きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十八 悲恋の段  ――細川六郎 長慶家臣和田新五郎を成敗し、田中与四郎 大林宗套老師に覚悟を問われる――

十八 悲恋の段

 

雪月花の夜だった。

天文十三年(1544年)の春。ようやく桜の花が開いたと思ったら、季節外れの雪が降った。夜には雲が流されて、桜の老樹にまぶされた雪が月光をたおやかに反射している。

「まだいいじゃない」

半裸のまま、幹子が言った。新五郎は着物を直し終わって、周囲の様子を気にしている。

「いい加減に戻らないと、怪しまれるだろう」

「平気よ。雪のせいで、出先で引き留められたって言うわ」

「こう何度も続けば、感づく者も現れる」

「堂々としてなさいよ」

白い息を吐きながら、幹子が顔を近づけてきた。短い口づけを交わして着物を肩にかけてやる。

「汗が冷えるぞ」

「始める前は桜のように優しくて、済ませてしまえば雪のように素っ気ない。お月様より遠き者、汝の名は男なり……」

唇を尖らせて幹子がすねた素振りを見せるが、新五郎は取り合わない。幾ら幹子が下女に過ぎないとはいえ、こんなところを公方の者に見つかれば大目玉である。

こうして幹子に会うのは三度目だった。初めて出会った時から、お互いに感じるものがあったのだ。日時を約束して荒れ寺で逢瀬を重ねるようになるまで時間はかからなかった。十年ほど前に一向一揆法華一揆が鎮圧されて以来、京には捨て置かれた寺院が幾らでもある。少しずつ復興は進んでいるものの、密かに睦み合う場所には困らない。

「ねえ。いいこと教えてあげようか」

「なんだ」

「こないだ、大和の筒井順昭殿がいらしたわ。お忍びでね」

大物だった。木沢長政の侵略が止んでから、大和で頭角を現してきたのが筒井氏である。寺社や商工業者などからの厚い支持を背景に、中小の国人を屈服させていっているらしい。当主の順昭はまだ若いが、相当な切れ者との噂だった。

「なかなか男前だったわよ。お膳を出した時に目が合って、少しだけお話しちゃった」

「そんなことはどうでもいい。公方に来た用向きは」

「分からないけど、三淵晴員様と一緒に地図を眺めていたわ」

「どこの」

「知らないわよ」

もう一度口をつけて強く吸った。舌を甘噛みしながら乱暴に抱き寄せる。おなごというものに慣れてきた新五郎は、荒々しい面を隠さなくなっていた。

「んっ……。もう、野卑な人」

「思い出せ。何でもいい」

「そう言えば、墨の色を使い分けて何か書き込んでいたかしら。紅墨が目についたわ」

「他には」

「それだけ」

「分かった。充分だ」

いま、紅白に勢力を分けて行う密談と言えば、六郎・氏綱の争い以外にない。公方や筒井は氏綱に通じているかもしれないということだ。

 

浅く積もった雪を踏みしめながら、月下の夜道を進んでいく。おなごを抱いた後の一人歩きは寒く、眠いものだ。うつらうつらしながら悦楽のひと時を思い出していると、背後でもう一人の足音が聞こえた。ぎくりとして振り返ってみたが誰もいない。気のせいだったのか。

刀から手を離して、再び新五郎は歩き出した。もう閉まっているが、この辺の通りは工芸品などを扱う店が多い。紙人形、貝細工、扇子など、眺めるだけでも楽しかった。そうだ。また明日、母への土産を買いに来よう。柄にない親孝行を思いついたことで、冷えた身体に精気が戻るようだった。

 

  *

 

新年早々、義父の与兵衛が亡くなった。

卒中風で倒れ、あっという間のことである。介護や看病の苦労はなかったが、商売の方はおおいに支障があった。突然のことで与四郎へ充分な引継ぎができていなかったため、財産や交易、決済などの全容が分からなかったのだ。

家業の混乱を放置しておくことはできない。いねは葬儀の取り仕切りから取引先・奉公人への聴き調べまで陣頭に立って指揮をした。夫の顔を立てつつ、商売の利害関係者を安心させ、親類ご近所へ毅然と応対する。この一箇月というもの、獅子奮迅の活躍だったと言ってよいはずだ。

その癖、与四郎からは礼のひとつもなかった。彼が悲嘆に暮れていたことは分かる。新当主としての重圧が圧し掛かってきたことも理解できる。だが、だからといって妻の活躍を無視してよい訳がない。それが気に入らなくて、夫に話しかけられても

「私の耳は阿波へ帰っております」

などと答え、無視することにした。与四郎も気が短いから、それ以来意固地になって話しかけてこない。いつの間にか、夫婦の間には会話がなくなっていた。

「また夫婦喧嘩だそうだね」

武野紹鴎だった。会合衆として、茶の師匠として、いままで以上に与四郎のことを気遣ってくれている。今日も様子を見に寄ってくれたらしい。

「お師匠からも言ってやってください。自分の女房も大事にできない人が、茶席で客をもてなそうだなんて」

「ははは。その通りだ」

「宿六はちょっとお得意様のところへ用足しに」

行先は鍛冶屋である。根来衆が、南海交易で手に入れたポルトガル製の鉄砲を複製しようとしているそうだ。従来の鉄砲と違って実用性が高く、大変な値打ちがあるらしい。与四郎は海外貿易への参入が上手くいかないため、武具を扱おうとでも考えているのだろう。

「そうかね。ではまた来ることにしよう」

「あ、お待ちください。せっかくですから上がっていってくださいな。いま、軽い食事など用意させます」

腰を浮かしかけた紹鴎を引き止め、膳の用意をさせた。紹鴎は舌が肥えているから、下手なものは出せない。しかし、夫の師匠に何のもてなしもしない訳にもいくまい。自分が与四郎をなじるのはよいが、世間に夫が笑われるのは御免である。

「お待たせしました」

出したのは、加薬ごはんの握り飯である。米に人参、牛蒡、こんにゃくを混ぜ、たまりや味醂、砂糖などを加えて炊き上げたもので、いねのお気に入り料理のひとつだ。堺では人参やたまりなど珍しい食材が手に入る。それらを活かしきった豊かな味わいは、まさに豊穣の一語であった。

「いただきます」

紹鴎は握り飯を静かに食べ始めた。客間は表の往来から遠い。飯をもく、もくと食む音だけが聞こえる。何も話さない。握り飯をきれいに食べ終え、冷たい井戸水を飲んでから初めて、ふうと小さな息を吐いた。

「ご馳走様でした」

「……お粗末様でした」

「ところで、あの花はいね殿が」

欠けた雑器の茶入に、短く切った山吹を一輪挿している。遊び心で飾ったものだが、紹鴎に見せるには失礼が過ぎたかもしれない。片付ける間がなかった。

「お目汚しでしたか」

「いや……。ひとつ、頼みがあるのだが」

「はい」

「同じことを、与四郎にもしてやってくれないか。それから一言、市中の山居とな」

「は……?」

「与四郎は見どころがある男だ。妻としては気に入らぬ点も多々あろうが、夫を育てるのも妻の器量さ」

紹鴎はそう言って、飄々と去っていった。気分を害した訳ではなさそうだが、何を言いたかったのかはよく分からない。もう少し分かり易く説明してほしいものだ。茶人というのは、皆ああなのだろうか。

 

  *

 

関東の騒乱が激しくなってきていた。

関東管領上杉憲政が盟主となって、山内上杉、扇谷上杉、古河公方、更には今川家、武田家の大連合を結成し、北条氏康を滅ぼそうというのである。三代続いた北条氏もいまや風前の灯だった。

上杉憲政からは、中央政権による正統性のお墨付を求められている。公方や朝廷とも協議した結果、宗三を使者として派遣することが決まった。宗三の名は東国でも知られているらしいし、この機会に細川の威光を東国に知らしめるべきだと公方の三淵晴員に持ち上げられ、その気になったものである。

宗三は氏綱の乱が終わっていないからと固辞したが、主である六郎の命には逆らえなかった。そのことがまた、六郎の自尊心をくすぐるのだ。他の内衆も宗三がいなければここぞとばかりに張り切るだろう。宗三が不在の間は息子の宗渭を榎並城に入れて、河内・和泉方面へ睨みを利かせさせることにした。

氏綱に関しては、気になる情報が届いている。大和の筒井順昭が氏綱方に参じる気配だというのだ。筒井が氏綱に味方すれば、興福寺も動揺する可能性が高い。何としても阻止せねばならなかった。

 

順昭を取り込む策を考えるように指示してから、二十日ほどが過ぎた。

「どうやら、筒井順昭は公方に仕える下女、幹子とか申す女に執心の様子。さる公用で目にかけて以来、度々贈り物などを届けているとか」

内衆の一人が、耳寄りな話を報告してきた。

「殿の斡旋で縁組などを行えば、順昭は恩義を感じるかと思いますが」

「なるほどな。うむ、よい着想じゃ。……おお。どうせなら、その幹子とやらを一旦わしの養女にしてはどうか。ただの下女を迎えるよりは、順昭の喜びもひとしおというもの」

「や、や! なんたるまめやかなお心遣い。殿のご温情、まことに恐れ入りました」

「はははは」

六郎も気分がよくなり、そのように進めるよう言い渡した。大和を押さえてしまえば氏綱の逃げ道はなくなる。首を獲ることにも繋がるはずだ。

 

公方は、幹子の養女入りをあっさりと了承した。義晴たちも下女一人にこだわるつもりはないのだろう。

屋敷に連れてこられた幹子は確かになかなかの器量よしだった。さっそく、侍女たちに花嫁教育を命じる。六郎の娘として恥ずかしくないよう、投資は惜しまなかった。

幹子は何やら不満げだったが、環境が変わったためであろうと六郎は気にも留めなかった。

 

更に一箇月が過ぎ、卯の花が咲き始める頃。

庭で蹴鞠に興じていた六郎のもとへ異変が知らされた。順昭が幹子の嫁取りを拒否したのである。

「馬鹿な! 前に意向を確認した時はいたく喜んでおったではないか!」

「そ。それが……。順昭殿も酷いご立腹でして、“三好長慶の小姓に傷ものにされた娘を寄越そうなどと、いくら細川様とはいえ無礼にもほどがある”などと」

「なんだと。そんな話、聞いたこともないぞ。ええい、幹子を呼べ!」

慌てた侍女たちに手を引かれ、幹子が現れた。

「長慶の配下と密通していたとはまことか」

「本当よ」

「なぜ話さなかった」

「言える訳ないじゃない」

幹子はむっつりと横を向いて答えた。その下種臭い態度が、六郎を一層苛立たせた。

「自分が何をしたか分かっているのか。筒井との同盟を、お主は台無しにしたのだぞ。仇敵、氏綱を利するようなことをしでかしたのだぞ!」

「何よ。何なのよ! 私が新五郎と会っていたのは義父上の養女になる前のことだわ。下女だった頃の私が、誰と何をしようが勝手じゃない。娘になれ、筒井に嫁げ? はん、後からやって来て何言ってるのよ」

周りの内衆や侍女たちが真っ青になった。この女は、誰に何を言っているのか分かっていないらしい。

「内緒にしていたことを感謝してほしいくらいなのに。私なりに義父上の立場も考えて」

「黙れ!」

幹子を蹴り倒した。六郎の顔からは完全に血の気が失せ、真っ白な幽鬼のようになっている。過呼吸になりそうな口の中へ自分の指を突っ込み、噛み千切るほどの力で咥えた。

「こ、こ、こんなに虚仮にされたのは、生まれて初めてじゃ……!」

「……」

口元を切ったのか、幹子の唇からは血が流れている。

「絶対に、絶対に許さん。縁組は今日で解消、いや、初めから縁組などなかったことにしておけ。この女を縛って閉じ込めておくのだ。わしに無礼を働いた者が、わしの家督を脅かした者が、どんな末路を辿ることになるか。天下に知らしめてくれるわ!」

 

  *

 

元長の十三回忌を顕本寺で行ったため、長慶たち三好一族は堺へ滞在していた。

父の遺徳のためか、長慶の活躍のためか、持隆を始めとする四国衆、畿内の国人衆、公方の奉行、公家、商人、惣村代表など、幅広い客が訪れた。かつて不幸な経緯があった本願寺からも、法主証如の名で丁重な香奠が届けられている。累代の不幸にも潰されることなく、三好家の武威はますます盛んだと天下に喧伝した格好だった。

 

堺の三好屋敷には、連日様々な人間が長慶に面会を求めてくる。今朝の客は武野紹鴎だった。紹鴎といえば茶の湯の名人として有名だが、連歌の実力も相当なものだ。日頃の政治臭い話をしばし忘れ、新古今の解釈だの、冷え・凍み・寂び・枯じけの違いや歌例などを語らうのは楽しく、飽きることがない。

「この時期の題材といえばほととぎす。歌会ではなかなか鳴いてくれずに、皆がやきもきしてしまうことがあるでしょう。そんな時、長慶殿ならどうされますか」

歌詠みはこの手の話題でしばしば盛り上がるものだ。

「思い描きます」

「ほう、何を」

「鳴かぬなら、その意を汲もう――。鳥の都合を慮るのも愉しいものではないでしょうか」

長慶の返答はお気に召したらしい。くっくっと愉快そうに笑い、さすが、などと呟いた。

「面白いものです。あなたといい、之虎殿といい、そしていね殿といい。あの荒くったい三好の皆様が、急に風情ある一族になられた。元長殿の頃は宗三殿一人が変わり者扱いされておりましたのに」

「母の影響でしょう。母は山育ちながら、歌も茶も好んでいました」

「そう、つるぎ殿は筋がよいお人でしたね。懐かしいことです。……ときに、その山育ちという言葉。これまでは粗野であることを意味していましたが、これからは少し変わっていくかもしれませんな」

紹鴎の眼差しに光が宿っている。何か奥深いことを予感しているような表情だった。

「いね殿が持って生まれた、山野そのものの美意識。それを見抜き、堺の美意識と融合させようとしている与四郎。いずれ、この二人が世の中の美の価値を塗り替えてしまうかもしれません」

「……与四郎は分かりますが、いねがですか」

「むしろ現状ではいね殿の方が力を発揮できています。与四郎はその才を開花させるまで、いましばらくの時がかかりましょう。その日まで、私は与四郎に厳しく当たるつもりです」

「羨ましい。与四郎はよい師を得ましたな」

二人の顔に笑みが浮かぶ。それから、この話は誰にも漏らさないでほしいと頼まれた。茶人の世界も、嫉妬や足の引っ張り合いが多いのだそうだ。

「しかし、夫婦仲が破綻すればそれも水の泡です。兄の目から見て、如何ですか」

「あの夫婦は共に負けん気が強いのでぶつかり合いますが、心底では好き合っておりましょう」

「若い者の悲恋など見たくありませんものね。長慶殿のようにどの家も夫婦円満ならよいのですが」

その時、ちょうど話題になったところであまねが現れた。

「失礼いたします。いま基速様から知らせが入って、京で大水が起こったそうです」

「なに」

「京中が水に浸かって、多くの人が難儀しているとか。最近雨が多いとは思っていたけれど……」

思いがけない知らせに、寛いでいた長慶と紹鴎も直ちに職業人の気勢を身に纏った。

「これはただ事ではなさそうだ。長慶殿、私も店へ戻って情報を集めます。大徳寺京都府京都市)や取引先などへ支援物資を送らねば」

「ちょうど堺へいることです。力を合わせて救援に当たりましょう。あまね、新五郎を呼んできてくれ」

武士という生業は、こうした時こそ真価を期待される。理世安民の旗印に恥ずかしくない動きをするよう、新五郎へ細々と指示を授けた。一方、長慶は長逸たちと軍備・治安の引き締めに動く。京の混乱に目をつけ、細川氏綱一派が蠢き始めるかもしれない。歌を詠んでいる時間などはしばらく取れなさそうだった。

 

  *

 

京都の惨状は想像を超えていた。

鴨川や今出川が氾濫し、京中の建物が浸水。流された橋や建物も多く、人々は舟がなければ移動もままならない状態である。京市街だけでなく、比叡山や鞍馬でも土砂崩れが起こっている。大水から三日経っていたが、水が引く気配は一向に見られなかった。

新五郎はたまたま京にいた斎藤基速と合流し、手分けして民の救援に当たった。西宮や堺から続々と届く救援物資を、町衆や公家、寺社の代表者を通じて分配していく。怪我人や死体をそれぞれ集めて、治療や荼毘の段取りを進めていく。戦場以上の忙しさである。

この時ばかりは日頃のいがみ合いも鳴りを潜めるようで、公方や細川家に加え、近江六角家や近隣の国人衆などが駆けつけ、力を合わせて救助に当たっている。寺や神社も同様で、宗派を超えた助け合いがなされている。天災の中、しばしば目に入る人心の清らかさは新五郎を感動させた。もちろん、窃盗や喧嘩も頻発していたが、治安が大崩れすることはなさそうだ。

 

それから一箇月ほどが過ぎ、大水からの復興がようやく始まりつつあった頃。

新五郎は久しぶりの休暇を得て、付き合いのある者への見舞いでもしようかと町を歩いていた。いまの京は悲しいほどに見晴らしがよい。まだまだ多くの民が、屋根のない暮らしをしているのだ。

流失した寺の跡地を通りかかった。ここに来ると、幹子のことを思い出さずにはいられない。平蜘蛛町の娼妓などを除けば、幹子は初めての女だった。いつかもう少し偉くなったら、頼み込んで嫁にもらえないかと考えていた。細川家の養女などになってしまい、もう会うことは叶わぬだろうが、元気にやっているだろうか。

その時、騒々しい足音が近づいてきた。かつての密会場所を眺めていた新五郎の周りを、五名の侍が取り囲む。率いている者の顔には見覚えがあった。細川家内衆の一人だ。

「こんな朝早くから、何かご用か」

「神妙にせい。三好長慶が家臣、和田新五郎。不義密通の咎により身柄を拘束いたす」

「なんだと」

「六郎様直々の令状が出ておる。観念いたせ」

抵抗しようとしたが、多勢に無勢である。縄目を受ける屈辱に耐えながら、新五郎は細川家の屋敷に連行されていった。

 

昼頃まで厳しい尋問に晒された。罪状は幹子への姦通ということだが、これは筋の通らない裁きだった。幹子との間で何があろうが、それは六郎の養女となる前の話である。過去に遡及して罰を与えるなど前例のないことだ。そう思って、取り調べを行う奉行に問うた。

「いくら六郎様とはいえ、こんな無法が許される訳がない。自ら世間の支持を失いたいのか」

「だ、黙れ!」

頬を殴打された。奉行の表情からすると、彼ら実務方も論拠の乏しさは分かっているのだろう。

「いったい、六郎様はなぜこうまでお怒りなのだ。教えてもらえれば、償いようもある」

「ふん。いいだろう、聞かせてやる。幹子はな、筒井順昭に嫁いでいくはずだったのだ。それがお主のせいで立ち消えになった。それがどういう結果を生むか、分かるだろうが」

「……!」

「どんな謝り方をしても無駄だ。たとえ長慶殿が地に頭をこすりつけてもな」

すべてを悟った。自分は細川家と公方の暗闘に巻き込まれたのだ。氏綱と順昭の関係を餌に、六郎が踊らされたのだ。

(死ぬのだな、私は)

六郎の性格は、新五郎もよく分かっている。畿内では子どもでも知っていることだ。

(殿。申し訳ございませぬ。どうか、心を乱されませぬよう……)

涙が溢れ出した。戦場ではなく、こんなくだらない場所で死ぬことが口惜しかった。主の恩に報いることもできず、それどころか足を引っ張るような死に方。男の一生、これほどの不面目があろうか。

(ああ。こんなことなら、母上の顔をもう一度)

愚息の不名誉を背負って、老いた母はこれからどう生きていくというのだ。

取り調べの奉行が顔を背けた。彼も内心では葛藤があるに違いない。こんな汚れ仕事は、武士の本懐とは言えまい。

「言い残したいことがあるのだが、いいか」

「……聞こう」

「もう、細川政権はおしまいだよ。大水と一緒に流されてしまえと、天も言っている。お主も早々に見切りをつけて、新しい主を探した方がいい」

奉行が真っ赤になって、拳を握りしめた。しかし、彼は新五郎を殴らずに、唇を噛んで耐えていた。

 

取り調べの後、屋敷の中庭に引きずり出された。

主の間から貴人が見下ろしている。細川六郎だった。泥濘の上に正座したまま、新五郎は天下人の顔を見上げていた。その顔は公家のように真っ白で、怒りに歪んでいる。

六郎が刀を片手に中庭に降りてきた。斬られる。そう思った時には顔面を蹴り上げられていた。

「お主か! お主が!」

両手を縛られた新五郎は、なす術もなしに蹴られるままだった。鼻が潰れ、歯が何本か折れた。六郎の白足袋が朱く染まっていく。喚きながら暴れる彼を、誰も止めることはできなかった。五十回までは蹴られた回数を覚えていたが、次第に痛みの感覚も時の経過も分からなくなっていった。

「死罪! 市中引き回しの上、即刻死罪じゃ!」

気を失う直前に、六郎の金切声が聞こえた。

 

「新五郎は、怪我している方が男前ね」

「それは、どうも」

「こんなことになるなら、もっと好き勝手に生きておくんだったわ」

「そうだな」

「ねえ、新五郎」

「なんだ」

「短かったけど、素敵な恋だったよね」

「ああ、命懸けの恋だった」

檻車に揺られて、新五郎と幹子が運ばれていく。都の大通りを回った後、一条戻橋(京都府京都市)で斬られるらしい。辱めようとする六郎の意向か、二人を憐れむ奉行たちの情けか、新五郎と幹子は同じ檻に入れられていた。

突然の出来事に京はちょっとした騒ぎになっているらしい。事前の触れがなかったにも関わらず、見物人は徐々に増えてきていた。六郎たちに都合がよい説明がなされているはずだが、群衆の反応は思いの外同情的である。幾度となく、檻の隙間から花や竹筒などが差し入れられた。

「その隊列、お待ちあれ!」

前方で騒ぎが起こった。あれは、基速の声だ。事態を知って飛び出してきたらしい。様子は見えないが、必死で自分を擁護してくれていることが分かる。いつも冷静な基速が、こんなにも。新五郎の腫れあがった目から、再び涙が零れた。

奉行に頼み込んで、基速と会話させてもらった。

「新五郎! いま少し辛抱しておれ。手は回す。必ず助けてやるぞ」

「……もう、よいのです。このままではあなたや殿にも累が。それよりも、私の死にざまを皆へお伝えくだされ」

「ば、馬鹿な」

「殿へ、私の死を上手くお使いくださいと。そうなれば本望です。……基速殿、おさらば」

基速の身体が奉行たちに取り押さえられた。檻車は再びゆっくりと進んでいく。

 

夕暮れの一条戻橋。新五郎と幹子は執行人が見下ろす所定位置に座らされた。周囲には六郎たちが陣取っているし、夥しい数の観客も詰めかけている。

この光景に、新五郎は西宮神社の傀儡芸を思い出していた。自分の宿命も、あの人形と同じなのだ。恋は終わる。命も尽きる。それならば孤独を感じぬよう、同じ時に糸を切ってほしい――。

「なあ、執行人殿。何でもするから、二人同時に首を刎ねてくれないか」

そう言われて、困った執行人は六郎の意向を確かめてきた。

「六郎様はこう仰せだ。お主の両腕を鋸で斬り落とす。その間、一言も発しなければ叶えてやろうと」

「何言ってるの! 新五郎、そんな話に付き合うことはないわ。私ならどうなっても平気だから」

「いいんだ。一緒に死のう、幹子。同時に逝けば、あの世でもすぐに出会えよう」

新五郎が承諾し、執行人は刀を置いて鋸を構えた。見物人から正気か、まともな人間のやることではないなどと声が上がる。気の毒な執行人の顔にも、大量の脂汗が浮かんでいた。

鋸が動き始めた。熱い。斬られている右腕よりも、脊髄や脳髄に激痛が走る。何度も叫び声を上げそうになるが、新五郎は必死で耐えた。骨に刃が入った。痛みは一層重く、身体の中で地割れが生じているようだったが、それでも声は出さない。汗と涙は止まることなく、血はそれ以上に吹き上がっていた。右腕が地に落ちた。思っていた以上に腕というものは重いらしい。そんなことを考える間もなく、左腕が始まる。

「やめて! もうやめて!」

幹子は度を失い、繰り返し泣き叫んだ。観客からも悲鳴が相次ぎ、気を失う者も続出していた。

 

――新五郎は沈黙を守り切った。

「約束だ」

表情に修羅を纏い、執行人を見上げて言った。執行人が頷き、刀に持ち替えた。新五郎が微笑む。幹子も泣きながら笑って、頭を下げる。その流れを、六郎が立ち上がって制した。彼の目は血走っている。

「ど、どこまでも小癪な奴、そうまでこのわしの威光を損ねたいのか。構わん、このまま鋸で首を斬り落とせ。このまま、黙って死ね! 幹子は裸に剥いてこの場へ残し、明朝あらためて首を刎ねよ!」

破廉恥な。それでも天下を治める君主か。叫ぼうとしたが、唇が麻痺していた。多量の血を失い意識は朦朧とし、視線も定まらない。それでも、首筋に鋸の冷たい刃が当たったのは分かった。

 

  *

 

与四郎は一部始終を見届けていた。いや、見届けてしまったと言う方が正確かもしれない。

大水の見舞いに大徳寺を訪ねるところだった。道すがら、一条戻橋で何か騒ぎが起こっている。見物人に仔細を訊ねたところ、それが和田新五郎の処刑だと分かった。面識のある若者が、言いがかりのような罪を着せられ残虐に殺されていく。こんなことが人の世にあってよいのか。

新五郎が息絶え、娘の悲鳴がいつまでも続いた。与四郎はよろよろと歩き出す。途中、何度も眩暈に襲われて道にうずくまった。まるで賽の河原に迷い込んだように思えた。

 

日明貿易の関係から、堺の有力商人は京の禅寺と懇意にしている。その中でも大徳寺京都五山に属していないことからかえって親しみ易く、堺との結びつきが強い。七十年前には一休宗純という有徳の人がいて、堺衆から数え切れないほどの寄進が集まったという話だった。そうした交流が続き、禅の心を学んだ堺衆が茶の湯を発展させてきたのである。

現在も多くの茶人が大徳寺に集い、住持の大林宗套へ参禅している。与四郎も昨年ようやく紹鴎の許しを得て、大徳寺へ通うことができるようになっていた。

禅僧たちも一条戻橋の騒ぎを見に行っているのか、境内に人は少ない。打ちひしがれた気分のまま、与四郎は僧堂に入って座禅を始めた。呼吸を整え、心の静寂を求める。しかし、瞼の裏に新五郎の惨劇がこびりついて、動悸はいつまでも鎮まらない。

「喝!」

大音声を叩き込まれて、与四郎は思わず体を崩した。大林宗套である。既に六十歳を超えているが、その威風と迫力は並ぶ者がいない。

「嫌なものでも見てきたようじゃな」

「……もう二度と、一条戻橋に近づきたくはありません」

陰鬱な心情を吐露した。どこかで慰めを期待したのかもしれない。しかし、老師の言は辛辣だった。

「いまこの時、うまい茶を入れることができるか」

「それは……。とても、そんな気持ちには」

「客よりも私情が先か。それが、一期に一会の相手でもか」

「……!」

「御身は、茶を舐めている」

それだけを言って老師は去った。僧堂に残された与四郎はしばらく禅を続けていたが、やがて雄叫びを上げ、うずくまって泣いた。

 

続く