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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十四 どん突きの段  ――三好宗三 愛刀左文字と九十九茄子を託し、三好長慶 妻と離縁す――

二十四 どん突きの段

 

六郎の手で池田信正が処刑された。以前、氏綱に寝返ったためであると言う。

ほとんど騙し討ちのような形だったらしい。嫡子の長正が跡を継ぐことを許されたが、当主としては若年に過ぎる。しかも、彼の母親は宗三の娘なのである。世間では、宗三が池田家の乗っ取りを図ったのだと噂していた。

宗三の狙いは、六郎の直轄兵力増強と、池田家の蓄財接収だろう。向こうも長慶との決戦に向け、準備を進めているということだ。なりふり構わなくなった宗三の実力は未知数だった。

国人衆の大方はこの処置に反発している。一方、かつて木沢長政についた伊丹親興などは、“池田のようになりたくなければ……”と、六郎への忠誠を強めたようだ。長慶の活躍があってのこととはいえ、木沢長政も遊佐長教も細川氏綱も、結局は六郎を倒すことができなかった。六郎か、長慶か、あるいは様子を見守るか。国人衆も生き延びるために難しい判断を迫られている。

 

「細川氏綱様である」

堺沖に浮かぶ関船の中で、長慶、氏綱、長教の三者会談が始まった。周囲は安宅水軍が固めていて、誰かに気取られる恐れはない。長教に紹介された氏綱は長慶に目を合わせようともせず、手元の風車と長教とを交互に見て、呆けた顔をしている。だらしなく開いた口元からは涎が垂れていた。

「さ、氏綱様。三好長慶へお声かけを」

「この人だれ? 長教のお友達?」

「……ええ、そうですよ」

「本当? 双六できる?」

あまりの醜悪さに胸がむかむかとしてきた。たかが権力争いのために、長教はここまでのことをしていたのか。生まれ持った因業のために、琴はこれほどの罪業を繰り返してきたのか。

「驚いたならすまない。少し健康を害されていて、幼児還りの症状が出ているのだ」

「……」

「なに、案ずるには及ばぬ。氏綱様はお主を全力で支援するおつもりだ。そうですね、氏綱様」

「うん」

何か言ってやりたい気になるが、琴と正虎を守るためには何も知らないふりをしなければならない。

「いいでしょう。これから、よろしくお願いします」

「ああ。我々が組めば怖いものなどないな」

こんな俗物と貴人の成れの果てすらも使いこなしていく。

長教は、長慶が上手く誘いに乗ってきたと思っている。戦を長慶に任せて、政権奪取後は上手く操ってやろうと企んでいる。中途半端に賢いと、己が誰かに誘導されていることには気づかないものだ。舎利寺で生き延びたのも、自分の実力や幸運のためだと信じているのだろう。

 

  *

 

おたきと入れ違いに、千熊丸が帰ってきた。

「母上、何かあったの?」

「どうして」

「おたきが泣いてた」

先ほどまで、長慶と千熊丸の食事、衣服、病歴など、日常のことを細々とすり合わせていたのである。

「……何でもないのよ。千熊は、何をして遊んでいたの?」

「長頼が、色んな武器を見せてくれた! すごいんだよ、鞭で瓜を割ったんだよ!」

須磨に行ってから、千熊丸は長頼によく懐くようになっていた。

「鞭で、瓜を?」

「これを割ってみろって言ったら、ひゅって鞭が消えて、ばーんって飛び散ったよ」

いま時分の瓜はおいしいのに、どうしてそんなもったいないことをするんだろう。

「それから?」

「久秀も来たから、三人ででっかい落とし穴を掘った!」

「落とし穴……?」

「へへ、馬糞入りのね」

「……久秀殿が考えたの?」

「俺だよ! いっそ長逸をひっかけようぜって言ったら、久秀も長頼も真っ青になって嫌がりやがんの」

「もちろん、埋めてきたんでしょうね」

「え」

「埋めてきなさい」

慌てて千熊丸が飛び出していった。誰に似たのか、人を驚かせることばかり考えて……。

 

その夜は夕食を与えず、更に半刻ほど説教もした。

瓜を作った人が見たらどう思うか。怪我人でも出たら家臣はどう思うのか。人や物を粗末にするならば、自分も人や物から粗末にされる。その覚悟があるのか……と。

あまねが声を荒げることはないが、長慶や千熊丸が言うにはそれがかえって怖いらしい。この二人が素直に言うことを聞くので、長逸があまねを頼ってくることもあった。

いまも、問い詰められた千熊丸はしょんぼりとしている。彼は、よくも悪くも隠し事をしない。包み隠さずにあったことを言って、褒められたり、叱られたりする。叱られれば泣きもするが、叱られること自体は嫌いではないのだろう。褒めも叱りもしない時に、一番悲しそうな顔をする。

「千熊」

「はい……」

「反省したのなら、絵本を読む前に中将棋を教えてあげましょうか」

「うん、教えて!」

もう叱られたことは忘れている。その切り替えの早さが、無性にかわいい。

中将棋は駒の数が多く、動かし方の種類は二十九通りもある。まずはこれを覚えることが大変だ。ただ、長慶とあまねが指しているのをよく見たり邪魔したりしていたので、ある程度は理解しているようだった。

「一番強い駒はどれ?」

「この玉将のふたつ前にある、“獅子”よ。この範囲でこう、二回動くことができるの」

「二回」

「そう。他の駒が一回動くあいだに、獅子は二回動くことができる。それは、とても恐ろしいことなの」

「これだけの範囲にしか動けないのに?」

「驚異と呼ぶには充分」

「ふうん」

そんなやり取りを繰り返し、まずはやってみようと一局指してみた。

当然、あまねが勝った。千熊丸の口惜しがりようは尋常ではない。結局、翌日もその次の日も、暇さえあれば再挑戦を受ける羽目になった。

七日目、初めて負けた。

十日目には、あまねでは勝てなくなった。そこに至って初めて、千熊丸はおおいに喜んだ。

長慶が言うには、中将棋の上手は戦に強く、将棋の上手は謀に強いらしい。

 

  *

 

甲斐を追放された武田信虎は各地を放浪した後、近頃は京で暮らしている。

流浪しているとはいえ、元甲斐国守護である。六郎や公方の彼を見る目は温かく、同情が込められていた。内衆や奉公衆が京の名所を案内するなど、民には見せないような親切も提供する。もちろん、父に劣らない名将だと評判の武田晴信や、信虎と縁の深い今川義元と誼を通じたい、という下心はあった。

今日の一席も、“茶の湯を体験してみたい”という彼の要望を受けたものだ。武野紹鴎を加えた二人を迎え、精一杯のもてなしを振舞った。信虎は紹鴎の所作を真似ることに懸命だったが、内容には非常に満足したようだった。

「奥州の父子喧嘩が遂に収束するらしいではないか」

「あれは酷い争いでした。義輝公が仲裁に尽力して、結局は父が隠居する方向で纏まりそうです」

「公方様も、存在感を出そうと懸命だな」

「伊達の大乱が落ち着けば、越後の長尾景虎が頭角を現すと北国の商人たちは噂しているようですね。甲斐の晴信様は信濃をご所望のようですが、越後勢が介入してくるやも」

「晴信は不安の芽を徹底的に取り除く男だ。毛虫すら近づけようとしないほどにな……。忌々しいが、あれの率いる武田軍団に“まさか”はない。景虎が何をしようと、晴信の腹の内よ」

薄茶を飲みながら世間話に花が咲いた。息子や家臣に裏切られたことは吹っ切っているようで、甲斐の話題になっても顔に険はない。やはり信虎は真の強者である。半生かけて築いたものを失っても、元気は失っていない。そんな男は滅多にいるものではなかった。

「公方と細川家の仲の悪さは甲斐でも案じられておったが。思いの外、関係が改善しているようだな」

「共通の大敵が現れましたので」

「うむ、三好長慶とかいう若造のことだな。聞けば、晴信と同世代らしいが」

「不世出の才、という点では認めざるを得ません。しかし、才があれば何をしてもいい訳ではない」

「そうだな。公方様や細川殿が無下に扱われれば、我らとて面白くはない」

紹鴎の口数が減った。紹鴎も含め、堺の会合衆は長慶を後援している。一方で、紹鴎は宗三の友人であり、師でもあった。宗三と長慶が争うことは望んでいないだろうが、いちいち口にする男ではない。

紹鴎と信虎。今日はこの二人を招くことができてよかった。言い残す機会に恵まれたのだ。

亭主の気配が変わったことに、客の二人も気づいた。

「紹鴎殿。これを預かっていてほしい」

木箱を紹鴎へ差し出した。箱書を見た紹鴎の目が大きく開く。

「九十九茄子ではないか」

「何も言わず、招待に応じてくれた礼だよ。何も言わずに受け取ってくれ」

紹鴎の耳が動いた。滅多に見せない動揺の証である。

「信虎殿にはこちらを。……本当は、茶湯座敷に持ち込むべきではないのですが」

「こ、これはまさか、世に聞こえた宗三左文字では」

「多くの業物を見てきましたが、これが最上です」

さすがの信虎も驚いてくれたようだ。面映ゆいことだが、畿内ではこの刀を宰相の象徴だと思っている者も多い。万一にも、長慶の手に渡ることがあってはならなかった。

「これを、どうしろと言うのだ」

「三年経ってわしがこの世にいなければ……相応しき者にお渡しいただけませぬか」

「相応しき者とは」

「六郎様を援け、正しく世を治めることができる方です」

信虎の目つきが鋭くなった。漂泊する旅人の顔ではない。怜悧狡猾な大名の顔である。

「確かに承った。だが、死にたがるような真似はするなよ」

「ははは。みっともなくても、生にしがみつく所存です。ああ、本阿弥光二という者がおりますから、手入れは彼にお任せくだされ」

「宗三……」

「そんな顔をするな、師匠。今日は持ってきていないが、変わった釜を手に入れたりもしているのだ。上手く使いこなせるようになったら、まず紹鴎殿に自慢しに行く」

「本当だな」

「本当だ」

「……」

湿っぽい話を続けるのは格好のよいものではない。二人を促してお開きにさせてもらった。紹鴎も信虎もぐずぐず言うようなことはせず、宗三の肩を軽く叩いて帰っていく。

客を見送りながら、宗三は静かな満足を感じていた。

 

  *

 

写経をしていても、一向にはかどらない。

六郎と長慶の開戦が近づいている。あまねですら分かるほど、畿内は一触即発の空気に包まれていた。誰も彼も、顔を合わせれば戦の話だ。もはや氏綱の反乱など忘れられたかのようだった。

実家の兄は、婚姻の際に差し出した誓紙の写しをわざわざ送ってきた。三好が波多野の敵になれば、婚姻同盟は直ちに解消される。そんなことを念押ししてくる晴通の小ささが憎らしかった。

あまねの身の回りの世話をしている侍女は、波多野家から連れてきた者たちである。彼女たちは当然、いまも丹波と連絡を取り合っている。婚姻とは、互いの家中の雰囲気や行動が筒抜けになることなのだ。だからこそ、同盟が破綻した際には一同纏めて追い出されてしまう。

晴通の説得も試みたが、聞く耳を持ってもらえない。もともと三好嫌いで、細川家のことを頼みに思っている兄である。一刻も早く帰ってこいだの、長慶から離れればいずれ目が覚めるだの、反対に口説かれる始末だった。

「ため息ばかりついているな」

琴が話しかけてきた。突然の出現も、叫び声を上げない程度には慣れてきている。琴の方も、あまねに対して気安くなってきていた。

「だって……」

「長慶ともろくに話をしていない」

「だって」

「残された時間を、悩むために使っていていいのか」

「……」

「夢とは叶わないもので、だからこそ散り際が大事なのだそうだ。夢を恋に言い換えても、同じだと思う」

虚を突かれて、あまねは思わず琴の顔をまじまじと覗きこんだ。

「なんだ」

「琴が、そんなことを言うなんて」

「おかしいか」

「ううん、嬉しかった。ありがとう」

今度は琴が、あまねをじっと見つめてきた。彼女なりに照れているのかもしれない。

「恋の散り際、かあ……」

今日、長慶は夕暮れまでには帰ってくるはずだ。妙なことを思いついてしまった。

 

「お前さま。夜は外で食べましょう」

突然の提案にも、長慶は驚かなかった。

「よい考えだ」

「でしょう? あたし、“どん突き酒場”に行ってみたいんです」

城に出入りする商人や職人たちがよく噂している店である。

「ああ、聞いたことがある。そうだな、町の視察もしないとな」

「お役目だから、仕方ないですよね」

悪戯っぽく笑いあい、千熊丸をおたきに預けて城を出た。慌てて家臣たちがついてきたが、長慶に距離を空けるよう命じられた。二人で歩くのは久しぶりである。

西宮神社の程近く、昔からの家屋が密集する辺りに目的の店はあった。枝分かれした小路を進んで、行き止まりにあるからどん突き酒場。棒手振りに毛の生えたような屋台で、座る椅子などはない。皆、台に酒と肴を置いて、立ったまま飲んでいる。どの客も賑やかに笑いあっていた。

「噂通りだな」

「楽しそう……」

あまねはともかく、長慶の顔は住民によく知られている。気づいた客の一人が知らせると、主人が血相を変えて飛び出してきた。

「こ、ここ、これはお殿様! こここのような場所にお越し、越し越し」

「ふふ、よいよい。皆と同じものを出してくれ。他の客と同じように扱ってくれればよい」

「はは、は、はい!」

気を使わせないよう、一番端っこの台に陣取った。すぐさま主人が、燗酒と小鉢を運んでくる。あまねは艶やかな気持ちで酒を注いだ。

「よし、いただくか」

「いただきます」

つい、と一口で飲み干した。周りの酔客から“おお”と吐息が漏れる。武家のおなご、それも城主の妻が道端で酒を呑むなど、あまね自身聞いたことがなかった。晴通の耳に入ったら、卒中風にでもなって倒れてしまうかもしれない。

「うまいな」

「おいしいです。この温め方、角味がとれて、香気が立って」

今度は夫が酌をしてくれた。

「この肴もうまい。酒によく合う」

「素敵……。色んな魚を頭や骨ごと煮込んで、味噌と生姜で味を整えたんですね」

「……」

長慶が魚の頭をほじって、懸命に身を取り出そうとしている。

「お前さま、そんなにひたむきになって」

どっと、酔客たちが笑った。長慶もはにかむ。こんな時、夫は千熊丸よりもかわいい。

 

結局、見物人が集まってきてしまったため、二人は早めに退散することにした。

酔った客は、家臣が制しても落ち着くものではない。騒ぎが大きくなる前に、長慶はあまねの手を取って走り出した。夫の薫りが幽かに漂う。星空の下、あまねは夫と二人きりだった。

「ここまで来ればいいだろう。どうせなら夙川沿いを歩いて、蛍でも見ていかないか」

「いきます」

道から外れて、草むらに腰かけた。宵闇の中、川の音だけが聞こえてくる。蛍が瞬いているところが水の流れなのだろう。

「儚い灯火ですね」

「……そうだな」

月が雲に隠れて、互いの顔すら見えないほどである。

家臣とは上手くはぐれた。周囲には誰もいない。琴に言いつけてあるから、不審者が近づいてくることもなかった。あまねは、夫にもたれかかって顔を埋めた。長慶も、何も言わずに肩を抱いてくれる。

そのままじっとしていた。せせらぎに混ざる、長慶の心音。

温もりが、苦い。

いつしかあまねは嗚咽していた。長慶の素襖を濡らすことも気にせず、ただ、涙だけを流し続けた。

「行き止まりなんです」

「……」

「あたしさえいなければ、その夢を守ることができる。それは、分かっているんだけど」

「……」

肩を抱く力が、強くなった。

「あたしを、許さないで」

「……」

「忘れないで……」

頷いた気配がある。蛍が近くを横切ったが、長慶が泣いているかどうかは分からなかった。

 

  *

 

秋が近づく頃、六郎のもとへ長慶から書状が届いた。

宗三を糾弾する内容である。池田信正の処分を不当と断じた上に、過去の一揆や反乱、飢饉・大水などを細々と数え上げ、それらすべてを宗三が原因であったかのように書いている。奸臣の宗三を政権から取り除くことで、天下の政道を正す。池田長正を始め、細川氏綱や遊佐長教など、既に畿内の心ある者は長慶の意見に賛同を寄せている。六郎も道理をよくよく考え、長慶の仕置きを支持するように……などという思い上がった文章。読み進めるうちに、鼻血が出てきて止まらなくなってしまった。

腹立ちの勢い任せに、長慶の書状で鼻をかんだ。少しはせいせいしたが、写しが京市街に貼られている、主だった国人にも届けられているという話を聞いて、六郎はまた激昂した。

 

その宗三が屋敷に現れた。既に色々と情報を集め、整理してきたらしい。他の内衆たちにも声をかけ、大広間に一同が揃う。

「まず一点目、長慶が氏綱方に寝返ったというのは本当か」

宗三に向かって問うた。

「半分は」

「……どういうことじゃ」

「長慶が氏綱や長教と手を組んだのは事実でありましょう。ただ、長慶が氏綱に内応したのではありません。氏綱が長慶に従ったと見るべきです」

「ざ、戯れ言を申すな。三好は細川の家来だぞ、氏綱が長慶に従うことなどあるものか」

「もちろん、表向きはそのように見られましょう。長慶も氏綱を立てるくらいのことはします。ですが、実権を氏綱が握ることはありますまい」

それでは、これまでの氏綱の反乱とは何だったのだ。細川家の当主とは、長慶に牛耳られる程度のものなのか。長慶は、自分の配下に組み入れるために氏綱と長教を叩き潰したとでもいうのか。

「長慶が氏綱に養子入りする、細川の名跡を名乗る、なども考えられませんか」

内衆の一人が聞いた。確かに、権力を奪うには手っ取り早い方法だ。

「それはない。わしが思うに、長慶は家や血統による秩序を崩そうとしている。あいつは三好のまま、阿波の一守護代のままで、我らを滅ぼそうとしているのだ」

「……」

宗三の話を理解しようとしているうちに、また鼻血が吹き出した。紙を詰めたが、息がしづらく癇に障る。

「ええい、次じゃ。長慶はなぜお主をやり玉にあげる。彼奴の狙いはわしじゃろうが」

「長慶の狡猾なところです。殿を直接非難すれば、いき過ぎだと思う者も出てきましょう。出自の低いわしなら世間の納得を得やすい。殿のご威光が持つ力、侮られてはおりません」

「お主を差し出せば、長慶はわしを斬らぬとでも」

「その通りです。表立っては殿を責めない。それでいて、ゆっくり、ゆっくりと実権を奪っていく。野望を決して口にせず、静かに、なし崩しに、我らを袋小路に追い詰めるのです。長慶は権威を否定しながら、権威の恐ろしさを誰よりも理解している。九条家との婚姻もその証左かと」

背筋に怖じ気を感じた。華々しい戦果や治安の安定、商いの振興などで民の高い支持を得ながら、裏では人々の価値観を破壊していく怪物。気づいた時には、世は滅茶苦茶にされている。

「わしにもようやく分かってきた。……そのような狼藉、断じて許してはならぬ」

「仰る通りです」

「答えよ。わしはどうすればいい。どうすれば長慶を止められる」

宗三は六郎の表情を見て満足そうに頷いた。威儀を正し、一層大きな声音で返答する。

「生き延びられませ」

「なに」

「武田、今川、大内、大友。長慶より家格が高い者は皆、我らの味方になり得ます。殿さえご無事なら、その者たちが旗を見失うことはありません。義輝公と力を合わせれば尚更です」

「……」

「まずは六角です。公方と腹を割って話し合いくだされ。浅井や朝倉、斎藤に連名で使者を送るのもよいでしょう。六角が兵を送れる状況を作り出すのです」

宗三の言う通りだった。細川と公方がひとつにならねば、外敵の動きを抑え込まねば、六角は動けない。名将、六角定頼が鍛え上げた近江衆ならば、四国衆とも渡り合えるはずだ。

「しかし、策が成るまで一年はかかろう。それまではどうしたらよいのじゃ」

「……わしと宗渭が食い止めます。既に宗渭は榎並城に入っておりますが、あそこは防備も兵糧も万全、一年の籠城にも耐えられまする。更に、わしは淀川流域に張り巡らせた支城網を駆使し、敵兵の分散を図ります。長慶がわしを標的にしたことを逆に利用してやりましょう。わしを無視して、先に殿を攻めるのは名分に適いませぬ」

内衆たちが涙を流している。宗三がどれだけ兵を集めても、摂津で展開できるのは五千そこそこだろう。それに対し、長慶は四国・淡路だけでなく、河内や和泉からも兵を動員できるのだ。宗三は、六郎のために進んで犠牲になろうとしている。いつだって宗三は六郎の意向に従い、六郎の命を守ってきた。

「不忠者が蔓延るこの世の中で、お主はなぜそこまで」

「精一杯の忠勤を約束しました。殿が、わしの手を取って喜んでくれました。あの時の喜びと誉れを、一日たりとも忘れたことはありませぬ」

遂に、六郎もすすり泣きし始めた。替えがきかない家臣がいることを初めて思い知った。気づいた時には、その家臣は死地に赴こうとしている。

「死ぬな宗三。わしはお主に、まだ何も報いておらぬ」

「いいえ、殿から先に御恩をいただいたのです。今度はわしが、奉公に励む番です」

そう言う宗三も身震いをしながら呻き、涙を零した。内衆も泣いた。六郎も泣いた。いま初めて、細川家中は一体になったのである。

 

  *

 

長逸の護衛を伴って、輿は城から離れていく。

つい先日、夫婦で騒ぎを起こしたばかりである。西宮の民は二人の仲睦まじさを否応なく思い出して、涙を流さずにはいられなかった。沿道からはあまねの乗る輿に向かって、激励や慰めの声が引っ切り無しにかけられている。ある酒蔵からは、あまねの好んだ酒が贈られた。丹波に帰る侍女たちも、皆複雑な表情をしている。僅か八年間の婚姻生活だったけれども、彼女の人柄は確かに摂津の地に根付いていた。

「母上! 母上!」

千熊丸の泣き叫ぶ声がいつまでも続く。長頼とおたきに抱きとめられているが、千熊丸は驚くほどの力で脱出し、何度も輿を追いかけようとした。その声は、きっと輿の中にも届いている。

「よかったんでっか、これで」

長慶の心境を案じて、久秀が話しかけてきた。

「……他に道はない」

「殿が無理してたら、家臣も気が滅入りますわ。姐さんを掴まえといて、パッと波多野を屈服させたらええんちゃいますか」

丹波衆は甘い相手ではない。それに」

「私情で動く気はない、ちゅうんでっしゃろ」

「そうだ」

久秀が首を振った。何を言っても仕方ない、それでも言わずにはいられない。それがこの男の義侠だ。

「妻を失って、若殿を傷つけて。なんでそこまでできるんか、わいには全然分からへん」

「……」

「やもめ暮らしは、しんどいんでっせ」

「……だろうな」

「せ、せめて、わいらを家族やと思ってくれても、ええんやで」

「ああ、そうさせてもらおう」

長慶の素直な返事が予想外だったのか、久秀は顔を赤らめてしまった。そのおかしさに、無聊が幾らか慰められはしたけれど――依然、明日が来るのが恐ろしかった。あまねのいない明日が、明後日が、十日後が。久秀はまだ何か言おうとしたが、長慶の横顔を見て息を呑み込み、長頼を手伝いに行った。

 

千熊丸の荒れ方は不憫だった。

“ああ厭だ厭だ、大人に成るは厭なこと”。そんな悲しい言葉を言い放ちながら、手当たり次第に喧嘩を売って歩くのだ。知らぬ間に口も手も達者になっていて、面罵されて寝込む女や、手傷を負わされた男も出ていた。もっとも、大人たちは長慶の嫡子である彼に対して遠慮しているところが大きい。千熊丸の方も、本気になって自分に向かってくる者がいないことが余計に苛立つようだった。

長慶は千熊丸を自室に呼び出した。ふてぶてしい態度で座った彼を一瞥し、気迫をぶつける。怯んだ。そのまま膝行し、腕を上げる。――反射的に防御の姿勢を取った息子の頭を、柔らかく撫でてやった。

「ふ、驚きながらも己を失ってはいないな。重畳、重畳」

千熊丸の唇が震えだした。怒りか、口惜しさか。

「もう、母はいない。受け容れるのだ」

「嫌だ!」

即答した声は鋭かった。

「母上一人守れずに、何が天下だよ!」

「天下を正す。折り目も正す。こうするしかなかったのだ」

「分かんねえ! 分かりたくねえ! いいから母上を取り返してきやがれ!」

再び気迫を込めた。今度は殺気混じりだ。千熊丸の身体がびくりと揺らいだ。

「ふたつ、教えておこう。三歳を過ぎれば元服したのと同じだ。特に、城主の子はな……。七歳だろうが、民を慈しみ、家臣を大事にせねばならぬ。そうでなければ、まともに生きることすら難しい」

「……」

「そして、人に頼るなら自立してからだ。母が恋しいなら、まずは自分の力でなんとかしてみろ」

鼻が触れ合うくらいまで顔を近づけ、静かに、腹の腑に響くように伝える。そうして長慶は部屋を後にし、千熊丸を一人残した。襖の向こうからは、“畜生”とすすり泣く声が聞こえてきた。

 

続く