きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十 理世安民の段  ――三好長慶 軍勢を率いて上洛し、細川六郎 怯えて京から逃げ出す――

十 理世安民の段

 

正面に瀬戸内、背後には山々が聳える国土。その山々に深く踏み入ったところに、目指す城はあった。四国と芝生の関係に少し似ていた。違うのは、その城が大内と尼子という大国に挟まれている点である。

初めて訪れた吉田荘という土地は、山奥の集落と思えない賑わいに包まれていた。毛利元就が治める郡山城ではいま、盛んに拡張工事が進められている。手当を求めて、近隣から多くの人員が集まってきているのだ。

(この国では、尼子の来襲が当然のことだと思われているのだな)

労働者の顔、一つひとつに本気があった。自分の国を守ろうという素朴な誠実さが滲み出ていた。

(民の予感は獣のそれに近い。どうやら、尼子の反転も絵空事ではなくなってきたようだ)

持隆と何度もすり合わせた戦略に深い手応えを覚えた。この一年、大内家のあちこちを説いて回った成果が確実に現れている。大友氏と和睦し北九州の基盤を固めた大内家は、中国地方での尼子対策に本腰を入れ始めた。

「播磨、更には摂津を尼子が手に入れれば、堺や京を通じて石見銀の流通経路が確立してしまう。そうなれば尼子の国力は飛躍的に高まる」

「いまや、公方は完全に尼子贔屓。大内家の存在を示さねば、外交活動や猟官活動などあらゆる面で不都合が生じる」

「いずれは、日明・日朝貿易にまで尼子が乗り出すやも」

康長が説くこうした話は、大内家中の世論形成において想像以上の効果があった。当主の大内義隆は商業や財務に明るい上、中央情勢への関心も高い。大内家は以前から官位に対する執着も強い。元長の片腕として交易や畿内政情の感性を磨いた康長は、大内家への使者として最適だった。

大内家は、石見銀山の奪回と安芸の国人調略に乗り出した。現在、尼子晴久赤松晴政を淡路に追い払い、播磨の中小国人を順に攻略しているところであるが、この調子で進めば上京を断念して大内との決戦を優先することになるだろう。その時真っ先に標的になるのは、かつて尼子家を裏切って大内家に鞍替えし、いまでは安芸を代表する国人にまで成長した男、毛利元就である。

(すまんな……そなたたちが望んだ戦でもないのに。中央の政治に巻き込んでしもうた)

働く男たちを横目で見ながら、康長は心の中で詫びた。大内と尼子の戦がどうなるかは分からないが、最前線に位置する毛利元就とこの土地に暮らす民が無事に生き延びられるはずもなかった。

 

康長が差し出した兵糧の目録に、毛利元就は丁重に礼を述べた。

そのまま沈黙が流れた。書状のやり取りからは、五月蝿いほど雄弁な人物像を想像していた。しかし、実際に対峙した元就はまるで木像のように黙然としている。たまらず、康長の方から話題を振った。

「立派な縄張り、構えですな。この城なら、尼子といえども攻めあぐねるでしょう」

「……そうでしょうか」

「確かに、尼子と言えば新宮党などの精鋭揃い。城の丈夫さだけでは限度もありましょう。何か、策は」

「まだ、分かりませぬ」

「ご謙遜を。名高い有田中井手の戦い。初陣での凄まじい戦ぶりは四国でも評判でしたぞ」

「そうですか」

「……」

「……」

取り付く島もない。兵糧援助の使者を出迎えるには、愛想がなさ過ぎはしないか。

「初陣と言えば」

急に、元就の方から話題を振ってきた。思わず康長は身を乗り出す。

「噂は聞いております。いま、康長殿に安芸くんだりまで来ていただいてよかったのでしょうか」

「や、や。これはお心遣いを。もちろん、殿とご一緒したい思いはあります。だが、中国地方の成り行きこそ中央をも左右する一大事。自らの使命として、誇りを抱いて伺うておりまする」

「これは、こちらこそ痛み入ります。そう言えば三好長慶殿は近頃、母上を亡くされたとか」

「ええ、ええ。家中一同、悲嘆にくれております」

「……分かります。私も、幼い時にふた親を失いました。しかし、その悲しみが力にもなりましたな」

「そうなのです。殿も心機を一転して、大望を抱いておりますわい」

話し過ぎている気がした。しかし、元就の相槌、頷きようが快く、もっと話したい誘惑にも駆られた。

「大望。よいですな。このような田舎では、生き延びるだけでも精一杯。なかなか夢など抱けませぬ。そう、例えば――天下を掴むような夢も」

「ははは、天下を本気で夢見るような男など、日本全国でもそうはおりませぬ。そういう点では、確かに我が殿は非凡かもしれませぬな。や、家臣のしゃらくさい主君自慢と思うてお許しくだされ」

「いえいえ、楽しいお話でござる。しかし――、夢を急げば高転びの危険もありましょう。大内義興殿も、晩年は色々難儀しておられました。家中の方々もはらはらしませぬか」

「そこが殿のすごいところなのですよ! あの方は、大きな夢にゆっくりと向き合える方なのです」

「ほう、若くしてそのような器量が。さぞ家臣、いえ、叔父の冥利に尽きましょう」

「ううむ、殿のよさをここまで分かっていただけたのは初めてでござる。何とも、かたじけないですな」

酒もないのに、酔った気がした。主君を称賛されるとは、こうまで甘い響きを持つものなのか。底知れぬ智謀の瓶に身体が沈められていく。それが分かっていても元就への追従を止められない。

 

その後も、康長は宴席などで毛利家一同によくもてなされ、帰る際にはつるぎの香奠までも渡された。親近感は覚えたが、元就を戦に巻き込んでしまったという罪悪感は完全に失せていた。

(あの男は安芸一国に収まる人物ではあるまい。何よりも、恐ろしい。どこまでを見通しているのやら皆目分からん……。敵に回したくはないものだ。いっそのこと、今度の戦で死んでくれた方がよいのかもしれぬ)

中国に毛利元就あり。帰路、康長はこの言葉を何度も反芻していた。

 

  *

 

船団が淡路を通過し、摂津の平野がぐんぐんと近づいてくる。いよいよ初陣だった。

二千五百の兵を集めた。商工業が発展している畿内や阿波では、刈り入れ前の季節でもある程度の兵数は容易に確保できる。之長、元長以来の古強者も多く参陣していた。

風に恵まれ、船速は速い。摂津の民の息遣い、広野に繁茂する草ずれの音まで聞こえてきそうだった。反対に陸上の民は、海上要塞とも言うべきこの大船に目を見張るに違いない。三好長慶がやってきたぞ、大怨を晴らしにきたぞと、騒ぎ始めるのだろう。

「何をご覧になっているのですか」

長逸が目を細めて話しかけてきた。逸っている様子はない。さすがは三好家の支柱だった。

「水運で賑やかなこの海が、なぜこうも胸に迫ってくるのだろうな。何度も通ったが、その度に心が揺れる」

そう言って長慶は諳んじた。

 

津の国の 難波の春は夢なれや 葦の枯れ葉に風わたるなり――

 

西行法師ですか」

「ほ。長逸もなかなかの風流人ではないか」

西行は特別です。武士ならば、一度は憧れもしましょう」

「ふふ、なるほどな。……どれ、私も詠んでみるか」

 

難波がた 入江にわたる風冴えて 葦の枯葉の音ぞ寒けき――

 

「いかんな、先ほどから季節がまるで合わぬ」

「よいではありませぬか。いまより我らの枯葉掃除が始まるのでしょう」

「……お主、本当に情趣を解するのだな。普段の仏頂面からは想像もつかなかったよ」

「よしてくだされ」

照れたのか、頬に赤みが差した。若い時から家の重鎮を務める彼は、からかわれるのに慣れていない。

「それより腹ごしらえにしませんか。持隆様から出陣祝いに頂戴した、極上の黒あわびがありますぞ」

「お、そうであったな。陸に着く前に、少し腹に入れておこう」

阿波の名産である黒あわびは、溢れ出す重層の磯のうまみと、カリコリ小気味よい食感で多くの食通を唸らせている。生で食べても焼いて食べても堪えられないご馳走だった。

長逸が器用に殻を剥き、肉を薄く削いでいく。更に幾筋かの隠し包丁を入れ、生姜と肝を添えて長慶に差し出した。長慶が口に入れる。長逸も続いた。二人とも無言である。無言で次々と箸を伸ばすことがたまらぬ美味であることの証明だった。真髄は、口中で歯ごたえを存分に楽しんだ後、嚥下すると同時に喉を立ち昇ってくる余韻にある。下手な会話などをしてこの楽しみを逃すのは野暮というものだ。

 

食べ終わり、しばらくしてから長慶が口を開いた。

「なあ、長逸」

「はい」

「これから、私は長い長い年月を戦に過ごすだろう。何度も窮地に立ちながら、少しずつしか前には進めぬのだろう。……すまんな、悠長な主君で」

「……何を、水臭い」

「父上に比べれば、私のやり方はさぞかしじれったいだろう。お主たちには苦労ばかりかけてしまう」

「もう、よしてくだされ」

長逸は声を出さずに泣いていた。無音の男泣きをしながら、長慶を見つめている。

「すまぬ、意地が悪いことを言った。こんな甘え方も、もうやめねばな」

暖かな追い風が、二人の背を撫でていった。上陸を準備する水夫たちが忙しく走り回っていた。

 

  *

 

「そうか、大内が動き出したか」

足利義晴は口惜しさを隠さなかった。

「は。……やはり、大友と和睦したことが大きいかと」

「だから、大友の頼みなど聞かなければよかったのだ」

「あれほどの額を積まれると。細川六郎に実権を握られたいま、公方の財政は火の車であります故」

豊後の大友義鑑が大内家の攻勢に抗い切れず、和睦を斡旋してほしいと公方に泣きついてきた。この和睦が大内家の目を中国地方に回すことになり、尼子の上洛軍を動揺させ始めたのである。こうなることは三淵晴員も充分予想していたが、何しろ届いた献金額が莫大だった。大友氏は、いざという時の中央政権への頼り方が上手い。

「尼子は京まで辿り着けぬか」

「摂津が限界ではないでしょうか。尻に火が付いた状態で播磨を抜けても、細川領はそう簡単にはいかぬでしょう。大内との決戦に勝利すれば、再度、万全の上洛軍を起こせるでしょうが」

「仮定に仮定を重ねても仕方ないわ。朝倉孝景はどうじゃ」

一向一揆が、弟の不穏な動きが――などとのらりくらり……」

「ちっ、いざという時に使えぬ奴」

尼子、朝倉を中心とした六郎包囲網ともいうべき謀略が上手く嵌まらず、義晴の不機嫌が募っていた。足利将軍は伝統的に気性の上下が激しい。

「よい報告も……。遂に三好長慶が戻ってきます。そろそろ阿波を発つ頃かと」

「なに、それはまことか! なぜそれを早く言わぬ。兵はいかほどじゃ。一万か。二万か」

「……二千、五百だそうで」

「な、なんじゃと。そうか、持隆か。足利義冬を担ぐ細川持隆が、長慶の邪魔をしたのだな」

「いえ。持隆は長慶をいまも支援している模様。どうも、長慶本人に六郎を討つ気がなさそうです……」

二千五百という数はなんとも巧妙だった。六郎政権を滅ぼすことは難しいが、示威行為としては充分な力がある。長慶は堂々と上洛し、何ごとかを六郎へ要求する腹だろう。

「余が、征夷大将軍が御内書を送ったのだぞ。余の権威を盾に、民に流れる噂を矛に、六郎を討つには絶好の機会ではないか! 何を考えているのじゃ」

何度か使者を送ったが、長慶はにこにこと微笑むばかりで公方の誘いを受け容れなかった。犬になる気はないということだ。このことが、晴員の長慶に対する警戒を一段高めさせている。

「如何いたしましょう。長慶を引き続き支持しますか」

「知れたこと。優先の第一は六郎の討伐。それまでは長慶でも何でも、役立つ者には味方せよ」

「……は」

本当にそれでよいのか。長慶の狙いが分からぬ中、晴員には躊躇があった。だが、他の公方奉公衆は義晴の言葉を素直に受け入れたようだ。

 

  *

 

日没が迫る頃、長慶たちは渡辺津(大阪府大阪市)に上陸した。事前に石山本願寺とは密約を交わしており、近辺で騒ぎが生じる恐れはない。軍勢を整え、街道を駆ける。宗三の影響が強い京街道は避けたが、途中、高槻や山崎で六郎方とぶつかるかもしれない。直ちに戦闘へ移れるよう配下は武装させているが、長慶一人は淡い藍色の素襖姿だった。長逸たちには甲冑を着るよう諌められたが、

「大将に矢玉が届くようでは、いずれにせよ戦には負けていよう。このままで構わぬ。私は、あくまで話し合うために上洛したのだ。民がそうひと目で分かるようにせねばな」

そう言って、長慶は取り合わなかった。

 

夜の闇の中を、二千五百の兵が真っ直ぐに走っていく。阿波で調練を繰り返してきた精鋭たちである。畿内の大地を舞台にしても統率が乱れることはなかった。

道中、何度か在地国人の柵に当たった。夜間に突如現れた軍が三好長慶直属軍であると分かると、見張りの者たちは青ざめて道を開けた。進軍線上の国人には前もって因果を含めてあるし、何より民の間では長慶来襲の噂が充分に浸透している。見張りたちは長慶が六郎を討ち果たすつもりだと思い込み、下手に関わっては命がないと震え上がっていた。

想像以上に、六郎の動きは後手に回っているらしい。六郎直轄の芥川山城(大阪府高槻市)近辺でも、敵部隊に捕捉されることはなかった。芥川山城は西国街道の要衝にあり、ここで動きを封じられては面倒だとあらかじめ地勢などを充分に研究していたのである。少し拍子抜けするような気持ちで、進軍速度を速めた。

時刻はもう深夜である。夏の夜。空には雲ひとつなく銀河の輝きが軍を祝福している。行軍で火照った身体に、星から吹いてきたような風が心地よい。初陣。実戦。長慶の若い身体には、爆発しそうな活力が漲っている。馬のいななき。走る兵の足音。かちゃかちゃ鳴る防具。竹柄の長槍がしなる音。

隣で馬を並べる長逸に、声をかけた。

「長逸よ。行軍というものは、実に楽しいなあ!」

笑顔で長逸が頷く。

「政治のことなど忘れて、ただ一人の武者でいれたらどんなに楽しいことだろう! 父上に教えていただいた弓矢の術で敵陣の気勢を削ぎ、この海部刀を掲げて遮二無二突貫するのだ。お主たちが慌てて後に続く。戦場はたちまち乱戦だ。そうして目の前の敵だけを見据えて、一人二人と首を刎ねていく。向こう傷を負いながら、相手を袈裟懸けに両断してやるのだ。きっときっと、爽快だろうな!」

「はははは! 殿もなかなかの戦狂い。いま、殿と元長様が重なって見えましたぞ!」

「そうか! それは何より嬉しいな!」

風が二人の会話を盛り立て、兵たちに熱気を伝播していく。涙を流して走っている古兵もいた。

「よおし、者ども。走りながらでよい。声を出せ。鯨波をあげよ。畿内の眠りを覚ましてやろうぞ!」

長慶の呼びかけに、“鋭!”“応!”という鬨があがった。

「まだまだ! お主たちの気迫はそんなものか。もっとだ!」

“うおおお!!”大音声が周囲に轟く。地面が、木々が、川面が揺れているようだった。

「そうだ、その調子だ! よきかな皆の衆。さあ走れ。京はすぐそこだ!」

夜のしじまを打ち破りながら、真っ直ぐに進んでいく。存在を隠すつもりもない。性質の悪い疫病のような、狂った熱気が進軍していくようだった。

 

夜明け。京の目前、桂川に辿り着いた。川向うに小さな陣構えが見える。掲げられた旗には三階菱に釘抜の紋。同族、三好宗三の部隊だった。

兵数は三百程度に過ぎない。直前まで謹慎していたため、満足に兵を集められなかったのだろう。但し、立ち昇る気迫は並大抵のものではなかった。

「どう見る、長逸」

「死兵ですな。おそらく、六郎を京から脱出させるため。時間を稼ぐつもりなのでしょう」

「川を挟んだ布陣。兵法通りではある」

宗三の悲壮な決意が見て取れるようだった。六郎にあれだけの仕打ちを受けながら、命懸けで主君を守ろうとしているのだ。

「あの陣を殲滅するのに、どれくらいの時間がかかると思う」

「渡河も含めて、二刻もあれば充分でしょう」

「向こうもそれくらいの時間を踏ん張ろうという腹だろうな」

「宗三も元長様の仇が一人。殿が見逃すはずはないと思っているのでしょう」

「悲しいな」

時間稼ぎが宗三の目的ならば、道を迂回してもよい。二刻ほど待機すると交渉してもよいのだ。だが、そういう気分ではなかった。

「突っ切るぞ。橋は避けよ。燃やされれば民が難儀しよう」

そう言って、長慶は率先して川に馬を進めた。事前の調べ通り、水量は少ない。長逸たちも続いていく。徒歩の兵たちも渡河の訓練は充分に積んでいる。敵陣から矢が飛んできたが、充分に防ぐことはできた。兵数に十倍近くも差があれば渡河の不利はほとんど生じない。

“ひゅおっ”

長慶の頬を矢がかすめた。素襖姿では、当たっただけで致命傷である。血の気が引いた顔で兵たちが守りを固めたが、長慶は眉を動かしもしなかった。敵陣を睨みつける。味方も次々と対岸に到着していた。

「蹴散らせ」

二千五百の兵が、一斉に矢石を放った。次々と敵兵が倒れていく。そのまま騎馬を中心とした長逸勢が右翼に回り、長慶の中核部隊が正面から攻めかかる。槍合わせが始まった。敵は必死に抵抗するが、兵力の差は如何ともしがたい。やがて敵陣が崩れ始めた。そこに迂回してきた長逸が突っ込む。それでも、宗三は分断された部隊の動揺を巧みに収拾し、丘の上に再び陣を固め始めた。攻めの布陣ではない。自らの命を餌に、最期の一兵まで戦おうというのだろう。放置してもよいが、それこそ宗三は死に物狂いで追撃してくるに違いなかった。

「ここで矢を撃ち尽くしても構わぬ。馬を狙え。脚を狙え。宗三の首は取るなよ。取れば取ったで、兇徒が喜ぶ。まだ、その時ではないのだ。機動力を充分に削ったら追いかけてこい」

長逸に伝令を走らせ、兵を二手に分けた。長慶は先に京へ向かう。ようやく、汗の濡れを感じてきた。

 

正午にはまだ充分時間があるうちに、東寺京都府京都市)へ到着した。小休止を命じて、兵糧を使わせる。さっそく寺社や公家が禁制発給を求めてきたり、町衆から祝いの品が届けられたりした。それらの相手をしているうちに長逸たちも追いついてきた。

「宗三は無事だろうな」

「は。それがしたちが転進したのを見て、驚いた様子でしたが」

「うむ。それでよい」

進発した。北へ向かっていく。遠巻きに見物する民がどんどん増える。公方は談合通りに沈黙を守っているようだ。二条近くで、再び六郎方の兵が待ち構えていた。兵数は千と言ったところ。やはり、近隣国人の召集などはできていなかったようだ。既に兵の逃亡が始まっているのかもしれなかった。

「また、蹴散らしますか」

「少し待て」

敵陣に、宗三の部隊のような覚悟は見られない。六郎に命じられて、戦に不得手な内衆たちが前線に出てきたのだろう。見覚えのある顔も混じっている。

一騎、前に進んだ。敵も民も長逸も、何ごとかと仰視する。

大太鼓が鳴った。鳴り物衆の復活である。旗を揚げさせた。藍染の布地に、白抜きの三階菱・釘抜紋。そして、“理世安民”の四文字。

「暗黒の時代に生きるすべての者に告ぐ!」

吠えた。端正な身体に似合わぬ声の勇ましさで。

「我は理知の光で世を照らし、民の暮らしに安寧をもたらす者なり。そこな輩、何の狼藉をなす所存!」

言い終えた途端、鳴り物衆が一斉に大太鼓、小太鼓、鉦、笛を鳴らす。敵陣がまごまごしている間に、長慶は海部刀を抜いて駆け始めた。鬨をあげながら、全軍が獣のように突進していく。敵陣はたちまち、蜘蛛の子を散らしたように崩れていった。

 

  *

 

晴員は群衆に紛れてこの様子を見ていた。二人の子どもに訊ねる。

「あれが三好長慶だ。どう思った」

「あの物言いが、許せないと思いました。まるで、天下を私するようではありませんか」

嫡子の弥四郎が答える。晴員好みの回答だった。父と同じく足利将軍を崇敬する心が厚い。

「あの悲哀が、美しいと感じました。まるで、物語の世界に生きているようではありませんか」

二男の萬吉も答えた。二男と言っても、本当は義晴の隠し子である。何をやらせても才を示すが、それ以上に意味の分からない物言いをするところがある。

「……まあよい。何ごとも学問だ、これからの成り行きをよく見ておれ」

そう言って、晴員親子は再び群衆の中に溶け込んだ。

 

  *

 

長慶の電撃的な上洛は成功を収めた。尼子の播磨侵略に動揺して、多くの国人は動かない。頼りの六角は公方に、波多野や本願寺は長慶に懐柔されている。長慶の上洛は充分予想できていたはずだが、宗三の謹慎解除が遅れたせいか、六郎は後手に回っていた。所詮、元長の力で政権を獲った男である。怯懦にも宗三や内衆を身代わりにし、都を捨てて逃亡してしまった。世間では物笑いの種である。

その後の長慶の行動も鮮やかだった。市街の六郎方を散々に打ち破った後、朝廷や公方、寺社などへそつなく今回の行動のあらましを伝え、治安の維持を約束した。あくまで今回の上洛は河内十七箇所の返還を六郎に訴えるためのものであること、軍勢は尼子来襲への備えも含めた自衛戦力であること、六郎を害するつもりはないのに誤解から小競り合いになってしまったことなどを流暢に弁明し、公方もそれを支持したものだから、京は既に落ち着きを取り戻している。事態は、長政の望む方向から外れていた。

二十日に亘って長慶は京の治安をよく守り、いまは摂津の越水城(兵庫県西宮市)に移って沙汰を待っている。越水城は六郎直轄の城のひとつで、西国と畿内を結ぶ要衝に位置している。かつての城主である瓦林氏が三好之長に追い落とされて以来三好家との縁も深い。六郎内衆の一人が城番を務めていたが、長慶を恐れて逃げ去ってしまった。

長慶は誤解だと主張したが、六郎の屈辱は察して余りある。長慶の空とぼけた謝罪を受け容れずに、本格的に彼と争おうとしているようだ。この一周遅れの反応がいかにも六郎らしい。

結局、公方が調停に乗り出すことになった。日頃は何の力もないのに、こうした天下の一大事になると急に存在感がいや増す。その不条理が長政には気に食わなかった。公方奉公衆や六角氏の他、長政も和睦の斡旋を依頼されている。

気に入らない流れではあるが、長慶に真意を問いただしたい気持ちはある。甘んじて、長政は公方の依頼を承諾した。

 

会談は大物の広徳寺にて、正午からと指定があった。

定刻を過ぎ、長政は部屋でしばらく待たされた。遅れて現れた長慶は、少し大きくなったように思える。小癪な、という印象を抱いた。

「やってくれたな、長慶殿よ」

「何がです」

長慶の表情はさっぱりと軽やかなものだった。

「尼子の侵攻をかえって追い風にしながら、突如海を越え、夜を徹しての上洛とはな。さぞ、六郎は慌てたことだろうよ。純朴な若者のような顔をして、最近はすっかり腹黒くなってきたではないか」

「ああ、そんな風に映っているとは残念です。尼子から京を守ることで河内十七箇所の件を再考いただこうと思っただけなのに。いや、今回の私の軽率な行動、強く反省せねばなりませぬ」

「白々しい奴め」

「ふふふ。私は天道のお告げだとか言って、人の仇討ちを煽るようなことはしませんよ」

「……話が読めぬのだが」

「ただの例え話です」

想像以上に、長慶は成長している。長政は初めてこの男を元長と同等の脅威だと捉え始めていた。

「……まあよい、ならば問おう。なぜ宗三を見逃した。なぜ六郎を討たないのだ」

「あなたを生かしている理由と同じです。その後の政治の安定に繋がればこそ、戦に命を懸ける甲斐もありましょう。私怨で天下を騒がすような行為が、民の支持を真に集めるとは思えませぬ」

笑顔で長慶が答える。不気味だった。若造の瞳から、底深い深淵がこちらを覗いているように思えた。

「や、長政殿には申し訳ないと思っているのですよ。何箇月もいたずらに兵を遊ばせてしまって、さぞ費えもかさんだことでしょう」

「……!」

「ふふ、少しは自重なされよ。野望に向けて一直線とは、突破力はあれども、隙が多くなるということです。何を夢見ているのか知りませぬが、あなたは私に打ち筋を見せ過ぎている」

「長慶、おのれ!」

感情を出してはいけない。だが、自分が元長と似ていると、いや、元長に劣ると言われたような気がしたのだ。

「世迷言をよくもこのわしに言う。なんだ。いったいお主は何を望んでいるのだ」

「そう言えば、あなたは和睦の使者でしたね。六郎様にお伝えいただきましょう。河内十七箇所の代わりに、この越水城と摂津下郡(大阪府吹田市から兵庫県神戸市辺り)が欲しいと」

「な、なんだと」

「我ながらよいことを思いついたものです。六郎様の面子も保たれる。尼子への盾に私を使うこともできる」

「長慶、もう一度問おう。お主は何を望んでいるのだ」

「あなたと同じですよ」

「なに」

「地盤を得て独自の勢力を築く。戦と政で民や国人の支持を集めていく。やがてその力は政権を超える」

「……」

「天下を狙うということです」

脳天を鉄鎚で打たれたような衝撃が走った。この若造はどこまで、どこまでを見通しているのだ。

「こんなことができるのも、畿内ならではですな。もはや天下を本当に動かしているのは公方でも細川でもない。中小の国人や、寺社、京の町衆、堺の会合衆……、要は民草の支持が、政権を左右するようになってきています」

その通りだった。貴種が貴種だけの争いをしていられたのは応仁までだ。その後は、畿内国人の支持を一番集めた者が天下を担ってきた。いままではそれが細川だっただけで、今後もそうであるとは限らない。高国が没落した契機は波多野を怒らせたことだし、六郎はいままさに民から愛想を尽かされ始めている。こうした政権構造の本質変化がもたらしたものが、下剋上なのである。

「長慶。お主、そうなのだな。本気で、わしと天下を争うつもりなのだな」

「ええ。決戦の日が楽しみです」

「細川から政権を奪うだけならば。わしと手を握るつもりはないのか」

「寝言を言う時間ではないでしょう」

「……いいだろう。正面から叩き潰してやる。謹んで革命の贄となるがよい」

腹の下に火の玉が宿る。長政はそのまま立ち上がり、二度と視線を合わすことなく去っていった。

 

  *

 

河内十七箇所に代えて、越水城と摂津下郡を長慶に譲渡。

六郎はこの案に同意した。河内十七箇所を諦めさせたという点、尼子の備えに摂津西部を守らせるという点など、六郎の顔が立つ内容だったのだ。一時は長慶と本気で争おうとしていたが、内衆からは分が悪いと諌められた。尼子は次々播磨の城を落としているし、国人の多くは日和見。長慶軍は寡兵ながら持隆や本願寺、更には公方の支持を得ている。河内の木沢長政や遊佐長教を味方につけようとしたが、反応は鈍かった。長政などはむしろ、積極的に和睦を勧めてきたくらいである。

宗三からは反対された。摂津商業の中心地を譲るなどとんでもないことだ、しかも阿波や讃岐、淡路と海路で繋がっている、獅子に翼をくれてやるようなものではないか。領地ではなく、銭や宝物を積んで解決すべきだ……と言うのである。

この意見は却下した。追いつめられた宗三がなぜか命を取られなかったことが、気になっていた。所詮は同じ三好一族、内通している可能性は充分ある。それに、他の内衆が一刻も早い和睦を懇願していた。京で長慶に蹴散らされた者たちは、恐怖が身体の芯から抜けないようだった。放っておけば、中立を保っている波多野や芥川孫十郎なども長慶に与同する可能性もある。

越水城ひとつで済むなら安いものではないか。時が経てば、公方の陰謀も力を失っていく。そうなれば、天下万民は我が威光に再び従うだろう。それまでの時間を稼げればよいのだ。

くだらない混乱が早く終わればよいのに。内衆を叱咤して、しっかり働かせねばならぬと思った。

 

続く