きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十 先義後利の段  ――細川持隆 傾城小少将に惑い、田中与四郎 会合衆の投資を引き出し長慶を救う――

二十 先義後利の段

 

念願の元服である。

幼名の又四郎を捨て、新たな名乗りは十河一存だ。逞しく育った全身に燦々たる英気が漲る。

天文十五年(1546年)の正月、一存は義父存春や家臣たちの祝福に包まれ、前途洋々の思いだった。この十五年、四国衆は中央の戦乱から距離を置いていて、その間に充分な兵力を蓄えている。之虎・冬康と共に畿内へ上陸し、早く長慶の助けになりたい。一人で海を渡ってしまいたいくらいなのだ。

 

正月三日、一存は元服の挨拶をしに勝瑞館へ赴いた。

そこで一存が見たものは、思わぬ不快な光景だった。持隆はいつも通り諸肌脱ぎの格好だが、野武士のような覇気が鳴りを潜め、だらしない笑顔を見せている。そして、その隣では人目も気にせず、女装した小姓がしだれかかっているのだ。持隆の家臣たちは何も言わず、苦々しい表情でそれに耐えていた。

「持隆様! なんですかそのざまは!」

空気を無視して一存が吠えた。

「どうした。正月早々怖い顔をして」

阿波国主ともあろう方が、そのような色乞食を」

「カア! わしのかわいい小少将に向かって何を抜かす。たとえお主でも、過ぎた無礼は許さぬぞ!」

一喝された。その迫力は、往年の持隆と変わりなかった。だが、何なのだ。色に呆けたとでもいうのか。

「もうよせ、一存。持隆様もお気を鎮めてください。元服を祝うめでたい席ではありませぬか」

之虎が両者をたしなめた。持隆も、伏し目がちになってそれに従う。

「う……うむ、そうじゃな。一存よ。お主に取らせるものがある。おい、例のものを」

持隆の合図を受けて、三人掛かりで巨大な槍が運ばれてきた。ひと目で大変な業物だと分かる。穂先だけで四尺、全長は優に十一尺を超えようか。大きさだけではない。十文字状に、三つの刃がついた穂先。元の大木を想像させる樫製の柄。骨を軽々と砕くであろう鋼の石突。

「どうじゃ。この化け物槍を使いこなせるか」

挑発されたように感じた。躊躇うことなく槍を握る。掌に吸い付くような感触があった。この槍は、一存を求めている。軽々と持ち上げた。周囲の者が慌てて距離を空ける。

「むん!」

一閃。室内に旋風を起こすような一振りだった。一同から歓声が上がる。

そのまま、槍先を小少将とかいう男娼に向けて言った。

「この槍で、我らの敵を滅ぼせばよいのですな」

やはり、気に入らない。明らかな敵意をぶつけても、小少将は妖しい笑みを崩さなかった。

「“飛鳥”と名付けさせていただきます。飛ぶ鳥の如く、戦場を駆け抜けてみせましょう」

 

持隆の前を下がってから、康長に問いただした。

「叔父上! いったい何が起きているのです。何なのですかあの淫売野郎は!」

康長の表情も冴えない。困惑しているのは皆同じようだ。

「一年ほど前に突然現れた。初めは自邸に囲っているだけだったが、最近はどこにでも同伴している」

「怪し過ぎるでしょう。どこぞの間者かも」

「その可能性は充分ある。だが、持隆様があれほど執心なさると、単純に排除するのは難しい」

小少将は自分でつくったものしか口にしないし、それを持隆にも食べさせているという。

「なんということだ! 近頃お元気がないとは聞いていたが、まさかこんな事態だったとは」

「救いはある。之虎の言うことだけは不思議とよく聞いてくださるのだ。例えば、その槍の調達」

「虎兄が」

「そのせいで、之虎まで男色奉公の陰口を言われる始末だがな」

「馬鹿馬鹿しい!」

「一存。お前は強く、正しい男だ。だからこそ、短慮に走ってはならんぞ」

「糞! 肝心の阿波がこんなことでは、慶兄に合わせる顔がないわ」

当面は之虎を軸に、康長と長房が間に入って、淡路・讃岐と連絡を取り合うことになった。之虎の発案で、三国共同での軍事演習も定期的に行う。いままで一枚岩だった四国衆が分断され、之虎派ともいうべき派閥が力を持ち始めていた。

 

  *

 

「いつまでそうしてるつもりなんです」

龍吉が毒づく。

「ちっ。わいの町で羽伸ばして、何が悪いんや」

「この町の主はもっと恰好いい男でしたよ。こんな鯖の生き腐れみたいな人じゃありませんね」

勢いで越水城を飛び出してから、久秀は一人で西国を旅していた。当てがあった訳ではなく、ただ長慶に見つかりたくなかっただけである。そうやって一年以上を旅の空で過ごし、近頃になってようやく平蜘蛛町の自邸に戻ってきたところだ。しかし、町の者が久秀を見る目は存外に冷たかった。

「どこをほっつき歩いてたんだか知りませんが、どこにも長慶様以上の主なんていなかったんでしょう。この町に戻ってきたのだって、もしかしたら長慶様が迎えに来てくださるんじゃないかって期待してのことなんでしょう。四十前の男が何なんですか、嫁入り前の娘でももう少しシャンとしてますよ」

「や、やかましいわ!」

「とにかく、早く出てってくれませんかね。そんな面でうろうろされちゃ商売の邪魔ですよ」

いちいち痛いところを突く女である。ふて寝してやり過ごそうかと考えた時、部屋に長身の男が入ってきた。足音だけで分かる。実弟、松永長頼だ。

「おう、久しぶりやんけ。どや調子は」

気さくに声をかけたが、返事はない。無口はいつものことだが、今日は様子が違う。ずかずかと真っ直ぐに近づいてきて、久秀の頬に突然平手打ちを喰らわせた。

「つあ! なに、なにすんじゃわれ!」

弟に殴られたのは初めてだった。いままでずっと従順な奴だったのだ。

睨みつける。長頼は動じず、指で“かかってこいよ”と示した。

「上等じゃあ!」

飛びかかった。取っ組み合いになるかと思ったが、長頼は上手く攻撃をかわし、そのまま表に出ていった。追いかけて外に出ると、長頼が馬に乗って町から出ていくのが見える。

「いつもながら、長頼の旦那はお優しいですねえ」

龍吉が声をかけてきた。

「弟にあんな芝居させて恥ずかしくないんですか。早く行っておやりなさいよ」

「ぐっ……! わあったわい。なんやねんほんまに……」

しぶしぶと長頼を追って馬を走らせる。頭の中では、長慶への言い繕いを何通りも考えていた。

 

越水城、評定の間。

長慶と家臣一同が居並ぶ中、久秀は平蜘蛛のように頭を下げている。様々思案したが、長慶相手に妙な巧言を重ねても無駄だ。頭を下げて、お声がかかるのを待つしかなかった。

「いままで何をしていたのだ」

懐かしい、長慶の声。思わず涙と鼻水が溢れてきた。顔を上げられず、平伏したまま答える。

「石見、安芸吉田、山口、博多など、西国を旅してました」

「それで」

泣いている場合ではない。受け答えに今後が懸かっているのだ。

「い、色んな見聞を広めよと思いまして。お聞きでっか、安芸では毛利元就殿の継母と奥方が亡くなって、元就殿がえらい気落ちしてるんですわ。隠居するとまで言い出してるんでっせ」

「既に香奠を送ってある。礼状には近況も記してあった」

長逸の冷たい声。背中が汗で濡れていくのが分かった。

「せ、せや。九州ではあの有名な爺さん、あー、そう、龍光寺家為殿が評判で。一族の仇を討って、曾孫に跡を継がせるなんてたいしたお方や。蒲池某いう人の、九州男らしい情け深さもまたお見事で」

「竜造寺家兼殿に、蒲池鑑盛殿であろうが。人の名もまともに覚えられない祐筆がどこにおる」

今度は基速だった。何を言っても、その程度は把握されているということだ。乾した椎茸のように身体が縮んでいくような心地だった。

だが、その時。

「ふふ、曾祖父と曾孫か。そう言えば、最近は三好之長の悪名を聞くこともめっきり減ったものだ。さ、皆よ。そろそろよいかと思うが、どうかな」

長慶の優しい声音を合図に、どっ、と笑い声が起きた。

「久秀、面を上げよ」

恐々と周囲を見てみると、長逸も、基速も、一同が温かい眼差しでこちらを眺めていた。

「な、長逸はん」

「お主がおらぬ間の、弟の働きに感謝するがよい」

「基速はん」

「仕事が溜まっているぞ」

「と、殿……」

「よく帰ってきてくれたな。おかえり、久秀」

「ず、ずんまへんでした!」

ぐしゃぐしゃに濡れた顔をさらけ出した。

「大望ある者ほど主を選ぶものだ。皆も聞けよ。人には迷いがある。事情がある。弾みがある。だからこそ、私に変わらぬ忠義を尽くしてくれる者、私を再び選んでくれた者を、私も尊敬し、大切にしようと思う。私のために死んでいった者に対しても、それは同じだ」

新五郎。主の思いがようやく分かった気がした。

「わいの命運、今度こそ嘘偽りなく、殿に捧げさせてもらいます!」

「ふぐから毒が抜けたか」

長慶の返しに、長逸と長頼が笑う。久秀は床に頭を擦りつけ、主君の寛大に心から感謝した。

 

  *

 

摂津国、榎並城。

宗三は一人、煩悶していた。六郎の下命どおりに動くが吉か、否か。

段取りは進めてある。どこにどういう情報を流せば長教が食いつくかも、見当がついている。後は宗三の決断ひとつだ。

この苦い気分には覚えがあった。元長を謀殺した時と同じである。今度は元長の遺児に対して同じことをするのか。二番煎じが、あの長慶に通用するのか。

失敗すれば、六郎にとって致命傷になることは間違いない。父を、家臣を六郎に殺され、自分の命までをも狙われるに至った長慶。むごい運命にじっと耐えてきた彼が立ち上がれば、無辜の民草は強い共感を寄せるのではないか。そして、長慶が危ういと思えば、これまで沈黙を守ってきた持隆も大軍を率いて上陸してくるのではないのか。そうなれば、六郎も氏綱も長教も、すべて長慶一人に屈服させられかねない。

(ここが河越にならねばよいが)

関東では、山内上杉の上杉憲政、扇谷上杉の上杉朝定、古河公方の足利晴氏、更には今川義元武田晴信による北条包囲網があった。上杉憲政の依頼を受け、宗三もその結成を後見したのだ。それが、今川・武田は自身の権益を確保してしまうと連合を離脱してしまい、残る両上杉・古河公方河越城(埼玉県川越市)の戦で北条氏康に大敗してしまった。

東国で会見した上杉憲政や上杉朝定という男は、驚くほど六郎に似ていた。宗三には彼らの壊滅が、北条氏の台頭が、どうしても他人事だとは思えない。

(それでも――)

六郎の意を実現することが、宗三の人生だった。ただ六郎を守るだけでは駄目だ。六郎のやりたいことを全部やった上で、天下も丸く治める。そこまでやってこその三好宗三なのだ。

気がつけば夜が明けていた。窓の外に目をやると、淀川の水面が朝日に照らされ眩く輝いている。目を細めながらしばらくそれを眺め、一人呟く。

「死すならば、貫徹の果てに」

仮に敵が時代の流れだったとしても、逃げはしない。覚悟を定めた宗三は書状の作成に取り掛かった。

 

  *

 

「ちょっと堺に行ってくる」

長慶が言った。わざわざ集められた家臣たちは、話の要領が分からずぽかんとしている。

「どのようなご用で」

代表して長逸が聞いてきた。

「うむ。六郎様から、氏綱討伐軍を堺に集結させるから、事前に会合衆と話をつけてほしいと命が下った」

「そうでしたか」

「だが、これは罠だな。堺に入った途端に氏綱軍に包囲される、という筋書きだろう」

皆の顔色が変わった。同時に、六郎が考えそうなことだと理解もしたらしい。

「待ってや。それが分かってて、なんでのこのこと」

騒ぐ久秀に、長逸たちも同意して頷く。

「父の運命を超えるためだ。お主たちはここを動くなよ」

「なりませぬ!」

表に出ようとする長慶の前に、長逸が立ち塞がった。

「どけ、長逸」

「どきませぬ。行くというなら、それがしを斬ってお進みくだされ」

「これくらいせねば、いまの持隆殿は心を動かさぬ」

「駄目なものは駄目です」

長逸だけではない。長頼たちも長慶を取り囲み、意地でも通さぬという構えだ。全員を相手にするのはさすがに難しい。長慶は大きく息を吐いた。

「お主たちの気持ちは分かった。それでは、天の意志に委ねようではないか」

中庭に降りて、人間大の庭石の前に立った。

「この岩を斬ることができたら、堺に行く。斬れなかったら城から出ないと約束しよう。どうだ」

一同がざわめいた。長慶の気迫に呑まれつつも、そんなことができるはずはないと思っている様子だ。

「分かりました。それで結構でござる」

長逸が承知した。他の者もそれに倣う。全員が納得したのを確認してから、長慶は海部刀を抜いた。

構える。呼吸、ひとつ、ふたつ。深く、もうひとつ。大きく刀を振り上げ、流星のように打ち下ろす。

「……!」

外したと思った。すり抜けたようだった。だが、刀を鞘に戻すと、庭石の先端、五分の一ほどが滑り始めて、ずずんと地に落ちた。

やってみるものだ。これからは、この海部刀を“岩切”とでも呼ぶことにしようか。

「文句はないな」

誰もが言葉を失っている。にやりと笑って、長慶は悠々と出ていった。

 

「呆れた。それで、一人で来たっていうの? 家来衆が気の毒だわ。あまねさんだって今頃泣いているわよ。男って本当に勝手なんだから。兄様みたいな一見優しそうな人が一番性質悪いわ」

堺のとと屋。与四郎は留守だったが、いねが相手をしてくれた。産後間もないのに妹は元気がよい。

「おい、このくるみ餅とやら、滅茶苦茶うまいな」

堺の銘菓で、餅を餡でくるむからくるみ餅だという。白玉餅にたっぷりと鶯色の餡がかかっており、洒脱で豊潤な風味が素晴らしい。強い甘さが、また茶によく合うのだ。気に入って、もう一皿とおかわりを頼んだ。

「ちょっと、聞いてるの。お餅なんか食べてる場合じゃないでしょ、早く逃げないと」

「もう遅い。うろうろするよりは、ここで待っている方が安全だ」

長慶が堺入りしたことは、既にあちこちへ伝わっているはずだ。

「やめてよ。本当に父様みたいになったらどうするのよう」

いねが涙ぐみ始めた。彼女は肉親の危機に敏感である。

「与四郎は、どんな心境にあっても茶を入れられねばならぬと叱られたそうだな。武士も茶人も、土壇場で出るものこそが真の実力ということか」

「千殿は来ているか! 大変だ!」

その与四郎が駆け込んできた。来るべきものが来たようだ。

「よう、与四郎」

「何を落ち着いているんだよ。大軍が来たぞ。細川氏綱の大軍が、この堺を包囲しようとしている!」

「奴らの狙いは堺ではない、この私さ。与四郎、私は顕本寺で待つことにする。この命、堺の民に預けよう。会合衆の協議が煮詰まったら教えてくれ」

「なっ……。いったい、何が起こっているんだ」

「いまこの時、我が身を天に投げうっているだけかな……。では、またな」

宿業を乗り越えられるかどうか。もはや、一寸先が楽しみでしかなかった。

 

  *

 

長慶は本当に顕本寺の本堂に閉じ籠ってしまった。

死ぬ気なのか、何か策があるのか、自暴自棄にでもなっているのか。長年一緒にいるが、いまでも長慶が何を考えているのか分からない時がある。それは妹のいねにしても同じようで、動転した彼女は涙ながらに本堂の扉を叩き、兄の名を呼び続けている。

「いね。私は会所に入る。会合衆の寄合が始まるのでな」

「お願い。あなた、兄様を助けて……」

「もちろんだ。最善を尽くす」

三十歳に満たない与四郎は、会合衆の資格がない。しかし、亡父の与兵衛は会合衆の一員だったし、同業者からの信頼も厚い男であったため、与四郎も寄合への参加が認められていた。

会合衆の寄合は開口神社大阪府堺市)の境内にある会所で行われる。顕本寺は目と鼻の先だ。先日秋祭を開催したばかりの境内には、騒動を聞きつけ多くの人々が集まっている。皆、不安げな面持ちだった。

「総勢二万、主力は畠山家の遊佐長教殿だと。大和の筒井家も参陣しているらしい」

「沖合には熊野水軍の船がいるぞ」

「おいおい、これはただ事じゃないな。既に六郎様の総兵力を上回っているんじゃないか」

氏綱方の陣容が噂されている。河内・紀伊・大和の兵が集結しているようで、凄まじい兵力だ。氏綱の首謀が遊佐長教だという噂は正しかったのだろう。

会所には、既に会合衆が列席していた。天王寺屋の津田宗達、皮屋の武野紹鴎など、いずれも守護大名をも上回る財力を持つ男たちだ。議論としては、ちょうど氏綱方の要求が届けられたところだった。

「要求は一点、三好長慶殿の身柄を差し出すことだ。軍用金の徴発などは求められていない」

「長慶殿を捕らえるために、これだけの軍を連れてきたのか」

「それだけ長慶殿の軍略が恐ろしいのよ」

「や、他にも狙いはあろう。要は示威行為よ。徴発という形を取らなくても、あれだけの大軍を見れば誼を通じる者は出てこよう。それに、熊野水軍だ。あの威容を見れば、四国衆も渡海を躊躇うだろう。近頃、細川持隆殿は政務を放り出していると聞くしな」

「では、要求に従うか」

「早計はよくない。会合衆として、最も利のある判断をせねばな」

商売に長けた会合衆たちは、あれこれと前提を置いて氏綱方と六郎方、それぞれについた場合の損得を議論し始める。与四郎は、友の命が損得勘定の秤に置かれていることに強い違和感を覚えた。

そこに、女が入ってきた。いねだ。会所は女人禁制であり、何人かの参加者から怒号が飛んだ。それを、紹鴎が落ち着いて制した。

「いね殿。兄を案ずる気持ちは分かるが、ここはあなたが入ってよい場所ではない」

会合衆の皆様。お願いです、兄様をお助けください。皆さまもご存じでしょう、父の元長も、そこの顕本寺で死んだことを。どうか父の働きを思い出してください。細川家の日明貿易が途絶えて、景気が悪くなった堺を立て直したのは父だったではありませんか。堺公方府を立ち上げて、莫大な軍需をつくったのも父です。それに、それに、一向一揆から逃げずに潔く腹を切って、堺の町に難儀を広げなかったのも我が父、三好元長でしょう。あの時、父が本気で一揆と戦っていたら、今頃堺は廃墟になっていたはずですわ」

「いね殿」

「皆様、伏してお願いします。堺の商売は、先義後利だって日頃仰っているではありませんか。二代続けて不義を働いて、それで堺衆の顔が立ちますか」

「この小娘、我らを挑発するのか」

津田宗達が腹黒い笑みを見せた。ここは攻め時だ。与四郎も前へ進んだ。

「私からも長慶殿の助命をお願いいたします。愚妻の申す通り、我らは目先の利にとらわれてはなりません。要は長慶殿の将来性をどう見積もるかが肝要でしょう」

「ほう。与四郎はどう見積もる」

「端的に申し上げます。長慶殿は、早晩天下を掴む男です」

「なに」

「よくお考えくだされ。彼には優秀な弟たちがいます。それぞれが四国や淡路で精鋭を育てています。いま窮地を脱することができれば、彼らを糾合し、氏綱軍を蹴散らすに違いありません。更に、死に体となった六郎政権はもはや長慶殿を飼いならすことはできません。ほどなく、長慶殿による新政権が誕生します」

「たいした軍師だが、そう上手く話が進むかな」

「我らが後押しするのです。兵庫津の例を見ても分かる通り、長慶殿は根っからの商売上手。彼が天下を獲れば海外交易にも精を出すことでしょう。何と言っても彼は、あの“海雲”元長殿の忘れ形見ですぞ。政策の真ん中に港湾の振興を据えることは確実です。だいたい三好家の庇護を失えば、足元の瀬戸内交易すらままなりません。安宅も、塩飽も、我らの船を襲い始めましょう」

「……」

皆が聞き入っていた。与四郎がここまで人前で弁を振るったのは初めてのことだ。

「新しい商売に手を出しては失敗してばかりの若旦那が、よくも言ったものだ」

そんな囁きも聞こえたが、津田宗達や武野紹鴎などの胸には響くものがあったようだ。

「カタが欲しいな」

宗達だった。紹鴎も頷く。

「私の命で如何でしょう。必ず、長慶殿を動かしてみせます」

「わ、私も!」

「ははは、とと屋の若夫婦がカタと申すか。分かった、それで取引成立だ。皆、よろしいか」

宗達が一同を見回す。会合衆の中でも大物である彼や紹鴎に、異を唱える者はいなかった。

 

「開けてくれ。話はついた。氏綱軍は包囲を解き、千殿は堺の者の手で越水城まで送り届けられる」

「おう、そうか」

長慶が本堂から出てきた。その表情はいつもと変わりない。

会合衆が千貫の軍用金を用意することで、向こうの顔を立てた」

「大きな借りができたな」

「こうなることが、分かっていたのか」

「なんとなく」

「なぜこんな無謀をしたんだ。千殿なら、もっと上手くやれたんじゃないか」

「人に頼ることを覚えたくてな」

「……」

「次は、持隆様と弟たちにも甘えねばならん。そのためにも、父の死んだこの場所から歩き出したかった」

「……獲れよ、天下」

「ああ。その前に、家臣や家族にこっぴどく叱られるのだろうがな。長慶はいまは罷らむ子泣くらむ、それその母も吾を待つらむそ……」

「何を呑気なこと言ってるのよ! 兄様の馬鹿!」

いままで黙っていたいねが長慶の背中を殴った。本気で痛がっている長慶の姿を見ていると、やはり彼の本性が分からなくなってくる。それでも、与四郎には今日、何か殻を破ったような手応えがあった。

 

  *

 

会合衆からの献金は幸先がよかった。見たこともないような量の銭を手にして、士気が充分に高まっている。勝利を重ねれば恩賞は更に増えるだろうと、膨らむ期待が兵を動かす。まこと、人を使うには欲望を刺激するのが一番である。

急がねばならない。長慶の堺潜伏を知ったのはたまたまであったが、どうせなら始末しておきたかったのは確かだ。旧友、長政の野望を打ち破った男であり、将来の大敵になるかもしれない。独立の意向が強く、こちらに内応する素振りもない。彼が反撃の態勢を整える前に、畿内を迅速に制圧してしまうことだった。

「進発します。氏綱様、よろしいですな」

総大将の陣幕に入って、ぼんやりと視線を泳がしている男に声をかけた。

「お、おお……。長教に、任せる」

「既に和泉は制圧しております。難敵の宗三が籠る榎並城は避け、住吉街道を北上後に池田・伊丹を攻め上げます。先に摂津国人を締め上げれば六郎は慌てふためき、宗三を呼び戻すに相違ありませぬ」

「長教の、言う通りじゃ」

「ありがとうございます」

氏綱の仕上がりは上々である。大軍の中にあっても、見知らぬ将兵に囲まれても、かつての人格を取り戻すことはなかった。

「宗房、聞いた通りだ。わしは他にやることがある。しばらく指揮を任せるぞ」

「は!」

畠山家家臣の一人、安見宗房に今後の流れを指示した。彼はもともと長政の側近だったが、見どころがあったので太平寺の戦い後に抜擢していた。

長教は一旦若江城に戻り、幾つか裏仕事を進めねばならない。二万を超える大軍が北上していくのを見届け、馬を東に走らせた。

 

若江城には客が来ていた。公方奉公衆の一人、進士賢光である。

まずやるべきことは、戦後を睨んだ公方との調整だった。既に将軍足利義晴による氏綱支持の内諾は得ている。義晴は将軍親政を望んでいるから、六郎の時以上には公方に権限を渡しつつ、長教自身の権益も拡大していかねばならない。その具体分配を詰める必要があるのだ。

他に、公方と連名で細川持隆への書状を作成した。いま、最大の懸念は四国衆の動向なのである。持隆率いる大軍が上陸してきたら厄介であるし、今更足利義冬などが現れて世を混乱させられても困る。懐柔、脅迫、様々な手を使って動きを封じる必要があった。もっとも、持隆は腑抜けてきているというし、六郎との関係も希薄だと聞いているから、自分は案じ過ぎているのかもしれない。今のところは四国衆が渡海してくるような気配はなかった。

その他、国人や寺社勢力の動向などをすり合わせ、賢光との密談は深夜まで続いた。公方の隠密、晦摩衆を束ねる進士一族の一人である。その見識の確かさには満足することができた。

「さて、この辺りでよろしいかな」

「結構でござる」

「……よし。琴はいるか」

部屋の影から琴が現れた。戦が始まってからは、長教の身辺警護を命じてある。

「引き合わせておこう。この方は公方奉公人、進士賢光殿という」

「……そうか」

「そして、いままでご苦労だったな」

「!」

賢光が縮地の如く間合いを詰め、琴の身体に向かって刀を抜いた。血飛沫が踊る。

「くっ」

後ろに跳躍した琴の身体から、無数の蝶が飛び出した。

「夜に舞う蝶だと」

「……ちっ。長教殿、お気をつけくだされ。翅に毒が」

「な、なに」

袂で口を覆う長教を、賢光が守った。目を移すと、既に琴の姿はない。

「逃げられたか」

「手応えは確かにありました。この血の量、長くは生きられないでしょう」

「よきかな。あの琴にここまでの傷を負わせるとは、さすがは賢光殿じゃ」

賢光の動きは、人間業とは思えなかった。琴と同じく、長い月日を武芸の鍛錬に費やしたのだろう。

「今頃は、和泉や紀伊の方も片付いておりましょう」

「ふん、このご時世に後南朝などと。過去の遺物を掃除するのも、施政者の役目よの」

「裏世界の仕置きとはいえ、義晴様や公卿方はいたくお喜びです」

「大和の坊主たちもな。これで紀伊山地の風通しもよくなる」

後南朝も志能備衆も、あらゆる意味で用済みだった。政治上、彼らと付き合いのあることが知られると危険だ。氏綱の籠絡など、機密事項も知られ過ぎている。

天井近くに逃げ遅れた蝶が浮かんでいた。白い翅には琴の血痕が付着している。

賢光が僅かに身体を動かした。瞬息の間に抜刀と納刀を遂げたらしい。真っ二つになった蝶が、蝋燭の上にやんわりと落ちてくる。

よく見れば、蝶は精巧な紙細工である。妙な匂いを放ちながら、小さな火の玉となって燃え尽きた。

 

続く