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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十六 ウツロの段  ――安宅冬康 江口城を陥落せしめ、三好宗三 命を全うし天に還る――

二十六 ウツロの段

 

宗三は、最後の最後で己を曲げた。六郎の家臣でいることよりも、人の父親であることを選んだのだ。

限界状況に入った宗渭と榎並城を見捨てることができなかった。姿を現した宗三が入城した江口城は榎並城の一支城に過ぎない。榎並城が充分の戦力を有していて初めて活きてくる城なのである。防備の点では榎並城に比ぶべくもなく、兵糧の蓄えもほとんどないはずだった。

「そうは言っても、三方を淀川に囲まれている。攻めるには難しい地勢だな」

遊佐長教が呟く。悠長に兵糧攻めをしている時間はない。六角義賢は既に丹波に入っている。長逸と長頼を牽制に向かわせているが、六角と六郎が合流した大軍をいつまで支えきれるかは分からなかった。

「……力ずくで落とします」

「簡単に言ってくれる。犠牲を増やせば、せっかくの人気も傾いてしまうぞ」

「確かに、一箇所しかない城門を攻めては苦戦を免れません。ならば」

怪訝な顔を浮かべる長教を余所に、長慶は笑みを浮かべている。

「どういうことかな、婿殿」

「川を大地に変えてしまえばいい。宗三の尻尾を掴む、この時を待っていたのです」

そこまで話した時、陣幕に冬康が入ってきた。

「慶兄。準備が整いました」

「うむ。やってくれ」

「はい」

それだけを交わして、冬康が去っていく。長教はまるで要領が呑み込めず、不満そうだった。

「いまのは、安宅冬康殿かな」

「ええ、実に頼りになる弟です」

一存のような素人目に分かりやすい戦功はあげていないが、長教のような男には冬康の脅威が充分に分かっているはずだ。舎利寺の戦いの際、熊野水軍による索敵をかわして、四国・淡路衆を安全に上陸させたのが冬康だった。長慶の財務基盤である瀬戸内交易を支えているのも安宅水軍である。野戦では強弓を以て敵陣の勢いを殺す。平時では打てば響く人柄を誰もが慕う。まこと、冬康は三好兄弟の要であった。

「まずは成り行きをご覧くだされ。一見の値打ちはありましょう」

「……」

天神祭までには片を付けるつもりです。そうすれば、民も喜ぶ」

不敵に微笑む長慶を前にして、長教は困惑している様子だった。偽りの婚姻で結ばれたいま、長慶の活躍は長教にとっても望ましいところだ。だが、自分の権勢を守るためには長慶の首に鈴をつけておきたい。そう思って長慶を値踏みしているが、どう見積もっていいか分からない――。

心の動きが透けるようである。人間臭い、あまりにも人間臭い舅であった。

 

水面が揺らぎ、きらりきらりと水飛沫が舞い散る。艪の音、舳先が水面を切る音が重なり合い、驚いた水鳥たちが逃げていく。

淀川を何百艘もの川舟が遡上してきた。夏の日差しを照り返していた水面が木の舟板で埋まっていく様子は、戦というより祭や催しのようだ。安宅水軍が畿内中、四国中から集めてきた川舟は数珠繋ぎになっていて、それが江口城を幾重にも取り囲んでいく。城兵たちも櫓などに登ってこの様子を眺めていたが、防ぐ手立てはない。多少の弓矢が放たれたが、すべて安宅衆の盾に阻まれていた。

やがて、江口城は完全に封鎖された。もはや陸にも川にも安置は一切ない。しかも、川舟の上に板を敷くだけで搦め手を攻める舟橋ができあがるのだ。

「完成です。名付けて“かんどりの陣”」

「ふふ、それはいい。いくら宗三が淀川の主であろうと、我らとて吉野川を遊び場に育ったのだからな」

今日も冬康は平然としている。大仕事を成し遂げた男の顔というより、この壮大な光景を見物に来たかのような風体だった。

「鳴り物衆を舟に乗せては如何ですか。四方から音を鳴らされれば、城兵はさぞ苦しいことでしょう」

「意地が悪いことをよく思いつく」

「この戦は天下の趨勢を決める祭です。祭ならば、賑やかな方がいい」

ふざける子どものように、二人して笑った。

風が出てきた。雲が西から東に流れていく。

今頃、長教は川の景色が一変したことに驚いているだろう。宗三はどうだろうか。見つめるは川か、雲か。城兵を鼓舞しているかもしれない。秘蔵の茶器を眺めて、心を落ち着かせているかもしれない。

「宗三が降伏してくることが、あると思うか」

「……ないでしょう」

「惜しい、と思ってはならぬのだろうな」

「長教や氏綱すら従えた慶兄です。むしろ、らしい」

「お前は優しいな、冬康」

三日、待ってみよう。甘いと言われても仕方がない。ここでわだかまりを乗り越えられれば、人の歩みが五十年は早まる気がする。そんなどうしようもない空想に、自分が憑りつかれているのが分かった。

 

  *

 

ようやく出陣にこぎつけたものの、兵の士気はすこぶる低い。

新庄直昌隊の壊滅が後を引いているのは明らかだった。六角家としては公方と細川家に義理が立てばいい訳で、有能な家臣を失うような賭けをする意味はない。三好長慶を討ったとしても、彼の領地は摂津や四国であり、近江からは飛び地である。深入りしてもつまらない戦だから、ほどほどで引き揚げてこい。

義賢は定頼からそう説かれていたし、兵たちも同じ思いらしい。もともと参戦を唱えていたのは義賢一人だった。家臣も雑兵も大名として崇めているのは定頼の方であり、義賢の主戦論はずっと無視されていた。定頼がようやく首を縦に振ったのも、義輝公や六郎から度重なる要請を受けたからだ。京の権勢をあまりに無視しては、それはそれで面倒事が増えるのである。

父の定頼は偉大な男だった。偉大過ぎることが、義賢の悩みであった。

祖父、高頼の代に悪化した公方との関係を修復。畿内の支配者である細川六郎と縁組。近頃では台頭著しい浅井家を従属させた。土岐氏を追い出した斎藤家には圧力をかけ続け、美濃はいまも国内が纏まっていない。自領においては観音寺城滋賀県近江八幡市)の拡張を進め、寺院建築の技術である石垣を取り入れるなど“魅せる城”づくりを推進。商業振興策として“楽市令”を発し、法華の乱などで京から逃れてきた町衆を統制下に置いた。

父の成した事業はどれを取っても栄光に彩られている。近江の国人衆や民にとって、父は自慢の君主なのだ。その定頼と意見が合った試しのない義賢は、いつも誰からも侮られていた。口惜しいあまり、弓の腕だけは徹底的に鍛えた。幸い、才には恵まれていたらしい。日置流の弓術では随一の使い手になれた。これで、戦では父を超えることができると思った。

だが、現実は違っていた。父の采配にはよく従った兵たちが、義賢の指揮下では動きに精彩を欠いた。周辺国人とのささやかな戦でも、義賢はなかなか戦果をあげられなかった。大将の武勇が優れていようが、兵の心を掴んでいなければ戦には勝てないのだと、何度目かの敗北でようやく気づいた。

いつしか、義賢は人を見る時、その父と比較する癖がついていた。

足利義輝は、義晴の思いをよく受け継いでいる。才気も盛んで、義晴はいつも頼もしげに息子を眺めていた。それは、義賢の知らない父子関係だった。

六郎には親近感を覚えた。彼の父親がどういう人物かは知らないが、以前の細川家当主、高国からは明らかに器量が劣ると評判だったのである。

いま、世話になっている波多野晴通とも仲良くできそうだった。彼の父、稙通は丹波国において、まさに定頼と似たような活躍をしてきたらしい。跡を継いだ彼は、どう見ても国人衆の統御に苦労していた。

そして三好長慶。彼の父も有名な男である。義賢が子どもの頃、義晴や高国が近江に落ち延びてきたことがあった。あれは長慶の父、三好元長が首謀したことだという。その頃は元長、宗三、稙通などが一緒に戦っており、畿内では彼らに敵う者がいなかった。高国は定頼や朝倉宗滴を招いて対抗しようとしたが、あまりよい結果には至らなかったようだ。

長慶は、その父をも超える大器だという。更に、公方の奉公衆や六郎が言うには、家格や血統による秩序を否定し、才覚さえあればどんな人物でも重用するような男だという。松永長頼という武将も、もとは色町の用心棒だったという噂だ。いまも、長慶の腹心である三好長逸と共に摂津との国境に陣を構え、六角軍を足止めしようとしている。それぞれが長慶軍を代表する名将だから、家臣たちはますます進軍を嫌がるようになっていた。

家格による統制がなくなってしまえば、血統による跡目相続が認められなくなれば、義賢のような男は近江で生きられなくなるだろう。長慶のやっていることはあまりにも危険だった。大名だろうが国人だろうが、才覚に乏しい者はどこにでもいる。それでも、家柄や正嫡という建前があるから世が治まっているのだ。

(才覚など、二代も三代も続くことはない。わし自身がそうだもの)

人は、理屈抜きに下剋上を拒絶する。戦や揉め事など、本当は誰も望んでいない。貴種が悲惨な目に遭えば、よく分からずとも涙を流す。建前の秩序でも、人々が望んでできあがった仕組みなのである。

(何が理世安民じゃ。あの男は、本音のところで弱者に冷たいに違いない)

義賢は、真剣に長慶を討伐するつもりだった。あのような人間を放置しておけば、国人や民に悪影響を与える。“我も、我も”という者が現れてしまう。定頼がそうした危機感を抱かないのは、定頼自身が有能だからだ。

「準備はできたか! 進発じゃ!」

八上城の大曲輪で義賢が吠える。兵たちも嫌々ながら腰を上げ始めた。江口城へは、急げば二日の距離である。六角軍が摂津に侵入すれば、長慶に従っている摂津国人も掌を返し始めるはずだ。

「兵糧は積んだか。山道じゃ、荷駄の扱いには気をつけろよ!」

長慶の陣を突破し、江口城へ搬入する必要がある。兵たちが荷駄を指し示した。兵糧は厳重に管理され、人馬も充分な頭数が用意されているようだ。晴通からも手厚い提供があったと聞く。

「よし、よし。――ん?」

兵糧の周りに、蝶が舞っていた。一匹、二匹、三匹。数が次々と増えていく。

「あの蝶、何か変ではないか」

「は……、確かに、どこか……」

供回りがそう答えた途端、蝶の群れが飛来してきた。

「おい! その蝶を追い払え!」

義賢の怒鳴り声で、荷駄隊の者たちもようやく異変に気がついたらしい。棒を振り回して追い散らそうとした時、蝶が光に包まれた。光の塊が宙を泳ぎ、やがて赤みを帯びて火の玉に変容する。

「あっ……?」

蝶の群れは、たちまち渦巻く火焔に変わった。兵糧が、陣地の建材が、瞬く間に焼かれていく。

消火を指示することも忘れて、義賢は呆然と火柱を見上げていた。駆けつけた晴通が何か叫んでいる。今更何を言おうが、進発が遅れることは間違いなかった。

 

  *

 

放っておいたら、長慶自身が江口城に入っていきかねなかった。この期に及んで宗三の助命など、敵も味方も納得するはずがない。甘いとか慈悲とかとは違う。やはり長慶は、どこかがおかしいのだ。

白旗を掲げた久秀は、意外にもすんなりと城中へ通された。それどころか急ごしらえらしい粗末な草庵に案内され、敵将、宗三と相対する機会を与えらている。

宗三を待っている間、久秀は気が気でなかった。追いつめられた敵兵がいまにも闖入してきて、久秀を膾にするのではないか。手を上げるのではなかったと、畳の上で小さくなって震えていたのである。ところが、宗三その人は悠々と小屋に入ってきた。

「お、お目見えが叶って光栄だす。わいは、三好長慶が家臣……」

「ああ、よいよい。用向きだけを話してくれればよいのだ」

口上を遮られたものの、冷たい印象ではなかった。直接話すのは初めてだが、宗三とはこれほどに超然とした男だったのか。それとも、これは死を間近にした者が纏う静けさか。

「へ。ほんなら、単刀直入に申し上げますわ。宗三はん、うちの殿さんに降りなはれ」

「そんな話を、わしが受けると思うか」

「……思わへん」

宗三がおかしそうに顔を歪めた。

使者にしては素直過ぎる。それなら、なぜ貴公はここに来たのだ」

「……殿がそう望んでるからや。主のやりたいようにさせたるんが、家来の矜持ちゅうもんやろ」

「ほう、なかなか言うではないか」

話しながら、草庵の片隅で宗三は炭を用意し始めた。よく見れば、茶釜や水指なども並べられている。どうやらこの貧乏臭い小屋は、茶湯座敷を兼ねているようだ。

茶の湯は知っているか」

思いがけない歓待だった。宗三の腹の内はまるで読めないが、こうなれば己の度胸だけが頼りだ。

「あんなまどろっこしいもん、ようやるかいな」

「……それでよく、長慶の配下が務まるものだ」

「あん?」

連歌茶の湯畿内で政務を執り行うには、欠かせぬ素養だ」

「……ちっ」

「もう用件は済んだのだろう。まあ一服、飲んでいけ」

久秀にも分かるくらい、宗三の所作は清廉だった。茶を、水を、火を、器を、心底から敬っていることが伝わってくる。久秀が交渉に入っているため、いまは鳴り物衆の音もない。草庵は静寂そのものであった。

「あんたは、なんで六郎なんぞに仕えとるんや。もっと器用な生き方もあったんとちゃうんか」

思わず、久秀の方から話しかけていた。敵の大将なのに、奇妙な親しみやすさがあった。

「そちらも似たようなものだろう。長慶を主にすれば、後ろをついていくだけでひと苦労のはずだ」

「わ、わいのことはええわい。あんた、このままやったら間違いなく死ぬんやで。それでええんか。満足なんか」

「――貴公も、その程度なのだな」

「なんやて」

「生と死。勝ちと負け。富貴と貧苦。出世と零落。ふたつの狭間で揺れる者に、真の満足などありはしない。虚ろな対立から抜け出ることが、命を全うするということなのだ」

「……ぜんっぜん分からん」

「ならば、長慶の輪郭に触れることなどできまい。あの男は幼少の頃から命を燃やし続けている」

ぐうの音も出せない。まるで、宗三の方が長慶の深奥を理解しているようではないか。

「あんたが殿を語るんが、なんか、やったら腹立つわ」

「くく、ははは。いいな、貴公は」

宗三の笑い声に合わせて、異常に平べったい茶釜から湯気が上がり始めた。沸き立つ泡音までが久秀を笑っているように聞こえる。

「この茶釜をどう思う」

「不っ細工な形やな。使いづらそうや」

「そう思うだろう。見ておれ」

柄杓を構え、宗三が釜の湯を使い始めた。茶碗を温めた後、端然とした手並みで茶を練っていく。その一連の動作が実に決まっている。何もかもが決まってい過ぎて、本来ならば息苦しい場になりそうなものだ。それを、平たい釜の存在感が絶妙に崩している。釜があるから、粛と和が手を繋いでいられる。

「さ」

濃茶を出された。作法を知らぬなりに座礼し、茶碗を手に取る。濃厚な茶の匂いがむせ返るようだ。

「教えてやろう。一息で飲み干すのが吉とされている」

言われた通りに口をつけ、勢いよく啜り込む。味。香気、強い。いや、苦みが刺さる。どろどろした液体を無理やり喉に流し込んだが――、それを一気に噴き出した。茶と鼻水が混ざったものが顔面を汚す。

「はあっはっは! まこと、無教養は身を滅ぼすものよ」

「おうげ、げほ、げは。な、なんやこれ! まっず! にっが!」

「くくく……。之布岐の生薬を混ぜておいた。これが江口城の馳走だと、長慶に伝えておけ」

「うげ、あげ……。お、おんどれ」

「喜んでいいのだぞ。無理にうまいとでも言おうものなら、この場で斬っていた」

背筋がざわついた。もはやこれまでのようである。

負け惜しみをするように堂々と立ち上がった。

「おい、待て」

引き止められた。振り返って見れば、宗三が釜の湯を捨てている。

「褒美だ。この釜をくれてやる」

「……いらんわい。けったくそ悪い」

「銘もつけてやろう。“平蜘蛛釜”というのはどうだ」

心の臓が止まる心地がした。この場で聞くはずのない言葉ではないか。

「あんた、わいのことを」

「持って行け」

草庵から出てみれば、周囲は兵に囲まれていた。総勢で千五百名程度に過ぎないが、どう見ても精鋭揃いである。簡単に飲み込める奴らではない。

(ありのまま、伝えるしかしゃあない)

緊張と苦茶とで頭が痺れ、よろめきながら本陣へ向かう。だが、どういう訳か嫌な気分ではなかった。

 

  *

 

冬康と一存は、松永久秀の報告を一緒に聞いていた。

最後まで聞き終わった長慶の表情からは、何の感情も読み取れない。一言“ご苦労だった”と発して、久秀を下がらせていた。

「冬康、一存。総掛かりに移ろう」

声だけは僅かな熱を帯びている。

「はっ」

「いままでが終わり、これからが始まる。卵の孵る音、響かせて参れ」

「承知しました」

それだけを答えて、冬康は陣幕から退出した。慌てて一存が追いかけてくる。

「なんだあの腑抜けは。茶を飲んで帰ってきただと、わしならその場で宗三の首をへし折っているわ」

一存は、久秀が武功もないのに重用されているのを快く思っていない。

「慶兄が聞きたいことを引き出してきた。板塀の脆そうな箇所も、しっかりと見てきてくれたではないか」

「冬兄も気をつけろよ。ああいう男は偉くなったら、決まって現場の足を引っ張るんだ」

「ははは、世間ずれしたことを言うようになったではないか」

一存の機嫌が悪いなら悪いでよかった。その分、敵の兵が多く死ぬだけだ。それよりも、自分は長慶の輪郭に触れることができているのか、やけに気になった。

 

久秀がもたらした情報を踏まえ、江口城の背面に向かって舟橋を架けた。盾を抱えた兵たちがまず城に取りつき、敵の攻撃を防ぐ。文字通りの橋頭保だ。そこに、冬康自ら指揮する一隊が入った。連れてきたのは、今日のために用意した特別の部隊である。

鳴り物衆はいまだ音を鳴らしていない。風もない。雨もない。聞こえるのは敵兵の叫び声くらいである。

「点火」

その一声で、七人の兵士が一斉に準備を始めた。充分な訓練を積んでいる。威力も試している。

「響け、遥か彼方へ――」

知らせよう、三好長慶の時代が始まるのだと。

「放て!」

爆音が轟き、眼前の板塀が砕け散った。

成功だ。残骸の向こうには、巻き添えを喰らった死体も、腰が抜けた敵兵の姿も見える。

逸る動悸を抑え、冬康は次弾の装填を命じた。

 

  *

 

いかずちの音。城の裏手、淡路衆が攻め寄せてきた方角。

(敵陣に落ちたか)

愚かな想像が頭をよぎった。そんなはずはない、あれは火薬の音だ。櫓に登って様子を伺おうとした時、もう一度雷が鳴った。板塀が破壊され、兵が二人倒されている。兵たちの恐怖が手に取るように分かった。槍や弓矢で死ぬ覚悟はできても、知らない死に方には耐えられない。兵士とはそういうものなのだ。

敵陣の先頭、盾に守られている部隊がいる。煙に包まれながら、得意げな顔で喜んでいる。彼らが手にしている、あの得物は。

「鉄砲。それも、七丁だと」

堺衆や根来衆が試作を始めたのは聞いている。南蛮筒のような品質は得られておらず、匁の大きい弾を短い距離にしか飛ばせないことも知っている。

そんな国産鉄砲でも数を集めて一斉に放てば、板塀程度は木っ端微塵にできるということか。弓矢の代わりではなく、攻城器具として鉄砲を。

「鬼十河が踊り込んでくるぞ!」

「出合え出会え! ここで食い止めるのだ!」

怒号が飛び交う。搦め手から攻め寄せてくる敵兵はそう多くないが、守備を突破され、城門を開かれてしまえばおしまいだ。さて、どこまで持ち堪えることができるか……。

 

宗三子飼いの配下には防戦に長けた者が多い。敵兵がこの曲輪に侵入してくるには、未だ少しの猶予はありそうだった。

「これまでの皆の労苦に感謝する。……よくぞここまで仕え抜いてくれた。今日、この冴えわたる青空の下、武運拙くわしは死ぬ。悔いはない。恐れもない。やり切った。わしは生き切ることができた」

これまで共に戦ってきた供回りたちに別れを告げる。

「貴公らに生きろとは言わぬ。死ねとも言わぬ。命の使い道、己で決めたがよい」

これだけで充分だった。今更長い言葉は要らない。視線、手振りだけで通じ合う仲間たちなのだ。

「……」

しばらく、口を開く者はいなかった。彼ら全員が号泣していた。身体が涙するのに任せていた。

「そうです、我らはやり切りました」

「宗渭様はご無事。細川家も六角軍も健在」

「あの長慶を振り回し、きりきり舞いさせてやったのは痛快でございました」

やがて、口々に互いの働きを褒め合い始めた。皆がびしょ濡れの笑顔で、白い歯が日に煌めいた。

「宗三様。本音を言えば、生き残りたい。まだまだ生きていとうございます」

「……そうか。ならば、門を開けよ。長慶は貴公らの命までは奪わないだろう」

「はっはっは。鏡が曇りましたか。一同。あなた様と一緒に生きていたいと言っているのです」

皆が寄ってきた。宗三を取り囲み、一人ひとりが身体に触れようとしてくる。

「血路を開きましょう。一丸となって突き進み、あの川舟を乗り越えれば」

「そうです。城を川舟で囲っている分、敵が追っ手の舟を出すのは遅れるはず」

「鬼十河とて、一息で十人を倒すことはできませぬ。殿役は自分が務めましょうず」

墓に入りかけていた自分の背中を、皆の手が支えてくれた。死に美も醜もない。その時が訪れるまで、一緒に前へ進んでいく。

宗三の瞳から、一滴だけ涙が落ちた。

「行くか」

宗三の呼びかけに、声の揃った返事が木霊する。

「応!」

 

「お、お待ちくだされ! しばし、宗三様、宗三様!」

そこに、大鍋を抱えた料理人が駆け寄ってきた。なんとも微妙な間に登場したものである。

「まだおったのか。兵でなければ、逃げるのは容易なものを」

「味の分かる主から離れてなるものですか。と、それより! これをお召し上がりくだされ」

鍋の中には切干大根と、なんと干し椎茸の千切りが煮しめられていた。

「椎茸」

こんな貴重品を、どこに隠していたのか。覚悟を決めたはずの供回り衆ですら、騒然となった。

「昨夜、そろそろかな……などと仰っていたじゃありませんか。特別な日には、特別な馳走を用意いたします。それが料理人の務めなのです。さ、時間がありません。皆様ひと口ずつ」

宗三が鍋に箸を伸ばし、他の者は素手で煮しめを掴んだ。

「う……」

「うまい!」

「し、椎茸を初めて食べた。もう悔いはない……」

皆の喜びようは大変なものだった。無理もない、江口城に入ってからはろくなものを食べていなかったのだ。宗三も日に一度の粥しか口にしていなかった。そこに甘露の如き椎茸と、その出汁をたっぷりと吸い上げた優しい舌触りの切干大根である。いや、空腹でなかったとしても、この味は……。

「塩梅を極めたな。褒めて遣わす」

「あ、あ、ありがたき幸せに」

今度は料理人が泣きだした。こんな日だというのに、思いの外な楽しいことがあるものだ。

「よし、これで力も奮えよう。今度こそ行くか、皆の者よ!」

先ほど以上の、波濤のような鬨が湧き起こった。

 

守備兵が蹴散らされた不意を突き、破られた板塀の箇所から駆け去ろうとした。

宗三の手勢はおおよそ百名。たちまち淡路衆から弓矢が放たれ、十名が倒れた。一人は正確に眉間を撃ち抜かれている。更に、城中に深入りしていた十河一存が引き返してくるのが見えた。速い。間合いが縮んでいく。あの元長に似た顔の鬼は、足まで速いのか。

「ぎゅ」

小さい呻き声を出して、また一人死んだ。その胸板を大槍が貫いている。一存が投げたらしい。それが分かった時にはもう一存がそこにいて、自分が投げた槍を誰よりも早く手に取った。次の瞬間には三人が殺されている。

「そううさんんん! 父の、仇!」

まさしく、鬼。膝が震えた。供回りが宗三を庇い、次々と一存に立ち向かう。それが、羽虫のように始末されていく。気づけば、半数近くが討ち取られている。

よく見れば、宗三も既に浅手を多数負っていた。淡い痛み、濃厚な血の匂い。その中を、部下の死を悼みながら走り抜ける。抜けた。刀を振り回して舟橋に飛び乗り、淀川に飛び込む。水練には自信がある。具足を着ていても、向こう岸に泳ぎ着くのは容易い。予想通り、敵の追っ手は出遅れていた。

まだ、周囲には三十名。逃げ延びられるのか。生きて、六郎に仕え、家族を抱きしめられるのか。これは我執ではない、使命なのだと確信する。葦。川岸。泥を踏んだ。そこに、矢の雨が降り注いだ。

「伏兵」

旗印、六瓜の紋。遊佐長教。読まれていた。読んだのは長教か、それとも。

「……かかって参れ」

味方、十数名。敵、ほんの五百名。切り結んだ。濡れた刃紋に緋色が混じる。肩、斬られた。浅い。刀は振れる。斬った、もう一人。

「次!」

吠えた。ここに定まった。出し切ってやる。死に切ってやるとも。新手、こちらから仕掛けた。疲れが出たか、凌がれた。反撃、刀を合わせてかわす。そのまま数回、斬り合った。斬り合っているところで、背後から槍で突かれた。腹から、槍の穂先が飛び出している。映った自分の顔と目が合った。

(いま、ここで)

槍に構わず、正面の敵に刀を振り上げた。槍に気を取られていた相手は反応が遅れる。頭上。届いた。刀が兜に触れる。割れる、そう思った。しかし、折れたのはこちらの刀だった。

「左文字……ならば……」

悔いたのではない。自分の迂闊さを愉しんだのだ。仰向けに見上げた淀川を、燕が通り抜けていった。

 

  *

 

江口城の兵、千五百名。そのほとんどが死に絶えていた。

向こう傷を負った死体ばかりである。冬康の奇計がなければ、こちらの被害も大きかっただろう。群がる蠅を横目に、乾いた血の跡を踏みしめて歩く。冥府の主になったかのような心地がした。

城の奥では首実検の準備が進められている。宗三の首を前に、長教が自慢げに手柄を吹聴していた。淀川利権の分け前にあずかりたい、長慶の政権でいい顔をしたい、そう言っているのと同じである。冬康や一存は目を合わせようともしない。

宗三は活き活きと死んでいった。戦には勝ったが、超えることは遂にできなかったという思いが強い。

「命の、全う」

そう口にしたという。なぞるように、呟いていた。

「浮かぬ顔をしているな」

康長に声をかけられた。

「宿命の架刑から、またひとつ解き放たれたというのに」

「極星を見失いました。むき出しの虚空に呑み込まれてしまいそうです」

「……泰山の頂は孤独なものだ。もう、降りられないところまで来てしまっている」

「手を伸ばせば崖から落ちる。動かないでいれば身体が冷える。ふふ、難儀な、……本当に難儀な」

せめて、あまねが横にいてくれれば。口には出せない思いが、胸の底を穿っていくようであった。

 

続く