きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

四十五 葦間の段  ――畠山高政 岸和田へ来襲し、三好之虎 久米田池に命を散らす――

四十五 葦間の段

 

畠山・六角勢との睨みあいは半年以上に及んで、永禄五年(1562年)も三月になろうとしていた。

安宅船の楼閣で指揮をするのと籠城戦の指揮をするのとでは、いかにも勝手が違う。さはさりながら、冬康が夕星で放った矢は次々と紀州侍の眉間をぶち抜き、岸和田城の防備は微塵も痛んでいない。

畠山高政は話で聞いていたよりも堅実な戦のできる大将だった。冬康の守る岸和田城を侮りがたしと見れば兵力を分散し、本隊は和泉で之虎と対峙しつつ、別働隊で南河内や大和を荒らしまわっている。とりわけ、戦上手の之虎に焦って決戦を挑もうとしないところが出色であった。之虎や冬康といったこちらの主戦力を引きつけておきさえすれば、数で勝る敵は多様な軍略を進め易くなるのだ。

「とはいえ飯盛山城には兄上が控えている、高政の狙いはどこまでもこの和泉だよ。岸和田を抜けば堺を占拠することも河内を二方向から攻めることもできるからなあ」

「河内に深入りしても和泉と大和から挟撃されてしまいますからね」

「あいつらまだまだ数が増えていやがる。兄上が言う通り、俺たちも嫌われたものだなあ」

「……虎兄も少しお疲れでは。陣を代わりましょうか」

冬康が一存に代わって岸和田城を守っている間、之虎は久米田寺(大阪府岸和田市)近くに陣を築いて和泉の防衛網を強化していた。

「いいよ、俺は野戦の方が合うんだ」

「それにしても……今日はいつになく顔色がよくないような」

久米田の陣は古の墳墓を利用して築いたことから、不敬であると之虎を批判する声も出ていた。一定の標高と水掘を有している墳墓が、急いで堅固な陣城を築くには便利であることも否めないのだが。

「今朝……夢に父上が出てきてなあ」

「父上ですか」

「ほとんど顔も覚えちゃいないってのに……すげえ怖かったんだよ。癇癪混じりで俺を呼ぶ声、聞いただけでこれは父上だって。なぜだか分かってしまってよう」

冬康も記憶はあやふやだった。元長が死んだ時の二人はまだ六歳と五歳で、つるぎや長慶たちが家を必死に立て直していくのを見守るしかなかった、強い無力感だけが印象に残っている。

「父上が虎兄を責めるはずないでしょう。きっと激励にお出でになったのですよ」

「……お前、自分の息子が冬長を殺したらどう思うよ」

「……そんな」

「今更、悔いも迷いもありゃしねえさ。ただ、そういう夢を見たってだけだ。俺だって因果だ報いだって言葉は知っている。墓や霊を粗末に扱っちゃあいけねえことも知っている。それでも、生きてかなきゃいけねえんだ」

「どうも、我々兄弟は数奇な定めに翻弄されているような……」

「まったくだ。兄弟分纏めて行基菩薩に祈っといてやるよ」

「虎兄」

「なんだい」

 

因果とは 遥か車の輪の外を 廻るも遠きみよし野の里――

 

「ご自愛くだされ、虎兄は己に厳し過ぎる。昔から……」

威風と風流の鎧で生身の弱さ優しさを覆っているのが之虎である。だからこそ之虎が手掛ける茶の湯藍染は人の心を打つ。

「は。気持ちだけ、もらっておくぜ」

「……」

「お前も気をつけろよ、先に本城が落ちちゃあ話にならねえ」

「……はい」

「ありがとよ」

山手の方へ駆けていく之虎一行を見送り、一存が逝った場所をしばらく眺めてから……館に戻った。

部屋の隅に目をやると、之虎が暁天を忘れている。あるいは、預けていったのだろうか。

 

  *

 

久米田池(大阪府岸和田市)から戦風が吹いてくる。

こちらの二倍の兵数となって、遂に高政は動き始めた。敵は高政本隊の二万の他、岸和田城へ五千、河内大和方面にも五千近く。迎え撃つ之虎の部隊は一万ほど、但し精鋭である。

対陣が長く続くうち、悪い意味で高政が之虎を恐れていることは伝わってきた。互角、または兵が多少多い程度では決して本気のぶつかり合いをしてこない。貝のように守りを固められては、兵数で劣る之虎が力ずくで叩き潰すのは難しかった。まして、敵の陣には無数の根来筒が配されているのだ。

領地の広大な三好家が二方面の大敵に戦力を集めるのは難しい。長慶を守る必要があり、各地の治安を守る必要がある。将棋ならば前線に駒を集めても問題は起きないが、実際の戦で兵を前線だけに集めては背後で内応した国人衆や一揆の蜂起が相次ぐかもしれないのである。京や堺が被害に遭えば、戦に勝ってもその後の統治に支障をきたしてしまう。とどのつまり畿内のような平野部では、戦は攻められた方が圧倒的に不利なのだ。

一存の急死と、長頼の若狭攻略失敗が与えた影響も大きかった。六角家と畠山家を相手に回して、武の主柱を欠いた三好家が持ち堪えられるかどうか。様子見を決め込み、兵力の供出を渋る国人衆も多かった。それどころか、過去の戦や相論で三好家に敗れた者たちを中心に、畿内からも敵方に合流する者が現れる始末である。

「民や地侍の気持ちを汲むのは、やっぱり兄上が一番だな」

「……どうしたのです、之虎様」

之虎は自陣の兵をあえて減らし、飯盛山城の護衛や岸和田城に回すことで高政を釣り出したのだった。思惑叶ってさあ開戦という時に意味の分からぬ呟き、長房が不審に思ったようだ。

「俺たちは試されているのよ」

「誰にですか」

「さあな」

くっくっと腹の底から笑い声が出てきてしまう。

これ以上考えることはない。我慢に我慢を重ねた高政、復讐に血を沸かせた畠山の侍どもを歓迎し、何もかも無駄な足掻きだったことを骨の髄まで教えてやるだけだ。三好も畠山も所詮は同じ穴の狢、共に因果の尖兵となって踊り明かせば時代も変わるだろうよ。

 

高政は轟川を渡り、目と鼻の先に陣を敷いた。かつての遊佐長教同様、背水の構えである。舎利寺に重ね合わせることで之虎に対する兵の闘志を煽っているのだろうが、それはこちらも望むところだ。

敵衆が集っている額原とか八木、尾生などと呼ばれる辺りは溜め池が多く、緩やかな丘も点在している。夏が近づき水辺では葦が茂っていて、見晴らしがよい水の上と、見晴らしが悪い土の上が混在する地勢。一言で言えば、玄人好みの戦場だった。

この場、俺が高政なら、紀州侍や根来衆の顔ぶれならば。

「……敵は初め、一丸となって攻めてくる。こちらは包むようにして迎え撃とう」

「……」

長房も康長も意見を挟まない。之虎がそう言うなら、実際そうなるだろうと信じてくれている。

「そこまでが第一段階。俺がほら貝の合図を送ったら第二段階だ。敵が崩れ始め、追撃に移る時」

腕を伸ばし、尾生方面の丘、額原方面の溜め池、そして左手に広がる久米田池を順に示す。

「ここからが肝心だ。敵は伏兵をあちこちに埋伏している。一旦包み込んだ陣を散開し、個別撃破に移る。固まっていたら鉄砲の狙い撃ちに遭うからな、物見はいつもより多く出せ」

「はい」

「後は臨機応変に指示を出す。いいな、まずは敵を押し返さんとどうしようもねえ。出し惜しみするなよ」

「任せておけ」

「一存殿の弔い合戦、四国衆の士気はかつてなく高まっております」

「ふふん、そうだな。一存が守ってきたこの岸和田で俺たち四国衆が大勝ちしてやるのも一興」

「うむ、その通りだ」

「おい宗渭よ、お前にも期待しているからな。父親譲りの水辺の戦、楽しみにしているぜ」

「……は」

長逸の差配で、淀川沿いの摂津衆を率いた宗渭が助太刀に来てくれている。宗渭の三好家復帰は宗三以来の摂津国人衆を喜ばせていた。

「余計な遠慮をするでないぞ」

康長も温かな言葉をかける。宗渭の実力は誰もが認めているが、本人はまだ引け目があるようだ。

「……之虎殿は、まるで浄玻璃の鏡をお持ちのようですね」

「ははは、ただの当てずっぽうよ」

「学ばせてもらいます」

「だから堅苦しくなるなって。俺たちは長逸じゃないんだぜ」

宗渭も含め、皆がどっと笑った。

「よおし、出陣だ! それぞれの配置に戻れ!」

 

見込んだ通り、敵は密集形態で進軍してきた。

これまで手堅い戦法を駆使してきた高政だから、背水陣からの突撃とは意表を突いたものである。だが、之虎から見ればいかにも才気走ったぼんぼんの考えそうなことだった。

「包み太鼓!」

鳴り物衆が合図を送る。後陣の之虎を残し、長房、康長、宗渭の三部隊が敵軍を囲んだ。畠山家の第一陣はどうやら安見宗房、数は六千というところ。宗房が先鋒とは、寝返りを警戒している高政の顔が目に浮かぶようでおかしい。

揉みあう。兵数はそう変わらないがこちらは三方向からの包囲攻撃である。敵の圧力を最も受けている長房が崩れればおしまいだが、崩れないから長房なのだ。腹を据えた長房なら、一存の攻撃すら受け切る技量と胆力がある。よし、いいぞ。康長はいつも以上に鋭く、宗渭は老練な剥がし方をしている。

高政が焦った。援軍、第二陣が接近してくる。

「小太鼓乱打!」

伏せておいた弓兵と鉄砲衆で気勢を挫く。こちらの伏兵は少数、これで討てる数はそう多くない。しかし、足さえ一度止めてしまえば援軍は援軍として機能しなくなる。

さあ、ここからだ。どうする高政。自信を持ってこのままか、他の手を試したくなってしまうか。

安見宗房、粘っていたがもう無理だ。入れ替わった第二陣も囲まれてしまうぞ高政。よいのか、こちらは傷も疲労も浅いのだぞ。

第三陣、動いた。あれが主力だ、来る? いや、廻った。二陣が時間を稼いでいる間に側面へ。

「幼稚!」

新たに揃えた鳴り物、ほら貝を一斉に吹かせた。敵の二陣を揉み潰した一同が統率よく展開していく。長房、敵の三陣へ。宗渭、海手の伏兵を炙りだしつつ長房を支援。康長、山手方面の伏兵、潰走兵を掃討。予想通りあちこちから鉄砲の音が聞こえてきたが、初めからそうと分かって掛かれば恐ろしいものではない。兵力の差はなくなった。敵の奥の手も見破った。勢い、士気はこちらが上。目まぐるしく兵が行き交う、傍目には混迷、俺の目にだけは勝利の一本道。

戦局、進む。長房と宗渭、三陣を砕く。康長、丘を占拠。高政の本陣、揺れる。

「ここだ! 高政がとどめを入れて欲しいとよ!」

供回り、青一色の愛染衆。頷く。吠える。温存していた分だけ奮い立つ、駆ける!

左手、久米田池。鶺鴒が飛び去った。俺たちの。違う、敵がいる。葦に潜む影、池を巡ってきたか。

銃口。一丁に過ぎない、一発撃たせて終わり。愛染衆が之虎を囲む。距離も充分、致命傷には。

葦間。閃光、白の。音、銃声。割れて、波が。池に……波?

赤。赤い飛沫、何もかも。揺れる、赤、赤ばかりの、回る、温かい、けれど。

おい、藍色はどこだ。

 

  *

 

怒号、悲鳴、鳴り物、槍合わせ、矢唸り、鉄砲。

戦ほど五感を刺激するものはない。耳から入ってくる知らせの他、血生臭い惨劇、勇気を奮う若武者、日頃と変わらぬ遠くの山々など、目には見たいものも見たくないものも映る。鼻に意識をやれば汗、血液、火薬の匂い。肌には鎧の重み、蒸れた質感、更に注意を払えば手傷の痛み。喉は乾きよりも、いつもと異なる口中の風味が際立つ。えぐいような、野草を齧ったような、戦いの味。それらすべての感性を自覚し、思うように身体を動かすことができれば愉しみも歓びもなくはない。

そうした全身の白熱をこの銃声は引き裂き、醒ましていった。

(なぜ……この音がだけがこうも気になる。背後……之虎の方角)

丘陵部を押さえ、之虎が睨んだとおりそこかしこに潜んでいた根来衆を殲滅しようとしていた。

丘の上、馬上、轟川に区切られた狭い戦場。振り返れば之虎の位置は遠目に見える。

いた。之虎、二重三重に愛染衆が囲んでいる。安堵……否! 赤く塗れた顔。なぜだ、なぜ之虎の額が砕け、血を吹いて……なぜ。見間違いではないかと耄碌を願った。之虎の身体が、崩れ落ちた。

「撃ち抜いた! 敵将三好之虎、仕留めたあ!」

久米田池から根来筒を抱いた法師武者が飛び出してきた。殺せ、念じたが誰も動かない。

狭い戦場。潰走しかけていても畠山軍の数は多い。逃げずに踏み止まっていた者も、隠れていた者も多い。もとより潜んでいる者を狩り出しているところだった。

しじまは刹那。歓声が、敵の歓声が地を割るように。

「うおおおおおお!」

「右京がやったぞ!」

「いまこそ勝機じゃ、もはや三好家に虎はおらぬぞ! それ掛かれや打ちのめせ!」

根来鉄砲衆。さすがよく訓練されている、いままで康長に押されていたのに。

ばおんごおんと再び鉄砲を浴びせてくる、まるで勝利を祝うかのように。

「康長殿! お逃げくだされ、ここは我らが!」

康長の供回りが退却を進言してくる。

「之虎が……あそこで待っているではないか」

「見たでしょう! 鉄砲の直撃を受けたのです、もう、もう……」

見苦しい。泣くな、鼻水を垂らすな。

「迎えに行ってやらねば。之虎が、之虎よ……」

勢いを取り戻した畠山軍が愛染衆を呑み込んでいくのが見えた。

連れて帰らないと、手当をしてやらないと。一存、南宗寺……墓。なんだ、いま一瞬、何を考えた。

こんなことがあってよいはずがない。たった一発の銃弾が戦局を逆転させるなど、そんな理不尽が。

「伝令! 総指揮を代わった篠原長房殿より、堺に向かって退却せよと!」

いま立っている場所。山手、丘の上。深入りしていることは間違いない。伝令、背に何本も矢が立っていた。命と引き換えに康長のところへ辿り着いたか。

「之虎、いま行くぞ。わしも往く。今度はわしが茶を点てて」

「康長殿!」

組みついてきた。敵ではない、供回り衆たち。離せ、わしを放せ。

投げた。肘を極めた。邪魔をするな、逃げたくば逃げろ。わしは。

「御免!」

長槍の柄が交差、幾本も。猪口才な、刀を抜いて斬った。しかし、またも組みつかれる。

「やめろ、やめぬか」

「やめねえ。このまま堺までお守りするからな」

このわしが、逃れられない。この若造、七条兼仲とかいったか、なんという……怪力、こんな時に。

「之虎! 之虎あ!」

なぜわしを救う。なぜ之虎を救わない。なぜだ、なぜお前たちばかりが。

兄上、つるぎ殿……すまぬ、長慶。

「三好之虎が首級、召し取ったり!」

聞こえた、虚報。子ども騙しの。

馬に二人乗りとなって運ばれていく我が身、必死にもがく。もがいた先。視線、一直線の果てに。

真っ赤な之虎の顔が……掲げられていた。

 

  *

 

帰還した往来右京は一躍英雄となった。

単身で狙撃に挑み、その銃弾は何人もの肉の壁の向こうに隠れた之虎の額を正確に撃ち抜いたのである。“針の穴”を狙うも同じだったはずで、成し遂げたのはまさに“御仏の加護”があったからに相違ないと根来衆たちの喜びようは殊の外だった。

息を吹き返した宗房も、第三陣として苦戦していた湯川直光もおおいに奮戦した。退き戦もさすがの“手練れ”ではあったが、所詮は之虎を欠いた残党、北に向けては延々と三好軍の死体が転がっている。これでしばらく四国衆は動きが取れないだろう。

「報告! 岸和田城の安宅冬康、撤退を開始しました」

「ああ、そうだろうな。そうするしかねえだろう。それで、追撃は」

「は、それが、追っ手の侍大将五名が全員眉間を射抜かれてしまい」

「……ふん、まあいい、これで和泉は手に入った」

天下に聞こえた三好四兄弟、残るは二人。逃げた冬康と、飯盛山から動かない長慶。

三好慶興に三好長逸、松永兄弟は六角が引きつけてくれている。もはや和泉と南河内に敵はおらず、少し待てば兵は更に増えるだろう。入ってきた。視界、長慶の討伐。

「長慶を討てば……公方も俺たち側に立つ。畠山は“管領”になって、河内は元通り。和泉から摂津まで領地に加え、名実ともに日ノ本の“てっぺん”に立てる訳だな。痛快、痛快!」

「そうなったも同然でござる。祝着、祝着!」

「お前もよくやったよなあ! ええおい、鍛錬に“励んだ”甲斐があったなあ!」

「殿! 殿についてきてよかった……! 何度も足蹴にされ、どれほど見限ろうと思ったことか……」

泣きじゃくりながら、右京が何か口を滑らしている。

「そうかい、俺あ“捨て”られるところだったのか」

「あ! いえ、そんな、物の例えにて」

右京の腿を斜め上から蹴り下ろす。悶絶しているが、それでも泣き笑いに嬉しそうだった。

「検分、終わりました。確かに三好之虎であります」

今度は宗房と直光が陣幕に入ってくる。

「どおれ、見せてみな。俺だって実休さんには会ったことがある」

あらかじめ陣幕の内には首実検の用意をしてある。畠山当主らしい威儀ある衣装に着替え、相応の作法を以て実検に臨んだ。何しろ相手は三好之虎、当代最高の武将の一人である。

その死に顔を眺めているうち、高政は勝利の喜びよりも、“負けていたら”という思いを強くした。右京の神技がなければ、この戦は確実に敗れていた。二倍の兵力を用意したにもかかわらず、指揮の力で容易く逆転されたのだ。

「……“慎重”にいってこれか。これで十河一存まで揃っていたら勝てる道理がねえ」

「……」

「首を取り返しに来る余裕はねえだろう。“丁重”に弔ってやれ」

「はっ」

「それと、これは之虎が佩いていた刀です」

「ふうん……」

直光が差し出してきた刀。鞘から抜くと、素人目にも大変な品であることは分かった。

「な、なんだこりゃあ。こんな“業物”まで持っていやがったのか」

「詳しい者によれば、備前長船光忠の名刀ではないかと」

「かあ、“数寄武将”と呼ばれるだけあるな……。虎は死して皮を残すとはよくぞ言ったもんだ。“実休光忠”、大事にさせてもらうぜ」

生者の義務。手を合わせて成仏を祈り、之虎との面会を終えた。

和泉を制圧し、続けて高屋城を取り戻す。そうなれば河内南部や大和南部の反三好国人も次々と結集してくるだろう。

勝ったとはいえ、実力では負けていた。狙撃のような奇手が何度も通じるはずがない。ましてや、長慶は之虎と同等の戦上手なのだ。再び充分な兵力を集め、丁寧に追い詰めていくしかない。今度は王道の戦い方で勝利し、天下に畠山家の復活を存分に印象付けてやるのだ。

 

  *

 

戦時中だからと、民の暮らしや朝廷の行事、風流人の交流などを疎かにしてよい訳ではない。変わらぬ日常を保障することが施政者の務めであって、武家の争いのために必要以上の負担を強いることは筋が通らないというものだ。強引に銭や兵糧を巻き上げたり徴兵したりも不可能ではないが、それは下策中の下策であり、戦後の安定を投げ出すことに等しかった。

慶興と之虎が軍事に励んでいる一方、飯盛山城に残った長慶は文治に精を出していた。慶興が普段決裁している諸事を久しぶりに受け持ち、朝廷や公方の行事を滞りなく進ませる。勝ち戦か負け戦かの判断がつきかねている国人には道理を説いて聞かせ、戦に関わり合いになりたくない寺社には禁制を撒き、堺などの御用商人衆とは戦況や安全な交易路をこまめに共有化する。その上で空いた時間には頻繁に連歌会などを開催し、文人の舌を使った“世論づくり”に励む。

戦況は一進一退ではあるものの、長慶も含めた実務方の努力の甲斐あって内政面にさしたる問題は生じていない。民の間でも六角や畠山に“解放”を求めるような動きはなさそうだった。北か南、いずれかで勝利を上げればこの難局も乗り切れるかもしれない。総勢五万に及ぶ敵兵の数、それを支える反三好の感情の高まりは恐ろしく、哀しいものであったが、一方で長慶の政を支持する民も確かに存在するのだ。世が、天が、いずれを最後に選択するか。これもひとつの審判、ひとつの道程。衆目に晒されるというのも面白いものである。

 

すぐ南の久米田界隈では戦端が開かれる頃合いであったが、今日も飯盛山にはよい詠み手が集っていた。近頃名を上げてきた紹巴を中心に、公私を通じて親密な面々。連歌とは業の深い遊戯でもあって、一種の興奮状態、あるいは沈鬱状態の方が“乗る”ことが多い。夜を徹して一同の精神を変容させることなど序の口、神仏に我が身を捧ぐべく祈祷神楽や本尊本殿を前に歌を繋ぐ、凶事不幸のさなかにあえて歌会を開催するなど、合理を超えた環境が尊ばれるところがあるのだ。その点、戦闘の匂いが濃厚に漂う三好家の本拠は格好の舞台だった。

朝から始まった歌は既に四十九。

 

薄に混じる葦のひとむら――

 

だが、この後が続かない。陸に生える薄と水辺に生える葦、それらが入り混じった様子は珍しいものではないけれど、言葉にしてみれば意外な風趣と枯じけがする。“ああ、なるほど”と場景を思い描くことができる一句は見事で、それだけにひとつの歌として完結してしまう。ここから五七五を繋げて出来を一層よくするのは至難なのだ。

誰もが考えあぐねた。

そこに、急使が到着、長慶に耳打ちしていく。通常ならば会の空気を冷ます乱入は歓迎されないが、難しい局面だったこともあって逆に皆が一息つけた感じであった。頷いただけで使者を傍らに残す長慶に、何ごとかと関心が集まっているのが分かる。

果たして長慶の口から出るのはと、わざと間を取って沈黙を誘う。……然して。

 

古沼の 浅きかたより野となりて――

 

静寂、次に瞬きと息を呑む音。一拍おいて称賛が“ふおっ”と起こった。

「連綿たる時の流れ、深野池(大阪府大東市寝屋川市)が乾いていく様子を目で追うような……。まさにこの河内の地、飯盛山に相応しい」

「それだけにあらず。三好殿の功業、天下大乱を鎮めてくださった――」

「それよ。葦はいまだ残っていようと、薄の茂る大地はしっかと広がって」

「急いで埋めれば味わいに乏しい。柔らかに干上がってゆくその様、まさに三好殿の真骨頂」

黙っていれば幾らでも褒めてくれそうではある。

場の高揚が少し落ち着くのを待ってから本題を告白した。

「……之虎が久米田で討ち果てました」

一転、無慈悲なほどに全員が絶句し、蒼白となった。

常勝で知られる之虎が敗れた、それどころか討ち取られてしまったなど。ならばこれから三好はどうなる、お得意様が、畠山の時代がくるのか、京の戦線にも影響、いや、それよりも早くここから逃げねば……。

手に取るように考えの移り変わりが分かる。彼らは武人ではない。戦の見物や知ったかぶりは好きでも、我が身に巻き添えが及ぶと心底から覚悟できていた訳ではないのだから。

「今日の会はこれでお開きとさせていただきましょう。各々方には安全な場所まで護衛をおつけいたします」

これだけでは回復しない。手招いて、南西の景色を望める場所まで案内した。

「ご覧なされよ。……岸和田、久米田はあの辺り。決して遠くはない……が、あちらに高屋城、こちらにはこの城を守る支城群。敵がすべてを突破してここへ迫る頃には、京なり西宮なり四国なり……どこへでも着いておられましょう」

慌てていれば当たり前も当たり前でなくなる。噛んで含めるように、少しずつ事実を説明していく。

「この地にはいまだ精鋭一万騎が健在。今日明日に私が後を追うこともありますまい。まずは、落ち着ける地へお移りなさることです」

「しかし、大事な弟御を失って……」

「いっそ和平の道を探っては……」

冷静さを取り戻した紹巴たちが長慶を慰める。

「ふふ。畿内に要らぬ火種を残す訳にはいきません。この十年の平穏、手放すのは各々方も惜しいはず。安易な譲歩や甘受をしては民を難儀させてしまいましょう」

平素と変わらぬ長慶の様子に、一同も徐々に強張りが解けてきたようだ。

「余裕があればいずこかで成り行きを見物なさいませ。三好長慶が籠城戦、滅多にお披露目できませぬ。その後には太平寺や舎利寺以上の大逆襲も叶えてみせましょう……。後々の自慢の種になりますよ」

頬の緩みさえも戻ってきている。これでよい、彼らが発する噂は明後日には東国や九州まで届く。当地五畿内や四国であれば、尚のこと長慶の様子を知る者は引っ張りだこになるはずだ。

それにしても……この飯盛山城で籠城することになるとは。

つくづく、因縁である。

 

  *

 

之虎の訃報を聞いたいねはとうとう起き上がることすらできなくなった。

時の流れももはや明瞭でなく……。誰それが討死した、高屋城があっという間に制圧された、四国では篠原長房が不眠不休で態勢を立て直そうとしているけれど……。様々な話が耳には入ってくるが、何が夢で何が現かも判然としない。

漆のような黒、黒、黒。与四郎の好む黒、黒、黒。人の顔を思い浮かべるのが辛い。知らせや風聞を追いかけるのが辛い。意識を黒に浸し、希望を黒に染めることでしか……自分の生を繋ぎとめられない。黒いは、優しい。暖かい……。

黒……真っ黒な世界の中で、とびきりの暗黒が人の形になって、変ね、四体も。言い争い……お前は何を死んでいるのだ、父上が怒鳴るからじゃねえか、何の話だわしは知らぬぞ……父様? 之虎?

よしなさい二人とも……いねが泣いていますよ。

本当だ。どうした姉上、ほらほら蛸だ。岸和田の蛸だ。食え、蛸は和泉の守り神なのだぞ。

蛸? 蛸ですって? ちょっと! 他に言うことはないの、この、この……。

「ばかずまさ!」

叫びながら跳ね起きた。隣では、至近で吠えられた与四郎が腰を抜かしていた。

 

「そう言う訳だから。持っていきなさい」

冬康の前にうず高く積み上げられた銀塊、命懸けで稼いだ密貿易の利益丸ごと。

いねは茹蛸の身を齧りながらである。なるほど、確かに岸和田の蛸。これはいいものだ。むちんむちんの身を噛めば噛むほどに覇気が漲り、くりかりした吸盤を千切って呑み込めば精気がむらむらと湧いてくる。

「何が何やら分かりませぬが……快癒なされてよかった。しかし、よいのですか……これほどの」

「四の五の言わない! これが私の助太刀、私の意地なの!」

「……与四郎殿」

冬康が念のため与四郎の意向を伺うが、夫も渋みを利かせて微笑むばかりである。

逆張りこそ商いの真髄。世間がどれだけ空騒ぎしても……私は千殿の器を知っている。それに」

「それに?」

畠山高政が天下を獲れば世はギラギラと騒がしくなってしまう」

「はは、あっははは。なるほど、侘び数寄にとっても一大事という訳ですな」

弟の身体に火が入ったのが分かる。こういう笑い方をできるようになればもう大丈夫だ。

「銭は人界の吸盤。いいわね、やっておしまい」

「いいでしょう。“物持ち一万貫の陣”、必ずや二人の仇を取って参ります」

「見ているわ。私たちも、四人も」

あの頃、私は堺にはいなくて、何もできなかった。

巡り巡っていま、私は堺にいる、力もある。家族を、兄と弟を……援けることができる。

 

続く