きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

二十七 村雨の段  ――足利義晴 失意のままに悶え死に、三好之虎 阿波藍染を振興す――

二十七 村雨の段

 

天文十九年(1550年)の初夏になった。

近江は風の国である。穴太(滋賀県大津市)の寺院で臥せっている義晴のところにも、琵琶湖から心地よい風が吹いてくる。この風がなければ、もっと早くに逝っていただろう。

「中尾城(京都府京都市)の具合は……どうじゃ……」

部屋には、三淵晴員と進士晴舎が伺候している。

「細川内衆や六角殿の助力もあり、ご構想通りの仕上がりになったかと。堀切を三重にし、城壁には石を塗り込めておりますれば。三好が鉄砲を撃ち込んできたとしても、江口城のようにはいきますまい」

晴員が自信を込めて返答した。

江口の戦いにより、築城のあり方も見直しを迫られた。鉄砲への対策が不可欠になったのだ。

「うむ……。京は守るに不便な土地じゃ。中尾城を足掛かりにしつつ、四方、八方から攻め手を繰り出せ。ゆめ、長慶を俄か雨などと思うで、ないぞ……」

この一年近くで、長慶は畿内のほとんどを掌握していた。宗三の敗死後、細川軍・六角軍はなすすべなく撤退し、京は長慶に占拠された。氏綱の蜂起以来、京では町衆による自治の気風が強まっていたが、それも徐々に懐柔されつつある。

摂津では、最後まで抵抗を続けていた伊丹親興が長慶に降伏し、所領を安堵された。親興は不明を恥じ、長慶に忠誠を誓ったようだ。芥川孫十郎や池田長正などの国人も長慶を支持していた。河内では長慶の岳父、遊佐長教が相変わらず権勢を恣にしている。大和の筒井順昭も、長教との繋がりが深く、三好家とは中立を保っている状況だ。和泉の松浦守たちもすっかり長慶を頼りにしており、五畿内で長慶に敵対する者はもはやいないと言っても過言ではない。上手く親交を結んでいるのか、一向宗法華宗、寺社勢力すらが長慶の台頭を黙認していた。

「晴員、晴舎。義輝を、よろしゅう頼む……。あの子を何としても京の主に戻してやってくれ」

「大御所様」

「お気の弱いことを仰らないでくだされ」

胸や腹に水が溜まって、息をするのが苦しい。臓腑も圧迫されて、働きが鈍っている気がする。

「よい……。自分が一番よく分かっている。……もう、近い。義輝と、藤孝を呼んできてくれぬか」

二人が顔を拭い、部屋から下がっていった。

細川高国に擁立され、三好元長に京を追い出され、六郎には傀儡扱いされ、氏綱の起用には失敗、最期は元長の息子に再び京を追い出され、避難先の近江で死ぬ。征夷大将軍と呼ばれながら、なんと惨めな一生だったのだろう。全身の水腫は悔し涙が溜まったものに違いない。

あの二人は頼りにできる腹心である。頼りない自分にも、忠勤無比の働きを捧げてくれた。義輝ならば、よりよく使いこなしていくだろう。

義輝を支える者は、確実に増えてきている。六郎からは積年の非を詫びられた。宗三を失ったが、その息子、宗渭が復讐に燃えている。六角家や波多野家もいる。若狭の名門、武田家は六角定頼の娘を娶っていて、こちらの味方になってくれる見込みだ。遠国には尼子氏や朝倉氏がいるし、甲斐の武田氏や駿河の今川氏も長慶の成り上がりを喜ばないだろう。公方も六郎も京から追放された、この異常事態を放置しておけば下剋上の風潮が更に盛り上がる。全国の守護大名は看過していられないはずだ。

 

「失礼します」

義輝が入室してきた。そして、義晴の顔色を見て明らかな動揺を示した。

「余が、足利公方が京に執着してきた理由が分かるか」

「……いえ」

「尊氏公の頃は、帝の名分を奪い合う戦いばかりだった。その中で足利が生き残るには、公家を抱き込むしかなかった」

「……」

「足利の力の源泉は、初めから武力ではなかった。大義を我が物とすることにあったのだ」

息子を前にして、強い声色を振り絞っている。話す度に身体が軋むようだ。

「しかし、都の公家は我々を見放しつつあります」

「公家の取り合いになれば、京にいる方が勝つに決まっている。しかしな、いまの帝は野心をお持ちでない。武家が求めているものも帝の名分ではない。二百年続いた足利の権威と、目先の利益だ」

「公家との付き合いなど、銭がかかるばかりで意味がないと」

「ところが、京という土地には意味がある。……どんな田舎者でも、“京”という言葉だけは知っている」

布団から手を伸ばし、義輝の瑞々しい掌を握った。

「京を取り返せ。人は、奪われたままでいる者に手を差し伸べたりはしない。更に奪おうとするだけだ」

力がこもり、爪が食い込んだ。痛がる素振りもなく、義輝の瞳には決意の光が表れている。

「誓うのだ」

「……誓います。偉大な祖先に、誇り高き父に」

手を離した。話し過ぎて喉が咽る。これまで以上の苦しみを覚えた。

「よし。もう、行け。……余は、お主という息子を持てて幸いだった」

「父上」

「泣くな。輝きを損なう」

声が漏れるのを我慢しながら、義輝が退出していく。

その反対、縁側の方で人の気配があった。

「聞いていたのだろう、藤孝。入って参れ」

「は」

藤孝はますます筋骨逞しくなり、まさに文武両才といった態である。

「……長くは話せん。多くを聞くのも辛い」

「大御所様の思いは、しかと伺いました」

「もうひとつの思いを託す。……歴史を、導け。お主にはそれができる」

「施政者の誠意ですか」

「好きに受け取ればよい。以上だ、下がってよい」

名乗り出ることはしない。藤孝は、藤孝のままでよかった。義輝と違う道を選ぶことになっても構わない。それで藤孝が生き残れば、義晴の血も続いていく。

 

水腫が頭の中にもできたようだった。藤孝との会話を最後に、まともにものを言うことも、ものを考えることもできなくなった。苦痛だけが、より鋭敏に感じられる。肺腑が押し潰されて、息を吸う量よりも、吐く量の方が多くなった。

そんな責め苦が何日も続いた後、義晴は遂に意識を失った。義輝や晴員たちが何を呼びかけようと、意識が戻ることはなかった。

更に何日かして、ようやく息が止まった。義晴自身は何も分からなかったが、家族や家臣にとっては直視していられない悶えようだった。

 

  *

 

和泉は熱情の国であるという。

温暖な気候、都会と鄙が混じりあう地勢は、思いひとつで何ごとをも成せると信じる人々を産んできた。南海交易に野心を燃やす商人、精密な腕前を誇る木工や鍛冶の職人、行基菩薩に代表される高僧、茶人の舌をも唸らせる地場の青物を育む農民などなど……。

村の祭ひとつをとっても、熱く、荒く、激しい。お互い自分の村が一番という思いが強く、血を見るような喧嘩も頻繁に起こる。日頃は遠い夢に向かいながら、祭になれば刹那の激情に身を任せるのが泉州人だった。

当然、喧嘩は強い。兵の勇猛さは五畿内随一である。しかし、大勢力を組織するのは苦手だ。五十、百くらいの人数の抗争はよく統率できても、千人、万人という国を挙げた団結が不得手なのだ。そのため、しばしば根来衆の侵略を受けている。松浦守の拠る岸和田城大阪府岸和田市)や一向宗の結束が強い貝塚は自主独立を保っていたが、それより南は根来衆の領地と言っても差し支えはない。

「そんな訳で、長慶殿や一存殿の後見を得られれば心底助かります」

守が頭を下げた。岸和田城には枯山水の庭園を設えており、その周囲を歩きながら簡潔に和泉国の情勢を聞かせてくれる。庭の見どころを説明するかのように政治を語るこの男に、長慶は好感を抱いた。

「舎利寺の戦で敗れたとはいえ、紀伊の諸勢力は未だ侮りがたい力を有しています。畿内の平穏のため、我々としても松浦殿との盟約を恃みにしたいところです」

「感謝いたす。……兵たちも一存殿を慕っている様子。一存殿率いる泉州連合ならば、どのような修羅を相手にしても後れを取りますまい」

岸和田の南には九条家の荘園である日根荘(大阪府泉佐野市)があり、当然、根来衆の押領を受けていた。九条稙通との関係から、一存にとっても和泉国を安定させる動機があるのだ。

その一存は、長慶に先立って岸和田を訪れて、当地の兵たちと調練をしたり、日根荘をうろつく僧兵を追い払ったりしていた。守の話では、泉州兵はすっかり一存と打ち解けている様子である。

“和泉はいいなあ! 海があって、山があって、溜め池がやたらに多くて。讃岐とよう似ておるわ!”などと、一存自身も上機嫌で話していた。

「夏とはいえ、暑過ぎることはない。冬は逆に温かいとも聞きます。よいところですな、岸和田は」

「今日はとりわけ過ごしよい天気でござる。さ、二の曲輪に菓子など用意いたしました。阿波を望む海など眺めながら、一服しましょう」

紀州街道を扼するこの城は、難波潟から堀に水を引く海城でもある。二の曲輪は若干の高台になっており、そこの櫓からは展望のよい舞台が張り出されていて、海をよく見渡すことができた。奥まった館で歓待されるより、長慶にとってはこちらの方がずっと快い。

「この櫓も、見事な出来栄え。阿波の材木は岸和田にも送られているとか、当地の欅や桐の細工は珍重されているとか、話には聞いていましたが」

「船で来たときゃ不細工丸太、岸で磨かれ世に出る時は粋な木目のお柾どん。や、阿波の木が不細工と言っているのではありませんよ」

「ふふ。阿波の材木ならば、尚更格好のよい仕上がりになるということですな」

何でも実際に見てみるものだ。守と提携すれば、材木交易の利潤を上げることができるかもしれない。

そんなことを考えていると、漆皿に乗せられた菓子を出してくれた。四角く切り出されたそれは、見たことのない代物だった。茶色いさらし餡を固めたようなものの中に、小豆の粒がちらほらと混ざっている。

「“時雨”とか“祭の花”とか呼んでいます。小豆餡に餅粉などを混ぜ合わせ、蒸したものですな」

守がやってみせるように、黒文字で口に入れてみた。ほろり、ほろりと餡がほぐれ、さらり、さらりと甘みが舌の上に散る。しばらくして、粉雪のように味も食感も消えていく。幽かな残響だけを遺して……。

「――驚きました。このような味が、この世にあるとは」

「ははは。お気に召されましたか」

思い描いていたものが、菓子となって具現している。そのことに少なからぬ衝撃を受けた。

もう一口。

そう思った時、背後の肩口から飛びかかってくるものの気配を感じた。咄嗟に横へ跳躍し、身をかわす。

気配の正体を追った。茶色い、小柄の生き物が舞台から飛び降りていくのが見える。

「……猿。こんな、海辺に」

猿は長慶の菓子を口に詰め込み、どこかへ逃げ去っていった。

「ああっ。も、申し訳ありませぬ。餌をやる者がいて、住み着いてしまったのです。このような悪さをするなら、捕らえて成敗しておくのでした」

「いや、構わぬ。無闇な殺生もやめたがよい。……そうか、奪ったのは、猿か」

これはこれでよかったのかもしれない。ひと口だけの体験にしておいた方が、長く記憶に残るだろう。

浜辺の方に目を移した。南の方角から、騎馬の群れが向かってくるのが見える。遠乗りをしていた一存たちだ。畿内において、三好の地盤は着実に広がりつつあった。

 

  *

 

今日も丹波は濃霧に包まれている。山は影絵に、森は墨絵に。雲と霧が混じりあって綿状にたなびく。あまねは、丹波の霧景色が好きだった。

六郎や六角が撤退し、再び八上城の館へ戻っていた。部屋にも湿った空気が入ってくるため、夏でも涼やかな安心を抱くことができる。夜は多少冷えるが、子どものように薄着で寝てしまって震えるのも楽しいものだ。

案の定、戦は長慶が大勝を収めていた。公方も細川も京から逃げ落ちてしまって、別れた夫はいまや天下の第一人者と見做されている。それに伴い、少しずつ、周囲のあまねを見る目にも変化が生じていた。駆け引きの材料を見るような、煤色の瞳。

(前妻を出汁に、身の安堵を望むなんて……)

父の時代の丹波武士にはあり得ないことである。晴通はあまねを庇ってくれるが、その兄の統率力に人々は不安を抱いているらしい。晴通が長慶を散々いびってきたことは周知の事実だし、波多野は六郎残党が最も頼りにしている勢力のひとつである。三好の大軍にいつ丹波が攻め込まれてもおかしくはない。

(もう……)

この写経を終えたら、行動に移そう。何日間も吸い続けた霧が、とうとう迷いを溶かしてくれた。

名残を惜しむように、もう一度霧を吸う。霧に潜んだ、微かな匂い。

「琴?」

「……よく、分かったな」

霧の中から琴が現れた。琴の身体が発する僅かな匂いすら、嗅ぎ分けられるようになっている。

「話がある」

「ちょうどよかった。あたしもあるの」

「……そうか、お前から言え」

琴はいまでも三好家と連絡を取り合っている節がある。ただ、長慶や千熊丸のことを話題に出すことはしない。あまねの方からも、決して訊ねはしなかった。

「東国に、行こうと思う」

「む」

「ここにいると、嫌でも色んな話が耳に入って来るし……」

「それで」

「三年修行すれば、これまでの縁を切れる尼寺があると聞くから」

東慶寺(神奈川県鎌倉市)か」

「そう。鎌倉まで行けば、あたしのことなんて誰も知らないだろうし」

何がおかしいのか、琴が含み笑いを見せた。

「それはいい考えだ」

「……ありがとう。もう、明日には発とうと思うの。ね、お願い。力を、貸して」

「いいのか、兄は」

「手紙を書くわ」

晴通が賛成することはない。晴通が、妹の課題と家の課題とで押し潰されそうになっていることも知っている。自分がいなくなれば、少なくとも悩みはひとつ減る。

「よかろう。案内仕る」

「琴がいてくれて、よかった」

「……」

女同士だというのに、心情を細々と語り合ったことはない。だが、あまねは琴に確かな友情を感じている。琴の方も、依頼主である長慶のためというより、あまね自身のために動いてくれているような時があった。

「それで、琴の話は?」

「もういい。解決した」

「ふうん……?」

 

  *

 

勝瑞館の大広間いっぱいに並べられた布を見て、持隆たち一同からざわめきの声が上がった。

「これを阿波で染めたのか」

持隆が目を見張る。いずれも藍染された布地で、淡いものから濃いものまで、何十種類もの青が敷き詰められている。その染まり具合のよさ、色彩の品のよさは京からの下りものと比べても遜色ない。

「もともと、阿波藍にはこれだけの力があったのですよ。足りなかったのは染物師の腕前だけで、四郎兵衛がそれを補ってくれました」

之虎が胸を張る。当の四郎兵衛は恐縮してしまって、平伏した頭を上げようともしない。

昨年、京から名高い染物屋、青屋四郎兵衛を呼び寄せた。口説き落とすのは苦労したが、いざ阿波に来てみれば、四郎兵衛は阿波藍の品質のよさに惚れ込んでしまったのである。

「“すくも”とやらを、阿波でもこしらえられるようになったのですか」

長房が興味ありげに聞いてきた。

「そうさ。苦労したんだぜ、京とは気候が違うだろう? 同じように寝かせても上手くいかないんだよな」

「これを増産できれば……どれだけの収益が上がることやら……」

之虎にあまり好意的でない久米義広すら、この宝の山には目が眩んでいるようだ。

「ううむ、見事。実に見事じゃ。これほど晴れやかな気持ちになったのは、それこそ舎利寺の戦い以来よ」

「楽しみにしておいてください。そのうち、阿波は“青の国”だなんて呼ばれるでしょうよ」

「カカカ、なんともわくわくさせてくれる」

持隆が朗らかな笑い声を上げる。その屈託のなさに、之虎は救われたような思いをしていた。

相変わらず、持隆の周辺には不安の種が多い。

小少将は座敷牢に軟禁していたが、いつの間にやら牢番を誑かしていて、行方を晦ましてしまっていた。いまも四国のどこかに潜伏している可能性が高く、之虎は発見次第斬り捨ててよいと布令を出している。

持隆と縁の深い大内家では、当主の義隆と有力家臣の陶晴賢との対立が激化しており、いつ内乱が起きても不思議ではなかった。西国の筆頭勢力である大内家が割れることがあれば、その影響の大きさは長慶の京都制圧にも引けを取らない。いまも康長が防長に潜入して、情報を集めていた。

流れ公方の足利義冬は、相変わらず京への進出を企んでいる。長慶が相手にしてくれないものだから、最近は人のよい冬康や長房に絡んでいるようだ。勝手に畿内へ行きかねないから、目を離している訳にもいかない。義輝と戦っているからといって、義冬が畿内に現れれば話がややこしくなってしまう。義冬を頼りにするということは、結局“足利”の価値を高めることになるのだ。

「これで銭に困ることはない。幾らでも畿内に出兵できますな!」

家臣の一人がそう声を上げ、義広の表情が曇った。彼は、阿波守護代に過ぎない長慶が京を支配し、主家である持隆の風上に立っているようであることに不満を抱いている。六郎が義輝と共に京を追われ、氏綱が廃人のようになってお飾りを務めているいま、細川一族の重鎮である持隆の立場には微妙なものが生じ始めていた。

「……我々は持隆様のお指図通りに働くだけです」

之虎が場の空気をとりなす。

長慶の躍進は持隆が自分で後押ししたことである。おそらく、持隆は兄の活躍を嬉しく思っているはずだ。しかし、代々阿波守護家に仕えてきた者たちは必ずしもそうではない。舎利寺までは長慶を後援してきた者も、実際に長慶が天下を支配すると、少なくない反感を抱き始めたようだ。

之虎自身、江口の戦いに自分を呼んでくれなかった時は兄を恨んだ。江口城や京の宗三屋敷に乗り込み、宗三が収集した茶器を真っ先に分捕るつもりだったのである。それが叶わなかったばかりでなく、あの久秀という弟の七光り野郎が、宗三に茶釜を託されたというではないか。宗三の最期と相まって平蜘蛛釜の逸話はあちこちで話題になっており、いまでは堺の茶人からも垂涎の的だという。久秀も茶の湯を学び始めたらしいが、何を今更。

(宗三亡きいま、俺こそが数寄武将の代表だろう)

之虎はそう思っている。だからこそ、もっと銭を稼ぎ、もっと名物を集めねばならない。

その鍵を握る四郎兵衛は、長房たちに囲まれて身動きできないようだ。よい流れである。四郎兵衛への援助が増えれば、それだけ多くのすくもをつくることができる。

退出の挨拶を述べ、之虎は新たに染め上げた薄花桜の羽織を纏った。その凛々しい立ち姿に、持隆が見惚れている。いつだって三好兄弟を支えてきてくれた、あの優しい眼差しである。

いま、阿波は実質的に之虎が治めているようなものだった。そのことに老臣たちは苦い顔をしているが、若い衆は之虎が主家を剋することを期待しているのかもしれない。江口の戦いは、あらゆる若者に野心と、変革への期待とを抱かせてしまった。

(兄上が成し遂げた下剋上。――俺の、俺だけの下剋上

そこまで考えて、之虎は首を振った。それは之虎のやりたいことではないし、格好のよいことでもなかった。

 

  *

 

見舞いに来てくれたのは、晴舎だった。

「災難だったな、晴員」

「まったくだ。見ろ、左手がこれ以上上がらん」

肩の高さまでしか上がらない。左の鎖骨に矢じりの破片が残っていて、動きを邪魔しているらしい。

この冬、義晴が精魂を込めて築いた中尾城が陥落した。小競り合いの繰り返しに倦んだ長慶が、遂に二万の兵を繰り出してきたのである。本気を出した三好軍は恐ろしく強かった。三好長逸と松永長頼の二将が怒涛の勢いで攻めかかり、中尾城の防備をやすやすと揉み潰した。それどころか、逃げ落ちる義輝たちを追って、近江にまで侵入してきたのだ。

矢を浴びせようが逆茂木を築こうが、松永長頼という武将は怯む気配がなかった。援軍の六角軍をも蹴散らし、義輝の奉公衆を次々と突き落していった。その際、義輝のところへ飛んできた流れ矢を、晴員が身を挺して庇ったのである。息子の藤英に背負われて逃げ延び、なんとか命は助かった。

「強いな、三好は。長年の実戦で鍛え上げられている」

「四国衆がいないからといって甘く見ていた。十河一存だけではない、三好軍は鬼の巣だ」

「こちらの戦果は、鉄砲で敵の雑兵を撃ち殺したくらいか」

三好軍に対抗して、義輝、六郎、六角家の共同で鉄砲の調達を始めた。国友(滋賀県長浜市)の鍛冶師に研究させたり、豊後の大友義鎮に守護職相続の条件として献上を命じたり。そうやって得た数丁を、中尾城の防衛に投入した。戦には大敗したが、鉄砲は籠城と相性がよいことが分かった。

「わしのことより、問題は上様だ。酷い落ち込み様で、見るに堪えぬ」

「うむ。大御所様を失い、再起をはかった戦での大敗。まだ十五歳の上様にはあまりにも酷というもの」

「上様の輝きを損ねてはならぬ。いち早く、次の手を打たねば」

逃げて逃げて、ようやく辿り着いた堅田滋賀県大津市)の地。冬の堅田は雪が深く、比良八荒が吹きつけてきて、身も心も凍てついてしまいそうだった。この過酷な環境が、義輝の意志を挫いてしまうかもしれない。現に、政所執事の伊勢貞孝などは義輝とはぐれたふりをして、京に舞い戻っている。

「六郎殿が若狭で兵を集めようとしているが」

「あまり当てにはできんだろう。晴舎、ここはもう一段踏み込んだ絵図を描かねば」

「……やるか」

「やろう。汚名など、幾らでもかぶってやる」

我が身を滅ぼしてでも、義晴・義輝二代に亘る大願を叶えたい。

「しかし、長慶と千熊丸の警護は厳しいぞ。三好長逸の目が光っている」

「波多野の妹に接触する話はどうなった」

長慶は遊佐長教の娘と再婚したことになっているが、それが偽装であることは掴んでいる。波多野晴通の妹に未練があるなら、交渉の材料に使えるかもしれない。晴通にそれとなく打診してみたが、妹の利用には気が進まないらしかった。ならばと、晴舎が彼女を直接籠絡することになっていたはずだ。

「おう、そのことよ。……実はな、丹波で彼女の様子を探っていた晦摩衆が消息を絶ったのだ」

「なんだと」

「すまぬ、中尾城のごたごたで報告を後回しにしていた。しかも、同時期に彼女も行方を晦ましている」

「どういうことだ。女一人で、そんなことができる訳なかろう」

「……何者か、晦摩衆の如き者が手助けしているのかもしれぬ」

「馬鹿馬鹿しい」

「楠木家の琴を覚えているか」

「あの長教に利用されていた後南朝の女か」

「やはり生きているかもしれない。それがなぜか波多野の妹の傍近くにいて、彼女を守っている気がするのだ。そう考えた方が、色々とつじつまが合う」

晴舎が次々と根拠を挙げた。琴の死体が遂に見つからなかったこと。紀伊後南朝の残党を拷問し、琴の弟が備前にいることを掴んだが、その弟も既に姿を消していたこと。江口の戦いのさなか、丹波を進発間近だった六角軍の兵糧が焼かれたこと。そして、その不審火の周りでは蝶が舞っていたということ。

「ううむ……。長慶が、その手の者を使う印象はなかったがな」

「わしもそう思う。長慶の近辺で感じた影の気配は、この一件だけだ」

「……いずれにせよ、推測の域は出るまい。引き続き、彼女の行方は探ってくれ。それよりもだ」

「ああ。次の手の、更に次だな」

奇手は陽動に過ぎない。公方が描く策略の本命は、長慶包囲網の結成である。

派手な動きで時間を稼いでいる間に、緻密な分析と交渉を進める必要があった。粒々とした進め方を部屋に籠りきりで練り上げていく。

 

十日後。二人は肩を並べて、義輝の決裁を仰ぎに向かった。

 

  *

 

「どうだ、少しは分かったのか。狂うなら一人で狂え。世間を巻き込むな」

必死で涙を堪えていた。鼻水も垂れてきたが、なんとか吸い上げて誤魔化している。

「聞いているのか! この痴れ者が!」

大林宗套老師が、自分に会いたがっているという話を与四郎から聞いた。ちょうど京を訪れる用向きがあったから、与四郎を誘って大徳寺を訪れたのである。

仏殿の中で、長慶と老師は向かい合った。それから、なぜか長慶はずっと面罵を受けている。

「そう。御身は自惚れている。自分だけがこの世をどうこうできると思っている。慮外極まりない!」

その声は、天の天、過去の過去から届いてくるようだった。大いなる者の存在を感じた。脳髄が痺れ、腹の底が揺らぐ。思えば、これほどに人から怒鳴られた経験はなかった。元長もつるぎも、そしてあまねも、それぞれが激しい面を持ってはいたが、家族の情が介在していた。

長慶、二十九歳。若者は少しずつ壮者へと変化している。この年で他人から叱られることがこんなにも骨身にしみるとは、ついいままでは知らなかった。

「何を俯いておる。言いたいことがあるなら言わんか。その口を散々使って、多くの者を墓場に導いてきたのだろうが?」

「……いまは独善こそが最善だと、信じております」

両拳を床につけ、老師の目を見据えて言った。やはり、老師の瞳には“いま、ここ”が映っていない。それが何よりも恐ろしい。

「しゃっ……ここまでじゃ。その気になったら、また来るがよい」

一方的にそう言い放って、老師は去った。残された長慶は大きく息を吐いて、汗と鼻水を懐紙で拭う。ふと視線を感じて、天を仰ぎ見た。そこにあったのは、雲間に潜む龍の姿である。

「私を、慰めてくれているのか」

また来いと老師は言った。これだけの屈辱を受けてもなお、その言葉に甘えたいと思った。

 

「何があったんだ」

仏殿の外では与四郎が待ってくれていた。

「ああ。老師が何か仰っていたかい」

「枯木寒巖に倚る、三冬暖気なし……と」

「そうか……。与四郎、少し歩こう。私も気分を鎮めたい」

大徳寺の境内を並んで歩いた。老師に言われたことを一つひとつ声に出す。与四郎のためというより、自分に再度言い聞かせるようだった。話を聞く与四郎の方も、知ったような評論を何も挟まない。

「ますます忙しいとは思うけど、一度、私の茶を飲んでくれないか」

「そう言えば、与四郎の茶席に招かれたことはなかったな」

「自分の手で茶湯座敷もつくってみようと思うんだ。初めての客は、千殿がいい」

「楽しみにしておく」

「ただ、なかなかよい案が思い浮かばないんだよなあ」

今度は与四郎が、商売や茶の湯の愚痴を零した。とと屋ではいねの存在感が増すばかりで、居心地が悪いらしい。茶の湯では今井宗久というすごい男がいて、天王寺屋の若旦那である津田宗及と共に若手では別格の存在なのだそうだ。与四郎は才能豊かな男だと思うが、なかなか芽が出てこない。

「千殿は、なぜ禅寺で松を好むか知っているかい」

確かに、大徳寺の境内は松だらけだった。どの松も黒々と精悍であり、寺内はあくまで静穏である。

「花や紅葉は美し過ぎる。心を千々に乱されてしまうからさ」

「なるほど、禅修行の邪魔になるということか」

「でも、私は茶湯座敷に花を飾りたい。……一輪でいいんだ。一輪なら、心を寄せ合うことができる。私は、そういう茶の湯を目指したいのだ」

「与四郎なら、できるさ」

それ以上、互いの身上には触れなかった。よもやま話に移っていく。

近々、堺に審判教の坊主が現れるらしい。その坊主は布教のために九州へ上陸し、いまは大内義隆のところを訪れている。しかし、審判教は男色を許さないということで不興を買ってしまい、堺に逃れてくるという話だった。

海船政所があれば、元長が生きていれば、どんな応対をしたであろうか。戦の爪痕深き畿内に立って、その異国の男はどのような思いを抱くのだろうか。天下を奪えど、未だ理世安民は成っていない。

 

続く

 

 

二十六 ウツロの段  ――安宅冬康 江口城を陥落せしめ、三好宗三 命を全うし天に還る――

二十六 ウツロの段

 

宗三は、最後の最後で己を曲げた。六郎の家臣でいることよりも、人の父親であることを選んだのだ。

限界状況に入った宗渭と榎並城を見捨てることができなかった。姿を現した宗三が入城した江口城は榎並城の一支城に過ぎない。榎並城が充分の戦力を有していて初めて活きてくる城なのである。防備の点では榎並城に比ぶべくもなく、兵糧の蓄えもほとんどないはずだった。

「そうは言っても、三方を淀川に囲まれている。攻めるには難しい地勢だな」

遊佐長教が呟く。悠長に兵糧攻めをしている時間はない。六角義賢は既に丹波に入っている。長逸と長頼を牽制に向かわせているが、六角と六郎が合流した大軍をいつまで支えきれるかは分からなかった。

「……力ずくで落とします」

「簡単に言ってくれる。犠牲を増やせば、せっかくの人気も傾いてしまうぞ」

「確かに、一箇所しかない城門を攻めては苦戦を免れません。ならば」

怪訝な顔を浮かべる長教を余所に、長慶は笑みを浮かべている。

「どういうことかな、婿殿」

「川を大地に変えてしまえばいい。宗三の尻尾を掴む、この時を待っていたのです」

そこまで話した時、陣幕に冬康が入ってきた。

「慶兄。準備が整いました」

「うむ。やってくれ」

「はい」

それだけを交わして、冬康が去っていく。長教はまるで要領が呑み込めず、不満そうだった。

「いまのは、安宅冬康殿かな」

「ええ、実に頼りになる弟です」

一存のような素人目に分かりやすい戦功はあげていないが、長教のような男には冬康の脅威が充分に分かっているはずだ。舎利寺の戦いの際、熊野水軍による索敵をかわして、四国・淡路衆を安全に上陸させたのが冬康だった。長慶の財務基盤である瀬戸内交易を支えているのも安宅水軍である。野戦では強弓を以て敵陣の勢いを殺す。平時では打てば響く人柄を誰もが慕う。まこと、冬康は三好兄弟の要であった。

「まずは成り行きをご覧くだされ。一見の値打ちはありましょう」

「……」

天神祭までには片を付けるつもりです。そうすれば、民も喜ぶ」

不敵に微笑む長慶を前にして、長教は困惑している様子だった。偽りの婚姻で結ばれたいま、長慶の活躍は長教にとっても望ましいところだ。だが、自分の権勢を守るためには長慶の首に鈴をつけておきたい。そう思って長慶を値踏みしているが、どう見積もっていいか分からない――。

心の動きが透けるようである。人間臭い、あまりにも人間臭い舅であった。

 

水面が揺らぎ、きらりきらりと水飛沫が舞い散る。艪の音、舳先が水面を切る音が重なり合い、驚いた水鳥たちが逃げていく。

淀川を何百艘もの川舟が遡上してきた。夏の日差しを照り返していた水面が木の舟板で埋まっていく様子は、戦というより祭や催しのようだ。安宅水軍が畿内中、四国中から集めてきた川舟は数珠繋ぎになっていて、それが江口城を幾重にも取り囲んでいく。城兵たちも櫓などに登ってこの様子を眺めていたが、防ぐ手立てはない。多少の弓矢が放たれたが、すべて安宅衆の盾に阻まれていた。

やがて、江口城は完全に封鎖された。もはや陸にも川にも安置は一切ない。しかも、川舟の上に板を敷くだけで搦め手を攻める舟橋ができあがるのだ。

「完成です。名付けて“かんどりの陣”」

「ふふ、それはいい。いくら宗三が淀川の主であろうと、我らとて吉野川を遊び場に育ったのだからな」

今日も冬康は平然としている。大仕事を成し遂げた男の顔というより、この壮大な光景を見物に来たかのような風体だった。

「鳴り物衆を舟に乗せては如何ですか。四方から音を鳴らされれば、城兵はさぞ苦しいことでしょう」

「意地が悪いことをよく思いつく」

「この戦は天下の趨勢を決める祭です。祭ならば、賑やかな方がいい」

ふざける子どものように、二人して笑った。

風が出てきた。雲が西から東に流れていく。

今頃、長教は川の景色が一変したことに驚いているだろう。宗三はどうだろうか。見つめるは川か、雲か。城兵を鼓舞しているかもしれない。秘蔵の茶器を眺めて、心を落ち着かせているかもしれない。

「宗三が降伏してくることが、あると思うか」

「……ないでしょう」

「惜しい、と思ってはならぬのだろうな」

「長教や氏綱すら従えた慶兄です。むしろ、らしい」

「お前は優しいな、冬康」

三日、待ってみよう。甘いと言われても仕方がない。ここでわだかまりを乗り越えられれば、人の歩みが五十年は早まる気がする。そんなどうしようもない空想に、自分が憑りつかれているのが分かった。

 

  *

 

ようやく出陣にこぎつけたものの、兵の士気はすこぶる低い。

新庄直昌隊の壊滅が後を引いているのは明らかだった。六角家としては公方と細川家に義理が立てばいい訳で、有能な家臣を失うような賭けをする意味はない。三好長慶を討ったとしても、彼の領地は摂津や四国であり、近江からは飛び地である。深入りしてもつまらない戦だから、ほどほどで引き揚げてこい。

義賢は定頼からそう説かれていたし、兵たちも同じ思いらしい。もともと参戦を唱えていたのは義賢一人だった。家臣も雑兵も大名として崇めているのは定頼の方であり、義賢の主戦論はずっと無視されていた。定頼がようやく首を縦に振ったのも、義輝公や六郎から度重なる要請を受けたからだ。京の権勢をあまりに無視しては、それはそれで面倒事が増えるのである。

父の定頼は偉大な男だった。偉大過ぎることが、義賢の悩みであった。

祖父、高頼の代に悪化した公方との関係を修復。畿内の支配者である細川六郎と縁組。近頃では台頭著しい浅井家を従属させた。土岐氏を追い出した斎藤家には圧力をかけ続け、美濃はいまも国内が纏まっていない。自領においては観音寺城滋賀県近江八幡市)の拡張を進め、寺院建築の技術である石垣を取り入れるなど“魅せる城”づくりを推進。商業振興策として“楽市令”を発し、法華の乱などで京から逃れてきた町衆を統制下に置いた。

父の成した事業はどれを取っても栄光に彩られている。近江の国人衆や民にとって、父は自慢の君主なのだ。その定頼と意見が合った試しのない義賢は、いつも誰からも侮られていた。口惜しいあまり、弓の腕だけは徹底的に鍛えた。幸い、才には恵まれていたらしい。日置流の弓術では随一の使い手になれた。これで、戦では父を超えることができると思った。

だが、現実は違っていた。父の采配にはよく従った兵たちが、義賢の指揮下では動きに精彩を欠いた。周辺国人とのささやかな戦でも、義賢はなかなか戦果をあげられなかった。大将の武勇が優れていようが、兵の心を掴んでいなければ戦には勝てないのだと、何度目かの敗北でようやく気づいた。

いつしか、義賢は人を見る時、その父と比較する癖がついていた。

足利義輝は、義晴の思いをよく受け継いでいる。才気も盛んで、義晴はいつも頼もしげに息子を眺めていた。それは、義賢の知らない父子関係だった。

六郎には親近感を覚えた。彼の父親がどういう人物かは知らないが、以前の細川家当主、高国からは明らかに器量が劣ると評判だったのである。

いま、世話になっている波多野晴通とも仲良くできそうだった。彼の父、稙通は丹波国において、まさに定頼と似たような活躍をしてきたらしい。跡を継いだ彼は、どう見ても国人衆の統御に苦労していた。

そして三好長慶。彼の父も有名な男である。義賢が子どもの頃、義晴や高国が近江に落ち延びてきたことがあった。あれは長慶の父、三好元長が首謀したことだという。その頃は元長、宗三、稙通などが一緒に戦っており、畿内では彼らに敵う者がいなかった。高国は定頼や朝倉宗滴を招いて対抗しようとしたが、あまりよい結果には至らなかったようだ。

長慶は、その父をも超える大器だという。更に、公方の奉公衆や六郎が言うには、家格や血統による秩序を否定し、才覚さえあればどんな人物でも重用するような男だという。松永長頼という武将も、もとは色町の用心棒だったという噂だ。いまも、長慶の腹心である三好長逸と共に摂津との国境に陣を構え、六角軍を足止めしようとしている。それぞれが長慶軍を代表する名将だから、家臣たちはますます進軍を嫌がるようになっていた。

家格による統制がなくなってしまえば、血統による跡目相続が認められなくなれば、義賢のような男は近江で生きられなくなるだろう。長慶のやっていることはあまりにも危険だった。大名だろうが国人だろうが、才覚に乏しい者はどこにでもいる。それでも、家柄や正嫡という建前があるから世が治まっているのだ。

(才覚など、二代も三代も続くことはない。わし自身がそうだもの)

人は、理屈抜きに下剋上を拒絶する。戦や揉め事など、本当は誰も望んでいない。貴種が悲惨な目に遭えば、よく分からずとも涙を流す。建前の秩序でも、人々が望んでできあがった仕組みなのである。

(何が理世安民じゃ。あの男は、本音のところで弱者に冷たいに違いない)

義賢は、真剣に長慶を討伐するつもりだった。あのような人間を放置しておけば、国人や民に悪影響を与える。“我も、我も”という者が現れてしまう。定頼がそうした危機感を抱かないのは、定頼自身が有能だからだ。

「準備はできたか! 進発じゃ!」

八上城の大曲輪で義賢が吠える。兵たちも嫌々ながら腰を上げ始めた。江口城へは、急げば二日の距離である。六角軍が摂津に侵入すれば、長慶に従っている摂津国人も掌を返し始めるはずだ。

「兵糧は積んだか。山道じゃ、荷駄の扱いには気をつけろよ!」

長慶の陣を突破し、江口城へ搬入する必要がある。兵たちが荷駄を指し示した。兵糧は厳重に管理され、人馬も充分な頭数が用意されているようだ。晴通からも手厚い提供があったと聞く。

「よし、よし。――ん?」

兵糧の周りに、蝶が舞っていた。一匹、二匹、三匹。数が次々と増えていく。

「あの蝶、何か変ではないか」

「は……、確かに、どこか……」

供回りがそう答えた途端、蝶の群れが飛来してきた。

「おい! その蝶を追い払え!」

義賢の怒鳴り声で、荷駄隊の者たちもようやく異変に気がついたらしい。棒を振り回して追い散らそうとした時、蝶が光に包まれた。光の塊が宙を泳ぎ、やがて赤みを帯びて火の玉に変容する。

「あっ……?」

蝶の群れは、たちまち渦巻く火焔に変わった。兵糧が、陣地の建材が、瞬く間に焼かれていく。

消火を指示することも忘れて、義賢は呆然と火柱を見上げていた。駆けつけた晴通が何か叫んでいる。今更何を言おうが、進発が遅れることは間違いなかった。

 

  *

 

放っておいたら、長慶自身が江口城に入っていきかねなかった。この期に及んで宗三の助命など、敵も味方も納得するはずがない。甘いとか慈悲とかとは違う。やはり長慶は、どこかがおかしいのだ。

白旗を掲げた久秀は、意外にもすんなりと城中へ通された。それどころか急ごしらえらしい粗末な草庵に案内され、敵将、宗三と相対する機会を与えらている。

宗三を待っている間、久秀は気が気でなかった。追いつめられた敵兵がいまにも闖入してきて、久秀を膾にするのではないか。手を上げるのではなかったと、畳の上で小さくなって震えていたのである。ところが、宗三その人は悠々と小屋に入ってきた。

「お、お目見えが叶って光栄だす。わいは、三好長慶が家臣……」

「ああ、よいよい。用向きだけを話してくれればよいのだ」

口上を遮られたものの、冷たい印象ではなかった。直接話すのは初めてだが、宗三とはこれほどに超然とした男だったのか。それとも、これは死を間近にした者が纏う静けさか。

「へ。ほんなら、単刀直入に申し上げますわ。宗三はん、うちの殿さんに降りなはれ」

「そんな話を、わしが受けると思うか」

「……思わへん」

宗三がおかしそうに顔を歪めた。

使者にしては素直過ぎる。それなら、なぜ貴公はここに来たのだ」

「……殿がそう望んでるからや。主のやりたいようにさせたるんが、家来の矜持ちゅうもんやろ」

「ほう、なかなか言うではないか」

話しながら、草庵の片隅で宗三は炭を用意し始めた。よく見れば、茶釜や水指なども並べられている。どうやらこの貧乏臭い小屋は、茶湯座敷を兼ねているようだ。

茶の湯は知っているか」

思いがけない歓待だった。宗三の腹の内はまるで読めないが、こうなれば己の度胸だけが頼りだ。

「あんなまどろっこしいもん、ようやるかいな」

「……それでよく、長慶の配下が務まるものだ」

「あん?」

連歌茶の湯畿内で政務を執り行うには、欠かせぬ素養だ」

「……ちっ」

「もう用件は済んだのだろう。まあ一服、飲んでいけ」

久秀にも分かるくらい、宗三の所作は清廉だった。茶を、水を、火を、器を、心底から敬っていることが伝わってくる。久秀が交渉に入っているため、いまは鳴り物衆の音もない。草庵は静寂そのものであった。

「あんたは、なんで六郎なんぞに仕えとるんや。もっと器用な生き方もあったんとちゃうんか」

思わず、久秀の方から話しかけていた。敵の大将なのに、奇妙な親しみやすさがあった。

「そちらも似たようなものだろう。長慶を主にすれば、後ろをついていくだけでひと苦労のはずだ」

「わ、わいのことはええわい。あんた、このままやったら間違いなく死ぬんやで。それでええんか。満足なんか」

「――貴公も、その程度なのだな」

「なんやて」

「生と死。勝ちと負け。富貴と貧苦。出世と零落。ふたつの狭間で揺れる者に、真の満足などありはしない。虚ろな対立から抜け出ることが、命を全うするということなのだ」

「……ぜんっぜん分からん」

「ならば、長慶の輪郭に触れることなどできまい。あの男は幼少の頃から命を燃やし続けている」

ぐうの音も出せない。まるで、宗三の方が長慶の深奥を理解しているようではないか。

「あんたが殿を語るんが、なんか、やったら腹立つわ」

「くく、ははは。いいな、貴公は」

宗三の笑い声に合わせて、異常に平べったい茶釜から湯気が上がり始めた。沸き立つ泡音までが久秀を笑っているように聞こえる。

「この茶釜をどう思う」

「不っ細工な形やな。使いづらそうや」

「そう思うだろう。見ておれ」

柄杓を構え、宗三が釜の湯を使い始めた。茶碗を温めた後、端然とした手並みで茶を練っていく。その一連の動作が実に決まっている。何もかもが決まってい過ぎて、本来ならば息苦しい場になりそうなものだ。それを、平たい釜の存在感が絶妙に崩している。釜があるから、粛と和が手を繋いでいられる。

「さ」

濃茶を出された。作法を知らぬなりに座礼し、茶碗を手に取る。濃厚な茶の匂いがむせ返るようだ。

「教えてやろう。一息で飲み干すのが吉とされている」

言われた通りに口をつけ、勢いよく啜り込む。味。香気、強い。いや、苦みが刺さる。どろどろした液体を無理やり喉に流し込んだが――、それを一気に噴き出した。茶と鼻水が混ざったものが顔面を汚す。

「はあっはっは! まこと、無教養は身を滅ぼすものよ」

「おうげ、げほ、げは。な、なんやこれ! まっず! にっが!」

「くくく……。之布岐の生薬を混ぜておいた。これが江口城の馳走だと、長慶に伝えておけ」

「うげ、あげ……。お、おんどれ」

「喜んでいいのだぞ。無理にうまいとでも言おうものなら、この場で斬っていた」

背筋がざわついた。もはやこれまでのようである。

負け惜しみをするように堂々と立ち上がった。

「おい、待て」

引き止められた。振り返って見れば、宗三が釜の湯を捨てている。

「褒美だ。この釜をくれてやる」

「……いらんわい。けったくそ悪い」

「銘もつけてやろう。“平蜘蛛釜”というのはどうだ」

心の臓が止まる心地がした。この場で聞くはずのない言葉ではないか。

「あんた、わいのことを」

「持って行け」

草庵から出てみれば、周囲は兵に囲まれていた。総勢で千五百名程度に過ぎないが、どう見ても精鋭揃いである。簡単に飲み込める奴らではない。

(ありのまま、伝えるしかしゃあない)

緊張と苦茶とで頭が痺れ、よろめきながら本陣へ向かう。だが、どういう訳か嫌な気分ではなかった。

 

  *

 

冬康と一存は、松永久秀の報告を一緒に聞いていた。

最後まで聞き終わった長慶の表情からは、何の感情も読み取れない。一言“ご苦労だった”と発して、久秀を下がらせていた。

「冬康、一存。総掛かりに移ろう」

声だけは僅かな熱を帯びている。

「はっ」

「いままでが終わり、これからが始まる。卵の孵る音、響かせて参れ」

「承知しました」

それだけを答えて、冬康は陣幕から退出した。慌てて一存が追いかけてくる。

「なんだあの腑抜けは。茶を飲んで帰ってきただと、わしならその場で宗三の首をへし折っているわ」

一存は、久秀が武功もないのに重用されているのを快く思っていない。

「慶兄が聞きたいことを引き出してきた。板塀の脆そうな箇所も、しっかりと見てきてくれたではないか」

「冬兄も気をつけろよ。ああいう男は偉くなったら、決まって現場の足を引っ張るんだ」

「ははは、世間ずれしたことを言うようになったではないか」

一存の機嫌が悪いなら悪いでよかった。その分、敵の兵が多く死ぬだけだ。それよりも、自分は長慶の輪郭に触れることができているのか、やけに気になった。

 

久秀がもたらした情報を踏まえ、江口城の背面に向かって舟橋を架けた。盾を抱えた兵たちがまず城に取りつき、敵の攻撃を防ぐ。文字通りの橋頭保だ。そこに、冬康自ら指揮する一隊が入った。連れてきたのは、今日のために用意した特別の部隊である。

鳴り物衆はいまだ音を鳴らしていない。風もない。雨もない。聞こえるのは敵兵の叫び声くらいである。

「点火」

その一声で、七人の兵士が一斉に準備を始めた。充分な訓練を積んでいる。威力も試している。

「響け、遥か彼方へ――」

知らせよう、三好長慶の時代が始まるのだと。

「放て!」

爆音が轟き、眼前の板塀が砕け散った。

成功だ。残骸の向こうには、巻き添えを喰らった死体も、腰が抜けた敵兵の姿も見える。

逸る動悸を抑え、冬康は次弾の装填を命じた。

 

  *

 

いかずちの音。城の裏手、淡路衆が攻め寄せてきた方角。

(敵陣に落ちたか)

愚かな想像が頭をよぎった。そんなはずはない、あれは火薬の音だ。櫓に登って様子を伺おうとした時、もう一度雷が鳴った。板塀が破壊され、兵が二人倒されている。兵たちの恐怖が手に取るように分かった。槍や弓矢で死ぬ覚悟はできても、知らない死に方には耐えられない。兵士とはそういうものなのだ。

敵陣の先頭、盾に守られている部隊がいる。煙に包まれながら、得意げな顔で喜んでいる。彼らが手にしている、あの得物は。

「鉄砲。それも、七丁だと」

堺衆や根来衆が試作を始めたのは聞いている。南蛮筒のような品質は得られておらず、匁の大きい弾を短い距離にしか飛ばせないことも知っている。

そんな国産鉄砲でも数を集めて一斉に放てば、板塀程度は木っ端微塵にできるということか。弓矢の代わりではなく、攻城器具として鉄砲を。

「鬼十河が踊り込んでくるぞ!」

「出合え出会え! ここで食い止めるのだ!」

怒号が飛び交う。搦め手から攻め寄せてくる敵兵はそう多くないが、守備を突破され、城門を開かれてしまえばおしまいだ。さて、どこまで持ち堪えることができるか……。

 

宗三子飼いの配下には防戦に長けた者が多い。敵兵がこの曲輪に侵入してくるには、未だ少しの猶予はありそうだった。

「これまでの皆の労苦に感謝する。……よくぞここまで仕え抜いてくれた。今日、この冴えわたる青空の下、武運拙くわしは死ぬ。悔いはない。恐れもない。やり切った。わしは生き切ることができた」

これまで共に戦ってきた供回りたちに別れを告げる。

「貴公らに生きろとは言わぬ。死ねとも言わぬ。命の使い道、己で決めたがよい」

これだけで充分だった。今更長い言葉は要らない。視線、手振りだけで通じ合う仲間たちなのだ。

「……」

しばらく、口を開く者はいなかった。彼ら全員が号泣していた。身体が涙するのに任せていた。

「そうです、我らはやり切りました」

「宗渭様はご無事。細川家も六角軍も健在」

「あの長慶を振り回し、きりきり舞いさせてやったのは痛快でございました」

やがて、口々に互いの働きを褒め合い始めた。皆がびしょ濡れの笑顔で、白い歯が日に煌めいた。

「宗三様。本音を言えば、生き残りたい。まだまだ生きていとうございます」

「……そうか。ならば、門を開けよ。長慶は貴公らの命までは奪わないだろう」

「はっはっは。鏡が曇りましたか。一同。あなた様と一緒に生きていたいと言っているのです」

皆が寄ってきた。宗三を取り囲み、一人ひとりが身体に触れようとしてくる。

「血路を開きましょう。一丸となって突き進み、あの川舟を乗り越えれば」

「そうです。城を川舟で囲っている分、敵が追っ手の舟を出すのは遅れるはず」

「鬼十河とて、一息で十人を倒すことはできませぬ。殿役は自分が務めましょうず」

墓に入りかけていた自分の背中を、皆の手が支えてくれた。死に美も醜もない。その時が訪れるまで、一緒に前へ進んでいく。

宗三の瞳から、一滴だけ涙が落ちた。

「行くか」

宗三の呼びかけに、声の揃った返事が木霊する。

「応!」

 

「お、お待ちくだされ! しばし、宗三様、宗三様!」

そこに、大鍋を抱えた料理人が駆け寄ってきた。なんとも微妙な間に登場したものである。

「まだおったのか。兵でなければ、逃げるのは容易なものを」

「味の分かる主から離れてなるものですか。と、それより! これをお召し上がりくだされ」

鍋の中には切干大根と、なんと干し椎茸の千切りが煮しめられていた。

「椎茸」

こんな貴重品を、どこに隠していたのか。覚悟を決めたはずの供回り衆ですら、騒然となった。

「昨夜、そろそろかな……などと仰っていたじゃありませんか。特別な日には、特別な馳走を用意いたします。それが料理人の務めなのです。さ、時間がありません。皆様ひと口ずつ」

宗三が鍋に箸を伸ばし、他の者は素手で煮しめを掴んだ。

「う……」

「うまい!」

「し、椎茸を初めて食べた。もう悔いはない……」

皆の喜びようは大変なものだった。無理もない、江口城に入ってからはろくなものを食べていなかったのだ。宗三も日に一度の粥しか口にしていなかった。そこに甘露の如き椎茸と、その出汁をたっぷりと吸い上げた優しい舌触りの切干大根である。いや、空腹でなかったとしても、この味は……。

「塩梅を極めたな。褒めて遣わす」

「あ、あ、ありがたき幸せに」

今度は料理人が泣きだした。こんな日だというのに、思いの外な楽しいことがあるものだ。

「よし、これで力も奮えよう。今度こそ行くか、皆の者よ!」

先ほど以上の、波濤のような鬨が湧き起こった。

 

守備兵が蹴散らされた不意を突き、破られた板塀の箇所から駆け去ろうとした。

宗三の手勢はおおよそ百名。たちまち淡路衆から弓矢が放たれ、十名が倒れた。一人は正確に眉間を撃ち抜かれている。更に、城中に深入りしていた十河一存が引き返してくるのが見えた。速い。間合いが縮んでいく。あの元長に似た顔の鬼は、足まで速いのか。

「ぎゅ」

小さい呻き声を出して、また一人死んだ。その胸板を大槍が貫いている。一存が投げたらしい。それが分かった時にはもう一存がそこにいて、自分が投げた槍を誰よりも早く手に取った。次の瞬間には三人が殺されている。

「そううさんんん! 父の、仇!」

まさしく、鬼。膝が震えた。供回りが宗三を庇い、次々と一存に立ち向かう。それが、羽虫のように始末されていく。気づけば、半数近くが討ち取られている。

よく見れば、宗三も既に浅手を多数負っていた。淡い痛み、濃厚な血の匂い。その中を、部下の死を悼みながら走り抜ける。抜けた。刀を振り回して舟橋に飛び乗り、淀川に飛び込む。水練には自信がある。具足を着ていても、向こう岸に泳ぎ着くのは容易い。予想通り、敵の追っ手は出遅れていた。

まだ、周囲には三十名。逃げ延びられるのか。生きて、六郎に仕え、家族を抱きしめられるのか。これは我執ではない、使命なのだと確信する。葦。川岸。泥を踏んだ。そこに、矢の雨が降り注いだ。

「伏兵」

旗印、六瓜の紋。遊佐長教。読まれていた。読んだのは長教か、それとも。

「……かかって参れ」

味方、十数名。敵、ほんの五百名。切り結んだ。濡れた刃紋に緋色が混じる。肩、斬られた。浅い。刀は振れる。斬った、もう一人。

「次!」

吠えた。ここに定まった。出し切ってやる。死に切ってやるとも。新手、こちらから仕掛けた。疲れが出たか、凌がれた。反撃、刀を合わせてかわす。そのまま数回、斬り合った。斬り合っているところで、背後から槍で突かれた。腹から、槍の穂先が飛び出している。映った自分の顔と目が合った。

(いま、ここで)

槍に構わず、正面の敵に刀を振り上げた。槍に気を取られていた相手は反応が遅れる。頭上。届いた。刀が兜に触れる。割れる、そう思った。しかし、折れたのはこちらの刀だった。

「左文字……ならば……」

悔いたのではない。自分の迂闊さを愉しんだのだ。仰向けに見上げた淀川を、燕が通り抜けていった。

 

  *

 

江口城の兵、千五百名。そのほとんどが死に絶えていた。

向こう傷を負った死体ばかりである。冬康の奇計がなければ、こちらの被害も大きかっただろう。群がる蠅を横目に、乾いた血の跡を踏みしめて歩く。冥府の主になったかのような心地がした。

城の奥では首実検の準備が進められている。宗三の首を前に、長教が自慢げに手柄を吹聴していた。淀川利権の分け前にあずかりたい、長慶の政権でいい顔をしたい、そう言っているのと同じである。冬康や一存は目を合わせようともしない。

宗三は活き活きと死んでいった。戦には勝ったが、超えることは遂にできなかったという思いが強い。

「命の、全う」

そう口にしたという。なぞるように、呟いていた。

「浮かぬ顔をしているな」

康長に声をかけられた。

「宿命の架刑から、またひとつ解き放たれたというのに」

「極星を見失いました。むき出しの虚空に呑み込まれてしまいそうです」

「……泰山の頂は孤独なものだ。もう、降りられないところまで来てしまっている」

「手を伸ばせば崖から落ちる。動かないでいれば身体が冷える。ふふ、難儀な、……本当に難儀な」

せめて、あまねが横にいてくれれば。口には出せない思いが、胸の底を穿っていくようであった。

 

続く

 

 

二十五 藤葛の段  ――三好長慶 細川政権打倒の兵を挙げ、芥川孫十郎 六角先遣隊を粉砕す――

二十五 藤葛の段

 

長慶が軍を動かし始めた。摂津の周辺国人に威を示しながら兵力を糾合し、宗三・宗渭父子を討とうとしている。

その動きはすぐさま四国にも伝わった。持隆と之虎が治める阿波は落ち着いていたが、讃岐はそうではない。もともと香川家や寒川家が、十河家への反感を強めていた。香川家は伊予の河野氏に一層接近している様子だし、寒川元政に至っては遂に打倒十河の兵を挙げたのである。

一存も元政も、話し合いで事を治めるという発想はなかった。讃岐男は気性がよいと言われているが、大事なことは戦って決める気概も持っている。密室の議論よりも、男気と男気をぶつけ合う肉弾戦を信用しているのだ。だから、戦が終われば、恨みを残さないことが美徳とされている。敗者は勝者に従うし、勝者が敗者に厳しく当たることもない。

元政率いる千五百の敵兵に対して、一存は阿波や淡路へ援軍を求めることはしなかった。それどころか、自分もまったく同数の兵を組織し、先んじて寒川氏の所領(香川県さぬき市)へ攻め入った。この地は昔から古墳跡や大きな池が多く、展望がよい。一存は一際目立つ丘の上に堂々と陣を敷いた。元政も意気に応え、城から打って出てくる。

同行してきた康長が一存に問う。

「作戦は」

「ない! 正面突破のみ!」

「ははは、そう言うと思っていたわ」

敵の結集を待ってから、一存と白雲が駆けだした。康長たちも遅れじと後に続く。

「突貫!」

十河軍の強烈な突進に、敵陣が割れた。陣を突き破ってから反転、再び陣を切り裂く。それを何度も繰り返した。寒川の兵も粘り強く、逃げ散るようなことはない。それでも、勢いははっきりと差がついてきた。やがて乱戦になった。一存は馬上で飛鳥を振り回し、敵を寄せ付けない。勇気を奮って襲いかかってきた敵兵は、ひと呼吸も持たずに絶命していった。その間も康長たちが敵を次々と追い詰めていく。もはや趨勢は見えた。

「一存殿! 一存殿はいずこ!」

誰かに名を呼ばれた。あの声は。

「一騎打ちを所望いたす!」

寒川家に仕える兄のもとに戻った、鴨部源次だ。いた。なかなか崩れない固まりの中心に源次がいる。康長たちの攻撃に耐えながら、懸命に一存を探していたらしい。

「応!」

地割れのような大音声で返事し、白雲をゆっくりと進める。味方も敵も、動きが止まった。一存と源次の一騎打ち。皆、見守ろうという腹である。自然、二人を残して円い空間が出来上がった。下馬して、一存が言った。

「兄はどこだ。もう死んだのか」

「待て、待て! ここにいるぞ!」

後方から駆け寄ってくる者がいた。

「神内左衛門にござる!」

いい面構え。源次と同等以上だろう。飛鳥を握る手に脈動を感じた。

「上々だ。二人で掛かってこい」

「か、感謝いたす!」

弟の源次。

「恐悦至極」

兄の神内左衛門。

(いいものだな、兄弟とは)

束の間、そう思った。交わした会話はそれだけだった。

左右から兄弟が突っ込んできた。飛鳥の一振りで二本の槍を弾く。兄弟は挫けない。何度も、何度も向かってくる。ときには前後から、ときには連続で。がりん、がりんと槍が組み合う音が続いた。二人の波状攻撃を、一存はすべて見切っていた。

「はあ!」

飛鳥、烈火の如き一閃。神内左衛門は皮一枚のところで身をかわしたが、源次は反応が遅れ、胸の肉が千切れ飛んだ。水芸のように血が吹き上がり、ゆっくりと身体が崩れ落ちる。そこからの神内左衛門が見事だった。死にゆく源次に一存が一瞬目をやったところに、躊躇なく飛びかかってきたのである。今度は一存の反応が遅れた。熱。身体の中から溢れたのか。遅れて、痛み。左腕を神内左衛門の槍が貫いていた。

確かな手応えに、神内左衛門の瞳が燃えている。一存の手から飛鳥が落ちた。

(――よい敵)

一存は豪快に高笑いを始めた。右手で神内左衛門の槍を掴む。抵抗をどうともせずに槍を引き抜いた。そのまま体当たり気味に蹴りを喰らわせる。堪らずに神内左衛門が槍から手を離した。その喉笛を狙い、槍を突き刺す。血泡。神内左衛門の身体から力が抜けた。その身体を右手一本で持ち上げ、源次の上に放り投げる。折り重なった兄弟の周りに赤い水たまりが広がっていく。

敵も味方も、一言もない。足を動かすことすらできない様子だった。

「おい」

一存が味方に向かって声をかけた。

「白雲の背から、革袋を取ってこい」

腰が抜けかけた従者が、言われた通りに持ってきた。革袋の中には塩が入っている。掌いっぱいに取って、無造作に傷口に擦り付けた。思いの外痛かったが、顔には出さない。むしろ、笑い声が漏れた。それから腰に巻いていた藤葛で、きつく傷を縛った。

「――よし」

落とした飛鳥を拾って、両手で構える。

「むうん!」

旋風が起きた。いつもと何も変わらない。いまだに固まっている敵兵に向かって吠えた。

「次、三途の川に沈みたい奴! 前へ出ろお!」

しばらく待ったが、鴨部兄弟ほどの勇者はいないらしい。誰もが、いまが戦場であることすら忘れている。

やがて、寒川元政から降伏の申し出が届いた。

 

  *

 

摂津国人の多くが味方に付いた上に、河内からは遊佐長教が参陣している。宗三の味方は摂津では伊丹親興くらい、その他は和泉で小勢が抵抗しているくらいだった。頼みの六角家は浅井や斎藤の動きが気になるのか、未だ南下の気配はない。丹波の波多野晴通も、内藤氏らの反六郎派を封じ込めるので精一杯の様子だった。

しかし、肝心の宗三・宗渭父子が手強かった。宗渭の籠る榎並城は、宗三が長年の時をかけて築き上げた名城である。淀川水系の複雑な流れを幾重の堀としており、まず、攻め入る口が限定されてしまう。その上、複雑に土塁や出丸が張り巡らされていて、力攻めを行ってもこちらの被害が増える一方だった。城中には井戸が引いてあるし、兵糧も万全に備えてあるようだ。

証如は石山御坊の改築を行う際、宗三の助言を受けたという。それほどに宗三は淀川流域の地勢に精通していた。本城の榎並城を宗渭に任せ、自身は神出鬼没の動きを見せている。長慶たちの背後を突いたかと思えば、翌日には兵糧を強奪していたりする。正面切っての会戦は挑まずに、粘り強く消耗を誘おうとしている。索敵を強化したが、無数にある中州の葦の陰にでも潜んでいるのか、まるで手がかりは掴めなかった。

「かつて氏綱の戦法に文句を言っていたが、いまはそれを使いこなしている」

榎並城を遠巻きに囲っている陣地で、長逸に向かって漏らした。

「いいと思ったものは取り入れる男でしたな」

「我慢競べをするしかないか」

「敵は六角を、こちらは四国衆を温存している。条件は同じです」

戦況は、各地の小競り合いから進んでいない。長慶は榎並城を緩く包囲しながら、伊丹城大阪府伊丹市)や淀川流域の支城、砦の攻略に兵を分散させている。厄介なことに、伊丹城も世に聞こえた名城なのだ。広い城域を堀と土塁で囲み、中心には階層建ての櫓である“天守”を築いている。親興は時勢に乗るのは下手だが、築城については名人だった。

兵は総数で一万程度、向こうは五千程度に過ぎない。氏綱と長教を追い詰める際に、相当の戦費を費やしていた。次の戦機が熟す前に、再び二万の四国衆を上陸させるのは難しい。讃岐では寒川氏が六郎に呼応するなど、四国も完全に落ち着いている訳ではなかった。

四国兵の主力である阿波衆は、六角来襲までは呼び寄せないつもりだ。之虎ならば鮮やかな戦法で敵を封殺するかもしれないが、この戦は自分の力で決着をつけるべきである。

「長い戦になるとな……」

「若殿のことが気になりますか」

「分かるか」

「ただただ、大器ですな。殿というより、爺様……之長様に似ています」

「実は私も、そんな気がしていた。曾祖父に会ったこともないのにな」

あれ以来、千熊丸は不気味なほど勤勉になった。土地の訴状や税の計算に興味を示したり、長頼に習った侠客武芸に打ち込んだり。長慶自身も元長直伝の鍛錬に付き合わせたが、意外なほどの身体のばねに驚いたものだ。

いまは、越水城に残った基速とおたきが面倒を見ている。池田家が一族の子を人質に差し出してきたので、その子と遊んだりしているのだろうか。人質を求める気はなかったが、池田家は一族全員が池田城に籠っているよりもよいと考えたようだった。結果、他の国人衆からも人質差出の申し出が相次いでいる。

「失礼。長慶殿はおられるかな」

遊佐長教が陣幕の中に入ってきた。長逸が気を使って離れた床几に腰を下ろす。

「ああ、長教殿。お呼び立てして申し訳ない」

「構わぬよ。して、何か用でも」

この老人からはいつも独特の臭気が漂っている。梟雄というあだ名が醸し出す匂いなのか、大勢の人を犠牲にしてきた呪怨の匂いなのか。

「端的に申しましょう。あなたと、婚姻同盟を結びたい」

「……うん?」

「あなたの娘を後添えに貰いたいのです」

「む、いや待て。光栄なお申し出だが、わしには独り身の娘が残っておらん。養女を――」

「ふふ、形だけのことですよ。世間に、そう喧伝できればよいのです」

「……は。なるほど、縁談話が引きも切らないという噂は本当のようだな」

「難儀していまして」

あまねと離別して以来、既に十件を超える話が届いていた。どの相手も立場がある人物だから、無下に断るのも難しい。河内を支配する遊佐長教との縁組ならば、誰もが納得する。長教には利益しかない。もちろん、長教に適当な娘がいないことも調査済だ。

「喜んで承ろう」

「感謝しますよ、義父上」

遊佐長教を義父と呼ぶのは、若干の抵抗がある。それでも、あまね以外の女を娶るよりはましだった。

長逸は腕組みをし、何も言わずに目を閉じている。波多野稙通やあまねと仲がよかった長逸に、これでよかったかと聞いてみたかった。しかし、それを口にするのは野暮である。

 

  *

 

長慶が六郎・宗三に戦を仕掛けて、既に半年以上が経過している。

天文十八年(1549年)の晩春。芥川孫十郎は西国街道を進んでくる六角軍を遠目に見ながら、これまでの戦の推移に思いを馳せていた。

 

摂津衆の大半や遊佐長教が味方に付いた以上、長慶の優位性は明らかだった。だが、宗三と宗渭は驚くべき辛抱強さを見せて、いまも健在である。伊丹城も落ちてはいない。数では圧倒している長慶軍が、攻め手を欠いている状態だった。年が明けてからは淡路衆と讃岐衆が援軍に駆けつけたが、真っ向勝負を徹底して避ける宗三・宗渭父子に対してはあまり効果が上がっていない。

孫十郎は、長慶に付くか、六郎・宗三に付くか、決めることができないでいた。そうこうするうちに六郎と公方が六角家を口説き落とし、とうとう六角家の先遣隊が京を発ったという知らせが入った。六角は西国街道を下ってくる。つまり、芥川山城の前を通るということだ。もはや逡巡することは許されない。

そんな孫十郎のところへ、松永久秀と野口冬長が現れた。二人は、堺の田中与四郎という商人の他、立派な豚のつがいを連れてきていた。久秀は言った。

「この与四郎殿が仕入れた、九州は薩摩の食用豚でっさ。うちの殿さんからの、ささやかな贈りもんだす。知ってまっか、九州人はけっこう喜んで豚を食べるんやて。“歩く青物”ちゅうて戦にも連れてくそうですわ」

“ばい”と豚が返事をした。

島津忠良様から特別にお譲りいただきました。飼育法を学んだ者も追って到着します」

商人から説明があった。堺の商人というくらいだから、南海貿易の伝手もあるのだろう。

つがいの豚。これで、いつでも黒飯を食べられましょう。そう言う長慶の顔が目に浮かぶようだった。

「ふはは、くははは。分かった、分かったよ。お主たちに味方する。長慶にそう伝えてくれ」

「お、おおきに!」

久秀と与四郎が弾けるように喜んだ。この豚を手に入れるのも、そう簡単ではなかったはずだ。

「ほなら、わいらはここで。さっそく殿に報告へ上がりまっさ」

「俺はこのまま残って、加勢させてもらうよ!」

野口冬長が頼もしげに言う。以前、この城の奪還にも協力してもらったことがあった。防衛戦となれば、淡路衆の弓矢の力はありがたい。

「よし。すべてよし。六角軍はもう近くまで迫っている。帰るなら早く帰れ。冬長は守りのすり合わせだ」

そうして、孫十郎は旗幟を明らかにしたのだった。

 

奇襲と弓矢。これが、名高い六角軍精鋭の真髄である。

六角家は甲賀との距離が近く、その地侍たちを多く雇っている。彼らは思いもかけぬ経路から敵に襲い掛かり、城を落とすことができた。また、六角家の侍は皆、日置流弓術の鍛錬を積んでおり、その威力は近隣諸国で並ぶ者がないという。京、江北、美濃、様々な土地で六角家は恐れられている。

しかしそんな六角軍も、孫十郎が守る芥川山城には歯が立たなかった。

天然の要害である芥川山城は、そもそも極めて守備力が厚い。三方を断崖に囲まれ、どんな異能の者でも攻め口は東側しかなかった。細川氏綱の大軍に立ち向かった時も、孫十郎は数箇月も持ち堪えることができたのだ。加えて、芥川山城を取り返す際に安宅冬康の強弓を目撃している。あれが大きかった。冬康が氏綱軍を射殺した場所を孫十郎はすべて覚えていて、奪還後、その付近の防備を一層強化していたのである。

より深く掘り下げた堀切、より高く積んだ土塁が、六角軍の弓矢を寄せ付けない。敵の大将も相当の手練れだが、相手が悪いと言う他なかった。昼間は芥川山城を攻めあぐね、冬長率いる淡路衆の弓矢で多数の被害を出した。そうして何日か経った後、地勢を知り尽くした孫十郎が夜襲を仕掛けたのである。孫十郎が振るう金縁の軍配に従って、配下は充分な働きをした。遂には孫十郎自身の率いる小隊が、敵将の首を獲るに至った。

「近江朝妻城(滋賀県米原市)の主、新庄直昌……か。氏綱との戦がなければ、負けていたのはわしだったかもなあ」

「冬康義兄貴並の弓矢だったね」

「ああ。こんな奴がごろごろいるなら、六角家とはもう戦いたくないな」

「と金殿にしては気弱な」

「がっはは、わしとて怖い時は恐いわさ」

敵将の遺骸は丁重に弔い、首は捕虜と共に長慶のもとへ送った。長慶は六郎の内衆として奉行勤めをしていたことがあるから、六角家臣にも詳しいはずだ。

この戦いで、孫十郎の武名は更に高まった。そのことについては満足している。

 

  *

 

戦の流れに、何か変化があったらしい。

十日ほど前には、六角が遂に動いたとかで家中が盛り上がっていた。それが、今日は逆に意気消沈している。女中に紛れた琴が、“六角の先遣隊が芥川で壊滅した”と囁いてくれた。琴はあまねの傍にいながら、いまでも長慶と連絡を取っているのだろうか。

六郎方の戦略は、六角軍が到着するまでひたすら耐え忍ぶ、というものだったはずだ。いままでは上手くいっていた分、士気の消沈が激しいのだろう。晴通も城内をうろうろしては、家臣や女中の区別なく怒鳴り散らしていた。

越水城から戻ったあまねは、八上城の奥まった部屋に籠りきりである。子を産んだことがある女、しかも、あの三好長慶の妻だった女ということで、再婚の話はたくさん届いたそうだ。それも、あまねが断る前に兄が断ってくれていた。晴通は、あまねを再び政争の具にするつもりはない、と言った。その言葉に甘えて、毎日写経だけをして暮らしている。父母の成仏、兄の成熟、長慶の成功、千熊丸の成長……何万字の経を写しても、願いや祈りが尽きることはなかった。

「入るぞ」

晴通だ。声色だけで何か用事のあることが分かる。離れて暮らしてはいたが、兄妹は兄妹のままだった。

「何か、あったの」

「少しまずいことになった。しばらく、永澤寺にでも身を隠していろ」

「どうして」

「京から摂津に至る道はすべて長慶の手に落ちている。力ずくで突破するはずだったが、それも難しいことが分かった。これからは六郎様も六角軍も、丹波経由で摂津へ向かうことになる」

「……」

晴通の役目が、より重くなるということだ。内藤氏など、六郎方に反目している国人も多い。父の稙通亡きいま、晴通の力で丹波の通行を守りきらねばならない。見晴らしのきかない丹波では、進軍の安全を請け負うことは何よりも難しいのである。

「六郎様のご気性はご存じだろう。お前の存在に気づけば、何を言い出されるか分かったものではない」

晴通は晴通なりに、妹の無事や幸せを考えてくれている。

「……分かった。そうする」

「おお、そうか。ならば、明日には出発するようにな」

「兄上」

「なんだ」

「あたし、髪を下ろそうと思うの」

晴通の開いた口が、塞がらなくなった。

「もう、このままじゃいられないし……」

「ま、待て、待て。落ち着け」

「待たない。兄上には、子どもと引き離された母の気持ちなんて分からないでしょう」

「いいや、待つのだ。お前の気持ちも分かる。だからな、せめて戦が終わるまでは待ってくれ」

兄は、自軍の勝利を、細川家の威光をいまも信じている。長慶が敗死すれば、あまねもいずれ正気を取り戻すと考えている。それから、真っ当な男に嫁げばいいとでも思っているのだ。

あまねは違っていた。戦のことは分からないが、長慶が負けるとは思えない。この八上城だって、いずれ長慶の手に落ちるかもしれない。そうなればあたしは、惨めな女として長慶に対面することになる。後妻を迎えたかつての夫に慈悲を請うことになる。一生一度の恋に、そんな散り様は必要ない。

「戦が終わるまで、ね」

「そ、そうだ。落ち着いてから、ゆっくりと話そう」

「……」

何でも分かり合える兄妹でも、すれ違うことはある。元が他人の夫婦ならば、尚更そうだ。離し離され、揺れて揺られて……。人は皆、結局は一人きりなのだろうな。

話はおしまいとばかりに、あまねは再び筆を手にした。晴通は不安そうに妹を見つめていたが、そのうちに諦めて出ていった。

 

  *

 

孫十郎の活躍で、戦の潮目が変わりつつあった。

わざわざ丹波を経由せねば、戦場には辿り着けない。敵がそう観念するしかないほど、孫十郎の戦果は大きかった。討ち取った新庄直昌は六角軍の中でも大物だったのである。他の者でも、芥川山城を抜くのは難しい。六角全軍を挙げて芥川山城に攻め寄せても、すぐには開城に至らない。その間に、宗三が死んでしまうかもしれない。こうなっては、六郎や六角軍は丹波の山域を歩くしかなかった。

「攻めるなら、いまだな」

藤が咲き乱れる、春日神社大阪府大阪市)の境内。

長慶は主だった諸将を集めて軍議を開いていた。

「応! 待っていたぜ!」

一存が嬉しそうに叫ぶ。昨年左腕を怪我したが、いまではすっかり回復している。快気祝いに暴れたくて、うずうずしているのだろう。

「――して、どの地を」

冬康が冷静に質問してきた。宗三の居どころは未だに掴めていない。幾つかの支城や砦を落としたが、宗三の奇襲は止むことがなかった。そのことが、味方の厭戦気分を生んでもいる。

「この戦は、宗三を確実に始末することが肝心だ」

一同が頷く。細川政権は、六郎の威光と、宗三の並外れた手腕によって成り立っているのだ。

「これまで、宗三は我々の嫌がることを確実に成し遂げてきた。我々は目標を絞りきれずに、兵力を分散させるしかなかった。戦線が伸びたところに、宗三は要所要所で襲いかかってきた。まこと、淀川は宗三の庭であった」

宗三の奇襲で負傷している者もいる。誰もが、強烈な反撃を喰らわせたいと思っていた。

「孫十郎がよい仕事をしてくれた。六角が遂に動いたが、本隊が到着するにはまだ時間がかかる。宗三は焦っているはずだ。ここで、今度は我々が宗三の嫌がることをしようと思う」

「つまり」

長逸が先を促した。

「全軍を集結。榎並城の宗渭を討つ」

全員から喜びの声が漏れ出た。さしもの榎並城も、いまでは少しずつ防備が剥がれてきている。城内の兵も疲労が溜まっているはずだ。いま総攻撃を懸ければ、少なくとも宗渭の首をあげることはできる。誰もがそう思う。ならば、宗三がどう動くか。

(我ながら、残酷なことをする……)

罪悪感はない。それよりも、行き着くところに近づきつつあるという実感が強かった。

 

一同が散って行った後、長慶は少数の供を残して藤に見入っていた。薄紫の花色は嫋やかに美しく、地に届くほどに長い花房は小袖をまとった姫君のようだった。

 

むらさきの ゆかりならぬと若草や 葉すえの露のかかる藤原――

 

歌が口をついて出る。

長慶も宗三も所詮はひと雫の葉露なのかもしれぬ。この戦の末にどんな花が開くことになるのか、それは誰にも分からない――。

拝殿の近くに腰かけて、そんなことをぼんやりと考えていた。

そうしているうちに、どこからかよい匂いが漂ってくる。

「少し、疲れているのではないか」

康長だった。よい匂いの元は飴湯である。麦芽糖と生姜の匂いが混ざり合い、喉の渇きを思い出す。

「まあ、飲むといい」

言われるままに、器を口に運んだ。温かい。とろみのある黄金色の液体が少しずつ喉と身体に満ちて、揉み解すように元気を与えてくれる。吐息までが甘い。忘れかけていた色々なもの、芝生の景色、父母、少年時代……、そういったものが飛来したように思えた。

「……うまいです」

「そうか、それはよかった」

康長が微笑む。

「疲れるよな。戦も、政も」

「百戦錬磨の叔父上とも思えない」

「事実よ。人は、生きている限り疲れるものだ。真面目に生きておればなおのこと」

「……」

「若いうちは無理もできる。傷に塩を塗って、藤葛で誤魔化すようなこともな」

「ふ、ふふふ。聞いた時は笑いました」

「でもなあ長慶。お主の父は、素直につるぎ殿に甘えていたよ。それからまた、よく働いた」

戦のことだけを言っているのではない。長慶の暮らしすべてがこの叔父には気がかりなのだった。

「お主の才は我々凡人の及ぶところではない。だから、過度な期待もしてしまう。どれだけ優れていても同じ人間、疲れないはずはないのにな」

「叔父上、私は」

「お主は光芒のようだ。人々の期待を、祈りを背負っている。だからこそ、わしはお主が人であることを忘れないでいようと思う」

康長の言葉は、長慶の胸を打った。疼くものがあった。

「……叔父上」

「はは、話し過ぎた。わしの方こそ疲れているのかもな」

「宗三も、同じでしょうか」

「……ああ、そろそろ楽にしてやろう」

「あの男も一筋の光、英知の光です。あの悲しい命を、天に還してやらねば――」

長慶も微笑んだ。その顔を見た康長は、潤んだ目で器を握りしめた。

 

  *

 

長慶が動き始めた。

わざわざ、榎並城が標的であることを喧伝している。お蔭で、宗渭たち城兵が覚悟を決めるだけの時間は充分にあった。兵糧はまだまだある。負傷している者は多いが、兵もほとんど減っていない。幾つか防備は崩されたが、榎並城の威容は些かも損なわれていない。

(これなら、あと半年は戦える)

それだけ粘れば、六角本隊は確実に摂津へ雪崩れ込む。騒ぎに乗じて宗三が逃げ落ちることもできる。そのために死ぬことは、宗渭にとって本望だった。長年宗三・宗渭父子によって育まれた兵たちも、まったく同じ思いである。六郎と宗三さえ無事ならば、必ず最後には細川家が勝つ。自分たちの死は、未来永劫の栄誉に包まれる。誰もがそう確信していた。

自分はよい息子ではなかった。

父が家にいないという理由で世を拗ねて、母から銭を無心し、悪所で放蕩三昧を尽くした。

宗三が六郎の勘気を受けた時も、母が心の病を得た時も、宗渭は家に帰らなかった。

立ち直ることさえ、他人頼りだった。芥川孫十郎の鉄拳で、ようやく一人前の男にしてもらったのだ。

(最期に、父の役に立てるなら)

借りてばかりの人生を、清算できる気がする。

(俺の戦は孫十郎殿直伝だ。芥川山城が六角を跳ね返したなら、榎並城だって長慶を防げるはずだ)

自分のすべてを、投げ打つことができる。

「来るなら来やがれ! 三好長慶、何する者ぞ!」

兵の前で叫んだ。途端に喊声が湧き上がる。兵たちが求めていたのも、まさに宗渭の決意ひとつだったのである。叫びあい、吠えあうことが覚悟の共有に繋がった。

 

長慶の総掛かりは熾烈を極めた。

遠巻きに包囲していたこれまでとは違い、一日に攻めてくる回数も、一回当たりの兵数も、三倍以上になっている。鳴り物衆の大音量は頭が割れるようで、まともに眠ることもできなくなった。それでも宗渭たちはよく守り、ときには夜襲まで仕掛けた。十日過ぎても二十日過ぎても士気に衰えはない。

「あと、ほんの百五十日これを続けるだけさ」

戦いの合間には、そう言って兵たちと笑いあった。

少しずつ死人が増えている。宗渭が陣頭で鼓舞し、兵の減少をなんとか補った。矢の蓄えが減ってきたから、敵陣を奇襲して武器を奪うようなことまでやった。まだまだいける。あと、百四十日。

宗渭も兵も、顔つきが明らかに変わってきている。その姿は飢えた山犬に似て、唸り声すら発していた。牙が生えていないのがお互い不思議なくらいだ。いまなら一匹で五人は殺せる。そう考えるようになった時、長慶たちが兵を退き始めた。

「勝った……のか?」

鯨波が上がったが、長くは続かなかった。何が起こっているのか、伝令が掴んできたのである。

「報告! 宗三殿が江口城(大阪府大阪市)に入城いたしました! 長慶軍も向かっております!」

――馬鹿な。なぜだ。なぜなんだ、父上。

膝を地につけた宗渭は、それ以上何も考えられなかった。

 

続く

 

 

二十四 どん突きの段  ――三好宗三 愛刀左文字と九十九茄子を託し、三好長慶 妻と離縁す――

二十四 どん突きの段

 

六郎の手で池田信正が処刑された。以前、氏綱に寝返ったためであると言う。

ほとんど騙し討ちのような形だったらしい。嫡子の長正が跡を継ぐことを許されたが、当主としては若年に過ぎる。しかも、彼の母親は宗三の娘なのである。世間では、宗三が池田家の乗っ取りを図ったのだと噂していた。

宗三の狙いは、六郎の直轄兵力増強と、池田家の蓄財接収だろう。向こうも長慶との決戦に向け、準備を進めているということだ。なりふり構わなくなった宗三の実力は未知数だった。

国人衆の大方はこの処置に反発している。一方、かつて木沢長政についた伊丹親興などは、“池田のようになりたくなければ……”と、六郎への忠誠を強めたようだ。長慶の活躍があってのこととはいえ、木沢長政も遊佐長教も細川氏綱も、結局は六郎を倒すことができなかった。六郎か、長慶か、あるいは様子を見守るか。国人衆も生き延びるために難しい判断を迫られている。

 

「細川氏綱様である」

堺沖に浮かぶ関船の中で、長慶、氏綱、長教の三者会談が始まった。周囲は安宅水軍が固めていて、誰かに気取られる恐れはない。長教に紹介された氏綱は長慶に目を合わせようともせず、手元の風車と長教とを交互に見て、呆けた顔をしている。だらしなく開いた口元からは涎が垂れていた。

「さ、氏綱様。三好長慶へお声かけを」

「この人だれ? 長教のお友達?」

「……ええ、そうですよ」

「本当? 双六できる?」

あまりの醜悪さに胸がむかむかとしてきた。たかが権力争いのために、長教はここまでのことをしていたのか。生まれ持った因業のために、琴はこれほどの罪業を繰り返してきたのか。

「驚いたならすまない。少し健康を害されていて、幼児還りの症状が出ているのだ」

「……」

「なに、案ずるには及ばぬ。氏綱様はお主を全力で支援するおつもりだ。そうですね、氏綱様」

「うん」

何か言ってやりたい気になるが、琴と正虎を守るためには何も知らないふりをしなければならない。

「いいでしょう。これから、よろしくお願いします」

「ああ。我々が組めば怖いものなどないな」

こんな俗物と貴人の成れの果てすらも使いこなしていく。

長教は、長慶が上手く誘いに乗ってきたと思っている。戦を長慶に任せて、政権奪取後は上手く操ってやろうと企んでいる。中途半端に賢いと、己が誰かに誘導されていることには気づかないものだ。舎利寺で生き延びたのも、自分の実力や幸運のためだと信じているのだろう。

 

  *

 

おたきと入れ違いに、千熊丸が帰ってきた。

「母上、何かあったの?」

「どうして」

「おたきが泣いてた」

先ほどまで、長慶と千熊丸の食事、衣服、病歴など、日常のことを細々とすり合わせていたのである。

「……何でもないのよ。千熊は、何をして遊んでいたの?」

「長頼が、色んな武器を見せてくれた! すごいんだよ、鞭で瓜を割ったんだよ!」

須磨に行ってから、千熊丸は長頼によく懐くようになっていた。

「鞭で、瓜を?」

「これを割ってみろって言ったら、ひゅって鞭が消えて、ばーんって飛び散ったよ」

いま時分の瓜はおいしいのに、どうしてそんなもったいないことをするんだろう。

「それから?」

「久秀も来たから、三人ででっかい落とし穴を掘った!」

「落とし穴……?」

「へへ、馬糞入りのね」

「……久秀殿が考えたの?」

「俺だよ! いっそ長逸をひっかけようぜって言ったら、久秀も長頼も真っ青になって嫌がりやがんの」

「もちろん、埋めてきたんでしょうね」

「え」

「埋めてきなさい」

慌てて千熊丸が飛び出していった。誰に似たのか、人を驚かせることばかり考えて……。

 

その夜は夕食を与えず、更に半刻ほど説教もした。

瓜を作った人が見たらどう思うか。怪我人でも出たら家臣はどう思うのか。人や物を粗末にするならば、自分も人や物から粗末にされる。その覚悟があるのか……と。

あまねが声を荒げることはないが、長慶や千熊丸が言うにはそれがかえって怖いらしい。この二人が素直に言うことを聞くので、長逸があまねを頼ってくることもあった。

いまも、問い詰められた千熊丸はしょんぼりとしている。彼は、よくも悪くも隠し事をしない。包み隠さずにあったことを言って、褒められたり、叱られたりする。叱られれば泣きもするが、叱られること自体は嫌いではないのだろう。褒めも叱りもしない時に、一番悲しそうな顔をする。

「千熊」

「はい……」

「反省したのなら、絵本を読む前に中将棋を教えてあげましょうか」

「うん、教えて!」

もう叱られたことは忘れている。その切り替えの早さが、無性にかわいい。

中将棋は駒の数が多く、動かし方の種類は二十九通りもある。まずはこれを覚えることが大変だ。ただ、長慶とあまねが指しているのをよく見たり邪魔したりしていたので、ある程度は理解しているようだった。

「一番強い駒はどれ?」

「この玉将のふたつ前にある、“獅子”よ。この範囲でこう、二回動くことができるの」

「二回」

「そう。他の駒が一回動くあいだに、獅子は二回動くことができる。それは、とても恐ろしいことなの」

「これだけの範囲にしか動けないのに?」

「驚異と呼ぶには充分」

「ふうん」

そんなやり取りを繰り返し、まずはやってみようと一局指してみた。

当然、あまねが勝った。千熊丸の口惜しがりようは尋常ではない。結局、翌日もその次の日も、暇さえあれば再挑戦を受ける羽目になった。

七日目、初めて負けた。

十日目には、あまねでは勝てなくなった。そこに至って初めて、千熊丸はおおいに喜んだ。

長慶が言うには、中将棋の上手は戦に強く、将棋の上手は謀に強いらしい。

 

  *

 

甲斐を追放された武田信虎は各地を放浪した後、近頃は京で暮らしている。

流浪しているとはいえ、元甲斐国守護である。六郎や公方の彼を見る目は温かく、同情が込められていた。内衆や奉公衆が京の名所を案内するなど、民には見せないような親切も提供する。もちろん、父に劣らない名将だと評判の武田晴信や、信虎と縁の深い今川義元と誼を通じたい、という下心はあった。

今日の一席も、“茶の湯を体験してみたい”という彼の要望を受けたものだ。武野紹鴎を加えた二人を迎え、精一杯のもてなしを振舞った。信虎は紹鴎の所作を真似ることに懸命だったが、内容には非常に満足したようだった。

「奥州の父子喧嘩が遂に収束するらしいではないか」

「あれは酷い争いでした。義輝公が仲裁に尽力して、結局は父が隠居する方向で纏まりそうです」

「公方様も、存在感を出そうと懸命だな」

「伊達の大乱が落ち着けば、越後の長尾景虎が頭角を現すと北国の商人たちは噂しているようですね。甲斐の晴信様は信濃をご所望のようですが、越後勢が介入してくるやも」

「晴信は不安の芽を徹底的に取り除く男だ。毛虫すら近づけようとしないほどにな……。忌々しいが、あれの率いる武田軍団に“まさか”はない。景虎が何をしようと、晴信の腹の内よ」

薄茶を飲みながら世間話に花が咲いた。息子や家臣に裏切られたことは吹っ切っているようで、甲斐の話題になっても顔に険はない。やはり信虎は真の強者である。半生かけて築いたものを失っても、元気は失っていない。そんな男は滅多にいるものではなかった。

「公方と細川家の仲の悪さは甲斐でも案じられておったが。思いの外、関係が改善しているようだな」

「共通の大敵が現れましたので」

「うむ、三好長慶とかいう若造のことだな。聞けば、晴信と同世代らしいが」

「不世出の才、という点では認めざるを得ません。しかし、才があれば何をしてもいい訳ではない」

「そうだな。公方様や細川殿が無下に扱われれば、我らとて面白くはない」

紹鴎の口数が減った。紹鴎も含め、堺の会合衆は長慶を後援している。一方で、紹鴎は宗三の友人であり、師でもあった。宗三と長慶が争うことは望んでいないだろうが、いちいち口にする男ではない。

紹鴎と信虎。今日はこの二人を招くことができてよかった。言い残す機会に恵まれたのだ。

亭主の気配が変わったことに、客の二人も気づいた。

「紹鴎殿。これを預かっていてほしい」

木箱を紹鴎へ差し出した。箱書を見た紹鴎の目が大きく開く。

「九十九茄子ではないか」

「何も言わず、招待に応じてくれた礼だよ。何も言わずに受け取ってくれ」

紹鴎の耳が動いた。滅多に見せない動揺の証である。

「信虎殿にはこちらを。……本当は、茶湯座敷に持ち込むべきではないのですが」

「こ、これはまさか、世に聞こえた宗三左文字では」

「多くの業物を見てきましたが、これが最上です」

さすがの信虎も驚いてくれたようだ。面映ゆいことだが、畿内ではこの刀を宰相の象徴だと思っている者も多い。万一にも、長慶の手に渡ることがあってはならなかった。

「これを、どうしろと言うのだ」

「三年経ってわしがこの世にいなければ……相応しき者にお渡しいただけませぬか」

「相応しき者とは」

「六郎様を援け、正しく世を治めることができる方です」

信虎の目つきが鋭くなった。漂泊する旅人の顔ではない。怜悧狡猾な大名の顔である。

「確かに承った。だが、死にたがるような真似はするなよ」

「ははは。みっともなくても、生にしがみつく所存です。ああ、本阿弥光二という者がおりますから、手入れは彼にお任せくだされ」

「宗三……」

「そんな顔をするな、師匠。今日は持ってきていないが、変わった釜を手に入れたりもしているのだ。上手く使いこなせるようになったら、まず紹鴎殿に自慢しに行く」

「本当だな」

「本当だ」

「……」

湿っぽい話を続けるのは格好のよいものではない。二人を促してお開きにさせてもらった。紹鴎も信虎もぐずぐず言うようなことはせず、宗三の肩を軽く叩いて帰っていく。

客を見送りながら、宗三は静かな満足を感じていた。

 

  *

 

写経をしていても、一向にはかどらない。

六郎と長慶の開戦が近づいている。あまねですら分かるほど、畿内は一触即発の空気に包まれていた。誰も彼も、顔を合わせれば戦の話だ。もはや氏綱の反乱など忘れられたかのようだった。

実家の兄は、婚姻の際に差し出した誓紙の写しをわざわざ送ってきた。三好が波多野の敵になれば、婚姻同盟は直ちに解消される。そんなことを念押ししてくる晴通の小ささが憎らしかった。

あまねの身の回りの世話をしている侍女は、波多野家から連れてきた者たちである。彼女たちは当然、いまも丹波と連絡を取り合っている。婚姻とは、互いの家中の雰囲気や行動が筒抜けになることなのだ。だからこそ、同盟が破綻した際には一同纏めて追い出されてしまう。

晴通の説得も試みたが、聞く耳を持ってもらえない。もともと三好嫌いで、細川家のことを頼みに思っている兄である。一刻も早く帰ってこいだの、長慶から離れればいずれ目が覚めるだの、反対に口説かれる始末だった。

「ため息ばかりついているな」

琴が話しかけてきた。突然の出現も、叫び声を上げない程度には慣れてきている。琴の方も、あまねに対して気安くなってきていた。

「だって……」

「長慶ともろくに話をしていない」

「だって」

「残された時間を、悩むために使っていていいのか」

「……」

「夢とは叶わないもので、だからこそ散り際が大事なのだそうだ。夢を恋に言い換えても、同じだと思う」

虚を突かれて、あまねは思わず琴の顔をまじまじと覗きこんだ。

「なんだ」

「琴が、そんなことを言うなんて」

「おかしいか」

「ううん、嬉しかった。ありがとう」

今度は琴が、あまねをじっと見つめてきた。彼女なりに照れているのかもしれない。

「恋の散り際、かあ……」

今日、長慶は夕暮れまでには帰ってくるはずだ。妙なことを思いついてしまった。

 

「お前さま。夜は外で食べましょう」

突然の提案にも、長慶は驚かなかった。

「よい考えだ」

「でしょう? あたし、“どん突き酒場”に行ってみたいんです」

城に出入りする商人や職人たちがよく噂している店である。

「ああ、聞いたことがある。そうだな、町の視察もしないとな」

「お役目だから、仕方ないですよね」

悪戯っぽく笑いあい、千熊丸をおたきに預けて城を出た。慌てて家臣たちがついてきたが、長慶に距離を空けるよう命じられた。二人で歩くのは久しぶりである。

西宮神社の程近く、昔からの家屋が密集する辺りに目的の店はあった。枝分かれした小路を進んで、行き止まりにあるからどん突き酒場。棒手振りに毛の生えたような屋台で、座る椅子などはない。皆、台に酒と肴を置いて、立ったまま飲んでいる。どの客も賑やかに笑いあっていた。

「噂通りだな」

「楽しそう……」

あまねはともかく、長慶の顔は住民によく知られている。気づいた客の一人が知らせると、主人が血相を変えて飛び出してきた。

「こ、ここ、これはお殿様! こここのような場所にお越し、越し越し」

「ふふ、よいよい。皆と同じものを出してくれ。他の客と同じように扱ってくれればよい」

「はは、は、はい!」

気を使わせないよう、一番端っこの台に陣取った。すぐさま主人が、燗酒と小鉢を運んでくる。あまねは艶やかな気持ちで酒を注いだ。

「よし、いただくか」

「いただきます」

つい、と一口で飲み干した。周りの酔客から“おお”と吐息が漏れる。武家のおなご、それも城主の妻が道端で酒を呑むなど、あまね自身聞いたことがなかった。晴通の耳に入ったら、卒中風にでもなって倒れてしまうかもしれない。

「うまいな」

「おいしいです。この温め方、角味がとれて、香気が立って」

今度は夫が酌をしてくれた。

「この肴もうまい。酒によく合う」

「素敵……。色んな魚を頭や骨ごと煮込んで、味噌と生姜で味を整えたんですね」

「……」

長慶が魚の頭をほじって、懸命に身を取り出そうとしている。

「お前さま、そんなにひたむきになって」

どっと、酔客たちが笑った。長慶もはにかむ。こんな時、夫は千熊丸よりもかわいい。

 

結局、見物人が集まってきてしまったため、二人は早めに退散することにした。

酔った客は、家臣が制しても落ち着くものではない。騒ぎが大きくなる前に、長慶はあまねの手を取って走り出した。夫の薫りが幽かに漂う。星空の下、あまねは夫と二人きりだった。

「ここまで来ればいいだろう。どうせなら夙川沿いを歩いて、蛍でも見ていかないか」

「いきます」

道から外れて、草むらに腰かけた。宵闇の中、川の音だけが聞こえてくる。蛍が瞬いているところが水の流れなのだろう。

「儚い灯火ですね」

「……そうだな」

月が雲に隠れて、互いの顔すら見えないほどである。

家臣とは上手くはぐれた。周囲には誰もいない。琴に言いつけてあるから、不審者が近づいてくることもなかった。あまねは、夫にもたれかかって顔を埋めた。長慶も、何も言わずに肩を抱いてくれる。

そのままじっとしていた。せせらぎに混ざる、長慶の心音。

温もりが、苦い。

いつしかあまねは嗚咽していた。長慶の素襖を濡らすことも気にせず、ただ、涙だけを流し続けた。

「行き止まりなんです」

「……」

「あたしさえいなければ、その夢を守ることができる。それは、分かっているんだけど」

「……」

肩を抱く力が、強くなった。

「あたしを、許さないで」

「……」

「忘れないで……」

頷いた気配がある。蛍が近くを横切ったが、長慶が泣いているかどうかは分からなかった。

 

  *

 

秋が近づく頃、六郎のもとへ長慶から書状が届いた。

宗三を糾弾する内容である。池田信正の処分を不当と断じた上に、過去の一揆や反乱、飢饉・大水などを細々と数え上げ、それらすべてを宗三が原因であったかのように書いている。奸臣の宗三を政権から取り除くことで、天下の政道を正す。池田長正を始め、細川氏綱や遊佐長教など、既に畿内の心ある者は長慶の意見に賛同を寄せている。六郎も道理をよくよく考え、長慶の仕置きを支持するように……などという思い上がった文章。読み進めるうちに、鼻血が出てきて止まらなくなってしまった。

腹立ちの勢い任せに、長慶の書状で鼻をかんだ。少しはせいせいしたが、写しが京市街に貼られている、主だった国人にも届けられているという話を聞いて、六郎はまた激昂した。

 

その宗三が屋敷に現れた。既に色々と情報を集め、整理してきたらしい。他の内衆たちにも声をかけ、大広間に一同が揃う。

「まず一点目、長慶が氏綱方に寝返ったというのは本当か」

宗三に向かって問うた。

「半分は」

「……どういうことじゃ」

「長慶が氏綱や長教と手を組んだのは事実でありましょう。ただ、長慶が氏綱に内応したのではありません。氏綱が長慶に従ったと見るべきです」

「ざ、戯れ言を申すな。三好は細川の家来だぞ、氏綱が長慶に従うことなどあるものか」

「もちろん、表向きはそのように見られましょう。長慶も氏綱を立てるくらいのことはします。ですが、実権を氏綱が握ることはありますまい」

それでは、これまでの氏綱の反乱とは何だったのだ。細川家の当主とは、長慶に牛耳られる程度のものなのか。長慶は、自分の配下に組み入れるために氏綱と長教を叩き潰したとでもいうのか。

「長慶が氏綱に養子入りする、細川の名跡を名乗る、なども考えられませんか」

内衆の一人が聞いた。確かに、権力を奪うには手っ取り早い方法だ。

「それはない。わしが思うに、長慶は家や血統による秩序を崩そうとしている。あいつは三好のまま、阿波の一守護代のままで、我らを滅ぼそうとしているのだ」

「……」

宗三の話を理解しようとしているうちに、また鼻血が吹き出した。紙を詰めたが、息がしづらく癇に障る。

「ええい、次じゃ。長慶はなぜお主をやり玉にあげる。彼奴の狙いはわしじゃろうが」

「長慶の狡猾なところです。殿を直接非難すれば、いき過ぎだと思う者も出てきましょう。出自の低いわしなら世間の納得を得やすい。殿のご威光が持つ力、侮られてはおりません」

「お主を差し出せば、長慶はわしを斬らぬとでも」

「その通りです。表立っては殿を責めない。それでいて、ゆっくり、ゆっくりと実権を奪っていく。野望を決して口にせず、静かに、なし崩しに、我らを袋小路に追い詰めるのです。長慶は権威を否定しながら、権威の恐ろしさを誰よりも理解している。九条家との婚姻もその証左かと」

背筋に怖じ気を感じた。華々しい戦果や治安の安定、商いの振興などで民の高い支持を得ながら、裏では人々の価値観を破壊していく怪物。気づいた時には、世は滅茶苦茶にされている。

「わしにもようやく分かってきた。……そのような狼藉、断じて許してはならぬ」

「仰る通りです」

「答えよ。わしはどうすればいい。どうすれば長慶を止められる」

宗三は六郎の表情を見て満足そうに頷いた。威儀を正し、一層大きな声音で返答する。

「生き延びられませ」

「なに」

「武田、今川、大内、大友。長慶より家格が高い者は皆、我らの味方になり得ます。殿さえご無事なら、その者たちが旗を見失うことはありません。義輝公と力を合わせれば尚更です」

「……」

「まずは六角です。公方と腹を割って話し合いくだされ。浅井や朝倉、斎藤に連名で使者を送るのもよいでしょう。六角が兵を送れる状況を作り出すのです」

宗三の言う通りだった。細川と公方がひとつにならねば、外敵の動きを抑え込まねば、六角は動けない。名将、六角定頼が鍛え上げた近江衆ならば、四国衆とも渡り合えるはずだ。

「しかし、策が成るまで一年はかかろう。それまではどうしたらよいのじゃ」

「……わしと宗渭が食い止めます。既に宗渭は榎並城に入っておりますが、あそこは防備も兵糧も万全、一年の籠城にも耐えられまする。更に、わしは淀川流域に張り巡らせた支城網を駆使し、敵兵の分散を図ります。長慶がわしを標的にしたことを逆に利用してやりましょう。わしを無視して、先に殿を攻めるのは名分に適いませぬ」

内衆たちが涙を流している。宗三がどれだけ兵を集めても、摂津で展開できるのは五千そこそこだろう。それに対し、長慶は四国・淡路だけでなく、河内や和泉からも兵を動員できるのだ。宗三は、六郎のために進んで犠牲になろうとしている。いつだって宗三は六郎の意向に従い、六郎の命を守ってきた。

「不忠者が蔓延るこの世の中で、お主はなぜそこまで」

「精一杯の忠勤を約束しました。殿が、わしの手を取って喜んでくれました。あの時の喜びと誉れを、一日たりとも忘れたことはありませぬ」

遂に、六郎もすすり泣きし始めた。替えがきかない家臣がいることを初めて思い知った。気づいた時には、その家臣は死地に赴こうとしている。

「死ぬな宗三。わしはお主に、まだ何も報いておらぬ」

「いいえ、殿から先に御恩をいただいたのです。今度はわしが、奉公に励む番です」

そう言う宗三も身震いをしながら呻き、涙を零した。内衆も泣いた。六郎も泣いた。いま初めて、細川家中は一体になったのである。

 

  *

 

長逸の護衛を伴って、輿は城から離れていく。

つい先日、夫婦で騒ぎを起こしたばかりである。西宮の民は二人の仲睦まじさを否応なく思い出して、涙を流さずにはいられなかった。沿道からはあまねの乗る輿に向かって、激励や慰めの声が引っ切り無しにかけられている。ある酒蔵からは、あまねの好んだ酒が贈られた。丹波に帰る侍女たちも、皆複雑な表情をしている。僅か八年間の婚姻生活だったけれども、彼女の人柄は確かに摂津の地に根付いていた。

「母上! 母上!」

千熊丸の泣き叫ぶ声がいつまでも続く。長頼とおたきに抱きとめられているが、千熊丸は驚くほどの力で脱出し、何度も輿を追いかけようとした。その声は、きっと輿の中にも届いている。

「よかったんでっか、これで」

長慶の心境を案じて、久秀が話しかけてきた。

「……他に道はない」

「殿が無理してたら、家臣も気が滅入りますわ。姐さんを掴まえといて、パッと波多野を屈服させたらええんちゃいますか」

丹波衆は甘い相手ではない。それに」

「私情で動く気はない、ちゅうんでっしゃろ」

「そうだ」

久秀が首を振った。何を言っても仕方ない、それでも言わずにはいられない。それがこの男の義侠だ。

「妻を失って、若殿を傷つけて。なんでそこまでできるんか、わいには全然分からへん」

「……」

「やもめ暮らしは、しんどいんでっせ」

「……だろうな」

「せ、せめて、わいらを家族やと思ってくれても、ええんやで」

「ああ、そうさせてもらおう」

長慶の素直な返事が予想外だったのか、久秀は顔を赤らめてしまった。そのおかしさに、無聊が幾らか慰められはしたけれど――依然、明日が来るのが恐ろしかった。あまねのいない明日が、明後日が、十日後が。久秀はまだ何か言おうとしたが、長慶の横顔を見て息を呑み込み、長頼を手伝いに行った。

 

千熊丸の荒れ方は不憫だった。

“ああ厭だ厭だ、大人に成るは厭なこと”。そんな悲しい言葉を言い放ちながら、手当たり次第に喧嘩を売って歩くのだ。知らぬ間に口も手も達者になっていて、面罵されて寝込む女や、手傷を負わされた男も出ていた。もっとも、大人たちは長慶の嫡子である彼に対して遠慮しているところが大きい。千熊丸の方も、本気になって自分に向かってくる者がいないことが余計に苛立つようだった。

長慶は千熊丸を自室に呼び出した。ふてぶてしい態度で座った彼を一瞥し、気迫をぶつける。怯んだ。そのまま膝行し、腕を上げる。――反射的に防御の姿勢を取った息子の頭を、柔らかく撫でてやった。

「ふ、驚きながらも己を失ってはいないな。重畳、重畳」

千熊丸の唇が震えだした。怒りか、口惜しさか。

「もう、母はいない。受け容れるのだ」

「嫌だ!」

即答した声は鋭かった。

「母上一人守れずに、何が天下だよ!」

「天下を正す。折り目も正す。こうするしかなかったのだ」

「分かんねえ! 分かりたくねえ! いいから母上を取り返してきやがれ!」

再び気迫を込めた。今度は殺気混じりだ。千熊丸の身体がびくりと揺らいだ。

「ふたつ、教えておこう。三歳を過ぎれば元服したのと同じだ。特に、城主の子はな……。七歳だろうが、民を慈しみ、家臣を大事にせねばならぬ。そうでなければ、まともに生きることすら難しい」

「……」

「そして、人に頼るなら自立してからだ。母が恋しいなら、まずは自分の力でなんとかしてみろ」

鼻が触れ合うくらいまで顔を近づけ、静かに、腹の腑に響くように伝える。そうして長慶は部屋を後にし、千熊丸を一人残した。襖の向こうからは、“畜生”とすすり泣く声が聞こえてきた。

 

続く

 

 

二十三 松風の段  ――十河一存 前関白九条稙通の娘を娶り、三好長慶 須磨の海に行楽す――

二十三 松風の段

 

年の暮れ、宗三たちは無事に京へ戻ってくることができた。

長慶が舎利寺で大勝したことにより、各地の氏綱方は勢いを完全に失った。遊佐長教はいまも長慶に攻め立てられており、筒井順昭は大和へ撤退した。公方は近江に潜んでおり、京に自力で戻る術はない。宗三や六郎も付近の敵を打倒し、畿内は一見元の鞘に収まったように思える。

六郎は帰京にあたって満面の笑みを浮かべていたが、戦況の報告を受けるとまた機嫌を損ねた。長慶の活躍が気に入らないのだ。今回の戦では、長慶はほぼ独断で事を進めている。内衆たちの間でも彼がいずれ謀反を起こすのではないかと噂されていた。

太平寺に続き、舎利寺での大勝利。長慶の力は既に、六郎政権全体の力を超えている。いま長慶と敵対すれば、相手の兵は二万以上、こちらはせいぜい一万というところだろう。六郎もそれが分かっているから焦っている。なんとかして自分の直轄軍を増強せねばと、ようやく思い至ったようだった。

いよいよ、来るべき時が近づいている。

 

帰り際に声をかけられ、宗渭と一緒に帰宅した。

いままでになかったことである。出迎えた妻も、これには驚いたようだった。下の子どもたちは嫁いでいたり遠くへやっていたりで、普段は夫婦二人で暮らしているようなものだ。三人で夕食を共にしていると、宗渭が幼い頃を思い出さずにはいられなかった。

最近雇った料理人がいい腕をしており、宗渭はがつがつとよく飯を食った。妻も宗渭の話に耳を傾け、嬉しそうに笑っている。

「二人とも怪我がなくて、本当によかった。これで戦は終わるのね」

「……うむ、そうだなあ」

「細川氏綱という人も何を考えているのやら。彼を応援する人の気持ちも分からないわ。ちょっとやそっとの不満があったって、我慢するのが良識というものよ」

「そうだな、けしからぬ者が多過ぎるな」

夫婦で話していると、宗渭が笑い始めた。

「親父、“そうだな”しか言ってないじゃねえか」

「そう! そうなのよ。この人ったら、いつも同じような生返事で張り合いがないの」

「やれやれ。息子は母親の肩を持つもの、か」

こんな風に人にやりこめられるのは久しぶりだった。困った顔をしながらも、内心は温かい。

「なあお袋。俺、しばらく榎並城に行ってくるよ。こんな世の中だから、ちゃんと所領の治安を守らないとな。殿の承諾もいただいた。なかなか顔も出せないけど、元気にしといてくれよな」

「あらあら。まるでまた戦に出かけるみたいな言い方」

妻は戦が済んだと思っている。反対に、宗渭には何かしらの存念があるようだった。

「父上。京を任せたぜ」

「は。言われるまでもないわ」

「俺たちだけでも、真心で殿に仕えようや」

「お前――」

知らぬ間に、子どもは大きくなっている。

「宗渭。今日は飲み明かすか」

「おっ、そうこなくちゃな」

父子の語らいを受け、妻が酒の用意に立ち上がる。その足取りはいつもより軽やかだ。

「お袋との出会いを教えてくれよ」

「……こそばゆいわ。もう少し飲んでから、な」

春の野原、花かごを持って笑っていた妻。遠い昔のことが、やけにくっきりと思い出された。

 

  *

 

「いざ!」

一同杯を干す。天文17年(1548年)、越水城には長慶やその家族・家臣の他、弟三人と康長が集まっていた。今日は正月と勝利の祝いである。舎利寺の戦いの後、持隆や長房、兵の半数が四国へ帰ってからも、長慶たちは氏綱方残存勢力を散々に痛めつけた。もう、氏綱も長教も再起の目はない。後は六角辺りが和睦の調停を始めるまで待つだけだ。

 

徳若に 御万歳と御代も栄えまします 

愛嬌有ける新玉の 年立返る朝より 水も若やぎ木の芽も咲き栄えけるは 誠に目出度候うける――

 

どこで覚えたのか、之虎が千秋万歳を謡い始めた。もともと美声で、扇の遣いも舞いも堂に入っている。たちまち人が群がってきて喝采した。

「はああ。弟さん、ごっつう芸達者でんな。戦も上手いし人もようたらす。こらたいした御仁や」

久秀たち摂津衆もこれには驚いたようだった。戦では四国衆に一目置きながらも、風流では自分たちが優位だという自負があったのかもしれない。

 

野師め野師め 京の町の野師め 売たる物は何々 

大鯛小鯛 鰤の大魚 あわびさざえ はまぐりと はまぐりと はまぐりはまぐりはまぐり めさいなと

売たる者は野師め そこを打過ぎ そばの店見たれば 金襴緞子 緋紗綾緋縮緬――

 

「慶兄よう。この雑煮はうまいけど、こっちのぜんざいとかいうのは味がしねえぞ」

こちらでは一存が料理に文句を言っていた。畿内風の正月料理に舌が馴れていないのだろう。皆の膳には、紅い塩ぜんざいと白い雑煮が並べられている。

「そうかな。なかなかに品のよい味わいだと思うが」

冬康の口には合うらしい。

「毎年こうだけど、俺は嫌だな。雑煮だけでいいや」

千熊丸が輪に入ってきて、叔父たちに甘えている。

「ははは。年を取れば、塩ぜんざいのうまさも分かるようになるさ」

四十をとうに超えた康長は、この中では最年長である。逞しく育った甥っ子と孫のような千熊丸を前に、恵比須様のような表情。一存と九条尚子の縁組が決まった時も、実の父のように喜んでいた。

 

繻子緋繻子縞繻子繻珍 いろいろ結構に飾り立てて候いしが

町々の小娘や お年の寄たる姥たちまでゆきこう有り様は げにも治まる御代なり時なり

恵方の御蔵に ずっしりずっしりずしずしずっしり――

 

あちらでは長逸と長頼、無口な二人が黙々と酒を酌み交わしている。

その向こうでは、基速が新参の石成友通に何やら説教していた。基速は酒が入るとよくない。既に久秀は逃げ出しているが、友通も要領よくあしらっているようだ。

 

宝も治まる 門には門松 背門には背門松

そっちもこっちも 幾年のお祝いと 御代ぞ目出度き――

 

廊下では、あまねがおたきたちに混じって忙しく働いていた。

「あまね、少しよいか」

「あ、お前さま。少しお待ちを、これだけ」

「うむ。あちらで待っている」

人のいない部屋を選び、しばらく待った。

ほどなくして、あまねが現れる。

「どうしたんです、あらたまって」

「紹介しておきたい者がいる。こういう日の方がかえって目立たないからな」

「……まさか、側室」

「こら、そんな訳ないだろう。さ、琴よ」

「うむ」

いつの間にか琴があまねの背後に座っている。

「きゃああ!」

気づいたあまねが飛び上がった。

「も、もう少し普通に入ってこれぬのか。……あまね、この者は琴という。いま見た通り特殊な術を使う女だ。そなたを守ってくれる」

「守るって……」

「拉致、脅迫、暗殺。いま恐ろしいのはそれよ」

「よろしく頼む」

琴があまねに頭を下げる。琴は当初、長慶の依頼に戸惑っていた。自分は琴の大事な弟を守る、琴は自分の大事な妻を守ってほしいと言って、ようやく承諾したものである。

「あ、はい。こちらこそ……」

つられてあまねも頭を下げた。驚きながらも事態を淡々と呑み込むのは、妻の優れた特長だ。

それにしても、あまねのような女と琴のような女が同じ空間にいるのはおかしな気がした。そのおかしさが、今後の世の移ろいを暗示しているように思えてならなかった。

 

  *

 

畿内の混乱に業を煮やした六角定頼が間に入り、足利公方・畠山家と細川六郎の和議が成立した。氏綱は再び姿を隠したが、義晴と遊佐長教が手を引いた以上は兵の集めようがない。

再び京に帰ってくることはできたが、六郎による公方への締め付けは以前より厳しい。実態としては降伏、捕虜になったのと同じだった。このことがどれだけ義晴の自尊心を傷つけたか想像に難くない。義晴の体調は日を追うごとに悪化していた。

「藤英よ。病でなくても、身体が弱ることはあるのだな」

「無念、ただただ無念の一語に尽きます」

藤英は三淵晴員の嫡子で、いまは父と共に奉公衆を務めている。奉行としては若いが、切れる男だ。

「そうだな、確かに無念だ。長慶がいなければ、いまごろは我らと氏綱が京を支配していただろうし」

「許せませぬ。絶対に許せませぬ」

「六郎がか」

「野望と暴慢の権化、三好長慶であります」

弟の藤孝も珍しい男だが、兄の藤英も変わったところがある。自分の意見を述べているというより、義輝の思っていることを声に出して強調しているように感じられる。つまり、上役にとっては話し相手に適しているということだ。

「父と余を辱めたのは」

三好長慶です」

「将軍親政の障害は」

「かつては細川六郎、いまは三好長慶です」

畿内で最も力を持っている者は」

「それも三好長慶です」

「うむ、その通りだ」

氏綱を退けたとはいえ、もはや六郎政権は崩れかかったあばら屋だった。宗三という大黒柱がかろうじて一家を支えている。その宗三ですらも、あれだけ長慶が畿内中の支持を集めてしまえば単独での逆転は難しいはずだ。奉公衆も晦摩衆も、いずれ長慶と六郎が激突すると読んでいる。

「長慶と六郎が争ったらどうなるかな。長慶が余に従うと思うか」

「それはありません。意のままに操れるはずの足利義冬すら担ごうとしていないのです」

「どういうつもりなのかな。阿波の守護代風情が単独で世を治めることなどできぬはず」

「分かりません。分かりませんが、危険です。もし、長慶が誰を担ぐこともなしに天下を支配してしまったら。長慶の政に畿内の民が満足してしまったら。各地の大名が長慶に従ってしまったら。四百年続いた武家の秩序が、根底から揺らいでしまいます。長くは続かぬ勢いや才覚などを頼りに、下剋上の嵐が吹き荒れることになります。古から尊ばれてきた血、絆、伝統、すべて台無しです。激しさを増した乱世は戦を呼び、謀略を呼び、悲劇を呼び寄せます。この国から安定、安心という言葉を奪うに等しい所業です!」

「細川家に天下を預けるのとは、意味合いがまったく異なるということだな」

「公方には武家の棟梁としての責任があります。執権北条や管領細川に政務を任せることはあり得ても、我々に従いもせぬ山奥の地侍に天下を簒奪されるなど、絶対に許してはなりません」

「よう言うた。余もまったく同じ思いだ」

近江へ落ちる際に義晴が流した悔し涙が忘れられない。あの涙は、足利公方の凋落の象徴だ。あの涙の原因を取り除くことで、初めて誇りと栄光を取り戻すことができる。

「いっそのこと、六郎を取り込んでしまえば。そうすれば六角定頼も躊躇うことなく我らに力を貸すはず」

定頼は公方を尊重してくれているが、六郎の縁戚でもあった。

「六角を主力に、丹波の波多野晴通、出雲の尼子晴久、越前の朝倉孝景辺りを使う形か。摂津衆は宗三の他、伊丹親興くらいしか当てにならぬだろうし」

朝倉孝景は最近、急な病に倒れたとか」

「ふん、父が仰っていた通りだな。朝倉は肝心な時ほど役に立たない」

朝倉宗滴などを派兵してくれればよいのですが、一向一揆に美濃の斎藤利政、江北の浅井久政など、あの辺りもなかなか情勢が乱れております」

「過去の経緯がある割に、本願寺は長慶と仲がいい。斎藤を認めるのは三好を認めるのと同じだ。難しいものだな。言ってはみたものの、波多野晴通も信じてよいかどうか。長慶に妹を嫁がせているのだろう」

「波多野は六郎と昵懇。長慶に従うことはありますまい」

「すると、妹には気の毒なことになるな」

武家の習いでしょう」

公方の直轄兵力はせいぜい五千。利権が複雑に絡み合う京の近辺では、直轄軍をいま以上に拡充させることは難しい。長慶の専横が明らかになるにつれ、各地の心ある大名を動員していくしかないのだ。

「まずは六郎との融和。次に各国大名との親密化。楽な道はない、愚直にいこう」

「はっ! 奉公衆一同、身命を賭して」

藤英の返事は喜びに満ちていた。義晴・義輝父子同様、彼らも長い間、寂しい境遇に忍従している。義晴に続き、義輝が積極的に公方権力を回復させようとしているのが嬉しいのだろう。細川家に実権を奪われて以来、奉公衆は外交や調略の腕だけを一意専心に磨いてきた。その力を正しく導けば、できることはまだまだ多い。

十三歳にして既に、自分には奉公衆を使いこなすだけの知恵がある。どんな報告も瞬時に要点を理解できるし、奉行に不足しがちな大局の観点を補うこともできる。若い分、伸び代だってたくさんあるはずだ。

(足利公方、中興の祖と呼ばれたい。その折には、父と奉公衆のお蔭だと言ってやろう)

そんな密かな思いすら抱いている。そのためにも、公方の主導で長慶を滅ぼさねばならない。これはもう、征夷大将軍たる余が決定したことなのだ。

 

  *

 

公家との結婚というものは、うんざりするほど長い手続きが必要だった。正月以降、一存は三度も京と讃岐を往復している。大勢の白塗り貴族に会って、この人が何々小路だの、あの人が何々川だのと紹介されたが、誰ひとり記憶に残っていない。全員、同じ顔にしか見えなかったのだ。

尚子との結婚に不満はない。どちらにしろ嫁取りはしなければならないし、九条家との関係が深まれば長慶や義父に喜んでもらえる。京でも摂津でも讃岐でも、九条家と十河家の縁組は驚かれているらしい。天変地異、とまで言った坊主もいるそうだ。

ある日、義父の存春はしみじみとこう語った。

「いまだから言うが、お主の養子入りを快く思わない者もいた。溜め池で泳ぐわ、篠原に闇討ちはするわ、何度も肝を潰しもした。……それでも、わしにとっては優しくて、頼りになる、いい息子だった。そんなお主が、戦で大功を立て、挙句に前関白殿の娘を嫁に貰うとはなあ。これほどな栄華が我が身の上に訪れるとは、思いもよらなかったよ。これで十河の家は安泰じゃ。ありがとう、一存。本当にかたじけなく思うぞ……」

言われた一存は、男泣きに泣いた。養子に出されて以来、一存の胸にはいつだって洞穴が空いていた。その穴を埋めるために武芸の稽古に励んだし、力競べでは一番にこだわってきた。それが存春の言葉で、ようやく充足し、完全な自分を得たような気がした。

突然の号泣に存春は驚いたようだったが、やがて、ぎゅっと抱きしめてくれた。いまでは一存の方が身体は大きいが、包まれているような温もりがあった。そして、親子二人で抱き合って泣いた。

新たなもう一人の義父、九条稙通は変わった男だった。尚子のことはそっちのけで、天狗入りの話ばかりをしつこく聞きたがるのである。尚子の方も扱いに慣れているようで、一存の額をぺちぺち叩きながら

「いっつものことやから。ほっとき、ほっとき」

と言って、別室に避難させてくれた。

尚子もさすが九条稙通の娘というべきか、あまり公家らしさのない、さばけた態度の女である。小さな頃から稙通と共に諸国を放浪し、苦労を知っているのかもしれない。家中の女たちと要らぬ衝突を起こすこともなさそうだ。祝いに来たいねとは気が合ったようで、女同士、やかましく笑いあっていた。

 

ようやく一通りの婚儀が片付き、一存は十河城で一息つくことができた。

時間ができた時は自身の鍛錬か、愛馬“白雲”の世話をするようにしている。葦毛の馬は弱いとか遅いとか言う者もいるが、白雲は一存を乗せて何里も駆け通すことができるし、敵の槍や弓矢に怯むこともない。そんな白雲の意気に応えるためには、自らの手でできるだけのことをするのが筋だ。

藁の束で馬体をゆっくりこする。白雲はこれが好きだった。

「がはは、気持ちよいか。ほれほれ」

馬にも表情がある。瞳を見れば真情も伝わる。嘘やおべっかを言わない分、人間よりも付き合っていて楽しいくらいだ。

「ここにおられましたか」

声をかけられた。一存の配下だった男、鴨部源次だ。舎利寺でも一緒に戦った仲である。

「ああ、源次か。そうか、出立は今日だったな」

「数々のお心遣い、痛み入ります」

「わざわざ暇乞いの挨拶とは、お主こそ律儀な男よ」

十河家の勢いが増したことを讃岐の近隣勢力は愉快に思っていない。西讃の香川氏は伊予の河野氏に接近しているし、東讃の寒川氏は近頃反目を露わにしている。寒川元政はなかなか剛毅な男だから、十河に呑み込まれる前に一戦交え、有利な条件で盟を結びたいという腹積もりだろう。

その寒川家には源次の兄が仕えている。主家のために、兄弟で殺しあうことはない。

「この上は、兄弟揃って一存様に挑む所存」

「それでよい」

「つ、次は戦場にて……」

源次の頬が光ったのを見て、一存は白雲の方に目を戻した。別れの挨拶は済んだ。後は槍と弓矢で語り合える。源次が崩れ落ちて嗚咽しているのが分かったが、一存は決して振り返らなかった。

 

  *

 

川湯温泉和歌山県田辺市)は紀伊国の山深くにある。

河原を手で掘るだけで、温泉が湧いてくる。少し手間を掛ければ、石で囲って即席の入浴場を築くこともできる。焼いた川魚はうまいし、清流を眺めていれば心も穏やかになってくる。畿内ならば人の命をつい粗末にしてしまうが、ここにいれば川虫の命ですら大事に思える。

これは夢だ。それが分かっていても、覚めるには惜しい。

しばらく湯に浸かっていると、男が入ってきた。これも思ったとおりだ。

「久しいな、長政」

自分から話しかけた。

「……」

「どうした。いまでもわしを恨んでいるのか」

「……お主は疲れている。刀を置いて、紀伊に戻ってこい。いまなら間に合う」

「た、たわけたことを。わしはお前を裏切ったのだぞ。裏切って掴んだ成功なのだぞ。ここで諦めたら、お前は無駄死にではないか」

「……相変わらず真面目な奴。いいか、このままだとお主はこうなる」

長政が手を上げた。途端に、青空が歪んで満天の星空に変化する。無数の流れ星が現れたと思うと、それらが長教目がけて降り注いできた。光の矢が長教の身体を貫き、焦がしていく。

 

「ぎゃああ!」

布団から飛び起き、転げ回った。それ以上は顎が震えて声が出ない。腰も抜けてしまい、立つこともままならなかった。臭気。よく見れば寝巻は汚れ、周りに糞と小便が散乱している。

 

「何だかこの部屋、独特の匂いがしますねえ」

「……白檀を焚き染めてある」

旅の盲人、珠阿弥に身体を揉ませていた。彼は目が見えない分、鼻が利くらしい。

六十近くなって、身体のあちこちが言うことを聞かなくなってきた。舎利寺での敗戦以後は特にそうだ。歳のせいだから下半身が緩くなるのは仕方ない、もともと男は腹が弱い生き物だと医者は言っていた。

「はい、次は肩周りをやりますからね。腕を持ち上げたりしますが、お気になさらず」

先ほどから珠阿弥は、何か動きを変える度に声をかけてくる。

「何かあればこちらから言う。黙って揉んでくれてもいいのだぞ」

「お耳障りでしたか。や、盲人の癖でしてね。表情や様子から察する、ということが難しいでしょう。何をするにも、会話だけが頼りなもので」

「……ああ、そうだな。わしも配慮が足りなんだ」

「いえ、いえ。恐れ多い」

「目が見えなくなって、不便か」

「そりゃそうですよ。でもまあ、いいことも多いものです。思っていたより世間は優しく、酷い人は少ない」

話しながらも珠阿弥の手は止まっていない。首のこりをほぐされ、よい心地だった。

「一番困ったのは」

「とにかく怖いことですねえ。出歩くだけでも怖い。走ってくる人や馬が怖い。橋を渡るのが怖い。人に身体をいきなり触られるのも怖い。照れ臭いのか、黙って手を引いてくれる方が多いのです。親切はありがたいんですが、ひと声かけていただかないと何が何やら分からない」

「もっともだな」

確かに我々は、目で見て察するということに甘えているのかもしれない。

「とにかく、何でも声に出すのはいいことですよ。悩みも思案も口に出せば楽になります。心の按摩ですな」

「ふん……。これからわしはどうしたらいいか。そんなことも話した方がいいのかな」

「と、言いますと」

「長慶は強い。一旦和睦はできたが、わしの寿命が尽きる前に勝てる気がしない」

「……」

「ただ、詰めが甘いところもある。わしが生きているのが何よりの証だろう? さて、今後も長慶と戦い続けるべきか、いっそ六郎に鞍替えでもしてしまうか、それとも……」

「こ、これは手前には余るお話のようで」

動揺したようで、背中の経穴を押す力が強くなった。痛いが、悪くない。

「ははは。何でも口にすると言っても、話す相手は選ばんとな」

「そ、その」

「どうした」

「生きて、帰していただけるのでしょうか」

「本気だったと思うか。元盗賊だというのに、気が小さい奴め」

縮こまる珠阿弥に、今度は灸を頼んだ。じりじりと焼けるもぐさが、夢で浸かった温泉を思い出させる。確かに、少し疲れているようだ。知らぬ間に長教は眠ってしまっていた。

 

  *

 

「よいことを思いついたのだが」

家族三人で朝餉に向かっている時、長慶が口を開いた。

「なんでしょう」

「天気がいいから、海にでも行かないか」

「行く!」

千熊丸が即座に叫んだ。父親から遊びに行こうなどとついぞ言われたことのない子である。興奮するのも無理はない。

「海って……鳴尾(兵庫県西宮市)ですか」

「いや、どうせなら日頃行けない所がよい。須磨(兵庫県神戸市)なんてどうだ」

「行きたい! 釣りしたい!」

「静かになさい。須磨だと、日帰りでは難しいんじゃ」

氏綱との戦いが終わったとはいえ、畿内の情勢は不穏なままである。長慶が城を空けてよいのだろうか。

「一泊くらいなら長逸も許してくれるさ。それとも、三人で城を抜け出すか」

「冗談ですよね」

「……冗談です」

長慶が誤魔化した。言いつけを守って、あれ以来一人で出歩くことはしていないようだ。

夫の気持ちは分かっている。それを家臣も理解している。長頼を護衛につけるということで、長逸たちも了承してくれた。千熊丸のはしゃぎ様はただ事ではない。その姿に、あまねは罪の意識すら覚えた。

 

須磨も鳴尾も住吉(大阪府大阪市)も、摂津国の浜辺は松の名所として名高い。須磨の松林の見事さに、あまねは心を奪われた。初夏の黒松はうら寂しさよりも、匂い立つ情感の豊かさを想起させる。松林の陰に茣蓙を敷いて、あまねは夫と子どもの姿を遠目に眺めた。

長慶、千熊丸、それに長頼の三人は浜辺でじゃれあって遊んだ後、小舟を出して釣りを始めた。長頼の指導で、太刀魚釣りに挑戦するらしい。長頼は見かけに似合わず子どもの相手が上手かった。

太刀魚は難しいと聞くから、釣果が出るにはしばらくかかるだろう。侍女たちにも休息を取らせ、あまねは茣蓙の上で楽な姿勢になった。

(夕餉は新鮮な太刀魚とお酒……)

ぼんやりと、はしたないことを考える。他に考えなければならないことがあるのに、そんな気にはなれない。いまの自分は、あまりにも幸せ過ぎた。

「侍女を遠ざけるのは、感心しない」

突然話しかけられ、“ひっ”と変な声が漏れ出た。いつの間にか琴が横に座っている。

「来てくれていたのですか」

「妾の役目は、お前を守ることだ」

長慶は琴の素性を詳しく話さなかった。何か、色々と事情があるようではある。

「面倒な、役目ならすみません」

「役目に面倒というものはない。だが……」

「だが?」

「清濁はある。これは汚くない役目だ。お前の夫は、なぜか妾に汚れ仕事をさせようとしない」

「汚れた仕事をしたいのですか」

「誰かがやるべきなら、できる者がやるべきだ」

あまねはおかしくなって、口元に袖を当てた。

「何がおかしい」

「あなたは、夫と似ているのですね。きっと、あなたに普通の暮らしをさせたいのでしょう」

「なぜ分かる」

「妻ですから」

言い切ったあまねに、今度は琴が驚いたようだった。表情には出さないが、何かを考え込んでいる。一方のあまねも、言葉をそこで終わらせることができなかった。唇を震わせながら、続きを言ってしまう。

「……もうすぐ、そうじゃなくなるのでしょうけど」

涙が一筋、流れ落ちた。

「この流れでは、そうなるだろうな」

「これからも、あたしの傍にいてくれますか……」

「それがお前の夫の願いだ。妾にも、少し分かってきた気がする」

目元を拭う。泣くために須磨へやって来た訳ではない。

「あたし、今日のこの日を忘れないでいようと思うんです」

「……辛いことを言うのだな」

「別れは終わりではありません。忘れてしまうことが、終わりなんじゃ……ないかと……」

駄目だ。次から次へと涙が溢れ、しゃくり上げてしまう。琴はこういう状況に馴れていないのか、それとも配慮からか、何も言わずにあまねを見守っていた。

強い風が吹いた。砂と涙をもう一度拭い、海の上に目を移す。

千熊丸が太刀魚を釣り上げ、小舟の上で飛び跳ねているところだった。

「この松たちは……こんな涙を、何度も見てきたのでしょうね」

「そうだな、松風だけはいつの世も変わらない」

 

続く

 

 

二十ニ 魔導師の段  ――足利義輝 屈辱を抱いて京を脱出し、三好之虎 舎利寺の大戦を掌握す――

二十ニ 魔導師の段

 

兵が続々と上陸してきた。半信半疑だったが、細川持隆が長慶の説得を受け入れたという噂は本当のことだったらしい。芥川山城を失い、越水城に身を寄せていた孫十郎は小躍りしてこれを迎えた。

兵力は二万を優に超えている。数だけでも氏綱軍と互角、しかも士気は極めて盛んだ。三好兄弟の統率に加え、細川持隆が出張っていることが大きい。

挨拶もそこそこに、直ちに進発した。最初の目的地は氏綱方に寝返った池田城である。四国・淡路衆の出現は池田信正の虚を突いていた。池田城とてかなりの堅城だが、抗う気持ちも失せてしまったらしい。三日と持たずに信正は降伏を申し入れてきた。領地が近い伊丹親興もそれに続く。

昨年の氏綱方の躍進が嘘のようである。天文十六年(1547年)の春、瞬く間に摂津は長慶軍に制圧されていった。長慶や持隆、三好之虎、十河一存たちが各地の氏綱方を撃破していく。その勢いに乗って、孫十郎は安宅冬康・野口冬長が率いる淡路衆と共に芥川山城の奪還を遂げた。城の構造や地形を知悉する孫十郎は抜群の指揮を見せたし、冬康の強弓は敵の武将を次々と射落としていった。冬康は一見穏やかな文人のようだったが、長慶の弟、水軍衆の頭目というだけのことはあるものだ。

「天下の要衝である芥川山城を押さえれば、戦の趨勢は決まったようなものだな!」

冬長が上機嫌で言う。この男は明朗で、気が合いそうだった。

「孫十郎殿のお役にたててよかった。縁戚同士、これからも力を合わせていきましょう」

冬康は手柄を誇るでもなく、孫十郎の与力といった態度である。それに淡路衆が不満を言わないのは、冬康が兵から信頼されている証拠だ。他家の者を前に、面子を気にする必要すらないのだろう。

「ご加勢、かたじけない。お蔭で城も取り返すことができた。まったく、水軍衆の弓矢とは恐ろしいな。陸上でもこれほどの猛威を振るうとは正直思わなかった」

「船の上も最後は度胸と斬り合いですが、調練はもっぱら射撃なのですよ」

「義兄貴の弓は、波も風も無視して的を射ぬくんだぜ」

「こら、大口を叩くな。と金殿にとっては我らなどひよっこに過ぎぬ」

「はは、謙遜を。ところで、わしはこの城を守ることになるが、お主たちはこれからどうする」

南進して氏綱方の主力、遊佐長教の軍に決戦を挑むのか。それとも北進して、京を伺う公方と一戦交えるのか。普通に考えれば、公方と争っても何ひとつよいことはない。

「慶兄の指示を待ちますが、まずは京の治安回復を優先するのではないでしょうか」

「しかし、公方と戦えば後が面倒だぞ。討伐令を出されでもしたら、全国の大名を敵に回すことになる」

「覚悟の上です。少しずつでも、公方の影響力は削いでいかねば」

こともなげに冬康が答えた。長慶の思惑が分からない。六郎の配下として動いている訳ではないのか。冬康たちの態度は、孫十郎の混乱を招いた。

頭を使うのは苦手だが、状況を整理してみる。

いま畿内で起きているのは、六郎と氏綱の家督争いだ。六郎には宗三、氏綱には長教がついている。

六郎は丹波に避難しており、宗三・宗渭父子が京や淀川流域で氏綱方を食い止めている。

氏綱方は四国衆の反撃を受け、一旦兵を退いた。勢いが止まったとはいえ、河内衆・紀伊衆・大和衆を中核とした大軍団はいまも健在だ。

公方は氏綱を公然と支援している。本音では将軍親政を望んでいるとも聞く。義晴は将軍職を嫡子義輝に譲り、全力で六郎と一戦交える構えである。

そして長慶と四国・淡路衆。長慶は六郎の配下であり、持隆はもともと六郎の縁戚かつ庇護者である。単純に受け止めれば、彼らは六郎の加勢に駆けつけたことになる。おそらく、敵も民もそう考えている。だが、畿内上陸後の彼らはろくに六郎や宗三と連携を取り合っていない。独自の判断で動いているようだった。

(四つ巴という言葉があるのか知らんが、なんともややこしいことになってきた。糞、わしはどうしたらいい)

戦いたくない相手は誰だ。宗三。宗渭の義理、旧領復帰の恩がある。長慶。長い付き合いで、その才には一目置いている。義晴。足利義冬のような対抗馬を立てずに公方と戦うのは無理だ。武家にとって、公方は絶対的な家長なのである。家長に逆らえば家から追い出される、子どもでも分かる道理だ。今回、長慶も持隆も義冬を阿波に置いてきている。それで公方と戦うとは、いったい何を考えているのか。

(うむ、氏綱と戦うのはありだ。そこから先は、様子を見るしかないか……)

孫十郎は一介の国人であり、せっかく取り戻した家と領地の存続を第一に考えねばならない。

(これだから畿内の戦は嫌だ、考えねばならぬことが多過ぎる。ええい、なぜわしは畿内に生まれたのだ)

戦勝に沸く連中を余所に、孫十郎の表情は冴えなかった。

 

  *

 

何度か六郎の内衆が小競り合いを仕掛けてきたが、彼らの戦意はすこぶる低い。すぐさま蹴散らされ、這う這うの体で逃げ去っていく。

六郎政権はあくまで将軍政務を代行する名目で成り立っている。権益を細川家が握ることはできても、公方の存在そのものを抹消することはできない。脅迫程度にしか使えぬ弓矢ならば、張子の虎と同じだ。

父の義晴は上機嫌だった。義輝も初めての実戦が連戦連勝で、いたく満足している。奉公衆の表情も明るい。六郎方の一部を引きつけておけば、やがて氏綱軍が京を制圧するだろう。その日から、再び公方の天下支配が始まる――。

 

そんな目論見は、四国・淡路衆の上陸によってあえなく崩れ去った。

次々と味方の城が落とされていく。野戦を挑んでも連戦連敗だという。絶望感が瓜生山城を包んだ。奉公衆は、なぜ持隆が動いたのだと喧しく騒いでいた。勝瑞館に入れていた者からの連絡は途絶えている。晦摩衆による籠絡が頓挫したのは間違いない。進士晴舎が腹を切ろうとしたが、義晴に止められた。

「藤孝よ。本当に長慶は我らを攻める気なのかな」

側近の藤孝に問うた。三淵晴員の息子たちもそれぞれ元服し、嫡子の弥四郎が藤英、二男の萬吉が細川藤孝を名乗っている。

「進歩と調和の怪物、それが三好長慶です。応仁以来、百年に及ぶ畿内の戦乱。我らに対する民草の渦巻く憎悪が、あのような男を生み出したのでしょう。……上様、敵は時代の風そのもの。戦って打ち破る道を選ぶか、それに取り込まれる道を選ぶのか、ふたつにひとつです。並び立つことはできませぬ」

「ならば、余は戦いたい。意気地なき変容などできぬ」

「……その気高さが、ただただ眩しい」

褒められたのだろうか。なぜだか分からないが、藤孝と話していると胸がほのかに温まってくる。

 

それから幾日も経たぬうちに、長慶軍が入洛してきた。町衆や寺社、更には公家までが長慶の登場を喜んでいるらしい。待ちかねていたと言わんばかりに、長慶へ誼を通じる者が列をなしている有り様だ。

開城を申し入れられた。義晴が激怒して使者を追い返したところ、翌日から長慶軍の包囲が始まった。敵は二万、勝ち目はない。小手調べに出陣した小勢は讃岐衆による凄まじい攻撃を受け、全滅に近い被害を出した。長慶軍に逡巡はまったく見られない。自陣の士気は急速に萎んでいった。

その夜から議論の方向が変わった。長慶の戦上手は周知の事実だ。四国兵の勇猛さも名高く、畿内で張り合えるのは丹波衆か各寺院の僧兵くらいである。いずれ六郎も勢力を盛り返してくるだろうし、敵は足利義冬という奥の手も持っている。事態が好転する見込みは薄い。結局、近江への退避が決まった。

闇夜の中、僅かな灯りで輿に乗り込む際。義輝は、人知れず義晴が悔し涙を流しているのを見た。

(父を――汚された)

その時、長慶に対する言いようのない忌避感が湧き上がってきた。

 

  *

 

「また男を上げなさいましたねえ」

「久しいな、龍吉」

平蜘蛛町にある、龍吉の住居。いまでは町の女主人のようになった彼女の住まいは、質素でささやかなものであった。華奢な調度品のひとつも置かないのが、龍吉の小ざっぱりとした美意識なのだろう。

案内された部屋に入ると、男女が平伏していた。久秀が耳打ちしてくる。

「こいつらが楠木姉弟ですわ」

長慶たちが四国へ渡っている間に、与四郎が大甕の中に隠して連れてきたという。事情を聴いた久秀が気を利かせ、龍吉に保護させていた。平蜘蛛町は出入りする人間が多いから、よそ者も目立たない。

「よく来た。後南朝のことなど興味はあるが、いまは時間がない。お主たちの安全は保障しよう。引き続き傷の養生に努めるように」

「は、は!」

正虎がよく通る声で返事した。姉の琴とは、けっこう年が離れているようだ。

「……待たれよ。なぜ妾を斬らぬ」

「なぜとは」

「分かっているのだろう。あの時、一向一揆を煽動したのは妾なのだぞ」

「……長政は死んだ。長教の野望ももうじき終わる」

「甘い男だな、三好長慶

琴が吐き捨てるように言うのを耳にして、すかさず久秀が声を荒げた。

「なんやこるあ! こっちが優しい顔してたら調子に乗りくさって」

正虎が慌てて琴を庇う。長慶も久秀を制し、そのまま部屋を後にした。廊下で久秀が騒ぐ。

「ほんまにええんでっか。無礼もんにはちゃんとバチ与えとかんと、つけあがりまっせ」

「お前がそれを言うか……。構わぬ。それに、ちょうどよかったのだ。あの女には頼みたいことがある」

「へ?」

訝しがる久秀を無視して表に出た。戦が続いているというのに、色町の客足はまるで衰えていない。

 

氏綱方との決戦を前に、軍勢は一先ず越水城に再集結していた。城に入りきらない兵は、近隣各地に分かれて駐屯している。大軍を集めると米も物も相当量が必要になるから、西宮や尼崎、兵庫津などではちょっとした特需が生じており、商人たちはほくほく顔である。

城に戻ると、何やら不平を漏らしている男がいる。一瞬見間違いかと思ったが、それは一存だった。

「どうしたのだ」

「おお、慶兄。あれを見てみろよ」

広間の上座には、勝ち栗が山盛りになった籠が鎮座している。

「栗だな」

「六郎様からの差し入れだとよ! 自分は兵も出さずにいい気なもんだぜ」

「すると、丹波栗か。これはいい、ありがたくいただこうよ。お見えになってあれこれ指図されるよりいいだろう」

丹波の栗は貴重だ。大粒で、深い甘みがあり、ほくほくとした食感は幸福そのものである。一度、蜜で煮た丹波栗を小豆餡と共に食べたことがあるが、あれは思い出すだけで涎が出てくる味だった。

「む……」

栗を口に入れた一存が無言になった。

「うまいだろう。たくさんあるから、おかわりもいいぞ」

「こ、子ども扱いするなよ」

そう言いながらも一存は手を止めようとしない。相変わらず食い意地の張った弟である。

「ところで、さっきから気になっていたのだが。なんだその頭は」

先日見た時は総髪だったのが、今日は月代を長方形に大きく剃り上げた珍妙な頭になっている。月代を剃ること自体は珍しくないが、その剃り方の広さ・形が大胆過ぎはしないか。

「兜が蒸れて湿疹ができた。それで、鬱陶しくなってな」

「之虎たちには見せたのか」

「それも一興だって、褒められたぞ」

「そ、そうか。まあ……遠くからでもよく分かって便利だな」

あまり考えたことがなかったが、これからの時代は髪型も色々と変化していくのだろうか。もし、この一存の頭が流行するようなことがあれば……。その光景を想像して、つい一人笑いしてしまった。

 

翌日。家臣、兄弟、持隆や康長、篠原長房などを一堂に集めて、軍議を行った。

情勢は長慶たちにとって有利である。氏綱方から取り戻した城や領地は元の国人領主たちにそのまま返してやった。これで長慶の声望は一層高まり、日に日に味方の数が増えている。焦った長教は長期戦を避け、野戦を挑んでくる公算が大きかった。それはこちらとしても望むところだ。

一通り情勢や地形、作戦のすり合わせを行った後で、長慶が一同に向かって告げた。

「最後にひとつ、含んでおいてもらいたい。この戦には、さる貴人が同行される」

「ほう、戦見物とはいいご身分じゃあないか。で、どちら様だい?」

持って回った長慶の口ぶりに、之虎が質問する。

「うむ……。落ち着いて聞いてほしい。九条稙通殿だ」

一存を除き、皆の顔色が変わった。一存は稙通を知らないようで、むしろ周囲の反応に戸惑っている。

「なんと、五摂家筆頭の……。なにか、帝のご叡慮でもあるのか」

代表して持隆が問う。実際、この中で落ち着いて公卿に接することができそうなのは持隆くらいである。

「や、ただの興味本位のようです。兵には、朝廷の支持を得たとでも伝えてみますが」

「長慶は、九条家とも付き合いがあるのだな」

「ひょんなことから親交が始まりまして」

「カカカ、これはよいわ。土佐の一条殿ではないが、わしらのような田舎者は前関白と聞けば訳も分からずありがたがるものよ。兵たちの士気はますます高まる。この戦、貰ったな」

我ながらよいことを思いついたものである。稙通は長慶の実戦を見たがっていたから、快諾してくれた。

遊佐長教と、彼が率いる河内・紀伊衆は相当に手強い。筒井順昭の実力も未知数だ。打てる手は、何でも打っておくべきだった。

 

  *

 

年が明けてから、事態が急変してしまった。

四国・淡路衆の渡航は突然で、熊野水軍を使った妨害は間に合わなかった。その後、長慶は次々と氏綱軍を撃破。しかもその後の処置が巧みだった。まず、取り返した領地はすべて元の国人衆や荘園主に返還。自分の権益はまるで増やそうとしていない。その上、氏綱方を戦では叩きのめしながら、降伏してくる者には寛大な態度を示し、人質を取るようなこともしなかった。これで、摂津を中心に多くの国人衆が長慶個人に従うようになったのだ。

「長慶め、所領安堵で人を釣るとは小賢しい」

長教の苛立ちは募るばかりである。昨年秋に長慶を堺で追い払ってから半年かけて手に入れたものが、今年の春から夏、長慶にすべて取り返されてしまった。いまだ長教傘下の精鋭軍団が健在とはいえ、流れはいかにも悪い。

「おのれ、こんなことなら会合衆の和睦斡旋など断っておくのだったわ」

悔やんでも遅いのは分かっているが、言葉にせずにはいられない。

「いまも、会合衆は長慶を支援している節があります。あれだけの大軍を機動的に動かし、また、略奪や土地の接収に頼らぬ長慶の戦略。相当の財力が背後にあるはず」

安見宗房が同調する。もとは木沢長政の腹心だったこの男は、打倒長慶の思いが強い。

「長慶は瀬戸内交易の利権を牛耳っている。そこへ会合衆までが助力すれば、銭の力で奴に勝てる者はおるまいな」

「それにしても、摂津衆がこれほどの勢いで離反するとは」

「それよ。我ら畠山家が、細川家の後継候補を担ぎ上げたのだぞ。畠山と細川が連合すれば国人衆は馳せ参じてくるのが当然。実際、この春まではそうだった。足利公方のお墨付も得たではないか。それが、阿波の山奥から出てきた小僧に何もかもひっくり返されようとしている。裏切り者たちは何を考えておるのだ。あんな地侍如きの風下に立つなど、由緒ある畿内衆の誇りはないのか」

「仰る通り、畿内中が邪法にでもかけられたような有り様。誰もが規範を見失い、幻惑されています」

「まるで、かつての長政のようだな」

そう長教が水を向けると、宗房は露骨に機嫌を損ねた。

「受け狙いで行動している男と、長政様を一緒にしないでくだされ」

「はは、真に受けるな。確かに長慶は迎合野郎だ。民におもねっているだけだ。あんなやり方では人の上に立つことなどできぬ」

「その通りです。長政様は、慈しむべき者と裁かれるべき者とを明確に分別していました」

いまも長政への思慕は強いらしい。それでも、宗房は家名存続のため、長教に降るしかなかった。

「いずれにせよ、このままではまずい。兵数が拮抗しているうちに会戦を仕掛けるしかないな」

「そうしましょう。鮮やかに勝利し、人々を悪夢から覚ますのです」

氏綱方の人気を回復させるためには、分かり易く、正々堂々と長慶に勝つことが一番である。長慶たちは早晩、河内へ向かって進軍してくるはずだ。勝利を重ねた軍には必ず緩みがある。まして、自分の眼力がそれを見逃すことはあるまい。長教は勇んで味方への伝令を発した。

 

  *

 

長慶軍と氏綱軍は摂津と河内の国境、舎利寺(大阪府大阪市)の界隈で睨みあった。

石山本願寺の南に位置するこの辺りは台地から平野に切り替わる地点で、正面には大和川の支流、平野川が流れている。意外だったのは、氏綱方が川を背にして布陣していることだ。敵の大将、遊佐長教は胡散臭い男だと聞いているが、案外肝は太いのかもしれない。

両軍合わせて四万名。これだけの人数が一箇所に集まった景観を、之虎はいままで見たことがない。陣構えは、互いに横一列に広がったような形である。遮蔽物のないこの地形では、真正面からの力比べになるということだ。こちらは長慶、あちらは氏綱と長教だけが、それぞれ一段下がったところに陣を敷いているところまで同じである。

「いいですなあ、鏡写しのようなこの対陣。これでは負けても言い訳のしようがない」

「カッカカ、これこそ男の戦いよな」

「面白いことに、まるで負ける気がしないのですよ」

「頼もしいのう」

持隆が嬉しそうに之虎を見つめる。之虎の周りには持隆の他、篠原長房も含めた供回りが控えていた。之虎の供回りは具足を藍色で揃えており、その姿をもじって愛染衆と呼ばれている。いずれも阿波を代表する勇士であり、激しい調練を積んでもいる。いまなら、尼子の新宮党にも遅れは取らないはずだ。

この戦では、全軍の統括を之虎が命じられていた。主力が四国・淡路兵であり、日頃の調練を之虎が指揮している以上、その方がよいと長慶と持隆が判断したのである。二十一歳の自分に命運を託すとは、二人とも豪気というか、呑気というべきか。もっとも、これが之虎の心に火をつけたのは間違いなかった。

淡路衆の冬康と冬長は任せて大丈夫だ。讃岐衆は存春が指揮を取るが、一存が突出する可能性があるため康長に目付を頼んである。康長は一存と馬を並べるのが嬉しいらしく、之虎の頼みを即諾した。

長慶には当面待機、機を見て好きなところへ攻撃を仕掛けてほしいと伝えた。兄の軍才ならば、最高の頃合いで最適な急所を突くはずだ。逆に最悪の場合は、九条稙通卿を守って先に落ち延びてもらう。他に、鳴り物衆だけは部隊ごと借り受け、既に音と動きの調整を済ませている。

「これほどの会戦は大物崩れ以来よ。分かるな、之虎」

「俺たち兄弟、一人ひとりが父と同等です。三好元長が四人いると思ってくだされ」

「カカ、それでは負けようがないな。いけ、之虎。その名を轟かすがいい」

「無論!」

持隆と視線を交わしてから、正面の相手を見据える。敵陣の気配にも変化があった。

「敵、動きます」

長房が声を上げた。いよいよ本番だ。四国・淡路衆の真骨頂は兵数ではない。鍛え磨いた得意の技が、いまこそ活きてひとつになる時。初めて見せるこの力、敵が気づいた時には決着だよ。

 

矢戦の後、壮大な槍合わせが始まった。何しろ人数が多い。何千本もの長槍が上がり、叩き合う様は地獄の祭のようだ。ばちばちと槍を組みあう音、兵の喊声や悲鳴、声を枯らす伝令、掛かり太鼓を奏でる鳴り物衆。あちらこちらで人が死んでいく。そんな些細なことには目もくれず、兵はひたぶるに突き進む。

「一興、これも一興」

之虎は笑っていた。今日は大勢の人が死ぬだろう。なんのために死ぬのかも分からずに、苦しみ悶えるのだろう。それでいい。人の生はそういうものだ。戦え。主のために戦え。栄誉のために戦え。生きるために戦え。これだけの大軍を率いる異常な事態は、もはや之虎にとって愉悦に変わりつつあった。

精神の変容と歩調を合わせるように、之虎の采配が鋭さを増していく。敵兵の動きひとつ、伝令の報告ひとつが自分を成長させている実感があった。敵陣の硬軟が見えてきた。自陣の強弱も把握できた。

そんな之虎を、持隆や長房は驚愕の眼で見ている。戦が始まった頃はあれこれと報告したり、気づきを口にしたりしていたが、いまは之虎の命令を正しく味方衆へ伝えるので精一杯だ。日頃近くにいる彼らすら、之虎の大器を読み切れていなかった。

(俺は、万を超える戦が性に合っているらしい)

痺れるような実感。

今日の勝利は、明日の三万の敵を呼ぶ。そいつを倒せば、今度は五万の敵が攻めてくる。果ての果てには、十万と十万で争う戦があるかもしれない。なんとも楽しみなことじゃあないか。

之虎は高笑いを始めた。

「之虎殿……?」

長房が怪訝な顔で聞いてくる。

既に会戦から一刻が過ぎていた。まだまだ戦は一進一退、互角の状況だ。背水の敵は死に物狂い、士気に衰えはない。だが、それはあくまで表面上のことだ。

「聞くのだ、長房。その優れた頭脳で、伝令の仕方をよく考えろよ。……見ろ、あそこで猛攻を見せている連中。あれは筒井順昭率いる大和衆だ。あいつら、実は倦んできているぜ。さっきからな、頭に損得勘定がちらついていやがる」

「な、なぜ分かるのです」

「次だ。正面やや右、岩のような戦をしている奴ら。あの風体、あれは根来衆じゃあないかな。あいつらが敵の要だ。あそこが崩れないから、河内衆も大和衆も退かない。勝ち目があると信じて戦えるんだ。だから、あの根来衆を潰す」

「もう少し、根拠を」

「黙れ。議論している場合じゃあないだろ。俺を信じるのか、信じないのか」

之虎の激しい気迫を目の当たりにして、長房の面にも覚悟が入った。

「信じます」

「よし、ならば淡路衆と讃岐衆に合図だ。“やぶれ峻雷碧”を仕掛ける」

「はい!」

長房が走っていった。同時に、之虎は鳴り物衆へ指示を出す。普段は長慶の戦を見ている彼らでも、之虎を見る目には畏敬の欠片が混ざっていた。

 

根来衆に向き合っていた者を中心に、味方がじりじりと後退していく。

引き鉦が高らかに鳴らされた。特徴のある、一定の調子である。この音色を聞いて、前線の兵は血相を変えた。この鉦が鳴らされた後に何が起こるか、彼らはよく知っている。兵たちは本気の恐怖を抱いて逃げ出した。

この迫真の弱腰には、注意深い根来衆も勝利を確信したらしい。それまでの堅い構えを崩し、追撃に移った。逃げ遅れた者が数人斬られ、それがまた敵をいい気にさせる。

――ここだ。

「峻!」

之虎の合図で鳴り物が小太鼓の連打に変わった。同時に無数の矢唸りが発せられる。根来衆は事態の変化には気づいたようだが、何が起こっているのかまでは分からない。次の瞬間、彼らの頭上に矢が振り注いだ。ばたりばたりと法師武者が倒れ出す。

根来衆を自陣に引き寄せ、左右から淡路衆が矢を放ったものである。特別の迷彩を施した矢を、角度をつけて遠矢にかける。見慣れていない者には音は聞こえるが、飛んでくる姿はなかなか見つけられない。敵は防御する方向が掴めず、負傷者が続々と増える。とりわけ冬康が夕星で放った矢は、容赦なく敵兵の眉間を射抜いているのが分かった。

敵陣は崩れ、混乱している。こうなってはまともな槍衾をつくることは難しい。

「雷!」

大太鼓が響き、大地を揺らす。矢が止まり、代わりに馬蹄の音が接近してきた。恐怖に駆られた敵陣に、葦毛の若馬に乗った一存が単騎で突っ込んだ。

「そうりゃ!」

それは、想像を絶する姿だった。一存が十文字の大身槍、飛鳥を一振りするだけで、二人の敵が瞬時に絶命した。

「おうら!」

続いて、別の一人を槍で串刺しにした。その上、一存はその相手をそのまま持ち上げ、槍を振って放り投げたのである。人の身体が宙を飛んでいく。敵も味方も、呆けたようにそれを見守っていた。

どしゃる、と死体が敵陣の真ん中に着地した時。遂に恐慌が起こった。

「ば、化け物じゃ!」

「鬼! あれは悪鬼に相違ない」

「三好は鬼を使役しておるぞ」

人智を超えたような出来事を目にして、信心深い根来衆たちは口々に世迷言を並べた。戦意は完全に潰えたと言ってよい。先駆けた一存に続き、康長や存春、讃岐衆の騎馬兵も突撃していく。

「碧! 俺に続けえ!」

鳴り物衆がすべての楽器を鳴らす。

潰走し始めた根来衆を、之虎率いる愛染衆が追撃していく。冬康たちによって全身に傷を負い、一存たちによって士気を挫かれている。この戦果を、氏綱軍全体に伝播させていくのが最後の仕上げだ。温存していた愛染衆の集団戦術が、根来衆を殲滅し、浮足立った河内衆をずたずたにしていく。

「ひ、退け! 退けえ!」

氏綱軍が潰走し始めた。

勝った。事前に、長慶から敵の大将だけは見逃すように言われている。後で政略に利用するつもりなのだろう。ならば、気の毒な一般兵に犠牲になってもらうしかない。二度と三好家に逆らう気が起きないようにしなければならない。

そう思った瞬間、長慶率いる四千の摂津衆が動き始めた。二手に分かれ、被害が少なかった大和衆を撫で斬りにしていく。片方の先頭は長逸、もう片方の先頭は松永長頼とかいう男だ。

「はっはっは、俺たちはよく似た兄弟だなあ!」

そう漏らすと、隣で持隆が吹き出した。

「カカカ、恐れ入ったよ。お前たちには、本当に恐れ入った」

持隆は感極まったようだ。ふわりと微笑んでから気を取り直し、再び采配を振るう。

「全・進!」

全軍が追撃に移った。これで兄、三好長慶の力は揺るぎないものになる。

鳴り物衆の音は止むことなく続く。太鼓と鉦に笛が入ることで、音色は哀調を帯びていた。一見不要な笛を父がなぜ加えたのか、ようやく分かった気がする。鳴り物は、死者への追悼でもあるのだろう。

 

  *

 

「ほんま素晴らしおすわあ。高みに至った武勇は、魔法と見分けがつかへんねやなあ」

隣の九条稙通は感嘆しきりだった。この殿上人は若い頃食うに困って各地を放浪していたというから、存外、乗馬には苦労していない。先ほどから一存の暴れぶりを遠目に追いかけては、すごい、すごいと褒めちぎっている。

「そう言えば、あれも天狗の法力を得るような行を成し遂げておりました」

「なんやて! そんなんはよ教えてもらわんと」

「あ……。や、あくまで調練の一環のようなものでして」

「麻呂はすっかりあんたら兄弟に惚れてしもたわ。長慶はんは文武に秀でてはるし、その弟も負けず劣らずの器量人揃い。侍どもの物語は今日、新たな帖に移ったんや」

「九条殿にお見届けいただいたのは幸いでした」

「特にあの十河一存殿。長慶はん、彼は独り身かえ」

「ええ。元服したばかりですし」

「……十河の尚子。うん、悪ないわ」

将兵の鼓舞に役立てるだけではなく、稙通の同行により公家との結びつきが太くなればとも考えていた。必要以上にありがたがる気はないが、実際に京を治める上で朝廷との信頼関係は欠かせない。

稙通は一存をいたく気に入ったようだった。確かに末弟の活躍は人目を引いた。明日から、兵や民の間で一番人気が出るのは一存だろう。いつの時代も豪傑、腕っ節の強さというものは人を惹きつける。

(それにしても、まさか本気で縁組を考えているのだろうか)

九条家と十河家の婚姻ともなれば、これは大事件である。長慶が目指す、武家家格の破壊にも直結する事態だ。

(願い続ければ、思った以上の成り行きにも出くわすものか)

空を仰いで一息ついてから、再び戦場に目を移した。既に長慶は足を止めたが、之虎や長逸はいまも追撃を続けている。死者だけで数千人に届くだろう。これで、河内衆や紀伊衆は大規模な軍事行動を起こせなくなる。もう少し締め上げれば、氏綱も長教もこちらに恭順してくるはずだ。

それにしても、これだけ肌が粟立ったのはいつ以来だろう。

之虎の采配に対してである。冬康や一存が一個の魔法だとすれば、之虎はそれを統べる魔導師だった。前鬼と後鬼を従えた役小角のようであった。たとえ調練を重ねたとしても、あれだけの指揮が自分にできるだろうか。

(乱世の大名としては、之虎の方が資質は上かもしれない)

劣等感というものは、ほんの少しの自覚で気持ちを曇らせてしまう。こんな思いを抱いたのは、父、宗三、そして長政以来だった。

 

続く

 

 

二十一 鼓動の段  ――遊佐長教 細川氏綱を担いで畿内を席巻し、足利義晴 征夷大将軍職を嫡子義輝に譲る――

二十一 鼓動の段

 

堺から尼崎までを堺衆の船で渡り、そこからは馬に乗り換えた。

ここから越水城は程近い。一人でもよかったが、堺衆が律儀に城まで護衛してくれるというので無理には断らず、三十人ほどの行列で街道を進んだ。既に何か噂になっていたのか、道行く人々は馬上で元気そうにしている長慶を見て驚いたり、声を上げたりしている。

武庫川を越えた辺りで、五歳くらいの子どもが脇差を抱えて一人で歩いてくる姿を見かけた。覚えのある顔、なんと息子の千熊丸である。

「千熊」

「父上!」

嬉しそうに走り寄ってくるのを、馬から降りて抱きかかえた。

「こんなところで何をしている。母はどうした」

「父上がいなくなって皆おろおろしてるから、助けに行こうと思ったんだ」

「一人でか」

「俺と父上が揃えば無敵さ。敵なんて玉筋魚の群れみたいなもんだろう、さあやっちまおうぜ!」

「そ、そうだな」

元気な子だとは思っていたが、ここまで向こう見ずだったのか。

「もしかして、もう敵をやっつけちゃったの」

「いや、これからだ。玉筋魚漁は春まで待たねば」

「そうかあ」

「ふふ。ありがとうよ」

千熊丸を前に座らせて、馬に二人乗りをする。息子は嬉しいのか馬上ではしゃいで危なっかしかった。微かに門が開いていてそこから抜け出してきたのだという。少年は己の運命を信じ切っているものだ。

 

城に近づくと、家臣たちが次々と集まってきた。どうやら千熊丸がいなくなったことに気づいて、皆で城の周りを捜索していたようだ。その千熊丸は馬に揺られるとすぐに眠ってしまっていた。

「殿! おお、若殿も!」

長逸が現れた。その形相には心労が色濃く浮き出ている。

「そこで千熊に出会った。まったく、皆に気苦労をかけて困った奴だ」

「……」

「長逸、評定の手配を。これから忙しくなるぞ」

「……は」

長慶と千熊丸が無事なのを見て、一応は安心したらしい。長慶への諫言を我慢して、城へ戻っていく。それと行き違いに、おたきに手を引かれてあまねが走ってきた。

「おう、いま帰った」

「……」

あまねは何も言わずに千熊丸を抱きしめた。それから、涙をいっぱいに溜めた瞳で長慶を睨んでくる。

「どうして、こんなことをするんですか」

「私も驚いた。子どもは親の想像を超えるというが、まさか一人で私を助けにくるとはな」

「悪い手本を見たからです」

「……はい」

「お前さまが一人で外出することを禁じます」

怒気をはらんだあまねの声は、かえって常よりも鮮やかで、色づいている気がした。

「一層綺麗になったな」

「知りません!」

家臣や堺衆の人目もあるためか、あまねは手厳しかった。こういうところは波多野稙通によく似ている。そのまま、千熊丸を背負って帰って行ってしまった。

 

家臣たちにはあらためて侘びを入れた後、首謀はやはり遊佐長教であったこと、筒井家や熊野水軍も出張っていること、一方で会合衆の支持を取り付けたことなどを伝えた。

「国人、寺社、公家、商家。生業を問わず、民は細川家の内乱に辟易している。……六郎でもなければ氏綱でもない、第三の勢力が現れるのを期待している。新たな支配者、新たな秩序を待望しているのだ。ここに来るまで、長かった。皆には辛い思いもさせた。だが、それも終わりだ。見よ。私は生きている。天は私を選んだぞ。いまこそ動き出す時だ」

全員の顔が引き締まった。待ちわびた時の到来である。喜びと使命感に満ちた銘々の面構えが、長慶には大変好ましいものに思えた。

「まずは四国・淡路の合力を取りつけねばならん。長逸は康長とともに阿波・讃岐の国人衆を調略。基速は義冬様の支持を上手く引き出せ。分かるな、必要以上の野心はお持ちにならぬよう……。私は淡路を調略後、勝瑞館へ向かう。我らが戻るまで、松永兄弟は摂津を守り抜け。反撃は春」

「応!」

一同が動き出した。できれば数年で、氏綱・長教を飼いならし、六郎・宗三の打倒までを仕上げたい。そこからは足利将軍や公家、近隣諸国の出方を見ながら政権のあり方を模索していく。長い戦いになる。幾つか覚悟しなければならないこともある。肚の底にあった種火が、遂に天下を焦がし始めるのだ。

 

「――そういう訳で、今度は淡路と阿波に出かけてくる」

あまねの唇が震えた。怒った態を続けていたが、さすがに平静ではいられないらしい。

「隠密行動故、そなたたちは連れてゆけぬ。私が城にいるように偽装してもらわねばな」

「……」

「ちゃんと供回りは連れていく。一人で出歩かないことは約束しよう」

「ほんとに、勝手な人」

「そう言うな。む、この太刀魚。よい味だ」

夕食の菜は太刀魚の塩焼きと造りだった。太刀魚は骨が多いが、その苦労を忘れさせるだけの美味がある。白銀に輝くしなやかな姿、淡白な脂と身肉の味わいは海の大業物と呼ぶに相応しい。

「千熊が、太刀魚釣りをしてみたいそうです。お前さまはそんな暇、ないのでしょうけど」

「左様か」

家臣か出入りの漁師にでも聞いたのだろう。太刀魚釣りに夢中な摂津の民は多い。確か、長頼も釣りが好きなはずだ。

「お前さまが普通の人なら」

「阿波から出ることもなく、そなたに出会うこともない」

「……もう」

「やっと、笑ったな。どうだ一献」

「いただきます」

太刀魚は酒との相性が抜群によい。あまねは嬉しそうに杯を口にしている。

いまは、妻とのよい時間を少しでも多く積み重ねておきたい。

 

  *

 

堺での長慶謀殺に失敗して以降、何ひとついいことがなかった。

氏綱率いる二万の兵が摂津に侵入し、配下の居城を次々と落とし始めた。その上、敵の勢いに恐れをなしたのか、もともと密約でもあったのか、有力国人の池田信正が寝返ってしまった。いまでは、芥川山城の孫十郎、越水城の長慶などの一部を除き、摂津のほぼ全域が制圧されている。摂津西部に位置する越水城は敵の攻撃目標から外れているようだが、芥川山城はいまも大軍に攻囲されており、援軍も望めない中では陥落も時間の問題だった。

和泉と摂津を立て続けに失い、気づけば六郎の領国は京と、丹波半国程度になっている。六角定頼や細川持隆に援軍を要請したが、黙殺されていた。季に一度の大評定も長らく開催されていない。

「定頼め。持隆め。まさか奴らまで寝返ったのではあるまいな」

榎並城から戻ってきたばかりの宗三へ苛立ちをぶつけた。

「定頼は江北の浅井が完全に屈服していない上、公方への遠慮が見られます。持隆は何があったのか、政務への関心が薄れている様子。家臣の間でも畿内への対処を巡って、三好之虎派と久米義広派が言い争っているとか」

ぐぬぬ……。公方はどうしている」

「義晴公が病とかで、門を閉ざしております。おそらく、既に氏綱へ鞍替えしているのでしょう」

「おのれ、誰のお蔭で京へ戻ってこれたと思っているのじゃ。くそ、くそ!」

憤る六郎に、宗三が言いにくそうに報告する。

「もうひとつ、悪い知らせが。山城の各地で土一揆が蜂起し、徳政を求めて京へ向かっております」

「なんじゃと」

「ある程度の銭を使って真摯に説得すれば、一揆を解散させることもできましょうが」

「そんなことをしている間に氏綱軍が入洛してきたらどうする。氏綱がわしを生かしておくとは思えぬ。ここは、丹波にでも逃げるしかあるまい」

「では、一揆は」

「民草の困窮は朝廷がなんとかするのが筋だろう。天子様じゃもの」

「そ、そんな丸投げをしてしまうと、今後の政務に支障が」

「いま一番大事なのは、わしの命であろうが!」

叫んだ。自分さえ生きていれば、どこに逃げようが再起はできる。六郎の雪辱を支援し、権勢や家格の向上を遂げようという田舎大名は幾らでもいるのだ。

「……失礼いたしました。我々父子が、波多野領まで殿を守護いたします」

「うむ。そうと決まればさっそく出発じゃ!」

波多野晴通は父の稙通と違って、昔から六郎への忠誠が厚い男だ。子どもの頃は柳本賢治に懐いていたというから、高国の後継者である氏綱に内応することはまずないだろう。しかも、山深い丹波であれば氏綱に攻められても逃げるには困らない。

細川家正嫡の証たる家宝を多数脇に抱え、輿に乗り込む。これまでも度々京を捨てたことがあったが、いつも最後は戻ってくることができた。今度もきっと、そうなるはずだ。経験から身につけた知恵は、何よりも尊いものだと思った。

 

  *

 

冬だというのに太陽が明るく、暖かい。木や草の緑にも春のような健やかさがあった。備前国の伊部(岡山県備前市)、与四郎がこの地を訪れるのは三度目のことである。

戦が続く畿内では、軍需物資や防火用品として水瓶がよく売れる。その中でも備前焼は水の保存に適しているため、籠城戦との相性がよく、重宝される。与兵衛は早くからそれに目をつけて、伊部の窯元を直接口説き、信頼関係を築いていた。

その後侘び茶が流行する中で、備前焼は茶道具としても評価を高めてきた。土に炎や灰が貼り付いたような味わいは、唐物の茶器には出せない魅力だった。水回りとの相性のよさも手伝って、備前焼の水指や花器は多くの茶人から賞玩されている。結果、伊部との繋がりを深めていたとと屋は、茶器の仲買でも名が売れるようになった。

名物の大半は唐物であり、日明貿易に参画していない与四郎はなかなか目利きの腕が上がらない。備前焼の評価が高まることは、茶人としても好都合だった。日本産のやきものであれば、熱意さえあれば誰でも目利きを学ぶことができる。この旅でも昵懇の家に滞在して伊部中の窯を回るつもりだった。自分好みの茶道具を探すだけでなく、いねへの花器、長慶への大甕なども求めて帰りたい。

 

目的の家に到着してみると様子がどこかおかしかった。昼だというのに門を閉めきっており、人の出入りを拒むような雰囲気がある。事前の連絡で、与四郎が来ることは分かっているはずだ。

戸を叩いてしばらく待ったが、誰も出てこない。大きな声で訪問を告げてみたところ、ようやく門が僅かに開いた。隙間から除いた顔は正虎その人である。

「これは、とと屋殿」

「ご在宅でしたか。どうされました、何か、ご不幸でも」

「しっ」

正虎が周囲に目を配る。明らかに、何かを警戒しているようだ。

「お入りくだされ。話は中で」

「あ、ええ」

門の中に通された。陶片が散らばっている前栽を横切り、二人は縁側に腰を下ろす。

「実は、怪我人がおりまして」

「それはお気の毒に。窯の事故ですか」

「……いえ、刀傷です。実は、とと屋殿にご相談が」

「訳あり、ですな」

邸内に目をやった。襖を閉めている部屋があるが、あの中に怪我人がいるのだろうか。

「二箇月ほど前の夜、突然、姉が現れたのです。姉とは二十年近くも会っていなかったのですが……」

「では、怪我人とは姉君なのですか」

「幼い頃に別れたきりでも、姉とすぐに分かりました。そして、その姉は胸を深々と斬られて、瀕死の重傷を負っていたのです。最近ようやく意識を取り戻し、事情を聴くことができました」

「……」

「僕たちは、複雑な事情の家に生まれたのです。僕はたまたま穏やかな暮らしを得ましたが、姉はいまでも人に言えない生き方を続けていたのでしょう。……厚かましいお願いですが、とと屋殿のお力で、僕たちを匿っていただけませんか。ここも安全かどうか分かりません。僕には姉を守る力がないのです」

危険な依頼である。かかわらない方がよいかもしれない。だが、何か放っておけないような直感もあった。

「私の質問に、正直に答えていただけますか」

「答えられるものならば」

「姉君を斬ったのは、誰ですか」

「……手を下したのは公方奉行の進士賢光、指示をしたのは河内畠山家の遊佐長教」

「……! で、では、斬られた理由は」

「用済みだったのでしょう」

「用とは」

「答えられませぬ」

思いがけない名前が出た。正虎の姉が、細川氏綱の乱にでも加担していたのだろうか。

「正虎殿。詳しい経緯をある方に教えていただけるならば、間違いのない安全が約束されることでしょう」

「ある方、ですか」

「摂津半国守護代、三好長慶殿です」

「……姉と相談しても、よろしいでしょうか」

「もちろんです」

正虎が屋敷の中に入っていった。与四郎はあえて事情を想像することはせず、塀の外の青空を眺めていた。どこかの窯から二、三の煙が昇っている。

やがて正虎と、彼に肩を抱えられた女が戻ってきた。傷が治りきっていないのか、呼吸に乱れがある。

「話は聞いた。確かに、三好長慶ならば間違いはない」

姉らしい女が口を開いた。威厳のような、悲壮のような、形容しがたい声をしている。

「嘘偽りない白状を約束しよう。弟を守ってくれ」

そう言う姉の眼を見て、与四郎には察するものがあった。おそらくこの姉は、死を覚悟し、最期に弟の顔を見たくなったのではないか。生き延びたこと、結果として弟を危険に晒したことは想定外だったのだろう。

「承りました、――ああ、お名前は」

「……琴。河内国……楠木家の、血脈を受け継ぐものだ」

 

  *

 

公方の主だった者たちは室町御所を離れ、慈照寺銀閣京都府京都市)に居を移していた。

細川屋敷に近い御所では、六郎方の手で軟禁される恐れがある。慈照寺ならば近江へ逃れることも容易いし、密かに瓜生山城(京都府京都市)の改修を進めてもいる。氏綱軍が芥川山城を抜いた頃を見計らって、義晴自身も六郎討伐の兵を挙げる予定だった。

その六郎は、あっさりと京から逃げ出してしまった。京の治安は乱れ、土一揆が朝廷に押し寄せるような事件も起こった。帝は毅然と一揆の要求を跳ね除けたため、結局、晴員が事態の収拾に動いた。幸い、ある程度の徳政を認めると一揆は解散したが、六郎政権の崩壊が民にまで知れ渡っていることは明らかだった。秩序を回復せねば一揆は何度でも起こる。かつての一向一揆法華一揆がそうであったように、畿内の民はそれだけの武力と行動力を持っているのだ。

「過去を取り戻すことはできるでしょうか」

二男の萬吉だった。和泉細川家に養子へ出したが、菊童丸の世話係として京にいるのが常である。

「どういう意味だ」

「将軍親政。海の水を山へ流すようなものでしょう」

「細川氏綱は傀儡だ。比喩ではなく、意志の力を喪失している。遊佐長教も名誉や財産が欲しい俗物に過ぎぬ。まず間違いなく、我々公方が天下を治めることになろうよ」

「この国の歴史で、真に実権を掌握した将軍は頼朝公と義満公、あえて加えれば義教公くらいです。彼らは例外と位置付けるべきで、天下は親政など望んでいないのでは」

「お主は、誰の味方なのじゃ」

「我ら奉公人は、目先の権力争いよりも、この国の行く末をこそ大事に思うべきでしょう」

「ええい、もうよいわ。萬吉よ、よからぬ考えを菊童丸様に申し上げてはならぬぞ」

三淵家では滅私奉公を家訓としているが、二人の子はまるで異なる性格に育った。嫡子の弥四郎は正しく育ち、いまでは義晴・菊童丸父子に忠誠を誓う奉公人となっている。一方の萬吉は、いったい何を考えているのか皆目分からない。その癖に身体はやたらと頑丈で、しかも古典や和歌を熱心に学んでいるものだから、様々な貴人から妙にかわいがられているのだ。

萬吉がいなくなった後、今度は進士晴舎が部屋に入ってきた。

「幾つか報告が」

「伺おう」

表向きは晴員と同じ奉公衆だが、晴舎の真の顔は晦摩衆の頭目である。わざわざ訪れたということは、諜報関係の話題に違いなかった。

「一点目。三好長慶が淡路に上陸した。弟の安宅冬康と共に、淡路の国人衆を説いて回っている」

「弟たちと協力しようが、持隆が動かねばたいした兵は集まるまい。小少将からの知らせは」

「籠絡は万全だ。普通の説得で、持隆が動くことはない」

「ならばよいではないか」

「ただ、長慶が普通の男かどうか」

「む……。しかし、長慶を暗殺する訳にもいくまい。あの武勇、使えるものなら使いたいと義晴様も仰せだ」

六郎は長慶の仇だ。自立を気取っているが、氏綱方に寝返る可能性は充分にある。四国衆を味方につけたとて、六郎の加勢をするかどうかすら疑わしい。

「分かった。二点目、政所が相変わらず両天秤だ」

「放っておけ、伊勢貞孝の悪い癖だ。ああいう男はいずれ自滅する」

残念ながら、公方も一枚岩ではない。晴員や晴舎のような義晴親政派もいれば、政所執事の伊勢貞孝のような日和見派もいる。どうせ、宗三とも長教とも連絡を取り合っているのだろう。

「最後だ。後南朝の残党は殲滅した。しかし、賢光が始末した女の死体が見つからない」

「相当の深手を負わせたという話だったな」

「手負いの逃亡者にはよくあることだが、川に沈んでいるのかもしれん。念のため、もう少し捜索を続ける」

「そうだな。きちっと始末をつけることが肝心だ」

後南朝に連なる者はどういう事件を起こすか知れたものではない。かつて三種の神器が奪われた時は、取り返すのに十五年の時を要したのである。

 

報告が済んだ晴舎を引き止め、晩酌に付き合ってもらった。共に“晴”の字を名乗る二人は、長年義晴に仕えてきた股肱の臣同士である。朽木に逃亡していた頃からすれば、六郎の斜陽は隔世の感があった。結局、二人は朝まで尽きない思いを語り合っていた。

 

  *

 

阿波の久米義広たちは畿内不干渉を唱えている。多くの人手や銭を畿内戦略に投じても、四国への見返りは実のところ少ない。ならば、領国の発展に資源を投じるべきだというのが彼らの主張である。この理屈は多くの者から支持を受けていた。長慶や宗三などが成功を収めているとはいえ、畿内で戦った者が必ず畿内で所領を得られる訳ではない。畿内の勢力がわざわざ四国へ攻め寄せてくることも考えづらい。防衛上の観点からも畿内進出は意味がないということだ。

反対に、足利義冬は畿内進出を声高に叫んでいる。しかし、これは彼自身の都合を主張しているだけだから、彼自身の不人気と相まって、あまり支持を得られていなかった。同じように、六郎の人使い下手も知れ渡っている。いまこそ足利義冬や細川六郎のために馳せ参じよ……というお題目だけで人が集まる時代ではなかった。

とどのつまり、国主細川持隆が立ち上がるか、四国衆にとっての畿内進出の位置付けを定義し直すか、いずれかが必要ということだ。長慶や之虎たちは四国・淡路の国人衆を説いて回った。なるほど、義冬や六郎のために働いても甲斐はなかった。では、畿内、すなわち天下を、生粋の四国人が治めたらどうか。例えば長慶が天下を直接支配すれば、交易利権、畿内権益への参入、様々な成果が見込めるだろう。や、何より、芝生の地侍が天下を獲れば、同郷の者にとってこれほど痛快なことはない。吉野川が育んだ夢が、全国を揺るがすことになるのだ。それは日ノ本の秩序を根底から崩壊させかねない企てだが、胸を焦がすほどに甘く熱い調べでもあった。そのような構想を、冗談としてすら考えたことのない者が大半なのだ。長慶や之虎たち兄弟が、長逸や康長が、あるいは基速や長房が語る言葉を聞くうちに、多くの国人衆が真剣に是非を考え込むようになった。もとより、長慶の活躍は四国人の自慢だったのである。

同行している冬康に、長慶が問いかけた。

「下ごしらえはこれくらいでよいかな」

「裾野から上げていく分にはここまででしょう。後は、持隆様の腹ひとつ」

「うむ。今回あらためて痛感したが、ここは畿内とは違う。民や国人の力だけで事を成すことはできぬ。上意下達の力は欠かせないようだ」

「その素朴な風土が、羨ましいのでしょう」

「ふふ、その通りさ。都会は気苦労が多い。悲しいくらいにな……。行くか、勝瑞館へ」

「ええ」

冬康の福々しい笑顔。この正念場でも、まるで肩に力が入っていない。しかも打てば響くような鋭敏さがあって、その頼もしさは余人をもって替えがたかった。弟たちも、自分以上に成長しているのだ。

 

勝瑞館には持隆の家来衆だけでなく、阿波、讃岐、淡路の主だった国人が勢揃いしていた。

最近の持隆は人前に姿を現すことも少なく、一日中、小少将と屋敷に籠っていると聞いた。持隆の横にかしずく男娼は、確かに禍々しい雰囲気を放っている。

(天性の才に加え、相当の訓練を積んでいる)

長慶はそう見て取った。

之虎の対面に座っている久米義広も、苦々しい表情でこちらを睨んでいる。少年時代に何度か会ったことがあるが、堅苦しい気性はまるで変わっていないのだろう。もっとも、持隆がやる気を失ってからも阿波が大過なく治まっているのは、彼の尽力も大きいはずだ。

「久しいな、長慶。立派になった」

持隆の声は酒焼けしていて、以前のような張りがない。

「持隆様は、少し変わられましたな」

「そう言うな。友を喪い、夢を失った。畿内では再び本家の内乱だ。くたびれもしようさ」

「まこと、倦んでも仕方ない世ではあります」

長慶の言葉は、単なる追従ではない。列席者が口を挟めないような共感が二人の間にはあった。

「しかし、ここで足を止める訳には参りませぬ。万民の難儀を放置できましょうか」

「わしはもう、疲れた。そっとしといてくれぬか」

小少将と久米義広が満足そうに頷く。内通しあっていることはなさそうだが、二人の利害は同じだ。

「……ここにいる私が、三好元長だったらどうします」

「戯れ言を申すな。あいつが生きていたら、わしとてこうなってはいない」

「父は生きています。之虎、冬康、一存、こちらへ」

弟たちを呼ぶ。示し合わせてのことではない。それでも、之虎たちは自分を信じて膝行してくる。

四人が並んだ。長慶が袖から腕を抜き、いきなり上半身を露わにした。持隆と同じ諸肌脱ぎだ。

「失礼。私の肌に触れてくだされ」

持隆の手を取って、自分の胸に引き寄せた。異常を察した小少将が割って入ろうとしたが、もう遅い。

「夢と情熱の鼓動。三好元長は、ここにいます」

「な、長慶……」

驚いた持隆の手を、今度は冬康が取った。弟たちも長慶の意を理解し、着物を脱いでいる。

「そして、この命を育ててくださったのは持隆様です」

「冬康」

一存が乱暴に持隆の手を掴む。

「その辺の男芸者とは違う。強くて固くて、逞しいだろう」

「一存……」

最後に、之虎が手を握った。心なしか、持隆は幽かな抵抗を示したようだった。戸惑う持隆を、之虎が微笑して胸元へ導く。

「一緒に行きましょう」

「之虎。……ああ、之虎よ」

之虎の胸に手を当てたまま、持隆が頭を下げた。その姿は、神仏に祈りを捧げる様にも似ていた。

「三好兄弟が勢揃いする、初めての戦です。持隆様に見届けていただかねば」

「カカ。カカカカ……。そうだな之虎。一丁、やってみようか」

「そうこなくては」

「決まりだ、皆の者もよいか。四国衆の恐ろしさを、淡路衆の勇ましさを、再び畿内の連中に教えてやろう。日ノ本の行く末を決めるのは、我らであるぞ!」

一座が沸き立った。長逸と康長が手を取り合って喜んでいる。久米義広はあくまで持隆の忠臣だから、既に諦めた顔つきだ。小少将は持隆に取りすがろうとしたが、一存に蹴り飛ばされてひっくり返った。持隆は彼に哀憫の眼差しを向けたが、之虎が持隆を抱擁して覆い隠す。

「風が変わりましたな」

冬康が着衣を直しながら言う。大海のように、今日もこの弟は穏やかに凪いでいる。

「お前たちが弟でよかったよ。どいつもこいつも、恐ろしい連中だ」

「幼い時から、我々は慶兄と比べられてきたのですよ」

「ふ、兄弟とは面白いものだな」

苦笑するしかなかった。そのうち口喧嘩でも負けてしまいそうだ。

「これで宗三・長教と条件は同じ。後は勝つだけです」

「少なくとも、二度の決戦を制さねばならぬ」

「虎兄や一存と、色々調練も積んであります。面白いものをお見せしましょう」

この弟たちに、長慶は底知れないものを感じ始めていた。それは、織田信秀毛利元就に感じた畏怖と同種の感情である。元長とつるぎが遺したものの大きさを、あらためて思い知らされた気がした。

 

  *

 

波多野の支援や宗三の巻き返しにより、六郎は少しずつ勢力を回復させている。一方、入洛間近と思われていた氏綱軍は、芥川孫十郎の頑強な抵抗に遭い、最近ようやく芥川山城を落としたところだった。京周辺ではいまだ六郎方が優勢である。義晴たち公方勢力は一先ず近江へ身を移した。六角定頼は六郎の縁戚だが、公方との関係も重視している。この戦に定頼が介入してくる恐れはない。

近江国坂本、日吉神社滋賀県大津市)。避難先のこの地で義晴はひとつの決意を固めた。嫡子、菊童丸の元服と、征夷大将軍の譲位である。

「今度の戦では、余自らが出陣する。当然、命を落とすこともあるだろう。死後の混乱は武家の名折れ。菊童丸に後事を託し、悔いなく戦いたい」

動揺する奉行たちに告げた。菊童丸は十一歳。思い起こせば、義晴が将軍に就いたのも同じ齢だった。義晴の思いは奉公衆も分かっているだろう。

「室町公方が再興、果たしてみせよう。そうでなければ、足利宗家歴代の祖霊に申し訳が立たぬ。それができなければ、余の命は出来損ないだったと認めねばならぬ。よいな、菊童丸。父を超えよ。細川を従えよ。お主は天下の主だ。武家の棟梁なのだぞ」

菊童丸の瞳には精気が満ちている。その目が放つ輝きは、いずれ多くの武人を虜にするはずだ。

「輝く希望。天下を照らす光。名を義輝と改めるがよい」

「はい。……取り戻しましょう。京を。我らの都を」

「ああ。その日が楽しみだ」

義輝に宝刀、童子切を授けた。源頼光酒呑童子の首を刎ねた刀。正しく足利家嫡流の証である。

成すべきことは成した。後は兵を集め、瓜生山城に入るだけだ。いまの公方でも力を出し切れば五千の兵は集まるし、城の改修もできる。京の東部と南部から六郎方を挟み撃ちだ。

「出陣だ! 不滅の我らが力、京雀に見せつけてやれ!」

鬨があがった。晴員も、晴舎も、皆よい顔をしている。奉公衆に囲まれた義輝も、勝利を疑っていない。

もちろん義晴自身、我が子に贈る勝利を誰よりも渇望していた。

 

続く