きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十二 躯の段  ――三好長慶 五畿内の覇者となって飯盛山城に入り、三好慶興 足利義輝の御成を迎える――

四十二 躯の段

 

あろうことか、浅井賢政の小僧ごときに敗れてしまった。

定頼が臣従させていたあの浅井家である。水攻めという凄まじく銭のかかる手間をかけ、六角家の総力、二万の兵を繰り出したにもかかわらず負けてしまったのだ。

家臣や国人の結束を固めるため、独立の姿勢を明確にした浅井を成敗することで示威に繋げるつもりだった。両家の力の差を思えば負けるはずのない戦であり、大勢の見物客を集める気分で限界まで兵を募ったのである。いまにして思えばその弛んだ戦意を突かれたということなのだろう。惨敗とまでは言わないが、ともあれ野良田(滋賀県彦根市)の戦いは義賢の敗北に終わった。

またやってしまった訳だ。

これで、人心はますます義賢から離れる。息子の義治からは蔑んだ目で見られ、家臣たちには陰口を叩かれ、またもや離反する国人が出てくる。そうなるに違いないと思っていた。

だが、義賢の憂慮はよい意味で裏切られた。

六角家一同の士気、紐帯は強くなったのである。何がどうなっているのかまるで分からなかった。浅井の勝利など蜂に刺されたようなもの、彼奴らは力を使い果たしたが我らの武備はいまだ盤石、せいぜいよい気にさせておいてやろうと鼓舞する武将。いつの日か必ず水攻めを成功させてみせると雪辱を誓う土工・石工などの技能衆。そして、義治や蒲生定秀など、日頃は義賢に冷たい連中までが六角の真価を近隣諸国に見せつけてやろうと義賢を盛り立ててくる。

「いったい、これは……」

「侮っていた相手に追いつかれて、初めて危機を意識したということでしょう。このままではまずい。もはや、内輪揉めなどに興じている場合ではないと」

腹心、後藤賢豊が落ち着いて状況を説明する。

「当家には、まだまだ余力があるということか」

「……率直に申し上げて、これまでの我々は三割ほどの力しか出せていませんでした」

「三割か」

「甘く見て三割です」

「……」

耳が痛い。義賢とてある程度は分かっていた。皆、定頼の頃に戻りたいのだ。義賢が定頼のように国を治めてくれないから不平を漏らすのだ。それは六角家に愛着があるからそう言うのであって、真実見限っているからではないのだ。……ただ、義賢が定頼のように振舞おうとすればするほど溝が深まっていただけで。

「鉄は熱いうちに。いまこそ行動を起こすべきでしょう」

「うむ、浅井に報復じゃ!」

「それは違います」

「えっ」

賢豊が大きな掌を突きつけてきた。こうされると、後は講義を聞くのに似てくる。

「浅井は放置していてもよろしいでしょう。彼奴らがおれば屈辱を忘れることもない、引き締めに使えます。それに、勝って当然負ければ恥の上塗り、戦うにはよい相手ではありませぬ」

「ううむ……負けてそのままというのもなあ……」

「浅井の独立騒ぎなどいまに始まったことではありませぬ。勝とうが負けようが、領民も慣れてしまっています。それよりも、皆がいま、最も恐れているものは」

「……三好か」

「まさしく。“確実に”出ていこうとしている者は受け容れられても、“もしかしたら”侵略してくるかもしれない者が更に勢力を拡げることには耐えられない。それが人の素直な心なのです」

長慶が畠山高政への手切れを宣言していた。もうまもなく、三好と畠山の戦いが始まる。十中八九、三好が勝つ。気がつけば大和も支配下に置こうとしている。次の狙いが近江になっても不思議ではない。むしろこれまでに何度も戦っていることを思い返せば、攻められて当然という気すらしてくる。

「それは……わしだって、できることなら三好に一泡吹かせてやりたい。六郎殿への筋も通るし、都に隠然たる影響を与えた父に近づくことにもなろう。だが、だがな……」

「若様や蒲生たちですか」

「それよ。浅井退治では一致できても、三好が相手となると余程の秘計でもなければ」

「確かに、商人衆などは三好と事を構えるのを嫌いましょうが……。今回ばかりは、家中は対三好で頭が揃うと思います」

「なぜだ」

「仮に三好と気脈を通じていたとしても。一戦交え武威を示し、“侮れぬ奴”と自分を高く売る必要がある。安易に頭を下げれば畠山のように国から追い出されるかもしれぬ。そう考える者が増えてきています」

「そうなのか」

「色々風説も流れているようですな」

「……」

「このまま畠山が敗れれば、三好に対する恐怖と反発は更に高まりましょう」

「む、むむう」

「そこで我々と、紀州侍を束ねた畠山が同時に立ち上がれば」

賢豊が両腕を上下に広げ、縦に挟み込んでみせた。

「おお……!」

「しかもその時、三好家中では不運が続いていたとしたら……」

「ほうほう。……ん、んむ? か、賢豊?」

思いつきで話している訳ではないことにようやく気付いた。外交と陰謀が裏にある。義賢のために、既に段取りを進めてくれていたのか。

「蝉取、再び――。あります。秘計はあるのです」

 

  *

 

つるぎが吊るしてくれた蚊帳の中を覚えている。

あの年も蒸し暑い日が続いて、蚊が多く湧いた。いねや弟たちは蚊帳に入るのが下手で、必ず三匹、四匹と侵入を許してしまう。幼い千満丸はそれを嬉々として潰していった。上手く入り込んだつもりだろうがどこにも逃げ場はないぞと、嗜虐心が芽生えたことを覚えている。

「長房。千を率いて干上がった川沿いに迂回し、あの一本杉のある丘まで走れ」

「はっ」

「お前が着く頃に敵の左陣と中央の距離が広がるからよう。そこに突っ込むんだ」

「分かりました!」

「物わかりがよくなってきたじゃあないか。いいな、敵の身体の足りないところに我々の身体の余ったところを挿して塞ぐんだよ。お前が四国衆の象徴だ」

「……ご勘弁を」

すぐさま長房が走り出す。付き合いも随分長くなり、“なぜ”だの“教えてくれ”だの言わなくなってきていた。之虎だけが見えているものを、見えずとも信じることができる。それは、之虎にとって最も恃みに足る振舞いだった。

「よおし、俺たちも行くとしようかい。呼吸を合わせるんだぜ、ぶつかったら息を止めて十数える、三つ息継ぎしたらまた十押し続ける。その繰り返しでちょうどよいだろう」

自慢の精鋭、愛染衆には一分の乱れもない。どこまでも整然と之虎の思い通りに動くことができる。

「掛かれ!」

激突。半刻、一刻――。今日も戦場は之虎の成すがまま、予言者にでもなったかのようだった。

之虎がこしらえた波間に狙い通り長房が突っ込んできて、その機に押して押して包んで敵将を仕留めた。これで、破った敵衆は五つ目。長慶も飯盛山城を守る宗房を追い、久秀は大和の畠山方を倒している。高政は会戦を避けて各所でこちらを翻弄し、長期戦に持ち込むつもりだったのだろうが。

「透け透けだぜ、高政さんよう」

一つひとつ迅速に潰してやったぞ。死ぬまでやるかい、尻尾撒いて逃げるかい? まあ、逃げるだろうな、ここまでいいところなく敗れてしまうと。

満を持して登場した之虎と阿波侍は、河内衆も根来衆もまるで寄せ付けなかった。舎利寺の戦いに続き、またしても之虎の軍才が畠山家を屠ったのだ。根来筒という“大人のおもちゃ”を大量に野戦へ投入してきたのには興を引かれたが、それがかえって敵の指揮を単調にし、射程と拍子を先読みすることで容易に出し抜くことができていた。

結局、敵のある者は降伏し、またある者は紀伊や大和の山奥へ逃げ去っていって、あまりにも呆気なく河内国は三好家に降ったのである。

 

長慶の陣幕に赴いて戦勝を喜び合う。

「……飯盛山城に移るんだって?」

「ああ。芥川山城には慶興を残す」

「そうか、ははは。息子を認めてやったんだな」

「京に長逸、摂津に慶興。和泉には一存、大和は久秀。そして高屋城にはお前が入った。飯盛山城は五畿内の中心であり、水路を使えば堺や四国へ渡ることもできる」

状況に応じて居を移すのは長慶の得意技である。細川家の後継者から五畿内すべてを治める立場に変わったのなら、長慶がいるべき土地もまた変わるということなのだろう。嫡子の慶興が聡明だから、長慶が京から更に離れても大事にはなるまい。

「木沢長政の根城なんぞでよく暮らす気になるよなあ」

「ふふ。初心を忘れないためにはよかろう」

河内を奪ってやったとはいえ、高政や宗房は行方を晦ましている。畠山家の逆襲が予測されることから、之虎もしばらく南河内に居座るつもりだった。幸いにして四国情勢は落ち着いており、長房や康長と役割分担すれば問題はない。気になるのは天霧城の香川氏くらいだが、それも長慶と冬康が毛利家と友好を深めてくれたり、その裏では大友家を支援してくれたりといったお蔭で当面は放っておける。

新たな棲家、高屋城。河内国守護所として聳えるこの城には、持ち去れなかった畠山家累代の宝が多く残されていた。東高野街道の利権を掌握し、全国に名高い鋳物など職工業を牛耳る政庁でもある。これからどれだけの財を得ることができるのか、想像するだけで笑いが止まらなかった。

 

  *

 

もはや紀伊か大和かさえ分からぬほどの山奥。

こんな秘境にも人はけっこう暮らしているものだった。中央の噂もしっかり届いている。ありがたいことに、畠山家に無法な乱暴を仕掛けた長慶に反感を抱いている者が大半である。この辺りは古くからの善良な価値観が生き残っていて、口を揃えて長慶は悪い奴だと言ってくれた。外敵に敗れた畠山家当主を温かく迎え、河内の奪還には協力を惜しまないと起請文まで差し出してきたのだ。

実力で勝る三好家を凌ぐには、向こうの兵糧切れを待ちながら六角が兵を挙げるのを待つしかないと考えていた。そのためにあえて兵力を集中させず、河内や大和のあちこちに兵を埋伏させた。ぶつかっては離れを繰り返し、敵の消耗を誘う策だった。

だがそれは、三好之虎によって完全に見抜かれていた。あの野獣はこちらの思惑や動静をこちら以上に分かっているのか、行く先、行く先で既に待ち受けていては高政や根来衆を弄んだのである。自分たちは鼠で、之虎は狩りに興じる化け猫のようであった。

「“実休さん”に“鬼十河”……。おい、どうすんだよ。河内も和泉も塞がれちまったじゃねえか」

「は……。せめてどちらか一人だけなら、まだなんとかできそうな気もするのですが」

「お前“ちょっと”根来筒で撃ち殺してこいよ」

「ご、ご無体な……」

之虎は“物外軒実休”という僧名も有している。物欲天下一と呼ばれる男が物外軒とはおこがましいが、戦の腕前は本格としか言いようがない。冗談でも何でもなく、暗殺くらいしか打つ手が思い浮かばなかった。紀州兵を糾合して六角家と南北挟み撃ちという策が成ったとしても、とどのつまり戦場で之虎を倒すことは不可欠なのだ。しかも、この前の戦には不参加だった十河一存が隣国に控えている。

「右京よお。こうやって山ん中巡って、どれくらいの兵が集まるかね」

「三好家への反発が高まっているとはいえ、相手は限りなく強大。いまだ様子見の者が多く……」

「“何人”かっつってんだよ」

「……一万」

「全然足んねえ!」

「何か勝ち目でも見えれば……その倍は集まると思いますが」

「じゃあこしらえろや、“勝ち目”」

「そんな……。そ、それより殿」

「あんだよ」

「我々……迷っておりませぬか」

言われてはたと足を止めた。鬱蒼と茂る森、森、森。最後に見た人家から、二刻は歩いている。後ろに続く供回りを睨んだ。彼らの面も途端に青ざめる。慌てて周囲の様子を確かめに散ったが、間違いのない道にいる確証は得られなかったようだ。

「おい、お前紀州生まれだろうが。“ここ”は“どこ”だよ」

「拙僧はこの辺りには……。殿がずんずん進まれますので、てっきりご存じなのかと」

「ああ! “俺”のせいだってえのか!」

日は既に傾き始めている。強面の武辺者揃いだとはいえ、夜には狼も熊も出るだろう。何より、山中で迷ってしまうと体力を激しく持っていかれてしまう。道はいつしか獣道に変わっていた。行けども行けども目的の集落はおろか、人の痕跡すら見つからない。そうこうするうちに赤い陽射しが木々の間から降りてきた。

一旦野宿の構えを取るか、もう少し歩き続けてみるか意見が分かれたその時。

「殿! こちらに何やら柵が!」

近習の一人が叫んだ。救われたような気で一同が集まってみると、確かに白木の柵が張ってある。だが、こんな人界から離れた地に何やらしんと厳かな気配。奇妙といえば奇妙だった。

「獣除けの柵かね」

「これは結界の類かとお見受けいたします。殿、触らぬ神に祟りなし……あ! 入ってはなりませぬ!」

「いいじゃねえか、“誰か”いるなら道を教えてもらおうぜ」

柵を越えてお邪魔してみれば、なるほど、右京の言う通り何者かの聖域らしい。さして広くもない一帯の中央に、紙垂を垂らした楠木と石塚、それにあばら屋が見えた。近づいてみれば石塚は随分古い物らしく、何らかの由来が彫ってあるが文字は判然としない。かろうじて菊水らしき紋が分かったくらいである。

ならばあばら屋はどうかと右京が中を伺ってみた。

「あっ!」

腰を抜かさんばかりの騒ぎ。妖怪変化でも出たかと思って高政も覗いてみると――。

「うお! こ、こりゃあ“遺骸”かよ。女の……お、おい、死んでるよな、そいつ」

「は、はい、逝っておりまする。ただ、つい先頃まで生きていたような……それに……」

落ち着きを取り戻した右京が遺体を検める。よく見てみればこの白装束の女、極端に痩せ細っていて枯れ木のような肌合い、尋常の死にざまではないように思われた。

「飢え死に……と言うより、即身仏の一種でしょうか」

「なんだあそりゃ」

「殺生を封じ、僅かの穀物を糧にゆっくりと涅槃に近づいていくのです。ほら、ここに干した果物がありました。肉も魚も口にせずに身体を清め、これだけで何箇月も過ごしていたのでしょう」

「女行者かよ。珍しいな、どこの宗派だ」

「さ……そこまでは。いずれにせよたいしたおなご」

右京が手を合わせ、高政たちもそれに倣った。何か、気高いものに出会ってしまったようだ。この女は徐々に朽ちていく己の命を見つめながら、どんな思いで最期を迎えたのだろうか。

「おい。“経”でもあげてよ、その“塚”のところに埋めてやれや。この女にとって大事な場所なんだろうよ」

「え。そっとしておいた方がよくはありませぬか。迂闊に関わって、殿の身に障りなど生じては」

「女は女、不憫だろうが! どうせ今夜はここで寝るしかねえんだ、“一宿一飯”の礼だよ」

「わ、分かりました」

高政の癇癪を恐れた右京と近習が言われた通りに動き出した。棺桶がないが、まあそんな細かいことを気にする女ならこんな死に方は選ばないだろう。女が遺した果物の干物を食ってみる。……甘い、うまい。噛み応えがあって力が湧いてくる。果物を入れた箱の脇には、紙でこしらえた蝶が飾られていた。

 

  *

 

飯盛山城で永禄四年(1561年)の正月を迎え、やがて生駒の桜が開いた。

 

生駒山 まぢかき春の眺めさへ かぐわふほどの花ざかりかな――

 

景色を眺め、一人歌を詠む。

この城の眺めは格別だった。五畿内すべてに目が届き、海の向こうには遥か四国をも望むことができる。長慶の一生の軌跡が視界に入るようで、長かったような短かったようなと――感慨を呼ぶ。

元長の滅びが始まったこの城。長政の野望を育んだこの城。思えば、幼少から青年期を通してこれほど因縁のある城もなかった。そんな場所の頂に立って、晩境に入った自分が桜を眺めているのだ。

“老衰”。

曲直瀬道三の下した診断である。

この地に移ってからも気怠いことが続いて、都で評判の医師を内密に招いた。身体をあちこち触られ、問診を繰り返した末の結論がそれであった。

「そうとしか申しようが……。頭脳には些かの翳りもありませぬ。明確な病の発症もございませぬ。ただ……肉体の内面、奥の奥、底の底のところで……精気が衰え、休息を欲しております」

「……つまり、治す術はないということですな」

「……」

「そうか、四十で老衰か。ふふ……奇縁というものだ」

「このような症例を見るのは拙者も初めてです。どのような暮らしを重ねれば……」

「生命の灯火が消えようとしている。それが分かっただけで充分です」

道三との会話を思い出す。

やるべきほどのことはやったという思いがする。後は沙羅双樹の花の色がいつ変わるか、だけだ。

五畿内を制した長慶に対する反感は日増しに高まっていた。畠山との縁が強い紀伊はもちろん、次の標的だと自覚している近江や伊賀、若狭でも蜂起の兆しが見える。これまで友好的だった毛利も警戒を強めている気配があった。

長慶の生涯最後の敵は民衆そのものである。細川家内乱の時代に育まれた畿内の風潮が、長慶の台頭に伴って全国に広がっている実感があった。成長し、知恵と武力を蓄えた民は、施政者を自らの手で選ぼうとするようになる。一人の民は一個の兵力、一貫の献金となって強大な力を育む。

理世安民の先にあるものは、それぞれの理を掲げて長慶に反抗する民草の姿でもあった。

中央で圧倒的な支持を得て長慶が大きくなればなるほど、周縁では反長慶の勢力もまた大きくなる。畠山高政六角義賢、彼ら個人の力量などはもはや問題ではないのだ。同様に公方の忠臣もより暗い陰謀を企むようになる。三淵晴員、進士晴舎、彼ら個人を成敗することはもはや解決策にならないのだ。日ノ本全土の民草が、どれだけの試行と躯の果てに“納得”するか。それだけが肝心なのである。

“むにゃー!“

夜桜の声が聞こえた。

大方、狸と喧嘩でもしているのであろう。飯盛山には妙に狸が多く、中にはとんでもない化け狸もいると聞く。夕暮れ時に見目よい娘から声をかけられれば、まずは狸の仕業だと思った方がよいそうな。

慶興はすっかり猫の世話を放棄してしまい、黒豚一家も長慶がいないと寂しがって五月蝿い。結局、芥川山城で飼っていた獣はすべてこの城に連れてきていた。

もう一度景色に目を移す。この世の有り様が眼下に広がっている。

美しいものだ。どれだけこうしていても、見飽きることがなかった。

 

  *

 

征夷大将軍として家臣の館へ御成を行う。あの長慶から真っ当なもてなしを受けるのは、これが初めてかもしれない。三好家の総力を挙げたその歓待は古今無双と呼ぶに相応しい招宴であった。

三好家の一員であり、公方奉公衆の一員でもある慶興と久秀が間に入って、太刀の献上や猿楽の披露などを進めていく。三好家重臣の酌を何杯も受け、長慶自慢の“包宰”坪内茂三の料理に舌鼓を打つ。これだけのよい思いをさせられれば、過去のわだかまりも霧散していくような心地がする。

殊に茂三の料理は素晴らしいもので、七大本膳と菓子、計四十三皿の美食を堪能することができた。五十人からの参加者に一人当たり八十貫もの費用をかけたというだけあって、食材は贅を尽くしたものである。日本全国から集められた鯛、するめ、蛸、海老、鯨、海月、蛤、唐墨、蟹、鶉、鮑、鱧、鯉、鮒……などなど。それに雑煮、麺、羊羹、汁、寿司、造り、おちん、蒸し物、合え混ぜ、蒲鉾……技を尽くした調理がなされている。甘、酸、塩、苦。舌がすべての役割を果たす。淡いもの、濃いもの、爽やかなもの。固いもの、柔らかいもの、弾力に富むもの……。めりかり優れた流れを生み出す茂三の才覚は当代一の名に恥じないものであった。

同行させた“小侍従”久乃もおおいに満足しており、義輝も男児としての面目を施した気分。慶興には“相変わらず仲がよい”とからかわれたが、それもくすぐったいような快感に繋がる。義輝と久乃の親密さは既に都の評判になっていた。

足利と三好がひとつになったかのようなこのよき晩餐会。段取りをつけた有能な慶興と、臣下の忠誠を充分に引き出した義輝。思い描いた新たな秩序が完成しつつあった。長慶がどれだけ周辺国制圧という欲と野心を燃やそうが、足利公方の権威は盤石だ。三好の力が増せば増すほど、その上位に位置する義輝の力も増していくのだ。

“将軍親政”という執着を捨てるだけで、これほど上手く物事が進むとは思わなかった。長慶という“副王”を得たお蔭で、毛利と尼子や大友の争いだの、松平元康の独立だの、和睦の斡旋も以前より滑らかに話が運ぶようになっている。天下に対してよいことをしているという確かな喜びが義輝の胸にはあった。

長慶は今日も恭しく客たちの相手をしている。三好家総領としての彼は、晴員の言葉を借りれば妖魔、化け物の類である。しかし、義輝直臣としての長慶はどこまでも穏やかな常識人で、心から安らかな世を望んでいるかのような物腰の柔らかさがあった。その二面性を恐れる者も多いが、義輝は飼いならせる気になってきている。奉公衆や公卿が長慶におもねろうが、昔ほどは気にならなくなった。

「三好殿はよき嫡子を得て果報者じゃ」

「それよ。今川義元尼子晴久。英雄と謳われた者でも、本人が逝ってしまえばどうにもならぬ」

「まこと、次世代の英才を育てるのも難事業というもの。それを成し遂げた三好家ならば、ももとせでも覇を唱えることになるじゃろうな」

御成の主客である義輝の面前でも、平気で長慶を称賛する者たち。これがいまの都の縮図ではあった。それでも、分かる者には義輝の器量が分かる。いつかその時が来れば、長慶が義輝を頼ることもあるだろう。三好が傾くことがあれば、足利が表に出る日もくるはずだ――。

「なに静かにしてるんですか。盛り上げていきましょうよ!」

慶興だった。この気持ちのよい若者は、いつの間にか公方と三好の懸け橋になってしまっている。かつて自身でそう言っていたように、この狭い京盆地の上に咲いた大空のような男だった。

「誰もが汝のことを褒めているな」

「俺? まっさかあ。父上と比べれば月とすっぽんですよ」

「謙遜することはない。余の目から見ても、汝の才覚は長慶に勝るとも劣らぬ」

「へえ、それがほんとならありがたいですけどね。早く父上に追いつきたいとは思っていますんで」

「追いついて、どうする」

「母上に褒めてもらうんです」

ふざけているようにも聞こえるが、おそらく本心なのだろう。波多野家は既に滅び去った上、長慶の妻は別れて以来いまも行方知れずだと聞いている。褒めてもらおうにも、まずは母を探すことから始めなければならないはずだ。いまでも母親と仲のよい義輝は、その点では恵まれていた。

「汝の天秤は、天下を治めることより母親に愛でられることの方が重いようだな」

「そんなことありませんよ。どこの家にも俺のような子どもがいて、星の数ほどろくでもない大人がいる。こんな世の中を、もっとよくしていかないとね」

「ふははは、その通りであるな」

慶興とは気が合う。先日も義輝の館に招いたし、一緒に鹿苑寺金閣京都府京都市)を見物しに行ったりもした。慶興と力を合わせれば、この京をとこしえに鎮守していけそうな気がする。

「あら、楽しそうですこと」

席を外していた久乃が戻ってきた。

「やあ、小侍従殿」

「慶興様も大変なご評判で」

「またそれですか。まったく、お二人は気が合っているようで羨ましい」

久乃は如才なく、慶興や久秀とも親しく話すようになっている。

そう言えば、慶興は女人に興味がないのであろうか。母、母と言っているくらいだから、まだ嫁取り以前の段階なのかもしれない。それとも、忘れがたい女でもいるのだろうか。

今度、二人の時に聞いてみよう。たまにはからかい返したいものである。

 

  *

 

「上様にあのような辛抱をさせてしまって」

「おいたわしや、このままにはしておけまい。いまこそ一矢報いるべき時だ」

着々と準備は進んでいるが、それ以上に状況は悪化しているように思えた。

三好長慶は既に河内と大和の侵攻を終え、五畿内の太守としてますます威勢を盛んにしている。いままさにこの夜、長慶の京屋敷では義輝を招いた御成が行われており、長慶と慶興が三好家の品なき力を見せつけるような騒ぎを繰り広げ、義輝に肩身の狭い思いをさせてしまっているはずだった。

「長慶め、公方の窮状を嘲笑うかのような大盤振る舞いなど」

「そのことよ。世間に自分たちの財力を見せつけ、上様に餌でも恵んでいるような気でいるのだろう」

「成り上がりの痴れ者め。健気にお付き合いされている上様が不憫でならぬわ」

「こんなことが続けば。いまは三好に合わせているふりをされている上様も、そのうち本当にお変わりになってしまわれるかもしれぬ。晴員よ、我らの使命は重いぞ」

「そうだ。上様が耐えておられる間に、我々がいま以上に働かねば」

義輝には晴舎の娘、久乃をつけてある。訪問者との会話も義輝が漏らす思いも、すべて晴員のところへ集まってくるようになっていた。どうやら、義輝は三好との融和に努めることで自身の権威を守ろうとしているらしい。もちろん、それは義輝の本音ではないだろう。本音のはずがない、本音であってはならない。晴員と晴舎は、義輝は高度な偽装をしていて、長慶の政権を覆す機を静かに待っているのだと解釈していた。

隠居の態を取って以来、晴員も晴舎も義輝との接触は避けている。藤英などの奉公衆を使って策略をすり合わせることすらやっていない。何もかもを晴員と晴舎で済ませてしまってから義輝に報告するつもりだった。顔を合わせなくても、綿密な打ち合わせがなくても、義輝との信頼関係は不変だからだ。下剋上の風潮を正し、将軍自ら世を統治するあるべき時代を取り戻す。義晴以来の確固たる悲願なのだ。

「朝倉は松永長頼と若狭で睨みあうのが精一杯、尼子は晴久を失って家が揺らいでいる。所詮、遠国の者どもは役には立たぬわ」

「まさに。今川も国人の離反が相次ぎ収拾がついておらぬ。“上杉”景虎は北条領を席巻しているというが、すぐに上洛ができる訳でもなし。畢竟、畠山と六角だけで三好を討ち果たす必要があるということだ」

晴久のいなくなった尼子家は今川同様、家を保つことすら難しいという始末で、公方に泣きつき毛利と“雲芸和議”を結んでいる。和議が成れば三好包囲網に参加させようという下心もあったが、とてもそんなことができる状態ではないようだ。

「この御成でも痛感したが、あの慶興がよくない」

「同感だ。あの小僧がいる限り、三好の士気が挫けることはあるまい」

「上様を誑かそうとしてもいる。いざという時の備えをしておかねばな」

晴舎が頷く。三好政権の最悪なところは、中枢にいる人物が軒並み若いことだった。長慶が四十歳、之虎が三十五歳、慶興に至っては二十歳に過ぎない。このままの速度で侵略が続けば、彼らが寿命を迎えるまでに日ノ本は三好一色にされてしまう。

「まずは南北挟撃の狼煙を上げねばならぬ。晴員、わしの後ろへ下がれ」

「む」

「珠阿弥、姿を見せよ」

合図に応え、庭先に例の盲人が現れた。白い杖を片手に、毛皮と襤褸を纏った異様な姿。加えて、以前よりも遥かに禍々しい瘴気を帯びているように思われた。

「晴舎様、仕上がっておりますよ」

「“躯の白杖”。晦摩衆の秘術、よう修めてみせた」

「老い先短いこの身体、鬼を抱いて逝ければ幸いでございます」

「誉れ。お主こそ我らの誉れよ。逝け。逝って本懐を遂げて参れ」

「ええ、ええ。ああ、楽しみだ。リイリイ、楽しみだなあ。くふふ、くふふふふ」

笑い声だけが残り、闇の中へ姿が溶けていく。

「あの男、もとは盗賊だと言ったか」

「俊敏天下一と謳われた大盗。無謀にも義晴公の秘宝を盗もうとし、賢光の手で捕らえられた」

「それがどうして晦摩衆に」

「人の意志を操るのは難しいことではない。命を救ってくれた公方に恩を返そう、光を失ったことを活かして命を盗む技術を身につけよう。そう自分で決心したのだと思っている。躯の白杖……貧民窟を巡り、汚物を身体に揉み込み、病人と口づけするようなことも……己で選んだ死にざまだと信じている」

「なるほど、不埒な賊を上手く活用したものだ」

「屑のような命を役立ててやるのも我々の務めだからな」

晴舎の表情には驕りも嘲りもない。真剣に仕事をしている者、役目に命を懸けている男の顔だった。

 

続く