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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

三十五 ひとつの段  ――六角義賢 息子義治に軽んじられ、三好長慶 永禄改元に当たって足利義輝を仲間外れとす――

三十五 ひとつの段

 

暦の上では秋だが、朽木では早くも雪が積もった。

さく、さくと足音が鳴る。義輝も藤孝も雪国の暮らしに慣れてきており、歩き損ねて転ぶようなことはない。その一方で、前を進む老人は何かがおかしかった。雪を踏む音が聞こえぬ。足跡もほとんど残っていない。羽毛のように軽やかな運歩である。それでいて異常に進むのが早く、ついていくだけで精一杯だった。

老人の名を塚原卜伝という。五十年も前から名の知れた兵法家であり、七十に近いいまでも腕前には些かの衰えもない。“剣聖”とまで言われるこの老人が生涯三度目の廻国修行に出たという噂を聞きつけ、晴舎に命じて来訪を請うた。卜伝は快く招聘に応じ、このうら寂しい土地にやって来てくれたのである。

晴員や藤英の苦々しい視線にもめげず、義輝と藤孝は三十日に亘って剣術の指南を受けた。卜伝の技量は恐るべきもので、二人掛かりでも敵わないどころか、汗一筋かかせることすらできなかった。義輝の身分におもねって軽く打たせてくれるようなこともしない。そのことに不快感はなかった。むしろ義輝を一人の男だと認めてくれているようで嬉しくさえあった。師弟の絆というものは、家格や立場を超越したところにあることを知った。それを易々と受け容れられた自分が不思議だった。

朽木を発つ前の日。卜伝は人気のない林の奥へと二人を誘った。

「……この辺りでよろしいでしょう」

木剣を構えるように言われた。言われた通りに正眼に構えると、同じようにして卜伝が正面に立った。

「これまでお二人には新当流における基本の型をお伝えして参りました」

「……」

「最後に珍しいものをお目にかけましょう。そのまま動かれませぬように」

構えたまま、卜伝の次の行動を待った。

卜伝は動かない。

意識を剣先から滑らせていき、卜伝を見据えた。その瞳には何の情も籠っていないように思われる。

剣の技を見せるのではないのか。気迫、殺意。雪の一片ほどもなかった。

――冷たいそよ風が頬を撫でた。

さくり、という音。

何かが雪の上に落ちた。そう思った時、卜伝が一歩だけこちらに踏み込んでいることに気づいた。

足下に目を移す。

「なっ」

木剣の刀身が横たわっている。思わず自分の手元を見つめた。柄は握ったままだ。そう、刀身の中ほど。鏡のような断面。切断されている。折られたのではない! 卜伝の得物を見た。ただの木剣だ。木剣で、木剣を切断したというのか。手応えはなかった。いつ卜伝が剣を振ったのかも分からなかった。

「藤孝! 見たか!」

ぶるぶると藤孝が首を振った。いつも鷹揚としている彼でさえ仰天して目を見開いている。

「面妖な……」

考え込む義輝を余所に、卜伝がにこにこと藤孝を手招く。藤孝にも同じように木剣を構えさせた。

(見極めてやる!)

瞬きなどするまい。神速、石火、逃しはせぬ。何が起きるかは分かったのだ。

卜伝。

痩せた老人の身体。

どこにも力みはない。意識すら籠っていないように思える。

とっかかりがない。そう考えた時、僅かに卜伝が動いたように見えた。弾指の一瞬だ。

さた、といって藤孝の刀身が落ちた。汗が目の中に入り、慌てて義輝は顔をこすった。

卜伝が二人に向かって静かに語りかける。

「“ひとつの太刀”と申します」

「……自分の目で見ても、とても信じられぬ」

「こういう境地もある。珍奇な風光を見物したとでもお思いくだされ」

「……」

藤孝と目を見合わせた。よく見れば二人とも指先が震えている。

「この技で人を斬ることはできるか」

「殺すことも活かすことも」

卜伝が優しい表情で答える。義晴、父性、偉大な大人。老人の中に渦巻く神気を感じ取った。

剣聖。

これが剣聖か。

「ひとつの太刀とはどういう意味じゃ」

「それは根源」

「……?」

「それは万物が辿り着くところ」

「……」

「知ってしまえば簡単なことだったのです。ひとつところに帰すもの。あの大空、この大地」

大空。熊吉。お紋が舞う琵琶の海。

何もかもがひとつ……?

「左様。上様も拙者も、この雪の下に眠る蕗の薹ですらも。身体がそれを体得した時、命と刀もひとつに極まりましょう」

「政もか」

「到達した者は戦も政も恣、神仏と合一することすら叶いましょう。蛮勇も陰謀も、祈りも情動も絶望も。洗いざらいが一点に寄せられてくるのですから。……それが、到達するということです」

「卜伝殿は」

「一歩先んじたに過ぎず」

「余にもできるだろうか」

「やってみることです」

その通りだ。やってみなければ分からない。掌を顔の前に上げた。震えは止まっていた。

「ひとつ」

「ひとつですとも」

「そうか、ははは、ひとつか!」

けたけたとはしたなく笑い声を上げ始めた義輝を、藤孝が面白そうに眺めている。

「遂に見つけたのですね」

「うむ! ひとつ! ひとーつ! ひとおおおつ!」

叫び続ける義輝を置いて、卜伝が藤孝に話しかけた。

「藤孝殿、三好様とはそれほどの……?」

「ひとつの極意。誰よりも先んじているのが三好殿でしょうな」

「むう……あの悪之長の曾孫がのう」

「之長殿とご面識が」

「若い頃に少しな」

「お聞かせいただけませぬか」

藤孝は卜伝に続きを促したが、それを義輝が制した。

「細々した話はどうでもよい! 卜伝殿、もう一手。まだ日は高い、さあさあこれへ!」

老人の昔話は長くなる。そんなことをしている間に卜伝は去ってしまう。

藤孝にうらめしい顔を向けられたが、義輝はあえて無視した。いつも義輝に意地悪をする仕返しだ。

卜伝は何もかもを分かったような表情で木剣を手にした。

「よき公方様かな。三好様ともひとつになれば万民が喜ぶでしょうに」

「はっは、いまなら何でもできそうな気がするわ!」

陽光が雪に跳ね返る。頭上の葉が雪の塊を落としてくる。義輝の乱撃は雪の粉を一帯に巻き上げた。それらをすべてかわしながら卜伝がふわりふわりと宙を飛ぶ。

 

日が沈み、月明かりが曇るまで義輝の稽古は続いた。一歩も動けなくなった義輝を、藤孝が背負って帰った。藤孝が晴員に激怒されていたが、義輝はやはり気に留めなかった。

 

  *

 

帝の崩御により、長慶たちは多忙を極めている。大葬の資金供出、中陰に関わる相論の裁許。いつの間にか、父は朝廷儀式のおおよそを掴んでしまっていたらしい。長慶の判断はひとつひとつが実に的確で、公家たちも進んで三好家の意向を確認するようになっている。

基速が言っていた。公家は有職故実に詳しいが、有職故実しか知らないのだと。彼らは前例がどうして生まれたのか、どのような思いで築かれたのかを考えようとしない。先祖代々そうだったから、遥か昔からこうだったから以上を想像する力に乏しいのだ。

長慶は違う。いまを生きる政治家として、実際の課題に取り組んできた人物である。だからこそ百年前、千年前の政治家の考えが腑に落ちる。我が事のように思考をなぞることができる。前例をつくった者たちの気持ちを追いかけることができる。結果として、長慶は異常な速さで有職故実を体得し、公家に解釈を伝授するような逆転現象が生じることになる。

反対に、朽木御所には一人の使者も向かっていない。公家たちが行こうとしないし、国境の関所では三好家の兵が厳しく見張っている。朝廷や寺社では、朽木に籠って大葬の手助けをしない公方を公然と非難する声が上がり始めた。役に立たぬ犬は犬の棟梁と呼べぬという訳だ。

公方のこととはいえ、あまり気持ちのいい話ではない。

だが、すべてが父の意向に沿って動いているのは間違いなかった。

長慶はこの際、改元の手続きも朝廷と三好家だけで完結してしまおうと考えているようだ。重臣たちを芥川山城に集めて父は言った。

「公方や六郎を討つことは大事ではない。彼らを斬ればかえって追い慕う者が現れよう。成すべきことは、民の心、世間の意識を変えてしまうことよ。なあんだ、彼らがいなくても大丈夫じゃないか。いなくなった方が上手くいくじゃないか。そう気づかせてやることよ。ならば、どうすればそう成るのか、一同心を砕いてほしい」

慶興は、父が動き始めたのだと思った。

公方も細川家もいなくなった京を治めて五年近く。守備に適さぬ都を長慶は悠々と守り抜いてみせた。畿内の復興は進み、新築・修繕の槌音がいまも鳴り響く。商いが盛んになり過ぎて銭が足らず、近頃では銀や米による代替が進んできた。米が主要通貨となれば、銭を使い慣れていない者も一丁商売を始めてみようかという気にもなる。大内家の崩壊もあって、堺を中心とした南蛮交易や日明密貿易の取扱高も増加する一方。市場や港には物が溢れていた。

治安もすこぶる良好である。かつては土一揆や宗教一揆畿内を荒らしまわっていたと聞くが、いまは影も形もなく。独立心旺盛だった国人衆も、ほとんどが長慶の支配に服した。高潮の被害はあったものの、それも能吏たちの迅速な処置で大きな騒ぎにはなっていない。

明らかに、畿内は暮らし易くなったのだ。

長慶の善政を民は喜び、公方や六郎のことを思い出す者は減るばかり。

しかし、それでも数百年かけて築きあがった足利・細川の権威は崩れ去ってはいない。“いまは”長慶が特別なだけで、“普通なら”公方が都にいて、細川家や畠山家がそれを支えるべきだ。そうした形が本来は自然なのだと世間は思っている。ふとした拍子に元の形に戻そうと言い出しかねない危うさを孕んでいる。“五十年前はよかった。あの頃は……”と軽々しく考えるのが民であり、人の常なのだから――。

こうした声に出さぬ声を、父は冷静に観察してきた。

その上で、ここからは更に一段ことを進めるつもりなのだろう。

「長逸。東国の情勢を報告せよ」

「は。上洛の気配を有しているのは長尾、斎藤、織田。長尾は公方や近衛家が盛んに接触していますが、景虎本人は都の情勢を見極めること、本願寺との交渉を進めることを重視している模様。斎藤は家中の分裂を纏めるために、織田は今川へ対抗するために権威を欲しているようですな」

「うむ」

「目下、本気で公方を助けようとしている者はおりませぬ。武田晴信などは信濃守護の確約が得られれば公方に用はないという腹でしょう。……但し」

駿府

「ええ。今川義元尾張侵略完遂まで、あと二、三年というところでしょう。織田と斎藤が力を合わせればともかく、信長と義龍は宿敵の間柄。尾張勢の勝ち目は薄いかと存じます」

「公方と争うならいまのうちということだな。六角の調略はどうだ」

「上首尾です。義賢嫡子の義治、日野の蒲生定秀・賢秀父子などを中心に」

「よし」

長慶の頭にはこれくらいの内容は入っている。慶興も含め、一同に聞かせるために問うたのだろう。

基速、久秀、長頼、それに石成友通や松山重治などが頷きながら耳を傾けている。

「皆の者、聞いての通りだ。年が明ければ、やがて公方が怒り狂って攻め込んでくる。いつでも出兵可能な態勢を整えるとともに、民の間には公方が狼藉を企んでいると流布しておけ。迷惑な輩が山の向こうからやって来るかもしれぬとな」

「はは!」

一座が長慶に向かって頭を下げる。黙って聞いていた慶興も皆に合わせて腰を曲げた。

「せっかくだ。慶興も意見があるなら申してみよ」

評定の場で水を向けられるのは初めてだった。父が自分を認めてくれたように思えて心が浮き立つ。

「は……。いまいまの話に異存はありませぬが」

「ふむ」

「父上は公方を克服した後、どこまでを目指すおつもりなのでしょうや」

「ほう、どこまでとは」

「単刀直入に申しましょう。日ノ本の武家を一統する気があるのか、ということです」

家臣たちがざわめき始めた。考えたことはあっても口にはしない話だからだろう。

「ふ、大きなことを言う。確かに、いずれ向き合わねばならぬ問いであるな」

「朝廷がいま以上の力を持つことはありませぬ。寺社は強靭な僧兵や一揆を有してはおりますが、ひとつに纏まることはできますまい。これまでやってみせたように、父上ならば充分に御することができる」

「……」

「残るは黴臭い武家の旧弊を破壊し、新たな時代と秩序を築くのみでしょう。天下人だと世間は言うが、実態は畿内と四国の太守に過ぎませぬ。父上もご存じのはず、地方はいまも伝統という名の魔物に支配されている。苦しんでいる。理世安民、遍く全国に行き届かせるべきではありませぬか? 日ノ本すべてを安らかに治めてこそ真の天下人というものでしょうが」

「よう言わはった!」

上気した久秀が立ち上がり、長頼や長逸もそれに続いた。皆、慶興の言葉に打たれたらしい。

だが、聞きたいのは長慶の答えである。果たして長慶が口を開く。

「やるなら、民の理解を得ながらゆっくりとだ。短気短慮では務まらぬ……。できるか、慶興」

「できますとも!」

「ご立派あ!」

いちいち久秀のかけ声が五月蝿い。しかし、父はいま、確かに志を認めてくれたではないか。

「容易くはないぞ」

「できると信じるからできるのです」

歯を見せるようにして笑った。長慶も微笑み返してくれる。主君の二人を取り囲み、家臣たちが鯨波を上げ始めた。

 

  *

 

父上には難しいですかな。

はあ、これだから父上は。

……お爺様がいればなあ。

息子に顔を合わせる度、ため息混じりにそんな嫌味を言われる。義治が自分のことを軽んじているのは明らかだった。たかが十二歳の子どもがだ。誰かが入れ知恵しているはずだが、心当たりが多すぎて見当がつかない。

義賢から見れば息子の義治の器量は自分とそうは変わらない。鳶の子は鳶だ。罪は鳶を生んだ鷹の方にある。名族六角家の衰退は、自分程度の後継者しか残せなかった定頼に咎があるのだ。それなのに近江の国人衆は定頼の時代を懐かしみ、義賢の指図に従おうとしない。

「……晴員殿のお気持ちは分かるが、いまはそれどころではないのだ」

「悠長なことを言っている場合ではありませぬぞ。やがて東国から諸大名が集結してきます。早めに手柄を上げておかねば恩賞も不足しようというもの」

「その通りです。殿、ご決断を」

重臣の後藤賢豊が三淵晴員と一緒に決起を促す。賢豊は六角家の支配が弱まる中でも義賢を支え続けてきた忠義者であり、粗末には扱えない。だが、蒲生を始めとした他の家臣は三好との開戦に断固反対、京や堺との関係悪化を恐れる近江商人衆も同様の態度を決め込んでしまっている。京奪取への後詰めを約すにも、兵も銭も集まらないようでは話にならないではないか。

「三好が蔓延っているからこそ我らが軽んじられるのですぞ。六角の武威を再び示そうではありませぬか!」

「うーむ」

「義賢殿が立ち上がれば必ずや各地の大名が続きます。よいのですか、好機を逃しても」

「ううむ……」

そんな上手い話のはずがない。上手くいきそうなものならとっくに賢い連中が動いているはずではないか。皆が様子見をしている時に突出するのは外れくじを引くのと同じである。これまでの生涯、果敢に挑戦してよい結果を得られた例などなかった。実際、隣の義治の顔には“父上には無理だ”と書いてある。

「殿!」

「うん……いま少し時を。時をな」

三好が目障りなのは間違いない。できることなら排除したいとも思う。それだけだ。それ以上はどうしたらよいか分からない。とりあえず、他の大名がどうするつもりなのかを知りたいと思った。

 

  *

 

春。前年に新たな帝(正親町天皇)が践祚したが、新しい暦はまだ発表されていない。一先ず今年は弘治四年(1558年)ということになる。

長慶が人質として預かっている六郎の嫡子を元服させてやったという話を聞いた。驚くやら呆れるやら、兄のお人よしには限度がないのかと思う。元長の仇の息子に昭元という立派な名前まで用意し、おおいに祝ってやったとのことだが、何を考えているのかまるで分からない。だいたい、自分も六郎に同じように扱われ、長じた後は六郎に反旗を翻したではないか。昭元が長慶と同じことをしない保証がどこにあるというのか。

「六郎殿とは果てのない戦を続けているし、氏綱殿は人事不省といっても差し支えない容態と聞く。まだ細川の名に利用価値があると踏んで、千殿の手元に置いておこうということだろう」

「……」

聞きたいのは正論ではない。夫に望むのは傾聴、共感の姿勢である。与四郎にそんな技能を求めても仕方ないことは長年の夫婦暮らしで心得ているから、いねも今更声を荒げたりはしない。黒鉢に紅い木瓜を黙々いけながら夫の言葉を聞き流す。

(いい年になっても千殿千殿と……。自分だって“千”の姓を持っている癖に)

与四郎は長慶のやることなら無批判に信じるところがある。

逆に、いねの言うことは軽んじるというか、素直に聞き入れられない傾向があった。

いねやつるぎは珍しい事例であり、世間に茶の湯をやる女はいない。与四郎は茶人として徐々に名を上げているが、女の客をもてなす経験も素質も不足している。むしろ、男だけを相手にしているから襤褸が出ないのかもしれなかった。

「ところで、寧波(浙江省)行きの話が纏まるかもしれないよ」

「本当?」

我ながら機嫌がたちまちよくなった。

大内家の滅亡により、正規の日明貿易の道は絶たれた。このことが却って密貿易の隙を拡げており、従来は利権に入りこめていなかったとと屋にも機会が巡ってきているのだ。こうした話を拾ってくる与四郎の嗅覚には信頼を置いている。

「無事に肥前松浦党と接触することができた。二、三年の内には実現の目途が立つだろう」

岸和田の松浦守が病死し、養子入りしていた一存の次子が跡を継いだ。松浦家は肥前平戸の松浦隆信と繋がりを有している。松浦隆信は知る人ぞ知る密貿易の首魁である。

「一存が商売に役立ったのは初めてねえ」

「日除け暖簾の手形が客を呼んでくれているではないか」

「あんなの子ども騙しよ。それより、私も行くからね」

「どこに」

「決まっているじゃない。寧波」

与四郎ができの悪い梅干しでも食べたような顔になった。

「な、何を言っているのだ、淡路や四国ではないのだぞ。寧波がどこにあるのか分かっているのか」

「船で一箇月。風を見ながら往復で一年から一年半」

子どもの頃から海の向こうの話を聞いて育ったのだ。異国の話から耳を逸らしたことは一度もない。

「……命の保障はないぞ。あなたは身体も強くないのだから」

「そんなの覚悟ひとつだわ。戦と思えばいいのよ」

「店はどうする。子どもたちは」

「どうとでもなるじゃない。ちょっとお、いい加減にしてよ。私は三好元長の娘なんだからね!」

いねの気迫がただ事でないことを察し、さすがの与四郎も口をつぐんだ。

「本気、なのだな」

「夫婦はひとつでしょ」

夫の顎を指で撫で上げる。照れたような困ったような顔。こういう与四郎の表情が嫌いではなかった。

それきり夫は何も言わず、一人になりたいとばかりに宝心庵の方へふらふらと歩いていった。

 

  *

 

既に季節は夏の盛りに入り、朽木とて蒸し暑さは募る。じめじめとした湿気が衣服を蝕むが、左の腕は古傷のせいで思うように動かせず袖に風を入れにくい。何より、各地の大名から届いた書状に目を通していると脂汗が次から次へと浮かんできて、気を張っていないと卒倒してしまいそうだった。

“永禄元年”。あらゆる書状の末尾にはこの暦が記されてあった。公方は“弘治四年”を使い続けているにも関わらず、である。足利将軍が認めていない、それどころか相談すら受けていない元号が日本全国に浸透しているということだ。

朝廷と三好だけで決めた元号など、誰も認めるはずがないと思っていた。いや、本当は認めてくれるなと願っていたのだ。何の抵抗も混乱もなく、永禄は世間に受け入れられた。公方の統制下にあるべき守護大名ですら、“帝がお決めになったことだから”と唯々諾々である。長慶が巧みに帝の権威を利用していることは明白だった。

このままでは相当まずいことになる。完全に晴員たち奉公衆の失策だった。帝がお決めになった元号に従っていないということは、“足利将軍家は朝敵も辞さず”と宣言するに等しい行為なのだから……。

「消える……消えてしまう……二百年に亘る足利の天下が……足利の輝かしい未来が……」

晴員はこれまでにない焦燥に駆られていた。足利将軍が京から追われることはこれまでにもあった。だが、帝や朝廷、都の慣習と仕組みから“足利抜きでも苦しからず”を突き付けられたのは初めてなのである。

居ても立ってもいられず、晴員は奉公衆の召集と義輝の臨席を求めた。狭い朽木に暮らしているから、その気になれば一刻で全員を集めることができるのだった。

 

晴員は死力を尽くして決起と奮起を一同に促した。その弁は鬼気迫るもので藤英や晴舎たちには強く心を打たれた様子が見られた。このままでは公方の存在意義が消えてしまう。そうした濃い危機感を等しく共有することができた。連綿と受け継いできた使命を自分の代で失うということは、生命を奪われるよりも遥かに恐ろしいことであった。

兵を挙げることで意見は一致していた。沈黙を保っているのは藤孝と義輝本人だけである。

下剋上燃え盛る炎の時代に、上様を戴く永遠の秩序を……! いまこそ! 眩い未来を掴む時!」

腸を吐き出すような勢いで声を張り上げた。自然と涙も零れ落ちた。六十近い自分にできる、最期の奉公だと信じて泣いた。晴員の思念が場のすべてを抱擁していた。

しかし。

「よろしいですかな」

藤孝が発言を求めた。拒む理由はないが、賛同している風でないのは見て取れる。

「我らが集められる兵はせいぜい三千、よくて五千でしょう。権威が失墜すれば扱いも疎かになるは天然道理、上様をいたずらに死地に送るようなものではありませぬか」

「臆したか藤孝!」

藤英が弟に向かって激昂した。皆が同じ思いに纏まろうとしている時、決まって藤孝が異論を唱える。藤英は以前からそのことを憎んでいた。弟であるだけに尚更許せないのだ。

「この状況を放置すれば……東国の大名や尼子を結集させることも難しくなり申す。晦摩衆による長年の調略も無に帰してしまいましょう」

晴舎が違う方面から晴員を援護した。費やしてきた資源を無視できる者などいはしない。

皆の目が義輝に集中した。後は将軍の意向ひとつである。

「皆の意見はよく分かった。余も、いまは長慶に向き合う時だと思う」

「おお、上様!」

満座に安堵の笑顔が広がる。

「なるほど、勝ち目はないかもしれぬ。だが、そもそも余と長慶の闘争に勝敗などないのではないか。三好の栄華は余の栄華でもあるのではないか……」

「う、上様……?」

「離れておってはどこにも行き着かぬ。兵を出し、三好長慶に向き合おうではないか。彼奴が治める京都を味わい、学んでやろうではないか」

義輝が己に言い聞かせるかのように、途切れ途切れに考えを述べる。

腑に落ちぬものを感じた。またもや要らぬ知恵を吹き込んだのかと、晴員と藤英が同時に藤孝を睨む。事実、藤孝は満足気な様子で義輝を見守っていた。

 

  *

 

「ほう、豌豆を卵でとじたか」

紀州産のよい豆が手に入りました」

おたきと、おたきに養子入りした茂三が笑顔で膳を用意する。

慶興や来客がいない時、長慶はこの母子を食事に相伴させることが常であった。毒見という意味がない訳ではないが、それ以上に長慶の反応を直接見せることで更なる味の改良を期待しているのが大きい。

二人はその期待によく応えてくれていた。茂三はしばしば京や堺に料理を学びに行き、おたきはおたきで質のよい旬の食材をどこからか仕入れてくる。

“芥川に行くのは面倒だが、行ったら行ったでうまいものが食える”と、都の料理を食べ慣れている公家や坊主からも喜ばれていた。

「うむ……しみじみ穏やかな味だ。なるほど、卵でとじたことで一度にたくさんの豆を口に入れることができる。ひと粒、ふた粒と食べていては得られぬ豊かな食感。地母神の如き豌豆の味わい、すべてを許し給う卵の大慈大悲」

頷きながら食べ進む長慶を見て、母子はいつも心から嬉しそうな顔を見せる。

「その辺の偉い人と違って、殿は卵でも何でも嫌がらずに召し上がってくださる。我々も腕の振るい甲斐があります」

「確かに、育ちのよい者ほど馴染みのないものを口にしようとはせぬものな。されど、貴種は長生きして血を絶やさぬことが何より大事、己が身体を賭けに晒すことはできぬ。替えのきく私とは事情が違うさ」

「こ、これは異なことを。いまの世に、殿のお身体ほど大切なものがありましょうや」

「どうかな……。人は私のことを傀儡師のように言うが、実は私こそ天が操る人形なのかもしれぬぞ。私がいなくなっても、天がいずれ次の候補を見つけるだろうよ。それが慶興だったら言うことはないが……」

「おやめくださいよう、縁起でもない」

困惑したおたきが抗議する。茂三は固まってしまっていた。こうなっては長慶も笑みを向けるしかない。

「存念あっての言ではない。この卵とじを見ていて、ばらばらした武家もひとつに纏まらねばならんのだろうと思ったまでのこと。おい、長逸などに告げ口するでないぞ」

「は、はは」

何と言ってもこの二人は善男善女に過ぎる。食べものの話には好適だが、長慶の思いの丈をぶつける相手とするには無理があった。

(――あまねならば。聞くだけは聞いて、背でも揉んでくれただろうか)

別れた妻を想うのはこういう時である。愛惜ほどのこともない、柔らかな疼きを胸に宿す。頭の中で妻に話しかけ、返ってくるであろう応答を思い浮かべる。十年近くが経っても、あまねの顔ははっきりと思い出すことができるし、こういう風に年を取っているだろうと予測することもできた。

一人、空想に耽る。それだけで思い煩いの大抵は霧消していく。

 

昼食を済ませ、芥川山城の曲輪をうろうろと歩いた。歩いていれば何かしら課題が見つかるし、家臣の方からも話しかけやすいものだ。馴れ馴れしく兵の間に入っていくことはしないが、偉ぶって壁をつくるようなこともしない。

猫の夜桜と薩摩豚の一家が争っているのを見かけた。大方、豚の餌を夜桜が横取りしたのだろう。

「内乱相次ぐ辛苦の時代に、民が望む精に満ちた日々を……。なあ、分かるかお前たち」

膝を曲げて話しかけた。畜生には好かれる性分である。猫も豚も喧嘩をやめてすり寄ってきた。

 

続く