三十二 無頼の段 ――三好長慶 東播磨を平定し、三好宗渭 丹波で三好長逸・松永兄弟を撃退す――
三十二 無頼の段
三木城を取り囲む兵は三万を超えている。
長逸の一万、長慶の一万、之虎の一万。既に前年、三木城の支城網は長逸によって壊滅している。近隣の国人や寺社、惣村は四国衆先遣隊の長房が調略を済ませた。別所就治がこの劣勢を覆す手はまったくないと言ってよい。
その上でなお、就治は俊傑たる片鱗をおおいに示した。一箇月に亘って長慶たちの攻囲に耐え抜き、面目をおおいに施した後、潔く降伏を申し入れてきたのである。
無論、長慶の攻撃は本気ではなかった。鳴り物は盛んに轟かせたが、死傷者が増えるような攻め方はしていない。就治は就治でこちらの腹積もりをよく読んでいた。長慶に屈服した形にはなるが、播磨随一の武名もまた不動のものとなっている。いわば長慶が実を取り、就治が名を取った態であった。
双方の兵、近隣の民が見守る中、三木城近くの丘の上で長慶と就治両雄が並び立つ。既に和睦の儀は済ませており、今日の披露は示威を目的としている。たちまち丘を取り囲む群衆から歓声が上がった。三万の兵を容易く集めてみせた長慶を、敬慕の眼差しで見上げている。尼子よりも恐ろしく、頼もしい。群集の反応はそのことを充分に理解したことを示していた。
「残るは丹波ですな」
「ああ。引き続き期待しているぞ」
長逸の働きは見事だった。五十に近づいているが、その実力と存在感は深まるばかりである。
「……若殿は」
「いまは尾張か三河辺りだろうな。龍吉の手引きで銭を掏られている。道中、それなりに苦労もしていよう」
「やはり承服いたしかねます。いますぐにでも連れ帰すべきです」
「ふ。何度も話したことさ」
長逸は家の安泰を願う向きが強い。嫡男を領国外に出すなど正気ではないと、繰り返し諌められた。基速や久秀も同意見である。平蜘蛛町の者が遠巻きに護衛し、龍吉に案内を務めさせるということまでやったものの、家臣は納得していない。
「三好家の繁栄は、ひとえに殿の存在あってこそ。その威光を受け継ぐべき大事な若殿を」
「いっそ、あまねを追って出家でもしてくれた方がな」
「な、何を仰る!」
形相を見てそれ以上言うのをやめた。人の世は前例を塗り替えて進んでいくものだ。家や血を残すことにどれほどの価値があるのか。六郎や公方を憎みながら、自分たちも同じようなことをしているのではないか。そう伝えても、長逸は納得しないだろう。施政の責任を軽んじている、可能な限り家の安定に努めることが治世と民心の安定に繋がるのだ、などと反論してくるだろう。
長逸も正しい。命を懸けて元長の忘れ形見を守ってくれた男に言うべきことではなかった。
「……口が過ぎた。いまは、慶興を信じようではないか」
「若殿の異才が、悪い方に流れなければよいのですが」
「母の顔を見れば気も晴れる。思い残すことがなければ、人はよく育つ」
「それは、そうですが」
そうしているうちに、友通が様子を伺いに来た。播磨攻めでもなかなかの活躍をしたと聞いている。
宿所の外では、播磨の有力者たちが長慶に挨拶しようと群がっている様子だった。
*
春がやって来て、岡部の里は色めきを増している。
仕事の少ない冬の間、里の女たちは頻繁にあまねの寺を訪れてきた。東慶寺で暮らしていたといっても、あまねは厳密には尼ではない。切り髪にし、写経は欠かさないが、仏法の本格を修めた訳ではないのだ。それでも、女たちは余所者であるあまねに話を聴いてもらいたがった。
琴の力を借りて、実際の解決に乗り出したこともある。
ある女は夫から毎日暴力を振るわれていた。その夫が、原因不明の腹痛で三十日も寝込んだ。女があまねに相談した、その日の夜からである。あまねによる神通力ではないかと噂になった。恐れた夫が女に詫びたところ、翌日には痛みが消えていた。それ以来、あまねの寺には米や青物が潤沢に届くようになっている。騙りめいたことだが、難儀している女を放っておくよりはよいと割り切った。
「駿府(静岡県静岡市)の桜が咲き始めたそうよ。踊り子の一座もやって来て、賑わっているみたい」
そう佳に勧められ、あまねと琴は駿府にやって来ていた。放っておけば寺から出てこようとしないあまねである。たまには世間の空気を吸わせようという佳の計らいだった。
つい出発が遅くなり、駿府に着いた頃には日が暮れていた。しかし、今川氏の本拠であるこの地は宿や盛り場が多く、夜になっても人出が減る様子はない。むしろ、桜目当ての客が増えているようだ。ちらほらと公家風の男が混じっているのは、今川義元が都の者を積極的に招聘しているからだろう。
駿府に多数の桜を植えさせた義元の気持ちはよく分かる。歌を好む者は、身近に歌題を求めてしまうものだ。義元ほど多忙になれば、山野に遊ぶことも難しいに違いない。側近の太原雪斎が病んでいるなら尚更だった。
人混みをかき分けて進むうち、一際大勢の人が集まっている場所を見つけた。囲むように人垣ができており、その中には篝火に照らし出された満開の桜と踊る女。
「きれい……」
思わず口に出ていた。白塗りの気品あふれる表情。この場に合う黒地に桜柄の衣装。伸びやかな指先、滑るような足の運び。あまねには、舞っている女が現実の人間には思えなかった。武士も農民も公家も、見物客は皆、息を呑んで見守っている。まるで桜の根っ子に意識を吸われていくような、胸の芯を夜桜の花びらに染め上げられるような……。
舞が終わったことに、しばらくは気づかなかった。音を鳴らせていたほっかむりの男たちが銭を集め始めて、ようやく観客たちは夢から覚めたのである。
「天人が……舞い降りたようでしたね」
「ああ。さすがは龍吉殿だな」
「……え?」
琴の横顔を覗きこもうとした途端、ほっかむりの男の一人が大声で叫んだ。
「見つけた! エーイ。母上、母上―!」
佳が手配してくれていた旅籠に無理を言って、龍吉一座も一緒に泊まることになった。
龍吉と琴はもともと面識があったらしい。その場に座り込んでしまったあまねの手を引いて、宿や食事の段取りをきびきびと整えていく。千熊丸と池田勝正という若者は見るからに渡世人といった態で、二階の部屋の窓から通行人をからかっていた。
息子の思い出を美化し過ぎていたのだろうか。それとも、男手で育てるとこんなにも禍々しくなってしまうのか? 母上、母上と甘えてきた千熊丸と、恐ろしげな男になった千熊丸。思いもかけなかった展開に、平静を保つことすら難しいように思えた。
聴けば、昨年の暮れに芥川山城を出奔。各地で芸を披露し、日銭を稼ぎながら旅を続けてきたという。琴はやはり畿内と連絡を取り合っていたようで、その筋からあまねのおおまかな居場所が漏れたらしい。
「……ということは、琴は知っていたのですね」
「教えてほしかったのか」
「心の、準備というものが」
「縁を切ったのは夫だけだろう。子どもと会うのに気兼ねもあるまい」
「白々しいんだから……」
龍吉という女に目を移す。
舞い終わった踊り子は色気半減と聞くが、龍吉は正真正銘の美人だった。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。彼女の前では、そんな形容すらが空疎に思えてしまう。
(あの人とは……どんな関係なんだろう。こんな人がいたのに、あたしを……)
なぜだか、長慶に裏切られたような気がした。かつての夫の、知らない一面を覗いてしまったような。
誤解、思い込みだとは分かっていても、胸を締め付ける苦さは隠しようもない。切っても切っても長慶の生霊は自分を束縛してくるのだった。
あまねの沈んだ気配を察して、龍吉が明るい声を出した。
「さあさ皆が一緒じゃせっかくの再会も楽しめやしない。野暮なことせずお暇しようね」
立ち上がって、琴と勝正に退出を促す。
「エーイ。そうだね姐さんそれでは熊さん」
勝正が続き、琴も倣う。その頬がいつもより緩んでいる。
二人きりになると、部屋は急に静かになった。静けさを、意識してしまう。
「……」
「……会いたかった」
眼差し。威勢と依存が混じりあう息子の瞳から、みるみる涙が溢れ出す。
「千熊」
「会いたかったんだよ!」
遠吠えするように顔を上げ、あまねに抱きついてきた。ひと時の間、逞しい男なるものを思い出す。身体が強張った。だが、あまねの膝に埋まった千熊丸は幼子そのものである。倍ほどにも育ったが、肩の震え、泣き声の調子、時おりあまねの膝を額で叩く癖はまるで変わっていない。ここにきてようやく、かつての母性が千層の記憶と共に蘇ってきた。
「いつもいつも母を驚かせて……。お前はほんとにもう……」
母子の涙が重なり、随喜は絡まりあう。そこには何の覆いもなかった。洞穴を吹き抜ける風のように声が通り出てゆく。この時初めて、千熊丸の声が長慶と似ていることに気づいた。
夜通し、様々な話を聴いた。
元服して慶興と名乗っていること。長逸をからかうと面白いこと。基速がこっそり小遣いをくれること。松永兄弟に喧嘩の仕方を教えてもらったこと。越水城の頃と違って、皆で顔を合わす機会が減っていること。
「ところで、新しい母上とは上手くいっているの」
「は?」
「気を遣わなくともよい。遊佐長教殿の娘を後妻に貰ったんでしょう」
「ああ、あれ嘘。父上はずっとうじうじやもめだぜ」
「え……」
「丹波攻めにも失敗してばかりだしよう、私情にとらわれ過ぎだよな。大人は嘘ばっかりつくけど、父上のは特に性質が悪いや。あれで本人は潔癖に生きてるつもりなんだぜ」
「……そう、なんだ」
動揺を隠すように、宿が用意してくれた夜食の黄粉餅に手を伸ばした。
「母上は変わりないなあ。唇、震えてるよ」
言われて黄粉が喉の変なところに入り、酷く咽た。笑いながら慶興も黄粉餅を食べている。話し続けて腹が減ったのか、次々と餅が消えていく。
「うめえな、これ。砂糖を混ぜたらもっとうまくなりそうだけどな」
「畿内とは違う。砂糖などそうそう手に入らぬ」
「これからは分からねえぜ。堺の南蛮貿易は盛んになるばかりだし、だんだん東国にも流れてくるだろうよ」
「ふうん」
「葡萄の酒とか、珍しいものも入ってきているんだ。どうだい母上、呑んでみたいだろう」
「お、お酒なんて」
「ほら、やっぱり大人は嘘つきだよ」
くっくっと慶興が笑う。薫り。長慶がも少し乱暴になったような。
「自分だけは違うみたいな言い方をやめなさい。未熟者だと思われますよ」
「未熟でいいんだ俺は。……夜が明けたら、連れて帰るからな」
「何を言っているの」
「俺は父上とは違う。欲しいものは、力ずくで手に入れる」
「……なんてことを」
「母上を取り戻す。なんなら八上城も落としてやらあね」
「慶興殿」
「俺のお家再興は母上なんだ。母上のためなら、母上の願いだって踏み躙ってみせる」
「千熊!」
あまねの厳しい声に、慶興が若干怯んだ。怯んだが、屈する様子はない。頭ごなしに押さえつけられる年齢ではなかった。自分は、親として未熟なままだ。
「慮外者……。どうしてもと言うなら、あたしを殺しなさい。棺桶を引き摺って帰るといいわ」
「母上は俺のことが嫌いなのか」
「甘えないで。せめてあの人並に格好良くなってから言いなさい」
どうして息子にこんなことを言わねばならないのだろう。情けなさに溺れてしまいそうだった。
「……約束だな。俺がもっといい男になったら、戻ってきてくれるんだな」
「楽しみにしています」
「忘れるなよ!」
少年の顔がくしゃくしゃになっていく。十四歳の心情とは、なんと激しく揺れ動くものなんだろう。
「慶興殿」
「……」
「会いに来てくれて、ありがとう。……嬉しかった」
哀哭する背中に声をかけて、あまねは部屋を後にした。一緒に寝ようかと思っていたが、いまはそっとしておいた方がよさそうだ。
廊下に出ると、冬を思い出したような冷気が全身を包み込む。
息を指先に吹いてみる。白い。でも、温かい。一人でも大丈夫だと、自分に言い聞かせた。
*
忘れられていた男、足利義冬が出奔してしまった。
権威だけは四国でも随一である。さすがの之虎や一存も止めることはできなかった。大内家に身を移すということで、結局は冬康が山口まで送り届けた。
義冬はいまも将軍就任を諦めていない。現将軍の義輝が京を追い出されてしまっているのに、である。時代の流れなど見ようともしていない。居を移せば、新たな軍兵が自分のもとへ集ってくると信じているのだ。現に、陶晴賢は義冬の来訪に大喜びだという。主君殺しの晴賢にとって、義冬を擁することは大義名分の回復に役立つという訳だ。
「もう少し、上手くやれたと思うのですが」
「之虎が阿波を治める上で、目の上の瘤でもあったしのう」
「我らには瘤であっても、陶にとっては値千金ですよ」
陶晴賢は大内家の掌握に苦心している。毛利元就など国人衆の離反も相次いでいる。だが、やがて中国や九州の覇権を手にした者が、足利義冬を担ぐようなことがあれば。
「長房の言うことも分かるが」
「私なら持隆様を殺めた後、当座は義冬様を立てておきましたな」
「物を扱うように言う」
「一つひとつの難題に、一つひとつ最適な答えを。それが政治でございましょう」
康長が苦笑する。近頃は老いを自覚したのか、長房に反論しなくなってきていた。物足りないようにも思うし、自信を持っていいのだとも思う。
三好家の領国が急速に広がる中、長房の存在は重みを増すばかりだった。長慶を筆頭とする畿内の三好家、之虎を筆頭とする四国の三好家。長房の役目は両者の実務者層を繋ぎ、相乗効果を得ることである。自然、長房のところには情報が集まる。情報目当てに、人心も集まってくる。既に石成友通など、聡い者は長房への付け届けを欠かさなくなってきていた。
「ま、之虎をよく支えてやってくれ。お主の言うことなら、之虎も疎かにしない」
「……私に之虎様ほどの魅力があれば、もっとお役に立てるのに」
「贅沢だな」
「本音ですよ。同じことでも、之虎様が言うのと私が言うのでは違う。私では角が立つことがある」
「お主の知恵は之虎を凌駕しているかもしれん。それでいいではないか」
「私より優れた者がいる。それを受け容れられないのです」
自分が一番正しい。そう思っていても、政や軍略では之虎に及ばず、武勇では一存に及ばない。何か足りないものがあるということだ。資質か、性根か、それとも機会なのか。
このままでは三好家の能臣程度で終わってしまう。長房は強い焦りを抱いていた。
*
「多少の苦戦は覚悟していたが……」
「ええ。ここまでの大敗は想定外です」
長慶と基速は二人してため息をついた。長慶は京や播磨の反応が気になるし、基速は軍資金や兵糧の損失が気になって仕方ないのだろう。
六郎への加勢を続ける波多野家を懲らしめようと、長逸と松永兄弟による大軍を派兵した。前の敗戦を繰り返さぬよう、進軍は慎重を期していたはずである。それでも、宗渭や晴通の策略に嵌まって味方勢は総崩れになってしまった。
どうも、敵の間者が自陣に紛れていたらしい。長逸と松永兄弟の連絡の不備につけ込み、それぞれを隘路に誘導。足の鈍い大軍はどうすることもできず、各個撃破されてしまった。さすがに各将は無事生還してきたが、兵の損耗は甚大である。
「宗渭め……。淀川での宗三を彷彿とさせるような神出鬼没ぶり」
「どうもいけませんな。長逸殿と松永兄弟で手柄争いをしていたようですし」
「いかにも、人の配置とは難しいものよ」
顔と顔を寄せ合っているうちは、意思伝達は滑らかなものである。それが、お互い城持ちになり、自分の家来を抱えるようになると、色々と齟齬が生じてきてしまう。長慶自身、一度は之虎と喧嘩になったのだ。
「評定ばかりしていても仕方ありませんが。ある程度は皆が集う機会を設けるべきでしょうな」
「放任も度が過ぎれば統制を欠くか。失敗から学んでいくしかないのだろうな」
「殿から叱られれば効果覿面でしょう。殿に構ってもらいたいから目立とうとするのですよ」
「ふふ。だったら尚更私の責任だな」
長慶は、基速の前向きな分析が好きだった。戦には疎いが、世間や家中のことをよく把握できている。かつての主である義冬が去ったいまも、長慶への忠誠は微塵も変わっていない。
「長時殿に弓馬術の講義でもしてもらいましょうか」
「いい考えだ。皆を呼び出す口実にもなるし、戦意の回復にも繋がろう」
信濃守護の小笠原長時が武田晴信に敗れ、同族ということになっている長慶を頼ってきていた。無論、長時は旧領復帰を願っている。長慶にとっては、東国情勢に介入する口実ができたということだ。
成り上がり者である三好家では、有職故実や古典、連歌などの講義を積極的に行っている。一定の教養を身に着けないと、京では日常会話にすら事欠くためだ。小笠原流の弓馬術や礼法ならば格好の教材である。
気取った公家や公方奉行とも、無骨な国人衆や惣村とも、自在に気脈を通じることができる。こうした懐の深さが三好家の強みだった。
(そしてその力は、他者への敬意や配慮があってこそ……。皆、偉くなり過ぎて忘れかけているのかな)
もう一度浅いため息をつき、長慶は家中への訓示内容を考え始めていた。
*
「ああ! ちょっと熊さん待ってよこの一手。待って待って」
「またかよ勝っちゃん何度目だい」
勝正は将棋が下手である。本人の性格そのままに突っ込んでくるから、伏兵や奇襲にはすこぶる弱い。
「待って待ってで日が暮れる。坊主の念仏みたいね、待って待って待って……はい極楽往生でございます」
「からかわないでおくれよ姐さん」
「じゃあこっちから王手だな」
「うげえ!」
「うふふ、熊さんに勝てる訳ないわよねえ」
うなだれる勝正を宿屋に置いて、慶興と龍吉は表の通りに出た。
信濃国、浅間の湯(長野県松本市)。あまねを連れ帰ることに失敗した慶興は、このまま帰国するのは癪だからと東国一帯を見物して廻っていた。
この地に立ち寄ったのは、ここが三好一族の源流、小笠原氏の本拠だったからである。山深い当地を眺めていると、ご先祖様がなぜ四国の山奥に土着したのか、多少は合点がいくような気もした。
「おっかさんのことでも考えてらしたんですか」
龍吉が慶興の顔を覗きこんできた。湯から上がって間もない彼女の肌は薄桃色に和らいでいる。首筋、鎖骨の辺りに目を引かれて、慶興は思わず瞬きを繰り返した。
「ち、違うよ。俺だって色々物思いに耽ることもあらあね」
「あらあら、故郷捨てた若君だけど瞼の裏には母上浮かぶ……てなところかと思っちまいましたよ」
「姐さんには敵わねえや」
一緒に旅をして一年近くになるが、一向に頭が上がらない。
「長慶様に並ばなきゃいけないんでしょう。重たいお題でござんすね」
「言われなくても分かってるよ……。道々聞いた話じゃあ、都では公方も細川もいなくなっちまったってんで、いっそ改元したらどうかと話し合ってるらしいぜ。暦まで変えちまうたあたいした父上だよ」
「へえ、朽木の公方様が聞いたらまた激怒しそうな」
「川中島で武田勢と睨みあってる長尾勢が動かねえのも、畿内の情勢を横目で見ているからなんだろ」
「そういう話ですねえ。湯治に来てるお侍方、そんな噂ばっかり」
日差し除けの朱傘をふりふり、龍吉が言葉を続ける。この女はなぜか、驚くほど武家の世界に明るい。
「父上はよう。子どもの頃から菩薩の化身だ、仏の生まれ変わりだって言われてたらしいんだよな。なんか、俺とは随分違うよなあ」
「確かに、ちょっと見たことのない男ぶりでしたねえ」
「知ってるのかい」
「長慶様が十八の頃に、少しだけですけど」
「どんな関係だったんだ」
「気になりますか」
眩惑するような笑顔ではぐらかされる。だいたい龍吉はいま幾つなんだ。
「姐さん、実は俺の本当の母親だってんじゃねえだろうな」
「あはっはは……! そいつはいい、そんなはずないじゃないですか。面白いお方ですねえ」
「ちっ、これだから大人は嫌いだよ」
「自信をお持ちなさいよ。いい子はいい子にしかなれないんですから」
話しながらぶらぶら歩いていると、酒屋の前に野武士風の一団がたむろっているのが目に入った。
向こうもこちらに気づいたようだ。酔っているのか元からか、一様に下卑た笑みを浮かべている。仲間内で何か冗談を言い合っているが、おそらく聞くに堪えないような内容に違いなかった。この辺りは小笠原の統治がよくなかったのか川中島の前線に近いからか、どうにも治安がよくない。
「おい兄ちゃん、いい女を連れているじゃねえか」
お決まりの言葉を投げてきた。龍吉と歩いているとこんなことがよく起こる。返事をするのも面倒だった。
野武士の一人がこちらに近寄ってくる。一歩、二歩、三歩。間合いに入った瞬間、懐中に忍ばせていた得物を振るった。
破裂するような音が鳴って、野武士の面の皮が千切れ飛んだ。打たれた男は気を失った。他の悪漢は呆気にとられている。奇妙な一瞬の静寂。
「な、何をしやがった」
「まさか……鉄砲じゃねえだろうな」
「それならお館様にお伝えしねえと」
こちらを警戒しながら遠巻きに囲んでくる。武田領の連中はこれが厄介だった。少し驚かせたくらいでは逃げようとしない。それどころか、変わったことがあるほど関心を持って迫ってくる。武田領では民が率先して不審者に喰らいつき、武田晴信に情報を上げようとする気風があった。侍が率先して民の暮らしを守り、難儀をかける者を成敗しようとする北条領とは随分違うものだ。
「姐さん、合図したら宿に向かって走ろう」
「あいよ」
じりじりと敵は距離を縮め、今度は二人掛かりで飛びかかってきた。
刹那、ぱん、ぱんと破裂音。虚しく慶興の前に倒れる。いずれの面にも大蛇が這ったような傷。慶興の得物は、松永長頼直伝の皮の鞭である。
「驚破したな、いまだ!」
駆けだした。残る相手は五人、血相を変えて追いかけてくる。軽い気持ちで龍吉にちょっかいを出そうとしただけだろうに、なぜそこまで必死になるのだ。凡愚の自尊心か、それとも国主に対する忠誠心か。
一人、足が速い男がいた。追いつかれる。鞭を放ち、足に引っ掛けて転ばせた。残るは四人。銘々が刀や槍を手にしている。弓矢を持っていない様子なのは幸いだった。
「おおい、勝っちゃーん!」
慶興の先をいく龍吉が、手を振りながら声を上げた。いつもながら勝正はいいところで現れてくれる。
「エーイ。お呼びとあらば即、参上!」
すごい勢いでこちらに突っ走ってきて慶興とすれ違い、そのまま敵の一人に両足で飛び蹴りを入れた。
「エーイ。頼りになるねやっぱり」
慶興も逃げるのをやめて、残る三人の方に身体を向ける。勝正は倒した一人の槍を奪って構えていた。勝正が槍を握ってしまえば、もう大丈夫だ。
「やいやいどうせそこの姐さんに悪さしようとしたんだろう。どうするお兄さん方続けるかい、どんな無法者とて震えだす我ら相手に火花を拡げてみせるかい。やるなら情けは無用、無頼には無頼を以て報いらあん!」
喧嘩をさせれば摂津では敵なしの勝正である。相手は明らかに動揺していた。考える暇を与えないよう地面を鞭で叩く。慌てて野武士たちは逃げ去っていった。
「勝っちゃんありがとよ」
「どういたしまして」
「面倒が増えないうちに武田領から離れた方がよさそうだなこりゃあ」
そうしていると、先ほど勝正に蹴り倒された男が起き上がってきた。勝正の背後を襲おうとしている。その頭を龍吉が朱傘で思い切り引っぱたき、男は再び気を失った。
*
天文は二十四年で終わりを告げ、弘治元年(1555年)が始まった。改元の理由は“兵革”である。天文年間は細川高国政権の崩壊で始まり、細川六郎政権の崩壊と足利公方の追放で終わったということになる。言い換えれば、元長の死で始まり、長慶の天下獲りで締めくくった訳だ。
堺公方府もいまは昔。海船政所があった場所は昔日の面影もないが、堺はあの頃以上の好景気に沸いている。西国の混乱もあり、日明密貿易や南蛮貿易における堺衆の存在感は高まるばかりだった。厳島で陶晴賢が毛利元就に討たれるという大事件が起こり、これまでかろうじて体裁を保っていた大内家はいまや風前の灯である。必然、日明関係も新たな段階に突入せざるを得ない。そこに自分の付け入る隙もあると与四郎は考えていた。
「……また何やら、あくどいことを企んでいるな」
「堺の未来を夢見ているだけですよ」
武野紹鴎の隠棲する天神森の庵(大阪府大阪市)。夏場の感冒をこじらせた紹鴎はいつまでも床から起き上がることができず、弟子たちがかわるがわる見舞いに訪れていた。
「与四郎よ。何か、欲しい物はないか」
「いきなりどうしたのです」
「病に伏してからというもの、面倒ばかりかけている」
「ははは、水臭い。欲しい物ならたくさんありますが、紹鴎殿にはもう充分いただきましたよ」
「何か……差し上げたかな」
「正直に、慎み深く、おごらぬ様。毎朝目覚めに唱えております」
与四郎の返事に紹鴎が真顔になり、やがて瞑目した。それから、くっくっと渋い笑い声を漏らす。
「もう、他の者とは違うところへ辿り着いたのだな」
「そんなことはありません。私だって茄子の茶入が欲しゅうございますとも」
「……ひとつ、私が若い頃の話をしてやろう。ある茶人のところへ客として招かれた時のことだ。客は私一人のはずだったのに、つい他の者を連れていってしまった。一座には三人。されど主は菓子の饅頭をふたつしか用意していなかった。さ、主はどうしたと思うかね」
「己の分を遠慮して、客にひとつずつ出したのではないですか」
「くく。“ご相伴”と言って自分は饅頭をさっさと食べてしまい、残ったひとつを半分に割って我々に進めたのよ。あの衒いのなさはいまでも目に浮かぶな」
「なるほど、味わい深い……」
「言うは易く、行うは難し。茶の湯ほどその言葉が当てはまるものはあるまい」
「ふふ。だからこそ、大の大人がこんなにも夢中になれる」
「そうだ……その通りだ」
見舞いのはずが、もてなしを受けているような。交情を孕んだ紹鴎の頷きが何よりの馳走であった。
紹鴎が急逝したのはそれから五日後のことである。最期を看取った者はいない。
続く