きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十一 鼓動の段  ――遊佐長教 細川氏綱を担いで畿内を席巻し、足利義晴 征夷大将軍職を嫡子義輝に譲る――

二十一 鼓動の段

 

堺から尼崎までを堺衆の船で渡り、そこからは馬に乗り換えた。

ここから越水城は程近い。一人でもよかったが、堺衆が律儀に城まで護衛してくれるというので無理には断らず、三十人ほどの行列で街道を進んだ。既に何か噂になっていたのか、道行く人々は馬上で元気そうにしている長慶を見て驚いたり、声を上げたりしている。

武庫川を越えた辺りで、五歳くらいの子どもが脇差を抱えて一人で歩いてくる姿を見かけた。覚えのある顔、なんと息子の千熊丸である。

「千熊」

「父上!」

嬉しそうに走り寄ってくるのを、馬から降りて抱きかかえた。

「こんなところで何をしている。母はどうした」

「父上がいなくなって皆おろおろしてるから、助けに行こうと思ったんだ」

「一人でか」

「俺と父上が揃えば無敵さ。敵なんて玉筋魚の群れみたいなもんだろう、さあやっちまおうぜ!」

「そ、そうだな」

元気な子だとは思っていたが、ここまで向こう見ずだったのか。

「もしかして、もう敵をやっつけちゃったの」

「いや、これからだ。玉筋魚漁は春まで待たねば」

「そうかあ」

「ふふ。ありがとうよ」

千熊丸を前に座らせて、馬に二人乗りをする。息子は嬉しいのか馬上ではしゃいで危なっかしかった。微かに門が開いていてそこから抜け出してきたのだという。少年は己の運命を信じ切っているものだ。

 

城に近づくと、家臣たちが次々と集まってきた。どうやら千熊丸がいなくなったことに気づいて、皆で城の周りを捜索していたようだ。その千熊丸は馬に揺られるとすぐに眠ってしまっていた。

「殿! おお、若殿も!」

長逸が現れた。その形相には心労が色濃く浮き出ている。

「そこで千熊に出会った。まったく、皆に気苦労をかけて困った奴だ」

「……」

「長逸、評定の手配を。これから忙しくなるぞ」

「……は」

長慶と千熊丸が無事なのを見て、一応は安心したらしい。長慶への諫言を我慢して、城へ戻っていく。それと行き違いに、おたきに手を引かれてあまねが走ってきた。

「おう、いま帰った」

「……」

あまねは何も言わずに千熊丸を抱きしめた。それから、涙をいっぱいに溜めた瞳で長慶を睨んでくる。

「どうして、こんなことをするんですか」

「私も驚いた。子どもは親の想像を超えるというが、まさか一人で私を助けにくるとはな」

「悪い手本を見たからです」

「……はい」

「お前さまが一人で外出することを禁じます」

怒気をはらんだあまねの声は、かえって常よりも鮮やかで、色づいている気がした。

「一層綺麗になったな」

「知りません!」

家臣や堺衆の人目もあるためか、あまねは手厳しかった。こういうところは波多野稙通によく似ている。そのまま、千熊丸を背負って帰って行ってしまった。

 

家臣たちにはあらためて侘びを入れた後、首謀はやはり遊佐長教であったこと、筒井家や熊野水軍も出張っていること、一方で会合衆の支持を取り付けたことなどを伝えた。

「国人、寺社、公家、商家。生業を問わず、民は細川家の内乱に辟易している。……六郎でもなければ氏綱でもない、第三の勢力が現れるのを期待している。新たな支配者、新たな秩序を待望しているのだ。ここに来るまで、長かった。皆には辛い思いもさせた。だが、それも終わりだ。見よ。私は生きている。天は私を選んだぞ。いまこそ動き出す時だ」

全員の顔が引き締まった。待ちわびた時の到来である。喜びと使命感に満ちた銘々の面構えが、長慶には大変好ましいものに思えた。

「まずは四国・淡路の合力を取りつけねばならん。長逸は康長とともに阿波・讃岐の国人衆を調略。基速は義冬様の支持を上手く引き出せ。分かるな、必要以上の野心はお持ちにならぬよう……。私は淡路を調略後、勝瑞館へ向かう。我らが戻るまで、松永兄弟は摂津を守り抜け。反撃は春」

「応!」

一同が動き出した。できれば数年で、氏綱・長教を飼いならし、六郎・宗三の打倒までを仕上げたい。そこからは足利将軍や公家、近隣諸国の出方を見ながら政権のあり方を模索していく。長い戦いになる。幾つか覚悟しなければならないこともある。肚の底にあった種火が、遂に天下を焦がし始めるのだ。

 

「――そういう訳で、今度は淡路と阿波に出かけてくる」

あまねの唇が震えた。怒った態を続けていたが、さすがに平静ではいられないらしい。

「隠密行動故、そなたたちは連れてゆけぬ。私が城にいるように偽装してもらわねばな」

「……」

「ちゃんと供回りは連れていく。一人で出歩かないことは約束しよう」

「ほんとに、勝手な人」

「そう言うな。む、この太刀魚。よい味だ」

夕食の菜は太刀魚の塩焼きと造りだった。太刀魚は骨が多いが、その苦労を忘れさせるだけの美味がある。白銀に輝くしなやかな姿、淡白な脂と身肉の味わいは海の大業物と呼ぶに相応しい。

「千熊が、太刀魚釣りをしてみたいそうです。お前さまはそんな暇、ないのでしょうけど」

「左様か」

家臣か出入りの漁師にでも聞いたのだろう。太刀魚釣りに夢中な摂津の民は多い。確か、長頼も釣りが好きなはずだ。

「お前さまが普通の人なら」

「阿波から出ることもなく、そなたに出会うこともない」

「……もう」

「やっと、笑ったな。どうだ一献」

「いただきます」

太刀魚は酒との相性が抜群によい。あまねは嬉しそうに杯を口にしている。

いまは、妻とのよい時間を少しでも多く積み重ねておきたい。

 

  *

 

堺での長慶謀殺に失敗して以降、何ひとついいことがなかった。

氏綱率いる二万の兵が摂津に侵入し、配下の居城を次々と落とし始めた。その上、敵の勢いに恐れをなしたのか、もともと密約でもあったのか、有力国人の池田信正が寝返ってしまった。いまでは、芥川山城の孫十郎、越水城の長慶などの一部を除き、摂津のほぼ全域が制圧されている。摂津西部に位置する越水城は敵の攻撃目標から外れているようだが、芥川山城はいまも大軍に攻囲されており、援軍も望めない中では陥落も時間の問題だった。

和泉と摂津を立て続けに失い、気づけば六郎の領国は京と、丹波半国程度になっている。六角定頼や細川持隆に援軍を要請したが、黙殺されていた。季に一度の大評定も長らく開催されていない。

「定頼め。持隆め。まさか奴らまで寝返ったのではあるまいな」

榎並城から戻ってきたばかりの宗三へ苛立ちをぶつけた。

「定頼は江北の浅井が完全に屈服していない上、公方への遠慮が見られます。持隆は何があったのか、政務への関心が薄れている様子。家臣の間でも畿内への対処を巡って、三好之虎派と久米義広派が言い争っているとか」

ぐぬぬ……。公方はどうしている」

「義晴公が病とかで、門を閉ざしております。おそらく、既に氏綱へ鞍替えしているのでしょう」

「おのれ、誰のお蔭で京へ戻ってこれたと思っているのじゃ。くそ、くそ!」

憤る六郎に、宗三が言いにくそうに報告する。

「もうひとつ、悪い知らせが。山城の各地で土一揆が蜂起し、徳政を求めて京へ向かっております」

「なんじゃと」

「ある程度の銭を使って真摯に説得すれば、一揆を解散させることもできましょうが」

「そんなことをしている間に氏綱軍が入洛してきたらどうする。氏綱がわしを生かしておくとは思えぬ。ここは、丹波にでも逃げるしかあるまい」

「では、一揆は」

「民草の困窮は朝廷がなんとかするのが筋だろう。天子様じゃもの」

「そ、そんな丸投げをしてしまうと、今後の政務に支障が」

「いま一番大事なのは、わしの命であろうが!」

叫んだ。自分さえ生きていれば、どこに逃げようが再起はできる。六郎の雪辱を支援し、権勢や家格の向上を遂げようという田舎大名は幾らでもいるのだ。

「……失礼いたしました。我々父子が、波多野領まで殿を守護いたします」

「うむ。そうと決まればさっそく出発じゃ!」

波多野晴通は父の稙通と違って、昔から六郎への忠誠が厚い男だ。子どもの頃は柳本賢治に懐いていたというから、高国の後継者である氏綱に内応することはまずないだろう。しかも、山深い丹波であれば氏綱に攻められても逃げるには困らない。

細川家正嫡の証たる家宝を多数脇に抱え、輿に乗り込む。これまでも度々京を捨てたことがあったが、いつも最後は戻ってくることができた。今度もきっと、そうなるはずだ。経験から身につけた知恵は、何よりも尊いものだと思った。

 

  *

 

冬だというのに太陽が明るく、暖かい。木や草の緑にも春のような健やかさがあった。備前国の伊部(岡山県備前市)、与四郎がこの地を訪れるのは三度目のことである。

戦が続く畿内では、軍需物資や防火用品として水瓶がよく売れる。その中でも備前焼は水の保存に適しているため、籠城戦との相性がよく、重宝される。与兵衛は早くからそれに目をつけて、伊部の窯元を直接口説き、信頼関係を築いていた。

その後侘び茶が流行する中で、備前焼は茶道具としても評価を高めてきた。土に炎や灰が貼り付いたような味わいは、唐物の茶器には出せない魅力だった。水回りとの相性のよさも手伝って、備前焼の水指や花器は多くの茶人から賞玩されている。結果、伊部との繋がりを深めていたとと屋は、茶器の仲買でも名が売れるようになった。

名物の大半は唐物であり、日明貿易に参画していない与四郎はなかなか目利きの腕が上がらない。備前焼の評価が高まることは、茶人としても好都合だった。日本産のやきものであれば、熱意さえあれば誰でも目利きを学ぶことができる。この旅でも昵懇の家に滞在して伊部中の窯を回るつもりだった。自分好みの茶道具を探すだけでなく、いねへの花器、長慶への大甕なども求めて帰りたい。

 

目的の家に到着してみると様子がどこかおかしかった。昼だというのに門を閉めきっており、人の出入りを拒むような雰囲気がある。事前の連絡で、与四郎が来ることは分かっているはずだ。

戸を叩いてしばらく待ったが、誰も出てこない。大きな声で訪問を告げてみたところ、ようやく門が僅かに開いた。隙間から除いた顔は正虎その人である。

「これは、とと屋殿」

「ご在宅でしたか。どうされました、何か、ご不幸でも」

「しっ」

正虎が周囲に目を配る。明らかに、何かを警戒しているようだ。

「お入りくだされ。話は中で」

「あ、ええ」

門の中に通された。陶片が散らばっている前栽を横切り、二人は縁側に腰を下ろす。

「実は、怪我人がおりまして」

「それはお気の毒に。窯の事故ですか」

「……いえ、刀傷です。実は、とと屋殿にご相談が」

「訳あり、ですな」

邸内に目をやった。襖を閉めている部屋があるが、あの中に怪我人がいるのだろうか。

「二箇月ほど前の夜、突然、姉が現れたのです。姉とは二十年近くも会っていなかったのですが……」

「では、怪我人とは姉君なのですか」

「幼い頃に別れたきりでも、姉とすぐに分かりました。そして、その姉は胸を深々と斬られて、瀕死の重傷を負っていたのです。最近ようやく意識を取り戻し、事情を聴くことができました」

「……」

「僕たちは、複雑な事情の家に生まれたのです。僕はたまたま穏やかな暮らしを得ましたが、姉はいまでも人に言えない生き方を続けていたのでしょう。……厚かましいお願いですが、とと屋殿のお力で、僕たちを匿っていただけませんか。ここも安全かどうか分かりません。僕には姉を守る力がないのです」

危険な依頼である。かかわらない方がよいかもしれない。だが、何か放っておけないような直感もあった。

「私の質問に、正直に答えていただけますか」

「答えられるものならば」

「姉君を斬ったのは、誰ですか」

「……手を下したのは公方奉行の進士賢光、指示をしたのは河内畠山家の遊佐長教」

「……! で、では、斬られた理由は」

「用済みだったのでしょう」

「用とは」

「答えられませぬ」

思いがけない名前が出た。正虎の姉が、細川氏綱の乱にでも加担していたのだろうか。

「正虎殿。詳しい経緯をある方に教えていただけるならば、間違いのない安全が約束されることでしょう」

「ある方、ですか」

「摂津半国守護代、三好長慶殿です」

「……姉と相談しても、よろしいでしょうか」

「もちろんです」

正虎が屋敷の中に入っていった。与四郎はあえて事情を想像することはせず、塀の外の青空を眺めていた。どこかの窯から二、三の煙が昇っている。

やがて正虎と、彼に肩を抱えられた女が戻ってきた。傷が治りきっていないのか、呼吸に乱れがある。

「話は聞いた。確かに、三好長慶ならば間違いはない」

姉らしい女が口を開いた。威厳のような、悲壮のような、形容しがたい声をしている。

「嘘偽りない白状を約束しよう。弟を守ってくれ」

そう言う姉の眼を見て、与四郎には察するものがあった。おそらくこの姉は、死を覚悟し、最期に弟の顔を見たくなったのではないか。生き延びたこと、結果として弟を危険に晒したことは想定外だったのだろう。

「承りました、――ああ、お名前は」

「……琴。河内国……楠木家の、血脈を受け継ぐものだ」

 

  *

 

公方の主だった者たちは室町御所を離れ、慈照寺銀閣京都府京都市)に居を移していた。

細川屋敷に近い御所では、六郎方の手で軟禁される恐れがある。慈照寺ならば近江へ逃れることも容易いし、密かに瓜生山城(京都府京都市)の改修を進めてもいる。氏綱軍が芥川山城を抜いた頃を見計らって、義晴自身も六郎討伐の兵を挙げる予定だった。

その六郎は、あっさりと京から逃げ出してしまった。京の治安は乱れ、土一揆が朝廷に押し寄せるような事件も起こった。帝は毅然と一揆の要求を跳ね除けたため、結局、晴員が事態の収拾に動いた。幸い、ある程度の徳政を認めると一揆は解散したが、六郎政権の崩壊が民にまで知れ渡っていることは明らかだった。秩序を回復せねば一揆は何度でも起こる。かつての一向一揆法華一揆がそうであったように、畿内の民はそれだけの武力と行動力を持っているのだ。

「過去を取り戻すことはできるでしょうか」

二男の萬吉だった。和泉細川家に養子へ出したが、菊童丸の世話係として京にいるのが常である。

「どういう意味だ」

「将軍親政。海の水を山へ流すようなものでしょう」

「細川氏綱は傀儡だ。比喩ではなく、意志の力を喪失している。遊佐長教も名誉や財産が欲しい俗物に過ぎぬ。まず間違いなく、我々公方が天下を治めることになろうよ」

「この国の歴史で、真に実権を掌握した将軍は頼朝公と義満公、あえて加えれば義教公くらいです。彼らは例外と位置付けるべきで、天下は親政など望んでいないのでは」

「お主は、誰の味方なのじゃ」

「我ら奉公人は、目先の権力争いよりも、この国の行く末をこそ大事に思うべきでしょう」

「ええい、もうよいわ。萬吉よ、よからぬ考えを菊童丸様に申し上げてはならぬぞ」

三淵家では滅私奉公を家訓としているが、二人の子はまるで異なる性格に育った。嫡子の弥四郎は正しく育ち、いまでは義晴・菊童丸父子に忠誠を誓う奉公人となっている。一方の萬吉は、いったい何を考えているのか皆目分からない。その癖に身体はやたらと頑丈で、しかも古典や和歌を熱心に学んでいるものだから、様々な貴人から妙にかわいがられているのだ。

萬吉がいなくなった後、今度は進士晴舎が部屋に入ってきた。

「幾つか報告が」

「伺おう」

表向きは晴員と同じ奉公衆だが、晴舎の真の顔は晦摩衆の頭目である。わざわざ訪れたということは、諜報関係の話題に違いなかった。

「一点目。三好長慶が淡路に上陸した。弟の安宅冬康と共に、淡路の国人衆を説いて回っている」

「弟たちと協力しようが、持隆が動かねばたいした兵は集まるまい。小少将からの知らせは」

「籠絡は万全だ。普通の説得で、持隆が動くことはない」

「ならばよいではないか」

「ただ、長慶が普通の男かどうか」

「む……。しかし、長慶を暗殺する訳にもいくまい。あの武勇、使えるものなら使いたいと義晴様も仰せだ」

六郎は長慶の仇だ。自立を気取っているが、氏綱方に寝返る可能性は充分にある。四国衆を味方につけたとて、六郎の加勢をするかどうかすら疑わしい。

「分かった。二点目、政所が相変わらず両天秤だ」

「放っておけ、伊勢貞孝の悪い癖だ。ああいう男はいずれ自滅する」

残念ながら、公方も一枚岩ではない。晴員や晴舎のような義晴親政派もいれば、政所執事の伊勢貞孝のような日和見派もいる。どうせ、宗三とも長教とも連絡を取り合っているのだろう。

「最後だ。後南朝の残党は殲滅した。しかし、賢光が始末した女の死体が見つからない」

「相当の深手を負わせたという話だったな」

「手負いの逃亡者にはよくあることだが、川に沈んでいるのかもしれん。念のため、もう少し捜索を続ける」

「そうだな。きちっと始末をつけることが肝心だ」

後南朝に連なる者はどういう事件を起こすか知れたものではない。かつて三種の神器が奪われた時は、取り返すのに十五年の時を要したのである。

 

報告が済んだ晴舎を引き止め、晩酌に付き合ってもらった。共に“晴”の字を名乗る二人は、長年義晴に仕えてきた股肱の臣同士である。朽木に逃亡していた頃からすれば、六郎の斜陽は隔世の感があった。結局、二人は朝まで尽きない思いを語り合っていた。

 

  *

 

阿波の久米義広たちは畿内不干渉を唱えている。多くの人手や銭を畿内戦略に投じても、四国への見返りは実のところ少ない。ならば、領国の発展に資源を投じるべきだというのが彼らの主張である。この理屈は多くの者から支持を受けていた。長慶や宗三などが成功を収めているとはいえ、畿内で戦った者が必ず畿内で所領を得られる訳ではない。畿内の勢力がわざわざ四国へ攻め寄せてくることも考えづらい。防衛上の観点からも畿内進出は意味がないということだ。

反対に、足利義冬は畿内進出を声高に叫んでいる。しかし、これは彼自身の都合を主張しているだけだから、彼自身の不人気と相まって、あまり支持を得られていなかった。同じように、六郎の人使い下手も知れ渡っている。いまこそ足利義冬や細川六郎のために馳せ参じよ……というお題目だけで人が集まる時代ではなかった。

とどのつまり、国主細川持隆が立ち上がるか、四国衆にとっての畿内進出の位置付けを定義し直すか、いずれかが必要ということだ。長慶や之虎たちは四国・淡路の国人衆を説いて回った。なるほど、義冬や六郎のために働いても甲斐はなかった。では、畿内、すなわち天下を、生粋の四国人が治めたらどうか。例えば長慶が天下を直接支配すれば、交易利権、畿内権益への参入、様々な成果が見込めるだろう。や、何より、芝生の地侍が天下を獲れば、同郷の者にとってこれほど痛快なことはない。吉野川が育んだ夢が、全国を揺るがすことになるのだ。それは日ノ本の秩序を根底から崩壊させかねない企てだが、胸を焦がすほどに甘く熱い調べでもあった。そのような構想を、冗談としてすら考えたことのない者が大半なのだ。長慶や之虎たち兄弟が、長逸や康長が、あるいは基速や長房が語る言葉を聞くうちに、多くの国人衆が真剣に是非を考え込むようになった。もとより、長慶の活躍は四国人の自慢だったのである。

同行している冬康に、長慶が問いかけた。

「下ごしらえはこれくらいでよいかな」

「裾野から上げていく分にはここまででしょう。後は、持隆様の腹ひとつ」

「うむ。今回あらためて痛感したが、ここは畿内とは違う。民や国人の力だけで事を成すことはできぬ。上意下達の力は欠かせないようだ」

「その素朴な風土が、羨ましいのでしょう」

「ふふ、その通りさ。都会は気苦労が多い。悲しいくらいにな……。行くか、勝瑞館へ」

「ええ」

冬康の福々しい笑顔。この正念場でも、まるで肩に力が入っていない。しかも打てば響くような鋭敏さがあって、その頼もしさは余人をもって替えがたかった。弟たちも、自分以上に成長しているのだ。

 

勝瑞館には持隆の家来衆だけでなく、阿波、讃岐、淡路の主だった国人が勢揃いしていた。

最近の持隆は人前に姿を現すことも少なく、一日中、小少将と屋敷に籠っていると聞いた。持隆の横にかしずく男娼は、確かに禍々しい雰囲気を放っている。

(天性の才に加え、相当の訓練を積んでいる)

長慶はそう見て取った。

之虎の対面に座っている久米義広も、苦々しい表情でこちらを睨んでいる。少年時代に何度か会ったことがあるが、堅苦しい気性はまるで変わっていないのだろう。もっとも、持隆がやる気を失ってからも阿波が大過なく治まっているのは、彼の尽力も大きいはずだ。

「久しいな、長慶。立派になった」

持隆の声は酒焼けしていて、以前のような張りがない。

「持隆様は、少し変わられましたな」

「そう言うな。友を喪い、夢を失った。畿内では再び本家の内乱だ。くたびれもしようさ」

「まこと、倦んでも仕方ない世ではあります」

長慶の言葉は、単なる追従ではない。列席者が口を挟めないような共感が二人の間にはあった。

「しかし、ここで足を止める訳には参りませぬ。万民の難儀を放置できましょうか」

「わしはもう、疲れた。そっとしといてくれぬか」

小少将と久米義広が満足そうに頷く。内通しあっていることはなさそうだが、二人の利害は同じだ。

「……ここにいる私が、三好元長だったらどうします」

「戯れ言を申すな。あいつが生きていたら、わしとてこうなってはいない」

「父は生きています。之虎、冬康、一存、こちらへ」

弟たちを呼ぶ。示し合わせてのことではない。それでも、之虎たちは自分を信じて膝行してくる。

四人が並んだ。長慶が袖から腕を抜き、いきなり上半身を露わにした。持隆と同じ諸肌脱ぎだ。

「失礼。私の肌に触れてくだされ」

持隆の手を取って、自分の胸に引き寄せた。異常を察した小少将が割って入ろうとしたが、もう遅い。

「夢と情熱の鼓動。三好元長は、ここにいます」

「な、長慶……」

驚いた持隆の手を、今度は冬康が取った。弟たちも長慶の意を理解し、着物を脱いでいる。

「そして、この命を育ててくださったのは持隆様です」

「冬康」

一存が乱暴に持隆の手を掴む。

「その辺の男芸者とは違う。強くて固くて、逞しいだろう」

「一存……」

最後に、之虎が手を握った。心なしか、持隆は幽かな抵抗を示したようだった。戸惑う持隆を、之虎が微笑して胸元へ導く。

「一緒に行きましょう」

「之虎。……ああ、之虎よ」

之虎の胸に手を当てたまま、持隆が頭を下げた。その姿は、神仏に祈りを捧げる様にも似ていた。

「三好兄弟が勢揃いする、初めての戦です。持隆様に見届けていただかねば」

「カカ。カカカカ……。そうだな之虎。一丁、やってみようか」

「そうこなくては」

「決まりだ、皆の者もよいか。四国衆の恐ろしさを、淡路衆の勇ましさを、再び畿内の連中に教えてやろう。日ノ本の行く末を決めるのは、我らであるぞ!」

一座が沸き立った。長逸と康長が手を取り合って喜んでいる。久米義広はあくまで持隆の忠臣だから、既に諦めた顔つきだ。小少将は持隆に取りすがろうとしたが、一存に蹴り飛ばされてひっくり返った。持隆は彼に哀憫の眼差しを向けたが、之虎が持隆を抱擁して覆い隠す。

「風が変わりましたな」

冬康が着衣を直しながら言う。大海のように、今日もこの弟は穏やかに凪いでいる。

「お前たちが弟でよかったよ。どいつもこいつも、恐ろしい連中だ」

「幼い時から、我々は慶兄と比べられてきたのですよ」

「ふ、兄弟とは面白いものだな」

苦笑するしかなかった。そのうち口喧嘩でも負けてしまいそうだ。

「これで宗三・長教と条件は同じ。後は勝つだけです」

「少なくとも、二度の決戦を制さねばならぬ」

「虎兄や一存と、色々調練も積んであります。面白いものをお見せしましょう」

この弟たちに、長慶は底知れないものを感じ始めていた。それは、織田信秀毛利元就に感じた畏怖と同種の感情である。元長とつるぎが遺したものの大きさを、あらためて思い知らされた気がした。

 

  *

 

波多野の支援や宗三の巻き返しにより、六郎は少しずつ勢力を回復させている。一方、入洛間近と思われていた氏綱軍は、芥川孫十郎の頑強な抵抗に遭い、最近ようやく芥川山城を落としたところだった。京周辺ではいまだ六郎方が優勢である。義晴たち公方勢力は一先ず近江へ身を移した。六角定頼は六郎の縁戚だが、公方との関係も重視している。この戦に定頼が介入してくる恐れはない。

近江国坂本、日吉神社滋賀県大津市)。避難先のこの地で義晴はひとつの決意を固めた。嫡子、菊童丸の元服と、征夷大将軍の譲位である。

「今度の戦では、余自らが出陣する。当然、命を落とすこともあるだろう。死後の混乱は武家の名折れ。菊童丸に後事を託し、悔いなく戦いたい」

動揺する奉行たちに告げた。菊童丸は十一歳。思い起こせば、義晴が将軍に就いたのも同じ齢だった。義晴の思いは奉公衆も分かっているだろう。

「室町公方が再興、果たしてみせよう。そうでなければ、足利宗家歴代の祖霊に申し訳が立たぬ。それができなければ、余の命は出来損ないだったと認めねばならぬ。よいな、菊童丸。父を超えよ。細川を従えよ。お主は天下の主だ。武家の棟梁なのだぞ」

菊童丸の瞳には精気が満ちている。その目が放つ輝きは、いずれ多くの武人を虜にするはずだ。

「輝く希望。天下を照らす光。名を義輝と改めるがよい」

「はい。……取り戻しましょう。京を。我らの都を」

「ああ。その日が楽しみだ」

義輝に宝刀、童子切を授けた。源頼光酒呑童子の首を刎ねた刀。正しく足利家嫡流の証である。

成すべきことは成した。後は兵を集め、瓜生山城に入るだけだ。いまの公方でも力を出し切れば五千の兵は集まるし、城の改修もできる。京の東部と南部から六郎方を挟み撃ちだ。

「出陣だ! 不滅の我らが力、京雀に見せつけてやれ!」

鬨があがった。晴員も、晴舎も、皆よい顔をしている。奉公衆に囲まれた義輝も、勝利を疑っていない。

もちろん義晴自身、我が子に贈る勝利を誰よりも渇望していた。

 

続く