きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十ニ 魔導師の段  ――足利義輝 屈辱を抱いて京を脱出し、三好之虎 舎利寺の大戦を掌握す――

二十ニ 魔導師の段

 

兵が続々と上陸してきた。半信半疑だったが、細川持隆が長慶の説得を受け入れたという噂は本当のことだったらしい。芥川山城を失い、越水城に身を寄せていた孫十郎は小躍りしてこれを迎えた。

兵力は二万を優に超えている。数だけでも氏綱軍と互角、しかも士気は極めて盛んだ。三好兄弟の統率に加え、細川持隆が出張っていることが大きい。

挨拶もそこそこに、直ちに進発した。最初の目的地は氏綱方に寝返った池田城である。四国・淡路衆の出現は池田信正の虚を突いていた。池田城とてかなりの堅城だが、抗う気持ちも失せてしまったらしい。三日と持たずに信正は降伏を申し入れてきた。領地が近い伊丹親興もそれに続く。

昨年の氏綱方の躍進が嘘のようである。天文十六年(1547年)の春、瞬く間に摂津は長慶軍に制圧されていった。長慶や持隆、三好之虎、十河一存たちが各地の氏綱方を撃破していく。その勢いに乗って、孫十郎は安宅冬康・野口冬長が率いる淡路衆と共に芥川山城の奪還を遂げた。城の構造や地形を知悉する孫十郎は抜群の指揮を見せたし、冬康の強弓は敵の武将を次々と射落としていった。冬康は一見穏やかな文人のようだったが、長慶の弟、水軍衆の頭目というだけのことはあるものだ。

「天下の要衝である芥川山城を押さえれば、戦の趨勢は決まったようなものだな!」

冬長が上機嫌で言う。この男は明朗で、気が合いそうだった。

「孫十郎殿のお役にたててよかった。縁戚同士、これからも力を合わせていきましょう」

冬康は手柄を誇るでもなく、孫十郎の与力といった態度である。それに淡路衆が不満を言わないのは、冬康が兵から信頼されている証拠だ。他家の者を前に、面子を気にする必要すらないのだろう。

「ご加勢、かたじけない。お蔭で城も取り返すことができた。まったく、水軍衆の弓矢とは恐ろしいな。陸上でもこれほどの猛威を振るうとは正直思わなかった」

「船の上も最後は度胸と斬り合いですが、調練はもっぱら射撃なのですよ」

「義兄貴の弓は、波も風も無視して的を射ぬくんだぜ」

「こら、大口を叩くな。と金殿にとっては我らなどひよっこに過ぎぬ」

「はは、謙遜を。ところで、わしはこの城を守ることになるが、お主たちはこれからどうする」

南進して氏綱方の主力、遊佐長教の軍に決戦を挑むのか。それとも北進して、京を伺う公方と一戦交えるのか。普通に考えれば、公方と争っても何ひとつよいことはない。

「慶兄の指示を待ちますが、まずは京の治安回復を優先するのではないでしょうか」

「しかし、公方と戦えば後が面倒だぞ。討伐令を出されでもしたら、全国の大名を敵に回すことになる」

「覚悟の上です。少しずつでも、公方の影響力は削いでいかねば」

こともなげに冬康が答えた。長慶の思惑が分からない。六郎の配下として動いている訳ではないのか。冬康たちの態度は、孫十郎の混乱を招いた。

頭を使うのは苦手だが、状況を整理してみる。

いま畿内で起きているのは、六郎と氏綱の家督争いだ。六郎には宗三、氏綱には長教がついている。

六郎は丹波に避難しており、宗三・宗渭父子が京や淀川流域で氏綱方を食い止めている。

氏綱方は四国衆の反撃を受け、一旦兵を退いた。勢いが止まったとはいえ、河内衆・紀伊衆・大和衆を中核とした大軍団はいまも健在だ。

公方は氏綱を公然と支援している。本音では将軍親政を望んでいるとも聞く。義晴は将軍職を嫡子義輝に譲り、全力で六郎と一戦交える構えである。

そして長慶と四国・淡路衆。長慶は六郎の配下であり、持隆はもともと六郎の縁戚かつ庇護者である。単純に受け止めれば、彼らは六郎の加勢に駆けつけたことになる。おそらく、敵も民もそう考えている。だが、畿内上陸後の彼らはろくに六郎や宗三と連携を取り合っていない。独自の判断で動いているようだった。

(四つ巴という言葉があるのか知らんが、なんともややこしいことになってきた。糞、わしはどうしたらいい)

戦いたくない相手は誰だ。宗三。宗渭の義理、旧領復帰の恩がある。長慶。長い付き合いで、その才には一目置いている。義晴。足利義冬のような対抗馬を立てずに公方と戦うのは無理だ。武家にとって、公方は絶対的な家長なのである。家長に逆らえば家から追い出される、子どもでも分かる道理だ。今回、長慶も持隆も義冬を阿波に置いてきている。それで公方と戦うとは、いったい何を考えているのか。

(うむ、氏綱と戦うのはありだ。そこから先は、様子を見るしかないか……)

孫十郎は一介の国人であり、せっかく取り戻した家と領地の存続を第一に考えねばならない。

(これだから畿内の戦は嫌だ、考えねばならぬことが多過ぎる。ええい、なぜわしは畿内に生まれたのだ)

戦勝に沸く連中を余所に、孫十郎の表情は冴えなかった。

 

  *

 

何度か六郎の内衆が小競り合いを仕掛けてきたが、彼らの戦意はすこぶる低い。すぐさま蹴散らされ、這う這うの体で逃げ去っていく。

六郎政権はあくまで将軍政務を代行する名目で成り立っている。権益を細川家が握ることはできても、公方の存在そのものを抹消することはできない。脅迫程度にしか使えぬ弓矢ならば、張子の虎と同じだ。

父の義晴は上機嫌だった。義輝も初めての実戦が連戦連勝で、いたく満足している。奉公衆の表情も明るい。六郎方の一部を引きつけておけば、やがて氏綱軍が京を制圧するだろう。その日から、再び公方の天下支配が始まる――。

 

そんな目論見は、四国・淡路衆の上陸によってあえなく崩れ去った。

次々と味方の城が落とされていく。野戦を挑んでも連戦連敗だという。絶望感が瓜生山城を包んだ。奉公衆は、なぜ持隆が動いたのだと喧しく騒いでいた。勝瑞館に入れていた者からの連絡は途絶えている。晦摩衆による籠絡が頓挫したのは間違いない。進士晴舎が腹を切ろうとしたが、義晴に止められた。

「藤孝よ。本当に長慶は我らを攻める気なのかな」

側近の藤孝に問うた。三淵晴員の息子たちもそれぞれ元服し、嫡子の弥四郎が藤英、二男の萬吉が細川藤孝を名乗っている。

「進歩と調和の怪物、それが三好長慶です。応仁以来、百年に及ぶ畿内の戦乱。我らに対する民草の渦巻く憎悪が、あのような男を生み出したのでしょう。……上様、敵は時代の風そのもの。戦って打ち破る道を選ぶか、それに取り込まれる道を選ぶのか、ふたつにひとつです。並び立つことはできませぬ」

「ならば、余は戦いたい。意気地なき変容などできぬ」

「……その気高さが、ただただ眩しい」

褒められたのだろうか。なぜだか分からないが、藤孝と話していると胸がほのかに温まってくる。

 

それから幾日も経たぬうちに、長慶軍が入洛してきた。町衆や寺社、更には公家までが長慶の登場を喜んでいるらしい。待ちかねていたと言わんばかりに、長慶へ誼を通じる者が列をなしている有り様だ。

開城を申し入れられた。義晴が激怒して使者を追い返したところ、翌日から長慶軍の包囲が始まった。敵は二万、勝ち目はない。小手調べに出陣した小勢は讃岐衆による凄まじい攻撃を受け、全滅に近い被害を出した。長慶軍に逡巡はまったく見られない。自陣の士気は急速に萎んでいった。

その夜から議論の方向が変わった。長慶の戦上手は周知の事実だ。四国兵の勇猛さも名高く、畿内で張り合えるのは丹波衆か各寺院の僧兵くらいである。いずれ六郎も勢力を盛り返してくるだろうし、敵は足利義冬という奥の手も持っている。事態が好転する見込みは薄い。結局、近江への退避が決まった。

闇夜の中、僅かな灯りで輿に乗り込む際。義輝は、人知れず義晴が悔し涙を流しているのを見た。

(父を――汚された)

その時、長慶に対する言いようのない忌避感が湧き上がってきた。

 

  *

 

「また男を上げなさいましたねえ」

「久しいな、龍吉」

平蜘蛛町にある、龍吉の住居。いまでは町の女主人のようになった彼女の住まいは、質素でささやかなものであった。華奢な調度品のひとつも置かないのが、龍吉の小ざっぱりとした美意識なのだろう。

案内された部屋に入ると、男女が平伏していた。久秀が耳打ちしてくる。

「こいつらが楠木姉弟ですわ」

長慶たちが四国へ渡っている間に、与四郎が大甕の中に隠して連れてきたという。事情を聴いた久秀が気を利かせ、龍吉に保護させていた。平蜘蛛町は出入りする人間が多いから、よそ者も目立たない。

「よく来た。後南朝のことなど興味はあるが、いまは時間がない。お主たちの安全は保障しよう。引き続き傷の養生に努めるように」

「は、は!」

正虎がよく通る声で返事した。姉の琴とは、けっこう年が離れているようだ。

「……待たれよ。なぜ妾を斬らぬ」

「なぜとは」

「分かっているのだろう。あの時、一向一揆を煽動したのは妾なのだぞ」

「……長政は死んだ。長教の野望ももうじき終わる」

「甘い男だな、三好長慶

琴が吐き捨てるように言うのを耳にして、すかさず久秀が声を荒げた。

「なんやこるあ! こっちが優しい顔してたら調子に乗りくさって」

正虎が慌てて琴を庇う。長慶も久秀を制し、そのまま部屋を後にした。廊下で久秀が騒ぐ。

「ほんまにええんでっか。無礼もんにはちゃんとバチ与えとかんと、つけあがりまっせ」

「お前がそれを言うか……。構わぬ。それに、ちょうどよかったのだ。あの女には頼みたいことがある」

「へ?」

訝しがる久秀を無視して表に出た。戦が続いているというのに、色町の客足はまるで衰えていない。

 

氏綱方との決戦を前に、軍勢は一先ず越水城に再集結していた。城に入りきらない兵は、近隣各地に分かれて駐屯している。大軍を集めると米も物も相当量が必要になるから、西宮や尼崎、兵庫津などではちょっとした特需が生じており、商人たちはほくほく顔である。

城に戻ると、何やら不平を漏らしている男がいる。一瞬見間違いかと思ったが、それは一存だった。

「どうしたのだ」

「おお、慶兄。あれを見てみろよ」

広間の上座には、勝ち栗が山盛りになった籠が鎮座している。

「栗だな」

「六郎様からの差し入れだとよ! 自分は兵も出さずにいい気なもんだぜ」

「すると、丹波栗か。これはいい、ありがたくいただこうよ。お見えになってあれこれ指図されるよりいいだろう」

丹波の栗は貴重だ。大粒で、深い甘みがあり、ほくほくとした食感は幸福そのものである。一度、蜜で煮た丹波栗を小豆餡と共に食べたことがあるが、あれは思い出すだけで涎が出てくる味だった。

「む……」

栗を口に入れた一存が無言になった。

「うまいだろう。たくさんあるから、おかわりもいいぞ」

「こ、子ども扱いするなよ」

そう言いながらも一存は手を止めようとしない。相変わらず食い意地の張った弟である。

「ところで、さっきから気になっていたのだが。なんだその頭は」

先日見た時は総髪だったのが、今日は月代を長方形に大きく剃り上げた珍妙な頭になっている。月代を剃ること自体は珍しくないが、その剃り方の広さ・形が大胆過ぎはしないか。

「兜が蒸れて湿疹ができた。それで、鬱陶しくなってな」

「之虎たちには見せたのか」

「それも一興だって、褒められたぞ」

「そ、そうか。まあ……遠くからでもよく分かって便利だな」

あまり考えたことがなかったが、これからの時代は髪型も色々と変化していくのだろうか。もし、この一存の頭が流行するようなことがあれば……。その光景を想像して、つい一人笑いしてしまった。

 

翌日。家臣、兄弟、持隆や康長、篠原長房などを一堂に集めて、軍議を行った。

情勢は長慶たちにとって有利である。氏綱方から取り戻した城や領地は元の国人領主たちにそのまま返してやった。これで長慶の声望は一層高まり、日に日に味方の数が増えている。焦った長教は長期戦を避け、野戦を挑んでくる公算が大きかった。それはこちらとしても望むところだ。

一通り情勢や地形、作戦のすり合わせを行った後で、長慶が一同に向かって告げた。

「最後にひとつ、含んでおいてもらいたい。この戦には、さる貴人が同行される」

「ほう、戦見物とはいいご身分じゃあないか。で、どちら様だい?」

持って回った長慶の口ぶりに、之虎が質問する。

「うむ……。落ち着いて聞いてほしい。九条稙通殿だ」

一存を除き、皆の顔色が変わった。一存は稙通を知らないようで、むしろ周囲の反応に戸惑っている。

「なんと、五摂家筆頭の……。なにか、帝のご叡慮でもあるのか」

代表して持隆が問う。実際、この中で落ち着いて公卿に接することができそうなのは持隆くらいである。

「や、ただの興味本位のようです。兵には、朝廷の支持を得たとでも伝えてみますが」

「長慶は、九条家とも付き合いがあるのだな」

「ひょんなことから親交が始まりまして」

「カカカ、これはよいわ。土佐の一条殿ではないが、わしらのような田舎者は前関白と聞けば訳も分からずありがたがるものよ。兵たちの士気はますます高まる。この戦、貰ったな」

我ながらよいことを思いついたものである。稙通は長慶の実戦を見たがっていたから、快諾してくれた。

遊佐長教と、彼が率いる河内・紀伊衆は相当に手強い。筒井順昭の実力も未知数だ。打てる手は、何でも打っておくべきだった。

 

  *

 

年が明けてから、事態が急変してしまった。

四国・淡路衆の渡航は突然で、熊野水軍を使った妨害は間に合わなかった。その後、長慶は次々と氏綱軍を撃破。しかもその後の処置が巧みだった。まず、取り返した領地はすべて元の国人衆や荘園主に返還。自分の権益はまるで増やそうとしていない。その上、氏綱方を戦では叩きのめしながら、降伏してくる者には寛大な態度を示し、人質を取るようなこともしなかった。これで、摂津を中心に多くの国人衆が長慶個人に従うようになったのだ。

「長慶め、所領安堵で人を釣るとは小賢しい」

長教の苛立ちは募るばかりである。昨年秋に長慶を堺で追い払ってから半年かけて手に入れたものが、今年の春から夏、長慶にすべて取り返されてしまった。いまだ長教傘下の精鋭軍団が健在とはいえ、流れはいかにも悪い。

「おのれ、こんなことなら会合衆の和睦斡旋など断っておくのだったわ」

悔やんでも遅いのは分かっているが、言葉にせずにはいられない。

「いまも、会合衆は長慶を支援している節があります。あれだけの大軍を機動的に動かし、また、略奪や土地の接収に頼らぬ長慶の戦略。相当の財力が背後にあるはず」

安見宗房が同調する。もとは木沢長政の腹心だったこの男は、打倒長慶の思いが強い。

「長慶は瀬戸内交易の利権を牛耳っている。そこへ会合衆までが助力すれば、銭の力で奴に勝てる者はおるまいな」

「それにしても、摂津衆がこれほどの勢いで離反するとは」

「それよ。我ら畠山家が、細川家の後継候補を担ぎ上げたのだぞ。畠山と細川が連合すれば国人衆は馳せ参じてくるのが当然。実際、この春まではそうだった。足利公方のお墨付も得たではないか。それが、阿波の山奥から出てきた小僧に何もかもひっくり返されようとしている。裏切り者たちは何を考えておるのだ。あんな地侍如きの風下に立つなど、由緒ある畿内衆の誇りはないのか」

「仰る通り、畿内中が邪法にでもかけられたような有り様。誰もが規範を見失い、幻惑されています」

「まるで、かつての長政のようだな」

そう長教が水を向けると、宗房は露骨に機嫌を損ねた。

「受け狙いで行動している男と、長政様を一緒にしないでくだされ」

「はは、真に受けるな。確かに長慶は迎合野郎だ。民におもねっているだけだ。あんなやり方では人の上に立つことなどできぬ」

「その通りです。長政様は、慈しむべき者と裁かれるべき者とを明確に分別していました」

いまも長政への思慕は強いらしい。それでも、宗房は家名存続のため、長教に降るしかなかった。

「いずれにせよ、このままではまずい。兵数が拮抗しているうちに会戦を仕掛けるしかないな」

「そうしましょう。鮮やかに勝利し、人々を悪夢から覚ますのです」

氏綱方の人気を回復させるためには、分かり易く、正々堂々と長慶に勝つことが一番である。長慶たちは早晩、河内へ向かって進軍してくるはずだ。勝利を重ねた軍には必ず緩みがある。まして、自分の眼力がそれを見逃すことはあるまい。長教は勇んで味方への伝令を発した。

 

  *

 

長慶軍と氏綱軍は摂津と河内の国境、舎利寺(大阪府大阪市)の界隈で睨みあった。

石山本願寺の南に位置するこの辺りは台地から平野に切り替わる地点で、正面には大和川の支流、平野川が流れている。意外だったのは、氏綱方が川を背にして布陣していることだ。敵の大将、遊佐長教は胡散臭い男だと聞いているが、案外肝は太いのかもしれない。

両軍合わせて四万名。これだけの人数が一箇所に集まった景観を、之虎はいままで見たことがない。陣構えは、互いに横一列に広がったような形である。遮蔽物のないこの地形では、真正面からの力比べになるということだ。こちらは長慶、あちらは氏綱と長教だけが、それぞれ一段下がったところに陣を敷いているところまで同じである。

「いいですなあ、鏡写しのようなこの対陣。これでは負けても言い訳のしようがない」

「カッカカ、これこそ男の戦いよな」

「面白いことに、まるで負ける気がしないのですよ」

「頼もしいのう」

持隆が嬉しそうに之虎を見つめる。之虎の周りには持隆の他、篠原長房も含めた供回りが控えていた。之虎の供回りは具足を藍色で揃えており、その姿をもじって愛染衆と呼ばれている。いずれも阿波を代表する勇士であり、激しい調練を積んでもいる。いまなら、尼子の新宮党にも遅れは取らないはずだ。

この戦では、全軍の統括を之虎が命じられていた。主力が四国・淡路兵であり、日頃の調練を之虎が指揮している以上、その方がよいと長慶と持隆が判断したのである。二十一歳の自分に命運を託すとは、二人とも豪気というか、呑気というべきか。もっとも、これが之虎の心に火をつけたのは間違いなかった。

淡路衆の冬康と冬長は任せて大丈夫だ。讃岐衆は存春が指揮を取るが、一存が突出する可能性があるため康長に目付を頼んである。康長は一存と馬を並べるのが嬉しいらしく、之虎の頼みを即諾した。

長慶には当面待機、機を見て好きなところへ攻撃を仕掛けてほしいと伝えた。兄の軍才ならば、最高の頃合いで最適な急所を突くはずだ。逆に最悪の場合は、九条稙通卿を守って先に落ち延びてもらう。他に、鳴り物衆だけは部隊ごと借り受け、既に音と動きの調整を済ませている。

「これほどの会戦は大物崩れ以来よ。分かるな、之虎」

「俺たち兄弟、一人ひとりが父と同等です。三好元長が四人いると思ってくだされ」

「カカ、それでは負けようがないな。いけ、之虎。その名を轟かすがいい」

「無論!」

持隆と視線を交わしてから、正面の相手を見据える。敵陣の気配にも変化があった。

「敵、動きます」

長房が声を上げた。いよいよ本番だ。四国・淡路衆の真骨頂は兵数ではない。鍛え磨いた得意の技が、いまこそ活きてひとつになる時。初めて見せるこの力、敵が気づいた時には決着だよ。

 

矢戦の後、壮大な槍合わせが始まった。何しろ人数が多い。何千本もの長槍が上がり、叩き合う様は地獄の祭のようだ。ばちばちと槍を組みあう音、兵の喊声や悲鳴、声を枯らす伝令、掛かり太鼓を奏でる鳴り物衆。あちらこちらで人が死んでいく。そんな些細なことには目もくれず、兵はひたぶるに突き進む。

「一興、これも一興」

之虎は笑っていた。今日は大勢の人が死ぬだろう。なんのために死ぬのかも分からずに、苦しみ悶えるのだろう。それでいい。人の生はそういうものだ。戦え。主のために戦え。栄誉のために戦え。生きるために戦え。これだけの大軍を率いる異常な事態は、もはや之虎にとって愉悦に変わりつつあった。

精神の変容と歩調を合わせるように、之虎の采配が鋭さを増していく。敵兵の動きひとつ、伝令の報告ひとつが自分を成長させている実感があった。敵陣の硬軟が見えてきた。自陣の強弱も把握できた。

そんな之虎を、持隆や長房は驚愕の眼で見ている。戦が始まった頃はあれこれと報告したり、気づきを口にしたりしていたが、いまは之虎の命令を正しく味方衆へ伝えるので精一杯だ。日頃近くにいる彼らすら、之虎の大器を読み切れていなかった。

(俺は、万を超える戦が性に合っているらしい)

痺れるような実感。

今日の勝利は、明日の三万の敵を呼ぶ。そいつを倒せば、今度は五万の敵が攻めてくる。果ての果てには、十万と十万で争う戦があるかもしれない。なんとも楽しみなことじゃあないか。

之虎は高笑いを始めた。

「之虎殿……?」

長房が怪訝な顔で聞いてくる。

既に会戦から一刻が過ぎていた。まだまだ戦は一進一退、互角の状況だ。背水の敵は死に物狂い、士気に衰えはない。だが、それはあくまで表面上のことだ。

「聞くのだ、長房。その優れた頭脳で、伝令の仕方をよく考えろよ。……見ろ、あそこで猛攻を見せている連中。あれは筒井順昭率いる大和衆だ。あいつら、実は倦んできているぜ。さっきからな、頭に損得勘定がちらついていやがる」

「な、なぜ分かるのです」

「次だ。正面やや右、岩のような戦をしている奴ら。あの風体、あれは根来衆じゃあないかな。あいつらが敵の要だ。あそこが崩れないから、河内衆も大和衆も退かない。勝ち目があると信じて戦えるんだ。だから、あの根来衆を潰す」

「もう少し、根拠を」

「黙れ。議論している場合じゃあないだろ。俺を信じるのか、信じないのか」

之虎の激しい気迫を目の当たりにして、長房の面にも覚悟が入った。

「信じます」

「よし、ならば淡路衆と讃岐衆に合図だ。“やぶれ峻雷碧”を仕掛ける」

「はい!」

長房が走っていった。同時に、之虎は鳴り物衆へ指示を出す。普段は長慶の戦を見ている彼らでも、之虎を見る目には畏敬の欠片が混ざっていた。

 

根来衆に向き合っていた者を中心に、味方がじりじりと後退していく。

引き鉦が高らかに鳴らされた。特徴のある、一定の調子である。この音色を聞いて、前線の兵は血相を変えた。この鉦が鳴らされた後に何が起こるか、彼らはよく知っている。兵たちは本気の恐怖を抱いて逃げ出した。

この迫真の弱腰には、注意深い根来衆も勝利を確信したらしい。それまでの堅い構えを崩し、追撃に移った。逃げ遅れた者が数人斬られ、それがまた敵をいい気にさせる。

――ここだ。

「峻!」

之虎の合図で鳴り物が小太鼓の連打に変わった。同時に無数の矢唸りが発せられる。根来衆は事態の変化には気づいたようだが、何が起こっているのかまでは分からない。次の瞬間、彼らの頭上に矢が振り注いだ。ばたりばたりと法師武者が倒れ出す。

根来衆を自陣に引き寄せ、左右から淡路衆が矢を放ったものである。特別の迷彩を施した矢を、角度をつけて遠矢にかける。見慣れていない者には音は聞こえるが、飛んでくる姿はなかなか見つけられない。敵は防御する方向が掴めず、負傷者が続々と増える。とりわけ冬康が夕星で放った矢は、容赦なく敵兵の眉間を射抜いているのが分かった。

敵陣は崩れ、混乱している。こうなってはまともな槍衾をつくることは難しい。

「雷!」

大太鼓が響き、大地を揺らす。矢が止まり、代わりに馬蹄の音が接近してきた。恐怖に駆られた敵陣に、葦毛の若馬に乗った一存が単騎で突っ込んだ。

「そうりゃ!」

それは、想像を絶する姿だった。一存が十文字の大身槍、飛鳥を一振りするだけで、二人の敵が瞬時に絶命した。

「おうら!」

続いて、別の一人を槍で串刺しにした。その上、一存はその相手をそのまま持ち上げ、槍を振って放り投げたのである。人の身体が宙を飛んでいく。敵も味方も、呆けたようにそれを見守っていた。

どしゃる、と死体が敵陣の真ん中に着地した時。遂に恐慌が起こった。

「ば、化け物じゃ!」

「鬼! あれは悪鬼に相違ない」

「三好は鬼を使役しておるぞ」

人智を超えたような出来事を目にして、信心深い根来衆たちは口々に世迷言を並べた。戦意は完全に潰えたと言ってよい。先駆けた一存に続き、康長や存春、讃岐衆の騎馬兵も突撃していく。

「碧! 俺に続けえ!」

鳴り物衆がすべての楽器を鳴らす。

潰走し始めた根来衆を、之虎率いる愛染衆が追撃していく。冬康たちによって全身に傷を負い、一存たちによって士気を挫かれている。この戦果を、氏綱軍全体に伝播させていくのが最後の仕上げだ。温存していた愛染衆の集団戦術が、根来衆を殲滅し、浮足立った河内衆をずたずたにしていく。

「ひ、退け! 退けえ!」

氏綱軍が潰走し始めた。

勝った。事前に、長慶から敵の大将だけは見逃すように言われている。後で政略に利用するつもりなのだろう。ならば、気の毒な一般兵に犠牲になってもらうしかない。二度と三好家に逆らう気が起きないようにしなければならない。

そう思った瞬間、長慶率いる四千の摂津衆が動き始めた。二手に分かれ、被害が少なかった大和衆を撫で斬りにしていく。片方の先頭は長逸、もう片方の先頭は松永長頼とかいう男だ。

「はっはっは、俺たちはよく似た兄弟だなあ!」

そう漏らすと、隣で持隆が吹き出した。

「カカカ、恐れ入ったよ。お前たちには、本当に恐れ入った」

持隆は感極まったようだ。ふわりと微笑んでから気を取り直し、再び采配を振るう。

「全・進!」

全軍が追撃に移った。これで兄、三好長慶の力は揺るぎないものになる。

鳴り物衆の音は止むことなく続く。太鼓と鉦に笛が入ることで、音色は哀調を帯びていた。一見不要な笛を父がなぜ加えたのか、ようやく分かった気がする。鳴り物は、死者への追悼でもあるのだろう。

 

  *

 

「ほんま素晴らしおすわあ。高みに至った武勇は、魔法と見分けがつかへんねやなあ」

隣の九条稙通は感嘆しきりだった。この殿上人は若い頃食うに困って各地を放浪していたというから、存外、乗馬には苦労していない。先ほどから一存の暴れぶりを遠目に追いかけては、すごい、すごいと褒めちぎっている。

「そう言えば、あれも天狗の法力を得るような行を成し遂げておりました」

「なんやて! そんなんはよ教えてもらわんと」

「あ……。や、あくまで調練の一環のようなものでして」

「麻呂はすっかりあんたら兄弟に惚れてしもたわ。長慶はんは文武に秀でてはるし、その弟も負けず劣らずの器量人揃い。侍どもの物語は今日、新たな帖に移ったんや」

「九条殿にお見届けいただいたのは幸いでした」

「特にあの十河一存殿。長慶はん、彼は独り身かえ」

「ええ。元服したばかりですし」

「……十河の尚子。うん、悪ないわ」

将兵の鼓舞に役立てるだけではなく、稙通の同行により公家との結びつきが太くなればとも考えていた。必要以上にありがたがる気はないが、実際に京を治める上で朝廷との信頼関係は欠かせない。

稙通は一存をいたく気に入ったようだった。確かに末弟の活躍は人目を引いた。明日から、兵や民の間で一番人気が出るのは一存だろう。いつの時代も豪傑、腕っ節の強さというものは人を惹きつける。

(それにしても、まさか本気で縁組を考えているのだろうか)

九条家と十河家の婚姻ともなれば、これは大事件である。長慶が目指す、武家家格の破壊にも直結する事態だ。

(願い続ければ、思った以上の成り行きにも出くわすものか)

空を仰いで一息ついてから、再び戦場に目を移した。既に長慶は足を止めたが、之虎や長逸はいまも追撃を続けている。死者だけで数千人に届くだろう。これで、河内衆や紀伊衆は大規模な軍事行動を起こせなくなる。もう少し締め上げれば、氏綱も長教もこちらに恭順してくるはずだ。

それにしても、これだけ肌が粟立ったのはいつ以来だろう。

之虎の采配に対してである。冬康や一存が一個の魔法だとすれば、之虎はそれを統べる魔導師だった。前鬼と後鬼を従えた役小角のようであった。たとえ調練を重ねたとしても、あれだけの指揮が自分にできるだろうか。

(乱世の大名としては、之虎の方が資質は上かもしれない)

劣等感というものは、ほんの少しの自覚で気持ちを曇らせてしまう。こんな思いを抱いたのは、父、宗三、そして長政以来だった。

 

続く