きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

三十八 あけぼのの段  ――足利義輝 織田信長の上洛を喜び、三好長慶 細川藤孝と桜を愛でる――

三十八 あけぼのの段

 

心惹かれる招待だった。こういう密会なら進んで出向きたい。人を知る、知恵を得る、誼を通じるには対面こそが最適で、伝聞や書状といった手段にはおのずと限界があるのだ。

何しろあの織田信秀の嫡子である。斯波氏や同族、実弟などとの争いを切り抜け、大国尾張をほぼ一統してしまってもいる。その器量と野望には常々関心を抱いていた。

「……まさか、天下執権殿へこうも簡単にお目通りが叶うとは思いませなんだ」

やや甲高い声で信長が感想を漏らす。

会合は深夜、堺の三好邸で行うこととした。ここならば信長の宿所からも近いし、人目に触れる恐れもない。表向き、信長の上洛は義輝への謁見を目的としている。和睦したとはいえ、長慶とも気脈を通じていると知られれば公方はいい顔をしないだろう。信長がそういった気遣いをするのは当然だし、長慶としても体裁にこだわるつもりはなかった。

「気兼ねなく。私もあなたに会ってみたかった」

長慶の反応は信長にとって予想外だったらしい。嬲られるようなことも覚悟していた顔だった。そのせいか、からかっているのかとでも言いたげである。

「三好殿に気にかけていただくほどの武功もありませぬが」

「……織田信秀殿。ふふ。全国に群雄が割拠する中でも、信秀殿ほどの武将はそうそう現れますまい。若い頃。いずれ天下に名を上げれば、覇を競う相手は信秀殿になるのではないかと考えていたのですが」

「親父がですか」

「既に天に昇り、星となられたのは残念でしたな」

ますます意外そうである。信秀のことを久々に思い出したのかもしれない。もしくは、若い時分の長慶が信秀に着目していたことに怖じ気でも覚えたのだろうか。

それにしても、信長とは思っていることが素直に顔や声に出る、なかなか気持ちのよい若者であった。

「……烈しい、嵐のような親父でした。長生きしたとしても……蒼天のような天下を創ることはできなかったと思います。銭稼ぎの革新が、そのまま治世の革新に繋がる訳ではないのですから」

「確かに……世を鎮めるには銭の力だけでは不充分。何か、天道のようなものの加護が必要になる」

「げにも。新たな時代を創造する覚悟のある者だけに天は味方するのだろうと思う。そしていま、日ノ本の未来がここ、畿内に生まれようとしている。だからこそ上洛し、三好殿のお話を伺い、足利公方の様子を見極め、堺の賑わいに触れてみたかった……」

「よき志」

知るべきことを知ろうとしている、という印象があった。人間世界の実態を直視する強靭な意志、学んだ事柄を己の血肉に取り込む精神の健全。

「うつけと呼ばせていた俺には分かります。三好殿はまだまだ手を抜いておられるでしょう」

「ほ……興味深いことを申される」

「誰も知らぬ、遥か遠い未来までを見据えておられるはず。なぜすべてを皆に伝えないのですか」

「……民も。家臣も。充分によくやってくれている。いま以上の速度を求めることはできぬ。求めてしまえばかえって知性への不信を呼ぶ。見えないもの、見たくないものまで見せつけるのは……残酷でしょう」

「手ぬるい! 人はそこまで弱きものでしょうか。愚かなのでしょうか。そうやって十歩先から待っていないで、無理にでも皆を一歩、二歩先へ引き摺っていくべきでは」

俺ならそうする、という言い方であった。長慶の言葉が、信長の繊細なところを傷つけたのかもしれない。だが、理とは信長が思うほど英雄一人の志で成り立つものではないのだ。

「味噌はお好きですか」

「大好きです……が。それがどうしたというのです」

「急いでこしらえた味噌はうまくない。我々の役目は豆を茹でて麹を混ぜるまでだと思いませぬか。美味をつくるのは時間と、豆自身の力だと」

「……人間五十年。悠長にしておれば味噌ができる前に寿命が尽きてしまう」

「だからこそ人は子を遺し、後継者を探し求める」

「……」

信長は納得していない。自分の思うように長慶が世を動かしてくれないことにやきもきしている。

だが、ここまで喰らいついてくるとはたいした男ではないか。尾張一国を治めるだけでも難事業で、しかも四方を敵国に囲まれている。そんな中にあっても、信長は真剣に日本の行く末を考え続けてきたのだろう。各地に信長のような人物が生まれているのだとすれば、天下をかき混ぜてきた甲斐があったということだ。

「俺がもう少し大きくなったら。また、お時間をいただけますか」

「楽しみにしていましょう。が、今川は手強い」

「考え抜きます」

「うん」

「……三好殿」

「なにか」

「親父を褒めていただき、ありがとうございました。きっと墓前に報告いたします」

宵闇の中を信長が退散していく。言葉は無遠慮だが、衣装や作法は生真面目なほどであった。

ずば抜けた力量と大志。これは、もしかすると今川との戦にも生き残るかもしれない。

(げに人は多きものよ)

慶興の好敵手になる日がくるだろうか。それとも、その前に来るべき日が来ているだろうか。

 

  *

 

今川義元に対抗するべく尾張を纏めあげるには、大義の旗印が何としても必要である。まして、信長の家格は斯波氏の一家臣に過ぎないのだ。

謁見を許可し、信長を後押しするかどうかは公方内でも議論があった。今川に肩入れし、さっさと兵を伴って上洛してもらった方がよいのではないかという声も大きかったのである。奉公衆の中にも親三好派と反三好派がいて、反三好派にとって最も困るのは各地の大名が互いの潰しあいに夢中になることだった。

義輝自身はどちらでも構わないと考えていた。所詮、朽木時代には誰も義輝の謁見など求めなかった訳である。いまになってぞろぞろと都に上ってくるのは決して義輝の威光にひれ伏すためではない。信長も本心から公方の支援を必要としているのか。むしろ、京畿視察の名目に使われているのではないか。

そんな諦観もあって、まずは信長に会ってから判断しようということになった。

そして、信長の威風堂々とした居住まい、恬然とした口上は反三好派一同をいたく感動させたのだ。

もともと織田家は献金を惜しまないことで名が売れている。そこに才気を漲らせた若き当主信長の登場。藤英などが期待を強めたのも無理はない。いや、義輝自身、久々に尊き大樹といった言を寄せられ、心が浮き立つのを抑えられなかったのだ。

「はん、なんや皆して。あんなんうちの殿さんに比べたらどうってことないわい」

松永久秀は面白くなさそうだった。信長がどうというより、隙あらば長慶こそ最高と言いたい様子である。伊勢貞孝のような連中はきょろきょろと義輝や久秀の反応を見極めようとするばかりだった。

いま、奉公衆は幾つにも分断されている。藤英を中心とした反三好派。貞孝を中心とした日和見派。久秀率いる親三好派。泰然と構える慶興と藤孝。三好家から出向してきた二人が加わったことで、さほど大きくもない組織が更に複雑な様相を呈している。

慶興や久秀も含めて、一応は全員が義輝の考えを尊重している。義輝にとってはひとつの集まりである。だが、奉公衆同志になると情報の共有がなくなり、言い合いのような形になってしまう。だいたいは久秀が極端なことを言って、藤英が声を荒げ、慶興が宥めてやや久秀寄りの結論に導いているのだった。

三好家の力を取り込むためには、慶興か久秀をまずは取り込む必要がある。とはいえ、そう考えることも見越して長慶はこの二人を送ってきているのだろう。

 

義輝の館は室町御所から南、武衛陣(京都府京都市)と呼ばれる辺りへ移っている。京への帰還が成ったとはいえ、無聊は隠しようもない。中途半端に行事があり、中途半端に判断を求められる。真に大事なことはすべて芥川山城で決められているにもかかわらず。

自然、義輝の御所を訪れる者も二線級の人物ばかりになる。日が沈めばその客も途絶える。晴員に相当締め上げられたのか、藤孝の来訪も近頃は少ない。月の下、一人木剣を振るう夜が続いた。

ある晩、謹慎している晴舎の使いだという女が現れた。

すらりと背は高く、胸と尻の肉付きが滑らかで、小さな顔の中で瞳だけが大きい。

(井守に似ている)

それが第一印象だった。

「進士晴舎が末の娘、久乃と申します」

丁寧な挨拶ぶりよりも、肌が濡れていないか気になってしまう。口元は豊かで柔らかそうだった。

「ほう、晴舎にそなたのような娘がおったか」

「最近まで宇治に避難しておりましたの」

もっとも、晴舎に未知の係累がいても不思議ではない。彼の表の役目は礼法や包丁術の指南であり、裏の役目は晦摩衆の統括である。どちらも日本全国を渡り歩く職務であり、各地に女や縁ができるのも当たり前だと思われていた。信長の次は美濃の斎藤義龍が上洛してくることになっているが、その知らせを繋いだのも晴舎の縁者、明智某だと聞いている。

「それで、久乃殿は何をしに参られた」

「上様の退屈を癒すようにと」

「ほう。何ができる」

「お望みならばどのようなことでも……」

小娘の分際で、義輝を射竦めるような眼光を放つ。その不敵さが男の獣欲に巻き付いてくる。

「舞ってみるか」

道成寺の真似事でもよろしければ」

「面白い」

ならばと義輝は鼓を取り出した。藤孝ほど上手くはないが、ある程度の稽古は積んである。

いいよお、ほう!

謡までは知らぬ。

鼓の囃子ひとつで充分と、色艶やかに久乃の肢体が躍動する。

「うふ、うふふふ」

「いよ、は、ほ! さって、どうした!」

「申し訳ありませぬ。何だか、とっても楽しくなってしまって! ふふ、あははは」

すりすりすりと官能をそそる足の運びが加速していく。細い白首には汗が浮かんでいる。

あの汗とひとつになりたい、そう思えば鼓の音色はますます冴えわたっていく。

 

  *

 

斎藤家の使者との交渉には慶興も立ち会った。

当主の義龍は急病との理由をつけて上洛を断念していた。実際に持病を抱えているという噂もあるし、信長を畿内で暗殺しようとしたことを恥じたのだろうという噂もあった。

いずれにせよ、義龍が名族“一色”の姓を名乗ることを義輝は承知したのだ。

「“斎藤”では国を治め難く、さりとて今更“土岐”に戻ることもできぬ。“一色”に着目したのはよかったな」

義輝は素直に感心していた。父の斎藤利政を討ったという義龍のことを初めは軽蔑していたそうだが、その後の義龍の懸命な働きぶりの噂を聞くようになって考えを改めたらしい。

課題や状況に応じて姓を変えることはよくあることである。大半の民は情報や理屈を吟味したりはしない訳であるし、よく知られた姓を名乗ればそれだけでありがたみを感じるものなのだ。世の中を見れば、“三好”という田舎守護代の姓のまま栄耀栄華を恣にし、“松永”や“石成”といった聞いたこともない姓を名乗る者に重責を担わせている長慶の方が珍しい事例に属する。

「壊れたものは元には戻らない。ややこしい父を持ってしまうと気苦労も絶えないのでしょう」

「汝も似たようなものであろう」

「俺? 色々言われはしますが、俺の父はただの気のいい中年男子ですよ」

「……」

「そりゃそれなりに重圧は感じますがね。程よい荷物は生きるために必要ですから」

「長慶が程よいとな」

「ま。日頃暮らす上での話です」

「掴めぬ奴」

ここ何日かで、義輝からは険が取れたように思える。諸大名が義輝のもとに参上してくるのが嬉しいのか、他にいいことでもあったのか。

琵琶湖で出会った頃の義輝は、何か思い詰めたような顔の若侍であった。伸び伸び楽しく旅をしてきた慶興と違って、どこかから逃げ出してきたような切迫感があったものだ。

戦場で対峙した義輝の軍は、充分に意志統一ができていない脆さがあった。あれは生き死にの勝負にまで持ち込む気がなかったのではないか。

京に戻った義輝は、妙に三好家に対して融和姿勢だった。役職や宝を気前よく下賜してくれるのだが、それが妙に肩が凝るような気の配りようで、無理をしているように思えた。

“若殿、気い許したらあきまへん。油断したら後ろからバッサリでっせ”

久秀などはことあるごとにそう忠告してくる。

実際、久秀の言う通りだとも思う。奉公衆の一部からは根強い反感や憎しみが滲み出ているのだ。

それでも、慶興は義輝のことが嫌いではなかった。自分の空の下、こんな不器用な男がいてもよいではないかと考えてしまう。慶興が上手くやれば、いずれ老いた長慶と、運命を受け容れた義輝とが仲良く語りあえる日も来ることだろう。

「あのお紋とかいう芸妓はどうしている」

「……もう地上にはいません」

「む、悪いことを聞いた」

「構やしません。どうしたんですいきなり」

「奇瑞というべきか。踊りや音というものは不可思議な力を持っている」

「そうですね」

音と聞いて思い浮かぶのは長慶の鳴り物衆である。あれは祖父の元長が考案したもので、いまや太鼓だけで城が落ちると評判だった。

「政を前にした時、余はつい武勇と知略だけに頼ってしまう。もう少し五感を磨かねばならぬな」

「粋なことを仰る。次の評定は踊りながらやりましょうか」

「ははは。老臣どもが卒中になってしまうわ」

なんとなく分かった気がする。遊女か歩き巫女にでも惚れたのだろう。

朽木で色気のない青年時代を過ごした人だ、威儀を正しているつもりでもうぶいものが見え隠れする。公方と公家の距離が遠くなるのにつれて、近衛家から迎えた正室との関係も冷え切っているはずだった。

「いいことを教えて差し上げましょうか」

「なんだ」

「男は女の五感に惑い、女は男の武勇と知略に憧れ申す。上様の強みを見せつけてやることですな」

「な、なにを突然」

「大事なのは女に流れを合わせないこと。戦と同じく、機を見ては力攻めを躊躇しないこと」

すべて久秀の受け売りである。こういった方面ではあの爺さんは権威だった。

「おい、余は」

「さ。俺に格好をつけても仕方ありますまい。戦の前に矢玉を使ってはもったいのうござる」

「……」

義輝はどこまでも純真なのだ。つまり、からかえば滅法面白い相手である。

しばらくは話題に困ることはなさそうだ。

 

  *

 

晴。鞍馬の春。満開の雲珠桜。

鞍馬寺京都府京都市)での花見には慶興、基速、久秀の他、連歌師の谷宗養、公方の奉公衆、歌に自信のある公家など大勢が集まってきている。政治向きの集いというより桜を歌題に風流を楽しもうという場であるから、様々な人物が入り混じってはいても殺伐さや腹の探り合いの気配はない。皆、心から泰平を楽しんでいる様子だった。

今年は気候がよく、京も鞍馬も柔らかな桜色と瑞々しい新緑に覆われている。古歌の如くに“都ぞ春の錦なりける”といった景観。何百年も変わらずに人々はこの眺めを愛で、心を揺さぶられてきたのだと思う。長い長い年月の線上にいま長慶が立っている。きっと、百年後も、五百年後も変わらずに人は鞍馬山へ登ってくるのだろう。その頃には誰も長慶のことなど覚えていないで、ただただ春の静かな喜びを楽しむことができるようになっているのだろう。あと十世代もすれば、いい加減人は内乱に飽きているだろうから――。

(ふふ。それとも、明国やキリスト教国と海を跨いで戦をしているかもな)

豊かな地方と貧しい地方では戦にならない。

初めは限られた集落だけが豊かだった。

やがて畿内に都ができて、地方はそれに従った。

そのうちに西国も東国も豊かになってきて、源平争いの果て、鎌倉に武家の政権が誕生した。

人の知恵には限りがなく、痩せた土地にもいずれは田畑や市場が生じ並んでいく。いま、日本中で戦が起きているのは、それなりにどこもかしこも豊かだからだ。全国が芝生や祖谷のような山里だけだったとしたら、――略奪や反抗は生じたとしても――真っ当な戦など起こる道理がない。

明は古からの大国である。キリスト教国は海を渡って交易を行う実力を有している。明とキリスト教国の間にはタルキーという甚だ強大な帝国があると聞くし、一昔前には大蒙古帝国もあったのだ。海運技術が更に発展すれば、海外交易が更に盛んになれば、いずれは摩擦も諍いも生じるのは止むを得まい。海を越えて戦をするとなれば、莫大な銭と人手が必要となるが……。

(与四郎ならば、明に攻め入って沿岸部の利権を奪えというだろうな)

寧波や澳門(マカオ)は日本と南蛮諸国の間にあって爆発的な成長を期待できる港であるが、明はあくまで海禁政策を崩そうとせず、日本やポルトガルへ門戸を充分に解放しようとしない。与四郎たち堺の商人はそれが不満でならないのだ。

(しかし与四郎め。自国の政より他国の政に不満を言うとは、図太いというか大物というべきか)

もしかしたら、元長の志をもっともよく受け継いでいるのが与四郎といねの夫妻なのかもしれぬ。望もうが望むまいが、海外と戦になる時代は来る。それならば、舐められないように富を蓄えておく、有利な立場に立てるように外交を進めておく。そうした備えが必要になるということだった。そのためには何よりも自国内を安定させることであり、海外の情報を数多く自国内に流すことだ。よい意味でも悪い意味でも、島国では自国のことにばかり目が向いてしまう。

(しかし、まだまだ……一足飛びにはできまいな。父上、やはり堺公方府は早過ぎたのです)

そこまで考えて、長慶は自嘲して一人笑った。

この美々しい桜を見ながら、自分はいったい何を考えているのだろう。

「殿、どうなされました」

基速が案じたように訊ねてくる。この老臣もまた、堺公方府の生き残りであった。

「父上のことを思い出していた」

「桜にまつわる思い出でも」

「いや、堺公方府のことをな。あの頃、私はほんの小さな子どもで、お前は義冬様の側近だった」

「お懐かしいことを……。殿のご権勢、このよき日を知れば、元長様もさぞお喜びになるでしょう」

「それは違うな。遅い、緩いと叱られる気がしていたところだ」

「……殿は己に厳し過ぎます」

「そう言えば父上と叔父上は天狗兄弟と呼ばれていたそうだ。こんなことを考えてしまうのは鞍馬山僧正坊による霊障なのかもしれぬ」

「またよく分からぬことを……」

基速は長慶の戯れ言を巧みに流す。何でも真に受ける長逸、大げさに一喜一憂する久秀とは違った。それでいて相当複雑な話にもついてこられるから、話し相手として重宝していた。

「父上、こちらでしたか」

慶興が現れて声をかけてきた。見ると、もう一人利発そうな若者を伴っている。

「こちら、細川藤孝殿です。父上にお会いしたかったと」

「藤孝にございます」

「ほう。あの、神社から油を盗んで学問に励んでいたという」

「へえ、そんなことがあったのか」

「……お恥ずかしい限りです」

「や、気になさるな。私はむしろ感心しているのだ」

才能にも色々あるが、環境や生活習慣に左右されない才能こそが真の天才なのだと思う。義輝と共に朽木で隠棲しながら、百芸万巻を修めたと評判の男。都に行けばしばしば藤孝の噂を聞いたものである。長慶の方も興味を持って、一度顔を見てみたいと思っていたところだった。

こうして現実に若者の風采を眺めてみれば、思わず“なるほど”と納得してしまう。へりくだったところがある訳でもなく、かといって己の実力を誇示する訳でもなく。自然体の好奇心と健やかな知性を存分に宿している男、誰からも敬意を抱かれるであろう男であることが気配となって伝わってくる。

「長慶殿に一度お伺いしたかったのですが」

「なにかな」

「この十年で時代は大きく動きましたが、あと、何と何とを満たせば戦が止むのでしょうや」

これには長慶も驚かされた。桜の前でこんなことを思う人間が他にもいたとは。

訝しい顔つきをする周りの者を置いて、散策しながら話すことにした。

「戦がお嫌いか」

「無論、戦も人の本性なのだろうとは存じております。だが、戦はあくまで手段。明るき未来に至る確信があればこその戦でございましょう」

「ふふ。お主は面白いな」

「……長慶殿が日ノ本の夜明けだと思えばこそ、公方も降った甲斐があるというもの」

藤孝は“和睦”ではなく“降った”と言った。余計な虚飾は要らないと言いたいのだろう。

「どうであろう。夜明け前こそ最も暗く寒いものだ」

「このまま長慶殿が武家を一統し、世の中の成り立ちを変えきってしまうのでは」

「それを決めるのは私ではないな」

「慶興殿ですか」

「それも一案」

「他にも」

「お主もその一人。上様も。毛利も、織田も、長尾も、斎藤も、今川も。堺の会合衆本願寺根来衆などもそうだ。名もなき無数のいまを生きる者たちもな……」

「万民の合意が要るとでも」

「安定に向けては誰かが強大な力を握らねばならぬ。されど、その施政は一握りの者が牛耳るのではなく、広く多様な知恵を結集する仕組みを築かねばなるまい。家柄や神仏が先にあるのではなく、辿り着くべき国家の姿が先、そこから逆算して秩序を組み上げていく。そうでなければこれまでの繰り返しだ」

「無理難題に聞こえます」

「そうだ。内乱をしている方が楽というものだな」

「……」

「せっかく上等の天性を与えられたのだ。その恩は時代に返すといい」

「時代に、返す……」

 

をちこちの 木すゑを見れば白雲の 花にかさなる春のあけぼの――

 

「お主のお蔭で一首浮かんだ。礼を言う」

「今度は連歌にお邪魔してもよいでしょうか」

「歓迎しよう」

新たな才が次々と開花している。花さえ数多開けば、放っておいても蜜が、種が世に満ちていく。

逸らなくても次の時代への間合いは着実に縮まっているのだ。

「殿お! ええ加減にしましょうや、皆さん首長うして待ってまっせえ!」

久秀の呼ぶ声が聞こえた。振り返ってみれば久秀と慶興がこちらに目を向けていて、しかも、少しばかり藤孝を妬んでいるようだった。

 

  *

 

一、長慶本人の抹殺は不可能。標的は外縁、思わぬ者から。

一、義輝を誘導する必要。但し、それと知られぬよう。

一、六角と畠山には当主本人も気づいていない底力が眠っている。遠国大名は当てにするな。

一、三好家の家来衆を分断。偽りの被疑者を仕立てあげる。

一、晴員、晴舎、晦摩衆のみでやり遂げる。その他の者は巻き込まない、信じない。

「以上だ。力を尽くしてくれるな」

「喜んで」

星ひとつ、灯りひとつもない漆黒の内庭で珠阿弥が返事する。姿は見えぬ。おそらく問うた晴舎ですら見えていないのだろう。暗黒の中を自在に徘徊し、確実に仕事を遂げる殺人者。こんな男に狙われては、晴員とてどうやって生き延びればよいのか分からない。

「仕込みに二、三年はいただきましょう」

「構わぬ」

「大仕事だ、大仕事。くく、くふふふ……」

珠阿弥の笑い声が小さくなり、やがて聞こえなくなった。足音ひとつ起こさず、どうやって消えたのか。

同様の指令を、晴舎は幾人もの晦摩衆に与えている。細々とした指図はせず、手段や判断はすべて彼らに一任していた。晴舎の生涯をかけて育て上げてきた者どもにはそれで充分なのだろう。

「後は待つだけだな」

「ああ。おとなしく謹慎していることにしよう」

もはや義輝の承認すら要らぬ。我ら両名が足利公方二百年の生霊となりて怨敵一切討ち果たすのみ、長慶が死出の旅路を南無三案内仕るまで。この霊魂地獄に落とされようと前途足利十代の繁栄あらば悔悟も要り様にあらず、ただ忠心現の救済を求めて――。

 

  *

 

人と一緒に風呂に入るのが苦手だった。

冬の間に患った身体の冷えを癒すべく、佳が気持ちよさそうに湯を楽しんでいる。白衣を身に着けてはいてもすららっと伸びた艶めかしい身体は隠しようもなく、人魚のような気品が際立っていた。湯から離れたところで見守っている琴にしてもそうだ。片膝立ちの姿勢が彼女の弾むように満ちた肉体を強調し、濃密な色香は突き上げる欲動を誘っているかのよう。

女でも酔いしれてしまいそうな身肉に挟まれ、あまねは湯の中にずぶぶぶ顎まで浸かっていた。自分の貧相な身体、誰からも求められていない身体がみっともないもののように思えてしまう。恥ずかしいというよりお目汚し、相手に申し訳ないと思ってしまうのだ。

男というものから長く離れている間に、自尊心がますます衰えてしまったのかもしれない。

 

春になっても冷えが落ちない佳のために、熱海の湯治宿(静岡県熱海市)に逗留していた。三河の安定が上首尾に進んだことで、いまは戦の気配もない。北条・武田と三国間の同盟を結んでいることから、熱海の界隈はとりわけのどかなものである。

佳は湯に入り、休んで水を飲んで、再び湯に入ることを繰り返していた。正綱が戦から帰ってきたこともあって、心身の緊張も解けたのであろう。たまにはゆるりゆるりと休ませてあげたかった。

そんな彼女を宿に残し、あまねと琴は海沿いの小路を歩いていく。

行きつけになった飯屋がある。朝風呂の後に立ち寄って飯と魚を出してもらうのが楽しみになっていた。熱海の鯵は妙に人懐っこい味がする。春先の小ぶりなやつを粗切り造りにしても堪えられないし、干物を炙って白飯と和合させれば口福この上もなかった。これで酒があれば言うことはないが、尼風の態で朝から呑むのはいかにも体面がよくない。

食後は、二人で海を眺めた。初めて出会った頃にもこんなことがあったと思い出す。海は須磨と繋がっているし、熱海を逃げ延びた魚も西宮辺りで釣られているかもしれない。

「あたし、海が好き」

「そのようだな」

中身のない言葉でも、琴はとりあえず受け止めてくれる。

「琴は、好きな景色はあるの」

「……そんな贅沢は許されぬ」

「景色は誰のものでもないじゃない」

「生を喜ぶために生き長らえたのではない。つとに思う、妾がこんな暮らしをしていてよいのかとな」

時々、重苦しい陰を見せる。あまねはいまだに琴の過去を知らない。問わないし、琴も話そうとしない。長慶との約定であまねの護衛となり、いまだにその関係が続いている。妙な間柄ではあった。

浜辺から童の泣き声が聞こえた。松の木を見上げて喚いている。竹とんぼが枝に引っかかったらしい。

声をかけて宥めてやり、松の幹に手を当てた。

「おい、登る気か」

「得意なのよ」

「馬鹿、腿が見えるぞ」

頭上から声が届く。いつの間にか琴が枝の上にいた。竹とんぼを落としてもらい、童が駆け去ろうとする。

「こら、ありがとうだろう」

「いっけねえ、ありがとうお姉ちゃん!」

琴は童に手を振ってから、あまねに松葉を落としてきた。避けると、今度は松ぼっくりをぶつけてきた。

 

続く