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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

五十 聚光の段  ――三好長慶 光芒となりて消え去り、田中与四郎 天下人の心魂を受け継ぐ――

五十 聚光の段

 

「よしなさい。おなごの指は針仕事、水仕事のためにあるものぞ。弟を打つなどもっての外」

「だって、千満丸が私の毬を盗ったんだもの」

「借りただけさあ」

「いね、お聞き。揉め事、嫌なことは愛嬌で解決なさい。おなごが蛮勇に頼ってはいけません」

「じゃあ母様……どんなに嫌なことがあっても、おなごは我慢して笑ってなきゃいけないの?」

「いいえ。心の底から許せない、天が許しても私は許さない。そう思った時だけは存分に腕を振るいなさい。日頃はにこにこ、いざという時は猛火の如くに。それが女の気構えです」

 

冬康が長慶に斬られた。理由は誰にも分からない。松永久秀の讒言によるという噂だったが、本人は無言を貫いているという。あの老人も、慶興死後は様子がおかしい。哀悼痛惜に任せて改元を試みたり、唐突に隠居を宣言したり。そんな男が果たして三好家乗っ取りを策謀するものだろうか?

三好家中は混乱を極めている。長慶の英明は砕け散ったのかもしれない。いつまで生きていられるかももはや分からない。長慶の代わりも冬康の代わりも家中には存在しない。何よりこれからどうしたらよいのか分からない。分からないから、長逸、久秀、長房がそれぞれ好きなことをやり始めている。長慶の正嫡たる熊王丸は誰の言うことを聞いたらよいのかと戸惑うばかりだった。

更に不可解なことは、冬康の遺骸が消えたことである。冬長が遺体を運んでいくところを目撃した者は何人もいた。長慶の私室にはいまも弟の夥しい血の跡が残る。それなのに墓はおろか、葬儀すら営まれていない。飯盛山城から出ていく際、冬長は“遺体ごと所払いになった”と口にしたというが?

事件の後、長慶は“安宅家・野口家に関わりなし”“肉親間の私事故に詮索無用”とだけ言い残して、そのまま眠りについてしまった。

それから、今日までずうっと眠っている。

あらゆる人間が呼びかけ、いね自身も言葉を幾度となくぶつけたが、何の反応も示さない。

危篤の二文字。口から白湯を飲ませたりはしていたが、みるみる衰弱していることは隠しようもなかった。

まさか、本当にこのまま死んでしまうのだろうか。

「……あり得ない」

やることはやったとでも言いたげな顔で寝ている兄に、深い怒りを覚えた。自慢の兄、敬愛してきた兄、だからといって何をしてもいいはずがない。このまま終わっていいはずがない。やることをやり終えたはずがないではないか!

右手には水葵があった。見舞いに来るたび花をいけていたのだ。ささやかな紫の花弁、衝動。前途洋々たる暴力の発露、護衛や小姓が動く間もなく。妹ならではの至近、長慶の顔面に水葵の束を投げつけ、その上からきつく握りしめた拳を振り下ろした。

「ぐうっ」

くぐもった呻き声。流れ出す鼻血、苦痛に歪む兄の寝顔。

「起きなさい! 起きろ! 起きて訳を話しなさい! ちょっと、聞いてるの! 聞こえてるんでしょ!」

我に返った新兵衛に羽交い絞めにされた。それでもいねは止まらない。涙が溢れてきても構わない。

「冬康を返しなさいよ! 馬鹿! 兄様の馬鹿! いい加減にしないと本当に怒るわよ!」

女だと思って油断していた新兵衛を投げ飛ばす。舐めるな、私は鬼十河の姉だ!

「起きないか! このまま死んでみなさい、私が三好を、天下を奪ってやるわよ! 何とか、言ええ!」

花と血に塗れた長慶の襟元を掴みあげて激しく揺する。起きない、ならばもう一発。そう、思った時。

「――うっ……うむむ。ぬう、この匂い、この痛み……いねか」

「兄様!」

目覚めた! 生き返った! さすが兄様、期待を裏切ったことのない人!

「まだ早い……おなごが天下を握るのは」

「ちょ、ちょっと。本気にしないでよ」

「ふふ。まだ、もう少し……生きていられる。ありがとうな、いね」

歓喜に包まれた。城中から人が集まってくる足音、老若男女の咽び泣き。揉まれて照れたように微笑む長慶の顔を見ていると、もうそれ以上は問い詰められそうになかった。

 

  *

 

起きようと思った時間に夜桜がやって来て、頬を肉球で叩いてくれた。よくできた猫である。

そっと身支度を整え、部屋の外を伺う。新兵衛が居眠りしていた。余計な体力を使わなくてよい、できた家臣である。足音を立てぬように廊下を進む。夜明け前、人の気配は少ない。見張りの者が何度か通りかかったが、どれもやり過ごすことができた。あと、少し。

「殿様」

待ち伏せ。武士ではない、おたきと茂三。

「なぜ分かった」

「料理人というものは……主の様子を主以上に知っておかねばならぬものです」

「……止めに来た訳ではないのだな」

「特別な日には特別な馳走を……これをお持ちくだされ」

茂三から渡されたのは笹で包まれた三角形の弁当だった。

「あまね様に……よろしく伝えてくださいな」

「ふふ。確かに見透かされている」

手短に礼を伝え、飯盛山を降りた。感覚が冴えわたっていた。星明りで充分、足取りもいつになく軽い。

 

追っ手が来ることを想定し、東高野街道から枚方大阪府枚方市)に迂回、淀川の乗合船を利用することにした。若き頃、六郎の配下として働いていた時分にはしばしば乗ったものである。朝日を浴びて大坂を出た船が、昼過ぎには枚方に着くはずだった。

待っている時間、河原の土手に座って早めの弁当を使う。蜻蛉や蝶が飛び回るよい日和、笹の包みを解いてみれば艶めかしい見目のおこわが姿を現した。薄く輝くもち米、その上にはふた粒の梅干しが彩り。おこわの中には程よい形の大豆と細切り昆布が合わせられている。

「さすがは……」

口中に唾が広がった。久しく忘れていた食欲、生の喜び。

箸、おこわの一角を崩す。心地よき固さ。含み、噛みしめた。唾と混ざり合う。味、幸、頬に染み込む。

「ああ、うまいな……」

未練になりかねないほどの。

梅。歯ごたえ。疲れを取るというより、前へ進む力を与えてくれるような酸味。米、喰らわざるを得ない。大豆、塩昆布。旨味を何層にも膨らませて。ああ、足りぬ。物足りぬ。絶食よりも飢えを呼ぶ。

誰も見てはいない。笹の裏側についたもち米までを舐め取ってから、竹筒の水を流し込んだ。

「……ぷう」

そのまま寝転ぶ。草の匂い、肌をくすぐる感触、快晴の空。何もかもが久しぶりで、見納めだった。

 

上り船は満席で、詰めてもらってようやく腰を下ろすことができた。見たところ旅人も行商人も景気は悪くなさそうで、六郎時代よりも人々の身なりは遥かによくなっている。

この手の場では見知らぬ者同士の噂話を楽しむことが決まりである。長慶も何度か話しかけられたが、体調の優れぬことが察知されたかやがてそれも止んだ。無論、笠に隠れて正体はばれていない。

そこからは人々の話題を聞くばかり。東国では北条氏康武田晴信の勢力が盛り返しているのだとか、美濃では斎藤龍興が家臣に城を乗っ取られたのだとか。

畿内はいまのところ平和だけどよう。それもこれも、三好様がいなくなっちゃあおしまいかもなあ」

「そのことよ。あの悪公方がまた色々と画策してるんだろ。これ幸いといらぬことをするに決まってるぜ」

「松永様の増長のせいで、三好家も内輪揉めしそうだって言うじゃないか」

「はあ、また戦の時代が来るのか。いっそ、どこかに移ろうかなあ」

「どこに行っても同じじゃよ……。三好様が特別だっただけなのじゃから……」

自身の周辺にも話は及んでくる。耳が痛い気もするが、もう決めたことだった。

「そんなことより、三好様がお気の毒で」

世間話に加わっていた老婆が突然涙し始めた。

「そりゃあ。まあ、な……」

「確かに……。天下の主だってのに、酷い目に遭ってばかり」

「親を早くに亡くし。妻とは離別、弟と息子には先立たれて」

「善政を敷けば公方や諸大名に憎まれ」

「とうとう頭がおかしくなってしまわれたとか」

「無理もない……。正気を保っていられる方がおかしかろう……」

船の上が一気に沈鬱な雰囲気になった。もらい泣きする者もちらほら出てくる始末、申し訳なし。

……けっこう、よい一生だったと思うのだがな。カカ、民に可哀想と断じられる不思議。

 

  *

 

佳への返信をしたためていた。

岡部家の縁者が間に立って、年に一往復程度は書簡のやり取りをできるようになっている。今川家の内情は悪くなるばかりのようで、文面から浮かび上がる岡部の暮らしからは不安が色濃く匂う。佳だけでも京へ移ってくればと願うが、正綱の立場や今川家への義理を思えばそれも難しいのだろう。大きな流れが一度できてしまえば、変えることも抗うことも難しいのだとあらためて実感する。

いつしか日は暮れ、厚い雲が空を覆って辺りは暗く。晩夏の頃、風のある夜はようよう過ごし易い気配。住み込みの老女に休暇を与えたことを思い出して、あまねは自ら山門を閉めに坂を下った。

「……お前さま」

灯りも持たず、供も連れずに……長慶が立っていた。

目覚めている。息を切らしている。察した事情があまねの胸をぎゅうっと掴んだ。

「すまぬが、泊めてくれ」

是非もない。手を引いて歩くようにして長慶を山荘の内へ招き入れた。それはまるで、旅先から帰った夫を迎え入れるかのようだった。

 

「見舞いに訪れてくれたそうだな」

湯に葛を溶かしたものを長慶は嬉しそうに飲んでいる。

「ちょうど……河内へ行く用事がありましたから」

「ほう、どんな」

「内緒です」

今生の別れを済ませたつもりだった。あの状態から出歩けるようになるとは俄かには信じがたい。これは夢か現か、眼前の夫は本物か生霊か……。

「野暮用を忘れていた」

「あたしはついでですか」

「ふふ。口実を思いついたと言い換えようか」

「……もう」

口を尖らせ腰を浮かして、長慶にもたれるよう座り直した。鼓動、体温、疑いようもなく生きている。

「あまね」

「はい」

「腕を回してよいか」

「いちいち断らなくても……いいですよ」

あれこれと語りあう気にはなれなかった。長慶も同じ思いのはずだ。

「変わらないな」

「変わりましたよ」

繭に包まれているよう。

「……」

「でも」

「ん?」

「お前さまは変わらないですね。ずるい人……そう、あたしを溶かしてしまうこの薫り」

「そなたこそ。私を和らげるこの香り、ずっと……焦がれていた」

慶興が。ああ、慶興のお蔭で。これこそ女の業、女の輪廻。あたしはいま、こんなにも浅ましいのに。

「今日だけ……あたしに触れるのは……特別です」

「ちっとも幸せにしてやれなかったな」

「……あたしはいま、けっこう幸せですよ」

身体を抱く腕に力が入った。あまねの背、長慶は泣いているのかもしれない。

 

  *

 

朝からの驟雨、庭のどこかで粒の大きな天水を喜んだ蛙が鳴いている。

義輝の屋敷には専用の練武場を新築していた。生前の慶興が寄贈してくれたこの施設、雨の日でも患うことなく剣を振るうことができる。思うところはあるものの、建った以上は使うことが供養だと信じた。

稽古の相手は藤英である。懸命ではあるが、藤孝に比べれば腕前が数段見劣りするのは否めない。剣術を好まない父の晴員は晴舎と共に隅の方で見物しているだけだった。

どれだけ汗を流しても屈託が消えない。肌にまとわりつくような嫌な悪寒、身体の奥で着火を待っている情熱。すべてを消し去りたいと願うが、思えば思うほど精神は乱れる一方である。剣は正直、義輝の内を表すように太刀筋も一向に定まらなかった。

「う、上様! 一大事にござる!」

警護の若侍が叫ぶ。藤英と晴舎がすぐさま義輝の前に立ち、報告の続きを促す。

「みみ三好殿、臥し、臥しているはずの……」

呂律が回らない彼の奥から、涼やかな薄藍衣装の侍が入ってきた。

なんと三好長慶である。随分痩せてしまっていたが、両の脚でしっかりと床板を踏みしめるその立ち姿、従来以上の充実を有しているように伺える。明日をも知れぬという噂、当てにはならないものだと思った。

「久しいな、長慶……。どうした、身体はもうよいのか」

何か言おうとした藤英を制して自ら問いただす。なぜか、自分の力で向き合うべきだと感じた。

「ちょっと京へ寄ったものですから。……如何でしょう、私にも剣の稽古をつけていただけませぬか」

「い、いくら三好殿とて、いきなり現れてそれは無礼でござろう! 第一その病み上がりの身体で……」

「試してみてはどうです」

「な、なんだと」

長慶の挑発。藤英が目で義輝に許可を求める。咄嗟のこと、止める理由は思いつかない。早合点した藤英は木剣を長慶に貸し与え、練武場の中央へ誘った。

向き合う。二人とも中段、意外なことに長慶の構えが様になっている。静かで、漲っていて。

「すら!」

藤英の一太刀。長慶の頭をかち割るほどの、馬鹿者、加減を知らぬのか。だが、木剣は僅かに長慶へ届かなかった。いや、長慶が紙一枚ほどの距離で見切ってかわしたようにも見えた。

「なっ……、ぬ、ええい!」

連撃、やはり寸前で当たらない。間違いなく、長慶は見切っている。まさかこの男、これほどの。知らぬ、聞いていない。文弱、しかも病人。荒事は人に任せる男ではなかったのか。

「おのれ!」

頭に血が上った藤英の大振り。その機先、振り上げた藤英の手首に長慶が木剣を置いた。さりげない、いつの間にかの動き。腕を伸ばしただけ、何の力みも見られず……されど。

「ぐ、あああ!」

折れていた。あれだけで、藤英の手首が。ざわつく場内……寒い。汗が冷えている。

転がる藤英に代わって、晴舎が中央に進んだ。彼が出たということは、ただ事ではないということだ。

「わしが相手しよう」

晦摩衆頭目。老いたとはいえ、日頃隠しているとはいえ、その武芸は奉公衆随一である。

「ありがたいことです」

長慶が晴舎に礼を述べた。なぜ? まさか。気づくのが遅れた。逃げろ、晴舎。

今度の立ち会いは一瞬で勝負がついた。構えた二人が交差した途端に、どこかの骨がへし折れる音が響いたのだ。晴舎、顔に脂が浮かんでいる。見たことのない彼の悶絶姿、鎖骨を砕かれたようだ。

「さ。次は……晴員殿ですかな」

呆然と見ていた晴員に向かって長慶が微笑みかける。瞬間、長慶の身体が光に包まれたかに見えた。誰かいる、何人もいる。長慶の周りに……あれは慶興。之虎、一存。馬鹿な、六郎まで。まだまだいた。数限りない光の人影が長慶に聚まっていく。こ、これはいったい。

「あ、ああ、能わず! 能わず!」

晴員も同じものを見たのか。怯え、腰が抜けた態で後ずさりを始めた。

「……」

長慶が入口に群がっていた若侍どもに視線を送る。それだけで全員が悲鳴を上げてしまった。

「お待たせしました。始めましょうか、上様」

木剣の切っ先を義輝に向けてきた。大きい。光の巨人と化した長慶、余を見下ろして何を望む。

「……首か」

単身、足利公方に殴り込みをかけてきた。復讐のため、あるいは後始末のために。

「いまがその時です」

「な、何を申しておる」

「命を燃やす時が来た。そう教えて差し上げました」

言葉ではない。長慶の光が自分の心魂に火をつけた。身体中が燃えるようにたぎり出す。

躊躇、消えた。恐怖、失せた。目、頬、背骨、足先指先まで熱が流れ込む。

「生まれ持った輝きに身を投じてこそ!」

吠えていた。思考して放った言ではない。

「……大河の実りを願う心には。因縁、今日こそひたぶるなり」

対峙。即踏込み、剣! 合わせられた、競り合い!

「定かならず」

軟らかく体を引き込まれたかと思えば、したたかに投げ飛ばされていた。かろうじて受け身、前転。そんな、剣で人を投げられるのか。

「何者だ! 三好長慶!」

「……」

ゆらりと長慶が動いた。袈裟懸け、遅い。防げる、いや、防げない! 重い! 緩やかなこの、攻撃とも言えぬ攻撃が。後退、震え、下半身。初めて。これが、命を懸けた決闘か。駄目だ、やられる……。

「上様! お気を強く!」

晴員。忠心が恐怖心を凌駕したか。

「上様!」

「惑わされているだけですぞ、上様ならば」

青息混じりでも藤英と晴員が。へこたれていた護衛たちも義輝に声援を送り始めた。

将軍が前線、奉公衆が後陣。これは異なこと、あ、長慶がうっすらと笑っている。

「……余は、すっきりとしておる」

「ふ。そろそろ仕舞いましょう」

力が湧いてくる。声援、期待、こんなにも。そうか、これがひとつか。そうか、だから長慶が笑ったのだ。

「ここに我あり――。勝負!」

摺り足から一息に飛び込み、兜割を仕掛けた。長慶、待ちわびたように木剣で防ぐ。光、集束――。

 

“ごとり”。

切断した長慶の木剣が床板に転がった。その時、世界は義輝一人だけのもので、皆のものでもあった。

「……よい土産話ができました。さすがは上様、私の負けですな」

木剣の切れ端を拾って親しく語りかけてくる。精を使い果たしたかのような、その顔は死人のように白い。

「……」

義輝の未練を溶かすためにやってきた。そうとしか思えなかった。

――だん、だんと無骨な足音が響いてくる。長慶に何か応える前に、新たな闖入者が現れた。

「長頼か……疲れた。運んでくれ」

松永長頼。全身がとことん雨に濡れている。たまたま在京していて知らせを受け、取るものも取り敢えず駆け付けたというところだろう。倒れかかった長慶を両手で大事そうに抱き上げ、目礼だけをして去っていく。家中一同、本当に礼を知らぬ者どもだ。

「能わず……理解、能わず」

締めくくるように晴員が呟いた。

 

  *

 

「冬長殿ではないか」

孫十郎の呼びかけに男が足を止めた。正しく野口冬長、幾分老けてはいたが息災のようである。

「これは孫十郎殿。お懐かしや……」

「そうか、お主も所払いになったのだったな。いったいお主も冬康殿も何をしでかしたのだ」

「……いまだに分からんのです。ただ、“二百年でも三百年でも眠っておれ”と」

「ああ? なんだそれは。長慶の奴、本当に狂ってしまったのか」

冬康が長慶に斬られ、当の長慶は何も語らず死線を彷徨っている。不条理なこの事件は当世最大の謎として評判になっていた。

「土佐へ渡ろうと思って。三好家もわざわざ土佐へ攻め寄せたりはしないだろうし」

「ははは、それで黒江潟(和歌山県海南市)に。どうやら似た者同士のようだな、わしも房総へでも移り住もうかと思っておるところよ」

「房総って、東国の房総のことですか」

「おう。紀伊の水軍もすごいものだな、海を越えてどこへだって移り住んでしまう」

冬長に海運を語るなど釈迦に説法ではある。人恋しさのあまり、多弁になってしまっている自分がいた。

「孫十郎殿はいままでどちらに」

「石見の本城家で厄介になっていた。毛利の謀略でふいになったがな」

「あの本城常光殿の一件かあ。尼子も昔日の勢いがありませんね」

「そうだな。わしらが若い頃は、尼子と聞けば畿内中の民が震え上がったものだが」

「それで、いまは潮待ちという訳で」

「うむ。この辺りも面白いものだな、塗り物や酒造りなどたいしたものよ。そうだ、“踊り弁天”は知っているか」

「初耳ですね」

「漁民が海で助けた女人。潮で目・耳・喉を揃ってやられ、何年もじっとしていたのに……。最近になって思い出したように舞を披露するようになったそうだ。音もないのに、こう、ひらひらっとな。その踊りがあんまり見事だから、近頃じゃ弁天様の使いだって言われているのだとよ。しかも、すこぶる美人という噂でなあ」

「へえ。珍妙なことが起こるもんだ」

「どうだ、これから一緒に見に行かないか」

「いや……遠慮しときますよ。人を待たしてるんで」

所払いになった者が、それこそ珍妙なことを言うものだ。十数年ぶりに知己に出会えた喜び、無理にでも引き止めようと粘ったが、冬長の意志はどうにも固い。

「そうか、ならば仕方なかろう。……もう、会うこともないだろうな」

「ええ。お目にかかれてよかった」

「さらばだ」

「はい。おさらば!」

冬長には追放された者の持つ悲壮感がなかった。何か、いまも使命を帯びているかのような……。

よそう、わしには関わりのないことだ。冬長が見えなくなるまで待って、孫十郎は次の一歩を踏み出した。

 

  *

 

堺、南宗寺。高弟の笑嶺宗訢を従えた大林宗套が諦めたように呟く。

「聚まった光が天に還ろうとしておる」

与四郎も笑嶺宗訢も、黙して老師の言葉を咀嚼する。

「在家菩薩――。あの男は、人と仏の境目に生きておったな。世はそれを……狂人と呼ぶのであろう」

「……」

「白から黒へ、光から闇へ。因果の極み、未曽有の流転の中で……我らもまた、禅を見出さねばならぬ」

 

飯盛山城、七月朔日。

「私が逝けば……いねの相手を与四郎一人でせねばならぬぞ」

「ううむ、考えるだに恐ろしい……」

からかった長慶が笑う。その笑い方がいかにも緩慢で、遂に時は来たのだと悟った。

「与四郎」

「……なんだい」

「与四郎の点てた茶を……飲みたいな」

「よし……分かった」

風炉を用意し、静々と湯を沸かす。与四郎が用意する間、長慶は臥したまま何も言わなかった。

 

「よい、塩梅だ」

「よかった」

「落ち着く……心魂を平らにしてくれる」

上体を起こして、温かそうに茶碗を手にしている。死に往く寸前、長慶はますます長慶である。

「千殿……。ひとつ、教えてくれないか」

「どうした」

「天道を全うするとは、どんな気持ちなんだ」

一拍、長慶は目を瞑って考えた。

「……素晴らしいことだよ」

「私にも、できるかな」

「与四郎なら……できるさ。私が請け負う、祈っている」

「……できる気がしてきた」

「ははは」

天の声は既に聞いた。茶の道で、田中与四郎は三好長慶に成る。三好長慶を超えていく。

「私からも、いいかな」

「後生だ、何でも言ってほしい」

「あれを……私の墓に」

友の視線は、与四郎が贈った樹に向いていた。

「千殿……ありがとう」

「与四郎、ありがとう」

瞳、光が瞬いている。長い時間、そのまま見つめあった。

「ありがとう……」

もう一度、何かに感謝して……長慶は目を閉じた。

 

長慶は、七月四日にこの世を去った。

 

  *

  *

 

平和は一年と続かなかった。足利義輝が弑逆され、続いて三好家の内乱が起こった。

延々と内輪で争ううちに織田信長が上洛し、三好家に代わって天下を治め始めた。

長逸・宗渭・友通は長慶の遺した負の因業を背負って死んでいった。

久秀は長慶の代わりを探し求め、見つけられずに爆ぜ散った。

長頼は不覚を取って討たれた。

長房は妬まれて殺された。

信長の統治は長慶と同じく十五年に及び、その権勢は長慶を大きく凌駕するものであった。

 

羽柴秀吉は長逸や久秀の轍を踏まなかった。

民も望まなかったのだ。

織田家の内乱を直ちに鎮めた秀吉は、日ノ本の惣無事、現世愉楽の結聚に向けて走り出した。

もうすぐ、長慶の生まれ育った四国も、三好家が苦戦した紀州も、秀吉一人のものになるのだろう。

京に与えられた隠居所。無数の位牌に囲まれて康長は祈る。

元長とつるぎの冥福を。

持隆の安らぎを。

長慶と弟妹の静寂を。

慶興ら若き魂魄の再生を。

死んでいった者たちとの巡り会いを――。

 

長慶の死から二十年。

三好の時代は過ぎ去り、世に幽かな残響を留めるのみである。