四十 統治者責任の段 ――畠山高政 掌を返し、松永久秀 大和に侵入す――
四十 統治者責任の段
秋と冬の境目、長慶は体調を崩して十日ほど臥せっていた。
密かな鍛錬の甲斐あって身体は丈夫な方だと思っていたが、齢四十も近くなって長年溜まった疲れが出てきたものかもしれない。おたきや茂三が大騒ぎで看病してくれたこともあり、昨日くらいからは館の中を歩くのも苦ではなくなってきている。それでも大事を取って、もう一日は寝転んでいることにした。
与四郎といねが芥川山城を訪れたのはそんな折のことだった。客を出迎えられる格好ではなかったが、身内のことである。簡単な身繕いだけをして二人の前に姿を見せた。
春が来れば、この夫婦は寧波に旅立つことになっている。一年ほどで帰ってくるとはいうものの、生命の保障はまったくないと言ってよい。難破し、亡霊船となって大洋を彷徨うかもしれぬ。倭寇や大陸の野盗に襲われる可能性もある。一万の兵でも護衛につけてやりたい気持ちだったが、費用と効果が釣り合わぬと与四郎には笑われた。
逆に、三好家が高値で買い付けるであろう品目の売り込みを受ける始末だ。確かに、三好家はいまや堺の商人にとって最大の大口顧客となっている。戦になれば鉄砲が要るし、公家や坊主との付き合いには贈り物が欠かせない。之虎や久秀の影響で茶器や更紗を欲しがる将も増えるばかりだった。長慶自身、珍しい書籍や南蛮菓子になら小遣い銭を使ってもよいかなとは思う。
「我々のことより」
与四郎は言う。
「千殿こそ気をつけた方がよい。何もかも上手くいき過ぎている、こういう時が一番危ない」
「与四郎もそう思うか」
「思うとも」
「成功は運、滅びは必定。じたばたしてもな」
「ちょっと! 何を縁起でもないこと言っているのよ!」
いねに怒鳴られ、長慶は目を閉じた。やり過ごすのが一番である。
「落ち着きなさい。千殿風の物言いというものだ」
「兄様のそういうところがよくない。周りをいたずらに不安にさせて、趣味が悪い!」
「む……すまぬ」
こんな調子だから、なかなか本音も漏らせない。それとも、本音だと察したから怒っているのだろうか。
「ま、ま……。私が言いたいのは、公方や畠山家のことだよ」
「加減はしているのだが」
「大店の商売が駄目になった時、何が起きると思う? ……奉公人が分裂するのさ。見切りをつけて他の店に移ろうとする者、周りの様子をただ伺う者、新たな儲け話を懸命に考える者。それらで八割だな」
「残りの二割は」
「先鋭化する。かつて上手くいったやり方にしがみつき、根も葉も切り落として、伝統という幹だけを必死に守ろうとする。そうやって、ゆっくりと店を潰していく」
「……」
「厄介なことに、大衆はそうした話がお好みときている。銭は出さずに口だけは出して、残念な二割の方に味方するのさ。何が言いたいか分かるだろう?」
「ああ、よく分かる」
商家も武家も大差はない。人の頭は過去を尊ぶ方が楽で、未来を描く方が苦しいようにできている。楽と苦が戦えば、十中八九は楽が勝つ。だからこそ、己の終着点も想像がつくというものだ。
「でも、それは公方や畠山の話でしょう?」
「武家の世界では、大衆すなわち兵力だからね。家を建て直す知恵はないけど、募兵には喜んで応じる」
「そんな……そんなことって」
「よいのだ。いね、そういうものなのだ」
「だって、兄様は民のためにって頑張ってきたんじゃない。それなのに」
「いずれは使い捨てられる。そこまで受け容れてこその統治者よ」
「馬っ鹿みたい……何よそれ……」
「ふふ。与四郎も随分鋭くなったものだ」
「会合衆に加われば、自然とね」
「おい、いね。お前泣いているのか。すべて仮の話、絵空事ではないか。真に受けるでないよ。そうならないように気をつけよう、と話しているのだ」
「知らない! 馬鹿! 兄様の馬鹿! あなたも嫌い! こんな嫌な話、聞きたくなかったわ!」
与四郎と目を合わせた。どうしよう? どうしようもない。声に出さずとも意見は一致している。
長慶は寝込むふりをし、与四郎は厠へ行くふりをして場を離れた。
いねはしばらく拗ねていたが、通りかかった夜桜が膝に乗ってきたので機嫌が直った。慶興が拾ってきた猫だが、世話は長慶がしている。日頃の恩を返してくれたのかもしれない。
*
安芸の海は何度も通ったことがあるが、港より奥に上陸するのは初めてだった。
案内の康長、実務方の長房、親善大使の冬康。それとは別に、義弟の冬長率いる水軍衆が護衛についている。これだけの面子を揃えたのはそれだけ相手が手強いからだった。
長慶や之虎に正面から挑むに等しいと康長は言い切る。ならば、この旅は偉大な兄たちに並ぶための試練なのかもしれない。
毛利隆元と事前の調整を重ねてきた長房も、細かな数字の確認、予想される効果の裏取りなどで、毛利家の実務力は目を見張るものがあったと証言していた。他家の懐事情も、鍵となる朝廷の人物も、ほぼ正確に把握していたらしい。元就の軍才と謀略で伸し上がった家だと思われているが、その土台では多くの誠実な者たちが汗を流している。こうした点も三好家とは似ていた。
朝倉家は公方からの依頼に応じてきた。人のいい朝倉義景が朝廷への貢献に賛同したのか、家として公方の要請を何度も無視してきたことを気にしたものかは分からない。若狭を挟んだ長頼との緊張緩和を期待してのことではないかという声もあった。
本願寺顕如は長慶が直接口説いてきた。本願寺首脳部は過去を水に流した長慶に対し好意的で、三好家が法華宗の大旦那であろうが、長慶個人が大徳寺に参禅しようが、顕如の縁戚に当たる六郎と戦おうが、一貫して親密な態度を崩そうとしない。悲惨な争乱で負った傷も癒え、石山は大寺社町として発展している。その発展の裏に、長慶による畿内の平穏があったこともよく承知しているのだろう。
安芸にも一向宗徒は多い。本願寺からも口添えがされている。もとより長慶と元就との間には書状のやり取りもある。あとひと押し、直接会って口説くべきだと長慶は言った。
毛利が大内から分捕った財を吐き出せばそれでよし、出さなければ三好家が追加で献金すればよい。いずれにせよ、僅か三年で帝の即位式が叶おうとしていた。
吉田郡山城で一同を待っていたのは元就・隆元父子の他、口羽通良ら家臣衆であった。押し売りを追い返すような扱いを受けることも想像していたが、空気は極めて穏やかなものである。“これが怖いのだ”と康長が囁いた。
挨拶が一通り済んだ後で、本題に移った。
事前にすり合わせた内容を長房が朗々と説明していく。時おり隆元や通良が細目の説明を求めたが、それに対する長房の返答は皆を満足させるものだった。
思い切って、銭五百貫。
三好家を介した朝廷の要求金額である。だが、これはいかにも過大な希望だった。五百貫もあれば、堅固な城を築くことも、多くの鉄砲を調達することも、それこそ石見銀山奪取に向けた遠征を起こすことも可能なのだ。ある程度の献金はやぶさかでないにしても、実利に乏しい即位式のためにそこまでの投資を行う必要は薄い。まして、別途警護役の負担を行うにしても、当の三好家が百貫しか出そうとしていないのである。
「百貫が妥当な線だ」
隆元が答えた。そちらもこれくらいが落としどころだと考えていたのであろうと、明晰そうな顔に書いてある。事実、百貫からどれだけ上乗せできるかが勝負だと長房は考えているはずだ。とまれ、毛利家当主の判断は下された。
「三百貫では如何か。大内家の朝廷への篤志はいまも忘れられておりませぬ。中国を継ぐ者として、都にその名を広める好機でございましょう」
長房も簡単には引き下がらない。
康長と通良も議論に入り、しばらく十貫単位の詰めが続いた。
「二百貫。貴公も朝廷も、充分に満足できる額のはず」
隆元が終止符を打った。長房の手札は使い果たしている。よい論戦だったが、元就を背にした隆元の迫力が上を行っていた。長房にも冬康がついているが、元就と冬康では実績に天と地の差がある。
「ううむ……」
「父上もよろしいでしょうか」
隆元が元就に水を向けた。まずは隆元が仕切り、結びに大殿を立てる。父子の関係は良好のようだ。
「まだ、安宅冬康殿のご意見を伺っておりません」
「む、確かに。存念あらばお聞かせ願いたい」
自分の腹は見せず、先に相手の大将の動きを測る。老人にはまるで隙がなかった。
「ならば申し上げましょう。……毛利殿には五百貫出していただきたい」
「なっ!」
元就以外の、長房や康長を含めた全員が絶句した。
「そ、それは幾らなんでも暴論、無礼というものでござろう」
呆れ顔で通良が抗議をしていくる。
「無礼? 無礼とは次のふたつでしょう。ひとつ、毛利家の財力を安く値踏みすること。ひとつ、他所の家はこのくらいだからと、世間並の枠に毛利家を納めようとすること」
「……ぬう」
「考えは申し上げました。元就殿のご返答やいかに」
言葉を使った斬り合いである。刀を再び元就に返した。
「……石見には本城常光という素晴らしい武将がおりまして」
「噂は届いております」
「あのような男と手を結ぶことができれば、千貫などすぐにも稼ぐことができるのですが」
長房が“何の話だ”という顔をし、隆元と通良が“またこの話か”という顔をした。
「まだ、その時宜ではないと仰せですかな」
「大内家の後継などと。我々は銀山も、博多の港も手に入れていないのです」
「山口の蔵から得たものがあるでしょう」
「炎に呑まれたものをどうしろと」
本音かどうかは分からない。隆元の判断を尊重しているだけのようにも思えた。
「……」
詠むか。
つるぎから授かった力。底知れぬ謀神をもあわれと思わせるはやまとの歌なり。
古を記せる文の後もうし さらずばくだる世ともしらじを――
「……防長経略を責めておられるのですか」
「公と万民への奉仕。焼いた者の責務であると、私は確信しています」
「……」
元就の表情を見つめていた隆元が首を振った。誰よりも早く、元就の心境を察したのだ。
「山口は、美しい町でした」
「許してくれるか、隆元」
「道楽とは思いませぬ。活かし方を考えることにいたします」
康長が熱っぽい視線を冬康に向ける。ひと呼吸おいて元就が宣言した。
「二千貫」
「なんですと」
やられた。冬康も目を丸くするしかなかった。
こんな額を出されては、日本中の話題は元就ただ一人に集中する。朝廷の希望する額を遥かに超え、即位式は古今例のない壮大なものになるだろう。銭集めや段取りをした三好家の手柄は忘れ去られる。
はっきり言えることは、元就は思いつきで動く男では断じてないということだ。ならば初めからこうすることも選択肢に入れていたことになる……。
経緯を思い返す。康長と長房が安芸に行こうとしていたところ、長慶が冬康を指名して同行することになったのだ。では、長慶もこうした展開を予想していたのか。冬康ならこれくらいは吹っかけると。それを受け、元就なら上を行く手立てを出してくると。
「長短あれど、ここは毛利に栄誉を譲ること、毛利の財貨を摩耗させておくことが今後のためよ」
長慶の思惑が聞こえた気がした。元就と長慶。比べて、自分はまだまだ小さい。もっともっと飛躍せねば彼我の差は縮まらない。だが、どうやれば空を飛べるのか、冬康には分からなかった。
*
高屋城から湯川直光とその郎党が去っていく。
あれだけ揚々と広かった背中がいまは酷くみすぼらしい。無理もない、と高政は思った。河内の新たな守護代にしてやったが、決裁せねばならぬ書類を溜めるばかりで何の成果も上げられなかったのだ。すぐに国人や民衆からの不満が噴出した。それでなくとも河内の民は口やかましい。直光の頬は痩せこけ、目の光が失われるのにそう時間はかからなかった。
深夜、手折った書類を風に乗せて遊んでいる直光を見回りの兵たちが発見し、それで解任が決まった。解任してよかったと思う。このまま役目を続けさせていれば、完全に人格が破壊されていただろう。
いまは、長慶から借り受けた奉行衆が実務をさばいてくれている。彼らの力は素晴らしく、積み上がっていた書類は三日のうちに整理された。幾つかの案件は高政も意見を求められたが、幼児でも正しい判断ができそうなほどに論点と論拠がまとめられていて、まったく気苦労を負わなかった。なんだ、長慶はこんなに楽をしているのかと呆れたほどである。
ただ、長慶の配下が政務を牛耳ることに対する重臣たちの反発が日増しに強まっていた。このままでは民が三好家の方を当てにするようになるし、機密情報が長慶に筒抜けになるというのである。
じゃあお前たちが代わりをやるかと高政が問えば、彼らは途端に尻込みした。情けない連中ではある。家を分けて争っていた分、また、遊佐長教や安見宗房にすべてを任せていた分、畠山家全体に目が届く人材が育っていないのだった。ようやく分かってきた。地味でも陰気でも、施政には文官が不可欠なのだ。
そんな時、一通の密書が高政のところに届けられた。
「よく俺の前にのこのこ“面あ”見せられたもんだな、ええ?」
「それでも高政様はお越しくださりました。……私の値打ちがお分かりになったのではありませぬか」
長慶の探索から逃げ延びた宗房は、実は高屋城からすぐ近くの寺に匿ってもらっていたらしい。
「どういうつもりだお前」
「私をもう一度“配下”にしてもらえませぬか」
「ああ? どの口が言うんだおら、次は“歯あ”へし折ってやろうか」
鼻を蹴り潰されたことを思い出し、宗房の額には汗玉が浮かび始めた。
「畠山家には実務方が不足している。三好家に頼っていたら国を乗っ取られてしまう」
「は! そん時は“戦”だよう」
「戦だけが国を治める者の務めではない。そのことに高政様はお気づきになられたはずです」
早口で宗房がまくしたてる。彼なりに命運を賭した弁舌のつもりらしい。
「木沢長政の“亡霊”が何言ってんだおう。主君追い出すのがお前らの“教義”だろうが」
「仰っていたでしょう、私は“中途半端”な男なのです。半端者は“機を見るに敏”が取り得故」
「頭あ湧いてんのか。お前なんかと手え組んだら、それこそ三好が黙っちゃいねえよ」
「“殿”。その儀、秘計がございますれば……」
「ああん」
袂から宗房が書状を取り出す。封には、三淵晴員の署名が記されていた。
*
元就の三男、小早川隆景の解説は驕るでも誇るでもない、淡々としたものであった。厳島合戦の経過を現地で当事者から聞くことができるとは何よりの土産話である。
海に生きる者同士、隆景は冬康と気が合うようだ。冬長も交え、互いが根城とする海域の潮の流れや帆の張り方を楽しそうに話し合っていた。
三好四兄弟では冬康が一番目立たないと言われている。長房自身、日頃は之虎の天才ぶりを傍近くで見て学び、一存とは若い頃武術で競い合った仲である。一方で、頻繁に顔は合わせるものの、冬康について多くを知っているとは言い難かった。されど、兄弟の絆を繋いでいるのも、民の忠心を三好家に繋ぎ止めているのも、実は冬康の力が大きいのだと康長などは言う。
畿内の有力者の子弟を船に乗せてやり、数日の旅を体験させるようなこともやっていると教えてもらった。ささやかな旅であっても、幼い子どもは多くを学び、意識を一段高める。親は喜び、子はやがて三好家に親しみを抱く有力者に育つ。気の長い話だが、なかなか上手いやり方だ。
実際、毛利元就に突きつけた交渉術も見事だった。冬康本人は“負けた”と言っていたが、常人ならば百貫だけを貰って喜んで帰っていたことだろう。どれだけ都で元就の評判が上がろうが、所詮、京は三好が抑えているのである。どうにでも情報操作はできるのだから、一貫でも多くの銭を供出させるに如くはない。
そうこうしているうちに、隆景配下の操る大船が厳島に接近してきた。康長が呟く。
「待ち人来たる」
苦笑いを浮かべる隆景の家臣たちを見ると、当地で義冬がどんな風に思われているかが察せられた。
久方ぶりに再開した義冬は、三好家の一同に遠慮なく罵声と嫌味を浴びせてきた。
大内家、続いて毛利家にはよくしてもらっていると。それに引き替え、三好家の不忠ぶりは目に余るものがある、義冬の恩を忘れて義輝を担ぐ長慶、育ての親を葬った之虎、どいつもこいつもこの二人を諌めようとしないのはどういうことかと。
要約すればこれだけのことを、二刻以上に亘って絡んでくるのである。だいたい、細川持隆が育ての親であることは誰も否定しないだろうが、義冬がいったい長慶に何の恩を授けたというのだ。せいぜい斎藤基速を貸し与えたくらいだが、あれも基速が義冬を見限ったと言えなくもないではないか。大内だ毛利だと言うが、ここでこれだけぐちぐち零すということは現在の暮らしに満足していないことの証に違いないぞ。
冷めた目で長房は聞いていたが、冬康と康長は恭しくいかにもごもっともという態で頭を下げ続けている。天下に混乱しか与えぬこの男をどう扱うかは、近年の三好家・毛利家共通の悩みであった。足利義輝が三好家に対して融和の姿勢を見せ始めたこともあり、三好家としては義冬を担ぐ必要性が薄れてきている。その癖、義冬は上洛と義輝追放をいまも唱え続けているのだから、庇護している毛利家は堪ったものではない。西で大友、東で尼子と対峙している中、公方にまで睨まれても何もよいことはないのだ。
それでも、この御仁が強い正統性を有していることに違いはない。二百年に及ぶ生活習慣の積み重ねは、足利と聞けば頭を垂れる習性を人々の髄まで植えつけている。長慶や関東の北条家は例外であり、足利姓の人物と反目したい者などいまだ少ない。
実のところ、隆景からは“二千貫の代償のひとつとして、義冬を阿波へ連れて帰ってもらいたい”と打診を受けている。毛利家からすれば三好家との関係が気まずくなって大内家に移ってきたというだけで、進んで義冬を招聘した訳ではない。大内家を滅ぼしてみれば、なぜかそこに将軍候補の一柱が住んでいたというだけのことなのだ。西国経営に専念したい、畿内の揉め事に関わりたくない、というのが本音なのだろう。
連れて帰れば、今度は公方との関係が当然悪化するのだろうが……。
いずれにせよ、軽率に決められる類の事案ではない。一旦長慶のもとへ持ち帰るということになった。
「ふん、少しは心を入れ替えたか。ちっ、ええい、腹が減ったわ。飯にするぞ、飯だ」
文句を言い続けることに飽いたのか、唐突に食事を要求し始めた。
「そうじゃ、余が釣ってきた穴子があろう。あれをな、割いて塩焼きにせよ。おお、牡蠣も食いたいの」
自分の家臣であるかのように隆景に指示を出していく。それに対して不快を顔に出すでもなく、整然と手配を進めていく隆景。ほどなくしてよい匂いが漂ってきた。
「んふふ。冬の穴子はよいぞ、釣るのは難しいがな。こつがあるのよ、分かるか冬康」
釣り自慢を始めた。やはり冬康は朗らかに相槌を打っている。一字を与えているだけあり、何だかんだで義冬は冬康のことを気に入っているようだ。
「ほら、牡蠣も食わぬか。汁を大事にな。って、うお、熱っ。火を入れ過ぎじゃ、まったく……」
一人で騒ぎ続けている。“俺は船に残る”と言った冬長の気持ちが分かるような気がした。
「康長殿」
「どうした」
「偉い人を囲んだ食事って、どうして偉い人が話し続けるのでしょうね」
肉厚の穴子も水気をたっぶり湛えた牡蠣も卓抜した海の幸である。できれば味に集中したい。
「ほう、長房にしてはよい問いをする」
「……ただの雑談ですよ」
「上座に座る機会が増えれば分かる。あれでな、義冬様も気を使っているつもりなのだ」
「あれでですか」
「沈黙が続いて下の者が話題に悩むよりはましだろう。上の不出来は後々酒の肴にもなる」
「はあ」
「ま。冬康に任せて飲もう、食おう」
義冬の性根は邪悪ではないということなのだろう。ただ、将軍職と京への執着が異常に強いだけで。
公方との関係が悪化すれば、再び擁立論が盛り上がるはずだ。四国衆の利権拡大の好機にもなる。そうなった時に備えて、義冬との関係を強めておいても損にはならなさそうだ。
*
「っしゃあ! おおきに帝! よかったのう、正虎!」
「か、かたじけなき……う、うう、うわああ」
後は言葉にならなかった。遂に、朝廷から楠木家が勅免されたのである。楠木正成から実に二百年、晴れて正虎は朝敵ではなくなり、日の当たる世界を歩けるようになった。号泣、果てなき号泣。胸中には様々な思いが去来していることだろう。一族の忍従、父祖の無念、光なき生涯、志能備衆の頭目に身を転じた姉の覚悟。咽び泣く声は皆の温かな感情を揺り動かし、城中一同の涙を呼ばずにいられない。
「せや、さっそく姉ちゃんにも知らせたるんや」
「はい……はい……!」
難しい交渉だった。後南朝の脅威が去って久しい。残党など久しく現れてはおらぬ。楠木を赦免すれば河内や大和の民心も和らぐ。いや、太平記の普及により楠木に同情的な者は日本中にいるのだ。銭も必要ない、帝への尊崇を集めるまたとない機会だ。長慶と久秀で色々と主張したが、前例を曲げることを極端に厭う公家衆はなかなか首を縦に振らなかった。久秀と慶興で抑えきったが、公方奉公衆の反発も甚だ強かったのだ。楠木の復権が足利の正統性を揺るがすことを彼らは心底恐れていた。
結局、即位式の実現に向けた働きと、楠木の末裔が表向き正虎くらいしか目につかないことが決め手となった訳である。何であれ吉報は吉報、これで大和の統治にも弾みがつく。
大和はその名の通り小さな日本とでもいうべき国で、さして広くもない国土に数多の寺社や国人衆が割拠している。早くから商工業が発展してきたこともあり、町衆の力もすこぶる強い。武家としては、かつて木沢長政が西部を支配しかけたところで滅び、その後は筒井順昭が台頭したがいつの間にか公方の手で暗殺されてしまっていた。いま、大和すべてを支配するような勢力は存在しない。だからこそ新参の久秀がつけ込む余地も充分にあり、既に長政の影響下にあった地域は久秀に服している。
長政の匂いがいまだに染みついている信貴山城の印象を変えるべく、久秀は天守の増築を命じていた。大和の民は信心が厚いから、寺社風の大建築を尊ぶ風潮があると聞いている。壮麗な城郭は支配力の強化に直結するはずだった。
畠山高政が安見宗房と和解していた。宗房を見逃したことも、実務が回らなくなった高政が彼を起用することも長慶の思惑通りである。
真の河内攻めが迫っていた。大和一職を預かる者として、支配権の確立を急がねばならぬ。
*
いよいよ織田信長との決戦が近い。大国尾張との戦は熾烈なものになるだろうが、実力は義元率いる駿河・遠江・三河衆の方がずば抜けており、万にひとつも敗れることはあるまいという風評だった。
佳は正綱や一族の元信、親しくしている松平の若君などの無事を祈り、毎朝あまねのところを訪れては共に写経し、経をあげていく。武功よりも無事を願うところが母なのだと、強く意識せずにはいられない。
そんな折、琴の様子がおかしくなった。
寺の一室に引き籠り、姿を現そうとしない。案じて様子を伺いにいっても何も話そうとせず、しかしながら顔には濃い涙の跡が残っている。例がないことであった。あまねから見れば琴は人界から隔絶した存在で、心身を崩すとは思いもよらないことなのだ。
それから更に五日ほどして、京から届いた風聞に地域が騒然となった。あの南朝方の忠臣にして悲運の武将、楠木正成の子孫が勅免されたというのである。南北朝が合一して久しいとはいえ、南朝に殉じた一族を今更のように赦免するとは奇妙な知らせだった。今川氏は一貫した足利氏の忠臣、北朝方である。当然、領国の民もその薫陶を受けている。楠木正成の伝説に同情を抱いてはいても、南朝方におもねるような帝の叡慮を人々は訝しんだ。
(これも、もしかするとあの人の……。時を同じくして琴が……)
琴のこれまで。言動と事実、結びつく。星降るような直感の閃き。
余計なことなのかもしれない。
それでもそうせずにはいられなかった。
里が噂に沸いたその夜、あまねは琴の背中を抱き締めていた。何も言わずに……。
逃れようと思えば琴には容易い。だが、琴も動かなかった。石仏を抱いているかのような感覚を覚えた。
そのまま時が過ぎ、やがて灯りの油も尽きた。
「何をする」
琴の声、ひと雫。波紋の如く暗闇に広がる。
「くすくす、今頃?」
押し当てた胸がようやく温かい。
「……明日。虚空蔵山(静岡県焼津市)に登らないか」
「うん、いいよ」
「寝よう。妾も眠る」
「一緒に寝てあげようか?」
「……馬鹿」
岡部の里から虚空蔵山は遠くない。山に育ったあまねの足なら登頂までを含め一刻もかからなかった。
道中、琴は一言も発しない。山頂の香集寺に入り、眺めの良いところまで進んで腰を下ろした。商船の行き交う湾岸、駿府の町並みと富士の山とを一望し、あまねは思わず喜悦の声を漏らす。
そうして、琴の心が落ち着くのを待った。
「……もう、大方は察したのだろう」
「あたしの口から言ってほしい?」
「いや」
琴が立ち上がり、景色を背にして語り始めた。
「妾は河内楠木家の末裔である」
「……」
「そして、これは誰も、勅免された弟も知らぬことだが……さる、やんごとなきお方の血を継いでもいる」
予想は当たっていた。だが、その上に、いまだあまねには想像もつかない事実が秘められているらしい。
「まさか、勅免が叶うとは予想だにしなかった。お前の別れた夫は恐ろしい男だよ、妾のしたことはまったくの無駄骨だった。修羅道に堕ち、この手を、この胸を、穢れた血と毒に染めてきたというのにな……」
「……」
「いままで世話になった。もう、妾は往かねばならぬ」
「いきなり、何」
悪寒がした。凍てつくような、経験のないほどの。
「家の名も弟の身も晴れやかになったいま、妾の存在は、妾だけが知る秘事は、もはや妨げでしかない」
「いや。駄目よ」
「それを抜きにしても、妾はあまりにも多くの命を奪い過ぎた。この身に流れる尊き血に申し訳が立たぬ」
「違う」
「王のけじめだ」
そう言い切って三通の手紙を取り出し、あまねの前に置いた。
「お前と、長慶と、弟の正虎に宛てた。後を頼むぞ」
「待って! あたしと生きていこうよ。ね、誰もあなたを責めたりなんかしない」
「宿命が苛むのだ。……さらば、お前との暮らしは楽しかった。穏やかだった。……夢のようだった」
「後生だから……」
「往く時を決めた。くっく……見ろよ、海と山と里、すべてがあるぞ。ああ、美しいなあ……!」
琴が背後の風景に向けて腕を拡げた。その一瞬間後、あまねの視界は蝶の群れに覆われた。
「えっ……何――琴? 琴……琴!」
そこにはもう誰もいなかった。取り残されたあまねは地に落ちた紙の蝶に額を埋め、別れを苦しんだ。
続く