きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十八 団欒の段  ――細川六郎 三好家を呪って息絶え、三好慶興 はからずも早世す――

四十八 団欒の段

 

永禄六年(1563年)春のある日、義輝は慶興の京屋敷へ御成を行った。

とは言っても、以前のように豪勢で大げさなものではない。方違えを口実にしたお忍びの訪問で、供も久乃と少数の護衛だけだった。久しぶりに慶興とゆるり酌み交わしたくなったのだ。今日になって思いついたことだが、慶興の方は困った様子も動じた様子もなかった。気さくな雰囲気で宴は始まり、たちまち部屋は笑い声や歌声が充満した。

「うーえっさま! うーえっさま!」

注がれた酒杯を一息で飲み干せと、偶然居合わせた松永久秀が手拍子を打って煽ってくる。相当に失礼なことを言われているのだが、不思議と腹は立たなかった。慶興との仲が深まるにつれて、三好家の陪臣たちに対する心の持ち方にも変化が生じている。まして、久秀は形の上では義輝の直臣でもあった。

「さすが! 素晴らしい呑みっぷりや!」

「おい、久秀。やり過ぎだぞ」

「よい……よい。今宵は楽しい」

「ほら! ほなもう一杯、そうれだーいしょうぐん! だーいしょうぐん!」

調子に乗り始めた久秀の後頭部を慶興が扇子で叩き、更に義輝から杯を奪い取った。

「よっ! 若殿のお出ましい!」

めげない久秀が慶興を煽り、慶興も容易く酒杯を空けてみせた。

義輝の杯を家臣が奪うのも尋常のことではない。晴員や藤英が見れば烈火の如く怒るに違いなかった。だが、礼式や作法を破ってみせることで深まる絆もある。慶興との間に一層の一体感が醸成されていく。京の平穏、天下の安寧、足利と三好がひとつになればこそ、力を合わせればこそなのだ。三好の傀儡だと義輝を嘲笑う、あるいは憤る者も少なくはないが、小さな面子を捨て、大きな益を得ている実感はあった。

「たまには無礼講もよいものですねえ上様」

「うむ。そういえば慶興よ、近頃は汝の父親を見かけぬな」

「猫と遊んだり樹に話しかけたりで忙しいみたいです」

「どこか悪いのか」

「俺を鍛えようとしてくれてるんですよ。いつまでも“長慶の息子”扱いじゃあ具合が悪いだろうってね」

「謙遜を言う。父を超えたという者も多いではないか」

「いやあ、ちっとも追いついた気がしません」

久秀が義輝の供回りをからかっている、いや、説教しているようだ。その他の者にも聞こえぬよう、慶興は小声で語りかけてきた。

「上様ね、我々の仕事ってなんだと思います?」

「それは……武と道理を以て争いを鎮め、皇道を守護し、民の暮らしを宜しく導くことであろう」

「そう。それで軍の動員、相論の裁許だとか、商業の振興、学問の奨励……」

「で、あるな」

「……働けなくなった年寄りの暮らしを面倒みる、戦で死んだ者の遺族を食わせてやるってえのはどうです」

慶興の言っていることの意味が分からなかった。政治とはもちろん神や仏の奇跡ではない。

「できる訳がない」

「ですよねえ。いやね、それができたら下剋上が減るって言う人がいるんですよ」

「……?」

彼は酔っているのだろうか。夢物語にしても現実味に乏し過ぎる。

「前任者を超えねば支持は得られない。不可能事をやってのける政権が簒奪されることはない。しかも、人の命が値上がりすりゃ戦だって減っていくはずなんだってね」

細川や三好に奪われた将軍親政。足利公方はたいしたことをしていなかったと言われているのだろうか。

動乱、下剋上、現場の実務に精通した守護代や国人が実権を奪い取っていく時代。道理を叫んでも権力は返ってこない、それがなぜか、ずっと分からないでいた。いま、慶興が答を口にしていた?

「んもう。男二人で顔を寄せ合って、何の話をしているのですか」

妬いたような品で久乃が割って入ってきた。

「これは小侍従殿」

「今夜は突然のことで申し訳ありませぬ。お詫びに慶興様、ご一献」

「いただきましょう」

快く慶興が応じる。

「久乃、余にもくれぬか」

「お水になされませ、先ほどからお上がり過ぎです」

「なんだ、冷たいではないか」

「駄目ですからね」

結局慶興だけに酒を注いでそそくさと去っていく。心なしか、久乃の所作にはぎこちなさがあった。

 

  *

 

「まさか……わしの最期を看取るのがお主になるとはな」

「光栄なことです」

長慶が涼やかに微笑む。この男の面を見ただけで六郎は大量の血を吐き、しばらくは気を失っていた。目を覚ませば平気な顔をして長慶が居座っている。同時に、自分の寿命がとうとう尽きたことが分かった。

「すべて、お主が奪っていった」

「私も六郎殿に多くを奪われました」

「……」

「……」

「お主さえいなければ」

「いまも木沢長政や遊佐長教が荒ぶっておりましょう」

「宗三が食い止めていたわ」

「そうかもしれません。そうでないかもしれません」

長慶は死にゆく者に鞭を打とうとしているのか、それとも最期に心を通じ合わせたいとでも言うのか。

ならば、抗うこと、不屈を貫くことが六郎の意地だった。もう、自分は怯懦な青白殿ではないのだ。

「詫びぬぞ、わしは」

「……」

「礼も言わぬ。昭元の未来を託そうとも思わぬ。お主は所詮、わしの脛に噛みついた馬鹿犬だ」

「お気を鎮めなさいませ。そうも昂ぶっては」

「元長もそうであったわ。分際も弁えずにつけあがりおって、あの惨めな最期が相応しかったことよ!」

長慶の眉間が僅かに動いた。

効いている。長慶の期待を裏切ることができている。

「呪ってやるからな! 三好はな、昔から天に見放されておるのだ! 父と弟の後を追わせてやるぞ、あの餓鬼、慶興も呪ってやる! 末代まで、千歳の果てまでも、魂魄の限りを尽くして祟ってやる……ははは、ふはは。わしはもう往く。くく、一人では往かぬぞ、お主の大事な者を連れていってやる。どうだ、寂しいのは嫌だろう。一緒にお主も来い、同道を許してやる! ざまを見ろ、わしは終わりだ、お主も仕舞いだ!」

鼻血が流れ出し、長慶が懐紙を当ててくる。

「……楽しそうですね」

「愉しいだと? ああ、愉快だ! 呪うのは、恨むのは最高だ! 死ね! 長慶、死ね! 死ね!」

「いいですとも」

不意に、長慶に身体を抱き締められた。

「な、何をするのじゃ」

「こんな六郎殿ですら愛おしい。……あなたが奪ってくれたお蔭です、ありがとう」

「……!」

長慶、なんだその笑顔は。

効いていなかった。己の器量を試して遊んでいたのか、この、天魔! 真の物の怪め!

「おさらばです」

腕を解き、用は済んだとばかりに立ち上がる。

ゆらりと動いた途端、長慶が光の粒と化して消えた。どういうことだ、幻覚だったとでもいうのか?

「待て、待たぬか! 待って! おのれ、わしを見ろ、わしを見ぬか! ぐ、が、ぎゅふ! ふ、お……」

吐血。大量の、最後の。聞こえる、廊下を走ってくる足音……昭元の、真心の足音。

息子をひと目。あと三十歩……二十歩……間に合う、あと十歩……五歩……。

襖が開いて光が差し込む。その時にはもう、六郎は血の海に沈んでいた。

 

  *

 

細川六郎が逝ったかと思えば、今度は慶興が高熱を発して重篤だという。

あれだけ溌剌とした若殿が病気とは俄かに信じられなかったが、畿内に上陸すると塗りこめたような重い空気を肌にひしひしと感じる。事態は、長房の想像を超えるほどに悪いようだった。

芥川山城には参上したものの、慶興との面会が叶うことはなかった。絶望を顔に浮かべた長逸や久秀、慌ただしく走り回る医師や侍女、どこからか聞こえてくる加持祈祷の響き。長慶は慶興の傍から離れようとせず、一心に息子を励まし続けているらしい。これは、いよいよ覚悟せねばならぬようだ。

「突然過ぎる……」

他の家臣同様、呆然と座り込んでいた康長が呟く。

康長は教興寺の戦いの後は河内の高屋城に入っていて、顔を合わせるのは久しぶりである。

「久秀が一服盛ったという噂も流れているが……どうも、あの様子ではな」

いまは岸和田城を守っている冬康。何度か安見宗房が攻め込んできたが、容易く撃退してしまっていた。之虎・一存亡きいま、三好家中では冬康の存在感が急速に高まっている。

一存が死んだ時も久秀の犯行が疑われた。有馬にいた一存と異なり、確かに京にいた慶興と久秀は顔を合わせる機会も多かったろうが……。慶興を陥れて久秀に得があるとは思えない。

「病に倒れる前、どこで何をしていたかは分かっているのでしょう」

「うむ……。何件もの職務や会食をこなしていたが、不審な点は少ない。一点、上様が京屋敷を訪れてきたことを除けばな」

目を閉じて冬康が答える。その静かな表情の中には、煮えたぎる怒りを察知することができた。

「毒を盛るために、若殿に近づいたと」

「やりかねぬ、足利なら」

康長の瞳の中、暗い暗い炎が揺れている。

「……毒と病を見分けるのは難しい。証拠を押さえることも」

「これは、非常の事態だ。もはや証など不要、すぐにでも軍を」

「皆も同じ意見ですか」

「肝心の慶兄が止めている」

「なぜ」

「分からぬ。本当に……分からぬ」

急速に老けた長慶。まさか痴呆が始まった訳でもなかろうが……。民心を案じ、戦を避けようとしているのだろうか。それとも、いつものように何らかの深謀遠慮があって?

「……ならば、殿に従うべきでしょう」

「……」

「……」

「自重すべき時、何を置いても若殿の回復を祈るべき時のはず。思い出しましょう、我々は既に幾度もの危機に襲われ、その度に打ち勝ってきたではありませぬか」

三好慶興。皆の希望、天下の一大驚異。このまま呆気なく彗星となって落ちてしまうのだろうか。

二人ですら、畿内にいるうちに畿内に染まってきている。いまも四国に留まり、四国の第一人者となった長房にとっては、畿内勢の動揺を落ち着いて眺めていることができた。

長慶の老い、慶興の病は畿内勢の混乱を誘う。ならば、代わりに立場を強めるのが四国衆だ。

有力家臣の全員が雁首を揃えているいまが動き時。

戻ろう、四国へ。

落ち着いたら、きっと公方への復讐が始まる。そうなれば阿波に帰ってきた義冬が役に立つ。

慶興に万一のことがあれば、長慶は養子が必要になる。おそらく弟の子どもから選ぶだろう、そうなれば九条の血が効いてくる。

いまのうちに四国をしっかり押さえておくことだ。長慶は老いた。長逸と久秀は更に一回り齢を取っている。冬康と康長はもとより関係良好、之虎や一存だって長房の栄達を喜ぶに違いない。

なんということだ。この一大事、自分にとってはすこぶる好機ではないか!

 

  *

 

慶興の身体……白目や皮膚に黄疸が広がっていく。

曲直瀬道三が懸命に治療を続けるが、快方に向かう兆しは一向に見られなかった。

「黄疸には様々な原因が考えられますが……」

「……」

「肝の病、血の病。あるいは……蛇毒」

「特定することは難しいか」

「難しゅうございます」

道三が首を振った。

赤子が黄疸で死ぬことはままある。手の尽くしようがなく、悲嘆にくれる母親を見たことがある。

働き盛りの男に黄疸が出て、あっという間に死んでしまうこともある。

決して珍しい病ではなかった。毒が盛られたのかもしれぬ、自然な病なのかもしれぬ。呪殺というものが本当にこの世にあるのなら、六郎の怨霊が道連れにしようとしていると考えられなくもない。

黄疸から回復した者もいた。だが、往々にして短期間で回復している。慶興のように長い間苦しんで、ここから黄疸が消えたという者を長慶は知らない。まして、慶興の黄疸は濃く、広くなってきている。

「治るか」

「苦痛を和らげ、心身を安んじる薬を煎じます……が、最後は慶興様の生命力次第です」

 

再び慶興の寝室に戻る。

慶興は目を覚ましていた。

「どうも、もういけないようです」

いつものように息子の痩せた手を握り、微笑みかけた。

「日頃賑やかな子どもほど、少し寝込んだだけで弱気になる。大げさに思うな」

「少し寝込んだだけで家臣が勢揃いしますかね」

寝室に入る者は限ってあるが、城中の騒がしさは隠しようもない。政務の報告に訪れる長逸や久秀の表情だけで察することもあるだろうし、慶興を元気づけようと鳴り物や喊声を上げる兵も多かった。

「いい気になっていました。ここで俺がどうかなってしまったら全部台無しだ、詫びても詫び足りない」

慶興の唇が震える。案じているというより、どうしようもなく口惜しいのだろう。

「なに、たいしたことではない」

「家も天下も崩れちまいます」

「どちらも前例のあること、人は耐えられる」

「……はは。そんな風にあっさりされると、それはそれで」

「ふふ、頑是ない奴だ」

額に手を当てた。高熱というほどではないが、やや高い。徐々に、徐々にと熱も上がってきている。

「生きようともがくか、思い残しを済ませるか、それが問題です」

「思い残したことがあるのか」

「父上はご存じでしょう」

「……そうか、こんな時までお前は」

「頼みましたよ」

視線だけで返事をし、もう一度掌を取った。

やがて呼吸を乱し、少しの汗を浮かべながら慶興が眠りに落ちる。

赤子の頃は目を閉じれば安心したものだが、青年となった息子を寝かしつける間は胸のざわつくものがあった。寝顔も……あまねの胸で安らいでいた頃とは大きく異なる。

「……」

もっと抱いてやれば、遊んでやればよかったか。

そんな気の迷いが浮かんだ。いや、果たして気の迷いか、私も消耗している?

 

「く、熊さんは」

表では池田勝正がずっと警護を務めている。池田家でも当主の長正が危篤で、彼は家督を継ぐべき立場の者、こんなところにいれば池田家中の信望を失ってしまうだろうに。

「変わりない」

「そう……ですか」

「いつも慶興によくしてくれて、感謝する」

「そ、そんな」

親には恵まれなかったが、友には恵まれていた。父として、それは救いであった。

 

馬を用意し大手口まで下りていくと、家臣たちが細川藤孝を囲んでいるのが見えた。

「帰れ!」

仁王のように長逸が立ち塞がっている。面会謝絶の状況、まして公方の犬など一歩も通さぬと言わんばかりの怒気。藤孝も動じない男ではあるが、対話すら受け容れようとしない剣幕の長逸や久秀たちには難儀せざるを得まい。

「上様からの見舞いさえお受け取りいただければ」

「要らぬ! 帰れ!」

「首い洗って待っとけ言うとけや!」

「そうだ! 公方は帰れ!」

「命があるうちに帰れ!」

放っておけば藤孝が膾にされかねない不穏さだった。公方がどうより、家臣たちの器量の底を見たような思いがする。

「よさぬか」

「こ、これは殿!」

長慶が割って入ると、さすがに家臣たちは膝を屈して静まり返った。

「相論の裁許では現地の実査、数と証の点検を旨としているものを……」

「さ、されど殿、今度ばかりは!」

「疑念、思い込みで人が人を成敗する世になったら如何する。思い起こせ、矜持を、使命を」

「せやけど! こいつらそんな殿と若殿の善意につけ込んで!」

「……長逸と久秀の言う通りです。火種を消し去ることも政の役目でしょう」

前に出てきたのは冬康だった。この気迫、貫目……之虎と一存を失ったこの弟は。

「藤孝殿、ついて来なさい」

いまは、兄弟喧嘩をしている場合ではない。

「慶兄、いずこへ」

「京。新兵衛、供をせよ」

「長慶殿」

「藤孝殿、見舞いは押し付けるものではない。ま、道々話そう」

「慶兄!」

「しばし頼むぞ。歌書でも開いて頭を冷ましておけ」

皆の思い、憤りは分かる。慶興がどれだけ大切に思われていたかもよく分かる。

そう、慟哭と捨鉢はいつだって清らかな思いから始まるのだ。

 

西国街道を長慶と藤孝が並んで馬を進め、少し離れて新兵衛たち供回りがついてくる。

道々、民の表情には一様に不安が見て取れた。慶興が倒れたことは知れ渡っているし、このことが何を意味するのかも察しているのだ。

(だが……それ以上なのだ。これから始まることは……お前たちが考えている以上の……)

愛しき民草、慈しむべき無辜の暮らし。

(すまぬ……あるべき未来の形に向けて。耐えてくれ、泣いてくれ……)

頬の稜線に沿って涙が筋を描く。

「長慶殿……?」

「身を隠した方がよいな、藤孝殿」

「此度の件、上様は何も」

「や、よいのだ。もう、言わぬがよい」

「しかし」

「慶興の黄疸、このまま天下を蝕んでいく。誰も彼もが病に頭をやられ、訳の分からぬ振舞いをするようになる。冷静に事態を見つめることのできる者、後世に自省を伝えられる者が……足りぬようになる」

「何を……」

「……“こうなるだろう”“こうなるかもしれない”。政とは推量の繰り返し、とどのつまりは運否天賦の連なりに過ぎぬ。なれど推量とて、四六時中の推量、呼吸に等しき推量へと昇華さすれば……夢の行方。熟慮、確信と言えるものに至る。藤孝殿ならば……私以上にやってのけるであろうよ」

「……」

「そのためにはまず、命を粗末にせぬことだ。生き残れ、生に執着せよ」

「このままでは上様があまりに!」

藤孝が気色ばむ。思ったとおり、澄ましているがいい奴だ。だからこそ、これから彼が必要になるのだ。

「……承った。できるだけのことはさせてもらおう。私を信じて……逃げろ、藤孝」

「もう……見て、学ぶこともできないのですね……」

「思い出せ、噛み砕け、血肉に変えてみせろ。お主はまだ、歴史に立ってすらいない」

馬を寄せて、愛用していた扇子を藤孝の帯にねじ込んだ。藤孝の眼からも雫が落ちた。

 

  *

 

目を開けるのに力が必要になっていた。

起きたことを自覚する前に沈むような全身の重み、節々の痛み、捻られるような臓腑の苦しみがあった。その間、目を開けようとは思わない。歯を食いしばって呻き声を我慢し、幾分の鎮静をひたすら待つ。いま目覚めたように振舞うのはそれからだった。

掌に温もりを感じる。長慶が帰ってきたのか。父と触れ合うことがこんなに心強いものかと、病に臥せて初めて知った。――違う。両の手に感触、もう一人いる。誰の指かは閃光よりも速く理解できた。

目を開くのを急ぐ。同時に鼻も動いたか、親愛の香りが胸の奥へ沁みていく。

「……」

父上、母上。

「おはよう、慶興殿」

「よく眠っていた」

いた。左右に、慶興を中心に、ふた親が揃っている。

「……」

「こやつ、寝ぼけておるか」

「くすくす。そうかもしれませんね」

思い残すことは失せた。

「ずっと……ずっと……」

「……」

「慶興殿……」

「いつか……目が覚めたら、隣に父上も母上もいて。この前食べた料理がうまかったとか、天気がよいから須磨の海にでも行こうかとか」

西宮、越水城の日々。三好家はいまより遥かに小所帯だったが、互いの体温、匂い、足音まで分かりあっていた。

「あの頃はこんな未来、想像もしていなかったよなあ。天下を獲るとか言ったって、でっかい魚を釣るくらいにしか思っていなかったもんなあ」

親の瞳が一緒になって潤んでいる。悔恨だって孕んでいる、仕方のない大人たちだ。

「何か、望みはあるか」

「……腹が減ったよ。母上、雑炊をこしらえてくれねえかな」

「よいとも」

「父上。待っている間、一局指そうぜ」

「加減はせぬぞ」

「へへ。いつまでも子どもだと思うなよ……」

 

中将棋は互角だった。一進一退の攻防が続き、どちらも容易に相手を流れに乗せさせない。

強い駒を使うのは慶興の方が得意だったが、細かく歩兵を使うのは長慶の方が巧みである。局地戦を制するのは慶興の方が多かったが、全体で見れば不思議と差はついていない。

(もっともっと甘えておけばよかったな……)

色々と教えてくれる父親ではあった。それなのに、自分から教えを請いにいったことが何度あっただろう。

「できましたよ――。あら、いい勝負」

「後であまねもやるか」

「嫌ですよ……勝てないから」

あまねが長慶と笑いながら話している。

土鍋を下ろし、茸雑炊を鉢に用意してくれた。その上、あまねは匙で食べさせようとまでしてくれる。

「あちっ、熱いや。母上、ふうふうしてくれよ」

「まあ、いつまでも子どものままじゃない」

「いいじゃねえか、子どもが寝込んだら優しくしてくれるもんだろう」

慶興の希望通りにして、程よい熱さになった雑炊が口に運ばれてきた。米の甘味、茸の豊潤な出汁。忘れようもない、山の味、あまねの味だった。温かい。腹が、心が、思い出が……。

「ありがとう、雑炊はもういいや」

「これだけで……?」

「なあ、父上と母上が手を繋いでいるところ、見せてくれよ」

「……」

驚いたあまねが長慶の方を向き、長慶はゆっくりと頷きを返した。そうして、慶興の脚の上辺りで二人が手を取りあう。

「……慶興、これでよいか」

「エーイ。はは、はははは……。幸せだな、俺は……幸せ者だ」

「それに、親孝行だ」

「そうだろ、自慢……してくれて、いいぜ……」

「ね、もういいでしょ。慶興殿……慶興殿?」

長慶の手を解いて、あまねがこちらに寄ってくる。

目を開けるのに疲れてきていた。

「慶興殿……! 目を開けなさい、こら、千熊! 起きて、お願い! 千熊……千熊!」

肩を抱かれているのがかろうじて分かった。

温かい水が降っているのも……。さらばです、父上、母上。お先に……。

 

  *

 

胸を張って報告する晴員と晴舎を即座に称えたのは藤英だけである。

「愚かな、なんと愚かなことを……。父上、自分が何をしたか分かっているのですか」

「藤孝!」

苦言を呈した藤孝をすかさず藤英が睨みつけた。しかし、藤孝は収まらない。

「ああ、我が父ながら。情けなや、恥ずかしや……。培った知恵は誰がため、磨き上げた忠義は何のため。風上に向けて砂を撒く錯乱、狩野が手掛けた障子絵を火種に用いる愚鈍が如き振る舞い、もはや治す見込みもあるまじきかな……。ならば上様、私に暇をお与えくだされ! この上は大和興福寺、覚慶様を頼って御身を安んずる御避難所を設けてみせまする。疾く疾く、京からお立ち退きを」

「大概にせい! 父上の申したことに何の障りがある。京を、天下を再び公方のもとへ、その道筋をしっかとつけてくださったのではないか! あはは、めでたや! 恍惚たれ長慶、これで三好は自壊まっしぐら!」

「よせ、二人とも……もうよせ」

義輝が制した。表情が消し飛んでいる、それほどに感激したのであろうか。

「晴員……晴舎……大義であった。余を思って動いてくれたこと、礼を言おう。……孤独であったろうな」

「う、上様……」

報われた! 即座に晴舎と顔を合わせ、人目も憚らず肩を寄せて男泣き。成し遂げたのだ!

「水は零れ落ちた。拭いても集めてもどうにもならぬ。新たな水を汲むべき時、自らを水と成す時である」

「……!」

一礼し、藤孝が去っていく。曲がり者が、義晴公の種でなければとっくに成敗しておるわ。

「再度問おう。三好慶興、確かに果てたのだな」

「長慶の嘆き、家来衆の叫びが山崎まで木霊しておりまする」

 

続く

 

 

四十七 遺言の段  ――三好長慶 権勢頂点に達し、芥川孫十郎 再び放浪す――

四十七 遺言の段

 

紀伊国、玉置氏の治める手取城(和歌山県日高郡)。ここまで逃げ延びてきたのは高政と宗房の他、僅かな近習だけである。湯川直光も往来右京も死んだ。追撃は激しく、更に大勢が死んだ。

完敗だった。三好家の要、長逸に攻撃を集中するも突破することができず。その間に松永久秀による宗房離反との虚報に踊らされ、まずは北側の戦線が崩れた。ならばと南側に全軍を集中させたところで、安宅冬康の仕掛けた陥穽に嵌まった。冬康の采配と武勇は之虎と一存を掛け合わせたかのようで、思い返したくないほどの恐怖を刻み込まれた。

そして、そのすべてを統率していたのが長慶の後継者、慶興だった。教興寺での前線指揮だけでなく、京で六角義賢がきりきり舞いする羽目になったのも慶興の仕業だという。畠山の総撤退を受け、惨めな義賢はあっさりと京を捨て、三好と和睦してしまった。

振り返ってみれば、宗房と晴員の口車に乗って“つまらん”男と組んでしまったのかもしれない。

「は。それとも、俺には“お似合い”の相手だったのかもなあ」

「……何か」

遊佐信教が高政の機嫌を伺う。宗房の威信が衰えた結果、目立つようになってきたのが遊佐長教の息子だった。

「“神”も“仏”もいやしねえ」

「お気を落とさぬよう。殿はあの三好家に正面から挑んでみせたのです」

「これで、三好の総兵力は“七万”にも“八万”にもなっちまう」

「我らも態勢の回復に努めることでしょう」

「宗房はいまこそ岸和田を奇襲すべきだって騒いでいやがる」

「よしましょう。己の信望のなさが敗因になったからと、挽回に焦っているだけです」

「まあ、そうだな」

飯盛山城を囲んでいた頃、あの男は“これは畠山だけの力ではない”“長政様が撒いた反権力の種子が芽吹いたのだ”と吹聴していたそうです。だからこそ、松永の流言に兵が揺れた」

「ははは。それが本当なら、負けたのは俺じゃなくて“木沢長政の亡霊”ってえことだな」

敗残兵の群れになっても家臣同士で権力争いをやっている。これが俺の、畠山の器量なのか。

「……殿?」

「“救えねえ”……」

 

  *

 

畿内が三好家と六角・畠山連合軍の大戦で騒いでいる頃、あまねは若狭と丹波を旅していた。

無論、兄を弔い、波多野一族の生き残りに詫びるためである。晴通の遺児、すなわち甥は三好家に従属していたが、一族の幾らかはいまも長慶打倒を期して暗躍している節があった。あまねに対する姿勢も様々で、なじる者、冷たく追い返す者、同情する者などに分かれた。

かつての丹波の盟主がこうも分裂してしまったのは、あまねにも咎があった。本家の娘が行方を晦まして、晴通はさぞかし面目を失ったことだろう。武家に生まれた女、政の道具として人の手本になるべきところ、長慶と別れてからの自分は気ままに好き放題に暮らしてきてしまった。

そのことに後悔はないけれど……。人の道から外れた自分が、世間並に墓参りや謝罪行脚などを企むべきではなかったのかもしれない。いたずらに良識ある暮らしをしている人たちを刺激するべきでは……。

いつしか重たいものが肚の中で鎮座していた。妊娠とも秘結とも違う、生に哀しみと諦めをもたらすもの。その代わりに、一人で生きていく決意と強さを支えてくれるもの。

 

長慶が絶体絶命という風評は聞いていた。また、之虎が討死したという悲報にも接していた。

しかし、京に戻った頃には戦は終わっていて、都の人々は口々に慶興を褒め称えていた。伝え聞く限り、今回の戦では慶興がおおいに活躍したということだった。また、六角が動かなかった理由も、長慶と慶興の善政に恩義を感じていた京の人々による影の働きが大きかったのだそうだ。

「まさかあの劣勢から逆転なさるとは」

「三好家が本気を出せばこんなものだよ。長慶様を救うために六万もの兵が集まったというじゃないか」

「慶興様もお父上譲りのご英才。これで、三好様の権勢はますます盛んになるなあ」

「次は近江か若狭か、はたまた紀伊、伊賀、それに越前……」

「結構なことじゃないか。三好様が治めてくだされば狼藉は減って商いは盛んになって。万々歳だよ」

道行く商人たちの放談。

「ああ、でも、之虎様のお姿をもう見られないのは悲しい……」

「分かる! 久秀様なんかも格好いいけど、ちょっと違うのよねえ」

「ちょっと齢がね……。そうそう、松山重治様って知ってる? 戦がご上手なだけじゃなくて、すごく品のよい色男らしいの! いま堺で大人気なんだって」

「ねえ! 今度皆で堺に行きましょうよ。南宗寺に参ったり、渡来物の布地や香料を見せてもらったり」

「賛成!」

こちらでは手習帰りらしい良家の娘たちが騒いでいて、お付きの護衛を困らせている。

この光景は太平そのものだった。

 

そうして、東山の山荘に帰ってきてみると。

荷解きも終わらぬうちにやって来たのは慶興だった。ここに現れるのは初めてのことである。

「……慶興殿」

「約束通り、俺は父上に並んだ!」

「……」

そうか、これまで姿を見せなかったのも、戦が終わって早々に顔を見せたのも。

また、やってしまった。子どもを縛るような、なんて業の深い……。

「なあ、お耳には入っているんでしょう」

「ええ。立派に……なりましたね」

実際、駿府で会った頃に比べれば乱暴な角が取れ、精気、頼もしさに溢れた青年になっている。

男の子というものは短期間でこのようにもあのようにも、いや、こうなるには……どれほどの。

「じゃあ! 昔のように三人で暮らせますね!」

「……」

「は、母上!」

「……世界中が三好慶興を待っています。もう、あたしのことなど」

「それじゃあ約束が違う」

得意満面だった慶興の顔が歪んでいく。

「耳を澄まして……心で感じてごらんなさい。さっき、慶興殿は嘘をつきました」

「どういうことです!」

「世間はあの人に並んだと言うかもしれません。でも……慶興殿はどう思うのです。心底、あの人に並んだ、超えたと思っているのですか」

「……!」

「だいたい、いきなり現れたかと思えば自分の感情ばかりをぶつけてくるなんて……。お前、好いたおなごにもこんな調子なの?」

「そ、そんなことはどうでもいい! 約束を破るのですか! 嘘つきは駄目だって、教えてくれたのは母上ではありませんか!」

「そう、だからお前は嘘をついたと言っているでしょう」

慶興の身体が震え始めた。分かっている、その気持ちは伝わっているんだ。

「政治だって……戦だって……嫌なことも怖いことも耐えて、いつも皆の先を見据えて……」

「三人で暮らすことはできません」

「俺は」

「慶興殿、向こうをご覧」

以前のようにあまねを無理やり拉致するようなことは口にしない。贔屓目かもしれないが、それが息子の成長の証のように思えた。

「な、何を」

「いいから」

戸惑う慶興の肩に手をやり、強引に庭の方へ身体を向けさせる。それから、肩を揉んだ。肩は完全に大人の男のそれである。慶興は言葉を失っている。揉み続けて手が疲れてくると、今度は肩を引いた。

慶興、母の膝を枕に横たわる。

「……」

「京にはよく来るのでしょう。お前だけなら……月に一度くらいなら……」

言いながら、涙をひと雫落としてしまった。慶興の髪に。気づかれただろうか。

「月に二度」

「そう……そうね」

「諦めない。いつか、必ず三人で」

「大人はね、十年かけて決心したことなら、考え直すにも十年かかるものなのよ」

「言い訳ばかり上手くなるから大人は嫌いなんだ。決心なんて山椒かけて噛み砕いたらいいだろ」

「自分にできることを……当たり前のように人に求めないで。慶興殿ももう、大人なんだから」

「……ふん」

ふて寝する慶興。あたしの膝の上……横顔……耳たぶ……うなじ……なんて雄々しい……。

「立派になりましたね」

もう一度呟いていた。

 

  *

 

畠山方についた大和の国人衆をあらかた掃討し終わり、長慶は久秀の招待を受けて多聞山城に立ち寄っていた。

大評判になっているだけあって多聞山城はたいした威容だったが、長慶にとっては天守から望む奈良の町並、古社や三笠山奈良県奈良市)の方が内面に染み入るものがあった。

「よいな、奈良は。四方の山々、芝生とも京とも違う。落ち着いた緑……成熟と、懐深さを感じる」

「へ! 仰る通り、違いの分かる風流人ほど大和を愛でるもんだす。そこで殿に召し上がってもらいたいんがこれ!」

「ほう……」

久秀が用意してきたのは木皿に乗せられた菓子だった。見慣れぬ四角形のその菓子、淡茶色の薄い皮二枚で漉し餡を挟んでいる。

「大和の美味で最上なんは何と言ってもこの“三諸山”ですわ。某所で門外不出の秘伝菓子、ほんまは絶対に手に入らんとこ、無理言うてこしらえてもらいましてん」

飯盛山城の籠城以来、長慶は戦い続けていた。周囲が止めるのも聞かずに戦場に立ち続けたのだ。久秀は長慶の体調を懸念していて、だからこそ身体を癒す甘味を味あわせたいのだろう。

ひと口齧った。皮、柔らかい。さくりとしながら微かな粘りを残し、上質な餡を守護するように包み込む。これは確かに三諸山(奈良県桜井市)、大和の国土を慈しむ古よりのご神体。

「この皮……これは、餅か」

「おお、よう分かりまんな。これ、つくるんごっつう難いんやて」

「そうであろうな……おい、もう一個、いや、二個くれぬか」

「へい喜んで!」

嬉しそうに久秀が動く。ああ、この菓子、茶によく合う。久秀の茶、腕を上げている。

反三好で起った民衆との戦いが自分の余命を更に縮めた。医師に診られずとも察しはつく、おそらくは持って三年というところ。その後のことは慶興にでも任せるしかない。

長く続いたこの乱世、慶興の代で果たして終わるのだろうか。それとも志半ばで慶興も斃れ、もう一度、もう一度と政体を試しては繰り返すことになるのだろうか。

教興寺の勝利、六万を擁する三好家。やがて蔓延する驕り、傲慢、そして訪れる内部不和。易々と三好が日ノ本を覆うことなどあるまい。そんな都合のよい現実はない。ならば、慶興を待ち受けるは破滅の歩みだけなのか。あるいはあの驚くべき異能ならば?

「仮初めの今生なれど」

「え? なんでっか?」

「……三諸山おいしい」

「お、おおきに!」

久秀は嬉しそうに二十個ほどもおかわりを持ってきた。

 

  *

 

摂津の普門寺に幽閉されている六郎の容態、いよいよ悪いという。

干し柿が食べたい、柿を持ってこい”という文を受け取り、宗渭は見舞いに赴いた。幽閉といっても邸宅や調度品はなかなかのもので、若狭や丹波を彷徨っていた頃よりは格段によい暮らしをしている。

「なんじゃこれは! わしが柿というたら田原郷(京都府綴喜郡)の古老柿に決まっておろうが!」

「……いまの時期になかなか手に入るものでは」

「黙れ! 使えぬ奴、すっかり三好家に染まりおって……」

六郎の顔は青ざめ、部屋には血の匂いが残っている。激昂すると吐血するのは治っていないのだろう。せっかく難儀して手に入れた干し柿も甲斐がなかったが、六郎はもとより宗渭に会って毒づきたかっただけなのかもしれない。

「宗渭殿、申し訳ありませぬ……」

六郎の息子、昭元が詫びてくる。親子ともども幽閉されているのは残酷とみるか、温情とみるか。

「や、俺が悪いのです。六郎様のお憤りはごもっとも」

興奮させないことが何よりの養生のはず。六角家が京から撤退し、この境遇から救出される目途もない。ならば、日々の不満や愚痴をこまめに聞いてさしあげるしかない。

そのまま宗渭は普門寺に一泊し、ひたすら六郎の繰り言を浴び続けた。叱咤、以前ほどの勢いはなく。旧主の生命は確かに弱っていた。

 

帰途、慶興と久秀が無事に伊勢貞孝討伐を終えたと知らせを受けた。義晴公の頃から独自の行動を続けてきた男、最後は六角義賢に寝返り、そして見捨てられた。

奉公衆や公家などは武力を有さなくても世論に訴える力だけはある。長慶は“容疑”だけで奉公衆を討つことはしないが、“確かな証”があれば誰が相手でも容赦をしない。もともと主君だろうが征夷大将軍だろうが平気で対峙できる肚は持っているのだ。貞孝を討ったことは三淵晴員や進士晴舎などへの警告も兼ねているに違いなかった。

宗渭にしてみれば、足利義輝が気の毒に思えてならない。義輝の生涯は生まれた時から詰んでいる。六郎の場合、宗渭も元成も晴通も、皆で真っ直ぐに力を合わせていた実感があった。それは細川家内衆組織が長慶に破壊し尽くされ、小勢力に成り下がっていたからでもあるが……。奉公衆の場合は千々に分断されていて、それなのに義輝はそのすべてを大切に扱おうとしている。器量はあるのだ。いまでは慶興たちのことも粗末にせず、現実をある程度許容しながら、公方の存在感も可能な限り残そうと努めている。だが、晴員や晴舎など、それを潔しとしない強硬派も多かった。やろうという気概はあっても充分に配下を纏め上げられているとは言い難い、現場の労苦や下々の鬱憤を知らぬ上様。貴種生まれの限界を見るような思いがする。

長慶はこうなることが分かって義輝と和睦し、こうなるように奉公衆の組織を崩さずにおいたのだろうか。足利義輝、名の通り“義”も“輝き”も充分にありながら、長慶のいる時代に生まれたことが不運であった。

 

「兄上! 大変です、母上が!」

京の屋敷に戻ってみると、弟の為三たちが慌てているところだった。

「母上が如何した」

「いつの間にか姿が消えて」

「……またか。町中にはおるまい、近辺の花が咲くところを手分けして捜すのだ」

再び母と弟と暮らすようになっていた。父の戦死以来、母の精神は悪化する一方で、少し目を離せば花かごを手にいなくなってしまう。大人の迷子は周囲も気づかない、気づいても関わりあいになろうとしない。季節は晩秋、早く見つけて保護をせねば命にもかかわる。

 

母の行方が分かったのは翌日で、知らせてきたのはなんと慶興だった。

東山裏手の山荘に住まう尼御前が保護してくれているのだという。

「か、かたじけないことです」

「なに、たまたまさ。新しいことを覚えられないだけで、昔のことははっきり話しておいでだったぞ」

「母に会われたのですか」

「ああ。さ、早く迎えに行ってやりなよ」

宗渭を見る慶興の瞳には何がしかの共感が宿っていたが、仔細を問うことはせずに東山へ向かった。

 

驚いたことに、母を保護してくれた尼は慶興の母なのだという。

東山で迷子になっていた母に声をかけ、話しているうちに素性を知った。慶興に成り行きを知らせつつ、母から宗三の話を一晩中聞かせてもらったのだと。

「出会いと別れ……同じですね、おなごの一生は」

人の因果は無数の縦糸横糸、織り上がった緞子はこんなに哀しい世間模様。あまねという名の美しい女性はそう言ってから、

「あなたの孝行譚、素敵だと思います」

宗渭を褒めてくれた。

思わず頬が熱くなって、そのせいか、慶興へ強い好感を抱いた。

 

  *

 

「あああ……元就め、元春め、なんてことをしてくれたのだ。常光! 銀蛇よ、我が友よ……」

毛利軍の陣中に招かれた常光が、首だけになって帰ってきた。常光の寝返りによって尼子方の国人はこぞって毛利に呼応したというのに。常光の説得で石見銀山は滞りなく毛利の支配下に入ったというのに。

将軍義輝の斡旋により尼子と毛利の間では雲芸和議が成立していた。それなのに、毛利家は態勢を整え終わると当然のように尼子領を侵略し始めた。都では面子を潰された公方が激怒しているらしいが、元就や隆元、山陰方面を指揮する元春には何の躊躇も見られない。噂では、毛利はあの長慶と密約を交わしていて、公方のことなどもともと歯牙にもかけていないのだという。

常光の横死後、孫十郎のもとには毛利からの弁明と懐柔、尼子からの勧誘が相次いだ。

「殺すために誘ったのか。これが毛利のやり方……いや、これこそが当世の習い、武士の生きる術……」

あらゆる招聘を断った孫十郎は悄然としたまま石見を去った。もう、尼子の旗も毛利の旗も見たくない。

「わしはつくづく……この世が、戦国の時代が厭になった。厭だ、もう厭だ……」

帰りたいと心底から願った。だが、どこに帰ればよいのか分からなかった。

 

  *

 

ある日、芥川山城を長慶が訪ねてきた。

教興寺の戦が終わってから急に老け込んでしまったが、常人と異なる風雅な圧力は充分に健在である。かつての城主、天下の第一人者の帰還に城兵や出入りの領民たちには緊張感が漂う。長慶本人は手を振ったりして寛いだ様子だが、長慶を長慶のままで受け入れられる者はいまや少ない。

たまには息子とゆるり語りあいたいという長慶。冬の初め、日は短い。酒肴などを用意しているうち星が瞬き始めた。

「どうでしょう。星空を肴に」

「よいな、そうしよう」

城の最高所である御殿横の櫓へ誘った。吹きさらしのこの場所、星を眺めるには格好の場所である。

「とはいえ、この寒さは堪えるでしょう」

「なに、慣れている」

「これを羽織ってくだされ」

慶興が差し出したのは羆の毛皮である。出羽の実力者、安東愛季との交易で入手したもので、元は蝦夷の蠣崎氏が献上してきたものだという。長慶はやせ我慢することもなく、素直に勧めに従った。

「うむ、これは温かい」

「おかしいな、熊の皮を纏えば厳めしくなるものですが……父上の場合、何やら愛くるしいような」

「……がおお!」

「はっははは! 笑わせないでくだされ」

「着せたのはお前であろうが」

熊の格好をした長慶を見て、たまたま温めた酒を運びに登ってきた家臣が驚いた顔で去っていった。

「お身体、母上が気にかけておいででしたよ」

「あまねと会っているらしいな」

「子どもですから」

「私に遠慮することはない。甘えられるうちに甘えておけ」

「……俺は、父上と母上が一緒にいてほしいんですがね」

「ふふ。天下執権などと呼ばれてもできぬことはある。や、できぬことだらけだ」

「母上は俺が強引なことを言うと怒ります。が、父上になら強引にされたいんだと思います」

「愚かなことを」

「本当ですよ! 理屈も言い訳もできないくらいの、三好長慶の“力尽く”を待ってるんですよきっと」

女とは、とは言わない。だが、あまねとはそういう女なのだと思う。

「それよりお前はどうなのだ。孫ができればあまねとて」

「孫なんかできたら夫のことを忘れちまいますよ」

「はぐらかすな。もう二十一だろう、このままだとどこぞの公卿なり上様なりの縁者を貰うことになるぞ」

「嫌ですよ、そんなお歯黒臭え女」

「ならどういうおなごが好みなのだ」

厭な父親だ。こんなことを聞かれて喜ぶ息子がおるものか。

「“夫婦”ってのが信用ならないんです」

意地悪を返した。これは、長慶を傷つけたようだ。失敗したと思った。

「すまぬ」

「……いまのは言葉の綾です。や、龍吉のような女が現れれば考えないでもないんですがね」

「むむ。おらぬな……そんな者は」

「だいたい父上は人に語るほどおなごに詳しくないでしょうが」

「……之虎が生きていればなあ」

「いやいやいや、偲ぶならもう少し他のところで偲んでくださいよ。戦とか、政とか」

「そんな野暮を言う奴じゃないさ」

ここで一息ついた。杯を空け、互いに注ぎあう。

「そう言えば。飛騨の三木良頼が姉小路を名乗り、従三位に昇ったでしょう。あれで長逸や久秀が不満を申しております。父上や俺ですら従四位なのに、飛騨の一国人がと」

「お前もそう思うか」

「思いませぬ」

「ふむ、長逸や久秀すら惑わされる。げに官位官職とは恐ろしいものよ」

「あの二人も頑ななところ、負けを認められぬところが出てまいりました」

「公卿などに上がれば一層朝廷に取り込まれてしまう。官位を奪われた公家どもの要らぬ恨みも買う。よいことなどひとつもないのにな」

「まったくです。父上、俺、長逸、久秀、上様、氏綱殿に六郎殿。皆で仲良く従四位、その程度でいい」

高い官位をありがたがること、それ自体が公家の権威向上に繋がる。京から少し離れた摂津・河内に本拠を置く三好家としては、官位とは義輝や六郎と互角に渡り合うための方便でしかなかった。

近衛前久殿も空しく帰ってきたようだな」

「現実の政を思い知ったのでしょう。帰洛後は妙に馴れ馴れしゅうござる」

「上杉に比べれば余程我々の方が話し易いことだろうよ」

長尾景虎改め上杉景虎改め上杉政虎改め上杉輝虎は、前久の威光も利用しながら一時は関東を席巻した。北条家を追い詰め、関東管領職を襲名し、甲斐の武田晴信とも川中島で激しく戦いあった。前久は輝虎を尖兵に日本全土を鎮撫しようとでも思っていたに違いない。だが、敗者を支持基盤に置く輝虎には、助けを求める者の声を絶対に無視できないという弱みがある。政治家らしい判断などはしようとしないしできるはずもなかった。結果、せっかく手にいれた拠点を維持することもできず、いまは北条と武田の逆襲に悩まされている。

「父上は……これからどうなさるおつもりで」

「どう、とは」

「重荷を分け合うと約束したでしょう。いまや我らに刃向う者などいない、ならば次はということです」

「……畿内だけでなく。日本全土を治めてこそ真の天下人だと言ったな」

「言いました」

「私もそう思う。今後……六角を併呑し、浅井、朝倉に服従か戦かを迫り。志摩、美濃、尾張辺りまで支配下に入れれば……併せて、畿内と家中をよく治めることができておれば……」

「五、六年でできそうなことにも聞こえます」

「そこからは早い。自ら従おうという者も増えてくる。思い切って毛利を倒すか、上杉、または武田・北条と相対する頃には……日ノ本一統も見えてくる。民もそれを望むようになるだろう。だが、私は……」

「他にやりたいことがありそうですね」

「そうなってくると、難しいのは戦ではない。新たな“御恩”と“奉公”の構築だな、やりたかったことは」

「……初めて伺う話です」

「慶興。与四郎といねに商いの帳簿を見せよ、年に利益の二割を納めよと言えばどうなる」

「そりゃあ……さすがに激怒するでしょう」

本願寺比叡山根来寺に寺領の田畑をすべて検地させよ、年に収穫の三割を納めよ」

一揆が相次ぐでしょうね」

「それよ。単に“見せろ”“納めよ”では道理が合わぬ。大事なのは公儀が代わりに何を“与える”かだ」

「なるほど。いっそポルトガルでも攻めてきてくれれば」

「理解が早いな。そう、海外からの侵略などが手っ取り早い……が、しばらくはそれも期待できなさそうだ。交易がようやく始まったばかり、摩擦、交渉、開戦……と進むには数十年、下手をすれば数百年かかる」

「外敵頼りっていうのも気に入りません」

「なればこそ。大規模な、超長期の投資……例えば大和川の付け替え。あるいは施薬施米の進んだ形、日ノ本全土を覆う無尽……寡婦、遺児、病人や老人の暮らしを保障し、互いの長寿を慶ぶような」

「……構想はよいと思いますが、その政策は賛成できません。一年後、五年後の政変も予測できぬいま、十年、二十年に及ぶような約束は人の分際を超えておりましょう」

「なんの、人の英知に限りはない。それに政務が一層難しくなれば、かえって政権は安定するだろうよ」

「やり過ぎれば年寄りが増える、居座る。俺は二十一、父上が天下を獲ったのも二十代。若造でも充分治められるんですよ天下は。諍いを招いて税収を増やして、それでやるのが年寄り増産てのはね」

「されど、老後の安心があればこそ人は長期の視点でものを考えることができよう。明日、明後日ばかりを考えていてはそれこそ海を越えた戦に勝つことなど能うまい。必要なのだ、五十年先を考える習慣が」

長慶と言い争いになるのは珍しい。意見は合わないが、父の胸を借りているようで嬉しかった。

「大人は、特に年寄りは子どもの邪魔ばかりする。三淵晴員、進士晴舎がまさにそう、上様が哀れだ」

「あの二人も義晴公の頃は優れた奉行だったのだ。いまは上様でなく、自ら生んだ怨念に従っているがな」

「現実と未来から目を逸らして過去ばかりをありがたがる、これこそが老醜の真骨頂でしょう」

「そう。老も醜も人の本質、向き合わねば人の世を治めることなどできぬ」

「なれど」

「長逸や久秀がそうならぬと言い切れるか」

「……」

思い当たる節はある。長慶がいなくれば、あの二人も糸の切れたイカになってしまうかもしれない。

「どれだけ優れた者も、いずれは老いるのだ。老いもひとつの未来、受け容れ、慈しまねばな」

「……遺される者たちについて、聞いておくべきことはありますか」

「長逸と久秀は陰と陽、本性は近しい。大抵のことは任せられるが、目的地だけは示してやらねばならぬ。時々話を聞いてやれ、二人が争えば長頼に仲裁させよ」

「他には」

「長房は家中随一の切れ者なれど脇が甘い、一人にはせぬことだ。孤独を感じたら康長殿と話すがよい。真に困った時は冬康を頼れ。それでも迷いが晴れぬなら、祈ることだ。己のためではなく、時代のためにな」

星明り、長慶の顔にもはっきりと老いが表れてきている。

「……長い長い道のり、お疲れ様でございました」

「ふ……。若い頃は、家格の差というものが嫌で仕方なかった。理不尽しか生まぬ旧弊だと」

「……」

「だが、帝に拝謁し、お前も大きくなるにつれて……考えを改めたな。大事なのは変化、流動、川の如くに世の停滞を押し流すことなのだと。お前の上様や六郎殿への接し方を見ていると、世は変わったと思う」

「父上が変えたのですよ」

「……そうかな」

「そうですよ」

 

他愛無い会話を続けるうち、酔いのまわった長慶が眠ってしまった。

安らかな寝息。初めて父の寝顔を見たような気がした。

 

続く

 

 

四十六 涅槃寂静の段  ――篠原長房 四国衆を糾合し、三好慶興 教興寺の決戦に向かう――

四十六 涅槃寂静の段

 

与四郎から贈られた沙羅はしっかりと根付いてくれていた。

長慶の私室からよく見える位置に植えたのは正解だったと思う。異国の風情を感じるこの樹は、どこか心の背骨を支えてくれるような心地がするのである。飯盛山から西を眺めること、夜桜や豚の頭を撫でてやること、狸をからかって遊ぶことに加えて、この沙羅に水をやることは日々の密かな愉しみだった。政務の気晴らしとも言えるし、こうした所作こそが本来の天職のようにも思えてしまう。

「まあ……なんだな、よい天気だし、枝豆も瑞々しいし。幸せとは案外こういうことを言うのかな」

「八尾のお豆は大きくて甘くて、うふふ、つい笑ってしまうようなお味ですよねえ」

「うむ、出歩けないというのも悪いことばかりではない。仕入れに行けない茂三は大変だろうが」

「食材はたくさん貯めてあります故、工夫のしようもありますが……。しかし、よいのでしょうか。こんな時に」

「腐らせても仕方ない、どうせならおいしく食べてやった方が本望だろう」

「……よい訳ないでしょうが!」

堪えきれずに中村新兵衛が長慶を諌める。松山重治がつけてくれたこの護衛、腕は立つが堅苦しく、いかにも長逸が好みそうな武辺者なのだ。その剣幕を恐れた茂三とおたきは一目散に退散していった。

「殿、いまの状況が分かっているのですか! 敵の群れは更に増えて、もうすぐ四万にも届きそうな勢い。堅固な城とて、水や兵糧は充分にあるとて、いつまでも持ち堪えられるはずはありませぬ。皆で知恵を絞り起死回生の策を練るべきところ、呑気に庭を眺めて豆を摘まんでいるなど……こ、こんなことでは命懸けで戦ってきた者たちが浮かばれませぬ」

怒っているのかと思えば今度は泣きだしそうな始末である。厳めしさと純朴さを併せ持つところが一存にどこか似ていて、長慶は内心この侍大将を気に入っていた。

「ふふふ……若いな」

「は……?」

「敵を欺くには味方からというであろう。こうして腑抜けたふりを見せておいて、腹の底では」

「おお! そ、そうとは知らずとんだご無礼、して、どのようなお考えを」

「……色々と勘案してだな」

「はい!」

「慶興がなんとかするであろうから、信じて待つことにする」

「……え! えええ?」

「父を討ったやり口、倣うに抵抗はあったが……この際、小さな我執は捨てることにした」

「……」

何を言っているのか分からないとばかりに新兵衛は言葉を失ってしまった。

己の成してきたことが因、この戦の勝敗が果である。敵も味方も長慶が育ててきた連中なのだ。ならば、どちらにも肩入れすべきでないとすら思えてしまう。自分のやるべきことはひとつ、この城で泰然と耐え続け、因縁をこの地に集めてやることだった。

幸い飯盛山城の防備は万全で、半年程度であれば悠々と守っていられる。籠城戦の経験はほとんどなかったが、粛々とした戦の流れは存外性に合っていた。幼い頃につるぎが教えてくれた通り、要は大将の肝が太ければ結構なのである。その点、畠山方がどれだけ増えようが雨あられと矢弾を撃ち込まれようが、涼しい顔をしていられることには自信があった。敵兵の海に浮かぶ城であろうと祖谷の暗い洞窟であろうと、つまるところはどこも等しい現世なのだから。

「む、そうだ新兵衛。ひとつよいことを思いついたぞ」

「! な、なんでしょう」

「明土産に猩猩緋の羅紗を貰っていたのだ。私には似合わぬ。お主、纏ってみろ」

「え、えええ……」

「“十河額”に続く武勇の名物が要る。“槍中村”などと呼ばれたいのなら、誰が見てもそうと分からねばよ」

「いやいや、武士は弓と槍の働きこそ本分にござる。外見に凝るなどと軟弱な真似を」

「反撃に出る時までに寸法を合わせておくように」

「そ、そんな。うええ……」

 

  *

 

日没後、東山の慶興陣所。慶興の前には極秘で呼び集められた諸将が揃っている。

「叔父上と叔母上が流れを変えてくれた。銭が次の銭を呼び、戦で宙に浮いた富が流れてきている。長房はもう動いたぞ、四国衆に活が入った、仇討ち出稼ぎ祭の始まりだよ」

「……」

大量の軍資金は既にあちこちで噂になっている。若狭から退却してきた長頼たち丹波衆もまもなく出陣可能、播磨の別所からも動員の申し出が届いた。

「勝機はいまだ。六角も畠山も凡人、奴らが一手動くあいだにこっちは二手動こうぜ」

「……ほいで、どうせえと?」

久秀が代表して問うてきた。いつもの通りに皆は慶興を見ていて、慶興は家臣一同を見渡している。目と目と目と目で男たちは繋がり気勢気負いがぐるぐると廻っていく。

「京を捨てる。河内に全員集合だ」

皆の思考が停止する音が聞こえる。長逸と久秀が同時に立ち上がった。

「そんな、阿呆な!」

「若殿、何を仰る! そのようなことできるはずが」

大人は、これだから。

「ど阿呆はお前たちだこの野郎!」

外まで声が漏れるのも構わずに叫ぶ。慶興が真剣であることは嫌でも伝わる。

「ん、んな……」

「まだ分からねえのか、お前らの頭には渋柿でも詰まってんのかい! いいか、俺たちの一番大切なものは何だ、“三好長慶”より京が大事だってえのか! だったら好きなだけここに居やがれ、俺は河内に行く!」

はっとばかりに一拍息を呑んで、またもや長逸と久秀が同時に声を上げた。

「お許しくだされ、それがしが間違っておりました」

「せや! 河内や! 誰や京を守るとか言うてた奴は」

政権が大きくなるうちに、どうしても日々の仕事は総花になっていく。あらゆることを丁寧に大事にすれば、いつしか人は優先順位を忘れていく。せっかく数の目途が立ちそうな軍をわざわざ二手に分けて、じりじりと睨みあっていようが変だと思わなくなる。

大将の務めは、何を守って何を捨てるかを決めることなのだ。すべてが重要、どこの手も抜くななどと言う上役は案山子と変わらない。

「しししかし、京を捨てれば朝廷も公方も寺社も町衆も」

友通が未練たらしく食い止めようとしてくる。長逸や久秀に比べれば補足が必要な手合いだった。

「三箇月だ」

「……は?」

「人はな、見通しの立たぬことを何より厭うものだ。言ってのけろ、三箇月で畠山をぶちのめして帰ってくる。三好に少しでも仁義を感じるなら、三箇月は六角に嫌がらせをしておけとな」

「あ……」

「父上が討ち取られて、畠山が天下の頂に立ったらどうなるか。弁舌を尽くしてよくよく想像させてやれ」

長慶に万が一のことがあれば、それこそ誰も何の見通しも立たなくなってしまう。五畿内は再び動乱に満ち満ちて、朝廷行事だの確かな商いだのは成り立たず、民の嘆きを容れて宗教一揆が頻発する。世は長慶以前の時代に逆戻り、下手をすれば更に悪くなるかもしれない。

之虎が敗れたことで、長慶を失う意味が少しずつ民の潜在意識の中に拡まっていた。長慶を失うことに現実味が出てきたのだ。“三好家は増長している”程度の気持ちで、“三好家に灸をすえてやる”くらいの迂闊さで様子見を決め込んでいた国人衆も慌てて腰を上げ始めるに違いない。事実、大量の銭の匂いと相まって別所や四国衆は既に動いているではないか。

反感の反動が始まる、ここが勝負どころだった。

「よく分かりました。なれど若殿、上様だけは押さえておくべきです」

黙っていた宗渭が口を開く。久米田の戦いの後、冬康と長房は西へ、宗渭は北へ逃げ延びていた。

康長は消息不明だが、畠山家の攻囲を突き抜けて飯盛山城に入ったという噂である。

「……そうだな。よく気づいた」

「謀略は皆の目が一点に集まっている間に仕込まれるものですから」

使える男である。長逸も久秀も感心したように頷く。

友通だけは口惜しそうにじとりと宗渭を睨んでいるが、友通には友通のよさがあった。気取らず正直に、分からなければ分からないと質して、合点がいけば期待以上の実務成果を上げるのが友通なのだ。

「決まりだ。夜を徹して根回し、日が登る前には京を引き払う。長逸は朝廷、久秀は公方、友通は町衆、宗渭は諸国との連絡。寺社は数が多い、全員で手分けしよう。いいか、相手はよく選べよ。この際しょうもない羽虫を炙りだしてやれ」

「応!」

「上様の屋敷は俺が行く。はは、驚破させちまうかなあ」

「正虎は喜びまっせえ! 都を使った空城計、楠木正成の無念も晴らせるよって」

「気の利いたことを言う。そうだな、父と子で別れているもんじゃねえや」

そうして、気迫漲る面構えで長逸が拳を振り上げる。

「いざ、我らの手で殿を!」

「万分の一でも恩を返すんや!」

「乱世を終えるために」

「豊かな未来のために!」

「行こうかい! エーイ!」

「エエーイ!」

号令一下、夜の都に男たちが散っていった。

 

夜更けの義輝屋敷。慶興が訪いを入れた時、邸内では明らかに人の動く気配があった。

門番は躊躇していたが、もとより彼らに慶興を止める権限も勇気もない。先客もつい先頃来たところのようで、義輝に迎え入れられる前に鉢合せすることができた。

「ほう。これはこれは三淵晴員殿に進士晴舎殿。謹慎、隠居しているものだと思っていましたが」

先手を打って慶興が笑いかける。

老臣二人には明らかに狼狽した様子が見られた。

「慶興殿こそ……如何なされた。このような夜遅くに」

「戦時中のこと、急な知らせも生じましょう」

「我らも……上様の身がふと案じられてな。年寄りの憂慮じゃ、笑ってくれて構わぬよ」

「へえ、上様も幸せ者だ。こんなに皆に慕われて」

空疎な笑いが流れていく。晴員がとりあえず慶興の相手をし、晴舎はとっさに動ける姿勢を保っている。この老人、相当の使い手。懐の鞭を放ったとて素直に当たりはしないだろう。

「どうした、凶事でも起こったか」

「あら……お父様」

睨みあっているうちに義輝と久乃が現れた。閨の中から直接出てきたような格好である。

ここでも慶興は先手を取った。

「上様、お身支度を。これより我々と京を離れていただきます」

「なっ……」

晴員が不快を面に出す。

「突然どうしたのだ。六角の総掛かりでも始まったか」

「いえ、六角をあえて京に入れまして、我らはまず一挙に畠山を打倒いたします」

「何を無責任なことを! 慶興殿、お主は都の施政を何だと思っているのじゃ」

「これはしたり……。晴員殿ご贔屓の六角家、よもや京で乱暴はいたしますまい。一時京を預ける相手として不足はないでしょう」

「むっ……し、しかし。そのようなことをしては三好家の信望が傷つく」

「ははは、ご安心なされよ。借りをつくれば返せばよい、や、むしろ、我々が貸しを返してもらうのかな」

「貸しだと」

「およそこの十年、三好長慶の徳に触れなかった畿内の民がおりましょうや」

「その長慶が憎くて敵は起ったのであろう!」

「どうかな、父上に構ってもらいたくて起ったのかも」

「こ、この、小癪な巧言を……」

皺だらけの晴員の面が、怒りと憎しみに醜く歪む。晴舎、まだ澄ましている。屋敷を囲むこちらの兵力を察したか、動くというよりは退路を探るような気の配りよう。

「この京だけは変わらないでいてほしいと願っていても……いまの都は長慶の色に染まっている。慶興よ、汝の色も日増しに濃くなって……」

賢い義輝は事態と思惑をおおむね掴んだようだ。晴員もさすがに口を閉ざさざるを得ない。

「思えば、余の宿命は琵琶の海、慶興の空に出逢って蘇ったのかもしれぬ。いまだ汝が揺蕩う雲の上には辿りつけぬが……もう少しだとも思うのだ。晴員よ、晴舎よ、急ぐな。もう少し待っておれ」

「う、上様……?」

「三好に追いつけば余の勝利であろう。長慶もそれは分かっている。なればこそ慶興、いまは汝に従おう」

「エイ、かたじけなく」

「し、しかし」

晴員が諦めない。この様子、近江にでも連れ出すつもりだったか。

「汝らの忠義、父祖の無念は忘れていない」

これがとどめだった。晴員と晴舎の身体から力と焦りが抜け、屈辱に包まれていく。

「お二方とも、ありがたきお言葉を頂戴できてようございましたね。……さ、上様、ご支度を。小侍従殿も同行なされよ」

「よろしいのですか?」

石清水八幡宮京都府八幡市)へお移りいただきますが……上様の退屈を慰めていただきたく」

「分かりましたわ。どうせなら、お父様も一緒に如何です」

「……そうだな、ご厚意に甘えさせてもらおう」

「晴舎……そうだな、うむ、そうしようか」

一旦は引き下がるのか、性懲りもなく陰謀を企てるのか。

表情からすべてを読み取れる訳ではないが、大人の中でもこの老いぼれたちはとりわけおぞましいように思える。そのような中、義輝だけでも素直に言うことを聞いてくれた、間に合ったのは幸いだった。

 

  *

 

「秋になれば石山寺滋賀県大津市)にでも足を延ばしてみたいものやなあ。紫式部になったつもりで琵琶湖に浮かぶ月を眺めて、そう、近頃は近江八景とも言われてますのんやろ」

「は、はあ……」

既に夕方近いのだが、朝方に訪れたこの九条稙通卿、一向に帰る気配がない。

義賢の京都制圧を労いにきたということだったが、お歯黒の奥から出てくる話題は歌だの物語だの叡山や三井寺滋賀県大津市)の噂話だの、政情とは何の関係もないものばかり。興味のない話を何刻も聞き続けるのは辛かったが、さりとて前関白を無下に追い返す訳にもいかぬ。

(九条卿は三好家と昵懇。わしと少しでも友誼を深めようとのおつもりなのだろうが……)

京に近い六角家はもともと公家との付き合いも多い。話を合わせるだけなら難しくないのである。だが、足利義輝も三好慶興もいなくなってしまった京の動揺を収拾せねばならないこの時に、半日以上も拘束されるのは辛かった。

「あ、あの、九条殿。そろそろ……」

「うむ、さすがは六角殿でおじゃるな。麻呂はすっかり近江の風に惹かれてしもうたぞよ」

「は、はは……」

扇を使っている稙通に腰を上げる素振りはない。そこに、小姓が伝言を持ってきた。

「大殿。二条晴良様より、夕餉を共にと使者が……」

「なな、何?」

「ああ、麻呂が声をかけたんどす。公家一同、新たな都の主と親しゅうさせてもらいたいと願うてますのでな」

「さ、左様であるか」

「ほな、一緒に参りましょか」

支度をして、京の六角屋敷を出た時には既に辺りは暗く。その上、稙通の乗り物はなんと牛車である。こんなものを使って、二条邸にはいったいいつ着くことになるのやら……。

 

結局、義賢が解放されたのは翌日の昼過ぎだった。

ぬるぬるともったいぶった物言いの公卿を一晩中相手にして、ひどく頭と身体が疲れた。天下を獲ったらどうなるか……思い描いていた理想となんだか違う気がする。一日中ちやほやされて過ごし、うまいものを食べ、領地からはどんどん財貨が献上されてきて……。

稙通も晴良も都における人心の機微にかけては熟練している。細心の注意を払って教えを請えば役に立つ情報も多かった。しかしながら、彼らは一個ものを教えれば二個は融通を要求してくるのである。

「大殿!」

館に戻った途端、後藤賢豊と蒲生定秀が声をかけてきた。

「少し、休ませてくれぬか……」

「それどころではありませぬ! ご覧くだされ、寺社や町衆からの陳情がこんなにも」

見れば、幼子の背丈ほどにも書類が積まれている。まさか、これがすべてそうなのか。

「殿にも相談いたしましたが、これはとても我々だけで決裁できるものではありませぬ」

「伊勢貞孝がおるだろう。せっかく我らに恭順してきたのだ、前例に照らし合わせて判断させよ」

「それが、重要な判例集はすべて松永久秀に持ち去られてしまったとかで……」

「しかも、貞孝は近年公方の中で軽んじられていた様子、彼奴の判断に町衆が得心するかどうか」

法華宗徒に至っては、三好時代と同様の待遇を保証せねば一揆も辞さずなどと……」

血の気が引いた。天文法華の乱、悪夢の記憶が蘇る。京で一揆でも起きようものなら、騒ぎは確実に比叡山に飛び火する。そうなれば近江の統治にも支障が出てくるのだ。

和泉で畠山高政が大勝したことで、慶興たちは尻尾を巻いて逃げだしたのかと思っていた。義輝も含め、主だった公方の奉公衆を連れ去ったのも窮余の一策に過ぎないと受け止めていた。

空になった京へ凱旋し、勝利の喜びに身を浸したのも束の間。冷静になって考えれば、日本の首府を統治してきた行政機構は消え失せ、不安と混乱で膨れ上がった実務だけが残されているということだった。伊勢貞孝など多少の奉公衆が残っていたとはいえ、六角家の人材だけですべてを処理せねばならぬのか。我々の入洛を義輝や晴員が準備して待ち構えているはずではなかったのか。

「は……はは……天下人とは、難しいのだな」

「ざ、戯れている場合ではありませぬぞ! ほら、一件でも多く裁許を!」

普段は仲の悪い賢豊と定秀ですら一緒になって焦っている。京を治める重圧に誰も彼もが悪酔いしているかのようだ。

「そ、そうじゃ。九条殿と二条殿がな、いっそ徳政を出してはどうかと仰っていた。新たな時代の希望を示す、何よりの良策じゃと」

「な、なるほど……妙案かもしれませぬな」

「よし、まずは徳政じゃ。三好時代の債務を棒引きするよう、手配を進めよ!」

「は!」

 

結果を言えば、徳政は失敗だった。確かに貧民には喜ばれたが、銭を貸している方の寺社や商人から非難と補償を求める声が相次ぎ、対処せねばならない実務の量が更に膨れ上がったのである。六角家の政務はこれを以て完全に停止した。

その間に三好家は異常な数の大軍を組成し河内への進軍を始めていた。高政から助太刀の督促が何度も届いたが、もはや義賢には使者に会う余裕すら残されていなかった。

 

  *

 

優れた男だとは分かっていたが、まさかこれほどとは……という思いである。

之虎の死から僅か二箇月。その間、鬼気迫るものを纏った長房は阿波と讃岐を駆け巡り、之虎の恩、武士の本分、取り戻すべき誇りを根気よく説き続け、久米田の戦いで失った数以上の兵力を掻き集めてきたのだ。途中から冬康が調達してきた軍資金が追い風になったとはいえ、これだけの陣容を整えたのは紛れもなく長房の手腕だった。

二万に及ぶ大軍は分散して畿内へ上陸、瞬く間に岸和田城を奪還してみせた。常識を超えた速さの逆襲に畠山家の城番は慄き、先を争うように河内の高政本陣に向かって逃げていく。

冬康と共に逃れていた一存の遺児万満丸を再び城に入れて、まずは流れを切り替えることができた。讃岐の熊王丸や阿波に遺された之虎の子どもたちもいじらしく各地の国人衆へ号を発し続けており、この間にも兵の参集は続いている。

後は、飯盛山城の長慶を救うだけだ。高政による何度かの総掛かりはあったが、長慶は軽々と凌いでみせていた。思い起こせば、慌てたり迷ったりした例のない兄である。木沢長政以来の強固な城に長慶が入れば、これはそうそう誰も落とせるものではない。

慶興も大軍を組成して南下を始めている。高政が四万の兵を有していようと、こちらはその上をいく数を集められるかもしれない。飯盛山城を落とせず、北と南西から三好家総力を挙げた大軍が迫ってきていて、六角はどういう訳か京から動こうとしない。高政は相当の重圧を背に受けているはずだ。

岸和田城に幾らかの兵を残し、冬康は軍を東に向けた。紀伊方面への牽制も兼ねて、一行は積川神社(大阪府岸和田市)に兵を集める。周囲の索敵と鎮撫を終えれば、後は北上して慶興と高政を挟撃するのみ。長房はもちろんのこと、冬長、之虎・一存と共に戦ってきた武者ども、皆、悶えんばかりの熱をたぎらせている。

「鳴り物。逝った者たちへ届けよ」

冬康が四国・淡路衆の総大将を務めるのは珍しい。指揮系統の乱れを案じていたが、長房の補佐もあってほとんど障りは生じていなかった。

太鼓、鉦、笛。元長が創り出した囃子。黙祷、誰ともなく流れ出す涙、猛る闘志、純なる殺意。

「之虎様! 一存殿! 必ず仇を……報いを……!」

長房の嗚咽、両手で顔を覆って。よくよく之虎に懐き、一存に友情を抱いていたのだろう。

「その通りだ。長房、冬長。勝つなら徹底して勝ってやろう。虎兄と一存がいた頃のように」

供に合図して、用意していたものを持ってこさせた。

「長房に」

之虎の形見、“暁天”。長房の瞳が開く。

「冬長は」

日頃冬康が愛用している“夕星”。

それから、冬康は一存の“飛鳥”を手に取った。

「義兄上……これは」

「言わなくても分かるだろう。私たちでやるんだ。なあ、長房」

「……は! 破ってご覧に入れましょう!」

「行こうか皆の衆! 声出せ、気を張れ、男を見せろ! ソオーリャ!」

「ソオーリャ!」

艪は揃った。潮も変わった。虎兄、一存、力を貸してくれ。いまなら空だって飛べるような気がするのだ。

 

  *

 

この齢になっても教えられてばかりで、三好家の長老のように呼ばれても恥ずかしいだけだった。

何もかも慶興の言った通りに進む。戦力を分散しても時間を空費するだけ、全力で畠山にぶつかればいい。六角は上洛した後の構想など持っていない、落としどころも考えずに反感や恐怖だけで起った奴らは戦でしか力を発揮できない。そして、長慶を守るためならばこちらもこれだけの兵が集まるのだ。

京、摂津、和泉、河内、大和、丹波、播磨、淡路、讃岐、阿波。各領地から集いに集った総兵力は実に六万。我が事ながらひとつの家が動かす数とは思えない。畠山の四万と合わせれば、十万の人間がこれから入り乱れて殺しあうことになる。三好長慶という英雄の是非を問う争いは、いつの間にかこれほどの規模になっていたのである。

あれからどれだけの時が。河内、飯盛山城。元長最後の出陣。蜂起した一向宗、訳も分からずに堺を守っていた自分。阿波へ逃れる船の上、暗い目の御曹司。まさか、本当に天下の主になってしまうとは。

尋常でない数の敵が近づいてきているとの報を受け、高政は飯盛山城の攻囲を解いた。逃げようとはせず、会戦で迎え撃つ腹積もりである。兵力が六対四とはいえ、こちらの軍は急ごしらえ。対する畠山は之虎を討った勢いそのままの練度を誇っている。何より、十万規模の戦いなど誰も指揮したことがなかった。高政が勝ち目は充分にあると判断したのも道理であるし、潔い男のようにも思えた。

戦場、八尾の教興寺付近(大阪府八尾市)。信貴山手前の見晴らしよい原野。

既に高政は布陣を終えている。久米田でもそうだったと聞く、強固な一丸の陣形。対して、それを囲むように三好方は布陣を進める。北西部に慶興、北に松永兄弟、真西に長逸、宗渭、友通。南西部には松山重治と嫡子弓介、南方に冬康・長房・冬長。飯盛山から出てきた長慶と康長は慶興の後方辺りで全体を俯瞰している。

敵方の半周を覆った形、されど緩い。包囲を嫌った高政も動く。対陣、小競り合い。山伝いに畠山の別働隊がこちらの背後を取ろうとしてくる。お互いきれいにはいかぬ。一見こちらが有利でも、一塊となった敵がどこかの陣を突破すれば流れは変わる。戦機はまだ先、やがて膠着した。

 

慶興からの指示は“待機”だった。待っている。夏の時期、待てば必ずそれは訪れる。対峙、三日目。夜明け、日は暗い。曇天。来た、更に。降ってきた。雨、恵みの雨。これで根来筒は沈黙する。相手陣、少しの動揺。こちらが遠巻きに時間を稼いでいた真意を理解したことだろう。

始まる。大太鼓一発、旗が上がった。藍地に白抜きされた理世安民の四文字、三階菱・釘抜紋。

事実、慶興が動いた。騎乗姿の凛々しき若武者、誰もが認める次世代の王者。一騎で前へ進み。

「泡沫の夢想に甘えたすべての者どもに告ぐ!」

通る。雨音が逃げ出す。慶興の一喝が高政のところまで飛んでいく。

「我は世に理をもたらす天空の子なり! 儚き民草よ、安らぎたくば降れ! さもなくばくたばりやがれ! エエーイ!」

なんと、そのまま敵陣に突っ込んでいく。こんなところまで父親譲りなのか。

「いつまでも置いていかれる訳には! 行くぞ、若殿を追い抜け!」

長逸の号令が終わる前に兵たちも飛びだしていた。慶興に池田勝正が並ぶ。宗渭、友通もついてくる。北、南も動いた。始まった、天下分け目の大勝負――。

 

  *

 

雨は降り続けて濡れた肉体、冷えと熱の相和を以て長慶の内に星の如き円環を成す。

一進一退。敵もさるもの、こちらもさるもの。敵の勢いは西側の長逸、宗渭、友通の勢に向いていた。あの三人衆、長逸の長所を増幅したかのように頼もしく、革を何枚も重ねたかのように強靭である。激戦、幾本もの旗指物が長逸を押しに来る。安見宗房率いる河内衆、筒井純政や島清興らの大和衆。

正午。北、狼煙が上がった。あからさまに怪しい合図。味方も敵も何ごとかと煙に目をやる。それいまと突っ込んでくる長頼。鋭い、若狭の鬱憤を晴らすかの如く。後ろに続く久秀、叫ぶ。全力で叫んでいる。

「安見宗房殿、いまでっせえ! おい、安見殿は討つな、援けえ!」

繰り返される、宗房殿ご内応。走る動転、河内衆と大和衆を分かつ。こんな悪ふざけ、久秀でなくば。

息、完全に合った。長逸。長頼。北と西から同時に敵陣をえぐる。混乱、広がる。続けて襲いかかるは慶興と勝正。摂津若衆、荒くて強くて。重治と弓介が重ねて穿ち、いよいよ綻びは拡がる。なのに。

「ぬう、四国・淡路衆の動きが鈍い……」

康長の苛立ち。久米田の戦い後、なんと康長は七条兼仲という若侍と共に敵の使者に化け、堂々と飯盛山城に入ってきたのだった。命を投げ捨てるような行為……寂しい叔父上。

崩れた敵、南側の紀州侍に合流してゆく。冬康たちを切り抜ければ退路も開ける。圧力、甚だ強大。

冬康。長房、それに冬長。彼らならば、そう思えば思うほどに後退していく四国・淡路衆。士気が? 之虎と一存を失った故の、いや、どこか妙な……この、違和感と既視感!

戦機と見た紀州の勇士、湯川直光。冬康の陣深くに突入していく。その頭上、降り注ぐ白筋。あれは。垂直に刺さる迷彩矢、絶望混じりの悲鳴。何が起こったか分からぬ、いや、分かったからか。あれこそは。

煌めく飛鳥。一存、否。冬康! あの穏やかな弟の一騎駆け! 遠目でも分かる。一閃、湯川勢の首と腕が飛ぶ。直光を庇って死んだ。だがその延命も僅か二呼吸分、次の瞬間、直光の首も飛んだ。

「峻……雷……」

大粒の涙が康長から落ち、長房の部隊が一糸も乱れず猛進。紀州侍、次いで根来衆を蹴散らす。

「……冬康、鳴り響いたな」

「長慶……わしは」

「よいのですよ。そう、何もかもが平らかな、簡単なことだったのです」

喊声咆哮断末魔をこき混ぜた現世冥府を前にしても。民が自分を肯定し空前の勝利を目前にしても。たとえそれが弟の犠牲で成り立ったのだとしても。我が心魂、いまこそこんなにも――。

よそう。後でいい、いつでもいいことだ。

「新兵衛。兼仲。私たちも出るぞ。殲滅、追撃、思うがままに名を上げよ」

「ははっ」

「応!」

畿内と四国、それぞれから出てきた若き武辺者。新兵衛、真っ赤な衣装、火の玉侍……くすくす。

戦、采配、これが最後だという予感はあった。

「――掛かり太鼓! 全軍、進撃!」

 

続く

 

 

四十五 葦間の段  ――畠山高政 岸和田へ来襲し、三好之虎 久米田池に命を散らす――

四十五 葦間の段

 

畠山・六角勢との睨みあいは半年以上に及んで、永禄五年(1562年)も三月になろうとしていた。

安宅船の楼閣で指揮をするのと籠城戦の指揮をするのとでは、いかにも勝手が違う。さはさりながら、冬康が夕星で放った矢は次々と紀州侍の眉間をぶち抜き、岸和田城の防備は微塵も痛んでいない。

畠山高政は話で聞いていたよりも堅実な戦のできる大将だった。冬康の守る岸和田城を侮りがたしと見れば兵力を分散し、本隊は和泉で之虎と対峙しつつ、別働隊で南河内や大和を荒らしまわっている。とりわけ、戦上手の之虎に焦って決戦を挑もうとしないところが出色であった。之虎や冬康といったこちらの主戦力を引きつけておきさえすれば、数で勝る敵は多様な軍略を進め易くなるのだ。

「とはいえ飯盛山城には兄上が控えている、高政の狙いはどこまでもこの和泉だよ。岸和田を抜けば堺を占拠することも河内を二方向から攻めることもできるからなあ」

「河内に深入りしても和泉と大和から挟撃されてしまいますからね」

「あいつらまだまだ数が増えていやがる。兄上が言う通り、俺たちも嫌われたものだなあ」

「……虎兄も少しお疲れでは。陣を代わりましょうか」

冬康が一存に代わって岸和田城を守っている間、之虎は久米田寺(大阪府岸和田市)近くに陣を築いて和泉の防衛網を強化していた。

「いいよ、俺は野戦の方が合うんだ」

「それにしても……今日はいつになく顔色がよくないような」

久米田の陣は古の墳墓を利用して築いたことから、不敬であると之虎を批判する声も出ていた。一定の標高と水掘を有している墳墓が、急いで堅固な陣城を築くには便利であることも否めないのだが。

「今朝……夢に父上が出てきてなあ」

「父上ですか」

「ほとんど顔も覚えちゃいないってのに……すげえ怖かったんだよ。癇癪混じりで俺を呼ぶ声、聞いただけでこれは父上だって。なぜだか分かってしまってよう」

冬康も記憶はあやふやだった。元長が死んだ時の二人はまだ六歳と五歳で、つるぎや長慶たちが家を必死に立て直していくのを見守るしかなかった、強い無力感だけが印象に残っている。

「父上が虎兄を責めるはずないでしょう。きっと激励にお出でになったのですよ」

「……お前、自分の息子が冬長を殺したらどう思うよ」

「……そんな」

「今更、悔いも迷いもありゃしねえさ。ただ、そういう夢を見たってだけだ。俺だって因果だ報いだって言葉は知っている。墓や霊を粗末に扱っちゃあいけねえことも知っている。それでも、生きてかなきゃいけねえんだ」

「どうも、我々兄弟は数奇な定めに翻弄されているような……」

「まったくだ。兄弟分纏めて行基菩薩に祈っといてやるよ」

「虎兄」

「なんだい」

 

因果とは 遥か車の輪の外を 廻るも遠きみよし野の里――

 

「ご自愛くだされ、虎兄は己に厳し過ぎる。昔から……」

威風と風流の鎧で生身の弱さ優しさを覆っているのが之虎である。だからこそ之虎が手掛ける茶の湯藍染は人の心を打つ。

「は。気持ちだけ、もらっておくぜ」

「……」

「お前も気をつけろよ、先に本城が落ちちゃあ話にならねえ」

「……はい」

「ありがとよ」

山手の方へ駆けていく之虎一行を見送り、一存が逝った場所をしばらく眺めてから……館に戻った。

部屋の隅に目をやると、之虎が暁天を忘れている。あるいは、預けていったのだろうか。

 

  *

 

久米田池(大阪府岸和田市)から戦風が吹いてくる。

こちらの二倍の兵数となって、遂に高政は動き始めた。敵は高政本隊の二万の他、岸和田城へ五千、河内大和方面にも五千近く。迎え撃つ之虎の部隊は一万ほど、但し精鋭である。

対陣が長く続くうち、悪い意味で高政が之虎を恐れていることは伝わってきた。互角、または兵が多少多い程度では決して本気のぶつかり合いをしてこない。貝のように守りを固められては、兵数で劣る之虎が力ずくで叩き潰すのは難しかった。まして、敵の陣には無数の根来筒が配されているのだ。

領地の広大な三好家が二方面の大敵に戦力を集めるのは難しい。長慶を守る必要があり、各地の治安を守る必要がある。将棋ならば前線に駒を集めても問題は起きないが、実際の戦で兵を前線だけに集めては背後で内応した国人衆や一揆の蜂起が相次ぐかもしれないのである。京や堺が被害に遭えば、戦に勝ってもその後の統治に支障をきたしてしまう。とどのつまり畿内のような平野部では、戦は攻められた方が圧倒的に不利なのだ。

一存の急死と、長頼の若狭攻略失敗が与えた影響も大きかった。六角家と畠山家を相手に回して、武の主柱を欠いた三好家が持ち堪えられるかどうか。様子見を決め込み、兵力の供出を渋る国人衆も多かった。それどころか、過去の戦や相論で三好家に敗れた者たちを中心に、畿内からも敵方に合流する者が現れる始末である。

「民や地侍の気持ちを汲むのは、やっぱり兄上が一番だな」

「……どうしたのです、之虎様」

之虎は自陣の兵をあえて減らし、飯盛山城の護衛や岸和田城に回すことで高政を釣り出したのだった。思惑叶ってさあ開戦という時に意味の分からぬ呟き、長房が不審に思ったようだ。

「俺たちは試されているのよ」

「誰にですか」

「さあな」

くっくっと腹の底から笑い声が出てきてしまう。

これ以上考えることはない。我慢に我慢を重ねた高政、復讐に血を沸かせた畠山の侍どもを歓迎し、何もかも無駄な足掻きだったことを骨の髄まで教えてやるだけだ。三好も畠山も所詮は同じ穴の狢、共に因果の尖兵となって踊り明かせば時代も変わるだろうよ。

 

高政は轟川を渡り、目と鼻の先に陣を敷いた。かつての遊佐長教同様、背水の構えである。舎利寺に重ね合わせることで之虎に対する兵の闘志を煽っているのだろうが、それはこちらも望むところだ。

敵衆が集っている額原とか八木、尾生などと呼ばれる辺りは溜め池が多く、緩やかな丘も点在している。夏が近づき水辺では葦が茂っていて、見晴らしがよい水の上と、見晴らしが悪い土の上が混在する地勢。一言で言えば、玄人好みの戦場だった。

この場、俺が高政なら、紀州侍や根来衆の顔ぶれならば。

「……敵は初め、一丸となって攻めてくる。こちらは包むようにして迎え撃とう」

「……」

長房も康長も意見を挟まない。之虎がそう言うなら、実際そうなるだろうと信じてくれている。

「そこまでが第一段階。俺がほら貝の合図を送ったら第二段階だ。敵が崩れ始め、追撃に移る時」

腕を伸ばし、尾生方面の丘、額原方面の溜め池、そして左手に広がる久米田池を順に示す。

「ここからが肝心だ。敵は伏兵をあちこちに埋伏している。一旦包み込んだ陣を散開し、個別撃破に移る。固まっていたら鉄砲の狙い撃ちに遭うからな、物見はいつもより多く出せ」

「はい」

「後は臨機応変に指示を出す。いいな、まずは敵を押し返さんとどうしようもねえ。出し惜しみするなよ」

「任せておけ」

「一存殿の弔い合戦、四国衆の士気はかつてなく高まっております」

「ふふん、そうだな。一存が守ってきたこの岸和田で俺たち四国衆が大勝ちしてやるのも一興」

「うむ、その通りだ」

「おい宗渭よ、お前にも期待しているからな。父親譲りの水辺の戦、楽しみにしているぜ」

「……は」

長逸の差配で、淀川沿いの摂津衆を率いた宗渭が助太刀に来てくれている。宗渭の三好家復帰は宗三以来の摂津国人衆を喜ばせていた。

「余計な遠慮をするでないぞ」

康長も温かな言葉をかける。宗渭の実力は誰もが認めているが、本人はまだ引け目があるようだ。

「……之虎殿は、まるで浄玻璃の鏡をお持ちのようですね」

「ははは、ただの当てずっぽうよ」

「学ばせてもらいます」

「だから堅苦しくなるなって。俺たちは長逸じゃないんだぜ」

宗渭も含め、皆がどっと笑った。

「よおし、出陣だ! それぞれの配置に戻れ!」

 

見込んだ通り、敵は密集形態で進軍してきた。

これまで手堅い戦法を駆使してきた高政だから、背水陣からの突撃とは意表を突いたものである。だが、之虎から見ればいかにも才気走ったぼんぼんの考えそうなことだった。

「包み太鼓!」

鳴り物衆が合図を送る。後陣の之虎を残し、長房、康長、宗渭の三部隊が敵軍を囲んだ。畠山家の第一陣はどうやら安見宗房、数は六千というところ。宗房が先鋒とは、寝返りを警戒している高政の顔が目に浮かぶようでおかしい。

揉みあう。兵数はそう変わらないがこちらは三方向からの包囲攻撃である。敵の圧力を最も受けている長房が崩れればおしまいだが、崩れないから長房なのだ。腹を据えた長房なら、一存の攻撃すら受け切る技量と胆力がある。よし、いいぞ。康長はいつも以上に鋭く、宗渭は老練な剥がし方をしている。

高政が焦った。援軍、第二陣が接近してくる。

「小太鼓乱打!」

伏せておいた弓兵と鉄砲衆で気勢を挫く。こちらの伏兵は少数、これで討てる数はそう多くない。しかし、足さえ一度止めてしまえば援軍は援軍として機能しなくなる。

さあ、ここからだ。どうする高政。自信を持ってこのままか、他の手を試したくなってしまうか。

安見宗房、粘っていたがもう無理だ。入れ替わった第二陣も囲まれてしまうぞ高政。よいのか、こちらは傷も疲労も浅いのだぞ。

第三陣、動いた。あれが主力だ、来る? いや、廻った。二陣が時間を稼いでいる間に側面へ。

「幼稚!」

新たに揃えた鳴り物、ほら貝を一斉に吹かせた。敵の二陣を揉み潰した一同が統率よく展開していく。長房、敵の三陣へ。宗渭、海手の伏兵を炙りだしつつ長房を支援。康長、山手方面の伏兵、潰走兵を掃討。予想通りあちこちから鉄砲の音が聞こえてきたが、初めからそうと分かって掛かれば恐ろしいものではない。兵力の差はなくなった。敵の奥の手も見破った。勢い、士気はこちらが上。目まぐるしく兵が行き交う、傍目には混迷、俺の目にだけは勝利の一本道。

戦局、進む。長房と宗渭、三陣を砕く。康長、丘を占拠。高政の本陣、揺れる。

「ここだ! 高政がとどめを入れて欲しいとよ!」

供回り、青一色の愛染衆。頷く。吠える。温存していた分だけ奮い立つ、駆ける!

左手、久米田池。鶺鴒が飛び去った。俺たちの。違う、敵がいる。葦に潜む影、池を巡ってきたか。

銃口。一丁に過ぎない、一発撃たせて終わり。愛染衆が之虎を囲む。距離も充分、致命傷には。

葦間。閃光、白の。音、銃声。割れて、波が。池に……波?

赤。赤い飛沫、何もかも。揺れる、赤、赤ばかりの、回る、温かい、けれど。

おい、藍色はどこだ。

 

  *

 

怒号、悲鳴、鳴り物、槍合わせ、矢唸り、鉄砲。

戦ほど五感を刺激するものはない。耳から入ってくる知らせの他、血生臭い惨劇、勇気を奮う若武者、日頃と変わらぬ遠くの山々など、目には見たいものも見たくないものも映る。鼻に意識をやれば汗、血液、火薬の匂い。肌には鎧の重み、蒸れた質感、更に注意を払えば手傷の痛み。喉は乾きよりも、いつもと異なる口中の風味が際立つ。えぐいような、野草を齧ったような、戦いの味。それらすべての感性を自覚し、思うように身体を動かすことができれば愉しみも歓びもなくはない。

そうした全身の白熱をこの銃声は引き裂き、醒ましていった。

(なぜ……この音がだけがこうも気になる。背後……之虎の方角)

丘陵部を押さえ、之虎が睨んだとおりそこかしこに潜んでいた根来衆を殲滅しようとしていた。

丘の上、馬上、轟川に区切られた狭い戦場。振り返れば之虎の位置は遠目に見える。

いた。之虎、二重三重に愛染衆が囲んでいる。安堵……否! 赤く塗れた顔。なぜだ、なぜ之虎の額が砕け、血を吹いて……なぜ。見間違いではないかと耄碌を願った。之虎の身体が、崩れ落ちた。

「撃ち抜いた! 敵将三好之虎、仕留めたあ!」

久米田池から根来筒を抱いた法師武者が飛び出してきた。殺せ、念じたが誰も動かない。

狭い戦場。潰走しかけていても畠山軍の数は多い。逃げずに踏み止まっていた者も、隠れていた者も多い。もとより潜んでいる者を狩り出しているところだった。

しじまは刹那。歓声が、敵の歓声が地を割るように。

「うおおおおおお!」

「右京がやったぞ!」

「いまこそ勝機じゃ、もはや三好家に虎はおらぬぞ! それ掛かれや打ちのめせ!」

根来鉄砲衆。さすがよく訓練されている、いままで康長に押されていたのに。

ばおんごおんと再び鉄砲を浴びせてくる、まるで勝利を祝うかのように。

「康長殿! お逃げくだされ、ここは我らが!」

康長の供回りが退却を進言してくる。

「之虎が……あそこで待っているではないか」

「見たでしょう! 鉄砲の直撃を受けたのです、もう、もう……」

見苦しい。泣くな、鼻水を垂らすな。

「迎えに行ってやらねば。之虎が、之虎よ……」

勢いを取り戻した畠山軍が愛染衆を呑み込んでいくのが見えた。

連れて帰らないと、手当をしてやらないと。一存、南宗寺……墓。なんだ、いま一瞬、何を考えた。

こんなことがあってよいはずがない。たった一発の銃弾が戦局を逆転させるなど、そんな理不尽が。

「伝令! 総指揮を代わった篠原長房殿より、堺に向かって退却せよと!」

いま立っている場所。山手、丘の上。深入りしていることは間違いない。伝令、背に何本も矢が立っていた。命と引き換えに康長のところへ辿り着いたか。

「之虎、いま行くぞ。わしも往く。今度はわしが茶を点てて」

「康長殿!」

組みついてきた。敵ではない、供回り衆たち。離せ、わしを放せ。

投げた。肘を極めた。邪魔をするな、逃げたくば逃げろ。わしは。

「御免!」

長槍の柄が交差、幾本も。猪口才な、刀を抜いて斬った。しかし、またも組みつかれる。

「やめろ、やめぬか」

「やめねえ。このまま堺までお守りするからな」

このわしが、逃れられない。この若造、七条兼仲とかいったか、なんという……怪力、こんな時に。

「之虎! 之虎あ!」

なぜわしを救う。なぜ之虎を救わない。なぜだ、なぜお前たちばかりが。

兄上、つるぎ殿……すまぬ、長慶。

「三好之虎が首級、召し取ったり!」

聞こえた、虚報。子ども騙しの。

馬に二人乗りとなって運ばれていく我が身、必死にもがく。もがいた先。視線、一直線の果てに。

真っ赤な之虎の顔が……掲げられていた。

 

  *

 

帰還した往来右京は一躍英雄となった。

単身で狙撃に挑み、その銃弾は何人もの肉の壁の向こうに隠れた之虎の額を正確に撃ち抜いたのである。“針の穴”を狙うも同じだったはずで、成し遂げたのはまさに“御仏の加護”があったからに相違ないと根来衆たちの喜びようは殊の外だった。

息を吹き返した宗房も、第三陣として苦戦していた湯川直光もおおいに奮戦した。退き戦もさすがの“手練れ”ではあったが、所詮は之虎を欠いた残党、北に向けては延々と三好軍の死体が転がっている。これでしばらく四国衆は動きが取れないだろう。

「報告! 岸和田城の安宅冬康、撤退を開始しました」

「ああ、そうだろうな。そうするしかねえだろう。それで、追撃は」

「は、それが、追っ手の侍大将五名が全員眉間を射抜かれてしまい」

「……ふん、まあいい、これで和泉は手に入った」

天下に聞こえた三好四兄弟、残るは二人。逃げた冬康と、飯盛山から動かない長慶。

三好慶興に三好長逸、松永兄弟は六角が引きつけてくれている。もはや和泉と南河内に敵はおらず、少し待てば兵は更に増えるだろう。入ってきた。視界、長慶の討伐。

「長慶を討てば……公方も俺たち側に立つ。畠山は“管領”になって、河内は元通り。和泉から摂津まで領地に加え、名実ともに日ノ本の“てっぺん”に立てる訳だな。痛快、痛快!」

「そうなったも同然でござる。祝着、祝着!」

「お前もよくやったよなあ! ええおい、鍛錬に“励んだ”甲斐があったなあ!」

「殿! 殿についてきてよかった……! 何度も足蹴にされ、どれほど見限ろうと思ったことか……」

泣きじゃくりながら、右京が何か口を滑らしている。

「そうかい、俺あ“捨て”られるところだったのか」

「あ! いえ、そんな、物の例えにて」

右京の腿を斜め上から蹴り下ろす。悶絶しているが、それでも泣き笑いに嬉しそうだった。

「検分、終わりました。確かに三好之虎であります」

今度は宗房と直光が陣幕に入ってくる。

「どおれ、見せてみな。俺だって実休さんには会ったことがある」

あらかじめ陣幕の内には首実検の用意をしてある。畠山当主らしい威儀ある衣装に着替え、相応の作法を以て実検に臨んだ。何しろ相手は三好之虎、当代最高の武将の一人である。

その死に顔を眺めているうち、高政は勝利の喜びよりも、“負けていたら”という思いを強くした。右京の神技がなければ、この戦は確実に敗れていた。二倍の兵力を用意したにもかかわらず、指揮の力で容易く逆転されたのだ。

「……“慎重”にいってこれか。これで十河一存まで揃っていたら勝てる道理がねえ」

「……」

「首を取り返しに来る余裕はねえだろう。“丁重”に弔ってやれ」

「はっ」

「それと、これは之虎が佩いていた刀です」

「ふうん……」

直光が差し出してきた刀。鞘から抜くと、素人目にも大変な品であることは分かった。

「な、なんだこりゃあ。こんな“業物”まで持っていやがったのか」

「詳しい者によれば、備前長船光忠の名刀ではないかと」

「かあ、“数寄武将”と呼ばれるだけあるな……。虎は死して皮を残すとはよくぞ言ったもんだ。“実休光忠”、大事にさせてもらうぜ」

生者の義務。手を合わせて成仏を祈り、之虎との面会を終えた。

和泉を制圧し、続けて高屋城を取り戻す。そうなれば河内南部や大和南部の反三好国人も次々と結集してくるだろう。

勝ったとはいえ、実力では負けていた。狙撃のような奇手が何度も通じるはずがない。ましてや、長慶は之虎と同等の戦上手なのだ。再び充分な兵力を集め、丁寧に追い詰めていくしかない。今度は王道の戦い方で勝利し、天下に畠山家の復活を存分に印象付けてやるのだ。

 

  *

 

戦時中だからと、民の暮らしや朝廷の行事、風流人の交流などを疎かにしてよい訳ではない。変わらぬ日常を保障することが施政者の務めであって、武家の争いのために必要以上の負担を強いることは筋が通らないというものだ。強引に銭や兵糧を巻き上げたり徴兵したりも不可能ではないが、それは下策中の下策であり、戦後の安定を投げ出すことに等しかった。

慶興と之虎が軍事に励んでいる一方、飯盛山城に残った長慶は文治に精を出していた。慶興が普段決裁している諸事を久しぶりに受け持ち、朝廷や公方の行事を滞りなく進ませる。勝ち戦か負け戦かの判断がつきかねている国人には道理を説いて聞かせ、戦に関わり合いになりたくない寺社には禁制を撒き、堺などの御用商人衆とは戦況や安全な交易路をこまめに共有化する。その上で空いた時間には頻繁に連歌会などを開催し、文人の舌を使った“世論づくり”に励む。

戦況は一進一退ではあるものの、長慶も含めた実務方の努力の甲斐あって内政面にさしたる問題は生じていない。民の間でも六角や畠山に“解放”を求めるような動きはなさそうだった。北か南、いずれかで勝利を上げればこの難局も乗り切れるかもしれない。総勢五万に及ぶ敵兵の数、それを支える反三好の感情の高まりは恐ろしく、哀しいものであったが、一方で長慶の政を支持する民も確かに存在するのだ。世が、天が、いずれを最後に選択するか。これもひとつの審判、ひとつの道程。衆目に晒されるというのも面白いものである。

 

すぐ南の久米田界隈では戦端が開かれる頃合いであったが、今日も飯盛山にはよい詠み手が集っていた。近頃名を上げてきた紹巴を中心に、公私を通じて親密な面々。連歌とは業の深い遊戯でもあって、一種の興奮状態、あるいは沈鬱状態の方が“乗る”ことが多い。夜を徹して一同の精神を変容させることなど序の口、神仏に我が身を捧ぐべく祈祷神楽や本尊本殿を前に歌を繋ぐ、凶事不幸のさなかにあえて歌会を開催するなど、合理を超えた環境が尊ばれるところがあるのだ。その点、戦闘の匂いが濃厚に漂う三好家の本拠は格好の舞台だった。

朝から始まった歌は既に四十九。

 

薄に混じる葦のひとむら――

 

だが、この後が続かない。陸に生える薄と水辺に生える葦、それらが入り混じった様子は珍しいものではないけれど、言葉にしてみれば意外な風趣と枯じけがする。“ああ、なるほど”と場景を思い描くことができる一句は見事で、それだけにひとつの歌として完結してしまう。ここから五七五を繋げて出来を一層よくするのは至難なのだ。

誰もが考えあぐねた。

そこに、急使が到着、長慶に耳打ちしていく。通常ならば会の空気を冷ます乱入は歓迎されないが、難しい局面だったこともあって逆に皆が一息つけた感じであった。頷いただけで使者を傍らに残す長慶に、何ごとかと関心が集まっているのが分かる。

果たして長慶の口から出るのはと、わざと間を取って沈黙を誘う。……然して。

 

古沼の 浅きかたより野となりて――

 

静寂、次に瞬きと息を呑む音。一拍おいて称賛が“ふおっ”と起こった。

「連綿たる時の流れ、深野池(大阪府大東市寝屋川市)が乾いていく様子を目で追うような……。まさにこの河内の地、飯盛山に相応しい」

「それだけにあらず。三好殿の功業、天下大乱を鎮めてくださった――」

「それよ。葦はいまだ残っていようと、薄の茂る大地はしっかと広がって」

「急いで埋めれば味わいに乏しい。柔らかに干上がってゆくその様、まさに三好殿の真骨頂」

黙っていれば幾らでも褒めてくれそうではある。

場の高揚が少し落ち着くのを待ってから本題を告白した。

「……之虎が久米田で討ち果てました」

一転、無慈悲なほどに全員が絶句し、蒼白となった。

常勝で知られる之虎が敗れた、それどころか討ち取られてしまったなど。ならばこれから三好はどうなる、お得意様が、畠山の時代がくるのか、京の戦線にも影響、いや、それよりも早くここから逃げねば……。

手に取るように考えの移り変わりが分かる。彼らは武人ではない。戦の見物や知ったかぶりは好きでも、我が身に巻き添えが及ぶと心底から覚悟できていた訳ではないのだから。

「今日の会はこれでお開きとさせていただきましょう。各々方には安全な場所まで護衛をおつけいたします」

これだけでは回復しない。手招いて、南西の景色を望める場所まで案内した。

「ご覧なされよ。……岸和田、久米田はあの辺り。決して遠くはない……が、あちらに高屋城、こちらにはこの城を守る支城群。敵がすべてを突破してここへ迫る頃には、京なり西宮なり四国なり……どこへでも着いておられましょう」

慌てていれば当たり前も当たり前でなくなる。噛んで含めるように、少しずつ事実を説明していく。

「この地にはいまだ精鋭一万騎が健在。今日明日に私が後を追うこともありますまい。まずは、落ち着ける地へお移りなさることです」

「しかし、大事な弟御を失って……」

「いっそ和平の道を探っては……」

冷静さを取り戻した紹巴たちが長慶を慰める。

「ふふ。畿内に要らぬ火種を残す訳にはいきません。この十年の平穏、手放すのは各々方も惜しいはず。安易な譲歩や甘受をしては民を難儀させてしまいましょう」

平素と変わらぬ長慶の様子に、一同も徐々に強張りが解けてきたようだ。

「余裕があればいずこかで成り行きを見物なさいませ。三好長慶が籠城戦、滅多にお披露目できませぬ。その後には太平寺や舎利寺以上の大逆襲も叶えてみせましょう……。後々の自慢の種になりますよ」

頬の緩みさえも戻ってきている。これでよい、彼らが発する噂は明後日には東国や九州まで届く。当地五畿内や四国であれば、尚のこと長慶の様子を知る者は引っ張りだこになるはずだ。

それにしても……この飯盛山城で籠城することになるとは。

つくづく、因縁である。

 

  *

 

之虎の訃報を聞いたいねはとうとう起き上がることすらできなくなった。

時の流れももはや明瞭でなく……。誰それが討死した、高屋城があっという間に制圧された、四国では篠原長房が不眠不休で態勢を立て直そうとしているけれど……。様々な話が耳には入ってくるが、何が夢で何が現かも判然としない。

漆のような黒、黒、黒。与四郎の好む黒、黒、黒。人の顔を思い浮かべるのが辛い。知らせや風聞を追いかけるのが辛い。意識を黒に浸し、希望を黒に染めることでしか……自分の生を繋ぎとめられない。黒いは、優しい。暖かい……。

黒……真っ黒な世界の中で、とびきりの暗黒が人の形になって、変ね、四体も。言い争い……お前は何を死んでいるのだ、父上が怒鳴るからじゃねえか、何の話だわしは知らぬぞ……父様? 之虎?

よしなさい二人とも……いねが泣いていますよ。

本当だ。どうした姉上、ほらほら蛸だ。岸和田の蛸だ。食え、蛸は和泉の守り神なのだぞ。

蛸? 蛸ですって? ちょっと! 他に言うことはないの、この、この……。

「ばかずまさ!」

叫びながら跳ね起きた。隣では、至近で吠えられた与四郎が腰を抜かしていた。

 

「そう言う訳だから。持っていきなさい」

冬康の前にうず高く積み上げられた銀塊、命懸けで稼いだ密貿易の利益丸ごと。

いねは茹蛸の身を齧りながらである。なるほど、確かに岸和田の蛸。これはいいものだ。むちんむちんの身を噛めば噛むほどに覇気が漲り、くりかりした吸盤を千切って呑み込めば精気がむらむらと湧いてくる。

「何が何やら分かりませぬが……快癒なされてよかった。しかし、よいのですか……これほどの」

「四の五の言わない! これが私の助太刀、私の意地なの!」

「……与四郎殿」

冬康が念のため与四郎の意向を伺うが、夫も渋みを利かせて微笑むばかりである。

逆張りこそ商いの真髄。世間がどれだけ空騒ぎしても……私は千殿の器を知っている。それに」

「それに?」

畠山高政が天下を獲れば世はギラギラと騒がしくなってしまう」

「はは、あっははは。なるほど、侘び数寄にとっても一大事という訳ですな」

弟の身体に火が入ったのが分かる。こういう笑い方をできるようになればもう大丈夫だ。

「銭は人界の吸盤。いいわね、やっておしまい」

「いいでしょう。“物持ち一万貫の陣”、必ずや二人の仇を取って参ります」

「見ているわ。私たちも、四人も」

あの頃、私は堺にはいなくて、何もできなかった。

巡り巡っていま、私は堺にいる、力もある。家族を、兄と弟を……援けることができる。

 

続く

 

 

四十四 再会の段  ――松永久秀 多聞山城を誇り、細川六郎 三好政権に膝を屈す――

四十四 再会の段

 

己の夢をすべて捧げた城が完成しようとしていた。

贅を尽くして塗り込めた白壁。内部を走って鉄壁の迎撃が可能な長屋造りの櫓。張り巡らせた石垣、大寺院も驚くであろう総瓦葺の屋根。そして何より、空前絶後の“四層”天守。この多聞山城(奈良県奈良市)こそ大和の新たな象徴、民衆に長慶の偉大さを知らしめる大神殿なのだ。

「どやあ! どやあ! この城見て腰抜かさん奴なんかおらんでえ! しぶとい筒井にやかまし十市、島とか抜かす若造やらに、興福寺東大寺奈良県奈良市)に大神神社奈良県桜井市)! 目利き自慢の商人町衆どももじゃ、大和ででかい面している奴あ全員ここに連れてこんかい! なっはっは」

「……」

「なんや正虎、またなんぞケチつける気いかい」

「いや、今回ばかりは……。お見事としか言いようもありませぬ」

「そうか! せやろ! いやっはっはっは」

大和進出という難題をぶん投げられて一時はどうしようかと思っていたが、ここまで順調に事が進むとは我ながらたいしたものである。もちろん長慶の威光あってこそ調略も上手く進むのであるが、それでも自分ほど格好よい爺さんはそうそう世にいないのではないか。

おお、多聞山城よ。建築こそ人の英知、築城こそ男の本懐。あかん、見てるだけでにやけてまう。

「殿!」

涎が垂れそうになっている久秀のところに小者が走ってくる。なんやうっとうしい。

「も、申し訳ありませぬ!」

狼狽させてしまった。どうやら思ったことが口に出ていたようだ。

「どないしたねん」

「殿に面会を希望する者が参っておりますが」

「待たせとけや!」

「は、はい!」

「いや、ちょい待ち。どんな奴や」

「女です。どこやらの尼のようですが」

「覚えないのう」

「“琴”という方の使いだと」

「阿呆! それを先に言わんかい!」

正虎と目を合わせた。琴からの連絡が絶えて久しい。面には出さなくとも長慶にとっては何よりの懸案。正虎にとっては勅免を喜び合いたい肉親の便りである。すぐさま新築の客間へ通すよう指示を出した。

 

現れた女を見た久秀は、久しぶりに腰を抜かすほど驚いた。

「あああ、姐さん」

「しばらく……ですね」

微笑むあまね。正虎は興味深げにかつての長慶室を眺めているが、久秀にとってはそれどころでない。

「申し訳ありまへん!」

額を畳に掏りつけるばかりにひれ伏す。

「……どうしたというのです」

「晴通殿をお救いできませんでした! 詫びても済まんことは重々承知だす、思うようにしとくんなはれ!」

若妻の艶めかしさが消えたあまねは、もともと有していた密かな凄味が一層増しているように思われる。

「そう……ですか、兄は逝きましたか……。討死したという噂は……聞いておりませんでした」

丹波の攻防、若狭での憤死を説明する。あまねの表情は静かなままで、揺らめきは窺えなかった。

「兄も琴も……あたしの大切な人は、皆先にいなくなってしまう。あたしの、せいなのでしょうね」

「……恐れ入ります、姉上はいまいずこに」

あまねの嘆息を聞き逃せず、正虎が割って入った。

「楠木正虎殿でしょうか」

「はい」

「あなたにお渡しするものがあって、恥を忍んでお伺いしたのです。……これを」

手渡された文を読み進めるうち、正虎の頬を幾筋も涙が伝ってきた。最後には痙攣したかのように肩を震わせ、号泣し始める。久秀もあまねも黙っているしかなかった。

「……姉もまた涅槃へ旅立ったのですね。あらゆる密事と共に……」

しばらく後に正虎はそれだけを呟き、眼前で手紙を破ってしまった。何が書かれていたかは気になるが、正虎の様子では誰にも明かすことはなさそうだ。耐え難くなったのか、正虎は先に客間から出ていった。

「姐さんは……これからどちらへ。と、殿は飯盛山に、若殿は芥川山に!」

「くすくす。世間で言われているほど久秀は変わっていないんですね」

「そんなん、重々ご承知でっしゃろ! わいほどの忠臣おりまへんで、見てくださいや、前からの領地は没収、このややこしい大和をちょっと平定してこいやでっせ! いやほんまに、わいやなかったら卒倒してますわ」

やれ一存を謀殺しただの、やれ基速を取り除いただの、やれ長慶を押しのけて天下を支配しているだの、最近の久秀に関する流言は度が過ぎていた。三好家中では問題にされていないが、いずれ、噂を根拠に足を引っ張らてしまうこともあり得るのだ。冗談ではない、これほど身を粉にしているというのに。

「……人が多い京にでも移ろうかな。目立たず、ひっそりと……。ううん、その前に兄の……若狭へ……」

「や。京はともかく、若狭はよしなはれ。朝倉が乗りこんできよったさかい、しばらくは大荒れですわ」

長頼が若狭に進出したことで、畠山や六角同様、朝倉も本腰を入れて三好家に対抗し始めている。昔の朝倉家と違って京の政情には関わってこないが、隣国若狭の三好化は放っておけないということだろう。長頼とて丹波から遠征するという形では分が悪い。丹波でも黒井城(兵庫県丹波市)の赤井直正が不穏な動きを見せていて、若狭へ大軍を連れていく訳にはいかないのだ。

京でも戦が起こる気配はあるが、都の人心に精通している六角氏が乱暴狼藉を働くとは思えない。

「いずれにせよ、どこかに隠れ住もうと思います。……探さないでね」

再びあまねが微笑む。懐かしい、有無を言わさぬ和やかな圧力、それは長慶以上の。

「あ、会っていかへんのでっか」

「久秀にしては野暮ですよ」

手短に人を刺して、あまねは慎ましく辞去していった。後をつけさせるか。居どころを押さえておかないと長慶と慶興をがっかりさせてしまう。しかし、ああまで言われて無下にできようか、ええい、どないしたら。

 

  *

 

紀伊国、小松原館。

戦の匂いが近づいているためか、十河一存が急死したという吉報のためか、主の直光は急速に元気を取り戻していた。やはりこの男は河内国守護代などより、荒ぶる紀州侍を率いて戦場を駆け巡る方が向いているのだろう。

宗房が公方・六角と練り合わせた“秘計”は、確実に成果を上げていた。

六角との軍事同盟が成立。六角家は義賢に代替わりして以降、近江周辺の情勢に生ぬるい介入を繰り返すばかりで、何をしたいのかよく分からない家になってしまっていた。それが三好、浅井、斎藤などの急伸を許したのだ。そんな六角家も今回ばかりは本気で戦おうとしている。家中の潜在的な親三好派も“牙”を見せておかねば高政のように国から追われてしまうと、一丸となって義賢を盛り立てているようだ。

十河一存の暗殺。三淵晴員が手を回したようだが、どんな“手”を使ったのかまでは分からない。ただ、一存が病に倒れ、死亡したことは間違いなかった。多くの者が一存の落馬や葬儀の様を目撃しているし、守護神を失った和泉国では俄かに動揺が広がっていた。一存がいないというだけで、参陣を約束する者は倍ほどにも増えている。舎利寺の戦に加わっていた国人衆、岸和田や日根野から追い払われた根来衆など、“鬼”の十河に恐怖していた者は数多い。噂には尾ひれがついて、紀伊の子どもたちの間では一存が槍の一振りで嵐を起こし自在に雷を落とすのだ、親の言うことを聞かないでいると鬼十河がやって来るのだと言われているほどだった。その一存が死んだのなら、“勝てるかも”という思いが出てきて当然である。

「畠山家復興の願い、三好家への反骨にこれらの知らせが加わって……兵は二万近くにもなりましょう」

絵図を描いた宗房が胸を張って報告する。この男が“お家の復興”などと抜かすと笑えるが、いまは木沢長政の真似事よりも打倒三好家の思いが強いらしい。事実、長慶は長政の仇でもあった。

「近頃、民の間では“こんな時代に誰がした”“誰が世の中を変えてくれと頼んだのだ”と、三好を憎む声が日増しに大きくなってきております。……かくいうわしも、まったくの同感ですが」

顔色のよくなった直光も重ねて報告する。畿内の商工業、物の流れが盛んになるにしたがって、紀州の景気が悪くなってきているとは聞いていた。統制の効いた三好家御用商人は値付けも品質も納品期日も紀州商人を上回っているし、船便だって淡路の安宅水軍が牛耳るようになっている。そもそも、これまでは畿内で戦乱が絶えなかったからこそ紀州の商業や水運、根来寺による銭貸しなどが好調だったのである。長慶の統治が始まって以降、畿内は日ノ本の中心たる真価をめきめき回復させていて、こうなってしまうと人の数が多い分、畿内に富が集中し、周縁地域の富を吸い上げていってしまうのは明らかだった。

食えなくなってくると人は荒む。その上、主家の畠山家は河内から追い出されてしまうし、畠山と同格の細川家旧領も含め、いまの五畿内は阿波からやってきた土人の恣になっているのだという。そんな無法が通るかと憤れば、畿内の連中はこれこそが新たな時代だ、ついてこられないお前たちが悪いなどと嘲笑う。紀伊の民の誇りは、何重にも傷ついていた。

「近頃じゃあ“東国”に移り住む奴も増えてきているんだってなあ」

「は。紀伊の操船術は天下第一、潮に乗って遥か房総まで渡ることすら造作もありませぬ。近頃は東も賑やかになってきていて、我々の産物はなかなか重宝されているようですな」

高政の問いに直光が答える。自慢げに言うが、民の離散を喜んでどうするのだ。

「……“流れ”はこっちにある。“士気”も上がりに上がっている。だからこそ、俺は“腰を据えて”いくぜ」

「なぜですか」

「“兵”が恐れる十河は死んでも、“将”が恐れるべき長慶や実休さんはぴんぴんしているだろうが。慌てて戦えば奴らの思う壺だあ。いいか、俺たちは所詮寄せ集めだ。“数”と“熱気”しか取り柄がねえんだ」

「ならば、南北から蜂起、三好と長く対陣して……向こうの隙が現れるのを待つということですかな」

「“いい勝負”をしてりゃあ兵は更に集まる、練度も増していく。要は三好家も無敵じゃねえんだ、三好家に逆らってもいいんだなって、世に知らしめてやるんだよ。あっちは民の“安寧”が売り、こっちは民の“反感”が元手なんだ。戦が長引いて“損”をするのはあっちさ」

「殿……」

「なんだよ宗房」

「ご立派に、なられましたね」

「“上”から抜かしてんじゃねえよこの野郎」

宗房と直光は得心したようだが、この作戦だって穴は無数にあるのだ。一度でも敗れれば“熱”は冷める。相手は当代随一の戦上手が揃っている。だからこそ慎重に事を進めるしかないだけだった。“北”の六角がどれほど頼りになるかも分からない。いまは纏まっていても、戦況が変わり、長慶の調略が激しさを増しても一枚岩でいられるものなのか。あの頼りない義賢がどこまで果断になれるのか。

上気している宗房と直光。この二人とて、特に宗房だが、いつまで高政に従っているかどうか……。

河内を追われてから、高政は自分なりに対三好の軍略を考え続けている。三好家を相手にするには、いまの世の流れ、銭や物を生み出す仕組み、民の心のありようまで見通さねばならないことも分かってきた。考えれば考えるほど、三好家は化け物だった。どうしてあんな集団が生まれてしまったのか。どうして長慶は世の中を変えようと“躍起”になっているのか。なぜ、何の“得”があって。

あらゆる重みを全身に纏い、いよいよ出陣の日は近い。高政にとってはこれが真の“初陣”だった。

 

  *

 

六郎との和睦は次の開戦を知らせる鉦に過ぎない。

縁戚である六角義賢は、六郎の扱いの悪さを名分に攻め寄せてくるつもりであろう。秘密同盟関係にある畠山高政もいよいよ兵を挙げるだろう。すべて承知の上での決断だった。

「人生五十愧無功、花木春過夏已中……。絞り出す言葉すら祖先の力を借りねばならぬ、このわしを笑うか長慶。遂に諦めたわしを、落ちぶれ果てた主家を嬲って、楽しいか、満足か!」

「……何を仰るのです。巡り合わせさえ違っていれば……いまでも私たちは……」

長慶は落涙で答える。病に蝕まれ、やつれにやつれた六郎を前にして出てくるものは憐憫でも満足でもなかった。虚しさ、ただただ広大無辺の徒労でしかなかったのだ。

坂本から移送されてきた六郎を迎えるため、三好家側も長慶、慶興、宗渭、預かっていた六郎の嫡子昭元など、縁ある者が大勢集まっている。以前の京の主をひと目見ようと沿道には民衆も詰めかけていた。宗渭や昭元も袂で顔を拭いながら六郎を凝視している。長慶にも負けず劣らず、彼らにも様々な思いがあるはずだ。この交渉を成立させた宗渭は、どうすれば六郎、宗三、長慶の三人が笑って手を取りあえていたのだろうかといまでも考えているに違いなかった。

六郎と三好家の反目は数え切れない悲哀を生んだ。元長が使い捨てられ、一向宗徒や法華宗徒が利用され。和田新五郎と幹子の悲恋と、咽び泣く新五郎の老母。長政と長教の跋扈と、宗三の最期。去っていった孫十郎とあまね、戦乱に巻き込まれた無辜の民草たち。長かったようにも、束の間のことだったようにも思えた。そして、いまとなっては何のために皆いなくなったのか……。和睦とは、許すとは、あまりにも虚しくて……哀しい。

「……ふん。その様子、老いたのはわしだけではないようだ」

「ええ……。六郎殿にはよろしく養生いただきますよう」

「何が養生じゃ、態のいい幽閉であろうが」

「昭元殿と一緒に穏やかな時間を過ごしていただきたいのです」

「相変わらず平然と悪事を重ねる男よの、長慶!」

六郎が吠え、周囲が騒然とした。実態としては六郎が三好家に降伏した訳で、この場は長慶の温情を民草に訴えるために公開しているものだ。あまりにも六郎を立てて長慶が項垂れていては、逆にかつての家格というものを人々に思い出させてしまう。

そうした状況を察知し、慶興が二人の間に割って入った。

「これより俺が案内します。六郎殿の終の棲家は摂津の普門寺(大阪府高槻市)、いいところですよ」

「なっ……つ、終の棲家じゃと! お、お主は長慶の小倅か、おい、長慶、どういう躾を!」

「お静かに」

「わしが誰だか分かって」

「お静かに」

慶興が顔を六郎の鼻先まで近づけ、気迫で呑み込む。わなわな震えていた六郎も、どうしようもなくて従うしかなかった。慶興にとっては細川家など過ぎ去った旧き一族に過ぎない。祖父を殺した仇敵、母と離別する原因を生んだ腐れ外道という認識しか有していないのだ。世代を重ねればかつての常識も常識ではなくなる、六郎が慶興を通じて感じた恐怖はさぞ鋭くて深かったことだろう。

「では、一同ご機嫌よう」

誰にも有無を言わせず、慶興が颯爽と輿に乗せた六郎を連れていく。沿道からは三好家の若き次期当主に向かって歓声が上がった。

落ち着きを取り戻した長慶も、なんとはなしに沿道の見物客を見回した。慶興は着実に京の町衆から人気を集めているようである。おなご受けもよさそうだ、これならそのうちよき縁談でも――。

「!」

五十間ほど先の群衆、沿道から三列目、背伸びして慶興の馬を見つめている尼の姿。頭巾で隠れて分かりにくいが、あれは、間違いない。

帰ってきてくれた――。足元から眉間にまで痺れるような歓びが走り抜け、長慶は僅かによろめいた。

衰えゆく寿命の炎を前に、鞴を授かったような思いがした。

 

  *

 

行きは順調だった航海も、帰りは悲惨なものだった。

昼も夜もなく吹き荒れる波浪、突風、波浪、突風。どれだけ隠れていても潮を浴びることしばしば、目や鼻は焼けたように痛く、喉はねばねばしながら渇くという極めて不快な状態に陥った。

鑑真和尚が視力を失ったというのも分かるなあ……!」

「ちょっと、冗談じゃないわ! 絶対に日本へ辿り着くのよ、二度目なんてないんだからね!」

「安心しなさい、水夫はとびきり熟練の者を集めてあるのだから」

「本当なの? 天候だって絶対大丈夫とか言っていた癖に! いつもいつも調子のいい事ばかり!」

喚くいねに返事をしようとしても、上から降ってくる波、転覆せんばかりに縦横へ揺れる船体に翻弄され、その後は互いの悲鳴が渦巻くだけ。まともな会話にはならなかった。

いねが胃の中のものを戻しているのが見えた。知らぬ間に与四郎といねの身体には縄が巻かれていたが、船が砕け散ってしまえば命綱にもなりはしないと思ったことまでは覚えている。

ともあれ、気がついた時には海は凪いでいて、積荷はなんとすべて無事、遠目には九州が見えていた。

 

堺に帰ってきてから、いねはずうっと寝込んでいる。

彼女はもともと身体が強くない。気と口の強さは三好兄妹でも一番だが、少しの環境変化や疲労でも寝込んでしまうことが多かった。

寧波から持ち帰ってきた宝物がたちまち莫大な利益を上げても、いねの慰めには繋がらなかったようだ。嵐で揉みくちゃにされたことに加え、帰国後早々に一存の死を知ったことが大きかった。一存の武勇ぶりや髪型は九州でも評判だったようで、その死は肥前平戸にも伝わっていた。かわいがっていた弟の死に目に会えなかったことはとりわけ彼女を傷つけたに違いない。三日に一度は南宗寺に設けた一存の墓へ参るが、その後はぐすぐすと泣いて臥せっているのだった。

「姉上は相変わらずの調子かい」

高屋城から堺は遠くない。従来以上に之虎が顔を見せるようになっていた。

「……よくありません」

「父上の時も、母上の時もそうだったんだよなあ。義兄上は長生きしてくれよな」

それだけを確認して、之虎は店を出ようとする。

「上がっていかないのですか」

「もうじき畠山が攻め寄せてくる。茶を飲んでいる暇もありゃしない」

「戦が終われば一服ご馳走しますよ」

「ははは。戦勝祝いに明で手に入れた名画とやらでも譲ってもらおうかね」

「もう噂を聞きつけていらっしゃる」

「とにかく、一存がいなくなって和泉衆が参っていてよう。人手がどうも足りないのさ。姉上が元気になったら、之虎が助太刀を欲しがっていたと伝えておくれよ」

「ふふ、岸和田城の守りにでもつけるおつもりですか」

「そいつはいい! そうしたら冬康の配置に融通が利く」

いつものいねなら、本当に薙刀でも持って戦に行きかねないところはある。

「御武運を……」

「おうよ、これ以上姉上を泣かせちゃあ夢見が悪いさね」

軽やかに笑って之虎が去っていく。与四郎も表に出て、之虎の姿が見えなくなるまで見送っていた。

 

  *

 

別れた夫が天下に君臨しているというのも難儀なもので、あまねならばいまも長慶や慶興、長逸、久秀などに物怖じせず意見を伝えることができると、様々な立場の者に利用されかねない危うさがある。長慶がずっと琴をつけてくれていたのもそのためだろうし、実際に久秀はあまねを軽々しく扱わなかった。

畿内にいる限り、いや、日本中のどこに身を隠しても、いまの長慶ならばあまねを探し出すことは容易い。畿内の繁栄、久秀の様子を目の当たりにしたことで、覚悟はできていた。どこか知らない土地に移っても、琴に代わる誰かが追ってくるに違いないし、琴と過ごしたような日々は二度と手に入らないだろう。ならば、いっそ畿内に住居を構え、長慶や慶興に因果を含めて静かに暮らすことが互いの幸いではないか。

そう考えるに至ったあまねは多聞山城を後にして以来、どこに住むかを考え続けた。

丹波や西宮は顔見知りが多いし、今更顔向けもできなかった。堺は賑やかに過ぎるし、河内は長慶の、摂津は慶興のお膝元である。兄が眠るという若狭は朝倉・武田の連合軍と松永長頼が戦っていて危険極まりないと評判であり、結局選んだ土地は京であった。

京市街から見て吉田神社京都府京都市)の裏山。東山との間に挟まれた閑静な地域に、大変住みよい物件を得ることができた。遥か昔は宮家別邸だったという山荘が、折からの朝廷の窮乏に伴って一般に売り渡され、それから何代か経っていまは空き家になっていたものである。長慶と足利将軍家の戦、最近では六角家が近江から攻めてくるという噂もあって、なかなか買い手もつかなかったらしい。

京に移ってきてからも長慶の噂を聞かない日はなかった。鎌倉や岡部の頃は耳に入るのが辛かったが、最近は軽く聞き流せるようになってきたし、一度は長慶と慶興の姿を眺めに行ったこともある。十年以上の歳月は、少しずつでも離縁の痛みを癒してくれているようだった。京という町はどこを歩いても歌に詠まれているような名所旧跡があって、あの頃長慶が諳んじていた古歌が緩やかな風に混じって蘇ってくる。そんな思い出も、いまでは胸に優しく浸透してくるのだった。

歌といえば、長慶が飯盛山城で開いた千句連歌が話題になっていた。谷宗養や里村紹巴など優れた歌詠みが河内に集まってしまい、京の歌会はちっとも盛り上がらないし、日頃連歌の上手を自認していて長慶に招待されなかった者は恥ずかしくて外を出歩けないということである。飯盛千句は五畿内の名所を発句に織り込んであって、三好家の権勢を高らかに発信するとともに、一存の死亡による暗雲を払拭するような素晴らしい出来栄えなのだそうだ。

そうした噂を余所に、あまねは写経と、庭の手入れに励んでいた。山荘の庭は朽ちていたが、手入れをすれば花や紅葉を楽しめるようになるだろう。時間は幾らでもあるし、せっかくだから東慶寺のように季節の様々な花を楽しめる庭にしたかった。

夏場のため、まずは雑草を抜かねばならない。日陰の場所を選びながら作業をしていると、身の回りの世話をしてくれている老女が呼びに来た。

訪問客らしい。庭から表に出ると、山門から坂を上がってくる男が見える。

案の定、それは長慶だった。

 

先ほどまでいた庭に面する客間へ通した。以前の持ち主が“月の間”と呼んでいた部屋で、夜になれば静寂の中で観月を楽しむことができる。

細川六郎を迎えているところを遠目に見はしたが、長慶と間近で相対するとさすがに万感の思いを呼び起こされずにはいられなかった。それは長慶も同じようで、あまねの方を見つめたまま沈黙している。麦湯を運んできた老女は興味深げにしているが、まさか来訪者が三好長慶だとは思いもするまい。噂好きだから後で固く口止めをしておかねば。

「……お久しぶりです。一存殿と基速殿のことは……残念でした……」

「うむ……」

以前と変わらぬ素襖姿であるが、少しやつれたような印象を持った。加齢のためか、心労のためか。

「まさか、お一人でいらっしゃった訳ではないでしょうね」

「……下に、警護の者を待たせてある」

「そう……」

「東国は過ごしやすかったか」

「いまの時分は、鬼灯がきれいでした」

「そうか……鬼灯がな……」

また、沈黙が流れた。互いに、何を、何から話してよいのか分からない。気まずいというよりは、快い無言ではあった。二人で過ごす安らぎに抱きとめられているような……。

駄目だ、この雰囲気。流されてしまいそうになる。そう思った矢先、軒先に吊るしてある風鈴が鳴った。

「それで……今日は、何を」

「琴がいなくなったと聞いた」

「……」

「よかれと思って勅免を奏上してもらった。それは余計なことだったのかもしれぬ」

「……」

あまねの口から意見を言うべきではないと思って、文箱から琴の手紙を取り出し、相手に渡した。読み進めた長慶は、正虎もそうしたように文を割いて始末し、あらためてあまねに向かい頭を下げた。それ以上、長慶も琴や手紙については話さなかった。

「琴に代わる護衛などは求めておるまい」

「……はい」

「これを……」

今度は長慶が文書を取り出した。目を通してみれば、乱暴狼藉に対する禁制、それも三好家だけでなく、六角家、公方、朝廷、それぞれからの発給である。六角家とは敵対しているはずだが、長慶が骨を折ってどうにか入手してきたのは明らかだった。

「……ありがとう、ございます」

「戻ってくるつもりは……ないのだな」

「あたしはもう、六日のあやめですよ」

「戯れ言を……あまね」

長慶が膝ひとつ分、身体を寄せてきた。

無理に押し倒されようものなら……自分は抵抗しないかもしれない。でも、違う。それは違うんだ。

「あたしに、触らないで」

言って、あまねは長慶の頬を撫でた。

共に身じろぎもせず、しばらくそうしていた。長慶の顔は幽かに温かく、懐かしい薫りがした。

「……お腹、空いていませんか」

「む……ああ、そうだな」

「少し早いですけど……夕ご飯、食べていってください」

用意させたのはこの辺りで喜ばれているうどんで、茹で上げた後に水で締めた、つるつるもちもちしたもの。それに濃いめに取った出汁と、たっぷりの青物、漬物、煮込んだ牛蒡、胡麻などを添えて出す。味のよさに加え、見た目の涼感をも有しているよき食事だった。

「身体……よくないのでしょう?」

「分かるか」

「分かりますよ……。さ、これなら口当たりがいいですから」

促されて、長慶はうどんを啜り始めた。最初はうどんだけ……次に葱や胡麻の風味を楽しんで……。

ああ、この人は相変わらずひたむきに食べるんだな。食べ終わるまで話しかけるのはよしておこう。

「水と土の恵みに溢れている」

「ふふ、そうですね」

「うまかったよ、ありがとう」

冷めた麦湯を飲みながら、長慶の心地もひと段階落ち着いた様子である。

「……あの頃にはもう戻れないって……戸惑ってはいけないんだって……」

「……」

「思い出を大切に、心にしまって生きていきますから……また来世で、あたしに触れてくれませんか」

「……」

「あたしも……来世での口づけを誓いますから……」

「……」

「二度とお前さまを、離さないって……約束しますから……」

「……承知した。分かったよ……。さ……もう、泣かないでくれ」

「あたしの、勝手です……」

涙を拭くこともせず、立ち上がって風鈴を取り外し、長慶への贈り物とした。小田原で手に入れたもので、天文初頭の争乱を避けて東国に移ってきた河内の鋳物師が作っているのだという。

「そなたの選んだ暮らしを……尊重するよう、皆には伝えておく」

「……はい」

「来世で出会えたら、もうこんな約束も要るまいな……」

日が沈んでいく。坂を下りていく長慶の後姿は甚だ寂しげで、女を駆け寄って背を抱きたい思いにさせる。そんな衝動を堪えて、あまねは山荘の前から動かなかった。

 

  *

 

秋に入って一箇月。とうとう六角家と畠山家が攻め寄せてきた。敵兵の数は二万ずつ、南北同時攻撃である。予想していたことではあるが、若狭や丹波、播磨、讃岐、大和などに一定の守備を置いたままで二方面作戦を強いられるのは面倒だった。少し前には若狭で長頼が敗れており、丹波衆は態勢を立て直しているところでもあるのだ。

大きくは、慶興、長逸、久秀などが京に入って六角家と対峙し、之虎、冬康、長房などは岸和田城に寄せてきた畠山家と睨みあっている。長慶は飯盛山城に残って全体を睥睨していた。

戦が始まる直前、長慶は芥川山城の慶興のところに寄って、あまねと話した一部始終を伝えていった。聞く限り、父と母の縁は完全に切れてしまっていて、それを確認するための対話だったように思える。もともと分かってはいたのだろうが、長慶は見たことがないほど辛そうな面持ちをしていた。そんなに未練があるなら力ずくで連れ帰ることもできただろうに、父は素直にあまねの言い分だけを呑んで帰ってきたのである。

あまねが暮らす山荘は、東山の戦場からは程近い。それでも、慶興は長慶のように急いで訪れようとは思っていなかった。夫婦の縁は輪廻の先まで修復しないのかもしれないが、母と息子の縁は現世にいまも残っているのだ。

「なあ勝っちゃんよ。六角と畠山をやっつければ世間は俺が父上に並んだと思うかねえ」

「そりゃそうでしょうとも。どちらも天下に聞こえた一流大名でその上挟み撃ち喰らっちゃってるんだから」

「ようしだったらあいつら団子に搗いて平らげてしまおうかい」

「エーイ。とってもやる気あるみたいじゃない」

小手調べをした感触では、今回の六角家は相当に手強い。南の畠山家も同様で、国を奪われまいとする気持ち、国を取り返そうという気持ちは凄まじい士気と結束を生み出しているようだった。

この戦で長慶に並ぶ。そうすれば俺が鎹になって、三人の暮らしを取り戻せるかもしれないのだ。

 

続く

 

 

四十三 落潮の段  ――十河一存 有馬を舞台に激闘し、三好長慶 重臣と末弟を続けて失う――

四十三 落潮の段

 

本城常光が毛利家への寝返りを検討している。

当然の判断だろうと孫十郎は思う。これまでの常光たちによる働きを無視するかのように、新たな尼子当主である義久は毛利と和議を結んでしまった。それも、公方に懇願して間に入ってもらうという、形振り構わないやり方で。

反対に毛利元就が常光を高く評価していることは周知の事実になっていた。旅の僧侶や商人などが、元就が常光の武勇を敬い、叶うことなら手を結びたいと漏らしていると伝えてくる。証言する者の数は多く、毛利家は本気で常光を欲しがっているに違いなかった。これまで毛利家は石見や出雲に遠征するたびに常光によって手痛い敗北を喫してきたのだが、その憎い敵将を褒め称えて自陣に勧誘するとは、さすがは元就といった感じがする。大勢力の狭間で生きる国人は、生き残ること、自分を買ってくれる大将のもとで働くことがすべてなのだから、瓦解し始めた尼子家に忠節を立てる必要はないと思うのだ。

山吹城の曲輪、坑道の方角を眺めながら常光は言う。

「何度も内応を繰り返してきたこのわしが、今回はどうも踏ん切りがつかぬ。流れは毛利にあると、頭では分かっているのだがな」

常光が気にしているのは、自身の興亡よりも領民の反応であろう。何度も何度も殺しあってきた毛利の支配を快く受け容れられるか。大内の流れを受け継ぐ銀山管理や労役要請に従うことができるか。

「皆も分かってくれるさ。この地はいつだって激しい争奪に晒されてきたのだろう、そろそろ腰を落ち着かせてやるべきではないかな」

「ううむ、家を失ったと金殿に勧められると余計に不安になるわ」

「おい、銀蛇!」

「はは、よせよせ。冗談だ」

何度か戦に協力しているうち、孫十郎と常光はすっかり仲のよい戦友同士になっていた。家の先行きを左右するような相談も受ける。孫十郎も孫十郎なりの意見を言う。

「領民だけじゃないのか、不安は」

毛利元就という男、何を考えておるのかよく分からぬ。戦だけなら互角にやり合う自信はあるのだがな」

率直な吐露に、孫十郎も思い浮かぶものがあった。

「……わしもそうだったよ。最後はよく分かる方について、よく分からん方と戦った。そして、負けた」

「ほう」

「これからはよく分からん連中が世を治めていくのだろう。分かり易い方は、負ける方だ」

「さすが畿内育ちだな。と金殿も弁が立つではないか」

「五月蝿い」

「や、もっともじゃ。言われてみれば経久殿も晴久殿もよく分からぬところがあったが、それが頼もしくもあった。義久殿は素直に過ぎるのかもしれぬ」

感心したように言って孫十郎の肩をばんばん叩いた。これが彼なりの礼の仕方なのである。

「ま、大事なことだ。ゆっくり考えればいいさ」

「もうひとつ聞いておこうか。と金殿なら、どのような人物の下につきたい」

「……もう死んじまったよ。高潔……っていうのかな。近頃はああいう人が減ったな」

「詳しく話せ」

「嫌だね。昔を思い出すのは嫌いだ」

「あの金の軍配をくれたという男か」

「細かいことを覚えている奴だな」

常光は案外政情や人物の話を好むところがある。大名たちの思惑、利害、情動、あらゆることを頭に入れた上で、なおその知略のすべてを戦場に注ぎ込む本物の武人なのだ。

こういう男があの頃の細川家にいたら、宗三も随分楽ができたであろうに。

……いや、違うな。六郎と義晴と氏綱と長慶の間を行ったり来たりして、宗三を更に悩ませるだけか。

 

  *

 

播磨攻め前に有馬村秀が服属して以来、有馬温泉は三好家にとって安全に湯治を楽しめる場所になっている。尚子の勧めを受け、一存は少数の供と白雲だけを連れてしばしの休息を満喫していた。

金泉とも呼ばれる有馬の湯は塩気を含んでおり、舐めるとけっこうしょっぱい。その塩気が柔らかい湯の秘密、肌を滑らかにする源だと言われていて、実際に一存の湿疹はたちまち快方に向かってはいるのだが、どうも合点がいかない。塩が肌によいなら海水だって肌によいはずではないか。一存は海に入ったり潮風を受けたりすると途端に肌がぴりぴりと痒くなってしまうのだが、それと有馬の湯では何が違うというのだろう。

とまれ、名湯の呼び声に恥じない心地であった。

(今度は尚子も熊王丸も連れてきてやろう)

額に湯をかけて撫でる。

十日も過ぎれば肌の具合は抜群によくなり、おなごのような張りと瑞々しさが漲っている。合間合間には白雲の馬体も湯を浴びせながら揉んでやって、人馬双方が従来以上の元気を手に入れていた。

 

十三日目の夜明け前。

誰もが寝静まっている頃に起き出し、僅かな灯りを頼りに浴場へ辿り着く。湯に入ったら手持ち蝋燭も消してしまって、星空を眺めながらゆったりと浸かり、やがて訪れる日の出を拝んだら宿に戻る。宿に戻れば朝飯を腹いっぱい食べる。

これが一存の湯治法であり、今朝もそうしている。昨日から供を宿に残してもいることから、来るとすればそろそろ頃合いだった。

……案の定である。近づいてきた、覚束ない足と杖の音。

湯から上がって仁王立ちに待ち構える。現れたのは小さな老人だった。

「毎朝毎朝。お殿様は夜明けがお好きなのですねえ」

「がっはは。お天道様に何ら恥じるところがない、それがわしの誇りだからな」

「……羨ましいことで」

暗くてよく分からないが、どうやら老人は目が見えないらしい。それを抜きにしても放つその気配は太陽と真逆、暗い暗い闇の塊。

「で、お主は誰に言われて来た。畠山か、六角か」

「誰の命でもない、都を困らせる鬼を懲らしめにやってきたのですよう……くふふ、くふふふ」

「はっ。ずっと纏わりついていた妖気の正体、とんだ老いぼれ桃太郎ではないか。お主、珠阿弥であろう」

有馬に入った時からずっと尾行されていることには気づいていた。多勢ではないという確信があったから、あえて泳がせておいた。一対一なら一存に敵う者などおらず、暗闇では鉄砲や弓矢を使うこともできない。それでも挑んでくる者の勇気を買ってやるつもりだったのである。

遊佐長教を殺めた盲人の話は聞いている。鍼を使った、いかにも暗殺者らしい手管だったとも。相手が珠阿弥だということは、雇い主は公方かもしれぬ。しかし、これ以上は考えても仕方ない。

「手前も名が売れてきましたねえ」

「阿呆かお主は。闇討ちするでもなく面を見せてどうするというのだ」

「そんなことを言っていてよろしいのですか。お殿様とて白衣一丁、手ぶらでございましょう」

「ふん、甘く見たな。もうお主の負けは決まった」

「なんですって……むっ、この音は」

高らかな蹄。珠阿弥がどうこうする間もなく、背に飛鳥を括っておいた白雲が駆けつけたのだ。星明りを反射して輝く姿、虹が走ってくるようだ。

「よしよし、よう来た。……おい殺し屋、わしらの絆を知らなかったようだな」

「馬鹿な……この暗い山中を、真っ直ぐにここまで……」

飛鳥を受け取り、珠阿弥に向かって構える。容赦する気はない。

「覚悟はよいな」

「……リイリイ。得物を手に入れたとて……手前にも“躯の白杖”がある……」

珠阿弥も白木の杖を構えた。どうやらやる気らしい。

「ちえりゃ!」

踏込み、横に薙いだ。

想像以上の速さで珠阿弥が反応する。飛んだ、とんぼ返りに着地。そうして伏せた体勢から兎のように横っ跳ね! 気配が消えた。森の中に、闇の中に溶けた。

「ちっ」

揺らぎ。そこ! 飛鳥、弾く。弾いたのは、礫。その隙に珠阿弥は懐まで食い込んできている。

「くひい!」

白杖。下から一存の喉を突き上げる。寸前で身を反らし、顎先に掠らせながら……珠阿弥を蹴る。

手応えがない。かわされたと分かった途端に飛んでいた、再び行方を晦ましていた。顎の痛み、僅かに眩暈。たいそうな奥義を名乗るだけはある。なかなかの体術、盲目でよくも動くもの。

白雲が強く鼻息を吹いた。乗れ、距離を取って日の出を待てと言っている。

「その儀に及ばぬ」

自分を見失った方が負ける。本来の己でさえいれば最強の自分でいれるのだ。白雲よ迷うな、一存よ変わるな。迷いを振り切って――。

「……」

息をひとつついて、籠める、籠める……。

「うおおらああ!」

武庫の山々すべてを揺るがすほどの気合を放った。円い風、木々が揺れる、岩が痺れ、湯が跳ねる。

遅れたもの、それが動じたもの。

「そこじゃあ!」

右前方、全身を槍にして飛び込む、一撃、必殺!

「がっ……な、なぜ……」

白雲がいななく。飛鳥の穂先が正確に珠阿弥のど真ん中を貫いている。

「勘!」

抜いた。

弧を描き吹き出す血。ぬるい、臭い。浴衣が黒く染まっていく。珠阿弥、まだ息がある。

「くひ、ひ、かか……った。それでも、手前が、一枚……上手だ……た」

「ぬっ」

言い終わると同時に何かが顔に飛んできた。鍼、含み鍼。生じた、隙。腕を取られた。それを珠阿弥、己の傷口に――なんと突っ込んでいく。

「リイ……むくろのお……」

おぞましい温かさ、ぶよぶよぬめる不快な弾力が指先に触れる。……手首まで埋まっていく。はらわた、遂には固く確かなもの、骨! 消えかかった命で何をしているのだ、こんなことで!

「怖じ気つくものか! わしの無敵な心胆が! おおおおお騒ぎ出すわ!」

掴んだ。強力を込めて。へし折り、引っこ抜いてやる! べき! ばき! 身体を通して音が伝わる!

「うぎゃあああ!」

汚い悲鳴。珠阿弥だった白杖を掴んだまま顔面を殴り、頸骨ごと砕いて終わらせた。

済んでしまえばたいした相手でもない。この程度の刺客ならば何度も撃退してきているのである。

暁光。差し始めた。血まみれの一存を照らす。

気づかうように白雲が顔を舐めてきた。

「よせよせ、お前も返り血がついている。もう一度風呂に入ろう」

死体が転がっていると面倒臭い。卑しい刺客に礼は無用、珠阿弥の死体は崖から樹海に放り捨てた。

浴場は皆が使うものである。血が入らぬよう、慎重に距離を取ってから桶で何度も身体を流す。

土産話がひとつできた。それくらいのつもりだった。

 

  *

 

おたきの漬けた菜の花は清浄な味わいだった。緑の叢雲に黄色く灯る星々、抑えた塩気と野の風味。それを白飯に乗せて食せば、ひと口ごとに寿命が一日伸びるような思いがする。御成のような高級料理もよいが、このような質実の菜もまた愛しい。

「いいな、実によい。明日はこれで粥をつくってくれぬか」

「ええ、ええ。おじゃこも混ぜたらようございますよ」

「そうしてくれ。塩は少なめにな」

「心得ていますよう」

茂三の名が上がるにつれ、養母のおたきも生気が増しているようだ。いま食している菜の花漬けにしてもそれは表れていて、水気の残し方が絶妙である。充実している料理人ほど味付けだけでなく、むしろ火の入れ方や塩の利かせ方で水気の具合を上手く操るものだった。

いま、茂三は京に閉じ籠りになっていて、この飯盛山城にはなかなか帰ってくることができない。御成の料理を手掛けたことが評判を呼んで、日本中の料理人が教えを請いに上洛してきているのである。茂三自身の研鑽にもなるからと、長慶は快く交流を深めるよう言いつけてあった。茂三の身が多忙になるほど、おたきも楽隠居している訳にはいかなくなる。

「少し休んだら、野崎観音(大阪府大東市)にでも参拝するか」

「若様がご立派になられて、殿様は少し余裕が出てきましたねえ」

「ふふ。子どもというものはありがたいものだな」

いま、政権の定例実務は芥川山城の慶興がさばいてくれている。飯盛山城の長慶にまで持ち込まれるのは慶興や長逸たちだけでは判断がつかない高度な決裁事項だけで、その数は徐々に少なくなっていた。河内や大和の安定についても之虎や久秀の補助があって、何もかもを長慶が背負わなくてよいのだ。

少なくとも内政や外交に関しては、慶興の手腕は誰からも認められるようになった。摂津や京の国人、朝廷、寺社などとも朗らかに交際することができているし、とりわけ義輝との関係がよい。長慶の嫡子という正統性、政務の実力、朝廷や公方のお墨付という権威。すべてを備えた後継者と慶興が目されることで、三好政権の安定感は一層増しているのだった。血統や一門による政権体制をよしとはしたくないが、事実、家臣や民はそれを望んでいる。細川政権を打倒し、足利の家格をあれほど辱めても、染みついた常識はそう簡単に変容するものではないらしい。それを無理に変えようとしても要らぬ混乱を呼ぶだけではあった。

 

歯を洗った後、歌書などを読んで寛いでいると、慌てた様子で取次がやってきた。

京から石成友通が急ぎやって来たのだという。人払いをし、息を乱して友通が述べる。

「も、基速殿が息を引き取りました」

「なんだと」

「突然、胸を押さえて……」

基速は六十を過ぎていたはずで、急死することがあっても不思議ではない。

だが。

「不審な点は。近頃変わったことがなかったか」

「特に……。五日ほど前にも、京の各所へ挨拶に出向かれておられましたし」

「京」

政務の中核であり、元は義冬方の奉公衆だった基速。狙われる理由はある。

足音。速い。また誰かが来た。また何かあったのか。胸。動悸、疼き。

登場したのは動転している篠原長房だった。

「一大事にござる! 一存殿が……一存殿が!」

連なる災い。

いよいよ潮が引き始めたのか。

「……ならばここからだ。私の心魂が試されるのは」

呟いた。その長慶の形相を見た友通と長房が怯えていた。

 

  *

 

有馬からの帰途、岸和田城を目前にしたところで一存が落馬した。いや、落馬というにも語弊がある。一存と愛馬の白雲、両方の意識が同時に混濁し、共に崩れ落ちたのだという。真っ昼間の紀州街道で起こったことだから目撃した者も多かったのだ。

一存の風貌は和泉国に知れ渡っている。根来衆の侵略から何度も救ってくれたことは尚更だ。良民の手厚い看護を受けながら、身柄は直ちに岸和田城へ移送された。

四国から之虎のいる南河内へ向かうには岸和田はなかなか便利な位置にある。そろそろ一存が戻ってくるということもあって、康長と長房は岸和田城で待たせてもらっているところだった。そこに飛報。続けて、一存が運ばれてきた。

ひと目見てこれはいけないという直感があった。ただ事ならぬ事態を察知し、長房は長慶と之虎へ急を知らせに発った。今頃は民の間でも噂になっているはずだ。じき紀州にも知られるようになる。もしかすると畠山家や根来衆は“初めから知っている”ことすら考えられた。

 

五日後。

讃岐からは尚子と熊王丸が。淡路からは冬康と冬長が。畿内からは九条稙通に長慶と之虎、慶興、長逸などが駆けつけている。いないのは寧波からの帰路にいるはずのいね、遥か若狭で戦っている長頼、基速の抜けた穴を京で埋めている久秀と友通くらいだった。

慶興は名医の曲直瀬道三まで無理やり引っ張ってきていたが、“手の尽くしようがない”“生きているのがおかしいくらいだ”としか言いようがないのだという。問い詰めて分かったことは、重篤な病魔が幾重にも――毒と言った方がよいものが体内で巣食っているということだけだった。通常ならば同時に罹患するはずもない病の群れを、いったい一存と白雲はどこで得てきたというのか。

感染が広がる可能性も高い。一存と白雲は城の離れに移されることになった。

高熱、悪寒、激しい痛み。あらゆる病の攻撃が両者を苦しめているのだろう。城に入って以来、一存は一度も目を開かず、白雲はうずくまったままである。熊王丸と万満丸は稙通と共に城主の館で回復を祈り、尚子は自分にうつるのを恐れず一存の汗を拭っていた。

 

期せずして三好家の中枢が一堂に会したことになる。

「武と政の要が同時に狙われたということにならねえか」

之虎が単刀直入に言う。

「私もそう思う。畠山、六角。海の上にまで怪しい噂が聞こえてくる」

「六角の目覚め。これまで以上に気を締めて構えねばなりませぬ」

冬康と長逸。皆、この機に二国が同時攻撃してくることを想定していた。

「畠山も紀州国人の多くに調略を済ませている模様」

長房。河内や紀伊の情勢にも明るくなってきている。

「裏で糸を引いている奴がいるな」

再び之虎。長慶に向けて視線を送る。

「……十中八九、三淵晴員と進士晴舎であろう」

「じゃあ、また義輝公が敵に回ったのか?」

長慶の読みに、冬長が素直な疑問を皆に投げた。

「違うな。上様の知らぬところで、一部の奉公衆が好き勝手し始めたんだろうぜ」

慶興が答え、長慶が頷きながら補足する。

「少数派は過激になってゆく定めだ。……そして、証拠は決して残さない」

「……」

沈黙。

長慶と慶興の言う通りなのだろう。慶興と久秀が公方組織を壟断し始めて以来、義輝はお飾りの度を一層強め、奉公衆はばらばらに分断されてしまっていた。伊勢貞孝のような日和見派が右往左往しつつ、大勢としては親三好派が主流になっている。これは当たり前の結果で、かつて義輝を見限り朽木へ同行しなかった連中を大量に復職させたからだ。結果として晴員や晴舎は立場を失い、隠居して、表の権限をすべて失った。失ったことで、動きが見えなくなったとも言える。

「まずは一存の生命力が病に打ち勝つことを祈ろう。その上で南北の武備を増強、慶興は奉公衆の動きから目を離すな。もう……次に誰が狙われてもおかしくはない。身辺の警戒を怠らないでくれ」

「……」

「難局が始まる。真に恐ろしいのは陰謀などではない。溜まりに溜まった我ら成り上がりへの反感、無数の妬み、恨み、憤り。これを克服せねば陰謀も反逆も尽きることはないのだ」

「……」

「兄上よう。要は、誰も逆らう気が起こらなくなればいいんだろう」

「そうだ。まさしくその通りだ! やろうぜ皆、俺たちならできらあ!」

長慶の言葉に之虎と慶興が続き、一同が鬨を上げたことでこの議論は一旦お開きとなった。このような悲痛な場面においても、之虎と慶興は人を鼓舞する力に優れている。反対に、長慶が思い詰めた表情をしているのが気になった。

皆の鯨波は、一存の耳にも届いたであろうか。

 

翌日。

妙な噂が領民の口から聞こえてきた。

一存の落馬について、“久秀が更なる出世を望んで毒を盛ったのだ”だの“三好家の思い上がりが有馬権現の怒りを買ったのだ”だのというものである。

家中の分裂、あるいは民草の支持低下を狙った流言であることは明らかであり、集まった一同の中で本気に取る者はいない。皆、一笑に付すだけだった。

 

康長は堺の顕本寺まで馬を飛ばし、元長の墓前に跪いて祈った。

「兄上……一存をお救いくだされ、お守りくだされ。あれは皆の宝、兄上が最後に残した希望なのです。天上で命が要り様ならばわしの命を持っていって構いませぬ。何卒、お救いくだされ、お守りくだされ……」

自分は充分に生きた。目の前に映るのはもう過去ばかりなのだ。

元長に助けられた天狗入り、一存と長房を率いた天狗入り。

元長と馬を並べた自分の初陣、一存と馬を並べた一存の初陣。

吠える元長、吠える一存。つるぎに甘える元長、尚子に照れる一存。

涙と鼻水だけはこの齢になっても次から次へと垂れてきて、そのうち雨まで降ってくるのであった。自分が濡れることが何かの贄になるような気がして、日が沈むまで墓にすがっていた。

 

更に翌日、明け方の頃。

広間に集まっていた皆のところに、尚子の悲鳴が届いた。庭へ出て離れの方に目をやる。

離れから出てきたのは一存だった。

一存!

これは奇跡か。自慢の額や髭は尚子の手できれいにされている。漲る力強さはいつも以上だ。

「待て」

どよめく皆から一歩前へ出て長慶が一存を止める。

「どいてくれ。わしは往かねばならぬ」

「ならぬ!」

「慶兄、虎兄、冬兄。……すまぬ、後は任せた。すまぬ、恩を返せなかった」

違う。常時と違う。目だけではない。肌、額、爪、すべてが赤い。息づかいすら朱に染まっているようだ。

「一存!」

之虎と冬康が同時に叫んだ。兄弟の制止を無視して一存は進む。白雲。白馬が起き立った。一存に呼応して追ってくる。騎乗した。人馬が一体となった。

熊王丸! 万満丸! いずこ!」

「父上!」

稙通に連れられて少年たちが現れる。眼前の光景に稙通は両手を合わせて感涙し始めた。

熊王丸!」

「はは!」

既に子どもたちも泣き濡れている。

「讃岐の民に伝えよ、この先どのような難儀に遭おうと己を見失うな、讃州男の誇りを胸に!」

「……はい!」

「万満丸! 和泉、岸和田、この熱情の国を尊べ! 思いでゆけよ、気持ちで動けよ!」

「……応!」

「男の一生は死にざま九分、さらば、さらば!」

誰にもどうしようもなかった。長慶すら、この超常の出来事を見届けるしかなかった。

往かないでくれ。そんな無様な声すら出すことができない。

白雲に跨った一存は一度だけ皆の方を振り向き、歯を見せて笑った。

「突貫!」

疾駆。曲輪を横切り、抜け、跳んだ。信じられぬ、水掘の上を――。

宵闇切り裂く流星のように、朝焼け切り裂く飛鳥のように、人馬が宙を駆けていく。

康長の涙が地に落ちた時、一存と白雲も堀の向こうに着地した。一存が諸手を挙げ天に叫ぶ。

その姿勢のまま微動だにしない。鬼と馬は、既に絶命していた。

 

  *

 

十河一存と斎藤基速の急死について、慶興から激しく問い詰められた。

覚えのないことである。噂になっている久秀の仕業ということはさすがに考えづらいとしても、本当の病か、畠山辺りの仕業かと捉えていたのだ。

慶興は晴員や晴舎、すなわち晦摩衆の関与を疑っている様子だった。それなら義輝に報告があるはずであるし、第一彼らはおとなしく謹慎しており、晦摩衆も上杉景虎による関東争乱、今川義元敗死後の東海動乱など、各地の情報収集に充てられている。

義輝の無実を確信したのか、慶興は非礼を侘び、以後はこの話題を口にしなくなった。念のため、藤英経由で晴員と晴舎の様子を探ってみたが、何ら疾しいことは検知できなかった。

「考え過ぎだったようだな」

安堵して藤孝に言う。同意してもらって、これで終わりにするつもりだった。

「それならよいのですが」

「何か気になるのか」

「“問題ない”という報告ほど怖いものはありませぬ。本当に問題がないのか、問題が上がってこない集団になってきているのか……」

「……」

薄々義輝も抱いていた警戒心を、またも藤孝が先に指摘したのだった。

 

  *

 

一人旅は初めてだった。尼姿の四十女にちょっかいをかけるような者は滅多にいないだろうが、それでも本人にとっては不安なものである。

今川家は国人の離反が続き、あれだけ親密だった松平家ですら三河で独立する始末だった。岡部の行く末もまるで安泰ではない、いつ誰が駿河に攻め込んでくるか分からないと、佳はあまねの帰郷を促したのである。先の戦で岡部一族は義元の首を取り返すなどの大功を立て、今後も今川家に忠節を尽くす決意を固めていた。そう、その道が破滅の道かもしれないと、佳自身も覚悟しているのだった。

「何があっても死に急ごうとはしないで。生き延びて。ね、そして、また会いましょう」

涙ぐむ佳にそう伝え、あまねは里を後にした。八年も過ごした土地に何も残さず、我が身可愛さだけで。

 

清須(愛知県清須市)の賑わいは以前とは段違いだった。もともと尾張国の中心ではあったが、織田信長が移ってきてからは商業の発展が加速したのだという。義元による駿府の繁栄も大変なものだったが、行き交う人の数、市場に並ぶ品の数は清須が上回っているように思える。大国尾張の秘めた力を信長が充分に引き出したということだろうか。西国の山口や博多は焼けてしまったと聞くし、小田原や鎌倉などの東国は人の数が足りない。畿内を除けば、いまは清須が日本第一の都市なのかもしれなかった。

今夜の宿をこの町に決め、日没前に日吉神社(愛知県清須市)へ立ち寄ることにした。山王宮とも呼ばれるこの社は山の神を祀っていて、あまねとしては惹かれるものがある。

夕暮れ時のため境内に人は少ない。あまねも手早く参拝を済ませたところ、最前から石灯篭にもたれて屈んでいる少女のことがどうも気にかかった。両の掌を頬に当て、何ごとか勘案している様子である。

「申し……おなごが一人で、危のうございますよ。早くおうちにお帰りなさい」

「帰りたくないの」

まだ十代だろう。多感な頃だから、親と喧嘩でもしたのだろうか。

「親御様が不安になりましょう」

「そう、安心できないんだって。だから、結婚は駄目だって。どれだけお願いしても駄目なんだって」

「あら……」

あまねを尼だと思って恃みにしたのか、少女は懸命に経緯を説明してくれた。恋仲になった男と一緒になりたいが、相手が色々といわくある人物で、親の理解が得られないということらしい。その男はいまでこそ織田家の下っ端の中で重宝されているが、以前は各地を放浪して怪しい銭稼ぎをしていたのだと。

「変な奴だし、怖い時は怖いんだけど、絶対に憎めなくて。“俺は天下を獲るのだ”って法螺吹くような奴で」

なるほどと思った。家族の気持ちは分かる。どれだけ本人同士が好きあってようが、破天荒な男、常道から外れた男に嫁をやるのは二の足を踏んでしまうものなのだ。我が兄、晴通がそうだったように。

「ふふ、自信をお持ちなさい。恋は自分だけのもの、その方はあたしのもの。そう言い切っていいのよ」

「……へへ、比丘尼様がそんな風に仰るなんて」

「その代わり、何があっても悔いては駄目だからね。女は恋を背負って地獄に落ちるの。……頑張れ」

少女の背に手を当てて励ます。家の近くまで送ってやって、あまねも宿に戻った。もうすぐ、畿内だ。

 

続く

 

 

四十二 躯の段  ――三好長慶 五畿内の覇者となって飯盛山城に入り、三好慶興 足利義輝の御成を迎える――

四十二 躯の段

 

あろうことか、浅井賢政の小僧ごときに敗れてしまった。

定頼が臣従させていたあの浅井家である。水攻めという凄まじく銭のかかる手間をかけ、六角家の総力、二万の兵を繰り出したにもかかわらず負けてしまったのだ。

家臣や国人の結束を固めるため、独立の姿勢を明確にした浅井を成敗することで示威に繋げるつもりだった。両家の力の差を思えば負けるはずのない戦であり、大勢の見物客を集める気分で限界まで兵を募ったのである。いまにして思えばその弛んだ戦意を突かれたということなのだろう。惨敗とまでは言わないが、ともあれ野良田(滋賀県彦根市)の戦いは義賢の敗北に終わった。

またやってしまった訳だ。

これで、人心はますます義賢から離れる。息子の義治からは蔑んだ目で見られ、家臣たちには陰口を叩かれ、またもや離反する国人が出てくる。そうなるに違いないと思っていた。

だが、義賢の憂慮はよい意味で裏切られた。

六角家一同の士気、紐帯は強くなったのである。何がどうなっているのかまるで分からなかった。浅井の勝利など蜂に刺されたようなもの、彼奴らは力を使い果たしたが我らの武備はいまだ盤石、せいぜいよい気にさせておいてやろうと鼓舞する武将。いつの日か必ず水攻めを成功させてみせると雪辱を誓う土工・石工などの技能衆。そして、義治や蒲生定秀など、日頃は義賢に冷たい連中までが六角の真価を近隣諸国に見せつけてやろうと義賢を盛り立ててくる。

「いったい、これは……」

「侮っていた相手に追いつかれて、初めて危機を意識したということでしょう。このままではまずい。もはや、内輪揉めなどに興じている場合ではないと」

腹心、後藤賢豊が落ち着いて状況を説明する。

「当家には、まだまだ余力があるということか」

「……率直に申し上げて、これまでの我々は三割ほどの力しか出せていませんでした」

「三割か」

「甘く見て三割です」

「……」

耳が痛い。義賢とてある程度は分かっていた。皆、定頼の頃に戻りたいのだ。義賢が定頼のように国を治めてくれないから不平を漏らすのだ。それは六角家に愛着があるからそう言うのであって、真実見限っているからではないのだ。……ただ、義賢が定頼のように振舞おうとすればするほど溝が深まっていただけで。

「鉄は熱いうちに。いまこそ行動を起こすべきでしょう」

「うむ、浅井に報復じゃ!」

「それは違います」

「えっ」

賢豊が大きな掌を突きつけてきた。こうされると、後は講義を聞くのに似てくる。

「浅井は放置していてもよろしいでしょう。彼奴らがおれば屈辱を忘れることもない、引き締めに使えます。それに、勝って当然負ければ恥の上塗り、戦うにはよい相手ではありませぬ」

「ううむ……負けてそのままというのもなあ……」

「浅井の独立騒ぎなどいまに始まったことではありませぬ。勝とうが負けようが、領民も慣れてしまっています。それよりも、皆がいま、最も恐れているものは」

「……三好か」

「まさしく。“確実に”出ていこうとしている者は受け容れられても、“もしかしたら”侵略してくるかもしれない者が更に勢力を拡げることには耐えられない。それが人の素直な心なのです」

長慶が畠山高政への手切れを宣言していた。もうまもなく、三好と畠山の戦いが始まる。十中八九、三好が勝つ。気がつけば大和も支配下に置こうとしている。次の狙いが近江になっても不思議ではない。むしろこれまでに何度も戦っていることを思い返せば、攻められて当然という気すらしてくる。

「それは……わしだって、できることなら三好に一泡吹かせてやりたい。六郎殿への筋も通るし、都に隠然たる影響を与えた父に近づくことにもなろう。だが、だがな……」

「若様や蒲生たちですか」

「それよ。浅井退治では一致できても、三好が相手となると余程の秘計でもなければ」

「確かに、商人衆などは三好と事を構えるのを嫌いましょうが……。今回ばかりは、家中は対三好で頭が揃うと思います」

「なぜだ」

「仮に三好と気脈を通じていたとしても。一戦交え武威を示し、“侮れぬ奴”と自分を高く売る必要がある。安易に頭を下げれば畠山のように国から追い出されるかもしれぬ。そう考える者が増えてきています」

「そうなのか」

「色々風説も流れているようですな」

「……」

「このまま畠山が敗れれば、三好に対する恐怖と反発は更に高まりましょう」

「む、むむう」

「そこで我々と、紀州侍を束ねた畠山が同時に立ち上がれば」

賢豊が両腕を上下に広げ、縦に挟み込んでみせた。

「おお……!」

「しかもその時、三好家中では不運が続いていたとしたら……」

「ほうほう。……ん、んむ? か、賢豊?」

思いつきで話している訳ではないことにようやく気付いた。外交と陰謀が裏にある。義賢のために、既に段取りを進めてくれていたのか。

「蝉取、再び――。あります。秘計はあるのです」

 

  *

 

つるぎが吊るしてくれた蚊帳の中を覚えている。

あの年も蒸し暑い日が続いて、蚊が多く湧いた。いねや弟たちは蚊帳に入るのが下手で、必ず三匹、四匹と侵入を許してしまう。幼い千満丸はそれを嬉々として潰していった。上手く入り込んだつもりだろうがどこにも逃げ場はないぞと、嗜虐心が芽生えたことを覚えている。

「長房。千を率いて干上がった川沿いに迂回し、あの一本杉のある丘まで走れ」

「はっ」

「お前が着く頃に敵の左陣と中央の距離が広がるからよう。そこに突っ込むんだ」

「分かりました!」

「物わかりがよくなってきたじゃあないか。いいな、敵の身体の足りないところに我々の身体の余ったところを挿して塞ぐんだよ。お前が四国衆の象徴だ」

「……ご勘弁を」

すぐさま長房が走り出す。付き合いも随分長くなり、“なぜ”だの“教えてくれ”だの言わなくなってきていた。之虎だけが見えているものを、見えずとも信じることができる。それは、之虎にとって最も恃みに足る振舞いだった。

「よおし、俺たちも行くとしようかい。呼吸を合わせるんだぜ、ぶつかったら息を止めて十数える、三つ息継ぎしたらまた十押し続ける。その繰り返しでちょうどよいだろう」

自慢の精鋭、愛染衆には一分の乱れもない。どこまでも整然と之虎の思い通りに動くことができる。

「掛かれ!」

激突。半刻、一刻――。今日も戦場は之虎の成すがまま、予言者にでもなったかのようだった。

之虎がこしらえた波間に狙い通り長房が突っ込んできて、その機に押して押して包んで敵将を仕留めた。これで、破った敵衆は五つ目。長慶も飯盛山城を守る宗房を追い、久秀は大和の畠山方を倒している。高政は会戦を避けて各所でこちらを翻弄し、長期戦に持ち込むつもりだったのだろうが。

「透け透けだぜ、高政さんよう」

一つひとつ迅速に潰してやったぞ。死ぬまでやるかい、尻尾撒いて逃げるかい? まあ、逃げるだろうな、ここまでいいところなく敗れてしまうと。

満を持して登場した之虎と阿波侍は、河内衆も根来衆もまるで寄せ付けなかった。舎利寺の戦いに続き、またしても之虎の軍才が畠山家を屠ったのだ。根来筒という“大人のおもちゃ”を大量に野戦へ投入してきたのには興を引かれたが、それがかえって敵の指揮を単調にし、射程と拍子を先読みすることで容易に出し抜くことができていた。

結局、敵のある者は降伏し、またある者は紀伊や大和の山奥へ逃げ去っていって、あまりにも呆気なく河内国は三好家に降ったのである。

 

長慶の陣幕に赴いて戦勝を喜び合う。

「……飯盛山城に移るんだって?」

「ああ。芥川山城には慶興を残す」

「そうか、ははは。息子を認めてやったんだな」

「京に長逸、摂津に慶興。和泉には一存、大和は久秀。そして高屋城にはお前が入った。飯盛山城は五畿内の中心であり、水路を使えば堺や四国へ渡ることもできる」

状況に応じて居を移すのは長慶の得意技である。細川家の後継者から五畿内すべてを治める立場に変わったのなら、長慶がいるべき土地もまた変わるということなのだろう。嫡子の慶興が聡明だから、長慶が京から更に離れても大事にはなるまい。

「木沢長政の根城なんぞでよく暮らす気になるよなあ」

「ふふ。初心を忘れないためにはよかろう」

河内を奪ってやったとはいえ、高政や宗房は行方を晦ましている。畠山家の逆襲が予測されることから、之虎もしばらく南河内に居座るつもりだった。幸いにして四国情勢は落ち着いており、長房や康長と役割分担すれば問題はない。気になるのは天霧城の香川氏くらいだが、それも長慶と冬康が毛利家と友好を深めてくれたり、その裏では大友家を支援してくれたりといったお蔭で当面は放っておける。

新たな棲家、高屋城。河内国守護所として聳えるこの城には、持ち去れなかった畠山家累代の宝が多く残されていた。東高野街道の利権を掌握し、全国に名高い鋳物など職工業を牛耳る政庁でもある。これからどれだけの財を得ることができるのか、想像するだけで笑いが止まらなかった。

 

  *

 

もはや紀伊か大和かさえ分からぬほどの山奥。

こんな秘境にも人はけっこう暮らしているものだった。中央の噂もしっかり届いている。ありがたいことに、畠山家に無法な乱暴を仕掛けた長慶に反感を抱いている者が大半である。この辺りは古くからの善良な価値観が生き残っていて、口を揃えて長慶は悪い奴だと言ってくれた。外敵に敗れた畠山家当主を温かく迎え、河内の奪還には協力を惜しまないと起請文まで差し出してきたのだ。

実力で勝る三好家を凌ぐには、向こうの兵糧切れを待ちながら六角が兵を挙げるのを待つしかないと考えていた。そのためにあえて兵力を集中させず、河内や大和のあちこちに兵を埋伏させた。ぶつかっては離れを繰り返し、敵の消耗を誘う策だった。

だがそれは、三好之虎によって完全に見抜かれていた。あの野獣はこちらの思惑や動静をこちら以上に分かっているのか、行く先、行く先で既に待ち受けていては高政や根来衆を弄んだのである。自分たちは鼠で、之虎は狩りに興じる化け猫のようであった。

「“実休さん”に“鬼十河”……。おい、どうすんだよ。河内も和泉も塞がれちまったじゃねえか」

「は……。せめてどちらか一人だけなら、まだなんとかできそうな気もするのですが」

「お前“ちょっと”根来筒で撃ち殺してこいよ」

「ご、ご無体な……」

之虎は“物外軒実休”という僧名も有している。物欲天下一と呼ばれる男が物外軒とはおこがましいが、戦の腕前は本格としか言いようがない。冗談でも何でもなく、暗殺くらいしか打つ手が思い浮かばなかった。紀州兵を糾合して六角家と南北挟み撃ちという策が成ったとしても、とどのつまり戦場で之虎を倒すことは不可欠なのだ。しかも、この前の戦には不参加だった十河一存が隣国に控えている。

「右京よお。こうやって山ん中巡って、どれくらいの兵が集まるかね」

「三好家への反発が高まっているとはいえ、相手は限りなく強大。いまだ様子見の者が多く……」

「“何人”かっつってんだよ」

「……一万」

「全然足んねえ!」

「何か勝ち目でも見えれば……その倍は集まると思いますが」

「じゃあこしらえろや、“勝ち目”」

「そんな……。そ、それより殿」

「あんだよ」

「我々……迷っておりませぬか」

言われてはたと足を止めた。鬱蒼と茂る森、森、森。最後に見た人家から、二刻は歩いている。後ろに続く供回りを睨んだ。彼らの面も途端に青ざめる。慌てて周囲の様子を確かめに散ったが、間違いのない道にいる確証は得られなかったようだ。

「おい、お前紀州生まれだろうが。“ここ”は“どこ”だよ」

「拙僧はこの辺りには……。殿がずんずん進まれますので、てっきりご存じなのかと」

「ああ! “俺”のせいだってえのか!」

日は既に傾き始めている。強面の武辺者揃いだとはいえ、夜には狼も熊も出るだろう。何より、山中で迷ってしまうと体力を激しく持っていかれてしまう。道はいつしか獣道に変わっていた。行けども行けども目的の集落はおろか、人の痕跡すら見つからない。そうこうするうちに赤い陽射しが木々の間から降りてきた。

一旦野宿の構えを取るか、もう少し歩き続けてみるか意見が分かれたその時。

「殿! こちらに何やら柵が!」

近習の一人が叫んだ。救われたような気で一同が集まってみると、確かに白木の柵が張ってある。だが、こんな人界から離れた地に何やらしんと厳かな気配。奇妙といえば奇妙だった。

「獣除けの柵かね」

「これは結界の類かとお見受けいたします。殿、触らぬ神に祟りなし……あ! 入ってはなりませぬ!」

「いいじゃねえか、“誰か”いるなら道を教えてもらおうぜ」

柵を越えてお邪魔してみれば、なるほど、右京の言う通り何者かの聖域らしい。さして広くもない一帯の中央に、紙垂を垂らした楠木と石塚、それにあばら屋が見えた。近づいてみれば石塚は随分古い物らしく、何らかの由来が彫ってあるが文字は判然としない。かろうじて菊水らしき紋が分かったくらいである。

ならばあばら屋はどうかと右京が中を伺ってみた。

「あっ!」

腰を抜かさんばかりの騒ぎ。妖怪変化でも出たかと思って高政も覗いてみると――。

「うお! こ、こりゃあ“遺骸”かよ。女の……お、おい、死んでるよな、そいつ」

「は、はい、逝っておりまする。ただ、つい先頃まで生きていたような……それに……」

落ち着きを取り戻した右京が遺体を検める。よく見てみればこの白装束の女、極端に痩せ細っていて枯れ木のような肌合い、尋常の死にざまではないように思われた。

「飢え死に……と言うより、即身仏の一種でしょうか」

「なんだあそりゃ」

「殺生を封じ、僅かの穀物を糧にゆっくりと涅槃に近づいていくのです。ほら、ここに干した果物がありました。肉も魚も口にせずに身体を清め、これだけで何箇月も過ごしていたのでしょう」

「女行者かよ。珍しいな、どこの宗派だ」

「さ……そこまでは。いずれにせよたいしたおなご」

右京が手を合わせ、高政たちもそれに倣った。何か、気高いものに出会ってしまったようだ。この女は徐々に朽ちていく己の命を見つめながら、どんな思いで最期を迎えたのだろうか。

「おい。“経”でもあげてよ、その“塚”のところに埋めてやれや。この女にとって大事な場所なんだろうよ」

「え。そっとしておいた方がよくはありませぬか。迂闊に関わって、殿の身に障りなど生じては」

「女は女、不憫だろうが! どうせ今夜はここで寝るしかねえんだ、“一宿一飯”の礼だよ」

「わ、分かりました」

高政の癇癪を恐れた右京と近習が言われた通りに動き出した。棺桶がないが、まあそんな細かいことを気にする女ならこんな死に方は選ばないだろう。女が遺した果物の干物を食ってみる。……甘い、うまい。噛み応えがあって力が湧いてくる。果物を入れた箱の脇には、紙でこしらえた蝶が飾られていた。

 

  *

 

飯盛山城で永禄四年(1561年)の正月を迎え、やがて生駒の桜が開いた。

 

生駒山 まぢかき春の眺めさへ かぐわふほどの花ざかりかな――

 

景色を眺め、一人歌を詠む。

この城の眺めは格別だった。五畿内すべてに目が届き、海の向こうには遥か四国をも望むことができる。長慶の一生の軌跡が視界に入るようで、長かったような短かったようなと――感慨を呼ぶ。

元長の滅びが始まったこの城。長政の野望を育んだこの城。思えば、幼少から青年期を通してこれほど因縁のある城もなかった。そんな場所の頂に立って、晩境に入った自分が桜を眺めているのだ。

“老衰”。

曲直瀬道三の下した診断である。

この地に移ってからも気怠いことが続いて、都で評判の医師を内密に招いた。身体をあちこち触られ、問診を繰り返した末の結論がそれであった。

「そうとしか申しようが……。頭脳には些かの翳りもありませぬ。明確な病の発症もございませぬ。ただ……肉体の内面、奥の奥、底の底のところで……精気が衰え、休息を欲しております」

「……つまり、治す術はないということですな」

「……」

「そうか、四十で老衰か。ふふ……奇縁というものだ」

「このような症例を見るのは拙者も初めてです。どのような暮らしを重ねれば……」

「生命の灯火が消えようとしている。それが分かっただけで充分です」

道三との会話を思い出す。

やるべきほどのことはやったという思いがする。後は沙羅双樹の花の色がいつ変わるか、だけだ。

五畿内を制した長慶に対する反感は日増しに高まっていた。畠山との縁が強い紀伊はもちろん、次の標的だと自覚している近江や伊賀、若狭でも蜂起の兆しが見える。これまで友好的だった毛利も警戒を強めている気配があった。

長慶の生涯最後の敵は民衆そのものである。細川家内乱の時代に育まれた畿内の風潮が、長慶の台頭に伴って全国に広がっている実感があった。成長し、知恵と武力を蓄えた民は、施政者を自らの手で選ぼうとするようになる。一人の民は一個の兵力、一貫の献金となって強大な力を育む。

理世安民の先にあるものは、それぞれの理を掲げて長慶に反抗する民草の姿でもあった。

中央で圧倒的な支持を得て長慶が大きくなればなるほど、周縁では反長慶の勢力もまた大きくなる。畠山高政六角義賢、彼ら個人の力量などはもはや問題ではないのだ。同様に公方の忠臣もより暗い陰謀を企むようになる。三淵晴員、進士晴舎、彼ら個人を成敗することはもはや解決策にならないのだ。日ノ本全土の民草が、どれだけの試行と躯の果てに“納得”するか。それだけが肝心なのである。

“むにゃー!“

夜桜の声が聞こえた。

大方、狸と喧嘩でもしているのであろう。飯盛山には妙に狸が多く、中にはとんでもない化け狸もいると聞く。夕暮れ時に見目よい娘から声をかけられれば、まずは狸の仕業だと思った方がよいそうな。

慶興はすっかり猫の世話を放棄してしまい、黒豚一家も長慶がいないと寂しがって五月蝿い。結局、芥川山城で飼っていた獣はすべてこの城に連れてきていた。

もう一度景色に目を移す。この世の有り様が眼下に広がっている。

美しいものだ。どれだけこうしていても、見飽きることがなかった。

 

  *

 

征夷大将軍として家臣の館へ御成を行う。あの長慶から真っ当なもてなしを受けるのは、これが初めてかもしれない。三好家の総力を挙げたその歓待は古今無双と呼ぶに相応しい招宴であった。

三好家の一員であり、公方奉公衆の一員でもある慶興と久秀が間に入って、太刀の献上や猿楽の披露などを進めていく。三好家重臣の酌を何杯も受け、長慶自慢の“包宰”坪内茂三の料理に舌鼓を打つ。これだけのよい思いをさせられれば、過去のわだかまりも霧散していくような心地がする。

殊に茂三の料理は素晴らしいもので、七大本膳と菓子、計四十三皿の美食を堪能することができた。五十人からの参加者に一人当たり八十貫もの費用をかけたというだけあって、食材は贅を尽くしたものである。日本全国から集められた鯛、するめ、蛸、海老、鯨、海月、蛤、唐墨、蟹、鶉、鮑、鱧、鯉、鮒……などなど。それに雑煮、麺、羊羹、汁、寿司、造り、おちん、蒸し物、合え混ぜ、蒲鉾……技を尽くした調理がなされている。甘、酸、塩、苦。舌がすべての役割を果たす。淡いもの、濃いもの、爽やかなもの。固いもの、柔らかいもの、弾力に富むもの……。めりかり優れた流れを生み出す茂三の才覚は当代一の名に恥じないものであった。

同行させた“小侍従”久乃もおおいに満足しており、義輝も男児としての面目を施した気分。慶興には“相変わらず仲がよい”とからかわれたが、それもくすぐったいような快感に繋がる。義輝と久乃の親密さは既に都の評判になっていた。

足利と三好がひとつになったかのようなこのよき晩餐会。段取りをつけた有能な慶興と、臣下の忠誠を充分に引き出した義輝。思い描いた新たな秩序が完成しつつあった。長慶がどれだけ周辺国制圧という欲と野心を燃やそうが、足利公方の権威は盤石だ。三好の力が増せば増すほど、その上位に位置する義輝の力も増していくのだ。

“将軍親政”という執着を捨てるだけで、これほど上手く物事が進むとは思わなかった。長慶という“副王”を得たお蔭で、毛利と尼子や大友の争いだの、松平元康の独立だの、和睦の斡旋も以前より滑らかに話が運ぶようになっている。天下に対してよいことをしているという確かな喜びが義輝の胸にはあった。

長慶は今日も恭しく客たちの相手をしている。三好家総領としての彼は、晴員の言葉を借りれば妖魔、化け物の類である。しかし、義輝直臣としての長慶はどこまでも穏やかな常識人で、心から安らかな世を望んでいるかのような物腰の柔らかさがあった。その二面性を恐れる者も多いが、義輝は飼いならせる気になってきている。奉公衆や公卿が長慶におもねろうが、昔ほどは気にならなくなった。

「三好殿はよき嫡子を得て果報者じゃ」

「それよ。今川義元尼子晴久。英雄と謳われた者でも、本人が逝ってしまえばどうにもならぬ」

「まこと、次世代の英才を育てるのも難事業というもの。それを成し遂げた三好家ならば、ももとせでも覇を唱えることになるじゃろうな」

御成の主客である義輝の面前でも、平気で長慶を称賛する者たち。これがいまの都の縮図ではあった。それでも、分かる者には義輝の器量が分かる。いつかその時が来れば、長慶が義輝を頼ることもあるだろう。三好が傾くことがあれば、足利が表に出る日もくるはずだ――。

「なに静かにしてるんですか。盛り上げていきましょうよ!」

慶興だった。この気持ちのよい若者は、いつの間にか公方と三好の懸け橋になってしまっている。かつて自身でそう言っていたように、この狭い京盆地の上に咲いた大空のような男だった。

「誰もが汝のことを褒めているな」

「俺? まっさかあ。父上と比べれば月とすっぽんですよ」

「謙遜することはない。余の目から見ても、汝の才覚は長慶に勝るとも劣らぬ」

「へえ、それがほんとならありがたいですけどね。早く父上に追いつきたいとは思っていますんで」

「追いついて、どうする」

「母上に褒めてもらうんです」

ふざけているようにも聞こえるが、おそらく本心なのだろう。波多野家は既に滅び去った上、長慶の妻は別れて以来いまも行方知れずだと聞いている。褒めてもらおうにも、まずは母を探すことから始めなければならないはずだ。いまでも母親と仲のよい義輝は、その点では恵まれていた。

「汝の天秤は、天下を治めることより母親に愛でられることの方が重いようだな」

「そんなことありませんよ。どこの家にも俺のような子どもがいて、星の数ほどろくでもない大人がいる。こんな世の中を、もっとよくしていかないとね」

「ふははは、その通りであるな」

慶興とは気が合う。先日も義輝の館に招いたし、一緒に鹿苑寺金閣京都府京都市)を見物しに行ったりもした。慶興と力を合わせれば、この京をとこしえに鎮守していけそうな気がする。

「あら、楽しそうですこと」

席を外していた久乃が戻ってきた。

「やあ、小侍従殿」

「慶興様も大変なご評判で」

「またそれですか。まったく、お二人は気が合っているようで羨ましい」

久乃は如才なく、慶興や久秀とも親しく話すようになっている。

そう言えば、慶興は女人に興味がないのであろうか。母、母と言っているくらいだから、まだ嫁取り以前の段階なのかもしれない。それとも、忘れがたい女でもいるのだろうか。

今度、二人の時に聞いてみよう。たまにはからかい返したいものである。

 

  *

 

「上様にあのような辛抱をさせてしまって」

「おいたわしや、このままにはしておけまい。いまこそ一矢報いるべき時だ」

着々と準備は進んでいるが、それ以上に状況は悪化しているように思えた。

三好長慶は既に河内と大和の侵攻を終え、五畿内の太守としてますます威勢を盛んにしている。いままさにこの夜、長慶の京屋敷では義輝を招いた御成が行われており、長慶と慶興が三好家の品なき力を見せつけるような騒ぎを繰り広げ、義輝に肩身の狭い思いをさせてしまっているはずだった。

「長慶め、公方の窮状を嘲笑うかのような大盤振る舞いなど」

「そのことよ。世間に自分たちの財力を見せつけ、上様に餌でも恵んでいるような気でいるのだろう」

「成り上がりの痴れ者め。健気にお付き合いされている上様が不憫でならぬわ」

「こんなことが続けば。いまは三好に合わせているふりをされている上様も、そのうち本当にお変わりになってしまわれるかもしれぬ。晴員よ、我らの使命は重いぞ」

「そうだ。上様が耐えておられる間に、我々がいま以上に働かねば」

義輝には晴舎の娘、久乃をつけてある。訪問者との会話も義輝が漏らす思いも、すべて晴員のところへ集まってくるようになっていた。どうやら、義輝は三好との融和に努めることで自身の権威を守ろうとしているらしい。もちろん、それは義輝の本音ではないだろう。本音のはずがない、本音であってはならない。晴員と晴舎は、義輝は高度な偽装をしていて、長慶の政権を覆す機を静かに待っているのだと解釈していた。

隠居の態を取って以来、晴員も晴舎も義輝との接触は避けている。藤英などの奉公衆を使って策略をすり合わせることすらやっていない。何もかもを晴員と晴舎で済ませてしまってから義輝に報告するつもりだった。顔を合わせなくても、綿密な打ち合わせがなくても、義輝との信頼関係は不変だからだ。下剋上の風潮を正し、将軍自ら世を統治するあるべき時代を取り戻す。義晴以来の確固たる悲願なのだ。

「朝倉は松永長頼と若狭で睨みあうのが精一杯、尼子は晴久を失って家が揺らいでいる。所詮、遠国の者どもは役には立たぬわ」

「まさに。今川も国人の離反が相次ぎ収拾がついておらぬ。“上杉”景虎は北条領を席巻しているというが、すぐに上洛ができる訳でもなし。畢竟、畠山と六角だけで三好を討ち果たす必要があるということだ」

晴久のいなくなった尼子家は今川同様、家を保つことすら難しいという始末で、公方に泣きつき毛利と“雲芸和議”を結んでいる。和議が成れば三好包囲網に参加させようという下心もあったが、とてもそんなことができる状態ではないようだ。

「この御成でも痛感したが、あの慶興がよくない」

「同感だ。あの小僧がいる限り、三好の士気が挫けることはあるまい」

「上様を誑かそうとしてもいる。いざという時の備えをしておかねばな」

晴舎が頷く。三好政権の最悪なところは、中枢にいる人物が軒並み若いことだった。長慶が四十歳、之虎が三十五歳、慶興に至っては二十歳に過ぎない。このままの速度で侵略が続けば、彼らが寿命を迎えるまでに日ノ本は三好一色にされてしまう。

「まずは南北挟撃の狼煙を上げねばならぬ。晴員、わしの後ろへ下がれ」

「む」

「珠阿弥、姿を見せよ」

合図に応え、庭先に例の盲人が現れた。白い杖を片手に、毛皮と襤褸を纏った異様な姿。加えて、以前よりも遥かに禍々しい瘴気を帯びているように思われた。

「晴舎様、仕上がっておりますよ」

「“躯の白杖”。晦摩衆の秘術、よう修めてみせた」

「老い先短いこの身体、鬼を抱いて逝ければ幸いでございます」

「誉れ。お主こそ我らの誉れよ。逝け。逝って本懐を遂げて参れ」

「ええ、ええ。ああ、楽しみだ。リイリイ、楽しみだなあ。くふふ、くふふふふ」

笑い声だけが残り、闇の中へ姿が溶けていく。

「あの男、もとは盗賊だと言ったか」

「俊敏天下一と謳われた大盗。無謀にも義晴公の秘宝を盗もうとし、賢光の手で捕らえられた」

「それがどうして晦摩衆に」

「人の意志を操るのは難しいことではない。命を救ってくれた公方に恩を返そう、光を失ったことを活かして命を盗む技術を身につけよう。そう自分で決心したのだと思っている。躯の白杖……貧民窟を巡り、汚物を身体に揉み込み、病人と口づけするようなことも……己で選んだ死にざまだと信じている」

「なるほど、不埒な賊を上手く活用したものだ」

「屑のような命を役立ててやるのも我々の務めだからな」

晴舎の表情には驕りも嘲りもない。真剣に仕事をしている者、役目に命を懸けている男の顔だった。

 

続く