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きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

十四 革命の段  ――木沢長政 世直しを唱え、三好長慶 一庫の戦いで初の敗北を喫す――

十四 革命の段

 

夏になり、からっと晴れわたる日が続いた。

衣装や調度を替えるのに数日を費やし、おなごたちは休息を取っている。あまねも縁側に腰かけ扇などを使いながら青い空を見上げていた。

(今年は、お酒ができるかな)

飢饉に陥った昨年は、西宮自慢の酒造りも抑制せざるを得なかった。長慶は何度か酒蔵に赴いて、職人を励ましたりしていたようだ。城にある酒は残り少ない。

あまねは西宮の酒が好きだった。長慶がいない日一人でこっそり呑むこともある。量はあまり飲めないが、ぽかぽかして、うとうとする感じが快いのだ。

「ここにいたか」

長慶がやって来て、あまねは居住まいを正した。日中に夫と話すのは稀だ。

「あまねは、船は平気だったかな」

唐突な話題だった。

「分かりません。乗ったことがないので」

「では、乗ってみるか」

「乗ってみたいです」

「よし。旅の支度をしておれ。荷物は十日分ほどでよい」

それだけを言って、長慶はまた外出していった。要領を得なかったが、あまねは言われた通りに荷造りを始めた。どこかに連れていってくれるのだろうかと、期待は華やいでいた。

 

二日後、長慶とあまね、他数名の一行は兵庫津を訪れた。三好家は法華宗の縁などを使って港湾の商業を積極的に保護している。さっそく、裕福らしい商人たちが出迎えにやってきた。

「あれを見てみよ」

港に、大きな帆船が三隻停泊していた。その横帆が目を引く。筵帆ではなく、真っ白な木綿帆が取り付けられている。帆を張れば、さぞ清々しい見た目になるだろうと想像された。

「大きな船」

「新造した。いまから就航だ」

そう言って長慶が船に乗り込む。あまねが乗船する時は、手を引いてくれた。

水夫たちがきびきびと働き、三隻の船はあっという間に海上を滑り始めた。隣を進む船を見てみれば、白帆には三階菱に釘抜が大きく描かれている。三好の威勢を大海原に見せつけているようだった。

「どうだ、気持ち悪くはないか」

「平気です。風が、気持ちいい」

兵庫津に来る時も、船に乗っているいまも。長慶はあまねの傍から離れずに、あれこれと構ってくれる。長慶の立場でこんなことをするのはさぞ難儀な準備が必要だっただろうに。

「……すみません」

「ふふ。暗い顔は海に似合わぬ。楽しんでくれ」

「……はい」

手の甲で目元を拭いた。男にとっては、素直に甘えられることが一番なのかもしれない。

「どこに向かっているのですか」

「淡路と小豆島に行くつもりだ」

「見たところ、軍船ではないようですけど」

「そう、これは商船だ。およそ五百石の荷を積むことができる。この船をな、毎月、兵庫津、高松、鳴門、堺と回らせるつもりだ」

そう話す長慶の顔は、まるで商人のようだった。

「荷物の量に応じて定額の銭を払えば、誰でも相乗りできるようにする。安宅水軍が護衛するから海賊に襲われることもない。畿内や四国の目ざとい商人が群がって来るであろうよ。軌道に乗れば船を増やす。やがて、海の上に四角い商売圏ができる。之虎、千々世、又四郎、いねと与四郎。皆も喜ぶ」

「でも……そんなことをすれば、兵庫津や堺の大店が怒るんじゃ」

「その通りだ。その調整が大変だったが、そういう既得権益を有する者たちの利用料を、若干割り引くことで合意できた。飢饉で銭の価値が崩れた時、不良債権を引き取ったり破綻懸念先に米を貸したりしたのが効いたな。まあ、豪商も小口の商売にはこの船を使うことになるだろう」

「すごい……。お前さまは、ほんとにすごい人なんですね」

「なんの、私は遅れている方だ。堺の会合衆などにはもっと知恵がある。胆力も財力もな。父上も、自分自身で太い交易路をつくっていた。その蓄えがどれだけ私を救ってくれたことか。まあ、そうは言っても、銭が暴落する前に船を発注できてよかったよ。後払いだったら平蜘蛛町の蓄財もつぎ込んでいたところだ」

「そうなったら、久秀殿が怒りそうですね」

「いやあ、あいつは泣くんじゃないかな」

潮風の中、二人は睦まじく笑い合う。船は順調に波を切り、淡路の姿が大きくなってきていた。

 

淡路で安宅家・野口家と会談した後、一行は小豆島に到着した。

小豆島は瀬戸内海運の要衝で、高松への交易を行う上では避けて通れない。あらかじめ土地の者と充分なすり合わせを行っておきたいとの長慶の意向だった。

もっとも、十河存春の同席もあって、会談はすぐに終わったようだ。小豆島にも様々な利益があるだろうから土地の人間も喜んでいるようだった。

待っている間、存春に同行してきた又四郎の鍛錬の様子を眺めていた。祝言の時に会ったことはあるが、話したことはほとんどない。木剣ではなく小ぶりの丸太を振り回している。あまねの体重くらいありそうな木の固まりを造作もなく振るう姿は、まるで鬼の子どもだった。

一息ついているところへ井戸水を差し入れた。すると又四郎は顔を赤らめて一息に水を飲み、どこかへ走っていってしまった。

「ははは。又四郎の奴、恥ずかしかったのかな」

見ていたのか、長慶が近づいてきてそう言った。

「日没までにはまだ時間がある。少し歩いてみないか」

小豆島は、美しい島だった。丹波育ちのあまねは島というものをこの旅で初めて知り、好きになった。

どこか行先があるのか、長慶はどんどんと野道を進んでいく。

少し喉が渇いた。そう思ったら、長慶が酒を出してくれた。二人して歩きながら口に含んだ。

そうして、小さな岬のようなところが見えてきた。

「ここだ。……うむ、我々は運がよい。見てみろ」

眼前の海が断ち割れたように、細長い道が向かいの島へ続いている。まるで、海の上に羽衣を浮かべたようだった。

「海の道……。こんな景色があるなんて」

「日に二度、干潮時だけに現れるそうだ。この地では弁天様の通り道という。降りてみよう」

手を繋いで歩いた。湿った砂を踏みしめる楽しさ。寄せては返す波の音。弁天様は毎日この道を往復して、何をしているのだろうか。仕事にいっているとか、恋人に会いにいっているとか?

「……すまんな」

「え?」

「寂しい思いをさせている」

突然の詫び言だった。

「そんな。そんな……」

「二人で年を取って、互いに信じ合って、一緒に死ぬことができたら。ただ、そなたと静かな……」

日は徐々に傾き、焼けた鉄のような色に海と道を染めている。その向こうでは星たちが息を潜めて待っているのだろう。

 

宿所では豪勢な夕食が出た。瀬戸内海が育んだ魚介類。夏に嬉しい素麺。交易で手に入れた旨酒。その中でも、白身魚の造りには驚かされた。かつて、これほど美味な魚を食べたことはない。興味を持って聞いてみると、料理人がその魚を桶に入れて持ってきてくれた。

「きゃあ!」

思わず叫んで、長慶にしがみついてしまった。鬼のような顔をした醜悪な見た目なのである。

「ふふ、これはおこぜだ。産卵前のこの時期、格別の馳走だな」

「た、食べても大丈夫なのですか」

「人も魚も見た目にはよらぬ」

恐る恐る、もう一度口にする。……やはり、おいしい。料理人たちが安心して笑った。

「この旅を考えついてよかったよ。色々と、よい思い出ができた」

長慶がにこやかに言う。あまねは、長慶の方に頭を寄せた。

「ありがとうございます。もう、わがままは言いませぬ」

「たまになら、わがままも楽しいものだ」

また、涙が零れそうになった。いったい何回この人に泣かされるのだろう。

それでも、今日、夫と心が通じ合ったようなこの日は、生涯忘れられないだろう。

 

  *

 

義晴にとって、何もかもが面白くなかった。

陰で支援していた尼子は、大内・毛利連合に敗北。毛利元就は小賢しくも郡山籠城日記などを朝廷と細川六郎のもとへ送ってきて、京雀の歓心を買っている。越前の朝倉孝景は弟と内紛。その上、甥の元美濃守護、土岐頼純が家臣の斎藤利政に追い出されたため、美濃国の内乱にも巻き込まれている。

東国では、甲斐守護の武田信虎が嫡子晴信に追放されてしまった。駿河の今川氏を含め、地域の国人や民は激しく動揺しているようだ。関東では山内上杉・扇谷上杉・古川公方・北条氏がいつ果てるとも分からぬ争いを続けている。越後ではあれだけ暴れ回っていた長尾為景が近頃おとなしい。

つまり、公方に味方しそうな者がいないということだ。これでは、遠国の大名を使って六郎を打倒することができない。昨年の飢饉以来、日本中が公方にとって望ましくない方向に向かっているようだった。

畿内の問題は、畿内で解決するしかないということか」

ため息が出てしまう。六歳の嫡子、菊童丸の将来が危ぶまれてならない。彼の元服までには、将軍の親政を復興したかった。邪悪な家臣の陰謀に巻き込まれず、京をしっかりと支配したかった。

「上様、気を強くお持ちくだされ。畿内にも勇者は残っております」

三淵晴員が励ます。

「何が勇者じゃ。三好長慶は六郎と和睦して以来、摂津の権益確保に夢中ではないか」

「細川氏綱がおりまする」

死んだ細川高国の養子だった。高国の後継者を名乗って、反乱を起こしたこともある。

「氏綱は三好宗三にこてんぱんにやられて、その後行方知れずのはずじゃろう」

六郎は、細川宗家の家督が脅かされた場合だけは異常な敵意を燃やす。己の力の源泉が何なのか、よく分かっているのだろう。

「噂では、河内南部、あるいは紀伊に潜伏しているとか」

「ふむ。畠山の領国か」

「魑魅魍魎が跋扈する魔窟、と言った方がよいかもしれませぬ」

紀伊半島は、中央政権の威光がほとんど届いていない。南朝が滅びても、中央に対する反骨の焔はまるで消えていないのだ。応仁の乱で畠山が分裂した影響も大きかった。根来衆雑賀衆などは海運を使って日本各地と交易をしているとか、倭寇をしている者までいるとか、様々な風説だけが流れていた。

「最近では、木沢長政が随分増長しているそうではないか」

「は。日本の伝統を汚すような説法を行って、飢えた民を軍に編入しているようです。まるで、宗教一揆のような有り様だとか。六郎へ反逆する日も近いかと」

「それはよいのだが……。あの男は、我らにも従うまい」

「やはり、そうでしょうか。潜入させた者も戻ってきませぬ」

「説法の内容は余も耳にしておる。あれは、危険だ。早めに滅ぼした方がよい」

「六郎のお気に入りのままでいれば、安泰だったでしょうに。野望を持つものではありませぬな」

「野望か。……そうだな。身の丈に合わぬ欲を持つべきではない」

長政対策では細川政権と協調するよう指示を出した。口惜しいが、暫しの休戦だった。

 

  *

 

秋。細川六郎から軍令が届いた。

一庫城(兵庫県川西市)に、細川高国の妹婿が潜伏していることが判明したという。六郎は自身の家督を危うくする者の存在を許さない。一庫城の地理関係もあって長慶、波多野稙通という精鋭へ出動命令が下った。

長慶に拒否する名分はない。斎藤基速、松永久秀といった文官を城に残し、三好長逸、松永長頼、和田新五郎などの強者を引き連れて越水城を進発した。

 

一庫城の付近は大中の山々に囲まれ、城自体も峻険な山城である。聞いていたよりも周到に土塁や空堀が用意されており、防備は厚い。長慶軍二千は南の丘陵、波多野軍三千は南西の山にそれぞれ布陣し、簡単な付城を築いて城を包囲した。城兵は千名程度か。

「長逸、どう見る」

「……どうも、妙ですな。強い戦意を感じませぬ」

「そうだな。ただ閉じ籠ることが目的のような」

正午頃、長慶と稙通は一斉に城攻めを開始した。反撃は苛烈である。山の起伏や土塁を上手く使い、死角から石や矢を飛ばしてくる。なかなかの戦上手が指揮しているのだろうか。もともとの城の縄張りのよさもあって、放っておくと被害が大きくなりそうである。小手調べは仕舞いと、攻めを中断した。

夕刻。稙通の使者が陣に現れた。稙通も奇妙な感覚を抱いているという。城内から何の応答もないし、本当に高国の縁者が籠っているのかもよく分からない。よくよく注意を怠らないように、との伝言だった。

 

二十日ほどかけて、少しずつ城の防備を剥ぎ取っていった。盾を並べて少しずつ前進し、要所の空堀を埋め、土塁を崩す。山野で育った長慶と稙通である。力攻めによる無駄な被害は回避しながら、着実に進軍経路を確保していた。だが、城の士気は揺らいでいないらしい。これまで長慶が鎮圧してきた国人は、城を囲む鳴り物や喊声に怯えて恭順の意を示すことが常であった。それがこの一庫城では交渉の使者を送っても応じようとすらしないのだ。

「注進!」

六郎からの使者が駆け込んできた。

「この度の一庫攻めは道理を欠いていると、木沢長政が公方に訴え出た由。公方はその届を即日却下するも、長政は伊丹氏や三宅氏などを誑かして、一万に及ぶ連合軍を組成した様子」

「そうか」

長慶が含み笑いを漏らす。遂に、長政が勝負を挑んできたということだ。

「六郎様のお怒りは甚だしく、こちらも三好宗三、芥川孫十郎、池田信正などによる七千の援軍を組成。いずれの軍も当地目指して進軍しております」

いまこの時期に高国の妹婿の潜伏が分かるということ自体、おかしかったのだ。相も変わらず回りくどい謀略を考える。

(来い、長政。宿年の悪縁、いまこそ決着をつけてやる)

野戦になる。二万の兵がこの狭隘地に集結することを踏まえ、長慶は陣の位置を調整し始めた。

 

  *

 

「いよいよだ。……諸君。革命の宴が始まる時が来た」

一庫城の南、伊丹氏領地の平野に集結した木沢軍。国人衆の兵も混じっているが、大半は無辜の民である。この飢饉の中、何の手当もなされなかった憐れな貧民である。彼らは皆飢えている。それでも、長政の世直しを信じて瞳だけは獣のように輝いていた。この反乱の果てに、新しい時代がある。そう願って集った一万名だ。遠くは紀伊の熊野、大和の柳生、河内の千早などから駆けつけた者もいる。

平野を埋めるかのような大群衆に向かって、長政が語りかけた。

 

諸君よ。この地に集いし愛しき同志たちよ。

大切なこの日に集まってくれたことに感謝したい。

皆の気持ちを充分に感じることができる。すぐにも一庫城に籠る同志を助けにいきたい。あの憎々しい王の犬どもを血祭りに上げてやりたい。そう逸る心が分かる。見てくれ、わしの腕を。熱気に押され、鳥肌がさざ波のように広がっている。諸君の気持ちとわしの気持ちはまさしく同じものだ。

それでも、少しだけ話を聞いてほしい。

大将としてではなく、諸君の友人として話を聞いてほしい。

いま、わしは“王”という言葉を使った。何を想像するかは、人によって違うと思う。

公方。そう、何の力もない癖に戦の原因だけは乱造する、あの公方が王だ。武家の統治を放り投げ、京と近江を行ったり来たり。家来同士が争うのを見て喜んでいる恥ずべき案山子。それが公方だ。

公家。そう、伝統という目に見えない壁を何重にも築き、無知な武家や寺社を操っている、あの公家が王だ。最も古くからこの国に寄生し、よからぬ上下の定めをつくった白蟻。それが公家だ。

寺社。そう、民のまじないを非難しながら、自らも怪しい呪術によって手に入れた特権にしがみつく、あの寺社が王だ。民にはきれいごとを口にしながら、肉を喰らい酒を浴び女を犯す騙り師。それが寺社だ。

細川六郎。そう、いまこの時の支配者でありながら、いまこの時の民の難儀を無視する、あの六郎が王だ。忠勤に励む家臣を、儚い祈りを抱く一揆を、我欲のために使い捨てた糞餓鬼。それが六郎だ。

王! 王とはなんだ! 民に畏敬され、民をよく慈しむ者が王ではなかったか。

千年の時をかけて、この国は王という言葉を糞と同義にしてしまった!

ああ、皆見えるだろうか。そこの右側、指差すところ。涙を流す若者がいる。

わしはあの若者の顔を知っている! 荒法師に母を乱暴され、かわいい弟を連れ去られた農民だ。

皆見えるだろうか。そこの左側、指差すところ。怒りに震える老人がいる。

わしはあの老人の顔を覚えている! 代々細川家に仕えながら、気まぐれで家を取り潰された侍だ。

この国では、誰も民のことなど守ってはくれない。

ならばどうする諸君。誰が諸君を守るのだ。誰が諸君を未来に導くのだ。

自分でやるしかないではないか!

さあ、皆の衆。自分の手をじっと見てみたまえ。何、枯れて醜い? それは違う。よく見るのだ。これまでの苦労が染みついた、労働の誇りが刻み込まれた手ではないか? この中には、王のように怠惰な暮らしを送ってきたものなど一人もいるまい。誰もが、生きるために必死だったはずだ。何十年にも亘って、辛い日々を辛抱してきたはずだ。

これだけしゃかりきになって、何かよいことはあったかね? 幸せにはなれたかね?

何にもなかっただろう!

それはなぜだ。君たちが悪いのか。奮励努力が足りなかったのか。

いいや違うね。

それは世の中の仕組みが悪いからだ。こうした世の中をつくった、王が悪いのだ。

さあどうする諸君。これからも我慢を続けるかね。

子にも、孫にも、そのまた孫にも、同じような我慢をさせたいかね。

親が、祖父が、そのまた祖父が、搾取されてきたものを取り返したくはないかね!

何を奪われてきたのか、思い出してみようではないか。

それは財産だ。古代に耕した土地が、五百年前に織った布が、百年前に貯めた銭が、君の子の腹に入るはずだった飯が。すべて、あの王どもに奪われたのだ。

それは命だ。無益な争いに巻き込まれ、親子が、兄弟が、妻子が、友人が、絆が。すべて、あの王どもに殺されたのだ。

それは誇りだ。千年間の忍従が、上下の定め、家格というものを固定してしまった。すべて、あの王どもに都合よくだ。

諸君。君たちは生まれながらにして、牛と同じだと言われているのだぞ。

さあどうする。これからも我慢を続けるかね。

子孫にも我慢を強いるかね。

……嫌だ。わしは嫌だ! なあ、皆も嫌だろう!

子どもの頃、一度は考えたことがあるはずだ。

“もっとよい家に生まれていたら”

ああ、なんという負け犬根性。家柄の差というものを、我々は子どもの頃から躾けられているらしい。

なあ。もう我慢するのはやめよう。本音を言おうではないか。

“こんな世の中、ぶっ壊してやりたい!”

そう言ってもよいのだ。そうして一緒に、君たちの家をよい家にしようじゃないか。

諸君よ。この地に集いし美しき同志たちよ。

手に武器を取ろう。胸に誇りを取り戻そう。

一庫には、王の犬どもが集まっている。彼らを血祭りに上げてやろう。

それから、京に向かって皆で行進しよう。

王を宮殿から引きずり出して、ごめんなさいと言わせよう。

それから累代の罪を数え上げて、優しく首を絞めてやろう。

諸君。横を見たまえ。後ろを向きたまえ。

かつて、これほどの人数と夢を同じくしたことがあったかね?

公方や細川家に無理やり集められたのではない。すべて、思いを同じくする同志なのだ。自分の分身が一万人もいるのだよ。自分が死んでも、同志がきっと仇を取ってくれる。王を滅ぼし、革命を遂げてくれる。この強靭な連帯こそが、我らの夢のかたちなのだ!

さあ、進もう。

前へ進もう。

大切なこの日を一緒に過ごせることが堪らなく嬉しい。

大将としてではなく、諸君の友人として号令させてほしい。

“――進発!”

 

吠えるような鬨が湧き起こった。長政の顔が陶酔する。兵の声は大地を揺らし、熱風を呼んだ。

おそらく一庫の長慶にも聞こえているだろう。盤上の駒は、長政の思い通りに動いている。

 

  *

 

宗三は領地の淀川流域で素早く軍勢を集め、一庫に向かって駆けていた。芥川孫十郎と池田信正の四千はおいおい到着する頃だ。長慶・稙通と合わせて兵は九千。長政軍は一万一千だが、宗三率いる三千が合流すれば兵数は逆転する。長慶や稙通ならば、それまで充分耐えられるはずだ。

だが、何かが変だった。馬上にありながら、宗三はいま起こっていることを冷静に思い起こしていた。

秋になって、突然細川高国の娘婿が一庫に潜伏しているとの知らせが入った。それも、複数の経路から同時に情報が上がってきたのだ。引っかかるものを感じて裏付けを取ろうとしたものの、高国に連なる者の存在を認めない六郎は直ちに長慶と稙通に軍令を発した。

長慶と稙通は期待通りに一庫城を攻撃し、順調に攻略を進めた。城はあと五日ももたなかっただろう。そこに、木沢長政が停戦を求めた。伊丹氏などを煽動し、一庫救出軍を立ち上げた。まるで前から計画されていたかのように、長政を慕う民衆が次々と集まった。それに対抗するため、六郎は我々を援軍として動員し、すぐに追い掛けさせた。それがいまだ。

まず、高国の縁者が潜伏しているという話は長政による工作だろう。本当にそんな人物がいるかどうかも疑わしい。一庫城に籠っているのは長政の手先と見て間違いない。

では、長政の狙いはなんだ。こんな回りくどいことをするなら、集めた民を使って京や摂津を奇襲すればよいではないか。

あの男が、いざ尋常に勝負などと決戦を挑むとは思えない。何か、理由があるはずだ。一庫城に双方の兵を集める理由が。何か、一庫でなければならない理由が。地勢を脳内で浮かべる。一庫。池田や伊丹の北部、山間にある盆地。一度大軍を集めれば、平野に出るには時間がかかる場所。そして、その位置は六郎の京、波多野の丹波、長慶の西宮、宗三の淀川流域、すべての中間に――。

「!」

まさか。宗三の肌に粟が生じた。

(木沢長政。貴公は、六郎様の心情を逆手に我々を釣り出したというのか。ならば、真の狙いは)

宗三が馬を止めた。

何ごとかと、供回りが訝しげにしている。

「兵を返せ! 我が軍は京に向かう!」

ざわめいた。馬鹿な、友軍を見捨てるのかなどと声が上がる。

「優先順位を誤るな。敵は京だ。駆けろ。命を懸けて走れ。六郎様が危ないのだ!」

宗三が馬に鞭を入れた。兵は動揺しつつも宗三を追ってくる。間に合うか。いや、間に合わねばならぬ。

 

  *

 

長政の援軍は手強かった。

痩せこけた兵が、ろくな装備も持たずに向かってくる。長逸や長頼たちが一蹴するのだが、仲間の死にも心乱れず盲目的に前進してくる。

「まるで一向一揆

長逸が呻く。孫十郎たちが駆けつけ、側面から長政軍を切り崩す。それでも、敵に士気の乱れはない。

(長政の本陣はどこだ。私と決着をつけるのではないのか)

無数の貧民が襲ってくるばかりで、長政が鍛え上げた河内兵の姿がない。民が相手では、長慶の指揮も鈍った。彼らは長政に操られているだけの罪なき存在なのだ。

「気を張るのだ。もうじき宗三殿の後詰めが来る!」

先ほどから何度もそういった伝令が飛び交っている。一進一退を繰り返し、野戦は二刻にも及ぼうとしていた。宗三の援軍は来ない。宗三にしては、遅過ぎる。

「申し上げます! 三好宗三殿、転進して西国街道を北上。京へ向かっております!」

「なんだと!」

騒然となった。

「怖じ気ついたのか!」

「馬鹿な、あの宗三殿が」

将の混乱は配下に伝わる。味方があちこちで浮足立つのが分かった。敵は数と士気を更に増しており、陣が崩れ始める。勝機は掌から零れ落ちたらしい。退き戦を上手くやらねばならないということだ。

「長逸。鳴り物衆を守り、退却を先導せよ。新五郎は友軍に伝令。彼らも戦上手だが、この撤退は骨が折れるだろう。連携を取り合って粘り強い退き戦をやろうと伝えよ。長頼は私としんがりだ」

「否、それがしが時間を稼ぎます。殿はお先に――」

瞬間、そう言った長逸がはっとして、肩を震わせた。

「これだけは譲る訳には参りませぬ。しんがりはそれがし、殿はお退きくだされ。長頼、殿を頼むぞ」

「……私も長逸も、まだ死ぬ時宜ではない。逸るな、焦るな。生きて帰ることを優先せよ」

「承知しました」

言葉を呑み込んで、長慶は馬に跨った。駆ける。敵陣を突っ切ったが、追撃は激しい。包囲されかけた。それを、突っ込んできた騎馬が蹴散らした。

「おい、大丈夫か!」

孫十郎だった。長慶を案じながらもよく配下を指揮し、敵を寄せ付けない。

「ここは任せて、先に退きな!」

孫十郎が金縁の軍配を掲げ、配下に素早く防備の陣形を敷かせた。

礼を言い、長慶も撤退に移った。目ざとい敵兵が槍を投げてきたが、長頼がそれを掴み止めた。

 

何度か追撃に遭いながらも、長慶はなんとか越水城へ帰還することができた。長逸や孫十郎の奮戦もあり、幸いにして主だった味方衆も無事だと連絡を受ける。

それでも、自分が指揮を執って初めての負け戦だった。腰を据えてさえいれば、勝ち目はあった。宗三の援軍が来る、来ないという情報に振り回された、自分の心魂が未熟だったのだ。長慶は自室に籠って戦を振り返り、何度も頭を垂れた。その日は、あまねをも近づけなかった。

 

翌日に届いた知らせは、更に長慶に衝撃を与えた。

何と、あの一庫城の戦の裏側で、長政は軍から単身離脱し、密かに河内へ舞い戻っていた。そして、配下の精兵を率いて東高野街道を北上し、京へ上洛したのだという。

長政の狙いは、将軍義晴と六郎の拉致だった。治安維持のため、貴人たちを護衛すると喧伝しながら入京したらしい。ところが、その半日前に京へ舞い戻った宗三が、長政が狙いそうな人物全員をあらかじめ避難させていた。半信半疑の義晴や六郎を、必死の形相で説き伏せたらしい。長政が本当に接近していることが分かると、武家も公家も慌てて身を隠したとか……。

(長政は、義晴や六郎を公開処刑するつもりだったに違いない。暴力による世直しを煽るために)

だが、その企みは宗三によって阻止された。“浄玻璃の鏡”三好宗三の面目躍如である。結局のところ、自分は長政の掌の上で踊らされ、宗三の域とは程遠いところで戦っていたのだ。力ない笑いが出てきた。

「あの」

襖を開けて、あまねが顔を覗かせた。

「聞いてもらいたい、ことが」

「どうした。また何か凶報でも届いたか」

疲れた顔で長慶が応じた。一方、あまねの顔には日頃見られない力強さがある。

「いえ、吉報です。……あたし、赤ちゃんができました」

 

続く