きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十三 松風の段  ――十河一存 前関白九条稙通の娘を娶り、三好長慶 須磨の海に行楽す――

二十三 松風の段

 

年の暮れ、宗三たちは無事に京へ戻ってくることができた。

長慶が舎利寺で大勝したことにより、各地の氏綱方は勢いを完全に失った。遊佐長教はいまも長慶に攻め立てられており、筒井順昭は大和へ撤退した。公方は近江に潜んでおり、京に自力で戻る術はない。宗三や六郎も付近の敵を打倒し、畿内は一見元の鞘に収まったように思える。

六郎は帰京にあたって満面の笑みを浮かべていたが、戦況の報告を受けるとまた機嫌を損ねた。長慶の活躍が気に入らないのだ。今回の戦では、長慶はほぼ独断で事を進めている。内衆たちの間でも彼がいずれ謀反を起こすのではないかと噂されていた。

太平寺に続き、舎利寺での大勝利。長慶の力は既に、六郎政権全体の力を超えている。いま長慶と敵対すれば、相手の兵は二万以上、こちらはせいぜい一万というところだろう。六郎もそれが分かっているから焦っている。なんとかして自分の直轄軍を増強せねばと、ようやく思い至ったようだった。

いよいよ、来るべき時が近づいている。

 

帰り際に声をかけられ、宗渭と一緒に帰宅した。

いままでになかったことである。出迎えた妻も、これには驚いたようだった。下の子どもたちは嫁いでいたり遠くへやっていたりで、普段は夫婦二人で暮らしているようなものだ。三人で夕食を共にしていると、宗渭が幼い頃を思い出さずにはいられなかった。

最近雇った料理人がいい腕をしており、宗渭はがつがつとよく飯を食った。妻も宗渭の話に耳を傾け、嬉しそうに笑っている。

「二人とも怪我がなくて、本当によかった。これで戦は終わるのね」

「……うむ、そうだなあ」

「細川氏綱という人も何を考えているのやら。彼を応援する人の気持ちも分からないわ。ちょっとやそっとの不満があったって、我慢するのが良識というものよ」

「そうだな、けしからぬ者が多過ぎるな」

夫婦で話していると、宗渭が笑い始めた。

「親父、“そうだな”しか言ってないじゃねえか」

「そう! そうなのよ。この人ったら、いつも同じような生返事で張り合いがないの」

「やれやれ。息子は母親の肩を持つもの、か」

こんな風に人にやりこめられるのは久しぶりだった。困った顔をしながらも、内心は温かい。

「なあお袋。俺、しばらく榎並城に行ってくるよ。こんな世の中だから、ちゃんと所領の治安を守らないとな。殿の承諾もいただいた。なかなか顔も出せないけど、元気にしといてくれよな」

「あらあら。まるでまた戦に出かけるみたいな言い方」

妻は戦が済んだと思っている。反対に、宗渭には何かしらの存念があるようだった。

「父上。京を任せたぜ」

「は。言われるまでもないわ」

「俺たちだけでも、真心で殿に仕えようや」

「お前――」

知らぬ間に、子どもは大きくなっている。

「宗渭。今日は飲み明かすか」

「おっ、そうこなくちゃな」

父子の語らいを受け、妻が酒の用意に立ち上がる。その足取りはいつもより軽やかだ。

「お袋との出会いを教えてくれよ」

「……こそばゆいわ。もう少し飲んでから、な」

春の野原、花かごを持って笑っていた妻。遠い昔のことが、やけにくっきりと思い出された。

 

  *

 

「いざ!」

一同杯を干す。天文17年(1548年)、越水城には長慶やその家族・家臣の他、弟三人と康長が集まっていた。今日は正月と勝利の祝いである。舎利寺の戦いの後、持隆や長房、兵の半数が四国へ帰ってからも、長慶たちは氏綱方残存勢力を散々に痛めつけた。もう、氏綱も長教も再起の目はない。後は六角辺りが和睦の調停を始めるまで待つだけだ。

 

徳若に 御万歳と御代も栄えまします 

愛嬌有ける新玉の 年立返る朝より 水も若やぎ木の芽も咲き栄えけるは 誠に目出度候うける――

 

どこで覚えたのか、之虎が千秋万歳を謡い始めた。もともと美声で、扇の遣いも舞いも堂に入っている。たちまち人が群がってきて喝采した。

「はああ。弟さん、ごっつう芸達者でんな。戦も上手いし人もようたらす。こらたいした御仁や」

久秀たち摂津衆もこれには驚いたようだった。戦では四国衆に一目置きながらも、風流では自分たちが優位だという自負があったのかもしれない。

 

野師め野師め 京の町の野師め 売たる物は何々 

大鯛小鯛 鰤の大魚 あわびさざえ はまぐりと はまぐりと はまぐりはまぐりはまぐり めさいなと

売たる者は野師め そこを打過ぎ そばの店見たれば 金襴緞子 緋紗綾緋縮緬――

 

「慶兄よう。この雑煮はうまいけど、こっちのぜんざいとかいうのは味がしねえぞ」

こちらでは一存が料理に文句を言っていた。畿内風の正月料理に舌が馴れていないのだろう。皆の膳には、紅い塩ぜんざいと白い雑煮が並べられている。

「そうかな。なかなかに品のよい味わいだと思うが」

冬康の口には合うらしい。

「毎年こうだけど、俺は嫌だな。雑煮だけでいいや」

千熊丸が輪に入ってきて、叔父たちに甘えている。

「ははは。年を取れば、塩ぜんざいのうまさも分かるようになるさ」

四十をとうに超えた康長は、この中では最年長である。逞しく育った甥っ子と孫のような千熊丸を前に、恵比須様のような表情。一存と九条尚子の縁組が決まった時も、実の父のように喜んでいた。

 

繻子緋繻子縞繻子繻珍 いろいろ結構に飾り立てて候いしが

町々の小娘や お年の寄たる姥たちまでゆきこう有り様は げにも治まる御代なり時なり

恵方の御蔵に ずっしりずっしりずしずしずっしり――

 

あちらでは長逸と長頼、無口な二人が黙々と酒を酌み交わしている。

その向こうでは、基速が新参の石成友通に何やら説教していた。基速は酒が入るとよくない。既に久秀は逃げ出しているが、友通も要領よくあしらっているようだ。

 

宝も治まる 門には門松 背門には背門松

そっちもこっちも 幾年のお祝いと 御代ぞ目出度き――

 

廊下では、あまねがおたきたちに混じって忙しく働いていた。

「あまね、少しよいか」

「あ、お前さま。少しお待ちを、これだけ」

「うむ。あちらで待っている」

人のいない部屋を選び、しばらく待った。

ほどなくして、あまねが現れる。

「どうしたんです、あらたまって」

「紹介しておきたい者がいる。こういう日の方がかえって目立たないからな」

「……まさか、側室」

「こら、そんな訳ないだろう。さ、琴よ」

「うむ」

いつの間にか琴があまねの背後に座っている。

「きゃああ!」

気づいたあまねが飛び上がった。

「も、もう少し普通に入ってこれぬのか。……あまね、この者は琴という。いま見た通り特殊な術を使う女だ。そなたを守ってくれる」

「守るって……」

「拉致、脅迫、暗殺。いま恐ろしいのはそれよ」

「よろしく頼む」

琴があまねに頭を下げる。琴は当初、長慶の依頼に戸惑っていた。自分は琴の大事な弟を守る、琴は自分の大事な妻を守ってほしいと言って、ようやく承諾したものである。

「あ、はい。こちらこそ……」

つられてあまねも頭を下げた。驚きながらも事態を淡々と呑み込むのは、妻の優れた特長だ。

それにしても、あまねのような女と琴のような女が同じ空間にいるのはおかしな気がした。そのおかしさが、今後の世の移ろいを暗示しているように思えてならなかった。

 

  *

 

畿内の混乱に業を煮やした六角定頼が間に入り、足利公方・畠山家と細川六郎の和議が成立した。氏綱は再び姿を隠したが、義晴と遊佐長教が手を引いた以上は兵の集めようがない。

再び京に帰ってくることはできたが、六郎による公方への締め付けは以前より厳しい。実態としては降伏、捕虜になったのと同じだった。このことがどれだけ義晴の自尊心を傷つけたか想像に難くない。義晴の体調は日を追うごとに悪化していた。

「藤英よ。病でなくても、身体が弱ることはあるのだな」

「無念、ただただ無念の一語に尽きます」

藤英は三淵晴員の嫡子で、いまは父と共に奉公衆を務めている。奉行としては若いが、切れる男だ。

「そうだな、確かに無念だ。長慶がいなければ、いまごろは我らと氏綱が京を支配していただろうし」

「許せませぬ。絶対に許せませぬ」

「六郎がか」

「野望と暴慢の権化、三好長慶であります」

弟の藤孝も珍しい男だが、兄の藤英も変わったところがある。自分の意見を述べているというより、義輝の思っていることを声に出して強調しているように感じられる。つまり、上役にとっては話し相手に適しているということだ。

「父と余を辱めたのは」

三好長慶です」

「将軍親政の障害は」

「かつては細川六郎、いまは三好長慶です」

畿内で最も力を持っている者は」

「それも三好長慶です」

「うむ、その通りだ」

氏綱を退けたとはいえ、もはや六郎政権は崩れかかったあばら屋だった。宗三という大黒柱がかろうじて一家を支えている。その宗三ですらも、あれだけ長慶が畿内中の支持を集めてしまえば単独での逆転は難しいはずだ。奉公衆も晦摩衆も、いずれ長慶と六郎が激突すると読んでいる。

「長慶と六郎が争ったらどうなるかな。長慶が余に従うと思うか」

「それはありません。意のままに操れるはずの足利義冬すら担ごうとしていないのです」

「どういうつもりなのかな。阿波の守護代風情が単独で世を治めることなどできぬはず」

「分かりません。分かりませんが、危険です。もし、長慶が誰を担ぐこともなしに天下を支配してしまったら。長慶の政に畿内の民が満足してしまったら。各地の大名が長慶に従ってしまったら。四百年続いた武家の秩序が、根底から揺らいでしまいます。長くは続かぬ勢いや才覚などを頼りに、下剋上の嵐が吹き荒れることになります。古から尊ばれてきた血、絆、伝統、すべて台無しです。激しさを増した乱世は戦を呼び、謀略を呼び、悲劇を呼び寄せます。この国から安定、安心という言葉を奪うに等しい所業です!」

「細川家に天下を預けるのとは、意味合いがまったく異なるということだな」

「公方には武家の棟梁としての責任があります。執権北条や管領細川に政務を任せることはあり得ても、我々に従いもせぬ山奥の地侍に天下を簒奪されるなど、絶対に許してはなりません」

「よう言うた。余もまったく同じ思いだ」

近江へ落ちる際に義晴が流した悔し涙が忘れられない。あの涙は、足利公方の凋落の象徴だ。あの涙の原因を取り除くことで、初めて誇りと栄光を取り戻すことができる。

「いっそのこと、六郎を取り込んでしまえば。そうすれば六角定頼も躊躇うことなく我らに力を貸すはず」

定頼は公方を尊重してくれているが、六郎の縁戚でもあった。

「六角を主力に、丹波の波多野晴通、出雲の尼子晴久、越前の朝倉孝景辺りを使う形か。摂津衆は宗三の他、伊丹親興くらいしか当てにならぬだろうし」

朝倉孝景は最近、急な病に倒れたとか」

「ふん、父が仰っていた通りだな。朝倉は肝心な時ほど役に立たない」

朝倉宗滴などを派兵してくれればよいのですが、一向一揆に美濃の斎藤利政、江北の浅井久政など、あの辺りもなかなか情勢が乱れております」

「過去の経緯がある割に、本願寺は長慶と仲がいい。斎藤を認めるのは三好を認めるのと同じだ。難しいものだな。言ってはみたものの、波多野晴通も信じてよいかどうか。長慶に妹を嫁がせているのだろう」

「波多野は六郎と昵懇。長慶に従うことはありますまい」

「すると、妹には気の毒なことになるな」

武家の習いでしょう」

公方の直轄兵力はせいぜい五千。利権が複雑に絡み合う京の近辺では、直轄軍をいま以上に拡充させることは難しい。長慶の専横が明らかになるにつれ、各地の心ある大名を動員していくしかないのだ。

「まずは六郎との融和。次に各国大名との親密化。楽な道はない、愚直にいこう」

「はっ! 奉公衆一同、身命を賭して」

藤英の返事は喜びに満ちていた。義晴・義輝父子同様、彼らも長い間、寂しい境遇に忍従している。義晴に続き、義輝が積極的に公方権力を回復させようとしているのが嬉しいのだろう。細川家に実権を奪われて以来、奉公衆は外交や調略の腕だけを一意専心に磨いてきた。その力を正しく導けば、できることはまだまだ多い。

十三歳にして既に、自分には奉公衆を使いこなすだけの知恵がある。どんな報告も瞬時に要点を理解できるし、奉行に不足しがちな大局の観点を補うこともできる。若い分、伸び代だってたくさんあるはずだ。

(足利公方、中興の祖と呼ばれたい。その折には、父と奉公衆のお蔭だと言ってやろう)

そんな密かな思いすら抱いている。そのためにも、公方の主導で長慶を滅ぼさねばならない。これはもう、征夷大将軍たる余が決定したことなのだ。

 

  *

 

公家との結婚というものは、うんざりするほど長い手続きが必要だった。正月以降、一存は三度も京と讃岐を往復している。大勢の白塗り貴族に会って、この人が何々小路だの、あの人が何々川だのと紹介されたが、誰ひとり記憶に残っていない。全員、同じ顔にしか見えなかったのだ。

尚子との結婚に不満はない。どちらにしろ嫁取りはしなければならないし、九条家との関係が深まれば長慶や義父に喜んでもらえる。京でも摂津でも讃岐でも、九条家と十河家の縁組は驚かれているらしい。天変地異、とまで言った坊主もいるそうだ。

ある日、義父の存春はしみじみとこう語った。

「いまだから言うが、お主の養子入りを快く思わない者もいた。溜め池で泳ぐわ、篠原に闇討ちはするわ、何度も肝を潰しもした。……それでも、わしにとっては優しくて、頼りになる、いい息子だった。そんなお主が、戦で大功を立て、挙句に前関白殿の娘を嫁に貰うとはなあ。これほどな栄華が我が身の上に訪れるとは、思いもよらなかったよ。これで十河の家は安泰じゃ。ありがとう、一存。本当にかたじけなく思うぞ……」

言われた一存は、男泣きに泣いた。養子に出されて以来、一存の胸にはいつだって洞穴が空いていた。その穴を埋めるために武芸の稽古に励んだし、力競べでは一番にこだわってきた。それが存春の言葉で、ようやく充足し、完全な自分を得たような気がした。

突然の号泣に存春は驚いたようだったが、やがて、ぎゅっと抱きしめてくれた。いまでは一存の方が身体は大きいが、包まれているような温もりがあった。そして、親子二人で抱き合って泣いた。

新たなもう一人の義父、九条稙通は変わった男だった。尚子のことはそっちのけで、天狗入りの話ばかりをしつこく聞きたがるのである。尚子の方も扱いに慣れているようで、一存の額をぺちぺち叩きながら

「いっつものことやから。ほっとき、ほっとき」

と言って、別室に避難させてくれた。

尚子もさすが九条稙通の娘というべきか、あまり公家らしさのない、さばけた態度の女である。小さな頃から稙通と共に諸国を放浪し、苦労を知っているのかもしれない。家中の女たちと要らぬ衝突を起こすこともなさそうだ。祝いに来たいねとは気が合ったようで、女同士、やかましく笑いあっていた。

 

ようやく一通りの婚儀が片付き、一存は十河城で一息つくことができた。

時間ができた時は自身の鍛錬か、愛馬“白雲”の世話をするようにしている。葦毛の馬は弱いとか遅いとか言う者もいるが、白雲は一存を乗せて何里も駆け通すことができるし、敵の槍や弓矢に怯むこともない。そんな白雲の意気に応えるためには、自らの手でできるだけのことをするのが筋だ。

藁の束で馬体をゆっくりこする。白雲はこれが好きだった。

「がはは、気持ちよいか。ほれほれ」

馬にも表情がある。瞳を見れば真情も伝わる。嘘やおべっかを言わない分、人間よりも付き合っていて楽しいくらいだ。

「ここにおられましたか」

声をかけられた。一存の配下だった男、鴨部源次だ。舎利寺でも一緒に戦った仲である。

「ああ、源次か。そうか、出立は今日だったな」

「数々のお心遣い、痛み入ります」

「わざわざ暇乞いの挨拶とは、お主こそ律儀な男よ」

十河家の勢いが増したことを讃岐の近隣勢力は愉快に思っていない。西讃の香川氏は伊予の河野氏に接近しているし、東讃の寒川氏は近頃反目を露わにしている。寒川元政はなかなか剛毅な男だから、十河に呑み込まれる前に一戦交え、有利な条件で盟を結びたいという腹積もりだろう。

その寒川家には源次の兄が仕えている。主家のために、兄弟で殺しあうことはない。

「この上は、兄弟揃って一存様に挑む所存」

「それでよい」

「つ、次は戦場にて……」

源次の頬が光ったのを見て、一存は白雲の方に目を戻した。別れの挨拶は済んだ。後は槍と弓矢で語り合える。源次が崩れ落ちて嗚咽しているのが分かったが、一存は決して振り返らなかった。

 

  *

 

川湯温泉和歌山県田辺市)は紀伊国の山深くにある。

河原を手で掘るだけで、温泉が湧いてくる。少し手間を掛ければ、石で囲って即席の入浴場を築くこともできる。焼いた川魚はうまいし、清流を眺めていれば心も穏やかになってくる。畿内ならば人の命をつい粗末にしてしまうが、ここにいれば川虫の命ですら大事に思える。

これは夢だ。それが分かっていても、覚めるには惜しい。

しばらく湯に浸かっていると、男が入ってきた。これも思ったとおりだ。

「久しいな、長政」

自分から話しかけた。

「……」

「どうした。いまでもわしを恨んでいるのか」

「……お主は疲れている。刀を置いて、紀伊に戻ってこい。いまなら間に合う」

「た、たわけたことを。わしはお前を裏切ったのだぞ。裏切って掴んだ成功なのだぞ。ここで諦めたら、お前は無駄死にではないか」

「……相変わらず真面目な奴。いいか、このままだとお主はこうなる」

長政が手を上げた。途端に、青空が歪んで満天の星空に変化する。無数の流れ星が現れたと思うと、それらが長教目がけて降り注いできた。光の矢が長教の身体を貫き、焦がしていく。

 

「ぎゃああ!」

布団から飛び起き、転げ回った。それ以上は顎が震えて声が出ない。腰も抜けてしまい、立つこともままならなかった。臭気。よく見れば寝巻は汚れ、周りに糞と小便が散乱している。

 

「何だかこの部屋、独特の匂いがしますねえ」

「……白檀を焚き染めてある」

旅の盲人、珠阿弥に身体を揉ませていた。彼は目が見えない分、鼻が利くらしい。

六十近くなって、身体のあちこちが言うことを聞かなくなってきた。舎利寺での敗戦以後は特にそうだ。歳のせいだから下半身が緩くなるのは仕方ない、もともと男は腹が弱い生き物だと医者は言っていた。

「はい、次は肩周りをやりますからね。腕を持ち上げたりしますが、お気になさらず」

先ほどから珠阿弥は、何か動きを変える度に声をかけてくる。

「何かあればこちらから言う。黙って揉んでくれてもいいのだぞ」

「お耳障りでしたか。や、盲人の癖でしてね。表情や様子から察する、ということが難しいでしょう。何をするにも、会話だけが頼りなもので」

「……ああ、そうだな。わしも配慮が足りなんだ」

「いえ、いえ。恐れ多い」

「目が見えなくなって、不便か」

「そりゃそうですよ。でもまあ、いいことも多いものです。思っていたより世間は優しく、酷い人は少ない」

話しながらも珠阿弥の手は止まっていない。首のこりをほぐされ、よい心地だった。

「一番困ったのは」

「とにかく怖いことですねえ。出歩くだけでも怖い。走ってくる人や馬が怖い。橋を渡るのが怖い。人に身体をいきなり触られるのも怖い。照れ臭いのか、黙って手を引いてくれる方が多いのです。親切はありがたいんですが、ひと声かけていただかないと何が何やら分からない」

「もっともだな」

確かに我々は、目で見て察するということに甘えているのかもしれない。

「とにかく、何でも声に出すのはいいことですよ。悩みも思案も口に出せば楽になります。心の按摩ですな」

「ふん……。これからわしはどうしたらいいか。そんなことも話した方がいいのかな」

「と、言いますと」

「長慶は強い。一旦和睦はできたが、わしの寿命が尽きる前に勝てる気がしない」

「……」

「ただ、詰めが甘いところもある。わしが生きているのが何よりの証だろう? さて、今後も長慶と戦い続けるべきか、いっそ六郎に鞍替えでもしてしまうか、それとも……」

「こ、これは手前には余るお話のようで」

動揺したようで、背中の経穴を押す力が強くなった。痛いが、悪くない。

「ははは。何でも口にすると言っても、話す相手は選ばんとな」

「そ、その」

「どうした」

「生きて、帰していただけるのでしょうか」

「本気だったと思うか。元盗賊だというのに、気が小さい奴め」

縮こまる珠阿弥に、今度は灸を頼んだ。じりじりと焼けるもぐさが、夢で浸かった温泉を思い出させる。確かに、少し疲れているようだ。知らぬ間に長教は眠ってしまっていた。

 

  *

 

「よいことを思いついたのだが」

家族三人で朝餉に向かっている時、長慶が口を開いた。

「なんでしょう」

「天気がいいから、海にでも行かないか」

「行く!」

千熊丸が即座に叫んだ。父親から遊びに行こうなどとついぞ言われたことのない子である。興奮するのも無理はない。

「海って……鳴尾(兵庫県西宮市)ですか」

「いや、どうせなら日頃行けない所がよい。須磨(兵庫県神戸市)なんてどうだ」

「行きたい! 釣りしたい!」

「静かになさい。須磨だと、日帰りでは難しいんじゃ」

氏綱との戦いが終わったとはいえ、畿内の情勢は不穏なままである。長慶が城を空けてよいのだろうか。

「一泊くらいなら長逸も許してくれるさ。それとも、三人で城を抜け出すか」

「冗談ですよね」

「……冗談です」

長慶が誤魔化した。言いつけを守って、あれ以来一人で出歩くことはしていないようだ。

夫の気持ちは分かっている。それを家臣も理解している。長頼を護衛につけるということで、長逸たちも了承してくれた。千熊丸のはしゃぎ様はただ事ではない。その姿に、あまねは罪の意識すら覚えた。

 

須磨も鳴尾も住吉(大阪府大阪市)も、摂津国の浜辺は松の名所として名高い。須磨の松林の見事さに、あまねは心を奪われた。初夏の黒松はうら寂しさよりも、匂い立つ情感の豊かさを想起させる。松林の陰に茣蓙を敷いて、あまねは夫と子どもの姿を遠目に眺めた。

長慶、千熊丸、それに長頼の三人は浜辺でじゃれあって遊んだ後、小舟を出して釣りを始めた。長頼の指導で、太刀魚釣りに挑戦するらしい。長頼は見かけに似合わず子どもの相手が上手かった。

太刀魚は難しいと聞くから、釣果が出るにはしばらくかかるだろう。侍女たちにも休息を取らせ、あまねは茣蓙の上で楽な姿勢になった。

(夕餉は新鮮な太刀魚とお酒……)

ぼんやりと、はしたないことを考える。他に考えなければならないことがあるのに、そんな気にはなれない。いまの自分は、あまりにも幸せ過ぎた。

「侍女を遠ざけるのは、感心しない」

突然話しかけられ、“ひっ”と変な声が漏れ出た。いつの間にか琴が横に座っている。

「来てくれていたのですか」

「妾の役目は、お前を守ることだ」

長慶は琴の素性を詳しく話さなかった。何か、色々と事情があるようではある。

「面倒な、役目ならすみません」

「役目に面倒というものはない。だが……」

「だが?」

「清濁はある。これは汚くない役目だ。お前の夫は、なぜか妾に汚れ仕事をさせようとしない」

「汚れた仕事をしたいのですか」

「誰かがやるべきなら、できる者がやるべきだ」

あまねはおかしくなって、口元に袖を当てた。

「何がおかしい」

「あなたは、夫と似ているのですね。きっと、あなたに普通の暮らしをさせたいのでしょう」

「なぜ分かる」

「妻ですから」

言い切ったあまねに、今度は琴が驚いたようだった。表情には出さないが、何かを考え込んでいる。一方のあまねも、言葉をそこで終わらせることができなかった。唇を震わせながら、続きを言ってしまう。

「……もうすぐ、そうじゃなくなるのでしょうけど」

涙が一筋、流れ落ちた。

「この流れでは、そうなるだろうな」

「これからも、あたしの傍にいてくれますか……」

「それがお前の夫の願いだ。妾にも、少し分かってきた気がする」

目元を拭う。泣くために須磨へやって来た訳ではない。

「あたし、今日のこの日を忘れないでいようと思うんです」

「……辛いことを言うのだな」

「別れは終わりではありません。忘れてしまうことが、終わりなんじゃ……ないかと……」

駄目だ。次から次へと涙が溢れ、しゃくり上げてしまう。琴はこういう状況に馴れていないのか、それとも配慮からか、何も言わずにあまねを見守っていた。

強い風が吹いた。砂と涙をもう一度拭い、海の上に目を移す。

千熊丸が太刀魚を釣り上げ、小舟の上で飛び跳ねているところだった。

「この松たちは……こんな涙を、何度も見てきたのでしょうね」

「そうだな、松風だけはいつの世も変わらない」

 

続く