四十一 審判の段 ――三好長慶 帝の即位式を警護し、田中与四郎 四十を前に天命を知る――
四十一 審判の段
永禄三年(1560年)の一月。
雲霞の如き群衆が見物する中、長慶は帝の即位式に伺候、警護役を務めあげた。毛利元就の貢献が大きかったとはいえ、先帝の崩御から僅か三年で即位式を実現させた長慶の手腕は朝廷から高く評価されており、報いとして長慶が修理大夫、慶興が筑前守に任官、加えて長慶は御剣を下賜された。
義輝や奉公衆がどう思おうが、もはや朝廷や京の民衆にとって天下の守護者は三好家であった。
「帝はいまも崇敬を集め、公方は軽んじられつつある。両者で何が違うのだろうな」
思いつくところがあって、近侍していた基速に水を向けてみる。
「さ、難儀な問いかけでございます。武力を有するか否か、でしょうか」
「それもあろう」
「神統」
「うむ、二千年続くと言われれば迂闊に手出しもできまい」
「他にもありますか」
「私は“変わることができるか”だと思い始めている」
基速は興味深げに長慶の言葉の続きを待っている。
「神代より帝の位置付けは幾度も変わってきた。自ら武力で日ノ本を平定したかと思えば、豪族との連合統治になり、藤原氏の栄華、院政の試みを経て――源平、南北朝では“旗印”に掲げられる御苦難にも遭った。南北一統後は静かに世を見守られ、世の移ろいを受け容れられておられる。私のような下種をも慈しんでくださるのだからな」
「……殿がどうかは置いておいて、なるほど、変わらぬようでそうではないのが帝だと」
「高度な判断の積み重ねなのだ。飢えようが、築地が崩れようが、“権威”の重みだけは変わっていない。いや、むしろ増しているようにすら思える」
「あらためて考えてみれば、途方もない……。公方も権威は充分に有していますが」
「変わることができるかどうか、だろうな。変われなければ人々は別の公方を求めるようになる」
「まさか、義冬様ではないですよね」
「足利ですらない何かだ」
「殿ならば」
「まだ実は固い。熟すのは次の世代になるだろう」
天文以降に生まれた者。いま十代、二十代の若人たち。
あと三十年、慶興が五十になる頃には人心は更に変わっているはずだ。
「隠居して、眺めていられれば楽しいだろうな」
「お戯れを。屋敷に戻れば、さっそく水争いの実地検分を報告させていただきますので」
「む……」
数日後、京の長慶屋敷に異人が訪ねてくることになった。
訪問者の名をガスパル・ヴィレラという。しばらく前から都に住み着いているキリスト教の高僧で、市街で熱心に布教を試みているようだ。既に長慶の意向を受け、義輝との謁見、京での布教許可は叶っている。しかしながら公家、寺社、その他様々な者からの嫌がらせや暴力は止むことがなく、長慶名による布教の允許、迫害への禁制を得ることを求めてきているのだった。
そこまでして都での布教に執着するのは、首府で一人の信者を得ることが、地方で百人の信者を得ることに等しいことを理解しているのだろう。
これまでは政治上の配慮から、長慶が直接キリスト教徒と接することは避けてきた。が、即位式直後のいまなら何の気兼ねもない。幼少時から関心を持っていた遥か西方の民に触れられるのは楽しみだった。
現れたのは二人で、ヴィレラの他にロレンソという盲目の日本人がついていた。
ヴィレラ。堺で目にした金や赤の長髪をした異人とは異なり、坊主頭で、黒の衣を纏っている。どうやら外見を日本の坊主に合わせることで、民衆の反発を防ごうとしているらしい。顔立ちは南方人に似て目が大きく、眉が濃く、顔の凹凸がはっきりしているが、山中に湧く泉のような静粛さが漂う。ただ、残念ながら日本の言葉には不慣れであるようだった。
ロレンソ。元は九州の琵琶法師だったが、山口でザビエルの説法に感銘を受け、キリスト教に宗旨替えしたのだという。ヴィレラに代わって、交渉や弁舌などの実務は彼が行う。いかにも弁が立ちそうな、度胸がありそうな面構えをしていた。
なかなか面白そうな組み合わせである。
ロレンソが訪問主旨を口上し、キリスト教の教え、福音なるものを説き始めた。
長慶は瞑目し、口を挟まずに一通りを聴くことにした。内容はこれまで聞きかじったものとそう大差はない。デウスというただひとつの全能神がいて、その教えに従わなければ地獄に落ちる、不幸にして日ノ本の民はこのキリストという者が伝えたという教えをいままで知らなかった、とくとく教えに従って極楽と救済を得るべし、というものである。
ロレンソの舌は滑らかで、なかなか聴き心地はよかった。幼い時分なら虜になったかもしれない。
一通り終わって、感想を求められた。少し意地悪なことを色々と思いついてしまう。礼を失しない程度に突いてみて、大陸西部の情勢を掘り下げてみたくなった。
「確かにこのキリストの宗門というものは、すべてが私には善良なものと思われる。その上で、幾つか質問をしてもよろしいかな」
好意に満ちた長慶の言葉に、ヴィレラとロレンソは深い感動を覚えたようだった。
「ハイ、ヨロコンデ」
ヴィレラ自らが頭を下げて快諾する。
「イズラームというよく似た教えを奉じる、タルキーという大国があると聞く。イズラームとキリスト教は何が違うのか教えてくれぬか」
ロレンソが青ざめ、ヴィレラの顔が紅潮した。
「ディアーボ……ルコンキイスタ……」
「……イズラームとはキリスト教を真似た邪宗でございます。お耳に入れるほどのこともありませぬ」
「邪宗がそれほどの帝国を築けるものかな。ヴィレラ殿をそうも動揺させられるものなのか」
「ヴィレラ様の故国はイズラームの侵略を受けたことがあるのです。平に、この儀はご容赦を」
想像通り、キリスト教国も彼らが説くほど万全な幸福の中で暮らしている訳ではないらしい。
「そうか、悪いことを聞いた」
「いえ……」
「ならば問いを変えよう。キリスト教の中にも、天文の争乱のような宗派争いがあるのかな」
「ぐっ」
「……テスタンチュ」
聞き取れないが、またもヴィレラが口の中で何かを呟いている。もちろん意味は長慶には分からぬ。
「な、なぜ。どうしてそのようなことをお聞きになるのです」
「堺の商人が言っていた。店が傾いた時、まず考えるのが新たな儲け話を探すことなのだとな。寺の坊主もそうであろう、都を追い出されたから念仏の教えが広まったのだろうが」
「……」
「極西の本国では、キリスト教内の葛藤、そしてイズラームの侵略が続いている。だからこそ新天地を求め遥かな布教の旅路に就いた。素直に教えを受け容れる民を見つけたら嬉しいものな。大方、そんなところではないのか」
「……」
相当の痛恨事を直撃してしまった様子である。ヴィレラもロレンソも黙して呆然とするばかりだった。
「勘違いなさるなよ。このようなことを知ったからとて、私のあなた方に対する敬意は些かも揺らぎはしない。むしろ、私は嬉しいのだ」
「……?」
「海を越えて訪ねてきてくれた偉大な勇気の持ち主と友人になれたこと。遠く西の彼方でも人の世はさほど変わらないようであること。それに、私の空想もなかなか捨てたものではないと分かったこと。ふふ、ふふふふ」
この場に元長や持隆がいれば。寂しい思いは確かにある。それでも、彼らから受け継いだ好意だった。
「最後に教えてほしい。“最後の審判”とは何だ。これだけは噂で聞いてもよく分からなかったのでな」
「は、はは……」
怯えさせてしまったかもしれぬ。
だが、ヴィレラは直ちに豊かな平静を取り戻した。併せて、気丈に、懸命にロレンソが説法を再開する。
見事である。
まずは地獄について。始まりに死の門。大河を渡った先には様々な刑罰が亡者を待っている。血を吸う鬼に殺される、血の涙を溜めた池に沈められる。心臓を燃やされ、精神を毒され、手を合わせて祈っても許されることはない。悪魔の巣窟に昼夜の別はなく、暁の夜明けに殺され、夜まで待てずに再び殺される。悲痛と嘆きに満ちた地下室の旋律はいつまでもいつまでも続くのだという。
どうも、寺の坊主が説く地獄とよく似ている。どちらかの伝説が、どちらかに伝わったものであろうか。
「終末の審判。世界最後の日、デウスはすべての人間に究極の裁きを行います。巧妙に罰を逃れてきた者も、墓に眠る死者すらも罪を隠すことはできません。咎人は永遠の地獄に落とされるのです」
「それで、その審判がどうキリストの教えに繋がる」
「デウスの子キリストが我々の罪を引き受けてくださりました。それ故に、我々は生前の罪を許され、審判の後に天国へ行くことが許されるのです」
「ふむ……。よく似てはいる。しかし、根本のところで違うところもあるものか」
「……?」
「審判なら、もう下っているというのに」
「え?」
ロレンソは言を追うのに必死だった。一方、ヴィレラは長慶の心中を測ることに努めている気配である。
「いや、何でもない。希望通り、允許状と禁制は授けよう」
「おお! かたじけなき仰せにございます」
「但し特別扱いはしない。揉め事を起こせば処罰するし、一揆の組成を無視することもない。嫌がる者を無理に改宗させることも許さぬ。それに、朝廷に近づくことは許可しない」
「かしこまりました、三好様にデウスの祝福あれかし……!」
彼らにとって充分な成果だ。しばらくは布教も順調に進むだろう。こちらとしても交易や硝石確保、朝廷、寺社との関係それぞれを考えれば、この辺りがちょうどよい落としどころだった。
そうして、帰り間際になってヴィレラが声をかけてきた。
「ミヨシンサマ」
「なにか」
「……デウスアベンソーイ、ボアヴィアージ」
何か、励まされたような気がした。異人の瞳に混じり気はなく、真からの親切を告げてくれたようだ。
分からないなりに、異国の聖職者と心が触れ合ったような感覚を抱いた。
後日、久秀を始め、多くの者から抗議を受けた。三好家中には法華宗などの信徒が多いのだ。
「なんぼ商売繁盛が大事やからって、やってええことと悪いことがありまっせ!」
「……少数がキリスト教徒になり、ささやかな南蛮寺ができたとて何の障りがある」
「ああいうのは白蟻と一緒なんですわ。放っといたらどんどん増えて家が傾いてまう」
「案じることはない。あの教えはそこまで広がらぬ」
長慶が断言した理由が分からないため、久秀は言葉を失った。
「一向宗と似ているように言う者が多いが、深いところで違うことが分かった。キリスト教は日本の大地とは繋がっていない。根付かせるなら教義を変えねばならぬが、そこまではできるまい」
「……ほんまでっか? 聞いてる話とちゃいますけど」
「いずれ分かる」
「いずれって」
「適当に取り締まり、適当に目こぼししてやれ。世論をよく見ることだ」
「また難しいこと言わはる……」
「お前ならできる」
それきり、家臣や寺社からの苦情は上手く流すようにした。
審判教も日本の風景を彩るひとつの色になればよい。黒でも白でもなく、風のような淡い色に。
*
春も終わりに近づき、一存は亡き存春が遺した水田に苗を植え始めた。
戦や政務の関係で十河城と岸和田城を往復する日々を送っている中、泥に浸かって家族と苗を扱う時間は和やかでよい。
三好家では商いに精を出している者が多いが、どちらかといえば一存は農作業の方が好きだった。子の熊王丸は手伝いを怠けがちだが、妻の尚子は思いの外楽しそうに田植えをやる。九条家のお姫様は泥を嫌がるものかと思っていたが、彼女に言わせれば真の公家は稲作を尊ぶのだという。
田をいじることは、身体を鍛えることに似ている。うまい米づくりは、強い己づくりなのだ。一粒ずつ小石を拾い、根気よく土を起こし、手間をかけて草を抜き虫を除く。やればやっただけ稲は応えてくれた。そうして育てた新米を炊き、大盛りによそった際の持ち重りと芳しさは無上の喜びである。
「水を張ると、夏が近いって気持ちになるわあ」
「わしもだ。毎年毎年、この時ばかりはご先祖様に頭を下げたくなる」
「へえ、一存様でもそないな孝行心出さはるんやなあ」
「素晴らしきは溜め池よ。過ぎ去った大勢の汗と知恵が、いまを生きる我々に恵みを授けてくださるのだ」
「ふうん、ほおん」
にこにこと尚子が横目で一存の顔を覗く。頬に泥が跳ねているが、それがまた可愛らしいのだった。
「んっん、とにかく、精を出さねばな」
「あい。おいしいお米がでけたらええね」
「讃岐の米はうまい。和泉の米もうまい。日当たりがよいからな、水さえあれば上等に育つ」
「ほんまやねえ。都の人も、お米食べに讃岐に来はったらええと思うわ」
「慶兄も久しく四国に来ておらん。たまにはゆっくりしにおいでまいとでも言ってみるか」
「一存様はお兄様思いやねえ」
「当たり前だ、父親代わりに育ててもらったのだからな」
「うち、仲のええ家族って好きやわあ」
苗を丁寧に入れながらも、歌うような夫婦の会話は続く。
熊王丸が大きくなって、次子の万満丸は岸和田の松浦家に入れた。二人だけで過ごす時間が長くなり、新婚当初のような照れ臭さが蒸し返している。
思わず身体が熱くなって、胸や首筋にできた湿疹を掻いてしまった。
「ああん、めっ。泥のついた手えで掻いたらあかんよ」
「あ、うむ、すまぬ」
「なかなかようならんねえ。いっぺん、出湯にでも浸かりにいったら?」
「湯治か……」
「有馬の湯(兵庫県神戸市)は、よう効くて評判なんやて」
「ぬう……。そうだな、河内の方が落ち着いたら……。おい、尚子も行くか」
「うちはええよう。たまにはしっかり羽伸ばしておいで」
ならば、白雲と共に身体を手入れしてくるか。馬にも骨休みは必要なはずだ。湯で身体を洗ってやれば喜ぶかもしれぬ。
もう一度胸元を掻きかけた指を止めて、田植えに意識を戻す。今日は実にいい天気である。
*
香西元成の戦死は、まるで自殺のようだった。
長逸や長頼と共に宗渭も迎え撃ったのだ。策も何もない。千名足らずの兵で北から京に侵入しようと突っ込んできて、たちまち包囲されて壊滅した。元成は暴れるだけ暴れた後、仁王立ちになって刀を天に掲げ、おもむろに自分の喉を突いたのだった。
止めることも組みつくこともできなかった。不器用な武人の最期を見届けたという思いだけが残る。
「敵ながら」
「……」
宗渭と共に長年京を脅かし続けたこの男の死を、長逸も長頼も憎からず思ってくれたようである。長逸は遺骸を丁重に葬るよう指示を出してくれた。許しを得て、宗渭も同道させてもらう。
「六郎様を迎え入れろと……仰るのですね……」
冥福を祈り、遺髪を一族のもとへ送る手筈を整える。元成の死に顔には満足と解き放たれた安心とが同居しているように見えた。
同日、若狭で波多野晴通が息を引き取ったと知らせが入った。
最期まで丹波の奪還と、妹の帰還を願っていたらしい。長頼のもとには助命された波多野旧臣が多数仕えており、たちまち陣のあちこちですすり泣く声が聞こえてきた。
父親の稙通と比較されることが多かった。当主を継いでからは侮られるばかりで、国人の多くは離反し、遂には八上城を失ってしまった。だが、負け続けるうちに晴通を慕う者は増えていった。実際、松永兄弟や長逸の猛攻を何度か食い止めてもみせたのだ。一介の国人として、等身大の人間として、どこか人の心を揺さぶる男であった。
両名の死を報告するため、長逸と宗渭とで芥川山城を訪れた。
黒猫を抱いた長慶は無念そうに
「他の道はなかったものかな」
とため息のような声を出した。
「稙通殿との約束、半分は守れませなんだ。申し訳ありませぬ」
長逸が頭を下げる。本当は、丹波の攻略も晴通の捕縛も、自身の手で成し遂げたかったのだという。
「すべては私の責だ」
「いえ、それがしの」
「……よそう。少しでもよき未来を手繰るまでだな」
三好家に入って驚いたのは、特に長慶と長逸がそうであるが、責任感が異常に強いことだった。敗れた相手の宿命を悼み、勝った自分の浅慮を省みる。こんな天下人がいるのかと、鮮烈な印象を抱いたものだった。六郎とはまるで違う。だが、宗渭は六郎のことも好きなのだ。
「六郎殿は病の兆候があり、宗渭の母と弟は若狭に残っている。そうであったな」
「はっ」
よく遇してもらってはいるが、いまでも長慶に話しかけられると落ち着かないところはある。
「河内への出陣が近い。六郎殿との交渉、任せてよいかな」
「お、俺でよいのですか」
「お主が適任であろう。困ったことがあれば長逸に頼るがよい」
「……承知、いたしました」
河内の畠山高政が、呆れたことに安見宗房を勝手に復帰させていた。これでは、三好家が何のために高政へ援軍を送ったのか分からなくなる。畿内を治める長慶としては毅然とした対応が必要だった。
三管領のひとつをこれから攻めようとしていながら、もう一方には温情をかけようとしている。融通無碍と言ってよいのか、長慶の判断には既に家格の差というものが存在していないかのようだ。いまにして思えば十年前、宗三と共に管領の家格も死んでいたのかもしれない。
*
五月十九日。
今日は午後から雨が降っていたが、夜には上がった。
静かだった。琴がいなくなって一人きり、あまねは写経に励むだけの日々を送っている。
琴から預かった長慶と正虎への手紙は封をしたままである。あまねに宛てた手紙にはこれまでの礼の他、さる場所に預けた後南朝残党の軍資金を換金する符丁が記されていた。もう必要なくなったものだから、あまねの余生を送る足しに使ってほしいと……。結びには、一度畿内に帰った方がいいと勧めてあった。
何度も繰り返し読んでみたが、頭には何も浮かんでこない。ただただ瞼に涙が浮かんで、矢も楯もなく琴の無事を祈るだけだった。
――馬の蹄の音、怒号を上げる男の声が聞こえた。西からやって来た武者が、何かを叫んで回っているらしい。すぐに、家々から人が飛び出してきた。松明の光が群れて動く様子は怖じ気を感じさせる。
戦の知らせだろうか。七日ほど前に進発した今川家の大軍が、そろそろ織田信長が籠る城を囲む頃だという話は聞いている。岡部の里の男も大半が出陣しており、いまは女に子ども、老人しか残っていない。
……城攻めをするなら勝報が届くには早過ぎる。
これは、悪い知らせに違いなかった。
あまねの寺から程近い、朝日山城麓の館に人々が集まっていく。佳の判断を仰ぐつもりなのだろう。
まさか、正綱殿や元信殿が。佳のことが案じられ、あまねも表に出ることにした。
「討死された! 討死された!」
ほどなく、泣き声混じりの声が届いてきた。やはり――いや、聞きたくない。しかし――。
「あの」
幼子を抱えた女に声をかけた。
「何か……どなたかの身に」
「討死されたんですよう!」
女が嗚咽する。
「お、岡部の侍がですか」
「今川様だよ! ああ、これから駿河はどうなってしまうの……!」
不安が一気に出たのか、女の呼吸がおかしい。背中をさすってやりつつ、この国に訪れた重大な危機に、あまねですら思いを馳せずにはいられなかった。
天は義元を挫き、信長を選んだ。この日はきっとひとつの節目に、あの、江口での戦いのように……。
数日が経ち、合戦の経過や死者の数もおおよそは伝わってきた。
幸い正綱や元信は無事とのことだが、元信はいまも鳴海城(愛知県名古屋市)に留まって織田軍と弓矢を交えているという。正綱もいつ帰ってこられるかは分からなかった。
里の混乱は治まっていない。
今川家領国にあって義元の存在は主柱そのものだったのだ。後継の氏真が健在とはいえ、国は乱れ、従属していた国人はここぞとばかりに裏切るに違いない。信長だけではなく、盟約を結んでいる武田家や北条家がどう動くかも分からなかった。
あまねとて元は武家の女である。乱世の定めは嫌というほど知っている。
「あまねさんはいいわね……。家のしがらみなんかなくって、どこにでも行けるもの」
佳が漏らした言葉に、見舞いに来たあまねは動揺を隠せなかった。佳のせいではない。日頃忘れている、実家に対する申し訳なさがむくむくと膨らんだのである。兄の晴通は、いまもどこかで三好家と戦っているのだろうか。家のことをすべて放り投げてきた自分は、人でなし、不孝者と謗られても仕方のない身なのだ。
「そう、そうね」
あまねの様子を目にして、佳は直ちに悔いて頭を下げた。
「ごめん! ごめんなさい……。いま、私、どうかしていた」
「いいの。ほんとのことだもの……」
「何もかもが気がかりで」
「いいのよ」
笑みで返して佳の肩を軽く揉んでやり、写経を岡部家の仏壇に納めて暇を告げた。
帰り際、佳はあらためて先ほどの件を謝り、その上で本心からあまねの帰国を勧めてきた。
*
「なんだこれ! すげえなあ! おい茂三、お前すごいものこしらえたなあ!」
「は、はは。もったいなきお言葉を」
「いやあ、こいつはいい。まだあるのかい」
「それが、もう材料があまり……」
長慶のところに顔を出してみれば、茂三の創作料理を試しているところだった。相伴にあずかったそれは平たい餅の上に“ケイジョ”、それに海苔とたまりを乗せて火に炙ったもので、匂いの香ばしさ、味わったことのない重厚な旨味、蕩けるケイジョと餅の口当たり腹溜まりのよさが相まった見事な逸品なのである。
「ふふ、気に入ったか。ロレンソか会合衆かに言って、ケイジョをもっと分けてもらわねばな」
なんでもキリスト教の坊主が贈ってくれたものらしいが、乳が腐って固まったようなこの代物、そのままでは食えたものではなかったそうだ。だが、捨てるのも気が引けるので茂三に料理法を研究させてみた。結果、たまりや味噌を塗って火を入れるのがよろしいということになったのだと。いかにも父らしい話である。
「父上。せっかく茂三の腕も上がったことだし、御成でもやりませんか」
「ほ。上様を」
「ええ。最近は公方とも上手くいっているし、世間を安心させられるでしょう。誰も見たことのないような贅を尽くせば、日ノ本の第一人者が誰なのかもはっきりさせられる」
「ふむ。なかなかよい着想だ。慶興、己で仕切ってみるか」
「もとよりそのつもりです。世の中全体を驚破せしめてやりますよ」
それから、茂三に向かって再度問うた。
「どうだ茂三。最近、父上は飯をよく食っているか」
「あ……それが……」
「構わぬ。少し、減ったな。夏のせいか食欲が働かぬ」
「お疲れなんですよ! いよいよ畠山と絶縁でしょう、河内攻めが済んだら少し休まれたらどうです」
「ふ……何を企んでいる」
「父上の重荷、背負いたくなってきました。何だか最近、力が有り余ってましてね!」
威勢よく言ってはみたが、長慶は動じることなく慶興の胸の内を凝視している。
「東海が揺れている。母に会いたくなったのであろう」
「ちっ、何でもお見通しですか」
「私も会いたい」
ひと時、場が固まった。茂三がいそいそと部屋から出ていく。
「ははは! いやに素直じゃないですか、やはりご無理ばかりしているから! そうです。父上、あなたよりも格好よくなれば母上は戻ってきてくれるのですから。今川領が荒れていくいまこそ好機、戦も政も、俺が!」
「……琴からの繋ぎが絶えたのは気になるが……。うん、よかろう。やってみよ」
「よっしゃあ! エーイ!」
思いの外、話は簡単に纏まった。自分の実績を評価してくれたのか、時勢の移ろいか、長慶の退潮かは分からない。何でもよいから、向こう五年で長慶に追いつき、追い抜いてやろうと固く誓うのだった。
*
風と天気に味方され、寧波への船旅は快適なものであった。
もっとも、与四郎が相当の心配りをしてくれていたお蔭である。いねが同行することになって、それまでに立てていた段取りをすべて再点検し、あらゆる不備や疎漏を排してくれていた。天候だって過去何十年の事例を調べて決めた日取りだからよかったのに違いない。
市場には堺ですら見たことのない品々が数多溢れていた。倭寇や密貿易が盛んであるとはいえ、供給に比べれば需要がまるで足りていないのは明白だ。三箇月の滞在の間、いねは品質のよい鮫肌や玉薬の調達先と話をつけることができていた。
定期交易には至らなくても、珍しいものであればさばくのは容易い。例えば……香芹、秋桐、迷迭香、そして麝香草。大陸の料理には香草を入れることが常で、日ノ本の食事とは風味が大きく違う。最初は口に合わなかったが、食べ慣れるうちにやみつきになった。どこかの土地の日常が、こちらの非日常なのだ。
商売の目途が立つと、与四郎はいねを湖州(浙江省)に連れていった。
いねが名産の絹を仕入れることに努める間、与四郎は寺院や水郷を見て廻っていた。遊びにきたのかと腹が立ったが、そのうちに夫が並々ならぬ意気込みでいることに気づいた。一緒になってから、初めて見るほどの活き活きとした相貌である。宝心庵を創ったときですらこれほどの精彩は感じなかった。遂にはいねの手を引いて太湖に舟を浮かべ、悠久の絶景すら無視するような勢いで叫んだのだ。
「分かった! 確かに分かったぞ!」
「……いったい、何なの」
「日本の美は、大陸の美とは異なるのだ」
興奮した面持ちで与四郎は言う。
「そんなの……当たり前じゃない」
「当たり前であるものか! 均整、純白、無窮。素晴らしいさ、まさに憧憬! だがもう、我々には我々の美がある、まだ誰も気づいていない美の価値、美の軸が! 私は気づいた、見抜いたぞ、ふはははは!」
「……」
「変わる、茶も花も変わる。日ノ本が変わる。いね、私は千殿を追い抜くかもしれないな!」
なんとなく、夫が言いたいことは分かった。吉野川の下流に生まれた者が芝生にやってくると、しばらくは水の清冽に驚き、喜ぶが、居座ることはしないでそのうち河口の暮らしに戻っていく。一人ひとりの吉野川、一人ひとりの美しきもの。もとより吉野川と太湖を比べようとは思わないが、男は気にする生き物だったな。
「さあいねよ、陸羽に挨拶だ。謝辞を述べよう、仁義を通そう。曇りなき下剋上をご照覧いただかねば!」
父の夢を追った私と、茶の源流を追った与四郎。明までやってきて、似た者夫婦であることに気づいた。
続く