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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十九 まほろばの段  ――三好長逸 丹波の黄昏を憂い、三好長慶 源氏物語に慰められる――

十九 まほろばの段

 

新五郎と幹子の遺骸が越水城に届けられた。

細川家の使者は逃げるように去っていった。それでも、まともな弔いができるように取り計らってくれたのは彼たちなのだそうだ。二人が絶命した後のことまでは、六郎は関心を示さなかったらしい。

一足早く帰国した基速によれば、京では六郎への怨嗟が充満しているという。庶民は飢饉や大水などの天災を施政者のせいにするものだし、これまでも一向一揆法華一揆の惹起、元長の謀殺、長慶や持隆との不和、宗三の謹慎、尼子の播磨侵攻、木沢長政の反乱、細川氏綱の決起など、失策は星の数ほどあったのだ。そうした積み重ねがあったところで、若い二人の命を弄んだ。これでは愛想を尽かさない方がおかしい。

宗三が東国から帰って来てもどうにもならないだろう。六角氏と婚姻同盟を結んだりもしているようだが、もはや政権は死に体である。これから畿内の関心は、六郎の後継者選びに移っていくはずだ。

「新五郎、なんでこんなことに」

新五郎の母が棺桶に駆け寄って泣き崩れた。息子を亡くした母の慟哭は、まるで赤子の泣き声のようである。その哀れな姿は家中一同の悲しみを一層深いものにした。

「あんたが何をしたっていうの。ただ恋をしただけなんだろう」

嗚咽が続く。自身を重ね合わせたのか、あまねやおたきたちも一緒になって泣いている。

「殿様。どうか仇をとってください。息子の無念を晴らしてください」

悲痛な訴えが胸に刺さる。長慶は老母の肩に手を当てて、とく、とくと雫を溜めるような声で励ました。彼女はやがて多少の落ち着きを取り戻し、二人を同じ墓に葬るつもりだと言った。

 

「六郎を討てへんって、そりゃどういうこっちゃねん!」

越水城、評定の間。長逸以下の主だった家臣が揃っている。声を荒げているのは久秀だった。

「言ったとおりだ。まだその時ではない」

長慶が繰り返した。勢い任せで六郎を討っても、氏綱がいる。長教がいる。宗三も仇討ちの兵を挙げる。公方は暗躍して戦を煽り、天下の混迷が深まっていく。それでは新五郎は犬死なのだ。

「家来が殺されて、じっと我慢する言うんか!」

「そうだ」

「久秀。口を慎め」

基速がたしなめた。新五郎の死を見届けたせいか、基速の言葉には迫力がある。しかし、それでも久秀は怯まない。

「なんで庇うねん。頼ってきたもんを助けるんが殿の仕事やんか。下のもん見殺してええ訳あるかい」

久秀がここまで感情をむき出しにするのは珍しい。いつもはもっと軽く、要領のよい男だ。久秀も、本心から新五郎を気に入っていたのだろう。

「ほな、殿はわいが同じ目に遭っても動かんのやな!」

「私怨で動く気はない」

久秀の額に血管が浮かぶ。長頼が兄を押さえようとしたが、それよりも早く久秀が立ち上がった。

「もうええわい! 殿の阿呆、ぼけなす! もう知らんわ!」

大声で罵り、部屋を飛び出していく。長慶は右のこめかみを指で押さえながら、小さくため息をついた。

「……無礼が過ぎましょう。あまり好きに言わせては規律が乱れます」

長逸が諌めた。久秀の優秀さは皆が認めているが、言動が武家の規範から離れ過ぎている。実弟の長頼が寡黙、忠勤、勇敢な人柄で評判がよいのとは違っていた。

「もう一皮むける必要がある。……久秀も、私もな。皆、辛いところだが、もうしばらく待ってくれ」

一同が頭を下げた。久秀が騒いだため、他の家臣もこれ以上は何も言わない。

評定の間を退出し、あまねと千熊丸が待つ部屋に帰る。いつも通りに食事を取り、千熊丸をあやした。息子を寝かしつけ、あまねと二人きりになってから、初めて長慶は泣いた。泣いても泣いても涙は尽きない。あまねの膝を抱きかかえて、彼女の寝巻を濡らしていく。妻は何も言わずに夫の背中をさすっていた。

 

  *

 

気がつけば、長教は白良浜和歌山県西牟婁郡)の海辺を歩いていた。

細かくさらさらとした砂が足袋の中に入ってくる。それが決して不快ではなく、足先を女に握られるような心地がした。長教は裸足になって、そのまま砂浜を踏みしめてまわった。懐かしい楽しさだ。

いつしか日が沈みかけている。そうだった。あの頃の自分はいつも高嶋の向こうに沈む夕陽を眺めていた。そうしている間は、没落した自分の境遇を完全に忘れていられた。思い出してきた。それから海辺の温泉に入って、徐々に輝きを増してくる星空を見上げていたものだ。あの風呂はいまもあるのだろうか。走った。身体が軽い。息が切れない。若かった時分の感覚だ。前方で湯気が上がっている。変わっていない。

人気はなかった。これなら、全裸で浸かってもいいだろう。着物を脱いで湯に入った。温かい。何十年も蓄積した疲れが汗となって消えていく。ああ。思わず声を漏らしていた。自分はいま、素直な笑顔でいるのだろう。河内では能面をつけて暮らしているようなものだ。生き抜くために。隙を見せないために。

「待たせたな」

客が入ってきた。知り合いだろうか。湯気で顔が見えない。

「もう、ここらで休んだらどうだ」

馴れ馴れしい。誰だ。声に覚えがある。そう、紀伊ではずっと一緒だった気がする。

「まだ間に合う。よせ。よしておけ」

浜風。湯気が晴れていく。目の前で、長政が笑っていた。

 

絶叫して目が覚めた。掛布団を握りしめ、変わらぬ部屋の様子に目をやって、長教は事態を理解した。天文十四年(1545年)、正月二日の初夢だったのだ。

「な、何が吉夢のまじないじゃ。くそ、こんなもの!」

息を乱して、枕の下に置いてあった宝船の絵を破く。その時になって、長教は寝巻と敷布団がぐっしょりと濡れていることに気づいた。小便のきつい匂いが漂う。長教は失禁していた。

 

二日ほど経って、長教はようやく平静を取り戻していた。

城下に珍しい男が現れたというので、使いを出して館に呼び寄せた。居城の若江城は幾つかの街道と大和川水系が交わる地に位置しており、多種多様な人間が集まってくる。遠国の情勢に詳しい商人や数寄者などが訪れた時は、進んで声をかけるようにしていた。

やってきた珠阿弥という男は異様な風貌だった。盲目の小男で、年は五十を過ぎているだろう。粗末な襤褸の上に毛皮を纏っており、一方で手にしている木の杖は真っ白で清々しい。一際目立つのは顔面で、両目を一文字に斬られた傷痕が痛々しかった。

「ご覧のとおり、手前は生まれついての盲目ではございません」

もともとは大盗賊団の頭領だったという。東国ではさる寺院から秘仏を盗んだり、九州では倭寇の根城から盗品を横取りしたり、かなりの無茶を重ねていた。それがある日、凄腕の侍の手で光を奪われた。

「ほう。どこに忍び込んだ時じゃ」

「命を助けてもらう代わりに、それだけは明かさない約束でして。なに、遥か彼方の土地の話ですよ」

それから十年、白杖を片手に全国を放浪してきた。盗賊時代に培った各地の地勢だの風習だの勢力だのの話は、どこに行っても喜ばれた。按摩や謡の技術も得て、食うには困らないそうだ。試しに幾つかの地域の話を聞いてみたが、なかなか興味深い内容が多かった。盗賊の視線、盲人の聴覚というものは、凡人が気づかない隙を見つけてしまうものらしい。堅城と名高いあの城があっさり落ちたのはこれこれここが手薄で、などと面白おかしく語るのだ。

「気に入った。畿内に立ち寄った際は、必ず顔を出すようにしてくれ」

「はい、はい。年に一度は寄らせてもらいますよ」

「但し、わしは用心深い性質でな。暗殺を常に警戒している。その白杖を見せてみよ」

「ええ、構いませんとも」

白杖を手に取る。何の仕込みもない、白樫の杖だった。盲目であることも間違いなさそうだ。

「失礼した」

「いえ、当然のご配慮です」

後日、珠阿弥の素性や行動を洗ってみたが、特段おかしな点は見当たらなかった。

策略を練る上で重要なのは情報源の多様さ、確かさである。そういう点では、思わぬ拾い物だった。

 

  *

 

子どもが産まれてから、あまねは信心深くなった。千熊丸が母親っ子なので昼間はかかりきりだが、彼が寝付いてからは夜更けまで写経に励んでいたりする。隣で書類や歌集などに目を通しながら、長慶は妻の熱心な様に感心していた。

あまねはけっこうよい字を書く。墨を磨る姿勢、優美な指の運びなど、どことなく色気を感じさせながらも品のある所作。一巻ずつ丁寧に纏められた経からは、幽かにあまねの香りが漂う。

「ひとつ、私にくれないか。手元に置いておきたい」

「いいですよ。二日ほどいただければ、お前さまの無事を祈りながら書写しておきます」

「すまんな」

あまねは笑顔で首を振った。彼女は長慶に頼られたり命じられたりすると、嬉しそうな素振りを見せる。その表情に、長慶は何度も温められていた。

 

次の日、越水城に宗三が現れた。東国からそろそろ帰るとは聞いていたが、唐突な訪問である。その顔には疲れと惑いが色濃く表れていた。

「和田新五郎の件を詫びに来た」

宗三が切り出した。年が明けても六郎の支持はまったく回復していない。山城や丹波でも一部の国人が氏綱方へ寝返り始めている。その一因が新五郎処刑にあることは明白だった。

「なぜ東国にいたあなたが謝るのです」

「……筋が通らないことは分かっている」

ここで長慶までが離反すれば、六郎政権が崩壊することは必定である。むしろ、世間は長慶の決起を期待しているくらいだった。宗三としては、六郎を守るために長慶を繋ぎ止めておくしかないのだろう。

「いっそ、あなたが政権を簒奪しては如何ですか。尻拭いにその才覚を費やすのは天下の損失です」

「馬鹿を申せ」

「いま動く気はありません。そのせいで家臣には叱られましたが」

出奔した久秀は行方を晦ましていた。どこに潜んでいるのかは長頼でも分からないらしい。

「いまは、か。それでも礼は言わねばならんな」

「時は煮詰まりつつあります。雑音を排除した後は、あなたと私とで天下の行方を決めましょうね」

「結局はそうなるのだな。貴公とは、よい関係を築けると思っていたのだが」

宗三は動揺も激昂もしなかった。長慶の反応を充分に予期し、覚悟もしていたのだろう。

「近くに新五郎の母が住んでいます」

「無論、存じておる」

 

宗三は新五郎の母へ直接謝罪し、大変な額の供養料を置いていったそうだ。

翌日、長慶は彼女の話を聞きに赴いた。

「殿様、口惜しいです。恨みをぶつけてやるつもりでした。怒鳴って包丁を向けてやろうと考えていたのです。それが、あの宗三という方を前にした途端、気がつけば平伏し、礼まで申しておりました……。私はそれが口惜しい。自分の意気地なしが情けない」

都の宰相様と聞いただけで、身体が勝手に服従してしまう。魂の卑屈をいまほど思い知ったことはないのだろう。彼女はぼろぼろと涙を流してから、高熱を発して寝込んでしまった。この世の病巣を、あらためて見せつけられた気がした。

 

夏が近づき、長慶は丹波へ出陣した。氏綱に与して反乱を起こした内藤氏への対応である。波多野晴通の案内で雪崩れ込んだ長慶軍は瞬く間に三つの城を落とし、内藤氏を降伏させた。

帰路、長慶は病に臥せる稙通の見舞いに八上城へ立ち寄った。その意向を晴通に伝えたところ、彼は露骨に迷惑そうな顔を見せた。案内の波多野家臣もどこか困惑気味である。長逸を伴って稙通の寝所に通してもらうと、そこは、陽のろくに当たらない、地下牢のような寝床だった。

「なんと」

長逸も驚いている。丹波の英雄である稙通へこんな扱いをするとは。これを見た家臣がどう感じるのか、晴通には分からないのか。

「おお。婿殿、それに長逸殿」

稙通が目を開いた。少し見ぬ間に、枯れ木のような姿になっている。

「見舞いに参りました。あまねの写経、千熊丸の手紙も一緒ですぞ」

手紙には、“じじ おだいじに”と書いてある。娘と孫の光景を想像したのだろう。稙通の瞳から涙が一筋流れた。

「かたじけない」

「本来なら、妻子も連れてきたかったのですが」

「はは、それには及ばぬ。丹波も物騒になってきた」

長逸と稙通が世間話をし始めた。日頃は話し相手すらいない様子だった。

 

しばらくして、稙通がゆっくりと身体を起こし、胡坐姿になった。

「なあ、婿殿。わしはもう長くなさそうだ。」

長慶を見据えて語り始める。長逸は一歩下がって座り直した。

「まさか」

「や、遺言と思って聞いてほしい。波多野が家のことよ」

「……」

「万一の際は、そなたの手でこの城を落としてほしい」

「何を仰います」

「そなたも、あまねも、見違えるように強くなった。これから何が起ころうが、もう懸念はない。心残りは、この家中だ。晴通をしっかりと育てられなかったことだ」

「波多野と戦になどなりませぬ」

「この世に転変は付き物だ。それを婿殿はよく知っているだろう。……それでだ」

稙通の瞼から再び涙が溢れ出した。

「できれば、晴通たちの命は助けてやって欲しい。晴通も、老臣も、若い衆も。皆、かわいい奴らなのだ」

絞り出すような稙通の声。長逸が後ろで震えているのが分かった。

「……承知、いたしました」

「恩に着る」

稙通は、今後の畿内情勢の流れを読み切っている。自分の子どもたちの運命から目を逸らさずにいる。その心魂の強さに、長慶は敬意を抱かずにはいられなかった。拳を差し出す。にやりと笑って、稙通も拳を突き出した。拳骨を合わせて、二人は無言で語り合った。

 

それから一箇月後、稙通が逝ったと知らせが届いた。

 

  *

 

轟音が鳴り響く。同時に、的が木っ端微塵になった。弓や投石では考えられない威力だ。

「義兄貴、すげえな! これが南蛮筒かあ!」

義弟の野口冬長がはしゃぐ。この最新の鉄砲を使えば、舟板を破壊することなどは造作もないだろう。海運で栄える紀伊の者たちが生産を急ぐのも無理はなかった。

「試作を続けていますが、なかなか難しいものです。本物ほど細身に仕上がってないから、威力はあっても飛距離が乏しい。不発の頻度も多く、信頼性が足りません。始めたばかりなので、これからですがね」

鋳物師の又三郎が頭を掻いた。彼は種子島まで渡って南蛮筒の製法を学んできた男で、国産鉄砲の開発に取り組んでいる。根来衆も独自に南蛮筒を入手しており、自前生産に試行錯誤しているらしい。既に九州の武家から足利義晴や細川六郎にも一挺ずつ献上されたというし、この新兵器の認知は急速に広がりつつあった。

ポルトガルやタルキーでは、鉄砲を使った戦が主流なのか」

「向こうでは侍が鎧を脱ぎ始めたとか。弾が当たったら同じですから、身軽な方がいい」

「ほう」

「もっと大きな筒で岩石を撃ちだしたりもするらしいですよ。タルキーはそれを使って二千年も続いた大国を滅ぼしてしまったそうです。分厚い石の城壁を破壊したというから、ただ事ではありません」

「そんなものが普及すれば、船も鉄で造らねばならんな」

多少話を盛っているかもしれない。それでも、この武器が大きな可能性が秘めていることは違いなかった。堺には優秀な鍛冶師や鋳物師が集まっているから、投資をすれば技術はどんどん向上していくはずだ。

「言い値の銭を出そう。職人を育て、我々専用の生産工程を築いてほしい」

「あ、ありがとうございます!」

「楽しみだな、義兄貴」

冬長が無邪気な笑顔を見せる。早く鉄砲を手に入れて、使ってみたいのだろう。

「さすが冬康殿はお目が高い。これから戦も増えそうですし、きっとお役に立ちますよ」

「戦、な」

「細川家の家督争いだなんて、我々下々にとっては迷惑なだけですけどね。……あ、これは失礼を。三好長慶殿も六郎様の旗下でご活躍でした」

「うむ……」

「お兄様が大人気で、冬康殿も誇らしいでしょう。戦をさせても政をさせても畿内一。六郎様にべったりでないのがまたいい。宗三殿はその辺で損をしていますよね。ここだけの話、長慶殿が早く六郎様を見限って直接天下を治めてくれたらいいのに、なんて言う人もいるとか」

「又三郎、声が高い。下手をすれば首が飛ぶぞ」

「ひゃっ、これはまた失礼。……でもね、それが庶民の本音なのでございますよ。子どもの時分から最近まで、散々な不幸に耐えてきて。ああいう人が幸せになってくれないと、世の中を信じられなくなります」

「……天下人になったら、幸せなのかな」

「当たり前じゃないですか。貴人と付き合って、おいしいものをたらふく食べて、皆にぺこぺこされて。や、我々が言っても詮無いことですけど」

「そんなことはない。政治を最後に動かすのは、いつだって声なき民の力だ」

兄はよく耐えている。世論が完全に味方になるのを、じっと待っている。

最高の時宜がくれば、淡路・四国衆が上陸して畿内を席巻し、長慶が新たな世を開く。それを信じて、自分たちは武を磨いている。

気になる噂があった。年が明けた頃から、持隆が政治に興味を失い始めたというのだ。あの豪放磊落なお方に、何かあったのだろうか。之虎に手紙を出しても、はっきりとした答えは返ってこなかった。

長慶は着実に地盤を固めている。我々も、置いていかれる訳にはいかない。

 

  *

 

秋が深まりつつある頃。

京にいた長慶のもとへ使者が訪れた。その相手の名に驚き、屋敷の表に出てもう一度驚いた。なんと牛車が待機しているのである。どうやら、冗談やなりすましではないらしい。

牛車は徒歩より遅い。目的地はそう遠くないが、日頃は馬で駆け抜けていく通りをのろのろと進んでいくのは妙な気分だった。いまどき牛車を使うのは余程頑固な公家くらいである。かつては木曽義仲が作法を知らずに恥をかいたと聞くし、本来は長慶の身分では牛車などに乗ってはいけないはずだが、いまの京にはそれを指摘できる者すら少ない。

一刻ほどかけて、御所の南にある館へ到着した。これまでの戦火や大水の被害を免れたのか、建物は立派であるし、廻らされている池にも風情がある。だが、あちこちの塀が崩れていたり屋根が痛んでいたりと、手入れが行き届いているとは言い難い。これほどの名家であっても、困窮ぶりは隠せないようだ。

しばらく主を待った。通された部屋からは池を一望することができる。紅葉の葉が水面に浮かんでいた。春には花も咲くのだろう。池に舟を浮かべて月見や管弦に興じれば、物語に出てくる王朝の美そのものになるのではないか。

がさがさと音がして、小動物が水辺から顔を見せた。いたち、や、かわうそだ。人に馴れているのか、長慶のところまで来て二本足で立ち上がった。かわうその顔や掌は人間の赤子と似ており、愛嬌がある。

「さすがは長慶はん。さっそくその子らを飼いならせてしまいましたか」

主人のお出ましだった。御所の警護などで顔を見たことはあったが、相対するのは初めてである。

「は。田舎育ち故、畜生に好かれる性分にて」

「ほ、ほ。その子らは特別の才ある者にしか懐きません。やはり、噂に間違いはないようじゃ、の」

お歯黒を見せて、にんまりと笑った。何ごとか分からぬが、長慶の来訪が嬉しくてならないらしい。威厳はあるが、窮屈な印象ではなかった。

「どうか寛いどくれやす。夜は長おますよってに、ゆるり語らいましょ。尚子さん」

少女が酒肴を運んできた。一人娘だという。やはり、使用人を多く雇うほどの余裕はないらしい。

「ほな、お近づきのしるしに」

杯を受けた。伏見酒だろうか、よい匂いがしている。小鉢には、茶色い練り物の上に紅葉をかたどった麩があしらわれ、とろみのある出汁がかけられていた。

「蓮根饅頭言いましてな。手間さえかければおいしゅう仕上がります」

箸を入れてみた。むっちりとした感触の先に、何か固いもの。銀杏だった。口に含む。優しくて、力強い。蓮根饅頭と麩が織り成す、情が深い食感。繊細ながらも逞しい味わい、銀杏が添える野趣。

「おいしい。これは、鳥肉で出汁を」

「ほんまに、何でもお見通しなんやなあ。せやけど、味の秘訣はそれだけやありません。水です。京の地下に溜まった清冽な水がないと、この味はよう出てくれません」

「いかにも。水あっての京風物ですな」

「ほ、ほ、ほ……」

このように席を同じくすることも許されないはずなのだ。よくも悪くも夢のような時間と言わねばならない。古の伝統を受け継ぐこの人に、可能ならば色々と教わりたい思いはあった。向かい合う相手は“前関白”“藤氏長者”、天下にその名も高き九条稙通卿である。

 

「そろそろ本題に移りましょ」

「……ええ」

いよいよだ。何か陰謀にでも巻き込まれるのだろうか。長慶は肚に力を込めて続きを待った。

「長慶はん」

「はい」

「麻呂を弟子にしとくれやす」

「……は?」

「できることなら、何でもしますよって」

「お、お待ちください。話が、見えないのですが」

「麻呂も求聞持法の霊験を得たいと思てます」

長慶自身も忘れかけていた言葉だった。あれから、もう十年が経っている。

「どこで、そんな話を」

「その筋では、確かな話やと。長慶はんの尋常でない活躍も、虚空蔵菩薩の導きやと知れば納得やわ」

そういえば本願寺の証如から、貴人の中には神秘の外法や魔道に嵌まる者がいると聞いたことがあった。あれは稙通のことだったのかもしれない。

「私は平凡な人間です」

「ご謙遜を。菩薩が人界に顕現しはったんですやろ」

押し問答になったが、何を諭しても無駄のようだった。

「……分かりました。弟子にはできませんが、友人なら。それと、求聞持法の件はくれぐれもご内密に」

「おおっ!」

破顔一笑して稙通が喜ぶ。妙なことになった。これも、母と菩薩の加護だと思うべきなのだろうか。

 

「飯綱の法を極めたら、あの子らが見聞きしたものがそのまま術者に伝わるそうです」

魔法話が延々と続いていた。あの人懐こいかわうそたちも、何かの研究対象だったらしい。

「そんな秘法を使って、何を調べようというのですか」

何気なく問うたが、稙通の顔が翳った。

「……これから、我々はどないしたらええんやろ思いましてな。いまのままやと帝がおいたわしゅうて」

目元に袖を置いて言う。一瞬のことであるが、殿上人らしい顔を見た気がした。

「どんな時代になっても、帝への尊崇が揺らぐことはありますまい。いまは武家の秩序が崩れ、それを構築し直している時代です。やがて新たな勝者が帝を必要とすることでしょう」

「それも、虚空蔵菩薩のご宣託でおじゃるか」

「どうお取りになっても構いませんが。まずは武家に迎合せず、伝統を守り抜くことです。誰が勝者になろうと、公家の知識抜きに世は治められませぬ。暦、古典、祭祀、官位。とりわけ有職故実でしょうな」

「確かに。前例を司り、前例に沿ってお墨付きを与えるのが我らじゃものな」

「稀に前例を気にしない怪物も現れます。その時は、好きか嫌いかで判断なさいませ」

「……長慶はん、あんたが天下を獲ったらどうやろ。あんたに期待している人は公家の中でも多おます」

「私は足利家の家臣の家臣、いわゆる陪臣に過ぎません」

「それは武家の世界の決め事ですやろ。帝も朝廷も、そんなん気にもしません。要は帝の威光の下、京と、まほろばたる日ノ本をあんじょう治めてくれたらええんです」

「……そんなものでしょうか」

「前例がありますよってに。源も足利も、我らから見ればもとは地下人です」

「それが三好になっても同じことだと」

「ほっ、ほっ、ほっ……」

なるほど、公家とはこういうものなのだ。天下を統べるには、こうした価値観とも折り合わねばならない。

「ところで古典といえば。稙通様は源氏物語の大家でしたね」

「興味がおありか。どの帖がお好みかな」

「桐壷でしょうか。因果の起こりというものを考えさせられます」

 

限りとて別るる道の悲しきに いかまほしきは命なりけり――

 

稙通が諳んじた。いまの長慶にとっては染み入る歌である。

「まこと、命とは何なのでしょうな」

新五郎の死んだ京で、義父と同じ名の公卿と話している自分。

「それもすべて、源氏物語に書いてます。……ほな、登場する人物で好きなんは」

「強いて言うなら、浮舟」

稙通が再び笑顔を見せた。

虚と実の混ざり合った公家特有の表情、何もかもが駆け引きのようで、それはそれで不快でもなくて。

「よしゃ、注釈を講義して差し上げましょ。その代わり、長慶はんにはこれからもご宣託を」

「光栄に存じます」

思いがけない出会いだった。いよいよ一武将の殻を破りつつある。そういう実感があった。

 

  *

 

同時刻、細川屋敷では六郎と宗三の密談が続いていた。

「長慶を謀殺せよと」

「和田新五郎の一件以来、愚民どもが長慶に同情を寄せている。放っておくとまずいだろう」

「しかし、長慶を失えば氏綱勢との戦いが危うくなります」

「そのための六角じゃ。それに、わしにはよい考えがある。長慶の所在を氏綱方へ流して、氏綱の手で長慶を始末させるのよ。人気者の長慶を殺せば、民の憎しみは氏綱に向かう。どうじゃ、一挙両得であろう」

警護役の宗渭ですら困惑の表情を浮かべている。六郎はあまりにも浅はかだった。六角定頼は浅井や斎藤の相手で忙しく、和泉や河内への遠征などできない。長慶がちんけな策に引っかかるとも思えない。それどころか、持隆率いる四国衆の怒りを招きかねなかった。

「ご再考を願います。得られる成果はともかく、賭けるものが大き過ぎるかと」

「なんじゃと」

六郎が目を見開き、宗三に向かって硯を投げつけた。

「つっ……」

鈍痛。宗三の額から血が流れ出す。

「だいたい、お主たちがだらしないからこんな事態を招いたのじゃろうが、ええ! また謹慎したいのか!」

「……過ぎたことを、申してしまいました」

非礼を侘び、手筈を整えることを約して退出する。懐紙で額を押さえながら廊下を歩いていると、宗渭が追いかけてきた。二人きりになるのは久しぶりのことだ。

「お、親父」

「驚かせたな。なに、たいしたことはない」

「いいのか、これで」

「……大人というものはな、自分の選択に殉じねばならぬのだ」

「……」

「さ、早く戻るがよい。殿も苦しんでおられる。お傍にいて差し上げろ」

父子の会話は僅かな時間だった。それでも、宗三は息子に案じられたことが嬉しくてならなかった。

 

続く