きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

三十四 潮騒の段  ――畠山高政 家臣安見宗房と対立し、細川六郎 松永兄弟に丹波を落とされ逆上す――

三十四 潮騒の段

 

大林宗套が睨んでいる。もう何歳だか見当がつかないくらいの老人だが、この迫力はなんなのだろうか。

「何か、お気に障りましたか」

素直に教えを乞う。

老師はすぐには答えず、警策で長慶の股間を突いた。

「むおっ」

「汚い、汚い。御身の身体には鬱屈が溜まっておるわ」

日頃は口に出せないような、他人に最も触れられたくないようなところを指摘されたと思った。心当たりは充分にある。あまねに去られて以来、女人に触れたことすらないのだ。

「……心得ております。老いを、精が枯れ果てる時を待っているのですが」

「喝! 年を取ったくらいで色情を捨てられるなら誰も苦労などせんわ」

「そ、そうなのですか」

「出家するか、後添えを貰うかした方がいい。意志の力で抑えているつもりだろうが、心身の調和は確実に崩れてきておる。早死にするぞ」

「……」

それだけを言い残して、老師は南宗寺(大阪府堺市)から去っていった。与四郎の他、天王寺屋の父子や今井宗久など、堺には大林宗套を慕う者が多い。おそらくどこかの大店に招待されているのだろう。

長慶はしばらく考え事をしていたが、やがて首を振って会合場所へ向かった。

 

「はあっはは! 傑作じゃあないか、大徳寺は夜の悩みまで問答してくれるのかい」

「笑うな、之虎」

「で、でもよ慶兄、笑うなって言う方が無理だろう」

「本当に……くすくす」

包み隠さず話したのは失敗だったようだ。冬康以外の弟妹はおかしそうに笑い転げている。よく考えれば伴侶との関係で問題を抱えているのは長慶だけなのである。いねですら最近は与四郎と仲がいい。

弘治三年(1557年)の夏。長慶たちは建設が進む南宗寺の視察に堺へ集まっていた。その上で、久しぶりに夕食を共に取ろうといねが兄弟を集めてくれたのである。このこと自体が、やもめ暮らしの長慶に家庭の温もりを味あわせようとの配慮だったのかもしれない。

笑みながら、いねが囲炉裏に大鍋をかけた。とと屋ではなく、近隣の農家である。芝生の雰囲気に似ているところを探してくれたらしい。鍋には既に出汁が張られていて、そこに次々と具材を入れていく。うどんを中心に、鶏、はまぐり、麩、湯葉、三つ葉など……。生きた海老を入れた時などは、驚いた海老が鍋の外まで飛び出して皆で慌ててしまった。

「兄様は久しぶりでしょう、大鍋を皆でつつき合うなんて」

「うむ、畿内では品がないとか五月蝿いものな」

芝生に暮らしていた頃は、皆で鍋を囲むことが楽しみだった。つるぎが好きだったから、鍋にはよくうどんを入れたものだ。元長追悼の寺を建てることになって、いねもあの頃のことを思い出したのだろう。

無論、具材の豪華さは当時の比ではない。一存は早くも涎を垂らしていた。

「もういいかな、姉上」

「ちょっと、待ちなさいよ。相変わらず食い意地が張っているわね」

「こんな男でも九条家から嫁を貰えるのだからな」

「冬兄もきついな。摂関とか言ったってどうってことないんだぜ」

「お前が分かってないだけじゃあないかい」

そうこうしているうちに鍋が煮えた。気心の知れた兄弟同士である。遠慮する者もなく箸が伸びていく。

「うめえ!」

初めに声を上げたのはやはり一存である。

「うむ……品のいい味だ」

「おいおい、姉上がつくったとは思えねえな」

「之虎は一言多いのよ! それより兄様はどうかな。気に入ってくれた?」

「ああ。実にうまい」

様々な具材から滲み出た味が出汁に溶け合い輝く。そのつゆをうどんが存分に吸って……口当たりと旨味とが重ね合う悦楽、ひたすらに艶冶、艶冶。夏の暑さなど微塵も気にならぬ。汗を出し、汗を忘れて小鉢の汁を啜る。時おり小さく息をついて、また啜る。

「……昔から思っていたけど、兄様はひたむきに食べるわねえ」

「嫁ぐ相手としてはいい男だと思うがな」

「何ならよう、俺が適当に見繕ってきてやろうか」

「がはは、阿波のいい女には虎兄の手がついているだろう」

「……やかましいよお前たち」

 

食事が済んで、いねが片付けを始めた。残された男たちは自然と評定染みてくる。

「香川攻めは伸ばせってえことだな」

「ああ。いまは畿内に専念すべきだ。近江の公方、六角。河内もまた不穏になってきている」

毛利元就・隆元父子が防長経略を成し遂げていた。あの日ノ本一の大名、大内家が遂に滅んだのだ。色々と縁もあって、毛利家と三好家の関係は良好だった。長慶は五畿内の無事を、元就は中国地方の安寧を互いに伝え、祝いを贈りあっている。朝廷贔屓な毛利のために、大内滅亡を不安がる公家たちの世論工作まで引き受けていた。毛利の方でも、大内に身を寄せていた足利義冬を保護してくれている。

毛利は西に大友、東に尼子という強敵を抱えているし、大内残党の相手もせねばならぬ。畿内に目を向けている余裕はない。言い換えれば、当面、中国・九州の勢力が上洛してくることはないということだ。毛利は伊予の河野氏と繋がっており、河野は西讃の香川氏と繋がっている。いまは香川と争わないことが得策だった。

公方が期待を寄せているのは、毛利との関係で動けない尼子と大友の他、今川、武田、長尾、朝倉というところだった。九条稙通によれば、近衛前久も独自に長尾景虎へ接近しているという。いずれにせよ、これら東国の大名が連合を組んで上洛してくると厄介だった。そうそう簡単に実現するはずもないが、公方奉公衆が必死に書状をばら撒いているとは聞いている。油断は大敵だ。

東国大名への備えとしては、美濃の斎藤義龍尾張織田信長辺りを頼りにしたいところである。だが、彼らがどういう態度に出るかは不透明だった。斎藤や織田も成り上がりという点では三好家と変わらない。しかし、成り上がりがいつも古い権威を嫌う訳ではないのだ。権威から認められた時、最も感激し、忠勤を誓うのもまた成り上がり者なのだから。

「兄上は義輝公をどうするつもりなんだい」

「何通りか考えてはいる。その時期もまた、何通りかあるというところだ」

「時期は早い方がいい」

「そうだな。燻り出すのが最善かもしれぬ」

こういった大きな方向性の話は、主に長慶と之虎で話し合う。冬康は黙々と聞いており、一存はあまり興味がなさそうだった。いねは向こうで盗み聞きしていて、商売の芽がないか考えているに違いない。

 

  *

 

「“もう一度”言ってみろや、あ?」

「幾らでも申しましょう。根来衆を使った私兵遊びなどおやめくだされ」

「何抜かしやがる。畠山の“武”、当主自ら鍛えてやろうってんだろうが」

「それが余計なことだと申しておるのです」

「んだとるあ!」

遂に紀伊通いにまで因縁をつけてきた。高政が何度も怒鳴り声を上げるが宗房は意にも介さない。

深夜の高屋城、高政の館は緊迫した空気に包まれている。このひりひりした状況に胸が高鳴る。

「殿が表に立てば、兵や民は身分というものを嫌でも意識いたします」

「はっ、いつまでも遊んでのはお前だろうが。ええ? “木沢長政の亡霊”さんよお」

宗房が初めて顔をしかめた。長政ほどの妖しい魅力は持っていない。民を煽ったとて、宗房個人を信奉する者など現れやしない。そのことが自分でもよく分かっているに違いなかった。

「しゅ、主君とて言葉が過ぎますぞ……」

「この河内はよう、源氏を生んだ誇り高い国なんだよ、武士の“故郷”なんだよう! 遊佐長教の真似事で権力を握ったかと思えば、今度は木沢長政のなりそこない“ごっこ”かい。中途半端なんだお前あ、この国を引っ掻き回してんじゃねえぞ!」

「げ、源氏が何だ! 私にとっては長政様こそが……!」

「やかましい!」

蒼白になって身震いし始めた宗房の面に、思いっきり蹴りを入れた。遂に一線を越えたと思った。

ぺしゃんこになった鼻から血を撒き散らしながら宗房が起き上がってくる。白い肌に汗がぬらぬらと光り、歯の根が噛みあっていない癖に自尊心だけは一丁前な目つき。見ているだけでむかつく野郎だ。

「命の……保証はできませぬぞ……」

「ほら出たよ。長政の物真似、長教の猿真似。ふん、“芯”がないんだお前あよ」

「……! こ、この人形が!」

襖が開き、宗房の側近五人が部屋に入ってきた。いずれも亡き長政に心酔している者たちで、いまだに頭のおかしい夢を追っている。河内にはこういう奴らがごろごろ生き残っていて、宗房のような小者を担いで調子に乗っているのだ。しかも性質の悪いことに、こんな連中に限って喧嘩が強い。

「俺あ好きにさせてもらうぜ。お前は“三好長慶”でもないのさ、“畠山”当主の看板抜きにはたいした力も振るえめえ。ははは、はははは」

「捕らえろ! 座敷牢に今度は一生押込めてやれ!」

「かっ、いつまでも同じ手に乗るかよ!」

迫ってくる一人を蹴り倒し、続いて背後の燭台を宗房に投げつける。あらかじめ灯りの数を絞っていた。逃げる道筋も、目を瞑っていても走り抜けられるよう準備をしてある。光が消えてしまえばこっちのものだ。

庭に飛び出し、館の外に向かって駆ける。見張りの兵がいた。どけと怒鳴る高政、掴まえろと叫ぶ宗房。どちらの命に従うか、迷ったのがよく分かった。けれど、高政が蹴りを放つ前に兵は門を開けたのである。

「よおし、いずれ取りたててやるからな! 殺されるなよ!」

兵の肩を軽く叩き、高屋城を脱出。城外に待たせてあった往来右京たちと合流する。用意させていた馬に乗って南へ向かった。しばらくは紀伊の山奥にでも隠れているしかない。

「様子がおかしいので、冷や冷やしながらお待ちしておりました」

「どうってことねえよ。さ、ともかく“傀儡”ではなくなった。ざまあ見やがれ」

「えっ……、いったい城で何をなさってきたのです」

「“手切れ”だよ“手切れ”! 次はあいつらを一掃する手を考えなきゃあな」

「ま、まさか安見宗房殿と」

「いっそ三好と組んでやろうかなあ!」

「そ、そそ、その儀はよくお考えくだされ……」

もとより右京はこの手の話をする相手ではなかった。微笑んで安心させてやる、それで充分である。

だいたい、夢や展望など口にするものではない。今日のように、叶えてから叶えたとだけ言えばいいのだ。

 

  *

 

佳の息子、岡部正綱の初陣が近いという。確かな時期は決まっていないが、年内、遅くとも来年には戦に出ることになるようだ。一族の岡部元信や松平の若君も総出だという話だから、今川義元は本気で三河の敵対勢力を平定するつもりなのだろう。

「今から張り切っちゃって。嫌になるわ」

「母が何を言っても、息子はいつの間にか男になってしまう……」

「本当よ。もう嫌だ、戦で死なせるために育てたんじゃない」

あまねの寺にやってきた佳を慰める。夫亡き後の岡部家を必死に支え、正綱を育て上げてきたことが、すべて徒労だったように感じているのかもしれない。

あまねにできるのは、話を聞くことだけだ。

「今川様は、五年のうちには尾張を呑み込んで、十年もすれば上洛して都に覇を唱えるおつもりなのよ。なんでも天下の宰相たる人が持つべき刀を手に入れられたとかで、ますます大望をお持ちになったそうな」

「ふうん……」

お膝元の贔屓もあるとは思うが、中央で勢力を拡げ続ける三好長慶に対抗できる者がいるとすれば、それは今川義元だろうと言われていた。豊かな尾張を併呑すれば戦力は倍増する。京はさして遠くない。背後の武田や北条とは強固な婚姻同盟を交わした。足利家の一門でもあり、足利義輝や細川六郎を支援する名分だってある。

風流に力を入れているのも、案外長慶を意識してのことかもしれない。上洛した際、畿内の民が最も嫌がるのは野蛮人の乱暴狼藉である。人物としても長慶を超えねば京の世情は安定しまい。

「確か、そう……“宗三左文字”だったかな。野望に燃えて上に立つ人はいいけど、ついていく下は大変。――って、どうしたの?」

「何でも……ない」

三好宗三。あの人があたしと別れてまで、戦うことを選んだ男。その遺物がこの駿府に。

「前から思っていたけれど……あまねさん、あなた、都の政情と関わりがあるんじゃないの」

「……聞かないで」

「嫌ならいいのよ。でも、だったらもう少し誤魔化せるようにならないと」

「あたし、顔に出てるかな」

「分かり易過ぎるわよ」

佳が手首を振って笑う。下女に扮して庭を掃いている琴もくっくっとにやついている。

「……あたしにも息子がいるの。離ればなれで暮らすうち、すっかり乱暴な男になって」

「やっぱり、子持ちだったか」

「うん……。ねえ、もうずうっと昔、何でも欲しい欲しいって言っていた頃のことを覚えている? 大人になるうちに、普通は忘れてしまうような気持ち……。そんな駄々っ子のまま、大きくなっているようで……」

「……」

「そうなったのはあたしのせいじゃないかって。子どものことを後回しにして、別れてしまったからじゃないかって」

「……いつも私が泣き言を零しているけど。あまねさんが涙を見せてくれたのは初めてね。……ふふっ」

「うう……」

背中をさすってくれた。何気ないいたわりが身体の内側を温めてくれる。

「そうやって息子は遠くに行ってしまう。見られるものなら息子の一生を見届けたいけどねえ」

「子が先に死ぬのは嫌」

「一緒に死ぬ訳にもいかないし。母親って因果だわ」

佳の長い髪があまねの頬を撫でる。美しいが、水気、艶気は少ない。あまねと同じ、一人で生きている女の髪だった。

 

  *

 

八月二十六日。未曾有の暴風雨が畿内を襲った。

この時期の野分は珍しいものではない。だが、その異常な烈風と、続いて生じた凄まじい高潮は、畿内沿岸部一帯に激甚な災害をもたらしたのである。

ことに高潮の惨禍は甚だしく、尼崎、別所、難波、鳴尾、今津、西宮、兵庫、明石などの港・漁村を丸呑みにしてしまった。死亡が確認できた者は数百人、行方知れずは数千人……。三好家や安宅家が所有する船舶・積荷も、その多くが文字通り水泡に帰した。

突然の、あまりにも突然の出来事に、力なき民草は呆然と希望を見失うばかりある。平蜘蛛町だった場所に佇む慶興と勝正とてそれは同じだった。

「今頃竜宮城で踊ってるのかねえ」

「姐さんに海の底は似合わねえよ、天上界ならともかくよう」

高潮が襲ってきた時、平蜘蛛町にはまだ多くの酔客や遊女が残っていた。嵐の中、家に帰すというのも難しかったのだ。迫りくる波濤の轟き。想定外の危機に、群衆は一時恐慌状態になりかけていたのだという。その時、皆の前に現れた龍吉が見事に混乱を収拾し、女と老人から順に避難させていった。きびきびした指図は的確で、結果として女や客は全員助かった。いなくなったのはしんがりを務めた龍吉だけである。

「世話になりっぱなしで何の借りも返しちゃいないのに」

「ほんとだよなあ……」

「畜生姐さんにもっかい会いてえな。真ん中で姐さんが舞って俺たちが後ろで音を鳴らして」

「勝っちゃん姐さんに惚れていたんだろう」

「その顔で人のこと言えるものかね」

しばらく二人で泣いていた。海に怒鳴りながら石を投げ込んだり、流れ着いた材木や家財道具の下を覗き込んだり……。何をしても胸に開いた穴が疼き、いたたまれなさが増すばかりだった。

「熊さん帰ろうよ」

「いい子はいい子にしかなれねえって言ってくれたんだよなあ」

こうしている間にもひょっこりと龍吉が出てくるのではないかと考えてしまう。空から降りてきても驚かないと腹を括ってみるが、もちろんそんなことは起こらない。我ながら空想、逃避が過ぎていた。

「ん?」

音。砂の上で動いている。小さいが、確かに聞こえた。

「どうしたのさ」

「しっ……。勝っちゃん、手を貸せ! あのひっくり返った舟の下だ!」

「よ、よしきた」

砂に埋もれた舟は思いの外重かった。力自慢の二人をしても、歯を食いしばらねばそうそう動かない。落ち着いて周りを掘り出してから持ち上げれば楽なのだろうが、そんな悠長なことしていられないだろう。

「らあ!」

身体を舟に持っていかれそうなほどの勢いがついて、ようやく裏返すことができた。

その下から出てきたのは、黒白の……猫だった。弱っているのか鳴き声がか細い。高潮の日からずうっと閉じ込められていたに違いなかった。

「猫だね」

「猫だな」

「でもちょっと黒羽織姿の姐さんに似てないかい」

「ははは違いねえや。せっかくだし連れて帰ってやるか」

「エーイ。これも縁だね」

猫を懐に入れて馬に乗った。小さいながらも感じる、命の脈動。

(名前を考えねえとな……)

馬で駆けるのが怖いのか、猫は胸の奥に潜って顔を出そうとしなかった。

 

  *

 

「面目次第もございませぬ」

「ご、ご、ございませぬで済むものか! 丹波を失のうて、どうやって京を取り戻すのじゃ!」

「は、はは……。必ずや奪還の兵を起こしますれば」

「よう言うたものよ、ならばいつじゃ。何名の兵が集まるというのじゃ。策はあるのか。ええ、言うてみい!」

六郎の剣幕に晴通がうなだれる。敗軍の将にかける言葉ではないと思う。三好家の猛攻に何年間も耐え抜いてきた晴通は、世間で思われているほど凡庸な男ではない。妹が行方知れずのままだという心の傷にも耐えながらこれまで戦い抜いてきたのだ。

八上城が遂に陥落した。松永長頼の手で城を完全に封鎖されているうちに、兄の久秀によって丹波の全国人を調略された。宗渭も晴通や香西元成と共に何度も奇襲や撹乱を試みたが、長頼にはもちろん、久秀にもことごとくを防がれてしまった。もともと数が少ない六郎方である。皆で討死や餓死をするよりは、捲土重来を期そう。そう言いあって命からがら若狭へ逃れてきたのである。

「殿、もうそろそろ……。松永兄弟を相手に五年以上も耐え抜いたのですぞ。晴通殿のご活躍は、誰に引けを取るものでもありませぬ」

宗渭の労いに、晴通が潤んだ目を見せる。もとより晴通の六郎への忠誠は曇りない。嬲られたままにはしておけなかった。

「松永兄弟だと! あんな卑しい陪臣風情がどれほどのものというのじゃ」

矛先が自分に向いた。松永兄弟を侮っている時点で、六郎と現実の間には大きな乖離がある。

「いまや松永長頼は丹波一国の主、久秀も摂津下郡をよく治め、それぞれが守護大名に匹敵する力を有しております。長慶や四国衆の後詰め抜きに万の兵を何度も繰り出してきたことが何よりの証左」

戦上手で知られる長頼に加えて、近頃は久秀までが腕を上げてきている。何度も六郎方に撃退される中で、久秀は確実に戦の呼吸を学び取っていた。しかも同時に、長慶時代と同等以上に摂津下郡をよく治めているのだ。最近も領地が高潮に遭ったが、久秀による施米や施薬、復興への段取りづくりは迅速を極めていたと評判である。既に五十の年寄りだというのに、たいした男だった。

「ええい、おのれ、下種どもが自惚れおって。身の程を知らぬ時代! こ、こんなことばかり許されようか」

「落ち着きくださいませ。そのように頭に血を昇らせますと」

「そうじゃ、昔から……。長慶の配下は……あの和田某とかいう奴もそうじゃった……。主が狂うておるなら家来も家来よ……。許せん! 彼奴らを根絶やしにせぬか! ぬう、何をしておる、立ち上がれ! 兵を集めよ! 細川の威光、いまこそ、知らしめる時ぞ!」

「沈着に、沈着に願います」

目が血走っている。これは、危ない予兆だ。

「京じゃ、京を目指せ。わしが入京すれば民が喜んで集まってくるぞ。来年は久方ぶりに祇園祭でも見物しようではないか……。ふふ、ひゃはひゃ。なあ、宗三よう……」

「殿!」

勢いよく立ち上がった六郎の鼻から、血が滂沱と流れ始めた。黒目が揺れ動き、口はなぜかおちょぼになっている。宗渭が慌てて身体を支えに入ったが、そのまま六郎は意識を失ってしまった。

「そ、宗渭殿」

「時々、こういうことがある。見かけでは分からぬが、殿も傷ついておられるのよ」

「わしのせいだろうか」

「もっと根深いものだと思う。忘れている者も多いが、壮絶な人生を歩んできているのだ。細川家の内乱で阿波へ逃げ落ちてから、ずうっとな。三好元長にはいいように扱われ、木沢長政には陰謀を張り巡らされ、足利義晴公には何度も煮え湯を飲まされ、細川氏綱が遊佐長教に担ぎ上げられ……。とどめに長慶の謀反と、我が父の敗死だ」

「ぬう、確かに……」

「それでも、この方は十年以上も京畿を治めていたのだ。確かに失政もあったが、すべてを殿のせいにするのは如何なものかと思う。細川氏綱が現れてから、この方は毎日怯えて暮らしていた。家督を奪われると思ったのだろうな。長慶に都を追われてからは、近江、若狭、丹波を彷徨い、何度も京へ攻め上がっては、その度に負けた。汚泥を舐めたことも一度や二度ではない」

「……」

「殿の心身はぼろぼろだ。これが罰だというなら、そろそろ許されてもいいんじゃないかと俺は思う」

不屈。貴種には馴染まないその言葉が、六郎という男には似合う。こういう人が報われてこそ、甲斐のある世の中ではないかと思う。

「そのために我々ができることは」

「ああ。忠を尽くすことだけだ」

晴通が拳を突きだしてきた。自分の拳をそれに合わせる。この晴通もまた不屈の将である。

(しかし、戦で三好に勝つことは難しい。政ならば尚更……。何か、他に手はないのか)

六郎の顔や胸元を拭いながら、宗渭は考え続けていた。

 

  *

 

秋も終わりに近づく頃。丹波に長頼を残し、久秀と楠木正虎が芥川山城へ戦勝の報告に現れた。

長慶と慶興もまずは一安心というところである。久秀の顔もいつになく高揚しているのが憎めない。

「祝着、祝着。よくぞ丹波の平定を成し遂げた」

「へえ!」

「ふふ、それにしても凄まじきは長頼の武勇よな。あの丹波兵を相手に一歩も引かぬ奮迅」

「寡黙ながら武勲は抜群てえのが格好いいんだな」

「うむ、よき将を得て私は果報者だ」

久秀がそわそわし始めた。

「父上、このまま長頼に若狭方面の攻略も任せるんですかねえ」

「適任だろう。若狭の武田家も長頼が睨んでいるというだけで肝が縮むはずだ」

「あ、あの、殿さん!」

「む。どうした」

「わ、わいかて……けっこう、頑張ったんでっせ」

久秀の後ろで聞いていた正虎が初めに吹き出した。釣られて長慶と慶興も顔を綻ばせる。

「く、くくく。冗談だよ、久秀」

「いまからお前のことをおおいに褒めようと思っていたのだ。よいかな、褒めても」

からかわれたと分かった久秀の頬に朱色が差す。その様子を見て、よい齢の取り方をしていると思った。

「殿お!」

「すまぬすまぬ、戯れが過ぎた。ようやってくれたな、久秀。お前の働きは私の期待を大きく超えるものだった。まさか、丹波攻めと高潮被害の救済を同時にやってのけるとはな」

「と、殿……」

「お前のように優れた家臣は天下に二人とおるまいよ」

松永兄弟の活躍があればこそ、長逸を近江方面の調略に、四国衆を領地支配の強化に振り向けることができた。三好家の全員を丹波に集めていては、他方面で火種が起こっていたに違いない。

「それによう。あれだけ苦しめられた波多野晴通を見逃してやったってのが鮮やかだ。怨恨憎悪に囚われずちゃあんと父上のお心の内を慮ってるんだもの」

「当たり前ですがな、姐さんの兄君を斬れるかいっちゅう話ですわ。亡き稙通殿と殿が最後に交わした約束、きちんと聞いてまっせ。贅沢言うなら、生け捕りにしたかったんでっけどな」

「……礼を言う。お前も、平蜘蛛町を失って辛かろうにな」

「くよくよしてもしゃあない。人生は七転び八起きや」

「町の再建はせぬのか」

「や、女どもは各地に散らせることにしましたわ。出雲やら駿河やら越後やら。そっちの方が各地の生の話が入ってきますさかい、殿の役に立ちまっしゃろ」

「ふむ……。散り散りになって女たちは難儀せぬのか」

「何人かで寄り合って、目鼻の利く男衆もつけますよって。せやけどほんま、ありがたいことだす。遊女にまで情けをかけてくださるんは殿くらいですわ」

平蜘蛛町の話題になって、猫の“夜桜”を抱いていた慶興が神妙な顔つきになった。

「龍吉姐さんは見つからないのかい」

「へ。どないも、あきまへん」

「くっそ……」

情念の焔に焦がれる慶興に対して、久秀も姿勢を正して言葉を重ねる。

「若殿。これでよかったとは言いまへん。せやけど、お龍は救われとったんです」

「どういうことだよ」

「子どものおらんお龍にとって、若殿との旅は得難い思い出やったんですわ。あの同行は、お龍が自分から“行ってみたい”て名乗りでたんでっせ。帰ってきてからもえらい嬉しがってましたんや。それに……」

「それに?」

「いまやから言いますけど、あの子……元は、三好之長殿に滅ぼされた家の令嬢やったんですわ」

「なんだと」

思わず身を乗り出していた。長慶にとっても初めて聞く話だ。

「ならば、私と初めて出会ったあの夜」

「せや。わいは殿の目利きをお龍に委ねた。お龍は殿の宿命に惚れた。それがあの夜の顛末だす」

「なんという、ことだ……」

曾祖父が遺した因果。龍吉が見た過去と現在。長慶と慶興の間を通り過ぎていった――。

皆が黙りこくった。そして、しばらくしてから、沈鬱を振り払うように久秀が言う。

「話を戻しましょ。丹波制圧のご褒美が欲しいんでっけど」

「うむ……そうだな」

「この正虎。有能やのに世に出ることがでけへん。この不条理を正してもらえまへんやろか」

「なるほど。楠木家の赦免を朝廷に願い出よということだな」

「へい!」

南朝の英雄である正成公以来、楠木家は代々朝敵の扱いを受けている。表立っては日本のどこにも居場所がない。琴が修羅道に身を落としたのも、とどのつまりは家の復興を願ってのことだった。

悪くない、と思った。楠木家再興は足利公方の権威失墜に繋がる。何しろ“七生報国・滅殺足利”の楠木家である。公方の企む有力大名の結集を阻止するには、その前に公方単体を釣り出すことだ。

「だが、いまは時期がな。帝のご容態があまりにも……。む、待てよ」

「父上?」

「ふ、ふふふふ。慶興、久秀。よいことを思いついたぞ」

高潮の酸鼻。長慶が政権を獲って以来、初めて天に背かれた。六郎政権がそうであったように、民の離反は天災から始まるのが常である。とかく民は熱し易く忘れ易く、目先の難儀だけで施政者を責める。それを逸らすには、目立つ外敵、畿内への侵略者が必要なのだ。

足利公方、初めて彼らが役立つ時が来た。不敵に微笑む長慶を前に、皆は怪訝な面持ちだった。

 

続く