きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十五 藤葛の段  ――三好長慶 細川政権打倒の兵を挙げ、芥川孫十郎 六角先遣隊を粉砕す――

二十五 藤葛の段

 

長慶が軍を動かし始めた。摂津の周辺国人に威を示しながら兵力を糾合し、宗三・宗渭父子を討とうとしている。

その動きはすぐさま四国にも伝わった。持隆と之虎が治める阿波は落ち着いていたが、讃岐はそうではない。もともと香川家や寒川家が、十河家への反感を強めていた。香川家は伊予の河野氏に一層接近している様子だし、寒川元政に至っては遂に打倒十河の兵を挙げたのである。

一存も元政も、話し合いで事を治めるという発想はなかった。讃岐男は気性がよいと言われているが、大事なことは戦って決める気概も持っている。密室の議論よりも、男気と男気をぶつけ合う肉弾戦を信用しているのだ。だから、戦が終われば、恨みを残さないことが美徳とされている。敗者は勝者に従うし、勝者が敗者に厳しく当たることもない。

元政率いる千五百の敵兵に対して、一存は阿波や淡路へ援軍を求めることはしなかった。それどころか、自分もまったく同数の兵を組織し、先んじて寒川氏の所領(香川県さぬき市)へ攻め入った。この地は昔から古墳跡や大きな池が多く、展望がよい。一存は一際目立つ丘の上に堂々と陣を敷いた。元政も意気に応え、城から打って出てくる。

同行してきた康長が一存に問う。

「作戦は」

「ない! 正面突破のみ!」

「ははは、そう言うと思っていたわ」

敵の結集を待ってから、一存と白雲が駆けだした。康長たちも遅れじと後に続く。

「突貫!」

十河軍の強烈な突進に、敵陣が割れた。陣を突き破ってから反転、再び陣を切り裂く。それを何度も繰り返した。寒川の兵も粘り強く、逃げ散るようなことはない。それでも、勢いははっきりと差がついてきた。やがて乱戦になった。一存は馬上で飛鳥を振り回し、敵を寄せ付けない。勇気を奮って襲いかかってきた敵兵は、ひと呼吸も持たずに絶命していった。その間も康長たちが敵を次々と追い詰めていく。もはや趨勢は見えた。

「一存殿! 一存殿はいずこ!」

誰かに名を呼ばれた。あの声は。

「一騎打ちを所望いたす!」

寒川家に仕える兄のもとに戻った、鴨部源次だ。いた。なかなか崩れない固まりの中心に源次がいる。康長たちの攻撃に耐えながら、懸命に一存を探していたらしい。

「応!」

地割れのような大音声で返事し、白雲をゆっくりと進める。味方も敵も、動きが止まった。一存と源次の一騎打ち。皆、見守ろうという腹である。自然、二人を残して円い空間が出来上がった。下馬して、一存が言った。

「兄はどこだ。もう死んだのか」

「待て、待て! ここにいるぞ!」

後方から駆け寄ってくる者がいた。

「神内左衛門にござる!」

いい面構え。源次と同等以上だろう。飛鳥を握る手に脈動を感じた。

「上々だ。二人で掛かってこい」

「か、感謝いたす!」

弟の源次。

「恐悦至極」

兄の神内左衛門。

(いいものだな、兄弟とは)

束の間、そう思った。交わした会話はそれだけだった。

左右から兄弟が突っ込んできた。飛鳥の一振りで二本の槍を弾く。兄弟は挫けない。何度も、何度も向かってくる。ときには前後から、ときには連続で。がりん、がりんと槍が組み合う音が続いた。二人の波状攻撃を、一存はすべて見切っていた。

「はあ!」

飛鳥、烈火の如き一閃。神内左衛門は皮一枚のところで身をかわしたが、源次は反応が遅れ、胸の肉が千切れ飛んだ。水芸のように血が吹き上がり、ゆっくりと身体が崩れ落ちる。そこからの神内左衛門が見事だった。死にゆく源次に一存が一瞬目をやったところに、躊躇なく飛びかかってきたのである。今度は一存の反応が遅れた。熱。身体の中から溢れたのか。遅れて、痛み。左腕を神内左衛門の槍が貫いていた。

確かな手応えに、神内左衛門の瞳が燃えている。一存の手から飛鳥が落ちた。

(――よい敵)

一存は豪快に高笑いを始めた。右手で神内左衛門の槍を掴む。抵抗をどうともせずに槍を引き抜いた。そのまま体当たり気味に蹴りを喰らわせる。堪らずに神内左衛門が槍から手を離した。その喉笛を狙い、槍を突き刺す。血泡。神内左衛門の身体から力が抜けた。その身体を右手一本で持ち上げ、源次の上に放り投げる。折り重なった兄弟の周りに赤い水たまりが広がっていく。

敵も味方も、一言もない。足を動かすことすらできない様子だった。

「おい」

一存が味方に向かって声をかけた。

「白雲の背から、革袋を取ってこい」

腰が抜けかけた従者が、言われた通りに持ってきた。革袋の中には塩が入っている。掌いっぱいに取って、無造作に傷口に擦り付けた。思いの外痛かったが、顔には出さない。むしろ、笑い声が漏れた。それから腰に巻いていた藤葛で、きつく傷を縛った。

「――よし」

落とした飛鳥を拾って、両手で構える。

「むうん!」

旋風が起きた。いつもと何も変わらない。いまだに固まっている敵兵に向かって吠えた。

「次、三途の川に沈みたい奴! 前へ出ろお!」

しばらく待ったが、鴨部兄弟ほどの勇者はいないらしい。誰もが、いまが戦場であることすら忘れている。

やがて、寒川元政から降伏の申し出が届いた。

 

  *

 

摂津国人の多くが味方に付いた上に、河内からは遊佐長教が参陣している。宗三の味方は摂津では伊丹親興くらい、その他は和泉で小勢が抵抗しているくらいだった。頼みの六角家は浅井や斎藤の動きが気になるのか、未だ南下の気配はない。丹波の波多野晴通も、内藤氏らの反六郎派を封じ込めるので精一杯の様子だった。

しかし、肝心の宗三・宗渭父子が手強かった。宗渭の籠る榎並城は、宗三が長年の時をかけて築き上げた名城である。淀川水系の複雑な流れを幾重の堀としており、まず、攻め入る口が限定されてしまう。その上、複雑に土塁や出丸が張り巡らされていて、力攻めを行ってもこちらの被害が増える一方だった。城中には井戸が引いてあるし、兵糧も万全に備えてあるようだ。

証如は石山御坊の改築を行う際、宗三の助言を受けたという。それほどに宗三は淀川流域の地勢に精通していた。本城の榎並城を宗渭に任せ、自身は神出鬼没の動きを見せている。長慶たちの背後を突いたかと思えば、翌日には兵糧を強奪していたりする。正面切っての会戦は挑まずに、粘り強く消耗を誘おうとしている。索敵を強化したが、無数にある中州の葦の陰にでも潜んでいるのか、まるで手がかりは掴めなかった。

「かつて氏綱の戦法に文句を言っていたが、いまはそれを使いこなしている」

榎並城を遠巻きに囲っている陣地で、長逸に向かって漏らした。

「いいと思ったものは取り入れる男でしたな」

「我慢競べをするしかないか」

「敵は六角を、こちらは四国衆を温存している。条件は同じです」

戦況は、各地の小競り合いから進んでいない。長慶は榎並城を緩く包囲しながら、伊丹城大阪府伊丹市)や淀川流域の支城、砦の攻略に兵を分散させている。厄介なことに、伊丹城も世に聞こえた名城なのだ。広い城域を堀と土塁で囲み、中心には階層建ての櫓である“天守”を築いている。親興は時勢に乗るのは下手だが、築城については名人だった。

兵は総数で一万程度、向こうは五千程度に過ぎない。氏綱と長教を追い詰める際に、相当の戦費を費やしていた。次の戦機が熟す前に、再び二万の四国衆を上陸させるのは難しい。讃岐では寒川氏が六郎に呼応するなど、四国も完全に落ち着いている訳ではなかった。

四国兵の主力である阿波衆は、六角来襲までは呼び寄せないつもりだ。之虎ならば鮮やかな戦法で敵を封殺するかもしれないが、この戦は自分の力で決着をつけるべきである。

「長い戦になるとな……」

「若殿のことが気になりますか」

「分かるか」

「ただただ、大器ですな。殿というより、爺様……之長様に似ています」

「実は私も、そんな気がしていた。曾祖父に会ったこともないのにな」

あれ以来、千熊丸は不気味なほど勤勉になった。土地の訴状や税の計算に興味を示したり、長頼に習った侠客武芸に打ち込んだり。長慶自身も元長直伝の鍛錬に付き合わせたが、意外なほどの身体のばねに驚いたものだ。

いまは、越水城に残った基速とおたきが面倒を見ている。池田家が一族の子を人質に差し出してきたので、その子と遊んだりしているのだろうか。人質を求める気はなかったが、池田家は一族全員が池田城に籠っているよりもよいと考えたようだった。結果、他の国人衆からも人質差出の申し出が相次いでいる。

「失礼。長慶殿はおられるかな」

遊佐長教が陣幕の中に入ってきた。長逸が気を使って離れた床几に腰を下ろす。

「ああ、長教殿。お呼び立てして申し訳ない」

「構わぬよ。して、何か用でも」

この老人からはいつも独特の臭気が漂っている。梟雄というあだ名が醸し出す匂いなのか、大勢の人を犠牲にしてきた呪怨の匂いなのか。

「端的に申しましょう。あなたと、婚姻同盟を結びたい」

「……うん?」

「あなたの娘を後添えに貰いたいのです」

「む、いや待て。光栄なお申し出だが、わしには独り身の娘が残っておらん。養女を――」

「ふふ、形だけのことですよ。世間に、そう喧伝できればよいのです」

「……は。なるほど、縁談話が引きも切らないという噂は本当のようだな」

「難儀していまして」

あまねと離別して以来、既に十件を超える話が届いていた。どの相手も立場がある人物だから、無下に断るのも難しい。河内を支配する遊佐長教との縁組ならば、誰もが納得する。長教には利益しかない。もちろん、長教に適当な娘がいないことも調査済だ。

「喜んで承ろう」

「感謝しますよ、義父上」

遊佐長教を義父と呼ぶのは、若干の抵抗がある。それでも、あまね以外の女を娶るよりはましだった。

長逸は腕組みをし、何も言わずに目を閉じている。波多野稙通やあまねと仲がよかった長逸に、これでよかったかと聞いてみたかった。しかし、それを口にするのは野暮である。

 

  *

 

長慶が六郎・宗三に戦を仕掛けて、既に半年以上が経過している。

天文十八年(1549年)の晩春。芥川孫十郎は西国街道を進んでくる六角軍を遠目に見ながら、これまでの戦の推移に思いを馳せていた。

 

摂津衆の大半や遊佐長教が味方に付いた以上、長慶の優位性は明らかだった。だが、宗三と宗渭は驚くべき辛抱強さを見せて、いまも健在である。伊丹城も落ちてはいない。数では圧倒している長慶軍が、攻め手を欠いている状態だった。年が明けてからは淡路衆と讃岐衆が援軍に駆けつけたが、真っ向勝負を徹底して避ける宗三・宗渭父子に対してはあまり効果が上がっていない。

孫十郎は、長慶に付くか、六郎・宗三に付くか、決めることができないでいた。そうこうするうちに六郎と公方が六角家を口説き落とし、とうとう六角家の先遣隊が京を発ったという知らせが入った。六角は西国街道を下ってくる。つまり、芥川山城の前を通るということだ。もはや逡巡することは許されない。

そんな孫十郎のところへ、松永久秀と野口冬長が現れた。二人は、堺の田中与四郎という商人の他、立派な豚のつがいを連れてきていた。久秀は言った。

「この与四郎殿が仕入れた、九州は薩摩の食用豚でっさ。うちの殿さんからの、ささやかな贈りもんだす。知ってまっか、九州人はけっこう喜んで豚を食べるんやて。“歩く青物”ちゅうて戦にも連れてくそうですわ」

“ばい”と豚が返事をした。

島津忠良様から特別にお譲りいただきました。飼育法を学んだ者も追って到着します」

商人から説明があった。堺の商人というくらいだから、南海貿易の伝手もあるのだろう。

つがいの豚。これで、いつでも黒飯を食べられましょう。そう言う長慶の顔が目に浮かぶようだった。

「ふはは、くははは。分かった、分かったよ。お主たちに味方する。長慶にそう伝えてくれ」

「お、おおきに!」

久秀と与四郎が弾けるように喜んだ。この豚を手に入れるのも、そう簡単ではなかったはずだ。

「ほなら、わいらはここで。さっそく殿に報告へ上がりまっさ」

「俺はこのまま残って、加勢させてもらうよ!」

野口冬長が頼もしげに言う。以前、この城の奪還にも協力してもらったことがあった。防衛戦となれば、淡路衆の弓矢の力はありがたい。

「よし。すべてよし。六角軍はもう近くまで迫っている。帰るなら早く帰れ。冬長は守りのすり合わせだ」

そうして、孫十郎は旗幟を明らかにしたのだった。

 

奇襲と弓矢。これが、名高い六角軍精鋭の真髄である。

六角家は甲賀との距離が近く、その地侍たちを多く雇っている。彼らは思いもかけぬ経路から敵に襲い掛かり、城を落とすことができた。また、六角家の侍は皆、日置流弓術の鍛錬を積んでおり、その威力は近隣諸国で並ぶ者がないという。京、江北、美濃、様々な土地で六角家は恐れられている。

しかしそんな六角軍も、孫十郎が守る芥川山城には歯が立たなかった。

天然の要害である芥川山城は、そもそも極めて守備力が厚い。三方を断崖に囲まれ、どんな異能の者でも攻め口は東側しかなかった。細川氏綱の大軍に立ち向かった時も、孫十郎は数箇月も持ち堪えることができたのだ。加えて、芥川山城を取り返す際に安宅冬康の強弓を目撃している。あれが大きかった。冬康が氏綱軍を射殺した場所を孫十郎はすべて覚えていて、奪還後、その付近の防備を一層強化していたのである。

より深く掘り下げた堀切、より高く積んだ土塁が、六角軍の弓矢を寄せ付けない。敵の大将も相当の手練れだが、相手が悪いと言う他なかった。昼間は芥川山城を攻めあぐね、冬長率いる淡路衆の弓矢で多数の被害を出した。そうして何日か経った後、地勢を知り尽くした孫十郎が夜襲を仕掛けたのである。孫十郎が振るう金縁の軍配に従って、配下は充分な働きをした。遂には孫十郎自身の率いる小隊が、敵将の首を獲るに至った。

「近江朝妻城(滋賀県米原市)の主、新庄直昌……か。氏綱との戦がなければ、負けていたのはわしだったかもなあ」

「冬康義兄貴並の弓矢だったね」

「ああ。こんな奴がごろごろいるなら、六角家とはもう戦いたくないな」

「と金殿にしては気弱な」

「がっはは、わしとて怖い時は恐いわさ」

敵将の遺骸は丁重に弔い、首は捕虜と共に長慶のもとへ送った。長慶は六郎の内衆として奉行勤めをしていたことがあるから、六角家臣にも詳しいはずだ。

この戦いで、孫十郎の武名は更に高まった。そのことについては満足している。

 

  *

 

戦の流れに、何か変化があったらしい。

十日ほど前には、六角が遂に動いたとかで家中が盛り上がっていた。それが、今日は逆に意気消沈している。女中に紛れた琴が、“六角の先遣隊が芥川で壊滅した”と囁いてくれた。琴はあまねの傍にいながら、いまでも長慶と連絡を取っているのだろうか。

六郎方の戦略は、六角軍が到着するまでひたすら耐え忍ぶ、というものだったはずだ。いままでは上手くいっていた分、士気の消沈が激しいのだろう。晴通も城内をうろうろしては、家臣や女中の区別なく怒鳴り散らしていた。

越水城から戻ったあまねは、八上城の奥まった部屋に籠りきりである。子を産んだことがある女、しかも、あの三好長慶の妻だった女ということで、再婚の話はたくさん届いたそうだ。それも、あまねが断る前に兄が断ってくれていた。晴通は、あまねを再び政争の具にするつもりはない、と言った。その言葉に甘えて、毎日写経だけをして暮らしている。父母の成仏、兄の成熟、長慶の成功、千熊丸の成長……何万字の経を写しても、願いや祈りが尽きることはなかった。

「入るぞ」

晴通だ。声色だけで何か用事のあることが分かる。離れて暮らしてはいたが、兄妹は兄妹のままだった。

「何か、あったの」

「少しまずいことになった。しばらく、永澤寺にでも身を隠していろ」

「どうして」

「京から摂津に至る道はすべて長慶の手に落ちている。力ずくで突破するはずだったが、それも難しいことが分かった。これからは六郎様も六角軍も、丹波経由で摂津へ向かうことになる」

「……」

晴通の役目が、より重くなるということだ。内藤氏など、六郎方に反目している国人も多い。父の稙通亡きいま、晴通の力で丹波の通行を守りきらねばならない。見晴らしのきかない丹波では、進軍の安全を請け負うことは何よりも難しいのである。

「六郎様のご気性はご存じだろう。お前の存在に気づけば、何を言い出されるか分かったものではない」

晴通は晴通なりに、妹の無事や幸せを考えてくれている。

「……分かった。そうする」

「おお、そうか。ならば、明日には出発するようにな」

「兄上」

「なんだ」

「あたし、髪を下ろそうと思うの」

晴通の開いた口が、塞がらなくなった。

「もう、このままじゃいられないし……」

「ま、待て、待て。落ち着け」

「待たない。兄上には、子どもと引き離された母の気持ちなんて分からないでしょう」

「いいや、待つのだ。お前の気持ちも分かる。だからな、せめて戦が終わるまでは待ってくれ」

兄は、自軍の勝利を、細川家の威光をいまも信じている。長慶が敗死すれば、あまねもいずれ正気を取り戻すと考えている。それから、真っ当な男に嫁げばいいとでも思っているのだ。

あまねは違っていた。戦のことは分からないが、長慶が負けるとは思えない。この八上城だって、いずれ長慶の手に落ちるかもしれない。そうなればあたしは、惨めな女として長慶に対面することになる。後妻を迎えたかつての夫に慈悲を請うことになる。一生一度の恋に、そんな散り様は必要ない。

「戦が終わるまで、ね」

「そ、そうだ。落ち着いてから、ゆっくりと話そう」

「……」

何でも分かり合える兄妹でも、すれ違うことはある。元が他人の夫婦ならば、尚更そうだ。離し離され、揺れて揺られて……。人は皆、結局は一人きりなのだろうな。

話はおしまいとばかりに、あまねは再び筆を手にした。晴通は不安そうに妹を見つめていたが、そのうちに諦めて出ていった。

 

  *

 

孫十郎の活躍で、戦の潮目が変わりつつあった。

わざわざ丹波を経由せねば、戦場には辿り着けない。敵がそう観念するしかないほど、孫十郎の戦果は大きかった。討ち取った新庄直昌は六角軍の中でも大物だったのである。他の者でも、芥川山城を抜くのは難しい。六角全軍を挙げて芥川山城に攻め寄せても、すぐには開城に至らない。その間に、宗三が死んでしまうかもしれない。こうなっては、六郎や六角軍は丹波の山域を歩くしかなかった。

「攻めるなら、いまだな」

藤が咲き乱れる、春日神社大阪府大阪市)の境内。

長慶は主だった諸将を集めて軍議を開いていた。

「応! 待っていたぜ!」

一存が嬉しそうに叫ぶ。昨年左腕を怪我したが、いまではすっかり回復している。快気祝いに暴れたくて、うずうずしているのだろう。

「――して、どの地を」

冬康が冷静に質問してきた。宗三の居どころは未だに掴めていない。幾つかの支城や砦を落としたが、宗三の奇襲は止むことがなかった。そのことが、味方の厭戦気分を生んでもいる。

「この戦は、宗三を確実に始末することが肝心だ」

一同が頷く。細川政権は、六郎の威光と、宗三の並外れた手腕によって成り立っているのだ。

「これまで、宗三は我々の嫌がることを確実に成し遂げてきた。我々は目標を絞りきれずに、兵力を分散させるしかなかった。戦線が伸びたところに、宗三は要所要所で襲いかかってきた。まこと、淀川は宗三の庭であった」

宗三の奇襲で負傷している者もいる。誰もが、強烈な反撃を喰らわせたいと思っていた。

「孫十郎がよい仕事をしてくれた。六角が遂に動いたが、本隊が到着するにはまだ時間がかかる。宗三は焦っているはずだ。ここで、今度は我々が宗三の嫌がることをしようと思う」

「つまり」

長逸が先を促した。

「全軍を集結。榎並城の宗渭を討つ」

全員から喜びの声が漏れ出た。さしもの榎並城も、いまでは少しずつ防備が剥がれてきている。城内の兵も疲労が溜まっているはずだ。いま総攻撃を懸ければ、少なくとも宗渭の首をあげることはできる。誰もがそう思う。ならば、宗三がどう動くか。

(我ながら、残酷なことをする……)

罪悪感はない。それよりも、行き着くところに近づきつつあるという実感が強かった。

 

一同が散って行った後、長慶は少数の供を残して藤に見入っていた。薄紫の花色は嫋やかに美しく、地に届くほどに長い花房は小袖をまとった姫君のようだった。

 

むらさきの ゆかりならぬと若草や 葉すえの露のかかる藤原――

 

歌が口をついて出る。

長慶も宗三も所詮はひと雫の葉露なのかもしれぬ。この戦の末にどんな花が開くことになるのか、それは誰にも分からない――。

拝殿の近くに腰かけて、そんなことをぼんやりと考えていた。

そうしているうちに、どこからかよい匂いが漂ってくる。

「少し、疲れているのではないか」

康長だった。よい匂いの元は飴湯である。麦芽糖と生姜の匂いが混ざり合い、喉の渇きを思い出す。

「まあ、飲むといい」

言われるままに、器を口に運んだ。温かい。とろみのある黄金色の液体が少しずつ喉と身体に満ちて、揉み解すように元気を与えてくれる。吐息までが甘い。忘れかけていた色々なもの、芝生の景色、父母、少年時代……、そういったものが飛来したように思えた。

「……うまいです」

「そうか、それはよかった」

康長が微笑む。

「疲れるよな。戦も、政も」

「百戦錬磨の叔父上とも思えない」

「事実よ。人は、生きている限り疲れるものだ。真面目に生きておればなおのこと」

「……」

「若いうちは無理もできる。傷に塩を塗って、藤葛で誤魔化すようなこともな」

「ふ、ふふふ。聞いた時は笑いました」

「でもなあ長慶。お主の父は、素直につるぎ殿に甘えていたよ。それからまた、よく働いた」

戦のことだけを言っているのではない。長慶の暮らしすべてがこの叔父には気がかりなのだった。

「お主の才は我々凡人の及ぶところではない。だから、過度な期待もしてしまう。どれだけ優れていても同じ人間、疲れないはずはないのにな」

「叔父上、私は」

「お主は光芒のようだ。人々の期待を、祈りを背負っている。だからこそ、わしはお主が人であることを忘れないでいようと思う」

康長の言葉は、長慶の胸を打った。疼くものがあった。

「……叔父上」

「はは、話し過ぎた。わしの方こそ疲れているのかもな」

「宗三も、同じでしょうか」

「……ああ、そろそろ楽にしてやろう」

「あの男も一筋の光、英知の光です。あの悲しい命を、天に還してやらねば――」

長慶も微笑んだ。その顔を見た康長は、潤んだ目で器を握りしめた。

 

  *

 

長慶が動き始めた。

わざわざ、榎並城が標的であることを喧伝している。お蔭で、宗渭たち城兵が覚悟を決めるだけの時間は充分にあった。兵糧はまだまだある。負傷している者は多いが、兵もほとんど減っていない。幾つか防備は崩されたが、榎並城の威容は些かも損なわれていない。

(これなら、あと半年は戦える)

それだけ粘れば、六角本隊は確実に摂津へ雪崩れ込む。騒ぎに乗じて宗三が逃げ落ちることもできる。そのために死ぬことは、宗渭にとって本望だった。長年宗三・宗渭父子によって育まれた兵たちも、まったく同じ思いである。六郎と宗三さえ無事ならば、必ず最後には細川家が勝つ。自分たちの死は、未来永劫の栄誉に包まれる。誰もがそう確信していた。

自分はよい息子ではなかった。

父が家にいないという理由で世を拗ねて、母から銭を無心し、悪所で放蕩三昧を尽くした。

宗三が六郎の勘気を受けた時も、母が心の病を得た時も、宗渭は家に帰らなかった。

立ち直ることさえ、他人頼りだった。芥川孫十郎の鉄拳で、ようやく一人前の男にしてもらったのだ。

(最期に、父の役に立てるなら)

借りてばかりの人生を、清算できる気がする。

(俺の戦は孫十郎殿直伝だ。芥川山城が六角を跳ね返したなら、榎並城だって長慶を防げるはずだ)

自分のすべてを、投げ打つことができる。

「来るなら来やがれ! 三好長慶、何する者ぞ!」

兵の前で叫んだ。途端に喊声が湧き上がる。兵たちが求めていたのも、まさに宗渭の決意ひとつだったのである。叫びあい、吠えあうことが覚悟の共有に繋がった。

 

長慶の総掛かりは熾烈を極めた。

遠巻きに包囲していたこれまでとは違い、一日に攻めてくる回数も、一回当たりの兵数も、三倍以上になっている。鳴り物衆の大音量は頭が割れるようで、まともに眠ることもできなくなった。それでも宗渭たちはよく守り、ときには夜襲まで仕掛けた。十日過ぎても二十日過ぎても士気に衰えはない。

「あと、ほんの百五十日これを続けるだけさ」

戦いの合間には、そう言って兵たちと笑いあった。

少しずつ死人が増えている。宗渭が陣頭で鼓舞し、兵の減少をなんとか補った。矢の蓄えが減ってきたから、敵陣を奇襲して武器を奪うようなことまでやった。まだまだいける。あと、百四十日。

宗渭も兵も、顔つきが明らかに変わってきている。その姿は飢えた山犬に似て、唸り声すら発していた。牙が生えていないのがお互い不思議なくらいだ。いまなら一匹で五人は殺せる。そう考えるようになった時、長慶たちが兵を退き始めた。

「勝った……のか?」

鯨波が上がったが、長くは続かなかった。何が起こっているのか、伝令が掴んできたのである。

「報告! 宗三殿が江口城(大阪府大阪市)に入城いたしました! 長慶軍も向かっております!」

――馬鹿な。なぜだ。なぜなんだ、父上。

膝を地につけた宗渭は、それ以上何も考えられなかった。

 

続く