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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十七 遺言の段  ――三好長慶 権勢頂点に達し、芥川孫十郎 再び放浪す――

四十七 遺言の段

 

紀伊国、玉置氏の治める手取城(和歌山県日高郡)。ここまで逃げ延びてきたのは高政と宗房の他、僅かな近習だけである。湯川直光も往来右京も死んだ。追撃は激しく、更に大勢が死んだ。

完敗だった。三好家の要、長逸に攻撃を集中するも突破することができず。その間に松永久秀による宗房離反との虚報に踊らされ、まずは北側の戦線が崩れた。ならばと南側に全軍を集中させたところで、安宅冬康の仕掛けた陥穽に嵌まった。冬康の采配と武勇は之虎と一存を掛け合わせたかのようで、思い返したくないほどの恐怖を刻み込まれた。

そして、そのすべてを統率していたのが長慶の後継者、慶興だった。教興寺での前線指揮だけでなく、京で六角義賢がきりきり舞いする羽目になったのも慶興の仕業だという。畠山の総撤退を受け、惨めな義賢はあっさりと京を捨て、三好と和睦してしまった。

振り返ってみれば、宗房と晴員の口車に乗って“つまらん”男と組んでしまったのかもしれない。

「は。それとも、俺には“お似合い”の相手だったのかもなあ」

「……何か」

遊佐信教が高政の機嫌を伺う。宗房の威信が衰えた結果、目立つようになってきたのが遊佐長教の息子だった。

「“神”も“仏”もいやしねえ」

「お気を落とさぬよう。殿はあの三好家に正面から挑んでみせたのです」

「これで、三好の総兵力は“七万”にも“八万”にもなっちまう」

「我らも態勢の回復に努めることでしょう」

「宗房はいまこそ岸和田を奇襲すべきだって騒いでいやがる」

「よしましょう。己の信望のなさが敗因になったからと、挽回に焦っているだけです」

「まあ、そうだな」

飯盛山城を囲んでいた頃、あの男は“これは畠山だけの力ではない”“長政様が撒いた反権力の種子が芽吹いたのだ”と吹聴していたそうです。だからこそ、松永の流言に兵が揺れた」

「ははは。それが本当なら、負けたのは俺じゃなくて“木沢長政の亡霊”ってえことだな」

敗残兵の群れになっても家臣同士で権力争いをやっている。これが俺の、畠山の器量なのか。

「……殿?」

「“救えねえ”……」

 

  *

 

畿内が三好家と六角・畠山連合軍の大戦で騒いでいる頃、あまねは若狭と丹波を旅していた。

無論、兄を弔い、波多野一族の生き残りに詫びるためである。晴通の遺児、すなわち甥は三好家に従属していたが、一族の幾らかはいまも長慶打倒を期して暗躍している節があった。あまねに対する姿勢も様々で、なじる者、冷たく追い返す者、同情する者などに分かれた。

かつての丹波の盟主がこうも分裂してしまったのは、あまねにも咎があった。本家の娘が行方を晦まして、晴通はさぞかし面目を失ったことだろう。武家に生まれた女、政の道具として人の手本になるべきところ、長慶と別れてからの自分は気ままに好き放題に暮らしてきてしまった。

そのことに後悔はないけれど……。人の道から外れた自分が、世間並に墓参りや謝罪行脚などを企むべきではなかったのかもしれない。いたずらに良識ある暮らしをしている人たちを刺激するべきでは……。

いつしか重たいものが肚の中で鎮座していた。妊娠とも秘結とも違う、生に哀しみと諦めをもたらすもの。その代わりに、一人で生きていく決意と強さを支えてくれるもの。

 

長慶が絶体絶命という風評は聞いていた。また、之虎が討死したという悲報にも接していた。

しかし、京に戻った頃には戦は終わっていて、都の人々は口々に慶興を褒め称えていた。伝え聞く限り、今回の戦では慶興がおおいに活躍したということだった。また、六角が動かなかった理由も、長慶と慶興の善政に恩義を感じていた京の人々による影の働きが大きかったのだそうだ。

「まさかあの劣勢から逆転なさるとは」

「三好家が本気を出せばこんなものだよ。長慶様を救うために六万もの兵が集まったというじゃないか」

「慶興様もお父上譲りのご英才。これで、三好様の権勢はますます盛んになるなあ」

「次は近江か若狭か、はたまた紀伊、伊賀、それに越前……」

「結構なことじゃないか。三好様が治めてくだされば狼藉は減って商いは盛んになって。万々歳だよ」

道行く商人たちの放談。

「ああ、でも、之虎様のお姿をもう見られないのは悲しい……」

「分かる! 久秀様なんかも格好いいけど、ちょっと違うのよねえ」

「ちょっと齢がね……。そうそう、松山重治様って知ってる? 戦がご上手なだけじゃなくて、すごく品のよい色男らしいの! いま堺で大人気なんだって」

「ねえ! 今度皆で堺に行きましょうよ。南宗寺に参ったり、渡来物の布地や香料を見せてもらったり」

「賛成!」

こちらでは手習帰りらしい良家の娘たちが騒いでいて、お付きの護衛を困らせている。

この光景は太平そのものだった。

 

そうして、東山の山荘に帰ってきてみると。

荷解きも終わらぬうちにやって来たのは慶興だった。ここに現れるのは初めてのことである。

「……慶興殿」

「約束通り、俺は父上に並んだ!」

「……」

そうか、これまで姿を見せなかったのも、戦が終わって早々に顔を見せたのも。

また、やってしまった。子どもを縛るような、なんて業の深い……。

「なあ、お耳には入っているんでしょう」

「ええ。立派に……なりましたね」

実際、駿府で会った頃に比べれば乱暴な角が取れ、精気、頼もしさに溢れた青年になっている。

男の子というものは短期間でこのようにもあのようにも、いや、こうなるには……どれほどの。

「じゃあ! 昔のように三人で暮らせますね!」

「……」

「は、母上!」

「……世界中が三好慶興を待っています。もう、あたしのことなど」

「それじゃあ約束が違う」

得意満面だった慶興の顔が歪んでいく。

「耳を澄まして……心で感じてごらんなさい。さっき、慶興殿は嘘をつきました」

「どういうことです!」

「世間はあの人に並んだと言うかもしれません。でも……慶興殿はどう思うのです。心底、あの人に並んだ、超えたと思っているのですか」

「……!」

「だいたい、いきなり現れたかと思えば自分の感情ばかりをぶつけてくるなんて……。お前、好いたおなごにもこんな調子なの?」

「そ、そんなことはどうでもいい! 約束を破るのですか! 嘘つきは駄目だって、教えてくれたのは母上ではありませんか!」

「そう、だからお前は嘘をついたと言っているでしょう」

慶興の身体が震え始めた。分かっている、その気持ちは伝わっているんだ。

「政治だって……戦だって……嫌なことも怖いことも耐えて、いつも皆の先を見据えて……」

「三人で暮らすことはできません」

「俺は」

「慶興殿、向こうをご覧」

以前のようにあまねを無理やり拉致するようなことは口にしない。贔屓目かもしれないが、それが息子の成長の証のように思えた。

「な、何を」

「いいから」

戸惑う慶興の肩に手をやり、強引に庭の方へ身体を向けさせる。それから、肩を揉んだ。肩は完全に大人の男のそれである。慶興は言葉を失っている。揉み続けて手が疲れてくると、今度は肩を引いた。

慶興、母の膝を枕に横たわる。

「……」

「京にはよく来るのでしょう。お前だけなら……月に一度くらいなら……」

言いながら、涙をひと雫落としてしまった。慶興の髪に。気づかれただろうか。

「月に二度」

「そう……そうね」

「諦めない。いつか、必ず三人で」

「大人はね、十年かけて決心したことなら、考え直すにも十年かかるものなのよ」

「言い訳ばかり上手くなるから大人は嫌いなんだ。決心なんて山椒かけて噛み砕いたらいいだろ」

「自分にできることを……当たり前のように人に求めないで。慶興殿ももう、大人なんだから」

「……ふん」

ふて寝する慶興。あたしの膝の上……横顔……耳たぶ……うなじ……なんて雄々しい……。

「立派になりましたね」

もう一度呟いていた。

 

  *

 

畠山方についた大和の国人衆をあらかた掃討し終わり、長慶は久秀の招待を受けて多聞山城に立ち寄っていた。

大評判になっているだけあって多聞山城はたいした威容だったが、長慶にとっては天守から望む奈良の町並、古社や三笠山奈良県奈良市)の方が内面に染み入るものがあった。

「よいな、奈良は。四方の山々、芝生とも京とも違う。落ち着いた緑……成熟と、懐深さを感じる」

「へ! 仰る通り、違いの分かる風流人ほど大和を愛でるもんだす。そこで殿に召し上がってもらいたいんがこれ!」

「ほう……」

久秀が用意してきたのは木皿に乗せられた菓子だった。見慣れぬ四角形のその菓子、淡茶色の薄い皮二枚で漉し餡を挟んでいる。

「大和の美味で最上なんは何と言ってもこの“三諸山”ですわ。某所で門外不出の秘伝菓子、ほんまは絶対に手に入らんとこ、無理言うてこしらえてもらいましてん」

飯盛山城の籠城以来、長慶は戦い続けていた。周囲が止めるのも聞かずに戦場に立ち続けたのだ。久秀は長慶の体調を懸念していて、だからこそ身体を癒す甘味を味あわせたいのだろう。

ひと口齧った。皮、柔らかい。さくりとしながら微かな粘りを残し、上質な餡を守護するように包み込む。これは確かに三諸山(奈良県桜井市)、大和の国土を慈しむ古よりのご神体。

「この皮……これは、餅か」

「おお、よう分かりまんな。これ、つくるんごっつう難いんやて」

「そうであろうな……おい、もう一個、いや、二個くれぬか」

「へい喜んで!」

嬉しそうに久秀が動く。ああ、この菓子、茶によく合う。久秀の茶、腕を上げている。

反三好で起った民衆との戦いが自分の余命を更に縮めた。医師に診られずとも察しはつく、おそらくは持って三年というところ。その後のことは慶興にでも任せるしかない。

長く続いたこの乱世、慶興の代で果たして終わるのだろうか。それとも志半ばで慶興も斃れ、もう一度、もう一度と政体を試しては繰り返すことになるのだろうか。

教興寺の勝利、六万を擁する三好家。やがて蔓延する驕り、傲慢、そして訪れる内部不和。易々と三好が日ノ本を覆うことなどあるまい。そんな都合のよい現実はない。ならば、慶興を待ち受けるは破滅の歩みだけなのか。あるいはあの驚くべき異能ならば?

「仮初めの今生なれど」

「え? なんでっか?」

「……三諸山おいしい」

「お、おおきに!」

久秀は嬉しそうに二十個ほどもおかわりを持ってきた。

 

  *

 

摂津の普門寺に幽閉されている六郎の容態、いよいよ悪いという。

干し柿が食べたい、柿を持ってこい”という文を受け取り、宗渭は見舞いに赴いた。幽閉といっても邸宅や調度品はなかなかのもので、若狭や丹波を彷徨っていた頃よりは格段によい暮らしをしている。

「なんじゃこれは! わしが柿というたら田原郷(京都府綴喜郡)の古老柿に決まっておろうが!」

「……いまの時期になかなか手に入るものでは」

「黙れ! 使えぬ奴、すっかり三好家に染まりおって……」

六郎の顔は青ざめ、部屋には血の匂いが残っている。激昂すると吐血するのは治っていないのだろう。せっかく難儀して手に入れた干し柿も甲斐がなかったが、六郎はもとより宗渭に会って毒づきたかっただけなのかもしれない。

「宗渭殿、申し訳ありませぬ……」

六郎の息子、昭元が詫びてくる。親子ともども幽閉されているのは残酷とみるか、温情とみるか。

「や、俺が悪いのです。六郎様のお憤りはごもっとも」

興奮させないことが何よりの養生のはず。六角家が京から撤退し、この境遇から救出される目途もない。ならば、日々の不満や愚痴をこまめに聞いてさしあげるしかない。

そのまま宗渭は普門寺に一泊し、ひたすら六郎の繰り言を浴び続けた。叱咤、以前ほどの勢いはなく。旧主の生命は確かに弱っていた。

 

帰途、慶興と久秀が無事に伊勢貞孝討伐を終えたと知らせを受けた。義晴公の頃から独自の行動を続けてきた男、最後は六角義賢に寝返り、そして見捨てられた。

奉公衆や公家などは武力を有さなくても世論に訴える力だけはある。長慶は“容疑”だけで奉公衆を討つことはしないが、“確かな証”があれば誰が相手でも容赦をしない。もともと主君だろうが征夷大将軍だろうが平気で対峙できる肚は持っているのだ。貞孝を討ったことは三淵晴員や進士晴舎などへの警告も兼ねているに違いなかった。

宗渭にしてみれば、足利義輝が気の毒に思えてならない。義輝の生涯は生まれた時から詰んでいる。六郎の場合、宗渭も元成も晴通も、皆で真っ直ぐに力を合わせていた実感があった。それは細川家内衆組織が長慶に破壊し尽くされ、小勢力に成り下がっていたからでもあるが……。奉公衆の場合は千々に分断されていて、それなのに義輝はそのすべてを大切に扱おうとしている。器量はあるのだ。いまでは慶興たちのことも粗末にせず、現実をある程度許容しながら、公方の存在感も可能な限り残そうと努めている。だが、晴員や晴舎など、それを潔しとしない強硬派も多かった。やろうという気概はあっても充分に配下を纏め上げられているとは言い難い、現場の労苦や下々の鬱憤を知らぬ上様。貴種生まれの限界を見るような思いがする。

長慶はこうなることが分かって義輝と和睦し、こうなるように奉公衆の組織を崩さずにおいたのだろうか。足利義輝、名の通り“義”も“輝き”も充分にありながら、長慶のいる時代に生まれたことが不運であった。

 

「兄上! 大変です、母上が!」

京の屋敷に戻ってみると、弟の為三たちが慌てているところだった。

「母上が如何した」

「いつの間にか姿が消えて」

「……またか。町中にはおるまい、近辺の花が咲くところを手分けして捜すのだ」

再び母と弟と暮らすようになっていた。父の戦死以来、母の精神は悪化する一方で、少し目を離せば花かごを手にいなくなってしまう。大人の迷子は周囲も気づかない、気づいても関わりあいになろうとしない。季節は晩秋、早く見つけて保護をせねば命にもかかわる。

 

母の行方が分かったのは翌日で、知らせてきたのはなんと慶興だった。

東山裏手の山荘に住まう尼御前が保護してくれているのだという。

「か、かたじけないことです」

「なに、たまたまさ。新しいことを覚えられないだけで、昔のことははっきり話しておいでだったぞ」

「母に会われたのですか」

「ああ。さ、早く迎えに行ってやりなよ」

宗渭を見る慶興の瞳には何がしかの共感が宿っていたが、仔細を問うことはせずに東山へ向かった。

 

驚いたことに、母を保護してくれた尼は慶興の母なのだという。

東山で迷子になっていた母に声をかけ、話しているうちに素性を知った。慶興に成り行きを知らせつつ、母から宗三の話を一晩中聞かせてもらったのだと。

「出会いと別れ……同じですね、おなごの一生は」

人の因果は無数の縦糸横糸、織り上がった緞子はこんなに哀しい世間模様。あまねという名の美しい女性はそう言ってから、

「あなたの孝行譚、素敵だと思います」

宗渭を褒めてくれた。

思わず頬が熱くなって、そのせいか、慶興へ強い好感を抱いた。

 

  *

 

「あああ……元就め、元春め、なんてことをしてくれたのだ。常光! 銀蛇よ、我が友よ……」

毛利軍の陣中に招かれた常光が、首だけになって帰ってきた。常光の寝返りによって尼子方の国人はこぞって毛利に呼応したというのに。常光の説得で石見銀山は滞りなく毛利の支配下に入ったというのに。

将軍義輝の斡旋により尼子と毛利の間では雲芸和議が成立していた。それなのに、毛利家は態勢を整え終わると当然のように尼子領を侵略し始めた。都では面子を潰された公方が激怒しているらしいが、元就や隆元、山陰方面を指揮する元春には何の躊躇も見られない。噂では、毛利はあの長慶と密約を交わしていて、公方のことなどもともと歯牙にもかけていないのだという。

常光の横死後、孫十郎のもとには毛利からの弁明と懐柔、尼子からの勧誘が相次いだ。

「殺すために誘ったのか。これが毛利のやり方……いや、これこそが当世の習い、武士の生きる術……」

あらゆる招聘を断った孫十郎は悄然としたまま石見を去った。もう、尼子の旗も毛利の旗も見たくない。

「わしはつくづく……この世が、戦国の時代が厭になった。厭だ、もう厭だ……」

帰りたいと心底から願った。だが、どこに帰ればよいのか分からなかった。

 

  *

 

ある日、芥川山城を長慶が訪ねてきた。

教興寺の戦が終わってから急に老け込んでしまったが、常人と異なる風雅な圧力は充分に健在である。かつての城主、天下の第一人者の帰還に城兵や出入りの領民たちには緊張感が漂う。長慶本人は手を振ったりして寛いだ様子だが、長慶を長慶のままで受け入れられる者はいまや少ない。

たまには息子とゆるり語りあいたいという長慶。冬の初め、日は短い。酒肴などを用意しているうち星が瞬き始めた。

「どうでしょう。星空を肴に」

「よいな、そうしよう」

城の最高所である御殿横の櫓へ誘った。吹きさらしのこの場所、星を眺めるには格好の場所である。

「とはいえ、この寒さは堪えるでしょう」

「なに、慣れている」

「これを羽織ってくだされ」

慶興が差し出したのは羆の毛皮である。出羽の実力者、安東愛季との交易で入手したもので、元は蝦夷の蠣崎氏が献上してきたものだという。長慶はやせ我慢することもなく、素直に勧めに従った。

「うむ、これは温かい」

「おかしいな、熊の皮を纏えば厳めしくなるものですが……父上の場合、何やら愛くるしいような」

「……がおお!」

「はっははは! 笑わせないでくだされ」

「着せたのはお前であろうが」

熊の格好をした長慶を見て、たまたま温めた酒を運びに登ってきた家臣が驚いた顔で去っていった。

「お身体、母上が気にかけておいででしたよ」

「あまねと会っているらしいな」

「子どもですから」

「私に遠慮することはない。甘えられるうちに甘えておけ」

「……俺は、父上と母上が一緒にいてほしいんですがね」

「ふふ。天下執権などと呼ばれてもできぬことはある。や、できぬことだらけだ」

「母上は俺が強引なことを言うと怒ります。が、父上になら強引にされたいんだと思います」

「愚かなことを」

「本当ですよ! 理屈も言い訳もできないくらいの、三好長慶の“力尽く”を待ってるんですよきっと」

女とは、とは言わない。だが、あまねとはそういう女なのだと思う。

「それよりお前はどうなのだ。孫ができればあまねとて」

「孫なんかできたら夫のことを忘れちまいますよ」

「はぐらかすな。もう二十一だろう、このままだとどこぞの公卿なり上様なりの縁者を貰うことになるぞ」

「嫌ですよ、そんなお歯黒臭え女」

「ならどういうおなごが好みなのだ」

厭な父親だ。こんなことを聞かれて喜ぶ息子がおるものか。

「“夫婦”ってのが信用ならないんです」

意地悪を返した。これは、長慶を傷つけたようだ。失敗したと思った。

「すまぬ」

「……いまのは言葉の綾です。や、龍吉のような女が現れれば考えないでもないんですがね」

「むむ。おらぬな……そんな者は」

「だいたい父上は人に語るほどおなごに詳しくないでしょうが」

「……之虎が生きていればなあ」

「いやいやいや、偲ぶならもう少し他のところで偲んでくださいよ。戦とか、政とか」

「そんな野暮を言う奴じゃないさ」

ここで一息ついた。杯を空け、互いに注ぎあう。

「そう言えば。飛騨の三木良頼が姉小路を名乗り、従三位に昇ったでしょう。あれで長逸や久秀が不満を申しております。父上や俺ですら従四位なのに、飛騨の一国人がと」

「お前もそう思うか」

「思いませぬ」

「ふむ、長逸や久秀すら惑わされる。げに官位官職とは恐ろしいものよ」

「あの二人も頑ななところ、負けを認められぬところが出てまいりました」

「公卿などに上がれば一層朝廷に取り込まれてしまう。官位を奪われた公家どもの要らぬ恨みも買う。よいことなどひとつもないのにな」

「まったくです。父上、俺、長逸、久秀、上様、氏綱殿に六郎殿。皆で仲良く従四位、その程度でいい」

高い官位をありがたがること、それ自体が公家の権威向上に繋がる。京から少し離れた摂津・河内に本拠を置く三好家としては、官位とは義輝や六郎と互角に渡り合うための方便でしかなかった。

近衛前久殿も空しく帰ってきたようだな」

「現実の政を思い知ったのでしょう。帰洛後は妙に馴れ馴れしゅうござる」

「上杉に比べれば余程我々の方が話し易いことだろうよ」

長尾景虎改め上杉景虎改め上杉政虎改め上杉輝虎は、前久の威光も利用しながら一時は関東を席巻した。北条家を追い詰め、関東管領職を襲名し、甲斐の武田晴信とも川中島で激しく戦いあった。前久は輝虎を尖兵に日本全土を鎮撫しようとでも思っていたに違いない。だが、敗者を支持基盤に置く輝虎には、助けを求める者の声を絶対に無視できないという弱みがある。政治家らしい判断などはしようとしないしできるはずもなかった。結果、せっかく手にいれた拠点を維持することもできず、いまは北条と武田の逆襲に悩まされている。

「父上は……これからどうなさるおつもりで」

「どう、とは」

「重荷を分け合うと約束したでしょう。いまや我らに刃向う者などいない、ならば次はということです」

「……畿内だけでなく。日本全土を治めてこそ真の天下人だと言ったな」

「言いました」

「私もそう思う。今後……六角を併呑し、浅井、朝倉に服従か戦かを迫り。志摩、美濃、尾張辺りまで支配下に入れれば……併せて、畿内と家中をよく治めることができておれば……」

「五、六年でできそうなことにも聞こえます」

「そこからは早い。自ら従おうという者も増えてくる。思い切って毛利を倒すか、上杉、または武田・北条と相対する頃には……日ノ本一統も見えてくる。民もそれを望むようになるだろう。だが、私は……」

「他にやりたいことがありそうですね」

「そうなってくると、難しいのは戦ではない。新たな“御恩”と“奉公”の構築だな、やりたかったことは」

「……初めて伺う話です」

「慶興。与四郎といねに商いの帳簿を見せよ、年に利益の二割を納めよと言えばどうなる」

「そりゃあ……さすがに激怒するでしょう」

本願寺比叡山根来寺に寺領の田畑をすべて検地させよ、年に収穫の三割を納めよ」

一揆が相次ぐでしょうね」

「それよ。単に“見せろ”“納めよ”では道理が合わぬ。大事なのは公儀が代わりに何を“与える”かだ」

「なるほど。いっそポルトガルでも攻めてきてくれれば」

「理解が早いな。そう、海外からの侵略などが手っ取り早い……が、しばらくはそれも期待できなさそうだ。交易がようやく始まったばかり、摩擦、交渉、開戦……と進むには数十年、下手をすれば数百年かかる」

「外敵頼りっていうのも気に入りません」

「なればこそ。大規模な、超長期の投資……例えば大和川の付け替え。あるいは施薬施米の進んだ形、日ノ本全土を覆う無尽……寡婦、遺児、病人や老人の暮らしを保障し、互いの長寿を慶ぶような」

「……構想はよいと思いますが、その政策は賛成できません。一年後、五年後の政変も予測できぬいま、十年、二十年に及ぶような約束は人の分際を超えておりましょう」

「なんの、人の英知に限りはない。それに政務が一層難しくなれば、かえって政権は安定するだろうよ」

「やり過ぎれば年寄りが増える、居座る。俺は二十一、父上が天下を獲ったのも二十代。若造でも充分治められるんですよ天下は。諍いを招いて税収を増やして、それでやるのが年寄り増産てのはね」

「されど、老後の安心があればこそ人は長期の視点でものを考えることができよう。明日、明後日ばかりを考えていてはそれこそ海を越えた戦に勝つことなど能うまい。必要なのだ、五十年先を考える習慣が」

長慶と言い争いになるのは珍しい。意見は合わないが、父の胸を借りているようで嬉しかった。

「大人は、特に年寄りは子どもの邪魔ばかりする。三淵晴員、進士晴舎がまさにそう、上様が哀れだ」

「あの二人も義晴公の頃は優れた奉行だったのだ。いまは上様でなく、自ら生んだ怨念に従っているがな」

「現実と未来から目を逸らして過去ばかりをありがたがる、これこそが老醜の真骨頂でしょう」

「そう。老も醜も人の本質、向き合わねば人の世を治めることなどできぬ」

「なれど」

「長逸や久秀がそうならぬと言い切れるか」

「……」

思い当たる節はある。長慶がいなくれば、あの二人も糸の切れたイカになってしまうかもしれない。

「どれだけ優れた者も、いずれは老いるのだ。老いもひとつの未来、受け容れ、慈しまねばな」

「……遺される者たちについて、聞いておくべきことはありますか」

「長逸と久秀は陰と陽、本性は近しい。大抵のことは任せられるが、目的地だけは示してやらねばならぬ。時々話を聞いてやれ、二人が争えば長頼に仲裁させよ」

「他には」

「長房は家中随一の切れ者なれど脇が甘い、一人にはせぬことだ。孤独を感じたら康長殿と話すがよい。真に困った時は冬康を頼れ。それでも迷いが晴れぬなら、祈ることだ。己のためではなく、時代のためにな」

星明り、長慶の顔にもはっきりと老いが表れてきている。

「……長い長い道のり、お疲れ様でございました」

「ふ……。若い頃は、家格の差というものが嫌で仕方なかった。理不尽しか生まぬ旧弊だと」

「……」

「だが、帝に拝謁し、お前も大きくなるにつれて……考えを改めたな。大事なのは変化、流動、川の如くに世の停滞を押し流すことなのだと。お前の上様や六郎殿への接し方を見ていると、世は変わったと思う」

「父上が変えたのですよ」

「……そうかな」

「そうですよ」

 

他愛無い会話を続けるうち、酔いのまわった長慶が眠ってしまった。

安らかな寝息。初めて父の寝顔を見たような気がした。

 

続く