読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十四 再会の段  ――松永久秀 多聞山城を誇り、細川六郎 三好政権に膝を屈す――

四十四 再会の段

 

己の夢をすべて捧げた城が完成しようとしていた。

贅を尽くして塗り込めた白壁。内部を走って鉄壁の迎撃が可能な長屋造りの櫓。張り巡らせた石垣、大寺院も驚くであろう総瓦葺の屋根。そして何より、空前絶後の“四層”天守。この多聞山城(奈良県奈良市)こそ大和の新たな象徴、民衆に長慶の偉大さを知らしめる大神殿なのだ。

「どやあ! どやあ! この城見て腰抜かさん奴なんかおらんでえ! しぶとい筒井にやかまし十市、島とか抜かす若造やらに、興福寺東大寺奈良県奈良市)に大神神社奈良県桜井市)! 目利き自慢の商人町衆どももじゃ、大和ででかい面している奴あ全員ここに連れてこんかい! なっはっは」

「……」

「なんや正虎、またなんぞケチつける気いかい」

「いや、今回ばかりは……。お見事としか言いようもありませぬ」

「そうか! せやろ! いやっはっはっは」

大和進出という難題をぶん投げられて一時はどうしようかと思っていたが、ここまで順調に事が進むとは我ながらたいしたものである。もちろん長慶の威光あってこそ調略も上手く進むのであるが、それでも自分ほど格好よい爺さんはそうそう世にいないのではないか。

おお、多聞山城よ。建築こそ人の英知、築城こそ男の本懐。あかん、見てるだけでにやけてまう。

「殿!」

涎が垂れそうになっている久秀のところに小者が走ってくる。なんやうっとうしい。

「も、申し訳ありませぬ!」

狼狽させてしまった。どうやら思ったことが口に出ていたようだ。

「どないしたねん」

「殿に面会を希望する者が参っておりますが」

「待たせとけや!」

「は、はい!」

「いや、ちょい待ち。どんな奴や」

「女です。どこやらの尼のようですが」

「覚えないのう」

「“琴”という方の使いだと」

「阿呆! それを先に言わんかい!」

正虎と目を合わせた。琴からの連絡が絶えて久しい。面には出さなくとも長慶にとっては何よりの懸案。正虎にとっては勅免を喜び合いたい肉親の便りである。すぐさま新築の客間へ通すよう指示を出した。

 

現れた女を見た久秀は、久しぶりに腰を抜かすほど驚いた。

「あああ、姐さん」

「しばらく……ですね」

微笑むあまね。正虎は興味深げにかつての長慶室を眺めているが、久秀にとってはそれどころでない。

「申し訳ありまへん!」

額を畳に掏りつけるばかりにひれ伏す。

「……どうしたというのです」

「晴通殿をお救いできませんでした! 詫びても済まんことは重々承知だす、思うようにしとくんなはれ!」

若妻の艶めかしさが消えたあまねは、もともと有していた密かな凄味が一層増しているように思われる。

「そう……ですか、兄は逝きましたか……。討死したという噂は……聞いておりませんでした」

丹波の攻防、若狭での憤死を説明する。あまねの表情は静かなままで、揺らめきは窺えなかった。

「兄も琴も……あたしの大切な人は、皆先にいなくなってしまう。あたしの、せいなのでしょうね」

「……恐れ入ります、姉上はいまいずこに」

あまねの嘆息を聞き逃せず、正虎が割って入った。

「楠木正虎殿でしょうか」

「はい」

「あなたにお渡しするものがあって、恥を忍んでお伺いしたのです。……これを」

手渡された文を読み進めるうち、正虎の頬を幾筋も涙が伝ってきた。最後には痙攣したかのように肩を震わせ、号泣し始める。久秀もあまねも黙っているしかなかった。

「……姉もまた涅槃へ旅立ったのですね。あらゆる密事と共に……」

しばらく後に正虎はそれだけを呟き、眼前で手紙を破ってしまった。何が書かれていたかは気になるが、正虎の様子では誰にも明かすことはなさそうだ。耐え難くなったのか、正虎は先に客間から出ていった。

「姐さんは……これからどちらへ。と、殿は飯盛山に、若殿は芥川山に!」

「くすくす。世間で言われているほど久秀は変わっていないんですね」

「そんなん、重々ご承知でっしゃろ! わいほどの忠臣おりまへんで、見てくださいや、前からの領地は没収、このややこしい大和をちょっと平定してこいやでっせ! いやほんまに、わいやなかったら卒倒してますわ」

やれ一存を謀殺しただの、やれ基速を取り除いただの、やれ長慶を押しのけて天下を支配しているだの、最近の久秀に関する流言は度が過ぎていた。三好家中では問題にされていないが、いずれ、噂を根拠に足を引っ張らてしまうこともあり得るのだ。冗談ではない、これほど身を粉にしているというのに。

「……人が多い京にでも移ろうかな。目立たず、ひっそりと……。ううん、その前に兄の……若狭へ……」

「や。京はともかく、若狭はよしなはれ。朝倉が乗りこんできよったさかい、しばらくは大荒れですわ」

長頼が若狭に進出したことで、畠山や六角同様、朝倉も本腰を入れて三好家に対抗し始めている。昔の朝倉家と違って京の政情には関わってこないが、隣国若狭の三好化は放っておけないということだろう。長頼とて丹波から遠征するという形では分が悪い。丹波でも黒井城(兵庫県丹波市)の赤井直正が不穏な動きを見せていて、若狭へ大軍を連れていく訳にはいかないのだ。

京でも戦が起こる気配はあるが、都の人心に精通している六角氏が乱暴狼藉を働くとは思えない。

「いずれにせよ、どこかに隠れ住もうと思います。……探さないでね」

再びあまねが微笑む。懐かしい、有無を言わさぬ和やかな圧力、それは長慶以上の。

「あ、会っていかへんのでっか」

「久秀にしては野暮ですよ」

手短に人を刺して、あまねは慎ましく辞去していった。後をつけさせるか。居どころを押さえておかないと長慶と慶興をがっかりさせてしまう。しかし、ああまで言われて無下にできようか、ええい、どないしたら。

 

  *

 

紀伊国、小松原館。

戦の匂いが近づいているためか、十河一存が急死したという吉報のためか、主の直光は急速に元気を取り戻していた。やはりこの男は河内国守護代などより、荒ぶる紀州侍を率いて戦場を駆け巡る方が向いているのだろう。

宗房が公方・六角と練り合わせた“秘計”は、確実に成果を上げていた。

六角との軍事同盟が成立。六角家は義賢に代替わりして以降、近江周辺の情勢に生ぬるい介入を繰り返すばかりで、何をしたいのかよく分からない家になってしまっていた。それが三好、浅井、斎藤などの急伸を許したのだ。そんな六角家も今回ばかりは本気で戦おうとしている。家中の潜在的な親三好派も“牙”を見せておかねば高政のように国から追われてしまうと、一丸となって義賢を盛り立てているようだ。

十河一存の暗殺。三淵晴員が手を回したようだが、どんな“手”を使ったのかまでは分からない。ただ、一存が病に倒れ、死亡したことは間違いなかった。多くの者が一存の落馬や葬儀の様を目撃しているし、守護神を失った和泉国では俄かに動揺が広がっていた。一存がいないというだけで、参陣を約束する者は倍ほどにも増えている。舎利寺の戦に加わっていた国人衆、岸和田や日根野から追い払われた根来衆など、“鬼”の十河に恐怖していた者は数多い。噂には尾ひれがついて、紀伊の子どもたちの間では一存が槍の一振りで嵐を起こし自在に雷を落とすのだ、親の言うことを聞かないでいると鬼十河がやって来るのだと言われているほどだった。その一存が死んだのなら、“勝てるかも”という思いが出てきて当然である。

「畠山家復興の願い、三好家への反骨にこれらの知らせが加わって……兵は二万近くにもなりましょう」

絵図を描いた宗房が胸を張って報告する。この男が“お家の復興”などと抜かすと笑えるが、いまは木沢長政の真似事よりも打倒三好家の思いが強いらしい。事実、長慶は長政の仇でもあった。

「近頃、民の間では“こんな時代に誰がした”“誰が世の中を変えてくれと頼んだのだ”と、三好を憎む声が日増しに大きくなってきております。……かくいうわしも、まったくの同感ですが」

顔色のよくなった直光も重ねて報告する。畿内の商工業、物の流れが盛んになるにしたがって、紀州の景気が悪くなってきているとは聞いていた。統制の効いた三好家御用商人は値付けも品質も納品期日も紀州商人を上回っているし、船便だって淡路の安宅水軍が牛耳るようになっている。そもそも、これまでは畿内で戦乱が絶えなかったからこそ紀州の商業や水運、根来寺による銭貸しなどが好調だったのである。長慶の統治が始まって以降、畿内は日ノ本の中心たる真価をめきめき回復させていて、こうなってしまうと人の数が多い分、畿内に富が集中し、周縁地域の富を吸い上げていってしまうのは明らかだった。

食えなくなってくると人は荒む。その上、主家の畠山家は河内から追い出されてしまうし、畠山と同格の細川家旧領も含め、いまの五畿内は阿波からやってきた土人の恣になっているのだという。そんな無法が通るかと憤れば、畿内の連中はこれこそが新たな時代だ、ついてこられないお前たちが悪いなどと嘲笑う。紀伊の民の誇りは、何重にも傷ついていた。

「近頃じゃあ“東国”に移り住む奴も増えてきているんだってなあ」

「は。紀伊の操船術は天下第一、潮に乗って遥か房総まで渡ることすら造作もありませぬ。近頃は東も賑やかになってきていて、我々の産物はなかなか重宝されているようですな」

高政の問いに直光が答える。自慢げに言うが、民の離散を喜んでどうするのだ。

「……“流れ”はこっちにある。“士気”も上がりに上がっている。だからこそ、俺は“腰を据えて”いくぜ」

「なぜですか」

「“兵”が恐れる十河は死んでも、“将”が恐れるべき長慶や実休さんはぴんぴんしているだろうが。慌てて戦えば奴らの思う壺だあ。いいか、俺たちは所詮寄せ集めだ。“数”と“熱気”しか取り柄がねえんだ」

「ならば、南北から蜂起、三好と長く対陣して……向こうの隙が現れるのを待つということですかな」

「“いい勝負”をしてりゃあ兵は更に集まる、練度も増していく。要は三好家も無敵じゃねえんだ、三好家に逆らってもいいんだなって、世に知らしめてやるんだよ。あっちは民の“安寧”が売り、こっちは民の“反感”が元手なんだ。戦が長引いて“損”をするのはあっちさ」

「殿……」

「なんだよ宗房」

「ご立派に、なられましたね」

「“上”から抜かしてんじゃねえよこの野郎」

宗房と直光は得心したようだが、この作戦だって穴は無数にあるのだ。一度でも敗れれば“熱”は冷める。相手は当代随一の戦上手が揃っている。だからこそ慎重に事を進めるしかないだけだった。“北”の六角がどれほど頼りになるかも分からない。いまは纏まっていても、戦況が変わり、長慶の調略が激しさを増しても一枚岩でいられるものなのか。あの頼りない義賢がどこまで果断になれるのか。

上気している宗房と直光。この二人とて、特に宗房だが、いつまで高政に従っているかどうか……。

河内を追われてから、高政は自分なりに対三好の軍略を考え続けている。三好家を相手にするには、いまの世の流れ、銭や物を生み出す仕組み、民の心のありようまで見通さねばならないことも分かってきた。考えれば考えるほど、三好家は化け物だった。どうしてあんな集団が生まれてしまったのか。どうして長慶は世の中を変えようと“躍起”になっているのか。なぜ、何の“得”があって。

あらゆる重みを全身に纏い、いよいよ出陣の日は近い。高政にとってはこれが真の“初陣”だった。

 

  *

 

六郎との和睦は次の開戦を知らせる鉦に過ぎない。

縁戚である六角義賢は、六郎の扱いの悪さを名分に攻め寄せてくるつもりであろう。秘密同盟関係にある畠山高政もいよいよ兵を挙げるだろう。すべて承知の上での決断だった。

「人生五十愧無功、花木春過夏已中……。絞り出す言葉すら祖先の力を借りねばならぬ、このわしを笑うか長慶。遂に諦めたわしを、落ちぶれ果てた主家を嬲って、楽しいか、満足か!」

「……何を仰るのです。巡り合わせさえ違っていれば……いまでも私たちは……」

長慶は落涙で答える。病に蝕まれ、やつれにやつれた六郎を前にして出てくるものは憐憫でも満足でもなかった。虚しさ、ただただ広大無辺の徒労でしかなかったのだ。

坂本から移送されてきた六郎を迎えるため、三好家側も長慶、慶興、宗渭、預かっていた六郎の嫡子昭元など、縁ある者が大勢集まっている。以前の京の主をひと目見ようと沿道には民衆も詰めかけていた。宗渭や昭元も袂で顔を拭いながら六郎を凝視している。長慶にも負けず劣らず、彼らにも様々な思いがあるはずだ。この交渉を成立させた宗渭は、どうすれば六郎、宗三、長慶の三人が笑って手を取りあえていたのだろうかといまでも考えているに違いなかった。

六郎と三好家の反目は数え切れない悲哀を生んだ。元長が使い捨てられ、一向宗徒や法華宗徒が利用され。和田新五郎と幹子の悲恋と、咽び泣く新五郎の老母。長政と長教の跋扈と、宗三の最期。去っていった孫十郎とあまね、戦乱に巻き込まれた無辜の民草たち。長かったようにも、束の間のことだったようにも思えた。そして、いまとなっては何のために皆いなくなったのか……。和睦とは、許すとは、あまりにも虚しくて……哀しい。

「……ふん。その様子、老いたのはわしだけではないようだ」

「ええ……。六郎殿にはよろしく養生いただきますよう」

「何が養生じゃ、態のいい幽閉であろうが」

「昭元殿と一緒に穏やかな時間を過ごしていただきたいのです」

「相変わらず平然と悪事を重ねる男よの、長慶!」

六郎が吠え、周囲が騒然とした。実態としては六郎が三好家に降伏した訳で、この場は長慶の温情を民草に訴えるために公開しているものだ。あまりにも六郎を立てて長慶が項垂れていては、逆にかつての家格というものを人々に思い出させてしまう。

そうした状況を察知し、慶興が二人の間に割って入った。

「これより俺が案内します。六郎殿の終の棲家は摂津の普門寺(大阪府高槻市)、いいところですよ」

「なっ……つ、終の棲家じゃと! お、お主は長慶の小倅か、おい、長慶、どういう躾を!」

「お静かに」

「わしが誰だか分かって」

「お静かに」

慶興が顔を六郎の鼻先まで近づけ、気迫で呑み込む。わなわな震えていた六郎も、どうしようもなくて従うしかなかった。慶興にとっては細川家など過ぎ去った旧き一族に過ぎない。祖父を殺した仇敵、母と離別する原因を生んだ腐れ外道という認識しか有していないのだ。世代を重ねればかつての常識も常識ではなくなる、六郎が慶興を通じて感じた恐怖はさぞ鋭くて深かったことだろう。

「では、一同ご機嫌よう」

誰にも有無を言わせず、慶興が颯爽と輿に乗せた六郎を連れていく。沿道からは三好家の若き次期当主に向かって歓声が上がった。

落ち着きを取り戻した長慶も、なんとはなしに沿道の見物客を見回した。慶興は着実に京の町衆から人気を集めているようである。おなご受けもよさそうだ、これならそのうちよき縁談でも――。

「!」

五十間ほど先の群衆、沿道から三列目、背伸びして慶興の馬を見つめている尼の姿。頭巾で隠れて分かりにくいが、あれは、間違いない。

帰ってきてくれた――。足元から眉間にまで痺れるような歓びが走り抜け、長慶は僅かによろめいた。

衰えゆく寿命の炎を前に、鞴を授かったような思いがした。

 

  *

 

行きは順調だった航海も、帰りは悲惨なものだった。

昼も夜もなく吹き荒れる波浪、突風、波浪、突風。どれだけ隠れていても潮を浴びることしばしば、目や鼻は焼けたように痛く、喉はねばねばしながら渇くという極めて不快な状態に陥った。

鑑真和尚が視力を失ったというのも分かるなあ……!」

「ちょっと、冗談じゃないわ! 絶対に日本へ辿り着くのよ、二度目なんてないんだからね!」

「安心しなさい、水夫はとびきり熟練の者を集めてあるのだから」

「本当なの? 天候だって絶対大丈夫とか言っていた癖に! いつもいつも調子のいい事ばかり!」

喚くいねに返事をしようとしても、上から降ってくる波、転覆せんばかりに縦横へ揺れる船体に翻弄され、その後は互いの悲鳴が渦巻くだけ。まともな会話にはならなかった。

いねが胃の中のものを戻しているのが見えた。知らぬ間に与四郎といねの身体には縄が巻かれていたが、船が砕け散ってしまえば命綱にもなりはしないと思ったことまでは覚えている。

ともあれ、気がついた時には海は凪いでいて、積荷はなんとすべて無事、遠目には九州が見えていた。

 

堺に帰ってきてから、いねはずうっと寝込んでいる。

彼女はもともと身体が強くない。気と口の強さは三好兄妹でも一番だが、少しの環境変化や疲労でも寝込んでしまうことが多かった。

寧波から持ち帰ってきた宝物がたちまち莫大な利益を上げても、いねの慰めには繋がらなかったようだ。嵐で揉みくちゃにされたことに加え、帰国後早々に一存の死を知ったことが大きかった。一存の武勇ぶりや髪型は九州でも評判だったようで、その死は肥前平戸にも伝わっていた。かわいがっていた弟の死に目に会えなかったことはとりわけ彼女を傷つけたに違いない。三日に一度は南宗寺に設けた一存の墓へ参るが、その後はぐすぐすと泣いて臥せっているのだった。

「姉上は相変わらずの調子かい」

高屋城から堺は遠くない。従来以上に之虎が顔を見せるようになっていた。

「……よくありません」

「父上の時も、母上の時もそうだったんだよなあ。義兄上は長生きしてくれよな」

それだけを確認して、之虎は店を出ようとする。

「上がっていかないのですか」

「もうじき畠山が攻め寄せてくる。茶を飲んでいる暇もありゃしない」

「戦が終われば一服ご馳走しますよ」

「ははは。戦勝祝いに明で手に入れた名画とやらでも譲ってもらおうかね」

「もう噂を聞きつけていらっしゃる」

「とにかく、一存がいなくなって和泉衆が参っていてよう。人手がどうも足りないのさ。姉上が元気になったら、之虎が助太刀を欲しがっていたと伝えておくれよ」

「ふふ、岸和田城の守りにでもつけるおつもりですか」

「そいつはいい! そうしたら冬康の配置に融通が利く」

いつものいねなら、本当に薙刀でも持って戦に行きかねないところはある。

「御武運を……」

「おうよ、これ以上姉上を泣かせちゃあ夢見が悪いさね」

軽やかに笑って之虎が去っていく。与四郎も表に出て、之虎の姿が見えなくなるまで見送っていた。

 

  *

 

別れた夫が天下に君臨しているというのも難儀なもので、あまねならばいまも長慶や慶興、長逸、久秀などに物怖じせず意見を伝えることができると、様々な立場の者に利用されかねない危うさがある。長慶がずっと琴をつけてくれていたのもそのためだろうし、実際に久秀はあまねを軽々しく扱わなかった。

畿内にいる限り、いや、日本中のどこに身を隠しても、いまの長慶ならばあまねを探し出すことは容易い。畿内の繁栄、久秀の様子を目の当たりにしたことで、覚悟はできていた。どこか知らない土地に移っても、琴に代わる誰かが追ってくるに違いないし、琴と過ごしたような日々は二度と手に入らないだろう。ならば、いっそ畿内に住居を構え、長慶や慶興に因果を含めて静かに暮らすことが互いの幸いではないか。

そう考えるに至ったあまねは多聞山城を後にして以来、どこに住むかを考え続けた。

丹波や西宮は顔見知りが多いし、今更顔向けもできなかった。堺は賑やかに過ぎるし、河内は長慶の、摂津は慶興のお膝元である。兄が眠るという若狭は朝倉・武田の連合軍と松永長頼が戦っていて危険極まりないと評判であり、結局選んだ土地は京であった。

京市街から見て吉田神社京都府京都市)の裏山。東山との間に挟まれた閑静な地域に、大変住みよい物件を得ることができた。遥か昔は宮家別邸だったという山荘が、折からの朝廷の窮乏に伴って一般に売り渡され、それから何代か経っていまは空き家になっていたものである。長慶と足利将軍家の戦、最近では六角家が近江から攻めてくるという噂もあって、なかなか買い手もつかなかったらしい。

京に移ってきてからも長慶の噂を聞かない日はなかった。鎌倉や岡部の頃は耳に入るのが辛かったが、最近は軽く聞き流せるようになってきたし、一度は長慶と慶興の姿を眺めに行ったこともある。十年以上の歳月は、少しずつでも離縁の痛みを癒してくれているようだった。京という町はどこを歩いても歌に詠まれているような名所旧跡があって、あの頃長慶が諳んじていた古歌が緩やかな風に混じって蘇ってくる。そんな思い出も、いまでは胸に優しく浸透してくるのだった。

歌といえば、長慶が飯盛山城で開いた千句連歌が話題になっていた。谷宗養や里村紹巴など優れた歌詠みが河内に集まってしまい、京の歌会はちっとも盛り上がらないし、日頃連歌の上手を自認していて長慶に招待されなかった者は恥ずかしくて外を出歩けないということである。飯盛千句は五畿内の名所を発句に織り込んであって、三好家の権勢を高らかに発信するとともに、一存の死亡による暗雲を払拭するような素晴らしい出来栄えなのだそうだ。

そうした噂を余所に、あまねは写経と、庭の手入れに励んでいた。山荘の庭は朽ちていたが、手入れをすれば花や紅葉を楽しめるようになるだろう。時間は幾らでもあるし、せっかくだから東慶寺のように季節の様々な花を楽しめる庭にしたかった。

夏場のため、まずは雑草を抜かねばならない。日陰の場所を選びながら作業をしていると、身の回りの世話をしてくれている老女が呼びに来た。

訪問客らしい。庭から表に出ると、山門から坂を上がってくる男が見える。

案の定、それは長慶だった。

 

先ほどまでいた庭に面する客間へ通した。以前の持ち主が“月の間”と呼んでいた部屋で、夜になれば静寂の中で観月を楽しむことができる。

細川六郎を迎えているところを遠目に見はしたが、長慶と間近で相対するとさすがに万感の思いを呼び起こされずにはいられなかった。それは長慶も同じようで、あまねの方を見つめたまま沈黙している。麦湯を運んできた老女は興味深げにしているが、まさか来訪者が三好長慶だとは思いもするまい。噂好きだから後で固く口止めをしておかねば。

「……お久しぶりです。一存殿と基速殿のことは……残念でした……」

「うむ……」

以前と変わらぬ素襖姿であるが、少しやつれたような印象を持った。加齢のためか、心労のためか。

「まさか、お一人でいらっしゃった訳ではないでしょうね」

「……下に、警護の者を待たせてある」

「そう……」

「東国は過ごしやすかったか」

「いまの時分は、鬼灯がきれいでした」

「そうか……鬼灯がな……」

また、沈黙が流れた。互いに、何を、何から話してよいのか分からない。気まずいというよりは、快い無言ではあった。二人で過ごす安らぎに抱きとめられているような……。

駄目だ、この雰囲気。流されてしまいそうになる。そう思った矢先、軒先に吊るしてある風鈴が鳴った。

「それで……今日は、何を」

「琴がいなくなったと聞いた」

「……」

「よかれと思って勅免を奏上してもらった。それは余計なことだったのかもしれぬ」

「……」

あまねの口から意見を言うべきではないと思って、文箱から琴の手紙を取り出し、相手に渡した。読み進めた長慶は、正虎もそうしたように文を割いて始末し、あらためてあまねに向かい頭を下げた。それ以上、長慶も琴や手紙については話さなかった。

「琴に代わる護衛などは求めておるまい」

「……はい」

「これを……」

今度は長慶が文書を取り出した。目を通してみれば、乱暴狼藉に対する禁制、それも三好家だけでなく、六角家、公方、朝廷、それぞれからの発給である。六角家とは敵対しているはずだが、長慶が骨を折ってどうにか入手してきたのは明らかだった。

「……ありがとう、ございます」

「戻ってくるつもりは……ないのだな」

「あたしはもう、六日のあやめですよ」

「戯れ言を……あまね」

長慶が膝ひとつ分、身体を寄せてきた。

無理に押し倒されようものなら……自分は抵抗しないかもしれない。でも、違う。それは違うんだ。

「あたしに、触らないで」

言って、あまねは長慶の頬を撫でた。

共に身じろぎもせず、しばらくそうしていた。長慶の顔は幽かに温かく、懐かしい薫りがした。

「……お腹、空いていませんか」

「む……ああ、そうだな」

「少し早いですけど……夕ご飯、食べていってください」

用意させたのはこの辺りで喜ばれているうどんで、茹で上げた後に水で締めた、つるつるもちもちしたもの。それに濃いめに取った出汁と、たっぷりの青物、漬物、煮込んだ牛蒡、胡麻などを添えて出す。味のよさに加え、見た目の涼感をも有しているよき食事だった。

「身体……よくないのでしょう?」

「分かるか」

「分かりますよ……。さ、これなら口当たりがいいですから」

促されて、長慶はうどんを啜り始めた。最初はうどんだけ……次に葱や胡麻の風味を楽しんで……。

ああ、この人は相変わらずひたむきに食べるんだな。食べ終わるまで話しかけるのはよしておこう。

「水と土の恵みに溢れている」

「ふふ、そうですね」

「うまかったよ、ありがとう」

冷めた麦湯を飲みながら、長慶の心地もひと段階落ち着いた様子である。

「……あの頃にはもう戻れないって……戸惑ってはいけないんだって……」

「……」

「思い出を大切に、心にしまって生きていきますから……また来世で、あたしに触れてくれませんか」

「……」

「あたしも……来世での口づけを誓いますから……」

「……」

「二度とお前さまを、離さないって……約束しますから……」

「……承知した。分かったよ……。さ……もう、泣かないでくれ」

「あたしの、勝手です……」

涙を拭くこともせず、立ち上がって風鈴を取り外し、長慶への贈り物とした。小田原で手に入れたもので、天文初頭の争乱を避けて東国に移ってきた河内の鋳物師が作っているのだという。

「そなたの選んだ暮らしを……尊重するよう、皆には伝えておく」

「……はい」

「来世で出会えたら、もうこんな約束も要るまいな……」

日が沈んでいく。坂を下りていく長慶の後姿は甚だ寂しげで、女を駆け寄って背を抱きたい思いにさせる。そんな衝動を堪えて、あまねは山荘の前から動かなかった。

 

  *

 

秋に入って一箇月。とうとう六角家と畠山家が攻め寄せてきた。敵兵の数は二万ずつ、南北同時攻撃である。予想していたことではあるが、若狭や丹波、播磨、讃岐、大和などに一定の守備を置いたままで二方面作戦を強いられるのは面倒だった。少し前には若狭で長頼が敗れており、丹波衆は態勢を立て直しているところでもあるのだ。

大きくは、慶興、長逸、久秀などが京に入って六角家と対峙し、之虎、冬康、長房などは岸和田城に寄せてきた畠山家と睨みあっている。長慶は飯盛山城に残って全体を睥睨していた。

戦が始まる直前、長慶は芥川山城の慶興のところに寄って、あまねと話した一部始終を伝えていった。聞く限り、父と母の縁は完全に切れてしまっていて、それを確認するための対話だったように思える。もともと分かってはいたのだろうが、長慶は見たことがないほど辛そうな面持ちをしていた。そんなに未練があるなら力ずくで連れ帰ることもできただろうに、父は素直にあまねの言い分だけを呑んで帰ってきたのである。

あまねが暮らす山荘は、東山の戦場からは程近い。それでも、慶興は長慶のように急いで訪れようとは思っていなかった。夫婦の縁は輪廻の先まで修復しないのかもしれないが、母と息子の縁は現世にいまも残っているのだ。

「なあ勝っちゃんよ。六角と畠山をやっつければ世間は俺が父上に並んだと思うかねえ」

「そりゃそうでしょうとも。どちらも天下に聞こえた一流大名でその上挟み撃ち喰らっちゃってるんだから」

「ようしだったらあいつら団子に搗いて平らげてしまおうかい」

「エーイ。とってもやる気あるみたいじゃない」

小手調べをした感触では、今回の六角家は相当に手強い。南の畠山家も同様で、国を奪われまいとする気持ち、国を取り返そうという気持ちは凄まじい士気と結束を生み出しているようだった。

この戦で長慶に並ぶ。そうすれば俺が鎹になって、三人の暮らしを取り戻せるかもしれないのだ。

 

続く