三十一 洟垂れの段 ――安宅冬康 兄弟喧嘩を鎮め、三好長逸 播磨七城を抜く――
三十一 洟垂れの段
うら寂しい正月だった。
座に連なるのは僅か三十名。六角や朝倉からの援助があるとはいえ、祝いの膳はいかにも貧相である。例年はそれなりに顔を出していた公家や坊主も、今年は誰一人訪れてこない。それどころか、いずれ帝は長慶を武家の棟梁と見做すのではないかという風聞が届いてきた。
恥も外聞もなく仕掛けた暗殺は失敗に終わり、晴員と晴舎が全霊を注いだ策略“蝉取”も持隆により阻止された。残ったのは、誓約も道理も踏み躙った外道公方という悪評だけである。義晴と過ごしていた頃と比べても、朽木の民が公方を見る目はいかにも冷たい。
いまは天文二十三年(1554年)。気がつけば、長慶が都の支配者になって五年になろうとしている。足利公方を抱かぬ長慶の専制が、このままでは既成事実になってしまう。義輝も六郎も、初めは各地の大名が放っておくはずがないと考えていた。それが、朝倉は一向一揆と泥沼の争いを繰り返すわ、尼子は大内家の混乱に巻き込まれるわで、誰も上洛に応じる気配がない。唯一、今川義元が武田家・北条家と和睦し西進する素振りを見せていたが、京に向かう途中の織田家とは犬猿の仲であるし、武田晴信や北条氏康が今川家の勢力拡大を黙って眺めているとも思えない。先行きは暗澹としていた。
「どうも、湿っぽくていかんな。誰か剣振りに付き合わんか」
酒杯を置いて立ち上がった。当面やることがなくなってから、義輝は剣術の鍛錬に励むようになっている。味方が少ないなら、せめて自分自身の力を高めたかったのだ。晴員たちには“雑兵の真似事など”と渋面をされたが、やってみるとこれが存外に楽しかった。やればやっただけ、強くなった実感を得ることができた。
「ならば、私がお相手いたしましょう」
藤孝が立ち上がる。若手の中では、随一の文武両道派である。
「よし! 庭へ。木剣を用意して参れ」
雪の残る庭へ素足で降りて、二人で素振り、型稽古を繰り返す。
「鋭!」
「応!」
厳しい寒さの中でも、刀を振っていれば汗玉が飛び散る。嫌なこと、辛いことも霧散していく。
「藤孝、打ち込んでこい!」
「承知!」
藤孝は文人のような面をしているが、恐ろしい馬鹿力を持っている。正面から彼の太刀を受けることはできない。ならばと、義輝は自己流で太刀筋をいなす技を体得しつつあった。ちょうどよい点、ちょうどよい向きで剣を合わせれば、腕力に頼らずとも優位な形をつくることができる。上手くいくのは十に一、二くらいだが、思い通りに藤孝の体を崩すことができたときの喜びはひとしおだ。
「賢光がいれば、よい奉公ができたであろうに」
縁で見守っている晴舎が無念そうな顔で呟く。一度だけ賢光の剣術を見たことがあるが、あれは異常な速さだった。しかし、長慶を守る手練れの護衛たちは、その神速殺法をも防ぎ切ったのだ。
「気にするな! お前たちはよくやってくれている!」
藤孝の攻撃をさばきながら、大声で叫んだ。
晴舎を始め、奉公衆が嗚咽し始めたのが横目に見える。
「泣くことはない! 超えてみせるさ、その時を楽しみにしておけ!」
精度がどんどん高まっていく。熱雲に包まれた義輝と藤孝の交わりは、雪原に踊る朱鷺のようであった。
*
持隆の死後、長慶と之虎の関係が微妙なものになった。
表だっての諍いではないが、互いに思っていることを隠しているような余所余所しさ。長慶は持隆の死の経緯をあえて聞こうとせず、之虎は何も弁明しようとしない。その一方で長慶は納得していないし、之虎はすべてを一人で背負って苦しんでいるのだ。
冬康や長房と相談し、康長の仲介で淡路に兄弟を集めることになった。表向きの目的は播磨攻略の軍議、真の目的は対話である。百の文よりも、顔と顔を合わせることだった。
芥川山城に向かうにあたって、康長は堺で船を降りた。港にはいねが迎えに来てくれている。
「ご足労でしたわね、叔父様」
「なに、どうということもない」
「本当に、兄様も之虎も……。厭だ厭だ、大人になると素直じゃなくなるんだから」
「ははは、いねは子どもの頃から素直ではなかったがな」
「もう、私のことはいいでしょう!」
言われてみれば、いねは娘時代から何も変わっていないようだ。大店の女将になっても気さくで、情けが深い。苦労も多いだろうに、一通り愚痴さえ吐けばまたよく働く。
「私も淡路について行きたいくらいだけど……」
「や、ここは男だけの方がいいだろう」
「そうねえ、そうかもね」
歩いていると、人だかりができている場所があった。堺と言えば会合衆に代表されるような富商であるが、人が多い分、青物、魚、草履や籠などを売る行商も集まってくる。そうした小商いは珍しいものではないが、はて、この騒ぎはどうしたことであろうか。
「ああ、さては!」
「心当たりがあるのか」
「きっと、あいつよ。猿面冠者」
背伸びして、人垣の向こうの様子を覗いてみた。中には、啖呵売に励む若者。確かに猿に似ている。扱っている品は茜と茶葉のようだ。上物らしい。目の肥えた堺衆でも思わず目を引く。物の素性確かさを小気味よく語り、調子よく次々に価格交渉を纏めていくその姿は、商人の手本のようだった。
「ふらっと現れては、ああやって稼いで去っていくのよ。相場より二割くらい安い値をつけるから、会合衆から目をつけられているんだけど……、尻尾を掴ませないのよね」
「面白いな」
長慶への土産話になるかもしれない。いねと別れた後、康長は気配を消して若者の後を追った。
猿面の男は某商家で横流しの硫黄を仕入れた後、北へ向かっていく。ちょうど方角も同じだった。
用心棒を二人連れている。街道から人通りが減るのを待って仕掛けた。馬の後についている用心棒を音も立てずに締め落とし、続けて列の前を進む用心棒の背に触れる。驚いて刀を抜こうとした相手の足を払い、地面に頭を打ち付けて気絶させた。
「物取りかね」
若者。落ち着いている。危機に慣れている顔だ。
「驚かせてすまんな。少し話してみたかっただけだ」
「歩きながらでよろしいか」
「ああ」
違和感。朝、堺で見たのは、明るくて人懐っこい男だった。いまの彼は、まるであの元就のような――。
「話とは」
「この荷は硫黄であろう。こんなものをどうするつもりだ」
「京で売る。手間がかからない割にいい銭になる」
「銭が欲しいのか」
「いずれ必要になる」
隠そうともしない。康長のことを恐れている様子もなかった。
「何に使う」
「俺は侍になる。偉くなるには主命をこなす必要がある。成果を上げるには銭が要る」
「……」
「天下人を目指すには、銭が要るんだよ」
「な。て、天下人だと」
「三好様が世の中の仕組みを変えてしまっただろう。山奥の地侍が天下人になれるんだったら、農家の倅の俺だって目指していいはずだ」
「お主は……」
猿がにやりと笑った。
「俺がこう言うと、皆笑うよ。だけど、あんたは違う。あんたの顔は、同じような法螺を聞いたことがある顔だ。あんた、三好家の人かい」
「……!」
見透かされている。康長の反応を見ただけで。
「もしそうなら、口を利いてくれないか。三好家なら、実力さえあれば偉くなれるものな」
掌の汗を意識した。どうする。このまま、芥川山城へ連れていくか。それとも、生かしておくと危険か。
この斉天大聖、長慶ならば掌で飼いならすこともできようか?
「……お主の生国はどこだ。家族は」
「尾張に母や姉、弟がいるが」
「ならば、尾張で仕官の口を見つけるのがいいだろう。三好長慶は、家族を大事にする男を好む」
「ほう。それはいいことを聞いた」
「ひとかどの男になったならば、あらためて訪ねてくるがよい。わしは――三好康長だ」
「思ったとおりだ。あんた、大物じゃないか」
きゃっきゃっと、猿のように笑う。底暗いものが薄れ、朗らかな顔を見せ始めている。
お主の名は。そう聞こうとして、やめた。次に会うときは、姓も名も変えていそうな男だ。
「武士ですらないお主が天下を獲れば、甥の偉業も霞んでしまうな」
「三好様は名を惜しむような人ではないだろう」
「ふ。知り合いのように話すものだ」
結局、親しく芥川まで歩いて、そこで別れた。
三好家に関わらせてはならぬ。なぜだか分からないが、そんな予感と悪寒とがあった。
*
兄弟四人と康長で膳を囲んだが、埒が明かなかった。
長慶と之虎は目を合わせようともしない。一存はおろおろとするばかりである。
「叔父上。こうなれば、荒療治にかけましょうか」
「何か策があるのか」
「まあ見ておいてください」
一同に声をかけ、造船所へ案内する。既に日は沈んだ。安宅船を建造するこの大規模な建物では、天井の方まで蝋燭の灯りは届かない。昼間は百人を超える船大工が汗を流している場所で、五人きり。しじまは耳鳴りを呼ぶほどであった。
「冬康よう。こんなところまで連れてきて、どうしようってんだよ」
「安宅水軍名物。“闘勁神託”」
「なんだ、そりゃ」
「船乗りの風習ですよ。揉め事を海神に仲裁してもらいます」
「……意味が分かんねえ」
之虎はそっぽを向き、長慶はおとなしく聞いている。
「持隆様の死。あれ以来、慶兄と虎兄の仲はおかしくなってしまわれた」
「おかしくなってなんかいねえよ」
「いまは会話を避ける程度でしょう。こんなことでも、放置しておけば天下を二分することになるのですよ」
「余計な御世話だ! 兄上も黙ってねえでなんか言えよ!」
皆の視線が長慶に向いた。
「ふふ、案じさせてしまったようだな」
「その通りです。我々兄弟の結束にひびが入れば、持隆様がどれだけ悲しまれることか」
「それで、闘勁神託とやらは何をすればよいのだ」
「おい! 話を進めてるんじゃねえよ!」
「互い違いに、一言述べてから相手を殴ります。海神は最後まで立っていた方に味方する」
之虎が吠えるのを無視して段取りを説明する。
「ふふ、ははは。なんとも乱暴な神様がいたものだ。……之虎よ、先攻はくれてやろうぞ」
「本気かよ……」
首を振っているが、まんざらでもなさそうだった。之虎にも溜まっているものがある。
康長は姿を消した。一存は兄たちの会話についていくだけで精一杯だ。
「よう、始めていいのかい」
「この形代を二枚、海に浮かべてからといたしましょう」
「早くしてくれ」
短く経文を唱え、“長慶”“之虎”と墨で記した紙人形を流した。同時に之虎が踏み込む。
「いつもいつも、おいしいところを持っていきやがって!」
鋭い一撃が長慶の顎に入る。よろめいたが、倒れない。切れた口元を拭って長慶が動く。
「欲しがりはやめよと、何度も言ったであろう!」
胸元から真っ直ぐに繰り出した拳が、之虎の形のいい鼻に刺さった。穴の一方から鼻血が、一方からは鼻汁が吹き出す。眼には涙も浮かんできている。
「兄に甘えたら悪いのかよ!」
脇腹を斜め下から突き上げる。
「だったら、格好をつけるな!」
こめかみを打ち下ろす。
「うっせえ! こっちだって一杯一杯なんだよ!」
横頬。
「そう言って、容易く私を超えていくだろうが!」
心の臓。
次第に口上を述べるのを忘れ、ただの殴り合いになってきた。蹴りや肘打ちも混ざっている。
「お、おい冬兄。これ、収拾つくのかよ」
「二人とも鍛錬を怠っていないようだなあ」
「何を呑気な。止めなくていいのか」
「お前、あそこに割って入れるか」
「……」
銭を取れそうな迫力だった。長慶も之虎も、日頃は激情を面に出すことなどないはずだ。この際、すべて出し尽くせばよい。どれだけ偉くなろうが、人の本質は海の男とそう変わりはないのだから。
「きっと、持隆様がどこかで見ている。あの方らしく、高笑いをしながらな……。もう少しやらせておこうよ」
「お、おう。そうだな」
それから、更に十発ずつくらいの攻撃が続いた。二人とも膝が笑っている。汚れて分かりにくいが、顔にはどうしようもない哀しみが浮かんでいる。
「私はな! 持隆様を親のように!」
長慶が動いた。
「俺もだよ馬鹿野郎!」
之虎が合わせる。
二人の拳が交差し、両方の顎を打ち抜いた。効いた。きっと意識が飛んでいる。それでも、倒れない。倒れようとしない。
「――ここまでだな」
冬康が手を上げた。頭上で物音がして、二人の上に黒いものが振ってくる。反応して逃げる間もない。
「こ、これは」
「なんだあ! う、臭え!」
魚網である。さしもの長慶と之虎でも、独力で脱出するのは不可能だ。
「義兄上! 上手くいったかい?」
天上の梁から、冬長と康長が手を振っている。冬康も手を振って応えた。
「両者痛み分け、和睦すべしとのお告げです。よろしいですか」
「……勝手にしやがれ。もう、動けねえ」
之虎が観念した。
「私もだ……。このまま眠ってしまいたい」
珍しく、長慶まで投げやりになっている。
二人は一存と冬長に背負われ、冬康の屋敷へ運ばれていった。
「上手くいったな」
「ええ。思った以上に」
康長が声をかけてきた。あの様子だと、いままで以上に仲良くなる。
「ひとつ聞きたいのだが」
「なんでしょう」
「闘勁神託とは、本当に存在するのか」
「ははは。実は今朝思いつきました」
「やはりそうか。……呆れた奴だ」
「二人とも賢過ぎるのですよ。薬は荒唐無稽でいいのです」
今日は楽しかった。この齢になって兄弟喧嘩を拝めるとは。しかも、子どもの頃と対策が同じでよいとは。
浜風の上では、月も真ん丸になって笑っていた。
*
瀬戸内地域のひとつである播磨の晩秋は、寒風吹く京に比べれば余程過ごしやすい。多忙を極める長逸は、慣れない土地や気候にも怯むことはなかった。
長慶、松永兄弟、四国・淡路衆を欠いていても、一万の兵が集まっている。摂津から播磨に進軍した途端、在地の国人衆が競うように旗下に参じてきたのだ。彼らの身元を洗い、編成するだけでもひと苦労だった。幸い、実務方の片腕として連れてきた石成友通がよい働きをし、いまのところ滞りは生じていない。友通は軽薄なところがあるが、手続きの速さや確かさでは卓越したものを持っていた。
長慶の意向で、三好家の実務は現地調査と直接交渉が旨とされている。従来の公方や細川内衆のように寺社や国人などの中間権利者を介すことなく、三好家の者が自分の目で現地を見、土地の人間と直接細部を詰めるのである。これは軍事でも内政でも評判がよく、三好家の実入りもよかったが、その分実務方の負荷は大きかった。公方や細川家から相当数を引き抜いたとはいえ、友通のような有能な人材はまだまだ不足している。
その点、松永兄弟は二人の力が上手く噛み合っていた。戦の長頼、人たらしの久秀。丹波では宗渭の奇襲で一敗地に塗れたかのように見えたが、しぶとく態勢を立て直し、再び波多野に圧力をかけている。久秀の礼を欠いた言動には眉をひそめてしまうが、長頼の武人らしい実直さには敬意を抱いていた。
「父上、吉報です! 松山重治、有馬村秀がそれぞれ敵を降伏させましたぞ!」
陣所に息子の弓介が入ってきた。これで、播磨で落とした城は七つになる。追従するように友通が顔を上げた。
「お見事ですな! 長逸殿の七城抜き、必ず後世に名を残しましょう」
城といっても、大半は付城や砦のようなものである。数を誇っても自慢にはなるまい。
この辺りで最も力を有している国人が、三木城の別所氏だ。別所氏を三好家に屈服せしめ、ついでに一応の播磨守護である赤松晴政と和睦を結ばせることが、この戦の目標である。
東播磨を押さえれば丹波攻略に弾みがつく。無事に丹波を平定できれば、いつかの波多野稙通との約束も果たすことができる。そして、長慶の心労も少しは減るはずだ。
「この勢いで、一気に攻めかかりましょう!」
若い弓介が血気に逸る。自分も早く手柄を立てたいのだろう。
「愚か者。三木城は尼子晴久ですら落とせなかった堅城ぞ。それに……別所を滅ぼしても駄目だ」
「ええ、ど、どうしてですか」
「別所就治は歴戦の強者だ。生かして我らの傘下に加え、尼子を防ぐ盾とするのがよかろう。赤松に播磨一国を預けても、備中や美作同様、尼子に呑み込まれてしまうだけよ」
「な、なるほど!」
弓介と友通が感心したように長逸を仰ぎ見る。……これくらいで驚いているから、まだまだ大事なところを任せられないのだ。久秀や四国の篠原長房は、常に主の頭の中を追っているぞ。
武人も奉行も足りない。それらを束ねることができる者は更に足りない。長慶のために、人材を一人でも多く育てることも長逸の役目だった。
*
ひょんなことから、妙な小童を拾ってしまった。
播磨への出陣を前に、用水相論の裁定絡みで視察に出かけた。途中立ち寄った寺の門前茶屋で、料理人らしき少年に突然包丁を向けられたのである。
「お師匠の仇!」
彼はそう叫んだ。供回りが刀を抜こうとしたのを制して、長慶は話を聴いてみることにした。
「様々な所で恨みは買っていようが……。お師匠とは、いったい誰のことだ」
「孤児だった俺を拾って、料理を教えてくれた人だよ!」
「料理人を成敗した覚えはないが」
「お師匠は江口の戦いで、三好宗三様と一緒に最後まで戦ったんだ。総掛かりの前の晩に、俺をこっそり逃がしてよう」
なりゆきを口にしながら、少年の目には涙が浮かんでいる。長慶を憎んでいたというより、思わず身体と口が動いてしまったというところだろうか。
「ほう、宗三殿の」
「言いたいことは言った! 斬るなら斬りやがれ!」
「……ふふ、正直な奴。久しぶりによいことを思いついたわ」
茶店の主に事情を話し、城へ連れて帰ることにした。死を覚悟していたらしき主にとっては嫌も応もない。少年は抵抗したが、選び抜かれた長慶の護衛の前では無力だった。
ちょうど、おたきが手伝いを欲しがっていたはずだ。
芥川山城内、長慶の館。これほどの規模の山城となれば城主は麓の館で生活することが常であるが、長慶はあえて城中に館を築いて暮らしていた。ひとつには暗殺への備え、もうひとつには権威づけが狙いである。どんな貴人でも、長慶に面会するためには芥川まで来て山を登らねばならない。ささやかな演出ではあるが、なかなかの効果はあるものだった。いまや芥川山城は天下の政庁と見做されている。
目立つ場所に配した石垣、畿内随一の威容を誇る曲輪群、壮麗な長慶の館。孫十郎の頃から更に改修を加えた城郭と屈強な守備兵の群れを見て、少年はさすがに肝を冷やしたようである。使用人の間、長慶とおたきの前に座らされた頃には、すっかり怯えてしまっていた。
「名前は」
「し、茂三と申します」
口調まで改まっている。そんな茂三をおたきはひと目で気に入った様子だった。
「どうだ、おたき。使えそうか」
「いいですねえ、力もありそうだし。最近腰が張って仕方ないから、助かりますよ」
「俺を……斬らないのですか」
茂三は話の流れが見えないようだった。
「そうだな……。茂三よ。お主、料理の腕に自信はあるのか」
「あ、あります!」
「よし、吸い物をつくってみろ。うまければ料理人として遇する。そうでなければ、おたきのもとで下働きだ」
おたきに言って、冬康から土産に貰った淡路海苔を用意させた。海苔の椀物なら誤魔化しは効かない。料理人の腕を試すには最適だ。
「は、はい!」
おたきと共に台所へ向かっていく。長慶は私室に移って、久秀からの報告書に目を通した。慶興の件である。これまで何度かすり合わせてきたとおりに取り計らうよう、返書と依頼書を出しておく。
やがて二人が膳を運んできた。茂三は緊張感漲るいい顔をしている。おたきは何も言わない。椀の蓋を取った。透明な汁。少量の海苔。貝だとか魚だとか、余計なものは入っていない。自己申告の通り、腕に覚えがあるのだろう。
口に含んだ。上物の海苔の香気。鰹節と昆布で丁寧に取られた澄まし出汁。悪くはない……が。
「ちと、濃いな」
「……!」
茂三が青ざめ、うなだれる。やはり、という顔をおたきがした。
「やり直し」
「も、もう一度機会をいただけるのですか」
「料理は試行錯誤するものだろう」
「直ちに!」
再び台所へ戻っていった。いそいそとおたきが後を追う。まるで我が子を見守る母親のようだった。
二回目。温かな椀に口をつけ、匂いを愉しみながら含んでいく。
「うむ、よい塩梅だ」
「は、は!」
肩の力が抜けていくのが分かった。安心したのだろう。
「だが、言われた通りに直しただけではつまらんな」
「え……」
「もう一回だ」
あからさまな動揺を見せた。酷か。だが、才能があるのだ。
三回目。風味が変わった。海苔の真価を引き出す潮の玄妙。うまい。椀に芯が通ったではないか。
「……鯛?」
「ご、ご明察の通りです。鯛の骨で取った出汁を少量混ぜました」
「ほう、よく喧嘩させずに纏め上げたものよ。褒めて遣わす」
「ありがとうございます!」
茂三が号泣しだした。既に仇討ちなど忘れてしまっている。素直な才気はいいものだ。
「よく頑張ったものねえ」
おたきも涙ぐんでいた。情が移ったのだろう。
「……おたきよ。いっそのこと茂三を養子にとって、坪内家を再興したらどうだ」
「なんですって」
「亡き夫や子どもも喜ぶのではないか」
「も、もったいないお言葉……」
おたきが茂三を抱き締め、二人して泣き咽ぶ。真情から絞り出た涙は温かいことだろう。
次は自分の子どもの始末だった。腹は括ったが、同じようによい方向へ転がるといいのだが……。
*
久秀を締め上げて母の居どころを掴んだ。長慶や長逸など主だった者は播磨に出陣している。留守を預かる基速は政務を一手に引き受けて忙殺されており、自分を見張る者はいない。迷うことなく、慶興は城を飛び出していた。
「芥川から離れてしまえばこっちのもんさ。なあ勝っちゃんよ」
「本当本当、さあ参りましょ。いざ旅烏、水面を横切り山をも越えて雲の向こうに何をや見つけん」
意気揚々、囚われの身から解き放たれたような気分だった。相方の池田勝正も細かいことを気にする男ではない。旅ができるというだけで喜んでついてきた。長慶と違って、慶興の顔を知る者は少ない。元服したとはいえ未だ十三歳、公の場に顔を出すことは稀である。道行き怪しまれることはないだろう。
そう思っていたが、京と近江との国境でいきなり躓くことになった。公方や六角家との緊張関係が続いていることから、三好家の者が山科の関所で身元改めを行っているのだ。
「熊さんどうしたものかねえ」
「面倒くせえなあ。あんな連中は田楽にして喰ってやろうぜ」
「エーイ、よしきた」
強行突破するつもりで得物を取り出そうとしていると、女がこちらに近づいてきた。朱傘片手の黒羽織。少年の目で見ても背筋が伸びてしまうような器量よしである。
「ちょいとお待ちよあんたたち。物騒なことするんじゃないよ」
「なんだい姐さん藪から棒に」
「ここはあたしに任せておきな」
そう言って女は関所番に近づき、何かひらひらと踊ってみせながら話をし始めた。何だか女のいる一帯が華やいだようで、辺りの男は関所番も行商も骨抜きにされてしまったようだ。
「首尾は上々、あんたたちは旅の芸人あたしは舞姫。そこのところよろしくね」
戻ってきた女の言う通り、関所はあっさりと抜けることができた。どういう次第かとんと分からない。
「姐さん狐か何かかい」
「いかにも伏見生まれの龍吉稲荷でござんすよ。さ、心安らぐおっかさんの胸を探しにいこうじゃないか」
そう言って綻びる女は、これまで慶興が見たどの女よりも美しかった。
続く