀川に守られた要塞のようなこの城ではあるが、通された茶湯座敷は周りを竹垣で囲まれ戦場の匂いを感じさせない。茶湯座敷と竹垣の間には白砂が敷かれ、枯山水のような造りになっている。清浄な水が湧いているようで、つくばいにも気品があった。この辺りの趣味のよさはさすがである。

茶の湯には詳しくないが、宗三の所作には無駄がなく、質実な印象を抱いた。濃茶の味わいも素朴でしみじみとうまい。長慶は心からの礼を述べた。

「氏綱の動きをどう見る」

炭を直しながら、宗三が問うた。

「色々と不自然でした。唐突に兵を挙げたかと思えば、何の粘りもない敗走」

「大軍を組織したこちらは丸損だ。こんなことを散発的に続けられれば、兵糧攻めを受けているのと同じ」

氏綱を倒しても領地は手に入らない。出動した配下に報いるには、六郎が身銭を切るしかないのだ。

「あちらは気が向いた時に兵を挙げ、いざとなれば山奥に逃げればいい。まるで南朝の兵法です」

「そのことよ。わしは遊佐長教が臭いと思うが、貴公はどう思う」

「今回、畠山にはまるで動きがありませんでした。そのことが、かえって疑わしいと」

「証拠はないがな。長教め、梟雄と呼ばれるだけのことはある。その点、氏綱からの書状を六郎様へ提出した貴公と持隆殿は偉いものだ」

氏綱挙兵の直前、長慶と持隆に内応を勧める書状が届いた。二人は即座に写しを京の細川屋敷へ送り、二心のないことを示したのである。このことは六郎と宗三をいたく喜ばせた。

南朝風のやり口としては、山岳籠城以上に分断工作が厄介です。他の者は大丈夫でしょうか」

「うむ……。氏綱健在を示したいま、敵は手広く誘いをかけてくるだろうな。例えば池田や芥川が敵方に回れば、我らは連絡経路を遮断されてしまう」

「孫十郎はさっぱりとした男です。寝返ることはありますまい。池田殿とて、宗三殿の娘婿ではないですか」

池田信正は宗三の娘を娶っている。信正の居城、池田城大阪府池田市)は榎並城からも近く、以前から宗三とは親密な付き合いをしているはずだ。

「さ、それがな。信正はあれで野心家だ。貴公や孫十郎の活躍も面白く思っていない。あれだけの勢力を築いた商売上手、そうそう軽挙には至らぬだろうが」

池田もなかなかのやり手で、金銭の貸付などでけっこうな財を成している。近隣の伊丹氏が木沢長政の反乱に加担したことを踏まえれば、確かに池田の内応があっても不思議ではない。少なくとも長政よりは氏綱の方が家格や名分は上だ。

「やり手と言えば、尾張織田信秀が朝廷に四千貫もの銭を献上したとか」

飢饉から三年、ようやく銭の価値は回復してきている。その頃合いを見計らっての献金だった。いまの帝は清廉なお人柄で金品による猟官活動などを厭うそうだが、公家たちは狂喜乱舞しているらしい。近々、何かしらの褒賞が信秀に与えられるのは確実だった。

「米が暴騰した時に荒稼ぎしたらしいな。その手腕は見事だが、要は朝廷に泣きついたに過ぎん。今川、美濃を簒奪した斎藤、更には長島の一向衆までを敵に回し、主家の斯波からも疎んじられている。あの男の周りは敵だらけだ。本格の大将とは言えぬ」

「これは手厳しい。広い日本国の中でも、宗三殿の目利きに適う人物は少なそうですな」

「そうでもない。甲斐の武田信虎殿、相模の北条氏綱殿。戦乱耐えぬ東国において、大名権力の拡充に努めたこの二人は立派だと思う。もっとも、一方は家を追い出され、もう一方は亡くなってしまった。跡を継いだ武田晴信北条氏康もなかなかの傑物だと聞いているがな」

頼りない六郎を支え、畿内の複雑な利害関係に日々頭を悩ます宗三である。集権型の政治に関心があるのだろう。六郎政権が盤石でさえあれば、宗三の器量は日本全土を差配することも可能だ。

「そういう貴公はどうなのだ。若い世代から見て、いま魅力がある人間は誰だ」

「人をどうこう評する貫目ではありませんが……。先の織田信秀殿、安芸の毛利元就殿。この二人には常人と違うものを感じます。それがよいことか、悪いことかまでは分かりませんが」

「常人と異なるというなら、その最たるものは貴公であろうが」

「ふふ。青梅、酒を煮て英雄を論ず」

「は。どうも、貴公と話していると雷が鳴るようだな」

薄茶を出してくれた。宗三の様子に屈託はない。この男は長慶の本心を察した上で、自身の器量の中に長慶を取り込もうとしているのだ。それが、他の誰よりも恐ろしかった。

 

  *

 

十河又四郎が大事件を起こした。組打ち競べの遺恨から、篠原長房を闇討ちしたのである。

幸い長房は無事だったものの、額と肩口に浅手を負った。勝瑞館で詮議が開かれる。義父の存春は平身低頭、篠原家も大ごとにはしない態度であったが、肝心の又四郎がむすっとして、

「再試合から逃げ回る長房が悪い」

などと、悪びれる風もなかった。さすがの持隆も、これには不興を隠せない。

子どものしたこととはいえ、三好家の今後に関わる一大事だった。之虎は憤怒の相で又四郎を睨んでいるし、康長にとっても開いた口が塞がらない思いだ。

沈黙が横たわる。こういう静寂はよくない。恨みの年輪が形成されていく。

又四郎がまた何か喚こうとした時、背後の襖が開いた。閃光が又四郎の延髄に走る。皆があっと思った時には、又四郎が前のめりに倒れていた。傍らには、矢じりを綿玉に変えた矢が転がっている。遅れて駆けつけた冬康が、一張弓の夕星で放ったものらしい。

気絶した又四郎には目もくれず、冬康が持隆の眼前に進んだ。

「愚弟の罪、これで僅かでも減免いただければ」

そう平伏して言う冬康の意気に、一同は気を呑まれた。

「カッカカ、水軍衆の温情とは荒々しいものよ。だが、これだけで済ます訳にもいくまい」

「は。この上は“天狗入り”の儀を執り行い、神仏に又四郎の命運を見定めさせては如何でしょう」

場がざわめいた。天狗入り。一度、長慶たちに昔話として聞かせたことがあった。讃岐の海岸寺香川県仲多度郡)から阿波の剣山(徳島県三好市美馬市・那賀郡)の頂上までを二日間で踏破し、天狗の法力を得るという荒行である。まともな道などなく、獣となって深山大河を越えていかねばならない。過去数十年間でこの行を達成したのは他ならぬ三好元長・康長兄弟だけだった。

「待て、待て。又四郎が幾ら元長の子とはいえ、まだ十二歳だぞ。命を落とす可能性の方が高い」

「そこは……」

「ああ。分かったよ、冬康。わしが同行しよう」

そう言わざるを得なかった。冬康の狙いは分かる。又四郎に死ぬより辛い思いをさせて、篠原家の許しを請う。その過程で又四郎が大人に脱皮できれば、三好にとっても十河にとっても幸いである。それを導くことができるのは康長しかいない。

「私も参ります」

長房が声を上げた。

「又四郎殿は私との決着をお望みなのでしょう。この際、その辺りも白黒をつけた方がよいかと」

これは康長にとっても意外な申し出である。長房の父に頼まれて色々と稽古をつけてやったが、こんな益荒男じみた物言いをする男ではない。落ち着いた顔だが、存外又四郎の豪気が感染したのだろうか。

「はっはっは! 黙って見ていれば、冬康も長房も面白いことを言うじゃあないか! 実に一興。持隆様、存春殿、それに篠原家のご一同。これでよろしいですかな」

「カカカ。こんなもの、よいと言うしかないではないか」

「否も応もありませぬ……」

之虎の問いに持隆は苦笑いで承諾した。一方の存春はこの短期間で白髪が増えたようだ。

 

朝もやの中、讃岐の海岸寺に康長、又四郎、長房の三人は集った。この海岸寺弘法大師が誕生した地として名高いが、今日は壮大な伽藍などを見学している猶予はない。

近隣の香川氏を刺激しないよう、三人は丸腰で、懐に短刀を忍ばせているのみである。荷は腰兵糧と替えの草鞋、最低限の野営道具くらいだ。

見届け人の修験者と持隆の部下が確認を終えた。いよいよ天狗になるための行が始まる。

「よいな、明日の夕暮れまでに剣山の頂を目指す。雑念を捨て、無心で駆けよ」

二人の返事を待たず、康長は走り始めた。慌てて二人も追ってくる。

善通寺香川県善通寺市)を抜けてしばらくは平地が続く。又四郎も長房も、いまは悠々としている。ここから阿讃山脈を抜け、阿波へ辿り着くまでが第一の難関だ。

 

山に入った辺りから、又四郎の泣き言が始まった。草鞋は履き潰し、足の裏は血まみれである。長房も弱音は吐かないが、顔色が悪い。ここを乗り切れるかどうかで成否は分かれる。

康長は足を止めた。肩で息をしている二人は、休息だと思ったらしい。地面に腰を下ろして竹筒の水を飲み始めた。それを、思い切り蹴飛ばした。

「な、なにしやがる!」

又四郎が怒鳴った。その面を康長が張り倒す。長房は康長の形相を見てがたがた震え始めた。

「二人でかかってこい。組打ちの稽古をつけてやる」

叫びながら、又四郎が飛びかかってきた。まるで獣。いや、若い頃の元長そっくりだった。

又四郎の側面に入り、突進の力をずらして地面に叩きつける。又四郎の顔は泥に塗れた。

「どうした長房! 早く来い!」

「わああ!」

長房は組みつこうとしてきた。その手をかわし、鼻面に拳をくれる。一撃で長房は白目をむいた。

「二人とも起きんか。そんな様では立派な天狗になれんぞ」

見下ろして嘲笑う。それに激昂し、又四郎が起き上がった。

「殺してやる……」

またも突進。引き付けてかわす。背後の大木に突っ込んだ又四郎の後頭部を踏みつけて言った。

「お前は腕力に頼り過ぎだ。足腰も心胆もなっちゃいない」

「があ!」

振り向きざまに殴ってきた。動作が大き過ぎる。康長は脇を締めて身体を守り、打突を又四郎の脇腹に三発ほどくれてやった。吐瀉物を撒き散らして又四郎が悶え転がる。その又四郎を助けるように長房が起き上がったが、背後に回って喉元に両腕を絡ませ、締め落とした。又四郎は再び立ち上がろうとしている。それでよい。立った。その刹那、飛びかかかって顎を下から押し込み、再び大木に叩きつけた。

 

二人が気絶している間に、康長は火を起こし、食事を準備した。干し飯だけでは足りないだろうから、近くの山里で鶏を買った。塩や行者大蒜などで丹念に下味をつけ、遠火で炙る。同じく、卵も火が当たり過ぎないようにゆっくり焼いていく。割らずに焼くにはこつが要るのだが、上手く焼けた卵は最高にうまい。

もう日は暮れた。水をかけて二人を目覚めさせる。

「食え。飯だ」

二人とも口中がずたずたで痛いのだろう。腹は減っているが、躊躇する顔を見せた。

骨付きの肉を二本むしり取って、追い塩で味を強める。それを鼻下に差し出した。匂いが食欲を誘う。ようやく二人は鶏に喰らいつき始めた。康長も若鶏の肉を取ってかぶりつく。

しばらくは誰も声を上げなかった。腹が満ちて水を飲んでから、ようやく又四郎が言った。

「叔父上。あんた、それだけ強いのに、どうして裏方に甘んじているんだ」

「そ、そうです。長慶殿の元服を待たずに、ご自身で元長殿の跡を継いでもよかったのでは」

「あっ、長房てめえ、慶兄に文句でもあるのか」

「変なことを言うな。強さに見合った野心を抱くのが普通だろう? ただの好奇心だよ」

少しばかりの沈黙。薪が爆ぜたことを契機に、康長が聞き返した。

「お前たちの夢は何だ」

「……強くなりたい。慶兄や持隆様のお役に立って、十河の義父上に恩返しをしたい」

「私は、長慶殿のようにいつか畿内に出て、自分の力を試したい」

宵闇と炎、疲労と争闘は若者を素直にする。二人は躊躇わず答えた。

また、薪が爆ぜた。

「よい夢だな。……夢は違ってもいい。思いも同じでなくていい。どこにいようが、月と太陽の巡りは同じだ。大事なことは、月と太陽の方角を見失わぬことだ」

「……」

「又四郎。お前の月は誰だ。お前の太陽は何だ。お前がしたことは、天に顔向けができることか」

「……」

「いまのわしは、祈るだけだ。思い出に身体を預けてな。お前たちより先に死ぬことができれば、それでいい」

元長に長慶たちの成長と冥加を伝えたい。残された願いはそれだけだった。

卵を手渡した。上手く火が通っている。卵の熱さで誤魔化しながら、又四郎が涙ぐんでいた。

「出発だ。時間を食ったが、夜通し進めば間に合うだろう。はぐれないように、わしの背中から目を離すな。変な鳴き声が聞こえても構うなよ。この辺りは子泣き爺が出る」

松明を片手に、三人は阿波へ向かった。又四郎と長房の足取りは力強くなっていた。

 

川上で雨が降ったのか、吉野川が増水していて川越えに時間がかかり、剣山の麓に辿り着いた時には日が傾きかけていた。それでも、何かを吹っ切った二人にとっては峻険な高峰ももはや苦ではないらしい。驚くほどの敏捷さで山を駆け登っていく。こうなれば若さは強い。やがて、真っ赤に染まる頂に辿り着いた。

「け、剣山踏破せり! 我、天狗入り、成れええり!」

詰まりながら又四郎が吠えた。長房は感極まり咽び泣いている。それから二人は熱い抱擁を交わして、互いの後頭部をぐしゃぐしゃに撫であった。

「よう、よくやったじゃあないか。又四郎、長房、見直したぜ」

夕焼けの中から之虎と冬康が現れた。その後ろでは、十河家と篠原家の面々が鍋を湧かしている。

山上では蜻蛉があちこちで飛び回り、騒々しい人間たちを見物していた。

 

  *

 

一年前から陸奥では大乱が起こっている。伊達家の父子喧嘩が近隣の諸大名を巻き込み、奥州を二分する戦になってしまったのだという。相馬顕胤という豪傑が味方についた父方がいまは優勢らしいが、決着にはまだまだ時間がかかりそうだった。

父子の相剋というものに思いを馳せると、宗渭は鉛を呑み込んだような気分になる。かつては父と顔を合わせるのが嫌で家を飛び出し、ならず者と徒党を組んで荒れた暮らしを送っていたのだ。そんなある日、芥川孫十郎という男が棲家の売春窟を訪ねてきて、悪餓鬼集団を一人で叩きのめした。そのまま宗渭は捕らえられ、無理やり孫十郎の軍で侍大将を務めさせられた。軍の暮らしでも、孫十郎には毎日のように締め上げられた。逃げればなお酷い目に遭った。そうやって性根を正された結果、いまの三好宗渭がある。

父が嫌いだった理由は、母と自分を顧みなかったからだ。一度細川屋敷に出仕すれば何日も帰らないのが当たり前で、母はいつも寂しそうにしていた。自分も、何度約束を破られたことかしれない。

いま思えば、何とも幼稚な思い込みである。六郎の身辺警護役となって、三好宗三という男の大きさや優しさが初めて理解できた。どう考えても、父の実力は群を抜いている。細川家と畿内情勢を取り仕切り、六郎の機嫌を伺いつつ、公方や朝廷を上手く動かす。僧侶の宗論に付き合い、土地の境界争いを調べ、商人と数寄について語り合う。戦へ出かけたと思えば、早く帰れる日は母に手土産などを買っていく。

とても叶わない、自分は父を超えることなどできまい。そんな現実に向き合いたくなくて、なかなか宗三に自分から語りかけることができていなかった。

(不肖の命。叶うなら、父のために使いたいものだ)

本心ではそう思っている。雪解けを待っている。

「そんな些末な知らせは要らぬ! 氏綱は見つかったのか、首は獲れたのか、それだけを申せ!」

怒鳴り声が響いてきた。隣室では、氏綱捜索を担当している内衆が六郎に報告を入れている。

「お主、以前確かに“見つけてみせます”と申したわな。武士に二言はないぞ、ええ! どのように探索し、いつ見つけるのだ。できなかったら、どう責任を取るつもりだ! ああ? なんじゃその湿気た面は!」

六郎の激情はただ事ではない。氏綱の存命が分かってからというもの、毎日のように怒り狂って内衆を詰めている。その一方で、夜になれば小さくなって身体を震わせ、怖い、怖いと怯えるのだ。

「宗渭。そばにいておくれよ。わしを守ってくれ。わしを一人にしないでくれ」

宗三の息子ということで、忠誠に間違いはないと思ってくれているらしい。事実、そんな六郎が憎めなくて、宗渭はいつの間にか六郎のことが好きになっていた。

我々父子くらい、真心から仕える家臣がいてもいいではありませんか――。いつか、父とこんな話をしてみたかった。

 

続く