2016-10-01から1ヶ月間の記事一覧
二十八 夜討の段 いまは、どんな雑用でも進んで引き受けるべき時だった。 松永久秀の名前が注目されてきている。もともと長慶の祐筆として政務の奥深いところに関わっていた。それに加えて、近頃では戦の指揮まで任されるようになってきているのだ。久秀本人…
二十七 村雨の段 天文十九年(1550年)の初夏になった。 近江は風の国である。穴太(滋賀県大津市)の寺院で臥せっている義晴のところにも、琵琶湖から心地よい風が吹いてくる。この風がなければ、もっと早くに逝っていただろう。 「中尾城(京都府京都市)…
二十六 ウツロの段 宗三は、最後の最後で己を曲げた。六郎の家臣でいることよりも、人の父親であることを選んだのだ。 限界状況に入った宗渭と榎並城を見捨てることができなかった。姿を現した宗三が入城した江口城は榎並城の一支城に過ぎない。榎並城が充分…
二十五 藤葛の段 長慶が軍を動かし始めた。摂津の周辺国人に威を示しながら兵力を糾合し、宗三・宗渭父子を討とうとしている。 その動きはすぐさま四国にも伝わった。持隆と之虎が治める阿波は落ち着いていたが、讃岐はそうではない。もともと香川家や寒川家…
二十四 どん突きの段 六郎の手で池田信正が処刑された。以前、氏綱に寝返ったためであると言う。 ほとんど騙し討ちのような形だったらしい。嫡子の長正が跡を継ぐことを許されたが、当主としては若年に過ぎる。しかも、彼の母親は宗三の娘なのである。世間で…
二十三 松風の段 年の暮れ、宗三たちは無事に京へ戻ってくることができた。 長慶が舎利寺で大勝したことにより、各地の氏綱方は勢いを完全に失った。遊佐長教はいまも長慶に攻め立てられており、筒井順昭は大和へ撤退した。公方は近江に潜んでおり、京に自力…
二十ニ 魔導師の段 兵が続々と上陸してきた。半信半疑だったが、細川持隆が長慶の説得を受け入れたという噂は本当のことだったらしい。芥川山城を失い、越水城に身を寄せていた孫十郎は小躍りしてこれを迎えた。 兵力は二万を優に超えている。数だけでも氏綱…
二十一 鼓動の段 堺から尼崎までを堺衆の船で渡り、そこからは馬に乗り換えた。 ここから越水城は程近い。一人でもよかったが、堺衆が律儀に城まで護衛してくれるというので無理には断らず、三十人ほどの行列で街道を進んだ。既に何か噂になっていたのか、道…
二十 先義後利の段 念願の元服である。 幼名の又四郎を捨て、新たな名乗りは十河一存だ。逞しく育った全身に燦々たる英気が漲る。 天文十五年(1546年)の正月、一存は義父存春や家臣たちの祝福に包まれ、前途洋々の思いだった。この十五年、四国衆は中央の…
十九 まほろばの段 新五郎と幹子の遺骸が越水城に届けられた。 細川家の使者は逃げるように去っていった。それでも、まともな弔いができるように取り計らってくれたのは彼たちなのだそうだ。二人が絶命した後のことまでは、六郎は関心を示さなかったらしい。…
十八 悲恋の段 雪月花の夜だった。 天文十三年(1544年)の春。ようやく桜の花が開いたと思ったら、季節外れの雪が降った。夜には雲が流されて、桜の老樹にまぶされた雪が月光をたおやかに反射している。 「まだいいじゃない」 半裸のまま、幹子が言った。新…
十七 天狗の段 輝く日差しを浴びて、海辺の砂からは陽炎がゆらめいている。 天文十二年(1543年)の真夏日。勝瑞館では阿波・讃岐の侍を集めた組打ち競べが開催されている。暑気払いにいっそ思いきり汗をかこうと、之虎が進言し、持隆が認めたものである。 …
十六 幼子の段 腹は順調に大きくなっている。つわりの具合もだいぶんよくなった。太平寺の戦で長慶が大勝し、憂いが減ったことが大きいのだろう。 「約束通り、生きて帰ったぞ」 得意顔でそう言った長慶の頬を、泣きながらつねったりしたものだ。 季節は夏で…
十五 亡霊の段 天文十一年(1542年)。 元服を迎えた千々世は、名を冬康と改めた。“冬”の字は足利義冬の偏諱を賜ったものである。来年元服する義弟の野口万五郎は、冬長と名乗るつもりらしい。 恒例となっている細川持隆からの御下賜品。冬康には、朱漆の弓…
十四 革命の段 夏になり、からっと晴れわたる日が続いた。 衣装や調度を替えるのに数日を費やし、おなごたちは休息を取っている。あまねも縁側に腰かけ扇などを使いながら青い空を見上げていた。 (今年は、お酒ができるかな) 飢饉に陥った昨年は、西宮自慢…
十三 白無垢の段 天文九年(1540年)の夏。 阿波の旅から帰国した田中与四郎は、久しぶりの我が家でゆっくりと身体を休めていた。阿波や船上と違って、柔らかい畳に寝転んで手足をいっぱいに伸ばすことができる。い草の匂いが常より甘く感じられた。 長慶の…
十二 平蜘蛛の段 そこには奇怪な美しさがあった。 冬の夜。長慶は長逸と新五郎を供に、平蜘蛛町の視察にやってきた。淀川河口の低地帯に創られたこの町は、遠目からでも異様な輝きを放っている。妓楼から漏れ出す灯りに加えて、町内の小路それぞれに沿って黒…
十一 いかずちの段 西宮の民は、正式に領主となった長慶を盛大に迎えた。 西宮は古代から京と西国を結ぶ陸海交通の要衝であり、商工業や廻船業が栄えている。西宮神社の祭典やえびすかきと呼ばれる傀儡芸など、洗練された風流がよく根付き、まさに摂津国を代…
十 理世安民の段 正面に瀬戸内、背後には山々が聳える国土。その山々に深く踏み入ったところに、目指す城はあった。四国と芝生の関係に少し似ていた。違うのは、その城が大内と尼子という大国に挟まれている点である。 初めて訪れた吉田荘という土地は、山奥…
九 天道の段 年の暮れを迎えた深夜、外では深々と雪が降っている。飯盛山城、城主の館の一室で長政は将棋の駒を弄びながら黙考していた。 長慶の胎動が感知できなくなっていた。思いとどまったのか、水の下ではいまも動いているのか。上がってくる情報からは…
八 漂流の段 天文七年(1538年)の初秋。将軍足利義晴は突如公方役職の人事を行い、天下を驚愕させた。わけても人々の耳目を集めたのは、管領に次ぐ役職である“相伴衆”に越前の朝倉孝景、格は落ちるがやはり栄誉職である“評定衆”に波多野稙通が指名されたこ…
七 輪廻の段 天文六年(1537年)の夏が近づいてきていた。京の細川屋敷、以前は荒れ果てていたこの屋敷もいまでは天下の政庁らしい絢爛豪華な館に生まれ変わっている。御所や公方が窮乏し、法華衆の寺院が焼き尽くされたいま、細川屋敷の輝きは群を抜いてい…
六 巣立ちの段 深山幽谷を行く。祖谷から芝生への帰路である。春の暖かさはまだ感じられないが、麗らかな日差しは皮膚の奥まで通り抜けていくようだ。求聞持法の行を終え、つるぎも供回りも、一行には朗らかな安心が溢れている。何ごとかを成したということ…
五 祈りの段 元長の一周忌は、持隆にとっても溜飲が下がる思いであった。 手打ち式の守衛は通常、仲介人が行う。それにかこつけて元長を慕う人々を守備兵に紛らせ、石山本願寺の中へ埋伏させておいたのである。参列者の手配が直前になったのがかえってよかっ…