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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十三 落潮の段  ――十河一存 有馬を舞台に激闘し、三好長慶 重臣と末弟を続けて失う――

四十三 落潮の段

 

本城常光が毛利家への寝返りを検討している。

当然の判断だろうと孫十郎は思う。これまでの常光たちによる働きを無視するかのように、新たな尼子当主である義久は毛利と和議を結んでしまった。それも、公方に懇願して間に入ってもらうという、形振り構わないやり方で。

反対に毛利元就が常光を高く評価していることは周知の事実になっていた。旅の僧侶や商人などが、元就が常光の武勇を敬い、叶うことなら手を結びたいと漏らしていると伝えてくる。証言する者の数は多く、毛利家は本気で常光を欲しがっているに違いなかった。これまで毛利家は石見や出雲に遠征するたびに常光によって手痛い敗北を喫してきたのだが、その憎い敵将を褒め称えて自陣に勧誘するとは、さすがは元就といった感じがする。大勢力の狭間で生きる国人は、生き残ること、自分を買ってくれる大将のもとで働くことがすべてなのだから、瓦解し始めた尼子家に忠節を立てる必要はないと思うのだ。

山吹城の曲輪、坑道の方角を眺めながら常光は言う。

「何度も内応を繰り返してきたこのわしが、今回はどうも踏ん切りがつかぬ。流れは毛利にあると、頭では分かっているのだがな」

常光が気にしているのは、自身の興亡よりも領民の反応であろう。何度も何度も殺しあってきた毛利の支配を快く受け容れられるか。大内の流れを受け継ぐ銀山管理や労役要請に従うことができるか。

「皆も分かってくれるさ。この地はいつだって激しい争奪に晒されてきたのだろう、そろそろ腰を落ち着かせてやるべきではないかな」

「ううむ、家を失ったと金殿に勧められると余計に不安になるわ」

「おい、銀蛇!」

「はは、よせよせ。冗談だ」

何度か戦に協力しているうち、孫十郎と常光はすっかり仲のよい戦友同士になっていた。家の先行きを左右するような相談も受ける。孫十郎も孫十郎なりの意見を言う。

「領民だけじゃないのか、不安は」

毛利元就という男、何を考えておるのかよく分からぬ。戦だけなら互角にやり合う自信はあるのだがな」

率直な吐露に、孫十郎も思い浮かぶものがあった。

「……わしもそうだったよ。最後はよく分かる方について、よく分からん方と戦った。そして、負けた」

「ほう」

「これからはよく分からん連中が世を治めていくのだろう。分かり易い方は、負ける方だ」

「さすが畿内育ちだな。と金殿も弁が立つではないか」

「五月蝿い」

「や、もっともじゃ。言われてみれば経久殿も晴久殿もよく分からぬところがあったが、それが頼もしくもあった。義久殿は素直に過ぎるのかもしれぬ」

感心したように言って孫十郎の肩をばんばん叩いた。これが彼なりの礼の仕方なのである。

「ま、大事なことだ。ゆっくり考えればいいさ」

「もうひとつ聞いておこうか。と金殿なら、どのような人物の下につきたい」

「……もう死んじまったよ。高潔……っていうのかな。近頃はああいう人が減ったな」

「詳しく話せ」

「嫌だね。昔を思い出すのは嫌いだ」

「あの金の軍配をくれたという男か」

「細かいことを覚えている奴だな」

常光は案外政情や人物の話を好むところがある。大名たちの思惑、利害、情動、あらゆることを頭に入れた上で、なおその知略のすべてを戦場に注ぎ込む本物の武人なのだ。

こういう男があの頃の細川家にいたら、宗三も随分楽ができたであろうに。

……いや、違うな。六郎と義晴と氏綱と長慶の間を行ったり来たりして、宗三を更に悩ませるだけか。

 

  *

 

播磨攻め前に有馬村秀が服属して以来、有馬温泉は三好家にとって安全に湯治を楽しめる場所になっている。尚子の勧めを受け、一存は少数の供と白雲だけを連れてしばしの休息を満喫していた。

金泉とも呼ばれる有馬の湯は塩気を含んでおり、舐めるとけっこうしょっぱい。その塩気が柔らかい湯の秘密、肌を滑らかにする源だと言われていて、実際に一存の湿疹はたちまち快方に向かってはいるのだが、どうも合点がいかない。塩が肌によいなら海水だって肌によいはずではないか。一存は海に入ったり潮風を受けたりすると途端に肌がぴりぴりと痒くなってしまうのだが、それと有馬の湯では何が違うというのだろう。

とまれ、名湯の呼び声に恥じない心地であった。

(今度は尚子も熊王丸も連れてきてやろう)

額に湯をかけて撫でる。

十日も過ぎれば肌の具合は抜群によくなり、おなごのような張りと瑞々しさが漲っている。合間合間には白雲の馬体も湯を浴びせながら揉んでやって、人馬双方が従来以上の元気を手に入れていた。

 

十三日目の夜明け前。

誰もが寝静まっている頃に起き出し、僅かな灯りを頼りに浴場へ辿り着く。湯に入ったら手持ち蝋燭も消してしまって、星空を眺めながらゆったりと浸かり、やがて訪れる日の出を拝んだら宿に戻る。宿に戻れば朝飯を腹いっぱい食べる。

これが一存の湯治法であり、今朝もそうしている。昨日から供を宿に残してもいることから、来るとすればそろそろ頃合いだった。

……案の定である。近づいてきた、覚束ない足と杖の音。

湯から上がって仁王立ちに待ち構える。現れたのは小さな老人だった。

「毎朝毎朝。お殿様は夜明けがお好きなのですねえ」

「がっはは。お天道様に何ら恥じるところがない、それがわしの誇りだからな」

「……羨ましいことで」

暗くてよく分からないが、どうやら老人は目が見えないらしい。それを抜きにしても放つその気配は太陽と真逆、暗い暗い闇の塊。

「で、お主は誰に言われて来た。畠山か、六角か」

「誰の命でもない、都を困らせる鬼を懲らしめにやってきたのですよう……くふふ、くふふふ」

「はっ。ずっと纏わりついていた妖気の正体、とんだ老いぼれ桃太郎ではないか。お主、珠阿弥であろう」

有馬に入った時からずっと尾行されていることには気づいていた。多勢ではないという確信があったから、あえて泳がせておいた。一対一なら一存に敵う者などおらず、暗闇では鉄砲や弓矢を使うこともできない。それでも挑んでくる者の勇気を買ってやるつもりだったのである。

遊佐長教を殺めた盲人の話は聞いている。鍼を使った、いかにも暗殺者らしい手管だったとも。相手が珠阿弥だということは、雇い主は公方かもしれぬ。しかし、これ以上は考えても仕方ない。

「手前も名が売れてきましたねえ」

「阿呆かお主は。闇討ちするでもなく面を見せてどうするというのだ」

「そんなことを言っていてよろしいのですか。お殿様とて白衣一丁、手ぶらでございましょう」

「ふん、甘く見たな。もうお主の負けは決まった」

「なんですって……むっ、この音は」

高らかな蹄。珠阿弥がどうこうする間もなく、背に飛鳥を括っておいた白雲が駆けつけたのだ。星明りを反射して輝く姿、虹が走ってくるようだ。

「よしよし、よう来た。……おい殺し屋、わしらの絆を知らなかったようだな」

「馬鹿な……この暗い山中を、真っ直ぐにここまで……」

飛鳥を受け取り、珠阿弥に向かって構える。容赦する気はない。

「覚悟はよいな」

「……リイリイ。得物を手に入れたとて……手前にも“躯の白杖”がある……」

珠阿弥も白木の杖を構えた。どうやらやる気らしい。

「ちえりゃ!」

踏込み、横に薙いだ。

想像以上の速さで珠阿弥が反応する。飛んだ、とんぼ返りに着地。そうして伏せた体勢から兎のように横っ跳ね! 気配が消えた。森の中に、闇の中に溶けた。

「ちっ」

揺らぎ。そこ! 飛鳥、弾く。弾いたのは、礫。その隙に珠阿弥は懐まで食い込んできている。

「くひい!」

白杖。下から一存の喉を突き上げる。寸前で身を反らし、顎先に掠らせながら……珠阿弥を蹴る。

手応えがない。かわされたと分かった途端に飛んでいた、再び行方を晦ましていた。顎の痛み、僅かに眩暈。たいそうな奥義を名乗るだけはある。なかなかの体術、盲目でよくも動くもの。

白雲が強く鼻息を吹いた。乗れ、距離を取って日の出を待てと言っている。

「その儀に及ばぬ」

自分を見失った方が負ける。本来の己でさえいれば最強の自分でいれるのだ。白雲よ迷うな、一存よ変わるな。迷いを振り切って――。

「……」

息をひとつついて、籠める、籠める……。

「うおおらああ!」

武庫の山々すべてを揺るがすほどの気合を放った。円い風、木々が揺れる、岩が痺れ、湯が跳ねる。

遅れたもの、それが動じたもの。

「そこじゃあ!」

右前方、全身を槍にして飛び込む、一撃、必殺!

「がっ……な、なぜ……」

白雲がいななく。飛鳥の穂先が正確に珠阿弥のど真ん中を貫いている。

「勘!」

抜いた。

弧を描き吹き出す血。ぬるい、臭い。浴衣が黒く染まっていく。珠阿弥、まだ息がある。

「くひ、ひ、かか……った。それでも、手前が、一枚……上手だ……た」

「ぬっ」

言い終わると同時に何かが顔に飛んできた。鍼、含み鍼。生じた、隙。腕を取られた。それを珠阿弥、己の傷口に――なんと突っ込んでいく。

「リイ……むくろのお……」

おぞましい温かさ、ぶよぶよぬめる不快な弾力が指先に触れる。……手首まで埋まっていく。はらわた、遂には固く確かなもの、骨! 消えかかった命で何をしているのだ、こんなことで!

「怖じ気つくものか! わしの無敵な心胆が! おおおおお騒ぎ出すわ!」

掴んだ。強力を込めて。へし折り、引っこ抜いてやる! べき! ばき! 身体を通して音が伝わる!

「うぎゃあああ!」

汚い悲鳴。珠阿弥だった白杖を掴んだまま顔面を殴り、頸骨ごと砕いて終わらせた。

済んでしまえばたいした相手でもない。この程度の刺客ならば何度も撃退してきているのである。

暁光。差し始めた。血まみれの一存を照らす。

気づかうように白雲が顔を舐めてきた。

「よせよせ、お前も返り血がついている。もう一度風呂に入ろう」

死体が転がっていると面倒臭い。卑しい刺客に礼は無用、珠阿弥の死体は崖から樹海に放り捨てた。

浴場は皆が使うものである。血が入らぬよう、慎重に距離を取ってから桶で何度も身体を流す。

土産話がひとつできた。それくらいのつもりだった。

 

  *

 

おたきの漬けた菜の花は清浄な味わいだった。緑の叢雲に黄色く灯る星々、抑えた塩気と野の風味。それを白飯に乗せて食せば、ひと口ごとに寿命が一日伸びるような思いがする。御成のような高級料理もよいが、このような質実の菜もまた愛しい。

「いいな、実によい。明日はこれで粥をつくってくれぬか」

「ええ、ええ。おじゃこも混ぜたらようございますよ」

「そうしてくれ。塩は少なめにな」

「心得ていますよう」

茂三の名が上がるにつれ、養母のおたきも生気が増しているようだ。いま食している菜の花漬けにしてもそれは表れていて、水気の残し方が絶妙である。充実している料理人ほど味付けだけでなく、むしろ火の入れ方や塩の利かせ方で水気の具合を上手く操るものだった。

いま、茂三は京に閉じ籠りになっていて、この飯盛山城にはなかなか帰ってくることができない。御成の料理を手掛けたことが評判を呼んで、日本中の料理人が教えを請いに上洛してきているのである。茂三自身の研鑽にもなるからと、長慶は快く交流を深めるよう言いつけてあった。茂三の身が多忙になるほど、おたきも楽隠居している訳にはいかなくなる。

「少し休んだら、野崎観音(大阪府大東市)にでも参拝するか」

「若様がご立派になられて、殿様は少し余裕が出てきましたねえ」

「ふふ。子どもというものはありがたいものだな」

いま、政権の定例実務は芥川山城の慶興がさばいてくれている。飯盛山城の長慶にまで持ち込まれるのは慶興や長逸たちだけでは判断がつかない高度な決裁事項だけで、その数は徐々に少なくなっていた。河内や大和の安定についても之虎や久秀の補助があって、何もかもを長慶が背負わなくてよいのだ。

少なくとも内政や外交に関しては、慶興の手腕は誰からも認められるようになった。摂津や京の国人、朝廷、寺社などとも朗らかに交際することができているし、とりわけ義輝との関係がよい。長慶の嫡子という正統性、政務の実力、朝廷や公方のお墨付という権威。すべてを備えた後継者と慶興が目されることで、三好政権の安定感は一層増しているのだった。血統や一門による政権体制をよしとはしたくないが、事実、家臣や民はそれを望んでいる。細川政権を打倒し、足利の家格をあれほど辱めても、染みついた常識はそう簡単に変容するものではないらしい。それを無理に変えようとしても要らぬ混乱を呼ぶだけではあった。

 

歯を洗った後、歌書などを読んで寛いでいると、慌てた様子で取次がやってきた。

京から石成友通が急ぎやって来たのだという。人払いをし、息を乱して友通が述べる。

「も、基速殿が息を引き取りました」

「なんだと」

「突然、胸を押さえて……」

基速は六十を過ぎていたはずで、急死することがあっても不思議ではない。

だが。

「不審な点は。近頃変わったことがなかったか」

「特に……。五日ほど前にも、京の各所へ挨拶に出向かれておられましたし」

「京」

政務の中核であり、元は義冬方の奉公衆だった基速。狙われる理由はある。

足音。速い。また誰かが来た。また何かあったのか。胸。動悸、疼き。

登場したのは動転している篠原長房だった。

「一大事にござる! 一存殿が……一存殿が!」

連なる災い。

いよいよ潮が引き始めたのか。

「……ならばここからだ。私の心魂が試されるのは」

呟いた。その長慶の形相を見た友通と長房が怯えていた。

 

  *

 

有馬からの帰途、岸和田城を目前にしたところで一存が落馬した。いや、落馬というにも語弊がある。一存と愛馬の白雲、両方の意識が同時に混濁し、共に崩れ落ちたのだという。真っ昼間の紀州街道で起こったことだから目撃した者も多かったのだ。

一存の風貌は和泉国に知れ渡っている。根来衆の侵略から何度も救ってくれたことは尚更だ。良民の手厚い看護を受けながら、身柄は直ちに岸和田城へ移送された。

四国から之虎のいる南河内へ向かうには岸和田はなかなか便利な位置にある。そろそろ一存が戻ってくるということもあって、康長と長房は岸和田城で待たせてもらっているところだった。そこに飛報。続けて、一存が運ばれてきた。

ひと目見てこれはいけないという直感があった。ただ事ならぬ事態を察知し、長房は長慶と之虎へ急を知らせに発った。今頃は民の間でも噂になっているはずだ。じき紀州にも知られるようになる。もしかすると畠山家や根来衆は“初めから知っている”ことすら考えられた。

 

五日後。

讃岐からは尚子と熊王丸が。淡路からは冬康と冬長が。畿内からは九条稙通に長慶と之虎、慶興、長逸などが駆けつけている。いないのは寧波からの帰路にいるはずのいね、遥か若狭で戦っている長頼、基速の抜けた穴を京で埋めている久秀と友通くらいだった。

慶興は名医の曲直瀬道三まで無理やり引っ張ってきていたが、“手の尽くしようがない”“生きているのがおかしいくらいだ”としか言いようがないのだという。問い詰めて分かったことは、重篤な病魔が幾重にも――毒と言った方がよいものが体内で巣食っているということだけだった。通常ならば同時に罹患するはずもない病の群れを、いったい一存と白雲はどこで得てきたというのか。

感染が広がる可能性も高い。一存と白雲は城の離れに移されることになった。

高熱、悪寒、激しい痛み。あらゆる病の攻撃が両者を苦しめているのだろう。城に入って以来、一存は一度も目を開かず、白雲はうずくまったままである。熊王丸と万満丸は稙通と共に城主の館で回復を祈り、尚子は自分にうつるのを恐れず一存の汗を拭っていた。

 

期せずして三好家の中枢が一堂に会したことになる。

「武と政の要が同時に狙われたということにならねえか」

之虎が単刀直入に言う。

「私もそう思う。畠山、六角。海の上にまで怪しい噂が聞こえてくる」

「六角の目覚め。これまで以上に気を締めて構えねばなりませぬ」

冬康と長逸。皆、この機に二国が同時攻撃してくることを想定していた。

「畠山も紀州国人の多くに調略を済ませている模様」

長房。河内や紀伊の情勢にも明るくなってきている。

「裏で糸を引いている奴がいるな」

再び之虎。長慶に向けて視線を送る。

「……十中八九、三淵晴員と進士晴舎であろう」

「じゃあ、また義輝公が敵に回ったのか?」

長慶の読みに、冬長が素直な疑問を皆に投げた。

「違うな。上様の知らぬところで、一部の奉公衆が好き勝手し始めたんだろうぜ」

慶興が答え、長慶が頷きながら補足する。

「少数派は過激になってゆく定めだ。……そして、証拠は決して残さない」

「……」

沈黙。

長慶と慶興の言う通りなのだろう。慶興と久秀が公方組織を壟断し始めて以来、義輝はお飾りの度を一層強め、奉公衆はばらばらに分断されてしまっていた。伊勢貞孝のような日和見派が右往左往しつつ、大勢としては親三好派が主流になっている。これは当たり前の結果で、かつて義輝を見限り朽木へ同行しなかった連中を大量に復職させたからだ。結果として晴員や晴舎は立場を失い、隠居して、表の権限をすべて失った。失ったことで、動きが見えなくなったとも言える。

「まずは一存の生命力が病に打ち勝つことを祈ろう。その上で南北の武備を増強、慶興は奉公衆の動きから目を離すな。もう……次に誰が狙われてもおかしくはない。身辺の警戒を怠らないでくれ」

「……」

「難局が始まる。真に恐ろしいのは陰謀などではない。溜まりに溜まった我ら成り上がりへの反感、無数の妬み、恨み、憤り。これを克服せねば陰謀も反逆も尽きることはないのだ」

「……」

「兄上よう。要は、誰も逆らう気が起こらなくなればいいんだろう」

「そうだ。まさしくその通りだ! やろうぜ皆、俺たちならできらあ!」

長慶の言葉に之虎と慶興が続き、一同が鬨を上げたことでこの議論は一旦お開きとなった。このような悲痛な場面においても、之虎と慶興は人を鼓舞する力に優れている。反対に、長慶が思い詰めた表情をしているのが気になった。

皆の鯨波は、一存の耳にも届いたであろうか。

 

翌日。

妙な噂が領民の口から聞こえてきた。

一存の落馬について、“久秀が更なる出世を望んで毒を盛ったのだ”だの“三好家の思い上がりが有馬権現の怒りを買ったのだ”だのというものである。

家中の分裂、あるいは民草の支持低下を狙った流言であることは明らかであり、集まった一同の中で本気に取る者はいない。皆、一笑に付すだけだった。

 

康長は堺の顕本寺まで馬を飛ばし、元長の墓前に跪いて祈った。

「兄上……一存をお救いくだされ、お守りくだされ。あれは皆の宝、兄上が最後に残した希望なのです。天上で命が要り様ならばわしの命を持っていって構いませぬ。何卒、お救いくだされ、お守りくだされ……」

自分は充分に生きた。目の前に映るのはもう過去ばかりなのだ。

元長に助けられた天狗入り、一存と長房を率いた天狗入り。

元長と馬を並べた自分の初陣、一存と馬を並べた一存の初陣。

吠える元長、吠える一存。つるぎに甘える元長、尚子に照れる一存。

涙と鼻水だけはこの齢になっても次から次へと垂れてきて、そのうち雨まで降ってくるのであった。自分が濡れることが何かの贄になるような気がして、日が沈むまで墓にすがっていた。

 

更に翌日、明け方の頃。

広間に集まっていた皆のところに、尚子の悲鳴が届いた。庭へ出て離れの方に目をやる。

離れから出てきたのは一存だった。

一存!

これは奇跡か。自慢の額や髭は尚子の手できれいにされている。漲る力強さはいつも以上だ。

「待て」

どよめく皆から一歩前へ出て長慶が一存を止める。

「どいてくれ。わしは往かねばならぬ」

「ならぬ!」

「慶兄、虎兄、冬兄。……すまぬ、後は任せた。すまぬ、恩を返せなかった」

違う。常時と違う。目だけではない。肌、額、爪、すべてが赤い。息づかいすら朱に染まっているようだ。

「一存!」

之虎と冬康が同時に叫んだ。兄弟の制止を無視して一存は進む。白雲。白馬が起き立った。一存に呼応して追ってくる。騎乗した。人馬が一体となった。

熊王丸! 万満丸! いずこ!」

「父上!」

稙通に連れられて少年たちが現れる。眼前の光景に稙通は両手を合わせて感涙し始めた。

熊王丸!」

「はは!」

既に子どもたちも泣き濡れている。

「讃岐の民に伝えよ、この先どのような難儀に遭おうと己を見失うな、讃州男の誇りを胸に!」

「……はい!」

「万満丸! 和泉、岸和田、この熱情の国を尊べ! 思いでゆけよ、気持ちで動けよ!」

「……応!」

「男の一生は死にざま九分、さらば、さらば!」

誰にもどうしようもなかった。長慶すら、この超常の出来事を見届けるしかなかった。

往かないでくれ。そんな無様な声すら出すことができない。

白雲に跨った一存は一度だけ皆の方を振り向き、歯を見せて笑った。

「突貫!」

疾駆。曲輪を横切り、抜け、跳んだ。信じられぬ、水掘の上を――。

宵闇切り裂く流星のように、朝焼け切り裂く飛鳥のように、人馬が宙を駆けていく。

康長の涙が地に落ちた時、一存と白雲も堀の向こうに着地した。一存が諸手を挙げ天に叫ぶ。

その姿勢のまま微動だにしない。鬼と馬は、既に絶命していた。

 

  *

 

十河一存と斎藤基速の急死について、慶興から激しく問い詰められた。

覚えのないことである。噂になっている久秀の仕業ということはさすがに考えづらいとしても、本当の病か、畠山辺りの仕業かと捉えていたのだ。

慶興は晴員や晴舎、すなわち晦摩衆の関与を疑っている様子だった。それなら義輝に報告があるはずであるし、第一彼らはおとなしく謹慎しており、晦摩衆も上杉景虎による関東争乱、今川義元敗死後の東海動乱など、各地の情報収集に充てられている。

義輝の無実を確信したのか、慶興は非礼を侘び、以後はこの話題を口にしなくなった。念のため、藤英経由で晴員と晴舎の様子を探ってみたが、何ら疾しいことは検知できなかった。

「考え過ぎだったようだな」

安堵して藤孝に言う。同意してもらって、これで終わりにするつもりだった。

「それならよいのですが」

「何か気になるのか」

「“問題ない”という報告ほど怖いものはありませぬ。本当に問題がないのか、問題が上がってこない集団になってきているのか……」

「……」

薄々義輝も抱いていた警戒心を、またも藤孝が先に指摘したのだった。

 

  *

 

一人旅は初めてだった。尼姿の四十女にちょっかいをかけるような者は滅多にいないだろうが、それでも本人にとっては不安なものである。

今川家は国人の離反が続き、あれだけ親密だった松平家ですら三河で独立する始末だった。岡部の行く末もまるで安泰ではない、いつ誰が駿河に攻め込んでくるか分からないと、佳はあまねの帰郷を促したのである。先の戦で岡部一族は義元の首を取り返すなどの大功を立て、今後も今川家に忠節を尽くす決意を固めていた。そう、その道が破滅の道かもしれないと、佳自身も覚悟しているのだった。

「何があっても死に急ごうとはしないで。生き延びて。ね、そして、また会いましょう」

涙ぐむ佳にそう伝え、あまねは里を後にした。八年も過ごした土地に何も残さず、我が身可愛さだけで。

 

清須(愛知県清須市)の賑わいは以前とは段違いだった。もともと尾張国の中心ではあったが、織田信長が移ってきてからは商業の発展が加速したのだという。義元による駿府の繁栄も大変なものだったが、行き交う人の数、市場に並ぶ品の数は清須が上回っているように思える。大国尾張の秘めた力を信長が充分に引き出したということだろうか。西国の山口や博多は焼けてしまったと聞くし、小田原や鎌倉などの東国は人の数が足りない。畿内を除けば、いまは清須が日本第一の都市なのかもしれなかった。

今夜の宿をこの町に決め、日没前に日吉神社(愛知県清須市)へ立ち寄ることにした。山王宮とも呼ばれるこの社は山の神を祀っていて、あまねとしては惹かれるものがある。

夕暮れ時のため境内に人は少ない。あまねも手早く参拝を済ませたところ、最前から石灯篭にもたれて屈んでいる少女のことがどうも気にかかった。両の掌を頬に当て、何ごとか勘案している様子である。

「申し……おなごが一人で、危のうございますよ。早くおうちにお帰りなさい」

「帰りたくないの」

まだ十代だろう。多感な頃だから、親と喧嘩でもしたのだろうか。

「親御様が不安になりましょう」

「そう、安心できないんだって。だから、結婚は駄目だって。どれだけお願いしても駄目なんだって」

「あら……」

あまねを尼だと思って恃みにしたのか、少女は懸命に経緯を説明してくれた。恋仲になった男と一緒になりたいが、相手が色々といわくある人物で、親の理解が得られないということらしい。その男はいまでこそ織田家の下っ端の中で重宝されているが、以前は各地を放浪して怪しい銭稼ぎをしていたのだと。

「変な奴だし、怖い時は怖いんだけど、絶対に憎めなくて。“俺は天下を獲るのだ”って法螺吹くような奴で」

なるほどと思った。家族の気持ちは分かる。どれだけ本人同士が好きあってようが、破天荒な男、常道から外れた男に嫁をやるのは二の足を踏んでしまうものなのだ。我が兄、晴通がそうだったように。

「ふふ、自信をお持ちなさい。恋は自分だけのもの、その方はあたしのもの。そう言い切っていいのよ」

「……へへ、比丘尼様がそんな風に仰るなんて」

「その代わり、何があっても悔いては駄目だからね。女は恋を背負って地獄に落ちるの。……頑張れ」

少女の背に手を当てて励ます。家の近くまで送ってやって、あまねも宿に戻った。もうすぐ、畿内だ。

 

続く