きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十九 静謐の段  ――三好長慶 河内キリシタンを保護し、安宅冬康 兄の手で引導を渡される――

四十九 静謐の段

 

天下は静かだった。

――静かの中には強い怒りが隠れている。三好長慶の存在が、かろうじて暴発を食い止めていた。

 

教興寺の合戦の後、六万以上に膨れ上がった三好軍はたちまち河内や大和に拡がっていた畠山方を駆逐してみせた。そして、その矛先が次に京の義賢を狙ってくることは明らかだった。

それは、心底からの恐怖であった。三好家は悪鬼の巣窟だと晴員は言っていたが、之虎・一存を失ってなお余りある勢いはまさしくその通りで、都を上手く治められずに右往左往していた六角家では勝てるはずもない。結局、土下座に近いことまでやって和睦を結び、京を再び三好に返還するしかなかった。

交渉の際、相手側の筆頭に立ったのが三好慶興である。二十を過ぎたばかりのあの若造、以前会った時より更に威風を増していて、倍も生きている義賢を圧倒するほどになっていた。自分がいまだに定頼の幻影に悩まされているというのに、息子の義治は自分そっくりな凡夫だというのに、この慶興からは長慶に肉薄し、やがては超えていこうという自尊心を感じるのである。義賢にとっては京を明け渡すことより、この幻日のような次世代の勃興を見せつけられたことが何よりの屈辱だった。

その慶興が急死した。黄疸が出たということだったが、毒殺の疑いが濃厚にあった。疑われたのは家臣の松永久秀足利義輝と公方奉公衆、畠山高政紀伊地侍衆、それに義賢と甲賀衆だった。もちろん、義賢には覚えのないことである。京撤退以降は家臣や国人衆の統制がもはや不可能になっていて、その懐柔にかかりきりだったのだ。

六角家中は割れている。後藤賢豊はいまも晴員と連絡を取り合い、打倒三好を訴えていた。公方を援け、あるべき秩序を取り戻してこそ六角家の再興は成るという主張である。父の定頼からよくよく薫陶を受けた賢豊には六角家臣としての誇りが漲っていた。それは、もしかしたら義賢や義治以上にも。

義治や蒲生父子は三好との和平を模索しようとしていた。もともと義治は融和を旨とするところがあり、土岐頼芸を追った斎藤氏とすら同盟を結んでいる。本音では目先の戦から逃げたいだけかもしれないが。蒲生は内政に優れた一族であり、三好と、三好が支配する畿内商人と対立するのが嫌なのだろう。

義賢は両派それぞれによい顔を見せながら、何とか内部闘争を避けようと尽力してきた。慶興の急死と長慶の消耗で三好家は特段の動きを起こしていない。だからこそ畿内は平穏なのだが、その実、三好の家来衆は復讐に燃えている。教興寺の戦から一年以上、既に十分な蓄えも取り戻している。あの六万の兵が近江に雪崩れ込んできたら……ましてや六角家には慶興殺しの嫌疑すらかかっている……!

いま、家中で争っている場合ではない。下げたくもない頭を下げることにすら慣れてきていた。

「大殿! 一大事にござる!」

小姓が血相を変えて部屋に入ってきた。

「なんだ、騒々しい」

「殿が、義治様が後藤殿を成敗いたしました!」

「な、な、なんだってえ!」

 

  *

 

「これから九条殿と面会なのですよね!」

「さすがは石成殿」

「あやかりたいものよのう」

身なりを整え京の三好屋敷に現れた友通を若い連中が囲む。どいつもこいつも零細国人の倅や、元は武士ですらなかった者たちである。同じように無名の出自ながら、いまでは三好家重臣にまで成り上がった友通は彼らの理想像なのだ。

「……よせよ。長逸殿の付き添いに過ぎぬ」

謙遜しながらも、公家界の噂話などを披露してやる。重臣級でなければ触れられない情報というものがあって、たいした内容でなくても若い衆は喜んで聞きたがるものだった。上役として大事なのはせっかく慕ってきてくれた者に何か見返りを与えてやることで、仕事を増やしたり説教をしたりすることでは断じてない。

 

長逸、宗渭と上京を進む。

近頃はこの二人と行動を共にすることが増えてきた。三好家筆頭家老たる長逸に、摂津国人や六郎旧臣からの信望が厚い宗渭、それに実務方を束ねる友通。松永兄弟や篠原長房が目立ちがちとはいえ、実力ではこの三人衆が他の派閥を圧倒していると言ってよい。

公家街の中、ある館に細川藤孝が入っていくのが見えた。

「……ふん」

昔からどうも気に食わない。幕府奉公衆という名門の生まれ、細川家傍流の名跡、気品ある振る舞い、余人を寄せ付けぬ教養の深さ。友通の劣等感を刺激する要素をあまりにも持ち過ぎているのだ。

「どうした、石成殿」

「蠅が飛んできただけだ」

宗渭が声をかけてきたが軽く流した。

藤孝は近頃公方に出仕していないと聞く。義輝や晴員の憎しみを買ったのかもしれない、よい気味だ。

 

「早急に養子を立てなあきまへんえ」

言葉とは裏腹な、もったりした口調で稙通が言う。

「いかにも」

「大事なんは三好家中の安定どす」

「世の平穏に繋がる人選を心掛けましょう」

「せやなあ。誰でもええちゅうもんやないわなあ」

長逸と稙通、みなまで言わないが腹の中は一致している。

三好家の後継者は十河熊王丸で決まりだろう。順序で言えば之虎の子となるが、熊王丸とは血統が違い過ぎた。九条家に連なる熊王丸なら、畿内の慰撫によい影響を与えることは間違いない。

「新たな若殿を迎え、家臣一同盛り立てていく所存にござる」

「長慶はん、近頃はめっきり姿を見せんようになってしもて」

「……実務を下に任せ、人を育てようという意向にて」

「数で補わんと、慶興はんの穴は生まれへんわなあ」

慶興死後、長慶も床に臥せるようになった。長年隠していたようだが、身体の衰弱はもはや誰の目にも明らかである。もとより養子の熊王丸に実力などは期待されておらず、真の実力者たる冬康は“安宅”の分を弁えてか前面に出てこようとしない。今後三好家は重臣による合議制に移行していく見通しだった。

「主君に比べ、自らの力量不足を恥じるばかりです」

「そんなん言うたらあかん。麻呂は、長逸はんに期待してますよってに」

「それがしなど」

「その己への厳しさ、熟練の知恵武者ぶり。麻呂だけやない、二条はんも近衛はんも」

「およしくだされ」

「朝廷は長逸はんの味方や。……これからも、よろしゅうに」

縋っているのは九条か、長逸か。三好が揺れれば京の治安は悪化する。公家の後援がなければ京の統治は困難を極める。利害は一致していた。まして稙通からすれば、色里から湧いて出てきた久秀よりは長逸の方が余程信頼できることだろう。

臥しているとはいえ、長慶の判断は明晰である。長逸たち家来をよく抑え、公方や六角氏に対しては何らの報復もさせていなかった。だが、海を渡った讃岐では、四国衆が香川氏を相手に衝動任せの荒い戦をやって善通寺が焼失するという失態が起きている。もっとも、あの戦は長房と四国勢の示威行為なのかもしれないが……。

いま誰もが恐れているのは、同じような争乱が畿内で発生してしまうことなのだ。

 

「聞いた通りだ。思うところは色々とある。されど、我らは天下の平穏を第一に考えねばならぬ」

「……無論」

「同じく」

「殿の名を辱めてはならぬ。くれぐれも軽はずみな振る舞いはせぬよう……」

長逸は疲れていた。そもそも、隠居してもおかしくはない年齢なのである。この苦労人が動くなといえば、宗渭も友通も同意するしかない。

友通自身はさっさと義輝を弑逆した方がよいと考えている。忘れはしない、何も知らぬ童を使った長慶暗殺の陰謀。あんなことを考える外道は死んだ方が世のためだ。長逸だって、本心では誰よりも悲しみ、憤りに身を焦がしているはずだった。

自分たちには六万を超える兵力があるのだ。公方を廃しようが、そのことで全国の大名が攻めてこようが、いまの三好家ならば軽々と撃退することもできよう。

(とはいえ、殿や長逸殿がそう言うならそうしよう。宮仕えは上の意向あってこそ……)

 

  *

 

一際冷える夜。新月、墨を塗りこめたような闇の帳。

寝付けず、死んでいった者たちのことを考えていた。先日、淀城に軟禁されていた細川氏綱も死んだ。六郎、慶興、氏綱、畿内権力の核となっていた者たちが次々と消えていく。長慶は老いた。畠山高政紀伊に逃げ落ちた。六角は観音寺騒動で更に弱体化した。

天下から活力が失われようとしている。このような状況で将軍親政を成し遂げたとて、それは死人の王と変わらないのではないか。慶興の命、独りよがりかもしれぬが、友情……を犠牲にしてまで、冷たい墓石の上に自分は君臨したかったのだろうか。

傍らで眠る久乃の温もり。確かな生の証、汗と体液の匂い。思わず、強く抱きしめていた。

ううん……か細い吐息が漏れる。

暗さも虚しさも幾分か紛れる。

眠れるか。そう感じたのも束の間、怖じ気が走った。気配、殺意。何か、居る。

「……何奴」

「迎えに参った」

姿かたちなく、声だけが寝所に響く。久乃、深く眠っている。たいしたおなごだ。

「姿を見せよ」

「笑止」

「迎えとは」

「雲の上へ」

頭上。馬鹿な、天井が割れた。板、木材の崩れる音、重たい何かが降ってくる。

太刀を……不覚! 義輝の上、既に馬乗りになっている。腕を振り回すが相手には届かない。重心の使い様、なんと巧みな。下の義輝が抵抗する力を吸い取るような制圧を……。

刺客の顔。仮面、突起物、これは天狗の鼻か。どういうことだ、余はいったい何に襲われている。

「三好の者か」

「万民の祈りだ。足利公方、お前たちさえいなければ」

「余が何をした」

「未来を奪った!」

「天狗が慶興の味方か!」

「天狗は大空の使いだ!」

首を掴まれた。強力、このままでは。馬鹿な、むざむざ、この義輝が。

「違う……余は……余は、慶興に、惚れて……」

「謀るか!」

「やめてえ!」

久乃、目覚めたのか。やめろ、逃げろ。

「私です! 私なのです!」

天狗の力が緩んだ。咄嗟に身体を捻じり、横転気味に逃れる。太刀、掴んだ!

「おのれ物の怪!」

剣気を放つ。宝刀童子切、八大天狗が相手でも不足せぬ。

「女……」

殺気が久乃へ。まずい。刃、抜き打ち――空を斬った、天狗は再び頭上へ。

「かかってこぬか! とことんやり合おうぞ!」

「……燻る将軍、死霊揺らめく佞臣。見抜いたぞ。足利義輝、哀れな男よな! 器量も武勇も飾るため、一個の人間として何ら願いの叶わぬ愚図な一生! よう分かった、甲斐なき余命を愉しむがよいわ! 空よ、月と太陽の巡りよご高覧! くく、滑稽無様な上様を慈しんでやるがよいぞ! はあっはは……」

「愚弄! 天狗風情が!」

崩れた天井に向かって何度も刃風を送るが、天狗の笑い声は徐々に遠ざかっていく。

言われた。最も指摘されたくないことを言われてしまった。

あんな化け物が相手であっても。一度でいい、全力で戦ってみたかった……。

 

晴舎と晦摩衆が捜索に努めたが、暗殺者の正体はついぞ分からなかった。

無理もない。人が英知の限りを尽くして暗殺に手を染めれば、防ぐことも暴くこともできないものなのだ。だからこそ暗殺は禁じ手であり、卑しむべき行為なのである。

晴員、晴舎、藤英に対して、気にかかっていた別の一件を問うてみた。

「まさか、毛利隆元も汝らの仕業か」

若い藤英の表情が強張る。直接動いたかどうかは分からぬが、何らかの関与はしたと見た。

「毛利は雲芸和議を反故にし、公方の権威を辱めました。――公方は裏切り者を許さない。様々噂は流れておりますが、真相がどうあれよいではありませぬか」

澄ました顔で晴員が答える。

毛利家当主、隆元の死は中国地方に新たな波乱を呼んでいた。父、元就の悲嘆は凄まじいもので、この嘆きがきっと新たな破滅を呼ぶ。今後、毛利と尼子の戦は相当血生臭いものになるはずだ。

「よかったと申すか」

「し、然り! 上様に逆らった者が次々と死んでいく、これこそ天の意志ではありませぬか! あの長慶すら病に臥せり、余命幾ばくも無いとの評判。長慶・慶興亡き後の三好家など恐るるに足らず、上様の親政いよいよ近し!」

気を取り直した藤英が熱く語る。真心だけは存分に籠っているのだ。

「こんなことで手にした実権が世の支持を得られるものかな……」

瞑目。晴員と藤英がまだ何か言っていたが、耳には入ってこなかった。

“ご自身で政務を執られるとして、何かやりたいことはあるのですか”

かつて長慶はそう言った。

“前任者を超えねば支持は得られない”

慶興は笑いながら言っていた。

あの父子の言葉だけが幾周も頭の中を駆け巡る。吐き気がしてきた。

自分には、何もない。父と共に立ち上がった戦も、京奪還を期した戦も、遠慮気味な長慶の手で軽く捻られてしまった。ならば三好家と一体になれば公方の再興も叶うと考えたが、それも公方奉公衆自らの手で否定してしまった。こんな時、いつも義輝の背を支えてくれた藤孝もどこかへ去っていった。

“ひとつ”。卜伝はそう言った。慙愧、自分の一生は、自分の命とすらひとつになれていない。

 

  *

 

長逸たちの進言に従い、熊王丸を養子に取った。これで一応安心した者も多い。

永禄七年(1564年)。長慶四十三歳、天下は疼くほどに静謐である。皆が自分の死を待っている。長慶の死と同時に動き出す。新たな乱世が始まる。それはもう、誰にも止められないところまで来ていた。

長慶の心魂もまた、静謐である。乱世は次の英雄を生み、次の時代を切り開く。成すべきことはしたし、起こるべきことは起こった。自分もまた、待つだけである。

(されど……あとひと押しは欲しい。歯止めはもう要らぬのだ)

恐ろしいことを考えている自覚はあった。痴呆、幻想、これも老衰の症状なのだろうか。あるいは、己の知恵はいまこそ極みにあるのだろうか。五年、十年、二十年先の世が。すべて見通せるような気がしていた。沙羅。花が散るのが先か、私が散るのが先か。豚。結局食べずにいてしまった。孫十郎に返せぬものか。

慶興の葬儀の後、あまねは京に帰っていった。辛い思い出がまたひとつ、彼女には申し訳ないことばかりをしている。幸せにすると誓っておきながらこの始末、来世のすべてを懸けても償いきれぬ予感がする。

病に臥せっている態を取りながら、長慶は日々の鍛練と決裁だけは欠かしていなかった。身体が満足に動かなくなってきているのは事実だったが、心身を鍛え、仕事に励むことには支障がない。起き上がれなくなったとしても鍛錬と決裁は続けようと思う。習慣こそ天性なり、最後に頼ることができるのはその蓄積だけだった。

「と、殿! どちらへ」

ぶらつこうと用意していると中村新兵衛に呼び止められた。引き続き護衛をしているこの若者、教興寺では随分な手柄を立てて名を上げた。阿波の七条兼仲と同じく、素直で単純な随分気持ちのよい男が出てきたものである。これから先に何が起ころうと、潔い一生を送ってくれればと思う。

「……今日は気分がよい。少し、歩きたい」

「ご無理をなさっては」

「大事ない。気になるならついて参れ」

夜桜を抱いた坪内母子も様子を見に出てきた。膳の支度をしていることから、あの二人だけは世間で言われているほど長慶の具合が悪くないことを知っている。新兵衛の慌てぶりを見て苦笑しているようだ。

 

よい日和である。馬ではなく、徒歩で飯盛山城を下った。春の大地を踏んでいくのも楽しい。

思いの外な長慶の平然に新兵衛は驚いていた。深い笠をかぶってきたため道行く人は長慶に気づいていない。ちょくちょく城を抜け出て遊んでいた、かつての頃を思い出すようだった。

思いつくものがあり、西側に出ることにした。麓には深野池が広がっている。城から西に向かって正面、三箇城(大阪府大東市)が池の中に浮かんでいて、遠目に新築の十字架を望むことができた。

「あれだろう、頼照の南蛮寺」

「左様ですが……ええ、まさかあそこへ」

「面白そうではないか」

「えええ、気色悪くないですか」

「気色悪がらずに日本へ来てくれたものを、こちらが気色悪がってどうする」

キリスト教はじわりと拡がりを見せており、先日、河内国人衆の改宗を許可したところである。応仁の乱以来河内国では戦禍による人心の荒廃が甚だしく、近年では木沢長政の煽動を受けたり反長慶側に立ったりする者が相次いだ。既存の道徳や宗教だけでは民の渇きに応えられなかったのだ。長政のような極論に走るくらいなら、政として統制も可能なキリスト教の方が余程ましである。ヴィレラ・ロレンソの要請を受けて布教を許してみると、さっそく三箇頼照ら数十名が洗礼を受けたのだった。

「ばれたら、殿が南蛮寺などに顔を出したと知られたら一向宗法華宗が機嫌を損ねますよ」

「取り締まりのために視察した、とでも言っておけ」

キリスト教を巡ってこんな問答を繰り返すのにも飽きてきていた。

 

危険のないことが分かると、新兵衛は南蛮寺の扉の所で待機していた。

近頃ではサンチョと名乗っている頼照は長慶の来訪を喜び、あれやこれやとキリスト教の説明を試みる。

「それより……“サンチョ”とはどういう意味だ」

「古の殉教者にあやかりまして」

キリスト教では殉教者を殊の外尊ぶところがある。プラクセデスという聖女の話を聞いた時は、方丈記の隆暁を連想したものだった。

「殉教……な。この先キリスト教が弾圧されることがあれば、お主も槍を片手に一揆を起こすか」

「お、恐ろしいことを仰います」

「ふふ、冗談だ。その目、その決意。信仰とは強きものよ」

「殿のご寛容……信徒一同、感謝の申しようもありませぬ」

「……私は一向一揆に父を殺された。三河ではいまも領主と一向一揆が争っているそうだ」

一向宗の教えに問題があるのです」

「どうかな、他人が見ればキリスト教一向宗もそうは変わるまい。祈っている本人にとっては尊いもので、施政者から見れば何やら恐ろしいもので。そう……一揆とは祈りを、誇りを踏み躙られた者たちの怒りか、甘えか……。いずれにせよ、信徒だけが悪いのではない。政にも責任があるのだろう」

「……」

「すまぬ、もうよしておこう。しばらく、休ませてもらってもよいかな」

「もちろんです。“疲れた者、重荷を負う者は誰でも私のもとに来なさい、休ませてあげよう……”」

寺の後方に据えた椅子に腰かけ、頼照と信徒たちが歌うのを眺めていた。

 

キーリエーエレーイソーン……キリエーエレイイイーソーン――

 

同じ文句を何遍も繰り返している。キリスト教南無阿弥陀仏だろうか。意味を問うてみようか? や、また困らせてしまうだけか。日本の歌とはどこか調子も声の伸びも違うが、不快ではなかった。

 

聴いているうちにうとうととしていたらしい。

目を開けると歌は終わっていて、寺には頼照と新兵衛だけが残っていた。

「冷えるといけません」

頼照が深緑の器を差し出してきた。受け取った掌が温かい、この匂いは。

「葡萄酒を温めたものか」

「はい。桂心を挽いたものを少し混ぜております」

新兵衛が頷く。よく見れば頬が朱い、毒見は充分にしてあるようだった。

口に含んだ。鼻に抜ける桂心の風味、追いかけてくる葡萄の濃厚。頭に浮かんだのは赤い渦潮だった。勢いを失わぬままに胃の中へ流れ込み、腹を温めてくれる。ひと口、ひと口と続けるうちに。喉が、指先が、ふくらはぎが。ぽかぽかりんりんとして心地よい。

「……阿波橘を加えても、うまいだろうな」

「な、なるほど」

「世話になった」

精がついた。もうひとつくらい、何かやり遂げることができそうだ。

 

  *

 

三好家重臣兼公方奉公衆の立場を利用し、久秀は内部監査に尽力していた。

内偵ほど嫌われる役目もない。ましてや長慶の指示ではなく、自ら立案してのことである。もともと乏しい久秀の人気はこれで完全に地に落ちてしまった。

一存の変死、慶興の急死、長慶の病臥、何もかもを久秀の陰謀だと信じたい者は多い。不安な時、凡愚ほどくだらない煽動に乗ってしまうものなのだ。進士晴舎辺りによる流言だということは掴んでいるが、やってもいないことの潔白を証明することは難しい。事実、慶興の暗殺は防げたのではないかという自責の念もあった。

だからこその監査である。久秀自身だけでなく、三好家の主だった人物の周辺をとことん洗う。銭の流れ、帳簿と年貢の整合、裁許や賞罰の頻度、人の出入り。慶興の死で終わりとは限らない。未知の謀略が仕組まれている可能性は充分にあるのだ。長頼に止められようと、長逸や長房などに睨まれようと、更なる悲劇の防止に努めることこそが長慶への恩返しだった。

そして、発見した。

「こっらあ……下手したらえげつないことになってたでえ……」

「敵は三好家をよく調べています。この方を抜きにいまの静穏はあり得ない」

「よう見つけたな正虎! さっそく殿に報告や!」

 

大和から飯盛山城は遠くない。

何かにつけてしばしば顔を出すようにしている。それは、長慶のためというより久秀が安心するためだった。数限りない不幸にやつれ、命の力が減衰しようとも、いまだ長慶以上に明晰で頼もしい主はいないのだ。

久秀の報告を聞き、証となる文書数点に目を通した長慶はしばらく沈思して……やがてにたりと笑った。日頃見せない主君の表情に久秀の心はざらざらと惑う。

「ご苦労だった」

「へ! 熊王丸様の擁立を踏まえた一族の不和、いかにもありがちな筋書だす。“当たり”をつけて調べてよかったですわ!」

交易からの資金押領、跡目争いを煽る檄文。偽造とはいえ、敵の工作は細やかな仕事がしてあった。

「これはいい……これは使える……。ふふ、よいことを思いついたわ」

「と……殿?」

「久秀よ。お前の長年の忠義立て……礼を言うぞ」

長慶の様子がおかしい。自分に向かってこんな言い方をする人ではない。

「ちょ、やめてえな……。いっつもみたいに無茶あ言うてくれまへんのか」

「聞け。私はもう、」

「聞きたない!」

床を全力で叩いた。掌がはれはれと痛む、障子の外で祐筆や小姓が動揺する気配を感じる。

「……好きなように暮らしていたお前に、長らくいい子のような振る舞いをさせてしまったな」

「ちゃう! 殿が……殿が、わいを真っ当な男にしてくれたんや」

「この先三好がどうなろうと、天下がどうなろうと……誰に遠慮することもない。もう一度、思うように生きろ」

「……そんなんないわ。殿さん、今更こんな年寄りに向かって好きにやれやて。なんで、熊王丸様に尽くせ、三好を守れ、民草を労われって。なんで……なんで言うてくれまへんのや」

もう駄目だ。老いた涙が後から後から湧いて出て。鼻水まで混じって言葉を継ぐことができない。

「時間の無駄よ。長逸にも長房にも同じことを言おう、銘々で思う存分やってみろ」

「殿さん、あんた薄情や、人でなしや! おお、おおおお……」

始めて出会った時の印象以上に。長慶はいま、どこの誰よりも狂っている。いや、初めから狂っていて、遂に素顔をさらけ出したのか。

縋るような久秀の痛みを一笑に付し、長慶が寝床に帰っていく。なぜだ、なぜこんなことに……。若殿。慶興様さえいてくれたら。わいではあかん、長逸はんでもあかん。もう誰も、殿の跡をよう継がん……。

 

  *

 

「久秀が……長慶にお主のことを讒言したと噂になっている」

「よくよく話題になり易い男です」

「落ち着いている場合か。噂もこれだけ塗り重ねられれば真実になってしまう」

「康長殿は何かを掴んだのでしょう」

「……わしはもう、どうしたらよいのか分からぬ。疲れたな、この世を眺めるのに」

「その割には活躍しておいでだ。河内半国の統治、実にこなれている」

和泉を治める冬康と河内南部を治める康長。二人で会う機会が増えていた。場所は決まってとと屋の宝心庵、互いに茶を振舞いながらである。時には与四郎が混ざることもあった。

「ちょっとお。冬長さんがお見えよ」

いねが呼びに来た。二人の弟の死を乗り越え、再び稼業の切り盛りに汗を流している。

「突然の呼び出しとはな。……まさかとは思うが」

「お気になさり過ぎますな。兄弟で話したいだけでしょう」

長慶による冬康と冬長の召喚。確かに、冬長までわざわざ淡路から呼び出したことは気にかかる。

不安気な康長といつもと変わらぬ喧しさのいねに見送られ、飯盛山城へ向かった。

 

「それで、ご用件とは」

冬長は襖の外で待たされている。長慶の私室、兄と弟の二人きりだった。

「お前に謀反の嫌疑がかかっている」

「……まさか、本気にしている訳ではないでしょう」

「しておらぬ」

世間話も昔語りもしない、単刀直入な長慶の口上。常と異なる不穏が漂っている。

「“三好四兄弟全滅作戦”。そういう風聞は耳にしております」

「そうだ。叔父上ほど引いてはおらず、長逸・久秀・長房ですら頭が上がらぬ才覚。峻雷碧の体現、海の王者、三好家の要……打てば響く男。狙うならば冬康、お前だ」

「ははは。過分なお言葉の数々を」

「なあ冬康よ。未来の形を考えたことがあるか」

やはり分からぬ。害意は感じない、むしろ長慶は慈愛に満ちているのだ。なのに消えない、この不穏。

「宗家を支え、淡路と和泉を育み、富を増やして、外敵を挫く。やがて天下は柔らかな平穏に包まれる」

「ふふ。真っ直ぐだな」

「慶兄は違うのですか」

「ずっと……考えてきた。遥か昔、幼少の頃からだ。そもそも……未来の形は人によって異なる。生まれ、暮らし、家族、夢。それぞれにそれぞれの未来があるのだろう」

「……それで、慶兄の描く未来とは」

「薄明は宵闇の後に、静謐は擾乱の後に。新たな三好長慶を創るため、真なる三好慶興を産むために。私はいま一度、天下を闇夜に包もうと思う。……そう、我が未来の形にお前の姿はなかったのだ」

「――狂ったか、慶兄!」

疾風、“岩切”。遅かった、否、長慶が速すぎた。右腕が天井まで飛んで、遅れて血が噴き出した。

 

続く