きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十六 涅槃寂静の段  ――篠原長房 四国衆を糾合し、三好慶興 教興寺の決戦に向かう――

四十六 涅槃寂静の段

 

与四郎から贈られた沙羅はしっかりと根付いてくれていた。

長慶の私室からよく見える位置に植えたのは正解だったと思う。異国の風情を感じるこの樹は、どこか心の背骨を支えてくれるような心地がするのである。飯盛山から西を眺めること、夜桜や豚の頭を撫でてやること、狸をからかって遊ぶことに加えて、この沙羅に水をやることは日々の密かな愉しみだった。政務の気晴らしとも言えるし、こうした所作こそが本来の天職のようにも思えてしまう。

「まあ……なんだな、よい天気だし、枝豆も瑞々しいし。幸せとは案外こういうことを言うのかな」

「八尾のお豆は大きくて甘くて、うふふ、つい笑ってしまうようなお味ですよねえ」

「うむ、出歩けないというのも悪いことばかりではない。仕入れに行けない茂三は大変だろうが」

「食材はたくさん貯めてあります故、工夫のしようもありますが……。しかし、よいのでしょうか。こんな時に」

「腐らせても仕方ない、どうせならおいしく食べてやった方が本望だろう」

「……よい訳ないでしょうが!」

堪えきれずに中村新兵衛が長慶を諌める。松山重治がつけてくれたこの護衛、腕は立つが堅苦しく、いかにも長逸が好みそうな武辺者なのだ。その剣幕を恐れた茂三とおたきは一目散に退散していった。

「殿、いまの状況が分かっているのですか! 敵の群れは更に増えて、もうすぐ四万にも届きそうな勢い。堅固な城とて、水や兵糧は充分にあるとて、いつまでも持ち堪えられるはずはありませぬ。皆で知恵を絞り起死回生の策を練るべきところ、呑気に庭を眺めて豆を摘まんでいるなど……こ、こんなことでは命懸けで戦ってきた者たちが浮かばれませぬ」

怒っているのかと思えば今度は泣きだしそうな始末である。厳めしさと純朴さを併せ持つところが一存にどこか似ていて、長慶は内心この侍大将を気に入っていた。

「ふふふ……若いな」

「は……?」

「敵を欺くには味方からというであろう。こうして腑抜けたふりを見せておいて、腹の底では」

「おお! そ、そうとは知らずとんだご無礼、して、どのようなお考えを」

「……色々と勘案してだな」

「はい!」

「慶興がなんとかするであろうから、信じて待つことにする」

「……え! えええ?」

「父を討ったやり口、倣うに抵抗はあったが……この際、小さな我執は捨てることにした」

「……」

何を言っているのか分からないとばかりに新兵衛は言葉を失ってしまった。

己の成してきたことが因、この戦の勝敗が果である。敵も味方も長慶が育ててきた連中なのだ。ならば、どちらにも肩入れすべきでないとすら思えてしまう。自分のやるべきことはひとつ、この城で泰然と耐え続け、因縁をこの地に集めてやることだった。

幸い飯盛山城の防備は万全で、半年程度であれば悠々と守っていられる。籠城戦の経験はほとんどなかったが、粛々とした戦の流れは存外性に合っていた。幼い頃につるぎが教えてくれた通り、要は大将の肝が太ければ結構なのである。その点、畠山方がどれだけ増えようが雨あられと矢弾を撃ち込まれようが、涼しい顔をしていられることには自信があった。敵兵の海に浮かぶ城であろうと祖谷の暗い洞窟であろうと、つまるところはどこも等しい現世なのだから。

「む、そうだ新兵衛。ひとつよいことを思いついたぞ」

「! な、なんでしょう」

「明土産に猩猩緋の羅紗を貰っていたのだ。私には似合わぬ。お主、纏ってみろ」

「え、えええ……」

「“十河額”に続く武勇の名物が要る。“槍中村”などと呼ばれたいのなら、誰が見てもそうと分からねばよ」

「いやいや、武士は弓と槍の働きこそ本分にござる。外見に凝るなどと軟弱な真似を」

「反撃に出る時までに寸法を合わせておくように」

「そ、そんな。うええ……」

 

  *

 

日没後、東山の慶興陣所。慶興の前には極秘で呼び集められた諸将が揃っている。

「叔父上と叔母上が流れを変えてくれた。銭が次の銭を呼び、戦で宙に浮いた富が流れてきている。長房はもう動いたぞ、四国衆に活が入った、仇討ち出稼ぎ祭の始まりだよ」

「……」

大量の軍資金は既にあちこちで噂になっている。若狭から退却してきた長頼たち丹波衆もまもなく出陣可能、播磨の別所からも動員の申し出が届いた。

「勝機はいまだ。六角も畠山も凡人、奴らが一手動くあいだにこっちは二手動こうぜ」

「……ほいで、どうせえと?」

久秀が代表して問うてきた。いつもの通りに皆は慶興を見ていて、慶興は家臣一同を見渡している。目と目と目と目で男たちは繋がり気勢気負いがぐるぐると廻っていく。

「京を捨てる。河内に全員集合だ」

皆の思考が停止する音が聞こえる。長逸と久秀が同時に立ち上がった。

「そんな、阿呆な!」

「若殿、何を仰る! そのようなことできるはずが」

大人は、これだから。

「ど阿呆はお前たちだこの野郎!」

外まで声が漏れるのも構わずに叫ぶ。慶興が真剣であることは嫌でも伝わる。

「ん、んな……」

「まだ分からねえのか、お前らの頭には渋柿でも詰まってんのかい! いいか、俺たちの一番大切なものは何だ、“三好長慶”より京が大事だってえのか! だったら好きなだけここに居やがれ、俺は河内に行く!」

はっとばかりに一拍息を呑んで、またもや長逸と久秀が同時に声を上げた。

「お許しくだされ、それがしが間違っておりました」

「せや! 河内や! 誰や京を守るとか言うてた奴は」

政権が大きくなるうちに、どうしても日々の仕事は総花になっていく。あらゆることを丁寧に大事にすれば、いつしか人は優先順位を忘れていく。せっかく数の目途が立ちそうな軍をわざわざ二手に分けて、じりじりと睨みあっていようが変だと思わなくなる。

大将の務めは、何を守って何を捨てるかを決めることなのだ。すべてが重要、どこの手も抜くななどと言う上役は案山子と変わらない。

「しししかし、京を捨てれば朝廷も公方も寺社も町衆も」

友通が未練たらしく食い止めようとしてくる。長逸や久秀に比べれば補足が必要な手合いだった。

「三箇月だ」

「……は?」

「人はな、見通しの立たぬことを何より厭うものだ。言ってのけろ、三箇月で畠山をぶちのめして帰ってくる。三好に少しでも仁義を感じるなら、三箇月は六角に嫌がらせをしておけとな」

「あ……」

「父上が討ち取られて、畠山が天下の頂に立ったらどうなるか。弁舌を尽くしてよくよく想像させてやれ」

長慶に万が一のことがあれば、それこそ誰も何の見通しも立たなくなってしまう。五畿内は再び動乱に満ち満ちて、朝廷行事だの確かな商いだのは成り立たず、民の嘆きを容れて宗教一揆が頻発する。世は長慶以前の時代に逆戻り、下手をすれば更に悪くなるかもしれない。

之虎が敗れたことで、長慶を失う意味が少しずつ民の潜在意識の中に拡まっていた。長慶を失うことに現実味が出てきたのだ。“三好家は増長している”程度の気持ちで、“三好家に灸をすえてやる”くらいの迂闊さで様子見を決め込んでいた国人衆も慌てて腰を上げ始めるに違いない。事実、大量の銭の匂いと相まって別所や四国衆は既に動いているではないか。

反感の反動が始まる、ここが勝負どころだった。

「よく分かりました。なれど若殿、上様だけは押さえておくべきです」

黙っていた宗渭が口を開く。久米田の戦いの後、冬康と長房は西へ、宗渭は北へ逃げ延びていた。

康長は消息不明だが、畠山家の攻囲を突き抜けて飯盛山城に入ったという噂である。

「……そうだな。よく気づいた」

「謀略は皆の目が一点に集まっている間に仕込まれるものですから」

使える男である。長逸も久秀も感心したように頷く。

友通だけは口惜しそうにじとりと宗渭を睨んでいるが、友通には友通のよさがあった。気取らず正直に、分からなければ分からないと質して、合点がいけば期待以上の実務成果を上げるのが友通なのだ。

「決まりだ。夜を徹して根回し、日が登る前には京を引き払う。長逸は朝廷、久秀は公方、友通は町衆、宗渭は諸国との連絡。寺社は数が多い、全員で手分けしよう。いいか、相手はよく選べよ。この際しょうもない羽虫を炙りだしてやれ」

「応!」

「上様の屋敷は俺が行く。はは、驚破させちまうかなあ」

「正虎は喜びまっせえ! 都を使った空城計、楠木正成の無念も晴らせるよって」

「気の利いたことを言う。そうだな、父と子で別れているもんじゃねえや」

そうして、気迫漲る面構えで長逸が拳を振り上げる。

「いざ、我らの手で殿を!」

「万分の一でも恩を返すんや!」

「乱世を終えるために」

「豊かな未来のために!」

「行こうかい! エーイ!」

「エエーイ!」

号令一下、夜の都に男たちが散っていった。

 

夜更けの義輝屋敷。慶興が訪いを入れた時、邸内では明らかに人の動く気配があった。

門番は躊躇していたが、もとより彼らに慶興を止める権限も勇気もない。先客もつい先頃来たところのようで、義輝に迎え入れられる前に鉢合せすることができた。

「ほう。これはこれは三淵晴員殿に進士晴舎殿。謹慎、隠居しているものだと思っていましたが」

先手を打って慶興が笑いかける。

老臣二人には明らかに狼狽した様子が見られた。

「慶興殿こそ……如何なされた。このような夜遅くに」

「戦時中のこと、急な知らせも生じましょう」

「我らも……上様の身がふと案じられてな。年寄りの憂慮じゃ、笑ってくれて構わぬよ」

「へえ、上様も幸せ者だ。こんなに皆に慕われて」

空疎な笑いが流れていく。晴員がとりあえず慶興の相手をし、晴舎はとっさに動ける姿勢を保っている。この老人、相当の使い手。懐の鞭を放ったとて素直に当たりはしないだろう。

「どうした、凶事でも起こったか」

「あら……お父様」

睨みあっているうちに義輝と久乃が現れた。閨の中から直接出てきたような格好である。

ここでも慶興は先手を取った。

「上様、お身支度を。これより我々と京を離れていただきます」

「なっ……」

晴員が不快を面に出す。

「突然どうしたのだ。六角の総掛かりでも始まったか」

「いえ、六角をあえて京に入れまして、我らはまず一挙に畠山を打倒いたします」

「何を無責任なことを! 慶興殿、お主は都の施政を何だと思っているのじゃ」

「これはしたり……。晴員殿ご贔屓の六角家、よもや京で乱暴はいたしますまい。一時京を預ける相手として不足はないでしょう」

「むっ……し、しかし。そのようなことをしては三好家の信望が傷つく」

「ははは、ご安心なされよ。借りをつくれば返せばよい、や、むしろ、我々が貸しを返してもらうのかな」

「貸しだと」

「およそこの十年、三好長慶の徳に触れなかった畿内の民がおりましょうや」

「その長慶が憎くて敵は起ったのであろう!」

「どうかな、父上に構ってもらいたくて起ったのかも」

「こ、この、小癪な巧言を……」

皺だらけの晴員の面が、怒りと憎しみに醜く歪む。晴舎、まだ澄ましている。屋敷を囲むこちらの兵力を察したか、動くというよりは退路を探るような気の配りよう。

「この京だけは変わらないでいてほしいと願っていても……いまの都は長慶の色に染まっている。慶興よ、汝の色も日増しに濃くなって……」

賢い義輝は事態と思惑をおおむね掴んだようだ。晴員もさすがに口を閉ざさざるを得ない。

「思えば、余の宿命は琵琶の海、慶興の空に出逢って蘇ったのかもしれぬ。いまだ汝が揺蕩う雲の上には辿りつけぬが……もう少しだとも思うのだ。晴員よ、晴舎よ、急ぐな。もう少し待っておれ」

「う、上様……?」

「三好に追いつけば余の勝利であろう。長慶もそれは分かっている。なればこそ慶興、いまは汝に従おう」

「エイ、かたじけなく」

「し、しかし」

晴員が諦めない。この様子、近江にでも連れ出すつもりだったか。

「汝らの忠義、父祖の無念は忘れていない」

これがとどめだった。晴員と晴舎の身体から力と焦りが抜け、屈辱に包まれていく。

「お二方とも、ありがたきお言葉を頂戴できてようございましたね。……さ、上様、ご支度を。小侍従殿も同行なされよ」

「よろしいのですか?」

石清水八幡宮京都府八幡市)へお移りいただきますが……上様の退屈を慰めていただきたく」

「分かりましたわ。どうせなら、お父様も一緒に如何です」

「……そうだな、ご厚意に甘えさせてもらおう」

「晴舎……そうだな、うむ、そうしようか」

一旦は引き下がるのか、性懲りもなく陰謀を企てるのか。

表情からすべてを読み取れる訳ではないが、大人の中でもこの老いぼれたちはとりわけおぞましいように思える。そのような中、義輝だけでも素直に言うことを聞いてくれた、間に合ったのは幸いだった。

 

  *

 

「秋になれば石山寺滋賀県大津市)にでも足を延ばしてみたいものやなあ。紫式部になったつもりで琵琶湖に浮かぶ月を眺めて、そう、近頃は近江八景とも言われてますのんやろ」

「は、はあ……」

既に夕方近いのだが、朝方に訪れたこの九条稙通卿、一向に帰る気配がない。

義賢の京都制圧を労いにきたということだったが、お歯黒の奥から出てくる話題は歌だの物語だの叡山や三井寺滋賀県大津市)の噂話だの、政情とは何の関係もないものばかり。興味のない話を何刻も聞き続けるのは辛かったが、さりとて前関白を無下に追い返す訳にもいかぬ。

(九条卿は三好家と昵懇。わしと少しでも友誼を深めようとのおつもりなのだろうが……)

京に近い六角家はもともと公家との付き合いも多い。話を合わせるだけなら難しくないのである。だが、足利義輝も三好慶興もいなくなってしまった京の動揺を収拾せねばならないこの時に、半日以上も拘束されるのは辛かった。

「あ、あの、九条殿。そろそろ……」

「うむ、さすがは六角殿でおじゃるな。麻呂はすっかり近江の風に惹かれてしもうたぞよ」

「は、はは……」

扇を使っている稙通に腰を上げる素振りはない。そこに、小姓が伝言を持ってきた。

「大殿。二条晴良様より、夕餉を共にと使者が……」

「なな、何?」

「ああ、麻呂が声をかけたんどす。公家一同、新たな都の主と親しゅうさせてもらいたいと願うてますのでな」

「さ、左様であるか」

「ほな、一緒に参りましょか」

支度をして、京の六角屋敷を出た時には既に辺りは暗く。その上、稙通の乗り物はなんと牛車である。こんなものを使って、二条邸にはいったいいつ着くことになるのやら……。

 

結局、義賢が解放されたのは翌日の昼過ぎだった。

ぬるぬるともったいぶった物言いの公卿を一晩中相手にして、ひどく頭と身体が疲れた。天下を獲ったらどうなるか……思い描いていた理想となんだか違う気がする。一日中ちやほやされて過ごし、うまいものを食べ、領地からはどんどん財貨が献上されてきて……。

稙通も晴良も都における人心の機微にかけては熟練している。細心の注意を払って教えを請えば役に立つ情報も多かった。しかしながら、彼らは一個ものを教えれば二個は融通を要求してくるのである。

「大殿!」

館に戻った途端、後藤賢豊と蒲生定秀が声をかけてきた。

「少し、休ませてくれぬか……」

「それどころではありませぬ! ご覧くだされ、寺社や町衆からの陳情がこんなにも」

見れば、幼子の背丈ほどにも書類が積まれている。まさか、これがすべてそうなのか。

「殿にも相談いたしましたが、これはとても我々だけで決裁できるものではありませぬ」

「伊勢貞孝がおるだろう。せっかく我らに恭順してきたのだ、前例に照らし合わせて判断させよ」

「それが、重要な判例集はすべて松永久秀に持ち去られてしまったとかで……」

「しかも、貞孝は近年公方の中で軽んじられていた様子、彼奴の判断に町衆が得心するかどうか」

法華宗徒に至っては、三好時代と同様の待遇を保証せねば一揆も辞さずなどと……」

血の気が引いた。天文法華の乱、悪夢の記憶が蘇る。京で一揆でも起きようものなら、騒ぎは確実に比叡山に飛び火する。そうなれば近江の統治にも支障が出てくるのだ。

和泉で畠山高政が大勝したことで、慶興たちは尻尾を巻いて逃げだしたのかと思っていた。義輝も含め、主だった公方の奉公衆を連れ去ったのも窮余の一策に過ぎないと受け止めていた。

空になった京へ凱旋し、勝利の喜びに身を浸したのも束の間。冷静になって考えれば、日本の首府を統治してきた行政機構は消え失せ、不安と混乱で膨れ上がった実務だけが残されているということだった。伊勢貞孝など多少の奉公衆が残っていたとはいえ、六角家の人材だけですべてを処理せねばならぬのか。我々の入洛を義輝や晴員が準備して待ち構えているはずではなかったのか。

「は……はは……天下人とは、難しいのだな」

「ざ、戯れている場合ではありませぬぞ! ほら、一件でも多く裁許を!」

普段は仲の悪い賢豊と定秀ですら一緒になって焦っている。京を治める重圧に誰も彼もが悪酔いしているかのようだ。

「そ、そうじゃ。九条殿と二条殿がな、いっそ徳政を出してはどうかと仰っていた。新たな時代の希望を示す、何よりの良策じゃと」

「な、なるほど……妙案かもしれませぬな」

「よし、まずは徳政じゃ。三好時代の債務を棒引きするよう、手配を進めよ!」

「は!」

 

結果を言えば、徳政は失敗だった。確かに貧民には喜ばれたが、銭を貸している方の寺社や商人から非難と補償を求める声が相次ぎ、対処せねばならない実務の量が更に膨れ上がったのである。六角家の政務はこれを以て完全に停止した。

その間に三好家は異常な数の大軍を組成し河内への進軍を始めていた。高政から助太刀の督促が何度も届いたが、もはや義賢には使者に会う余裕すら残されていなかった。

 

  *

 

優れた男だとは分かっていたが、まさかこれほどとは……という思いである。

之虎の死から僅か二箇月。その間、鬼気迫るものを纏った長房は阿波と讃岐を駆け巡り、之虎の恩、武士の本分、取り戻すべき誇りを根気よく説き続け、久米田の戦いで失った数以上の兵力を掻き集めてきたのだ。途中から冬康が調達してきた軍資金が追い風になったとはいえ、これだけの陣容を整えたのは紛れもなく長房の手腕だった。

二万に及ぶ大軍は分散して畿内へ上陸、瞬く間に岸和田城を奪還してみせた。常識を超えた速さの逆襲に畠山家の城番は慄き、先を争うように河内の高政本陣に向かって逃げていく。

冬康と共に逃れていた一存の遺児万満丸を再び城に入れて、まずは流れを切り替えることができた。讃岐の熊王丸や阿波に遺された之虎の子どもたちもいじらしく各地の国人衆へ号を発し続けており、この間にも兵の参集は続いている。

後は、飯盛山城の長慶を救うだけだ。高政による何度かの総掛かりはあったが、長慶は軽々と凌いでみせていた。思い起こせば、慌てたり迷ったりした例のない兄である。木沢長政以来の強固な城に長慶が入れば、これはそうそう誰も落とせるものではない。

慶興も大軍を組成して南下を始めている。高政が四万の兵を有していようと、こちらはその上をいく数を集められるかもしれない。飯盛山城を落とせず、北と南西から三好家総力を挙げた大軍が迫ってきていて、六角はどういう訳か京から動こうとしない。高政は相当の重圧を背に受けているはずだ。

岸和田城に幾らかの兵を残し、冬康は軍を東に向けた。紀伊方面への牽制も兼ねて、一行は積川神社(大阪府岸和田市)に兵を集める。周囲の索敵と鎮撫を終えれば、後は北上して慶興と高政を挟撃するのみ。長房はもちろんのこと、冬長、之虎・一存と共に戦ってきた武者ども、皆、悶えんばかりの熱をたぎらせている。

「鳴り物。逝った者たちへ届けよ」

冬康が四国・淡路衆の総大将を務めるのは珍しい。指揮系統の乱れを案じていたが、長房の補佐もあってほとんど障りは生じていなかった。

太鼓、鉦、笛。元長が創り出した囃子。黙祷、誰ともなく流れ出す涙、猛る闘志、純なる殺意。

「之虎様! 一存殿! 必ず仇を……報いを……!」

長房の嗚咽、両手で顔を覆って。よくよく之虎に懐き、一存に友情を抱いていたのだろう。

「その通りだ。長房、冬長。勝つなら徹底して勝ってやろう。虎兄と一存がいた頃のように」

供に合図して、用意していたものを持ってこさせた。

「長房に」

之虎の形見、“暁天”。長房の瞳が開く。

「冬長は」

日頃冬康が愛用している“夕星”。

それから、冬康は一存の“飛鳥”を手に取った。

「義兄上……これは」

「言わなくても分かるだろう。私たちでやるんだ。なあ、長房」

「……は! 破ってご覧に入れましょう!」

「行こうか皆の衆! 声出せ、気を張れ、男を見せろ! ソオーリャ!」

「ソオーリャ!」

艪は揃った。潮も変わった。虎兄、一存、力を貸してくれ。いまなら空だって飛べるような気がするのだ。

 

  *

 

この齢になっても教えられてばかりで、三好家の長老のように呼ばれても恥ずかしいだけだった。

何もかも慶興の言った通りに進む。戦力を分散しても時間を空費するだけ、全力で畠山にぶつかればいい。六角は上洛した後の構想など持っていない、落としどころも考えずに反感や恐怖だけで起った奴らは戦でしか力を発揮できない。そして、長慶を守るためならばこちらもこれだけの兵が集まるのだ。

京、摂津、和泉、河内、大和、丹波、播磨、淡路、讃岐、阿波。各領地から集いに集った総兵力は実に六万。我が事ながらひとつの家が動かす数とは思えない。畠山の四万と合わせれば、十万の人間がこれから入り乱れて殺しあうことになる。三好長慶という英雄の是非を問う争いは、いつの間にかこれほどの規模になっていたのである。

あれからどれだけの時が。河内、飯盛山城。元長最後の出陣。蜂起した一向宗、訳も分からずに堺を守っていた自分。阿波へ逃れる船の上、暗い目の御曹司。まさか、本当に天下の主になってしまうとは。

尋常でない数の敵が近づいてきているとの報を受け、高政は飯盛山城の攻囲を解いた。逃げようとはせず、会戦で迎え撃つ腹積もりである。兵力が六対四とはいえ、こちらの軍は急ごしらえ。対する畠山は之虎を討った勢いそのままの練度を誇っている。何より、十万規模の戦いなど誰も指揮したことがなかった。高政が勝ち目は充分にあると判断したのも道理であるし、潔い男のようにも思えた。

戦場、八尾の教興寺付近(大阪府八尾市)。信貴山手前の見晴らしよい原野。

既に高政は布陣を終えている。久米田でもそうだったと聞く、強固な一丸の陣形。対して、それを囲むように三好方は布陣を進める。北西部に慶興、北に松永兄弟、真西に長逸、宗渭、友通。南西部には松山重治と嫡子弓介、南方に冬康・長房・冬長。飯盛山から出てきた長慶と康長は慶興の後方辺りで全体を俯瞰している。

敵方の半周を覆った形、されど緩い。包囲を嫌った高政も動く。対陣、小競り合い。山伝いに畠山の別働隊がこちらの背後を取ろうとしてくる。お互いきれいにはいかぬ。一見こちらが有利でも、一塊となった敵がどこかの陣を突破すれば流れは変わる。戦機はまだ先、やがて膠着した。

 

慶興からの指示は“待機”だった。待っている。夏の時期、待てば必ずそれは訪れる。対峙、三日目。夜明け、日は暗い。曇天。来た、更に。降ってきた。雨、恵みの雨。これで根来筒は沈黙する。相手陣、少しの動揺。こちらが遠巻きに時間を稼いでいた真意を理解したことだろう。

始まる。大太鼓一発、旗が上がった。藍地に白抜きされた理世安民の四文字、三階菱・釘抜紋。

事実、慶興が動いた。騎乗姿の凛々しき若武者、誰もが認める次世代の王者。一騎で前へ進み。

「泡沫の夢想に甘えたすべての者どもに告ぐ!」

通る。雨音が逃げ出す。慶興の一喝が高政のところまで飛んでいく。

「我は世に理をもたらす天空の子なり! 儚き民草よ、安らぎたくば降れ! さもなくばくたばりやがれ! エエーイ!」

なんと、そのまま敵陣に突っ込んでいく。こんなところまで父親譲りなのか。

「いつまでも置いていかれる訳には! 行くぞ、若殿を追い抜け!」

長逸の号令が終わる前に兵たちも飛びだしていた。慶興に池田勝正が並ぶ。宗渭、友通もついてくる。北、南も動いた。始まった、天下分け目の大勝負――。

 

  *

 

雨は降り続けて濡れた肉体、冷えと熱の相和を以て長慶の内に星の如き円環を成す。

一進一退。敵もさるもの、こちらもさるもの。敵の勢いは西側の長逸、宗渭、友通の勢に向いていた。あの三人衆、長逸の長所を増幅したかのように頼もしく、革を何枚も重ねたかのように強靭である。激戦、幾本もの旗指物が長逸を押しに来る。安見宗房率いる河内衆、筒井純政や島清興らの大和衆。

正午。北、狼煙が上がった。あからさまに怪しい合図。味方も敵も何ごとかと煙に目をやる。それいまと突っ込んでくる長頼。鋭い、若狭の鬱憤を晴らすかの如く。後ろに続く久秀、叫ぶ。全力で叫んでいる。

「安見宗房殿、いまでっせえ! おい、安見殿は討つな、援けえ!」

繰り返される、宗房殿ご内応。走る動転、河内衆と大和衆を分かつ。こんな悪ふざけ、久秀でなくば。

息、完全に合った。長逸。長頼。北と西から同時に敵陣をえぐる。混乱、広がる。続けて襲いかかるは慶興と勝正。摂津若衆、荒くて強くて。重治と弓介が重ねて穿ち、いよいよ綻びは拡がる。なのに。

「ぬう、四国・淡路衆の動きが鈍い……」

康長の苛立ち。久米田の戦い後、なんと康長は七条兼仲という若侍と共に敵の使者に化け、堂々と飯盛山城に入ってきたのだった。命を投げ捨てるような行為……寂しい叔父上。

崩れた敵、南側の紀州侍に合流してゆく。冬康たちを切り抜ければ退路も開ける。圧力、甚だ強大。

冬康。長房、それに冬長。彼らならば、そう思えば思うほどに後退していく四国・淡路衆。士気が? 之虎と一存を失った故の、いや、どこか妙な……この、違和感と既視感!

戦機と見た紀州の勇士、湯川直光。冬康の陣深くに突入していく。その頭上、降り注ぐ白筋。あれは。垂直に刺さる迷彩矢、絶望混じりの悲鳴。何が起こったか分からぬ、いや、分かったからか。あれこそは。

煌めく飛鳥。一存、否。冬康! あの穏やかな弟の一騎駆け! 遠目でも分かる。一閃、湯川勢の首と腕が飛ぶ。直光を庇って死んだ。だがその延命も僅か二呼吸分、次の瞬間、直光の首も飛んだ。

「峻……雷……」

大粒の涙が康長から落ち、長房の部隊が一糸も乱れず猛進。紀州侍、次いで根来衆を蹴散らす。

「……冬康、鳴り響いたな」

「長慶……わしは」

「よいのですよ。そう、何もかもが平らかな、簡単なことだったのです」

喊声咆哮断末魔をこき混ぜた現世冥府を前にしても。民が自分を肯定し空前の勝利を目前にしても。たとえそれが弟の犠牲で成り立ったのだとしても。我が心魂、いまこそこんなにも――。

よそう。後でいい、いつでもいいことだ。

「新兵衛。兼仲。私たちも出るぞ。殲滅、追撃、思うがままに名を上げよ」

「ははっ」

「応!」

畿内と四国、それぞれから出てきた若き武辺者。新兵衛、真っ赤な衣装、火の玉侍……くすくす。

戦、采配、これが最後だという予感はあった。

「――掛かり太鼓! 全軍、進撃!」

 

続く