きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十八 団欒の段  ――細川六郎 三好家を呪って息絶え、三好慶興 はからずも早世す――

四十八 団欒の段

 

永禄六年(1563年)春のある日、義輝は慶興の京屋敷へ御成を行った。

とは言っても、以前のように豪勢で大げさなものではない。方違えを口実にしたお忍びの訪問で、供も久乃と少数の護衛だけだった。久しぶりに慶興とゆるり酌み交わしたくなったのだ。今日になって思いついたことだが、慶興の方は困った様子も動じた様子もなかった。気さくな雰囲気で宴は始まり、たちまち部屋は笑い声や歌声が充満した。

「うーえっさま! うーえっさま!」

注がれた酒杯を一息で飲み干せと、偶然居合わせた松永久秀が手拍子を打って煽ってくる。相当に失礼なことを言われているのだが、不思議と腹は立たなかった。慶興との仲が深まるにつれて、三好家の陪臣たちに対する心の持ち方にも変化が生じている。まして、久秀は形の上では義輝の直臣でもあった。

「さすが! 素晴らしい呑みっぷりや!」

「おい、久秀。やり過ぎだぞ」

「よい……よい。今宵は楽しい」

「ほら! ほなもう一杯、そうれだーいしょうぐん! だーいしょうぐん!」

調子に乗り始めた久秀の後頭部を慶興が扇子で叩き、更に義輝から杯を奪い取った。

「よっ! 若殿のお出ましい!」

めげない久秀が慶興を煽り、慶興も容易く酒杯を空けてみせた。

義輝の杯を家臣が奪うのも尋常のことではない。晴員や藤英が見れば烈火の如く怒るに違いなかった。だが、礼式や作法を破ってみせることで深まる絆もある。慶興との間に一層の一体感が醸成されていく。京の平穏、天下の安寧、足利と三好がひとつになればこそ、力を合わせればこそなのだ。三好の傀儡だと義輝を嘲笑う、あるいは憤る者も少なくはないが、小さな面子を捨て、大きな益を得ている実感はあった。

「たまには無礼講もよいものですねえ上様」

「うむ。そういえば慶興よ、近頃は汝の父親を見かけぬな」

「猫と遊んだり樹に話しかけたりで忙しいみたいです」

「どこか悪いのか」

「俺を鍛えようとしてくれてるんですよ。いつまでも“長慶の息子”扱いじゃあ具合が悪いだろうってね」

「謙遜を言う。父を超えたという者も多いではないか」

「いやあ、ちっとも追いついた気がしません」

久秀が義輝の供回りをからかっている、いや、説教しているようだ。その他の者にも聞こえぬよう、慶興は小声で語りかけてきた。

「上様ね、我々の仕事ってなんだと思います?」

「それは……武と道理を以て争いを鎮め、皇道を守護し、民の暮らしを宜しく導くことであろう」

「そう。それで軍の動員、相論の裁許だとか、商業の振興、学問の奨励……」

「で、あるな」

「……働けなくなった年寄りの暮らしを面倒みる、戦で死んだ者の遺族を食わせてやるってえのはどうです」

慶興の言っていることの意味が分からなかった。政治とはもちろん神や仏の奇跡ではない。

「できる訳がない」

「ですよねえ。いやね、それができたら下剋上が減るって言う人がいるんですよ」

「……?」

彼は酔っているのだろうか。夢物語にしても現実味に乏し過ぎる。

「前任者を超えねば支持は得られない。不可能事をやってのける政権が簒奪されることはない。しかも、人の命が値上がりすりゃ戦だって減っていくはずなんだってね」

細川や三好に奪われた将軍親政。足利公方はたいしたことをしていなかったと言われているのだろうか。

動乱、下剋上、現場の実務に精通した守護代や国人が実権を奪い取っていく時代。道理を叫んでも権力は返ってこない、それがなぜか、ずっと分からないでいた。いま、慶興が答を口にしていた?

「んもう。男二人で顔を寄せ合って、何の話をしているのですか」

妬いたような品で久乃が割って入ってきた。

「これは小侍従殿」

「今夜は突然のことで申し訳ありませぬ。お詫びに慶興様、ご一献」

「いただきましょう」

快く慶興が応じる。

「久乃、余にもくれぬか」

「お水になされませ、先ほどからお上がり過ぎです」

「なんだ、冷たいではないか」

「駄目ですからね」

結局慶興だけに酒を注いでそそくさと去っていく。心なしか、久乃の所作にはぎこちなさがあった。

 

  *

 

「まさか……わしの最期を看取るのがお主になるとはな」

「光栄なことです」

長慶が涼やかに微笑む。この男の面を見ただけで六郎は大量の血を吐き、しばらくは気を失っていた。目を覚ませば平気な顔をして長慶が居座っている。同時に、自分の寿命がとうとう尽きたことが分かった。

「すべて、お主が奪っていった」

「私も六郎殿に多くを奪われました」

「……」

「……」

「お主さえいなければ」

「いまも木沢長政や遊佐長教が荒ぶっておりましょう」

「宗三が食い止めていたわ」

「そうかもしれません。そうでないかもしれません」

長慶は死にゆく者に鞭を打とうとしているのか、それとも最期に心を通じ合わせたいとでも言うのか。

ならば、抗うこと、不屈を貫くことが六郎の意地だった。もう、自分は怯懦な青白殿ではないのだ。

「詫びぬぞ、わしは」

「……」

「礼も言わぬ。昭元の未来を託そうとも思わぬ。お主は所詮、わしの脛に噛みついた馬鹿犬だ」

「お気を鎮めなさいませ。そうも昂ぶっては」

「元長もそうであったわ。分際も弁えずにつけあがりおって、あの惨めな最期が相応しかったことよ!」

長慶の眉間が僅かに動いた。

効いている。長慶の期待を裏切ることができている。

「呪ってやるからな! 三好はな、昔から天に見放されておるのだ! 父と弟の後を追わせてやるぞ、あの餓鬼、慶興も呪ってやる! 末代まで、千歳の果てまでも、魂魄の限りを尽くして祟ってやる……ははは、ふはは。わしはもう往く。くく、一人では往かぬぞ、お主の大事な者を連れていってやる。どうだ、寂しいのは嫌だろう。一緒にお主も来い、同道を許してやる! ざまを見ろ、わしは終わりだ、お主も仕舞いだ!」

鼻血が流れ出し、長慶が懐紙を当ててくる。

「……楽しそうですね」

「愉しいだと? ああ、愉快だ! 呪うのは、恨むのは最高だ! 死ね! 長慶、死ね! 死ね!」

「いいですとも」

不意に、長慶に身体を抱き締められた。

「な、何をするのじゃ」

「こんな六郎殿ですら愛おしい。……あなたが奪ってくれたお蔭です、ありがとう」

「……!」

長慶、なんだその笑顔は。

効いていなかった。己の器量を試して遊んでいたのか、この、天魔! 真の物の怪め!

「おさらばです」

腕を解き、用は済んだとばかりに立ち上がる。

ゆらりと動いた途端、長慶が光の粒と化して消えた。どういうことだ、幻覚だったとでもいうのか?

「待て、待たぬか! 待って! おのれ、わしを見ろ、わしを見ぬか! ぐ、が、ぎゅふ! ふ、お……」

吐血。大量の、最後の。聞こえる、廊下を走ってくる足音……昭元の、真心の足音。

息子をひと目。あと三十歩……二十歩……間に合う、あと十歩……五歩……。

襖が開いて光が差し込む。その時にはもう、六郎は血の海に沈んでいた。

 

  *

 

細川六郎が逝ったかと思えば、今度は慶興が高熱を発して重篤だという。

あれだけ溌剌とした若殿が病気とは俄かに信じられなかったが、畿内に上陸すると塗りこめたような重い空気を肌にひしひしと感じる。事態は、長房の想像を超えるほどに悪いようだった。

芥川山城には参上したものの、慶興との面会が叶うことはなかった。絶望を顔に浮かべた長逸や久秀、慌ただしく走り回る医師や侍女、どこからか聞こえてくる加持祈祷の響き。長慶は慶興の傍から離れようとせず、一心に息子を励まし続けているらしい。これは、いよいよ覚悟せねばならぬようだ。

「突然過ぎる……」

他の家臣同様、呆然と座り込んでいた康長が呟く。

康長は教興寺の戦いの後は河内の高屋城に入っていて、顔を合わせるのは久しぶりである。

「久秀が一服盛ったという噂も流れているが……どうも、あの様子ではな」

いまは岸和田城を守っている冬康。何度か安見宗房が攻め込んできたが、容易く撃退してしまっていた。之虎・一存亡きいま、三好家中では冬康の存在感が急速に高まっている。

一存が死んだ時も久秀の犯行が疑われた。有馬にいた一存と異なり、確かに京にいた慶興と久秀は顔を合わせる機会も多かったろうが……。慶興を陥れて久秀に得があるとは思えない。

「病に倒れる前、どこで何をしていたかは分かっているのでしょう」

「うむ……。何件もの職務や会食をこなしていたが、不審な点は少ない。一点、上様が京屋敷を訪れてきたことを除けばな」

目を閉じて冬康が答える。その静かな表情の中には、煮えたぎる怒りを察知することができた。

「毒を盛るために、若殿に近づいたと」

「やりかねぬ、足利なら」

康長の瞳の中、暗い暗い炎が揺れている。

「……毒と病を見分けるのは難しい。証拠を押さえることも」

「これは、非常の事態だ。もはや証など不要、すぐにでも軍を」

「皆も同じ意見ですか」

「肝心の慶兄が止めている」

「なぜ」

「分からぬ。本当に……分からぬ」

急速に老けた長慶。まさか痴呆が始まった訳でもなかろうが……。民心を案じ、戦を避けようとしているのだろうか。それとも、いつものように何らかの深謀遠慮があって?

「……ならば、殿に従うべきでしょう」

「……」

「……」

「自重すべき時、何を置いても若殿の回復を祈るべき時のはず。思い出しましょう、我々は既に幾度もの危機に襲われ、その度に打ち勝ってきたではありませぬか」

三好慶興。皆の希望、天下の一大驚異。このまま呆気なく彗星となって落ちてしまうのだろうか。

二人ですら、畿内にいるうちに畿内に染まってきている。いまも四国に留まり、四国の第一人者となった長房にとっては、畿内勢の動揺を落ち着いて眺めていることができた。

長慶の老い、慶興の病は畿内勢の混乱を誘う。ならば、代わりに立場を強めるのが四国衆だ。

有力家臣の全員が雁首を揃えているいまが動き時。

戻ろう、四国へ。

落ち着いたら、きっと公方への復讐が始まる。そうなれば阿波に帰ってきた義冬が役に立つ。

慶興に万一のことがあれば、長慶は養子が必要になる。おそらく弟の子どもから選ぶだろう、そうなれば九条の血が効いてくる。

いまのうちに四国をしっかり押さえておくことだ。長慶は老いた。長逸と久秀は更に一回り齢を取っている。冬康と康長はもとより関係良好、之虎や一存だって長房の栄達を喜ぶに違いない。

なんということだ。この一大事、自分にとってはすこぶる好機ではないか!

 

  *

 

慶興の身体……白目や皮膚に黄疸が広がっていく。

曲直瀬道三が懸命に治療を続けるが、快方に向かう兆しは一向に見られなかった。

「黄疸には様々な原因が考えられますが……」

「……」

「肝の病、血の病。あるいは……蛇毒」

「特定することは難しいか」

「難しゅうございます」

道三が首を振った。

赤子が黄疸で死ぬことはままある。手の尽くしようがなく、悲嘆にくれる母親を見たことがある。

働き盛りの男に黄疸が出て、あっという間に死んでしまうこともある。

決して珍しい病ではなかった。毒が盛られたのかもしれぬ、自然な病なのかもしれぬ。呪殺というものが本当にこの世にあるのなら、六郎の怨霊が道連れにしようとしていると考えられなくもない。

黄疸から回復した者もいた。だが、往々にして短期間で回復している。慶興のように長い間苦しんで、ここから黄疸が消えたという者を長慶は知らない。まして、慶興の黄疸は濃く、広くなってきている。

「治るか」

「苦痛を和らげ、心身を安んじる薬を煎じます……が、最後は慶興様の生命力次第です」

 

再び慶興の寝室に戻る。

慶興は目を覚ましていた。

「どうも、もういけないようです」

いつものように息子の痩せた手を握り、微笑みかけた。

「日頃賑やかな子どもほど、少し寝込んだだけで弱気になる。大げさに思うな」

「少し寝込んだだけで家臣が勢揃いしますかね」

寝室に入る者は限ってあるが、城中の騒がしさは隠しようもない。政務の報告に訪れる長逸や久秀の表情だけで察することもあるだろうし、慶興を元気づけようと鳴り物や喊声を上げる兵も多かった。

「いい気になっていました。ここで俺がどうかなってしまったら全部台無しだ、詫びても詫び足りない」

慶興の唇が震える。案じているというより、どうしようもなく口惜しいのだろう。

「なに、たいしたことではない」

「家も天下も崩れちまいます」

「どちらも前例のあること、人は耐えられる」

「……はは。そんな風にあっさりされると、それはそれで」

「ふふ、頑是ない奴だ」

額に手を当てた。高熱というほどではないが、やや高い。徐々に、徐々にと熱も上がってきている。

「生きようともがくか、思い残しを済ませるか、それが問題です」

「思い残したことがあるのか」

「父上はご存じでしょう」

「……そうか、こんな時までお前は」

「頼みましたよ」

視線だけで返事をし、もう一度掌を取った。

やがて呼吸を乱し、少しの汗を浮かべながら慶興が眠りに落ちる。

赤子の頃は目を閉じれば安心したものだが、青年となった息子を寝かしつける間は胸のざわつくものがあった。寝顔も……あまねの胸で安らいでいた頃とは大きく異なる。

「……」

もっと抱いてやれば、遊んでやればよかったか。

そんな気の迷いが浮かんだ。いや、果たして気の迷いか、私も消耗している?

 

「く、熊さんは」

表では池田勝正がずっと警護を務めている。池田家でも当主の長正が危篤で、彼は家督を継ぐべき立場の者、こんなところにいれば池田家中の信望を失ってしまうだろうに。

「変わりない」

「そう……ですか」

「いつも慶興によくしてくれて、感謝する」

「そ、そんな」

親には恵まれなかったが、友には恵まれていた。父として、それは救いであった。

 

馬を用意し大手口まで下りていくと、家臣たちが細川藤孝を囲んでいるのが見えた。

「帰れ!」

仁王のように長逸が立ち塞がっている。面会謝絶の状況、まして公方の犬など一歩も通さぬと言わんばかりの怒気。藤孝も動じない男ではあるが、対話すら受け容れようとしない剣幕の長逸や久秀たちには難儀せざるを得まい。

「上様からの見舞いさえお受け取りいただければ」

「要らぬ! 帰れ!」

「首い洗って待っとけ言うとけや!」

「そうだ! 公方は帰れ!」

「命があるうちに帰れ!」

放っておけば藤孝が膾にされかねない不穏さだった。公方がどうより、家臣たちの器量の底を見たような思いがする。

「よさぬか」

「こ、これは殿!」

長慶が割って入ると、さすがに家臣たちは膝を屈して静まり返った。

「相論の裁許では現地の実査、数と証の点検を旨としているものを……」

「さ、されど殿、今度ばかりは!」

「疑念、思い込みで人が人を成敗する世になったら如何する。思い起こせ、矜持を、使命を」

「せやけど! こいつらそんな殿と若殿の善意につけ込んで!」

「……長逸と久秀の言う通りです。火種を消し去ることも政の役目でしょう」

前に出てきたのは冬康だった。この気迫、貫目……之虎と一存を失ったこの弟は。

「藤孝殿、ついて来なさい」

いまは、兄弟喧嘩をしている場合ではない。

「慶兄、いずこへ」

「京。新兵衛、供をせよ」

「長慶殿」

「藤孝殿、見舞いは押し付けるものではない。ま、道々話そう」

「慶兄!」

「しばし頼むぞ。歌書でも開いて頭を冷ましておけ」

皆の思い、憤りは分かる。慶興がどれだけ大切に思われていたかもよく分かる。

そう、慟哭と捨鉢はいつだって清らかな思いから始まるのだ。

 

西国街道を長慶と藤孝が並んで馬を進め、少し離れて新兵衛たち供回りがついてくる。

道々、民の表情には一様に不安が見て取れた。慶興が倒れたことは知れ渡っているし、このことが何を意味するのかも察しているのだ。

(だが……それ以上なのだ。これから始まることは……お前たちが考えている以上の……)

愛しき民草、慈しむべき無辜の暮らし。

(すまぬ……あるべき未来の形に向けて。耐えてくれ、泣いてくれ……)

頬の稜線に沿って涙が筋を描く。

「長慶殿……?」

「身を隠した方がよいな、藤孝殿」

「此度の件、上様は何も」

「や、よいのだ。もう、言わぬがよい」

「しかし」

「慶興の黄疸、このまま天下を蝕んでいく。誰も彼もが病に頭をやられ、訳の分からぬ振舞いをするようになる。冷静に事態を見つめることのできる者、後世に自省を伝えられる者が……足りぬようになる」

「何を……」

「……“こうなるだろう”“こうなるかもしれない”。政とは推量の繰り返し、とどのつまりは運否天賦の連なりに過ぎぬ。なれど推量とて、四六時中の推量、呼吸に等しき推量へと昇華さすれば……夢の行方。熟慮、確信と言えるものに至る。藤孝殿ならば……私以上にやってのけるであろうよ」

「……」

「そのためにはまず、命を粗末にせぬことだ。生き残れ、生に執着せよ」

「このままでは上様があまりに!」

藤孝が気色ばむ。思ったとおり、澄ましているがいい奴だ。だからこそ、これから彼が必要になるのだ。

「……承った。できるだけのことはさせてもらおう。私を信じて……逃げろ、藤孝」

「もう……見て、学ぶこともできないのですね……」

「思い出せ、噛み砕け、血肉に変えてみせろ。お主はまだ、歴史に立ってすらいない」

馬を寄せて、愛用していた扇子を藤孝の帯にねじ込んだ。藤孝の眼からも雫が落ちた。

 

  *

 

目を開けるのに力が必要になっていた。

起きたことを自覚する前に沈むような全身の重み、節々の痛み、捻られるような臓腑の苦しみがあった。その間、目を開けようとは思わない。歯を食いしばって呻き声を我慢し、幾分の鎮静をひたすら待つ。いま目覚めたように振舞うのはそれからだった。

掌に温もりを感じる。長慶が帰ってきたのか。父と触れ合うことがこんなに心強いものかと、病に臥せて初めて知った。――違う。両の手に感触、もう一人いる。誰の指かは閃光よりも速く理解できた。

目を開くのを急ぐ。同時に鼻も動いたか、親愛の香りが胸の奥へ沁みていく。

「……」

父上、母上。

「おはよう、慶興殿」

「よく眠っていた」

いた。左右に、慶興を中心に、ふた親が揃っている。

「……」

「こやつ、寝ぼけておるか」

「くすくす。そうかもしれませんね」

思い残すことは失せた。

「ずっと……ずっと……」

「……」

「慶興殿……」

「いつか……目が覚めたら、隣に父上も母上もいて。この前食べた料理がうまかったとか、天気がよいから須磨の海にでも行こうかとか」

西宮、越水城の日々。三好家はいまより遥かに小所帯だったが、互いの体温、匂い、足音まで分かりあっていた。

「あの頃はこんな未来、想像もしていなかったよなあ。天下を獲るとか言ったって、でっかい魚を釣るくらいにしか思っていなかったもんなあ」

親の瞳が一緒になって潤んでいる。悔恨だって孕んでいる、仕方のない大人たちだ。

「何か、望みはあるか」

「……腹が減ったよ。母上、雑炊をこしらえてくれねえかな」

「よいとも」

「父上。待っている間、一局指そうぜ」

「加減はせぬぞ」

「へへ。いつまでも子どもだと思うなよ……」

 

中将棋は互角だった。一進一退の攻防が続き、どちらも容易に相手を流れに乗せさせない。

強い駒を使うのは慶興の方が得意だったが、細かく歩兵を使うのは長慶の方が巧みである。局地戦を制するのは慶興の方が多かったが、全体で見れば不思議と差はついていない。

(もっともっと甘えておけばよかったな……)

色々と教えてくれる父親ではあった。それなのに、自分から教えを請いにいったことが何度あっただろう。

「できましたよ――。あら、いい勝負」

「後であまねもやるか」

「嫌ですよ……勝てないから」

あまねが長慶と笑いながら話している。

土鍋を下ろし、茸雑炊を鉢に用意してくれた。その上、あまねは匙で食べさせようとまでしてくれる。

「あちっ、熱いや。母上、ふうふうしてくれよ」

「まあ、いつまでも子どものままじゃない」

「いいじゃねえか、子どもが寝込んだら優しくしてくれるもんだろう」

慶興の希望通りにして、程よい熱さになった雑炊が口に運ばれてきた。米の甘味、茸の豊潤な出汁。忘れようもない、山の味、あまねの味だった。温かい。腹が、心が、思い出が……。

「ありがとう、雑炊はもういいや」

「これだけで……?」

「なあ、父上と母上が手を繋いでいるところ、見せてくれよ」

「……」

驚いたあまねが長慶の方を向き、長慶はゆっくりと頷きを返した。そうして、慶興の脚の上辺りで二人が手を取りあう。

「……慶興、これでよいか」

「エーイ。はは、はははは……。幸せだな、俺は……幸せ者だ」

「それに、親孝行だ」

「そうだろ、自慢……してくれて、いいぜ……」

「ね、もういいでしょ。慶興殿……慶興殿?」

長慶の手を解いて、あまねがこちらに寄ってくる。

目を開けるのに疲れてきていた。

「慶興殿……! 目を開けなさい、こら、千熊! 起きて、お願い! 千熊……千熊!」

肩を抱かれているのがかろうじて分かった。

温かい水が降っているのも……。さらばです、父上、母上。お先に……。

 

  *

 

胸を張って報告する晴員と晴舎を即座に称えたのは藤英だけである。

「愚かな、なんと愚かなことを……。父上、自分が何をしたか分かっているのですか」

「藤孝!」

苦言を呈した藤孝をすかさず藤英が睨みつけた。しかし、藤孝は収まらない。

「ああ、我が父ながら。情けなや、恥ずかしや……。培った知恵は誰がため、磨き上げた忠義は何のため。風上に向けて砂を撒く錯乱、狩野が手掛けた障子絵を火種に用いる愚鈍が如き振る舞い、もはや治す見込みもあるまじきかな……。ならば上様、私に暇をお与えくだされ! この上は大和興福寺、覚慶様を頼って御身を安んずる御避難所を設けてみせまする。疾く疾く、京からお立ち退きを」

「大概にせい! 父上の申したことに何の障りがある。京を、天下を再び公方のもとへ、その道筋をしっかとつけてくださったのではないか! あはは、めでたや! 恍惚たれ長慶、これで三好は自壊まっしぐら!」

「よせ、二人とも……もうよせ」

義輝が制した。表情が消し飛んでいる、それほどに感激したのであろうか。

「晴員……晴舎……大義であった。余を思って動いてくれたこと、礼を言おう。……孤独であったろうな」

「う、上様……」

報われた! 即座に晴舎と顔を合わせ、人目も憚らず肩を寄せて男泣き。成し遂げたのだ!

「水は零れ落ちた。拭いても集めてもどうにもならぬ。新たな水を汲むべき時、自らを水と成す時である」

「……!」

一礼し、藤孝が去っていく。曲がり者が、義晴公の種でなければとっくに成敗しておるわ。

「再度問おう。三好慶興、確かに果てたのだな」

「長慶の嘆き、家来衆の叫びが山崎まで木霊しておりまする」

 

続く