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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

三十 青春の段  ――細川持隆 三好之虎に殉じて公方の策略を破壊し、三好長慶 足利義輝と芥川孫十郎を追放し単独政権を樹立す――

三十 青春の段

 

長慶と義輝の緊張を孕んだまま、一先ずは平穏に年が明けた。

天文二十二年(1553年)の春。堺を訪れた長慶は、与四郎が新築した茶湯座敷に招かれていた。屋敷の敷地の片隅にひっそりと建てられた庵は、竹垣や樹木で囲われ、ここが賑やかな市街であることを忘れさせる。庵まで導くように敷かれた庭石。古材を使ったのか、年月の経過、枯じけを感じさせる建物。

「……華美の欠片もなく、むしろ禅寺のような」

「最近は城に石垣を取り入れたりするだろう。だったら、我々も竹垣や飛石を拝借してもいいと思ってさ」

「大胆なことを考える。大林宗套老師に叱られても知らぬぞ」

「ははは、千殿がそれを言うかい」

庵は入口が極端に小さく、身体をにじらないと入れなかった。中は狭く、暗く、一層静かである。

「庭を渡り、狭い入口を潜ることで、いつしか日常を忘れている。なるほど、面白い工夫だ」

「正直、いねの助言が一番役に立った。それまでは部屋の中のことしか考えていなかったからなあ」

「きっかけがそうだっただけで、答は与四郎の中にあったのだろう」

「気に入ってくれたのかい」

「ああ。幽玄の境に入った気がする」

言われて、与四郎は嬉しそうにはにかんだ。長慶も、そんな彼から一番に招待されたことが嬉しい。

「しかし、こだわった点によく気づいてくれるものだ」

「……昔、竹垣や白砂を使った茶湯座敷を見たことがある。その時よりも、ここの方が落ち着くな」

「おいおい、ちょっと待ってくれ。同じようなことを考えた人がいるのか? そんな噂、聞いたことがない」

「過ぎた話さ。いまはもういない」

「まったく。千殿ときたら、いつも何かを隠しているなあ」

それ以上話を引っ張らず、与四郎は茶を用意し始めた。庵の手応えか、以前よりも自信がついたようだ。若い頃の与四郎は、他人のことが気になって仕方がないというところがあった。

「与四郎よ。こうやって二人で茶を飲んでいると、子どもの頃を思い出さないか」

「ああ。千殿は、よく菓子を食べ過ぎて叱られていたっけな」

「初めて堺に来たときは、何もかもが珍しかった。楽しかったな。……あれから、色んなことがあった」

「千殿は戦い続け、私は迷い続けた。それでも、振り返ってみれば悪くなかった気がする」

「私もそう思う。与四郎が友でいてくれたからな」

「それはお互い様だろう。千殿がいなければ、私は理想に辿り着けなかった」

「理想」

「この狭い庵を見ろよ。立場も家柄も、入り込む隙間すらないだろう。生まれた時より、もっと裸になれる。茶を挟んで向き合えば、天下人も商人もないのさ」

「与四郎……」

思えば、子どもの頃から不思議と気が合う二人ではあった。それぞれの苦悩を経て、いつしか似たような夢を抱いている。胸中、しみじみと感じ入るではないか。

「そこでだ。この庵に、名前を付けてくれないか」

「私がか」

「千殿の発案なら、いねも文句を言わない。気に入って、花いけなど手伝ってくれるかも」

「憎めない口実を。ならば……“宝心庵”というのはどうだ」

「宝は心魂だけでいい、他はすべて余計なこと……。いいな、ありがたくいただくよ」

この宝心庵はじきに評判になるだろう。長らく土の中で眠っていた与四郎が、芽生え、大樹になっていく。そんな未来が垣間見えた気がした。

「これを、礼に」

与四郎が懐から書付を取り出した。

「頼んでいたものか」

「まあ、見てくれ」

「……そうか、孫十郎がな」

畿内における兵糧や硝石の流れ。それを会合衆が分析すれば、籠城を企んでいる者が浮かび上がる。幾つかの中小国人の名が並んでいる中、芥川孫十郎の名は一際目立っていた。会合衆がこれを長慶に渡すということは、未だ三好家有利と思われているのだろう。

「江口の戦いまでは、何が何でも国人の支持を取り付ける必要があったものな。勘違いする者も出てくる」

「いいのだ、私が甘いのは間違いない。正直、新たな父なし子を増やしたくなかった」

「それももう、限界だろう。治安を守るためには、どうしても見せしめが必要になる」

「分かっている。だからこそ、公方を挑発したのだ」

不穏な動きを燻り出すために、あえて義輝を怒らせた。その効果が早くも現れたことになる。

「私が千殿なら、反抗した国人を安宅船に乗せて、倭寇として明に送り込むな」

「物騒なことを」

大寧寺の変のせいで、日明交易はもう滅茶苦茶だ。いい加減、海禁の愚を明に知らしめねば」

「取り締まりを諦めさせろと。日本が武力で開国を迫るなど、前代未聞のことだな」

「商人の活動を制限して、いいことなどひとつもない」

「この件になると与四郎はいつも過激になる。ふふ、慶興と話が合いそうだ」

「そう、若君を前倒しで元服させたのだったね。また、祝いを送らせてもらうよ」

「何度も襲われたから、万一の備えとしてな。家臣にやり込められたのは久しぶりだ」

十二歳の千熊丸が元服し、名を慶興と改めた。後継者の存在を打ち出しておくことで、いざという時の混乱を防ぐ。長逸を始め、多くの家臣がその必要性を主張していたのである。

「うちのとは大違いだと、いねが零していた」

「そう言ってやるな。他の子どもと比べられるのは、辛いものだぞ」

「千殿でもそんな覚えがあるのか」

「たまに弟が怖い」

「ははは。之虎殿たちも偉大な長兄が恐ろしいだろうよ」

「そして、全員いねに頭が上がらぬ」

「ううむ、それは私もだ」

苦笑しあう。これほどに自分をさらけ出したのは久しぶりだった。

あらためて、この庵と茶がいいのだと思う。与四郎の説く理想が、もっともっと世に広まればいい。

 

  *

 

持隆に誘われて、吉野川に舟を浮かべた。

悠長な、と思わないでもない。だが、朝靄の中、水面を気持ちよさげに眺める持隆の横顔を見ていると、孝行をしているような気持ちにもなってしまう。

「鍵は、河内衆の動向だろうなあ」

「ええ。新たに河内を掌握した安見宗房が、いままでどおり我らにつくかどうか」

「芥川孫十郎の裏切り。義輝公は霊山城(京都府京都市)に入り、六郎は丹波から京を窺う。しかし、他に動いたのは小さな国人ばかりで、六角や若狭の武田は動いていない。このままでは、河内衆が公方に味方するとは思えんな」

「まったくです。約定を破り続けて、公方の評判は地に落ちています。自らの権威をぼろぼろにした割には、戦の段取りもろくにできちゃあいない。いったい何を考えているんだか」

風はない。川面は穏やかで、水鳥が盛んに朝飯を獲っていた。

「河内衆なり四国衆なりが援軍を出せば、敵は半年も持つまいな」

「既に軍備を整えさせています。畿内の民も我らの軍装を見ればたまげましょう。阿波藍のよさを見せつけ、ますます商売を繁盛させてみせますよ」

景気よく笑い飛ばす。之虎が考案した藍染は、莫大な利益を生んでいる。同時に、阿波兵の軍規を改め、昔ながらの家柄に応じた拠出兵数の定めを撤廃していた。銭さえあれば、幾らでも兵数を増やせるようにしたのだ。これで、藍染の交易などで財を蓄えた之虎に近しい国人たちが更に力を発揮できる。

「……お前たちは、本当に大きくなったものだ」

「ははは。急にどうしたのです」

「いまや、天下の三好兄弟といっても過言ではあるまい。誰も、お前たちには逆らえない」

「そんなことはないでしょう。兄上や俺のことを面白く思っていない奴あ、阿波にだってごろごろいますよ」

謙遜ではない。守護代風情が偉くなれば、嫉妬もまた凄まじい。時代の流れについていけない者ほど、長慶や之虎を憎むようになってきている。

「之虎よ。もうお前に教えることなどほとんどないが……、ひとつ知恵競べをしようではないか」

「へえ、なんの趣向です」

「まあ聞くがよい。この状況、お前が義輝公ならどうする。相手の身になって、最善の手を考えてみろ」

面白い問いだった。確かに、こういったことを考えてからこちらの軍略を立てるべきである。

「甘んじて傀儡になり、平穏な余生を過ごす……というのは、なしですよねえ」

「うむ、それはない。あくまでこちらを滅ぼす構えだ」

「まず、兄上の暗殺……には失敗した。各地の守護大名を動員……しても、なかなか応じてはくれない。戦では兄上に勝てないよな。兄上が政務を執るようになってから、一揆もなくなってしまったし……」

考えれば考えるほど、義輝が気の毒になってくる。諦めた方がいいと思うが、それができる立場でもない。義冬もそうだが、足利氏に生まれたこと自体が呪いのようなものだった。

「難しいだろう。だがな、敵はこのことだけを毎日考えて暮らしているのだぞ。やるべき仕事は、すべて長慶に取り上げられてしまっているのだからな」

「ううん……。孫十郎を内応させたのは見事だったよな。芥川山城は摂津と京を結ぶ要衝だし、兄上が信頼していた男の一人だし。……そうか、内応、分断。三好家を割ることができれば」

「おう、さすが之虎、よう頭が回るものよ」

「とは言ってもなあ……。河内衆は利に聡過ぎて内応させてもすぐ反故にするだろうし、摂津の家臣たちは兄上に心酔しているし。和泉の松浦家は一存が後見しているだろ。当主を暗殺されたと噂の筒井家が、その首謀者に力を貸すとも思えないし……」

「大事なところを忘れているぞ」

持隆の顔つきが変わってきている。なぜだか、産毛が逆立つような感覚が身体に走った。

「まさか、四国衆と言いたいのではないでしょうね」

「そのまさかだ」

暗い笑みを向けられた。

「冗談じゃない! 俺が、兄上を裏切る訳がないじゃあありませんか」

「“俺が”……だと。之虎、いつからお前が四国の主になったのだ」

「も、持隆様……?」

親に見放されたような痛みが胸に刺さる。どうなっている。ただの例え話、空想遊びのはずでは。

「四国衆が公方につけば、安見宗房も同調するだろうな」

「もうやめましょう! 縁起でもない」

「……わしが、この時を待っていたのだとすればどうする」

「……」

「最高の時宜を見計らって、阿波細川家が天下を制す。六郎でも、氏綱でもなくな」

「馬鹿な! そのために俺たち兄弟を扶養したとでも言いたいのですか!」

「そんなに真っ赤になってどうした、かわいい之虎よ。お前は当然、わしに味方してくれるのだろう?」

強い怒りが吹き出しそうになるが、どうしてもそれを持隆にぶつけることができない。身体の中をぐるぐると巡って、之虎の精神を苛めるだけだった。

「いまの話が戯れでないのなら……。俺は、持隆様を押込めなくてはなりません」

こんなことを口にしなければならない辛さを、いままで想像したことはなかった。

「クク、カッカカ……。見性寺(徳島県板野郡)で待っているぞ。兄に味方してわしを討つか、わしに味方して兄を超えるか。決心したら来るがよい。正午までに現れなければ、お前を殺す」

いつの間にか、舟は岸に戻っていた。先に降りた持隆が、宣言通りに館の方角へ戻っていく。

取り残された之虎は朝日に向かって吠えた。

 

 

  *

 

血の匂いは陶酔するように甘く、持隆の内面を昂らせる。舞台の演出は済んだ。

悲しみもない。痛みもない。すべてを振り切って、殉の一語だけが詰まっている。

「お前の代わりをするのも、今日、これまでよ。なあ、元長――」

窓から差す柔らかな光の中、堂内の埃が踊っている。その様が、天下の縮図のようにも思えた。

足音がする。真っ直ぐに近づいてきた。扉が少し動き、やがて観音開きに。現れた。光と共に現れた。

「早かったな」

「……! これは、どういうことです」

持隆と之虎の間にあるものに目を奪われたようだ。小少将。持隆が二重に裏切ったとは思わない彼は、一刀のもとに絶命していた。

「お前の触れに従ったまでよ。見かけたから、成敗した。それだけだ」

「またも持隆様を」

「わしを見くびるな」

「……」

之虎が押し黙る。

「黙ってどうする。返事をしに来たのだろう」

「……できません」

「……ふ」

「できませんよ! できる訳がないじゃあないですか! 何を考えているんです。本心を仰ってくださいよ!何か深いお考えがあるんでしょう?」

「言ったこと、やったことがすべてだ。見たこと、聞いたことを頼りに判断するのがお前の仕事ではないか」

「違う! 俺には、できない。できねえ、胸が! 心が! あなたは敵じゃあないって言っている!」

「興が褪せるぞ。兄を裏切れないなら、お前がやることはひとつだろう」

立ち上がって、前へ進んだ。小少将の死体を踏み越え、之虎の間合いに入る。

そうして、動けない之虎の懐をまさぐり、中にあった物の鞘を外して手渡した。

「大事にしてくれているではないか。ほら、構えてみろ」

暁天。かつて元服祝いにくれてやった脇差は、研ぎ澄まされ、濡れたようにひかめいている。反対に之虎の顔は土気色にくすみ、呼吸も乱れていた。どうしていいか分からなくなった子どもが見せる、切ない姿だ。

「お、俺が悪いことをしたなら、謝ります。だから……」

之虎の言葉を無視して、更に前へ進んだ。右手で之虎の背中を、左手で暁天を握る手を掴む。

「ほら……。入ったぞ」

諸肌に、暁天が挿し込んでいく。震える之虎の手を、持隆の血が濡らしていく。

「どうだ、温かいか。遠慮せず、奥まで入れてみろ」

「そんな……そんな! あんた、何してるんだあ!」

抵抗されるが、死力を尽くした持隆の方が強い。抜かせはしないぞ。

「これで、いい。これがいいんだ」

「離して、お願い、離してくれ!」

「泣くなよ、之虎。泣くくらいなら、抱き締めてくれ。子どもが父親にするように」

之虎の方に体重を預ける。更に深く刺さるが、もうどっちにしろ大差ない。暁天から手を離した之虎が、持隆の背に腕を回してくれた。

「持隆様、教えてくれ……。俺はこれから、どうしたらいいんだ」

「カカ、カカカカ。過ちを恐れず、信じて生を貫け……」

「なんでだ、なんでだよ。何を信じろって言うんだよ」

「お前の気持ちが、伝わってくる……。分かる、重なっているぞ」

持隆も之虎を両手で包んだ。振り絞り、我が身に抱き寄せた。

之虎の涙が胸毛を伝って傷口に垂れてくる。持隆の血飛沫が、之虎を染め上げていく。

それだ。藍色一辺倒では、世は治まってくれないものな。朱の色があってこそ、藍が引き立つのよ。

「長慶たちに……よろしくな……。さらばだ、之虎。さらば……我が……青春!」

温もりと哀哭に覆われ、持隆は絶命した。その遺骸を、之虎はいつまでも離さなかった。

 

  *

 

持隆の死んだちょうどその日。芥川山城を囲んでいた長慶のもとへ、厳重に封印された密書が届いた。遺書である。届けた康長は悲しそうな顔をしただけで、何も言わなかった。

分厚い文の中には、公方の策略“蝉取”の詳細が記されていた。持隆が之虎を暗殺し、阿波・讃岐の反三好国人衆を糾合。同時に安見宗房が公方へ寝返り、長慶包囲網を完成させる。想像しただけで、肌が粟立つようだった。

この公方渾身の詭計は、持隆の行動により脆くも崩れ落ちた。持隆の死が知れ渡ると、安見宗房は即座に長慶へ味方することを表明。芥川山城の士気も明らかに下がっている。そして、之虎が弔い合戦を仕掛けてきた久米義広を躊躇なく討ち取ったことで、三好家に刃向う者がぴたりと現れなくなった。

自暴自棄にならず、義広を滅ぼし、阿波を完全に掌握した之虎の手腕は認めねばならない。これで、長慶の政権は一層強靭なものとなった。主を殺め、その仇討ちをも叩きのめした三好家は、さぞ恐ろしい集団に映っていることだろう。人は弱い。多くの者は正しい道より、安全な道を選ぶ。義広の忠義は語り草になっているが、後に続くものがいないことが何よりの証である。

(……だが、本当にこうするしかなかったのか。之虎なら、もっとやりようがあったのではないのか)

もはや、長慶の関心は孫十郎や公方にはない。嫌疑を振り払うかのように河内衆がよく働く。長逸や松永兄弟に加え、長逸の息子弓介、元本願寺僧兵の松山重治など、若い衆もおおいに活躍している。援軍の望みがなくなった芥川山城が陥落するのも、義輝が霊山城を捨てるのも、六郎が京への再進出を断念するのも、何もかもが時間の問題だった。

そんなことよりも、持隆への弔悼と、之虎への仄かな疑念。このふたつだ。このふたつだけが、長慶を苛む。夜を眠れなくする。薄く薄く心身を削り取っていく。

 

「参ったよ。まさかお主が、主殺しまでやり遂げるとは思わなんだ」

万策尽きた孫十郎が、城兵を殺さぬことを条件に降伏してきた。引っ立てられてきた彼は、何ごとかをやり切ったような、清々とした顔をしている。その野放図な言い草が、今日ばかりは気に入らなかった。

「……覚悟はよろしいな」

「はは、所領安堵など望むべくもないわな。さ、遠慮することはない。刎ねられよ」

自分の首をとんとんと叩きながら、堂々と居直っている。

「孫十郎殿。……あなたには所払いを申しつける」

「なに、なんだって」

五畿内。淡路。阿波。讃岐。それに近江、丹波、若狭、播磨、紀伊。これら以外の……分かるでしょう。私の目の届かぬところへ立ち去っていただきたい」

「待て。宗三殿に続き、持隆殿まで手にかけたお主だ。わしの命など軽いものだろう」

「……必要以上の犠牲など、虚しいだけです」

「なんだと! わしの首が安いとでも言うのか!」

「行きなさい」

両腕を取られた孫十郎が、喚きながら連行されていく。馬鹿馬鹿しいとすら思い、疲れだけが残った。

 

長慶はそのまま芥川山城に入り、この地を新たな居城と定めた。

畿内一円を支配するには芥川ほどの好適地はない。畿内の要は京と摂津であり、当地はその中間に位置しているのだ。程よく京と離れていることで、帝や公家に取り込まれてしまう恐れもない。河内を牽制する効果も高い。西宮や堺にも近い。西宮の民は残念がったが、課題の順位に応じて本拠を変えていくことは不可欠なのだ。土地に縛られると、芝生に居ながら畿内を治めなければならなくなってしまう。

孫十郎の降伏を受け、義輝は朽木へ落ちていき、六郎の影も再び消えた。この際、多少の強硬策が許容される雰囲気を利用し、義輝に従う奉行や公家の所領を徹底的に没収することにした。その結果、朽木に同行した者は数十名に過ぎなかったという。これで、しばらくは公方もたいした行動を起こせない。

再び、畿内の戦乱が一掃された。

同時に、激しい虚脱感に襲われ、長慶は数日を床に臥せることになった。布団の中では持隆を想い、めそめそと一人で泣いた。もう一度元長を失ったような、身体の重みが何割かなくなったような……。

家臣たちも長慶の心身を慮り、あえて近づこうとしてこない。慶興はここぞとばかり、幼友達の池田勝正と遊び呆けているようだ。与四郎やいねが顔を出してくれたが、何日も傍にいてくれる訳ではない。

孤独だった。自力で克服するしかなかった。

おたきが毎日湯漬けと、この地の名物らしい瓜の粕漬けを運んでくれた。瓜は暑気あたりに効くと言うが、残暑の疲労にも効果があるらしい。大ぶりな瓜の食べ味の快さ、粕漬けの複雑な旨味が、降り積もるようにして長慶を癒していく。毎日、毎日、会話をするように瓜を噛みしめた。

そうするうちに、少しずつ力が湧いてきて、広大な城中をようやく歩き回れるようになった。

「ばいばい」

突然、何者かに声をかけられた。

目をやると、薩摩豚の家族がそこにいる。孫十郎の置き土産の前に座り込んで、楽しげな豚の暮らしをずっと、ずっと眺めていた。そうしている間は、他のことを考えずにいられた。

 

  *

 

南から久秀が、東から長頼が進軍。手こずらされたが、今度こそ八上城は終わりだ。

公方の長慶包囲網を打ち破り、長慶は芥川山城に居を移した。その際、主のいなくなった摂津下郡が久秀に預けられたのである。既に丹波の内藤氏を後見している長頼と併せて、松永兄弟の出世ぶりは他の家臣を圧倒していた。

久秀は棲家を越水城ではなく、丹波・播磨のどちらにも目が届く滝山城兵庫県神戸市)に決めた。尼子の侵略以来、赤松家は支配力をほとんど失っており、抗争を続ける播磨国人衆が三好家の介入を求め始めている。播磨を押さえれば丹波を南西から伺うこともできるため、長慶がこの機を逃すことはないだろう。いまひとつ元気のない長慶を喜ばせるには、丹波・播磨戦線が重要だということだ。

畿内は無事に治まっていた。京では九条稙通と長慶の昵懇なのが気に入らない近衛前久が、越後の長尾景虎を上洛させようとしている。もともと近衛家は足利公方との結びつきが強かったが、近頃の評判があまりにも悪いため、とうとう義輝を見限った様子である。代わりの番犬として景虎に目をつけたということだろうが、越後から大軍を率いてこられるはずもなし、たいした脅威ではない。

河内の安見宗房には笑わせてもらった。蝉取へ関与した疑いを晴らそうと長慶の前に参上した男は、かつて木沢長政の名代として平蜘蛛町に現れた青瓢箪だったのだ。“偉くなったもんやなあ”と久秀に声をかけられた宗房は、全身から汗を吹き出していた。長政や長教に比べれば、取るに足らない小者である。それよりも、お飾りと見做されている畠山高政の方がよっぽど気骨がありそうだった。いずれにせよ、河内の政情が直ちにおかしくなることはなさそうだ。

「しかし、酷い霧ですね……。十歩先も見えやしない」

「見えへんのは皆一緒や。ばーっと進んでだーっと城落としたったらええんじゃい」

「見通しがよくなるまで、進軍を止めた方がいいのでは」

「そんな暇あるかい。ええか、いま、殿のご懸念は丹波だけなんや。波多野を降参させたら京も安泰やろ。公方も六郎も音を上げよる。それに、あまねの姐さんやお前の姉ちゃんも戻ってくるかもしれんわ」

「そんなに上手くいきますかね」

「上手くいかすんがわいらの仕事やろが」

側近として使っている楠木正虎が、不安げな顔をしている。彼は後南朝に伝わる有職故実などをよく修めていて、相談相手としても祐筆としても、非常に使える男だった。姉の琴ともども、先祖代々朝敵の扱いを受けていることから、日頃は偽名を使って暮らしている。晦摩衆という公方の手先も正虎の潜伏先を探していることから、彼の身辺は久秀配下が常に警護していた。

「僕も山育ちですからね……。霧の恐ろしさは、よく分かっているつもりです」

「もうじき長頼との合流地点や。こっちかて、丹波の地勢は充分に調べとる。そう間違いはないわ」

「そう信じ切った鎌倉軍を、僕のご先祖様は散々に打ち破りましたよ」

「晴通がそれほどの玉かい」

一理あることは分かっている。霧はますます濃くなってきており、確かに長頼と合流したら小休止した方がいいかもしれない。だが、ここでぬるい戦をやっていたら、長逸や四国衆に手柄を奪われる……。

考えあぐねていると、前方で兵が声を上げ始めた。続けて、矢唸りの音、軍勢の喊声。

「奇襲! 奇襲!」

兵たちが叫ぶ。霧の中、待ち伏せにあったらしい。

「落ち着かんかい! 敵の数は確かめたんか!」

「四方八方から矢が! 相当の数かと思われます」

(なんやて……。囲まれてんのやとしたら、ぐずずぐしとんのが一番まずいな……)

「よっしゃ、長頼の陣目指して突き抜けえ!」

「はっ!」

兵の練度は高い。突然の出来事にも混乱することなく、隊列を整えて駆けていく。

「もう少し状況を見極めた方が」

正虎が言う。

「阿呆! 霧ん中で一番怖いんは各個撃破されることやろが!」

長頼と合流し、ひと固まりの大軍になれば奇襲などどうということもない。

「正面に敵陣!」

「しばいたらんかい!」

「せ、精鋭です! 手強い!」

「そいつら倒したら勝ちっちゅうことやろが!」

霧の中、吠えあうように命令と復命を繰り返す。

気づけば、久秀や正虎も乱戦の渦に巻き込まれている。ほとんど顔は見えないが、暴れ回っている敵将の影が見えた。あれが、勇猛で知られた丹波兵の真髄か。長身の体躯、業物らしい長槍、見惚れずにはいられない武芸の乱舞。まるで長頼のような……。

「って、長頼やんけ! おい、やめえ! やめえ! 同士討ちやぞ!」

しかし、久秀の声は叫喚に掻き消され、不毛な内輪揉めは止むことがなかった。

そこに、今度こそ本物の敵兵が突っ込んできた――。

 

  *

 

「無敵の三好家が、遂に戦で負けたらしいな。しかも、相手はお前の兄だとさ」

「もう……。そんな話を聞きたくないから、ここに移ってきたというのに」

「縁は切れても、思いは切れていないようだな」

何年も一緒にいるうちに、琴は軽口をたたくようになっていた。色々と複雑な生まれ育ちだったようだが、性根はそこいらの娘と変わりないのかもしれない。

兄の晴通が三好宗渭・香西元成と共に松永兄弟を破った噂は、岡部家の者からも聞いていた。ここ、駿河の武士は、戦の話を三度の飯より好むところがある。対武田家・北条家の最前線であり続けたことがそうさせているのだろう。それでも、人の多い鎌倉に比べれば長慶の話題を聞くことは少ない。

三年間の寺暮らしを終えたあまねは、更に鄙びた地で暮らすことを望んだ。そこで世話をしてくれたのが、駿河の国人、岡部家の佳という女だった。東慶寺で知り合った彼女は、夫、岡部家の先代当主を早くに亡くしており、人生に倦んだような眼差しの持ち主で、なぜかあまねとは気が合った。岡部は駿河では名の知れた家だから、あまねと琴を養うくらいはどうということもないらしい。朝日山城(静岡県藤枝市)近くの空き寺をあまねのために用意してくれた。

岡部家は佳の僅か十一歳の息子、正綱が跡を継いでいる。佳の気苦労は並大抵ではないはずだ。佳はしばしばあまねのもとへやって来て、とりとめもない話をしていく。それだけでも夫に託されたものの重圧から少しは解放されると言ってくれる。こうしたひと時が、いつしかあまねにとっても慰めになっていた。

「早く戦がなくなればいいのに」

何かある度に、佳はそう口にする。

「そうね……」

「殺して殺されて、それでも家を残すために女は泣いて、子どもが耐えて。一向宗が流行るのも分かるわ」

「せめて、死んだ後は極楽浄土にって……。悲し過ぎる願いだと思うけれど」

「仕方ないじゃない。この世をよくしようなんて男はどこにもいやしないもの」

「……」

商工業が盛んな畿内と比べれば、東国は生活の手段が限られている。大半の民が農業、林業、漁業で暮らしており、戦に敗れて土地を失えば悲惨な運命が待っていた。だからこそ、東国の戦は厳しい。

「私の周りは、かわいそうな子どもばかりなの。正綱もそう。松平の若君もそう」

「松平……。正綱殿と、仲がいいという」

「父君も祖父君も暗殺されてしまって、母君とも生き別れ。時々面倒を見ているけれど……。どこか、心を閉ざしてしまっているわ。意地悪な人に“松平は呪われた血族だ”ってからかわれたのが大きかったみたい」

「……暗い目をした子どもには、何か夢が必要なんだと思う」

「義元様預かりの身で、夢なんて見ようにも見られないわよ」

「いま都を治めている人も、十一歳で父を失って、十八歳で母も亡くした……と、聞いたことがある」

「それは……特別な人の話でしょう」

「子どもは皆、特別だと思わない?」

長慶のことよりも、千熊丸のことを考えていた。七歳の時に別れたあの子はいま、どんな青春の日々を送っているのだろうか。いずれは戦に出たり、恋をしたりするのだろうか。ひと目、姿を見ることができれば。

分かった、そういう人もいるんだって伝えてみる。そう頷いて、佳は帰っていった。

 

続く