きょう、(小説 三好長慶)

近世のきのう、中世のあした。三好長慶の物語

三十四 潮騒の段  ――畠山高政 家臣安見宗房と対立し、細川六郎 松永兄弟に丹波を落とされ逆上す――

三十四 潮騒の段

 

大林宗套が睨んでいる。もう何歳だか見当がつかないくらいの老人だが、この迫力はなんなのだろうか。

「何か、お気に障りましたか」

素直に教えを乞う。

老師はすぐには答えず、警策で長慶の股間を突いた。

「むおっ」

「汚い、汚い。御身の身体には鬱屈が溜まっておるわ」

日頃は口に出せないような、他人に最も触れられたくないようなところを指摘されたと思った。心当たりは充分にある。あまねに去られて以来、女人に触れたことすらないのだ。

「……心得ております。老いを、精が枯れ果てる時を待っているのですが」

「喝! 年を取ったくらいで色情を捨てられるなら誰も苦労などせんわ」

「そ、そうなのですか」

「出家するか、後添えを貰うかした方がいい。意志の力で抑えているつもりだろうが、心身の調和は確実に崩れてきておる。早死にするぞ」

「……」

それだけを言い残して、老師は南宗寺(大阪府堺市)から去っていった。与四郎の他、天王寺屋の父子や今井宗久など、堺には大林宗套を慕う者が多い。おそらくどこかの大店に招待されているのだろう。

長慶はしばらく考え事をしていたが、やがて首を振って会合場所へ向かった。

 

「はあっはは! 傑作じゃあないか、大徳寺は夜の悩みまで問答してくれるのかい」

「笑うな、之虎」

「で、でもよ慶兄、笑うなって言う方が無理だろう」

「本当に……くすくす」

包み隠さず話したのは失敗だったようだ。冬康以外の弟妹はおかしそうに笑い転げている。よく考えれば伴侶との関係で問題を抱えているのは長慶だけなのである。いねですら最近は与四郎と仲がいい。

弘治三年(1557年)の夏。長慶たちは建設が進む南宗寺の視察に堺へ集まっていた。その上で、久しぶりに夕食を共に取ろうといねが兄弟を集めてくれたのである。このこと自体が、やもめ暮らしの長慶に家庭の温もりを味あわせようとの配慮だったのかもしれない。

笑みながら、いねが囲炉裏に大鍋をかけた。とと屋ではなく、近隣の農家である。芝生の雰囲気に似ているところを探してくれたらしい。鍋には既に出汁が張られていて、そこに次々と具材を入れていく。うどんを中心に、鶏、はまぐり、麩、湯葉、三つ葉など……。生きた海老を入れた時などは、驚いた海老が鍋の外まで飛び出して皆で慌ててしまった。

「兄様は久しぶりでしょう、大鍋を皆でつつき合うなんて」

「うむ、畿内では品がないとか五月蝿いものな」

芝生に暮らしていた頃は、皆で鍋を囲むことが楽しみだった。つるぎが好きだったから、鍋にはよくうどんを入れたものだ。元長追悼の寺を建てることになって、いねもあの頃のことを思い出したのだろう。

無論、具材の豪華さは当時の比ではない。一存は早くも涎を垂らしていた。

「もういいかな、姉上」

「ちょっと、待ちなさいよ。相変わらず食い意地が張っているわね」

「こんな男でも九条家から嫁を貰えるのだからな」

「冬兄もきついな。摂関とか言ったってどうってことないんだぜ」

「お前が分かってないだけじゃあないかい」

そうこうしているうちに鍋が煮えた。気心の知れた兄弟同士である。遠慮する者もなく箸が伸びていく。

「うめえ!」

初めに声を上げたのはやはり一存である。

「うむ……品のいい味だ」

「おいおい、姉上がつくったとは思えねえな」

「之虎は一言多いのよ! それより兄様はどうかな。気に入ってくれた?」

「ああ。実にうまい」

様々な具材から滲み出た味が出汁に溶け合い輝く。そのつゆをうどんが存分に吸って……口当たりと旨味とが重ね合う悦楽、ひたすらに艶冶、艶冶。夏の暑さなど微塵も気にならぬ。汗を出し、汗を忘れて小鉢の汁を啜る。時おり小さく息をついて、また啜る。

「……昔から思っていたけど、兄様はひたむきに食べるわねえ」

「嫁ぐ相手としてはいい男だと思うがな」

「何ならよう、俺が適当に見繕ってきてやろうか」

「がはは、阿波のいい女には虎兄の手がついているだろう」

「……やかましいよお前たち」

 

食事が済んで、いねが片付けを始めた。残された男たちは自然と評定染みてくる。

「香川攻めは伸ばせってえことだな」

「ああ。いまは畿内に専念すべきだ。近江の公方、六角。河内もまた不穏になってきている」

毛利元就・隆元父子が防長経略を成し遂げていた。あの日ノ本一の大名、大内家が遂に滅んだのだ。色々と縁もあって、毛利家と三好家の関係は良好だった。長慶は五畿内の無事を、元就は中国地方の安寧を互いに伝え、祝いを贈りあっている。朝廷贔屓な毛利のために、大内滅亡を不安がる公家たちの世論工作まで引き受けていた。毛利の方でも、大内に身を寄せていた足利義冬を保護してくれている。

毛利は西に大友、東に尼子という強敵を抱えているし、大内残党の相手もせねばならぬ。畿内に目を向けている余裕はない。言い換えれば、当面、中国・九州の勢力が上洛してくることはないということだ。毛利は伊予の河野氏と繋がっており、河野は西讃の香川氏と繋がっている。いまは香川と争わないことが得策だった。

公方が期待を寄せているのは、毛利との関係で動けない尼子と大友の他、今川、武田、長尾、朝倉というところだった。九条稙通によれば、近衛前久も独自に長尾景虎へ接近しているという。いずれにせよ、これら東国の大名が連合を組んで上洛してくると厄介だった。そうそう簡単に実現するはずもないが、公方奉公衆が必死に書状をばら撒いているとは聞いている。油断は大敵だ。

東国大名への備えとしては、美濃の斎藤義龍尾張織田信長辺りを頼りにしたいところである。だが、彼らがどういう態度に出るかは不透明だった。斎藤や織田も成り上がりという点では三好家と変わらない。しかし、成り上がりがいつも古い権威を嫌う訳ではないのだ。権威から認められた時、最も感激し、忠勤を誓うのもまた成り上がり者なのだから。

「兄上は義輝公をどうするつもりなんだい」

「何通りか考えてはいる。その時期もまた、何通りかあるというところだ」

「時期は早い方がいい」

「そうだな。燻り出すのが最善かもしれぬ」

こういった大きな方向性の話は、主に長慶と之虎で話し合う。冬康は黙々と聞いており、一存はあまり興味がなさそうだった。いねは向こうで盗み聞きしていて、商売の芽がないか考えているに違いない。

 

  *

 

「“もう一度”言ってみろや、あ?」

「幾らでも申しましょう。根来衆を使った私兵遊びなどおやめくだされ」

「何抜かしやがる。畠山の“武”、当主自ら鍛えてやろうってんだろうが」

「それが余計なことだと申しておるのです」

「んだとるあ!」

遂に紀伊通いにまで因縁をつけてきた。高政が何度も怒鳴り声を上げるが宗房は意にも介さない。

深夜の高屋城、高政の館は緊迫した空気に包まれている。このひりひりした状況に胸が高鳴る。

「殿が表に立てば、兵や民は身分というものを嫌でも意識いたします」

「はっ、いつまでも遊んでのはお前だろうが。ええ? “木沢長政の亡霊”さんよお」

宗房が初めて顔をしかめた。長政ほどの妖しい魅力は持っていない。民を煽ったとて、宗房個人を信奉する者など現れやしない。そのことが自分でもよく分かっているに違いなかった。

「しゅ、主君とて言葉が過ぎますぞ……」

「この河内はよう、源氏を生んだ誇り高い国なんだよ、武士の“故郷”なんだよう! 遊佐長教の真似事で権力を握ったかと思えば、今度は木沢長政のなりそこない“ごっこ”かい。中途半端なんだお前あ、この国を引っ掻き回してんじゃねえぞ!」

「げ、源氏が何だ! 私にとっては長政様こそが……!」

「やかましい!」

蒼白になって身震いし始めた宗房の面に、思いっきり蹴りを入れた。遂に一線を越えたと思った。

ぺしゃんこになった鼻から血を撒き散らしながら宗房が起き上がってくる。白い肌に汗がぬらぬらと光り、歯の根が噛みあっていない癖に自尊心だけは一丁前な目つき。見ているだけでむかつく野郎だ。

「命の……保証はできませぬぞ……」

「ほら出たよ。長政の物真似、長教の猿真似。ふん、“芯”がないんだお前あよ」

「……! こ、この人形が!」

襖が開き、宗房の側近五人が部屋に入ってきた。いずれも亡き長政に心酔している者たちで、いまだに頭のおかしい夢を追っている。河内にはこういう奴らがごろごろ生き残っていて、宗房のような小者を担いで調子に乗っているのだ。しかも性質の悪いことに、こんな連中に限って喧嘩が強い。

「俺あ好きにさせてもらうぜ。お前は“三好長慶”でもないのさ、“畠山”当主の看板抜きにはたいした力も振るえめえ。ははは、はははは」

「捕らえろ! 座敷牢に今度は一生押込めてやれ!」

「かっ、いつまでも同じ手に乗るかよ!」

迫ってくる一人を蹴り倒し、続いて背後の燭台を宗房に投げつける。あらかじめ灯りの数を絞っていた。逃げる道筋も、目を瞑っていても走り抜けられるよう準備をしてある。光が消えてしまえばこっちのものだ。

庭に飛び出し、館の外に向かって駆ける。見張りの兵がいた。どけと怒鳴る高政、掴まえろと叫ぶ宗房。どちらの命に従うか、迷ったのがよく分かった。けれど、高政が蹴りを放つ前に兵は門を開けたのである。

「よおし、いずれ取りたててやるからな! 殺されるなよ!」

兵の肩を軽く叩き、高屋城を脱出。城外に待たせてあった往来右京たちと合流する。用意させていた馬に乗って南へ向かった。しばらくは紀伊の山奥にでも隠れているしかない。

「様子がおかしいので、冷や冷やしながらお待ちしておりました」

「どうってことねえよ。さ、ともかく“傀儡”ではなくなった。ざまあ見やがれ」

「えっ……、いったい城で何をなさってきたのです」

「“手切れ”だよ“手切れ”! 次はあいつらを一掃する手を考えなきゃあな」

「ま、まさか安見宗房殿と」

「いっそ三好と組んでやろうかなあ!」

「そ、そそ、その儀はよくお考えくだされ……」

もとより右京はこの手の話をする相手ではなかった。微笑んで安心させてやる、それで充分である。

だいたい、夢や展望など口にするものではない。今日のように、叶えてから叶えたとだけ言えばいいのだ。

 

  *

 

佳の息子、岡部正綱の初陣が近いという。確かな時期は決まっていないが、年内、遅くとも来年には戦に出ることになるようだ。一族の岡部元信や松平の若君も総出だという話だから、今川義元は本気で三河の敵対勢力を平定するつもりなのだろう。

「今から張り切っちゃって。嫌になるわ」

「母が何を言っても、息子はいつの間にか男になってしまう……」

「本当よ。もう嫌だ、戦で死なせるために育てたんじゃない」

あまねの寺にやってきた佳を慰める。夫亡き後の岡部家を必死に支え、正綱を育て上げてきたことが、すべて徒労だったように感じているのかもしれない。

あまねにできるのは、話を聞くことだけだ。

「今川様は、五年のうちには尾張を呑み込んで、十年もすれば上洛して都に覇を唱えるおつもりなのよ。なんでも天下の宰相たる人が持つべき刀を手に入れられたとかで、ますます大望をお持ちになったそうな」

「ふうん……」

お膝元の贔屓もあるとは思うが、中央で勢力を拡げ続ける三好長慶に対抗できる者がいるとすれば、それは今川義元だろうと言われていた。豊かな尾張を併呑すれば戦力は倍増する。京はさして遠くない。背後の武田や北条とは強固な婚姻同盟を交わした。足利家の一門でもあり、足利義輝や細川六郎を支援する名分だってある。

風流に力を入れているのも、案外長慶を意識してのことかもしれない。上洛した際、畿内の民が最も嫌がるのは野蛮人の乱暴狼藉である。人物としても長慶を超えねば京の世情は安定しまい。

「確か、そう……“宗三左文字”だったかな。野望に燃えて上に立つ人はいいけど、ついていく下は大変。――って、どうしたの?」

「何でも……ない」

三好宗三。あの人があたしと別れてまで、戦うことを選んだ男。その遺物がこの駿府に。

「前から思っていたけれど……あまねさん、あなた、都の政情と関わりがあるんじゃないの」

「……聞かないで」

「嫌ならいいのよ。でも、だったらもう少し誤魔化せるようにならないと」

「あたし、顔に出てるかな」

「分かり易過ぎるわよ」

佳が手首を振って笑う。下女に扮して庭を掃いている琴もくっくっとにやついている。

「……あたしにも息子がいるの。離ればなれで暮らすうち、すっかり乱暴な男になって」

「やっぱり、子持ちだったか」

「うん……。ねえ、もうずうっと昔、何でも欲しい欲しいって言っていた頃のことを覚えている? 大人になるうちに、普通は忘れてしまうような気持ち……。そんな駄々っ子のまま、大きくなっているようで……」

「……」

「そうなったのはあたしのせいじゃないかって。子どものことを後回しにして、別れてしまったからじゃないかって」

「……いつも私が泣き言を零しているけど。あまねさんが涙を見せてくれたのは初めてね。……ふふっ」

「うう……」

背中をさすってくれた。何気ないいたわりが身体の内側を温めてくれる。

「そうやって息子は遠くに行ってしまう。見られるものなら息子の一生を見届けたいけどねえ」

「子が先に死ぬのは嫌」

「一緒に死ぬ訳にもいかないし。母親って因果だわ」

佳の長い髪があまねの頬を撫でる。美しいが、水気、艶気は少ない。あまねと同じ、一人で生きている女の髪だった。

 

  *

 

八月二十六日。未曾有の暴風雨が畿内を襲った。

この時期の野分は珍しいものではない。だが、その異常な烈風と、続いて生じた凄まじい高潮は、畿内沿岸部一帯に激甚な災害をもたらしたのである。

ことに高潮の惨禍は甚だしく、尼崎、別所、難波、鳴尾、今津、西宮、兵庫、明石などの港・漁村を丸呑みにしてしまった。死亡が確認できた者は数百人、行方知れずは数千人……。三好家や安宅家が所有する船舶・積荷も、その多くが文字通り水泡に帰した。

突然の、あまりにも突然の出来事に、力なき民草は呆然と希望を見失うばかりある。平蜘蛛町だった場所に佇む慶興と勝正とてそれは同じだった。

「今頃竜宮城で踊ってるのかねえ」

「姐さんに海の底は似合わねえよ、天上界ならともかくよう」

高潮が襲ってきた時、平蜘蛛町にはまだ多くの酔客や遊女が残っていた。嵐の中、家に帰すというのも難しかったのだ。迫りくる波濤の轟き。想定外の危機に、群衆は一時恐慌状態になりかけていたのだという。その時、皆の前に現れた龍吉が見事に混乱を収拾し、女と老人から順に避難させていった。きびきびした指図は的確で、結果として女や客は全員助かった。いなくなったのはしんがりを務めた龍吉だけである。

「世話になりっぱなしで何の借りも返しちゃいないのに」

「ほんとだよなあ……」

「畜生姐さんにもっかい会いてえな。真ん中で姐さんが舞って俺たちが後ろで音を鳴らして」

「勝っちゃん姐さんに惚れていたんだろう」

「その顔で人のこと言えるものかね」

しばらく二人で泣いていた。海に怒鳴りながら石を投げ込んだり、流れ着いた材木や家財道具の下を覗き込んだり……。何をしても胸に開いた穴が疼き、いたたまれなさが増すばかりだった。

「熊さん帰ろうよ」

「いい子はいい子にしかなれねえって言ってくれたんだよなあ」

こうしている間にもひょっこりと龍吉が出てくるのではないかと考えてしまう。空から降りてきても驚かないと腹を括ってみるが、もちろんそんなことは起こらない。我ながら空想、逃避が過ぎていた。

「ん?」

音。砂の上で動いている。小さいが、確かに聞こえた。

「どうしたのさ」

「しっ……。勝っちゃん、手を貸せ! あのひっくり返った舟の下だ!」

「よ、よしきた」

砂に埋もれた舟は思いの外重かった。力自慢の二人をしても、歯を食いしばらねばそうそう動かない。落ち着いて周りを掘り出してから持ち上げれば楽なのだろうが、そんな悠長なことしていられないだろう。

「らあ!」

身体を舟に持っていかれそうなほどの勢いがついて、ようやく裏返すことができた。

その下から出てきたのは、黒白の……猫だった。弱っているのか鳴き声がか細い。高潮の日からずうっと閉じ込められていたに違いなかった。

「猫だね」

「猫だな」

「でもちょっと黒羽織姿の姐さんに似てないかい」

「ははは違いねえや。せっかくだし連れて帰ってやるか」

「エーイ。これも縁だね」

猫を懐に入れて馬に乗った。小さいながらも感じる、命の脈動。

(名前を考えねえとな……)

馬で駆けるのが怖いのか、猫は胸の奥に潜って顔を出そうとしなかった。

 

  *

 

「面目次第もございませぬ」

「ご、ご、ございませぬで済むものか! 丹波を失のうて、どうやって京を取り戻すのじゃ!」

「は、はは……。必ずや奪還の兵を起こしますれば」

「よう言うたものよ、ならばいつじゃ。何名の兵が集まるというのじゃ。策はあるのか。ええ、言うてみい!」

六郎の剣幕に晴通がうなだれる。敗軍の将にかける言葉ではないと思う。三好家の猛攻に何年間も耐え抜いてきた晴通は、世間で思われているほど凡庸な男ではない。妹が行方知れずのままだという心の傷にも耐えながらこれまで戦い抜いてきたのだ。

八上城が遂に陥落した。松永長頼の手で城を完全に封鎖されているうちに、兄の久秀によって丹波の全国人を調略された。宗渭も晴通や香西元成と共に何度も奇襲や撹乱を試みたが、長頼にはもちろん、久秀にもことごとくを防がれてしまった。もともと数が少ない六郎方である。皆で討死や餓死をするよりは、捲土重来を期そう。そう言いあって命からがら若狭へ逃れてきたのである。

「殿、もうそろそろ……。松永兄弟を相手に五年以上も耐え抜いたのですぞ。晴通殿のご活躍は、誰に引けを取るものでもありませぬ」

宗渭の労いに、晴通が潤んだ目を見せる。もとより晴通の六郎への忠誠は曇りない。嬲られたままにはしておけなかった。

「松永兄弟だと! あんな卑しい陪臣風情がどれほどのものというのじゃ」

矛先が自分に向いた。松永兄弟を侮っている時点で、六郎と現実の間には大きな乖離がある。

「いまや松永長頼は丹波一国の主、久秀も摂津下郡をよく治め、それぞれが守護大名に匹敵する力を有しております。長慶や四国衆の後詰め抜きに万の兵を何度も繰り出してきたことが何よりの証左」

戦上手で知られる長頼に加えて、近頃は久秀までが腕を上げてきている。何度も六郎方に撃退される中で、久秀は確実に戦の呼吸を学び取っていた。しかも同時に、長慶時代と同等以上に摂津下郡をよく治めているのだ。最近も領地が高潮に遭ったが、久秀による施米や施薬、復興への段取りづくりは迅速を極めていたと評判である。既に五十の年寄りだというのに、たいした男だった。

「ええい、おのれ、下種どもが自惚れおって。身の程を知らぬ時代! こ、こんなことばかり許されようか」

「落ち着きくださいませ。そのように頭に血を昇らせますと」

「そうじゃ、昔から……。長慶の配下は……あの和田某とかいう奴もそうじゃった……。主が狂うておるなら家来も家来よ……。許せん! 彼奴らを根絶やしにせぬか! ぬう、何をしておる、立ち上がれ! 兵を集めよ! 細川の威光、いまこそ、知らしめる時ぞ!」

「沈着に、沈着に願います」

目が血走っている。これは、危ない予兆だ。

「京じゃ、京を目指せ。わしが入京すれば民が喜んで集まってくるぞ。来年は久方ぶりに祇園祭でも見物しようではないか……。ふふ、ひゃはひゃ。なあ、宗三よう……」

「殿!」

勢いよく立ち上がった六郎の鼻から、血が滂沱と流れ始めた。黒目が揺れ動き、口はなぜかおちょぼになっている。宗渭が慌てて身体を支えに入ったが、そのまま六郎は意識を失ってしまった。

「そ、宗渭殿」

「時々、こういうことがある。見かけでは分からぬが、殿も傷ついておられるのよ」

「わしのせいだろうか」

「もっと根深いものだと思う。忘れている者も多いが、壮絶な人生を歩んできているのだ。細川家の内乱で阿波へ逃げ落ちてから、ずうっとな。三好元長にはいいように扱われ、木沢長政には陰謀を張り巡らされ、足利義晴公には何度も煮え湯を飲まされ、細川氏綱が遊佐長教に担ぎ上げられ……。とどめに長慶の謀反と、我が父の敗死だ」

「ぬう、確かに……」

「それでも、この方は十年以上も京畿を治めていたのだ。確かに失政もあったが、すべてを殿のせいにするのは如何なものかと思う。細川氏綱が現れてから、この方は毎日怯えて暮らしていた。家督を奪われると思ったのだろうな。長慶に都を追われてからは、近江、若狭、丹波を彷徨い、何度も京へ攻め上がっては、その度に負けた。汚泥を舐めたことも一度や二度ではない」

「……」

「殿の心身はぼろぼろだ。これが罰だというなら、そろそろ許されてもいいんじゃないかと俺は思う」

不屈。貴種には馴染まないその言葉が、六郎という男には似合う。こういう人が報われてこそ、甲斐のある世の中ではないかと思う。

「そのために我々ができることは」

「ああ。忠を尽くすことだけだ」

晴通が拳を突きだしてきた。自分の拳をそれに合わせる。この晴通もまた不屈の将である。

(しかし、戦で三好に勝つことは難しい。政ならば尚更……。何か、他に手はないのか)

六郎の顔や胸元を拭いながら、宗渭は考え続けていた。

 

  *

 

秋も終わりに近づく頃。丹波に長頼を残し、久秀と楠木正虎が芥川山城へ戦勝の報告に現れた。

長慶と慶興もまずは一安心というところである。久秀の顔もいつになく高揚しているのが憎めない。

「祝着、祝着。よくぞ丹波の平定を成し遂げた」

「へえ!」

「ふふ、それにしても凄まじきは長頼の武勇よな。あの丹波兵を相手に一歩も引かぬ奮迅」

「寡黙ながら武勲は抜群てえのが格好いいんだな」

「うむ、よき将を得て私は果報者だ」

久秀がそわそわし始めた。

「父上、このまま長頼に若狭方面の攻略も任せるんですかねえ」

「適任だろう。若狭の武田家も長頼が睨んでいるというだけで肝が縮むはずだ」

「あ、あの、殿さん!」

「む。どうした」

「わ、わいかて……けっこう、頑張ったんでっせ」

久秀の後ろで聞いていた正虎が初めに吹き出した。釣られて長慶と慶興も顔を綻ばせる。

「く、くくく。冗談だよ、久秀」

「いまからお前のことをおおいに褒めようと思っていたのだ。よいかな、褒めても」

からかわれたと分かった久秀の頬に朱色が差す。その様子を見て、よい齢の取り方をしていると思った。

「殿お!」

「すまぬすまぬ、戯れが過ぎた。ようやってくれたな、久秀。お前の働きは私の期待を大きく超えるものだった。まさか、丹波攻めと高潮被害の救済を同時にやってのけるとはな」

「と、殿……」

「お前のように優れた家臣は天下に二人とおるまいよ」

松永兄弟の活躍があればこそ、長逸を近江方面の調略に、四国衆を領地支配の強化に振り向けることができた。三好家の全員を丹波に集めていては、他方面で火種が起こっていたに違いない。

「それによう。あれだけ苦しめられた波多野晴通を見逃してやったってのが鮮やかだ。怨恨憎悪に囚われずちゃあんと父上のお心の内を慮ってるんだもの」

「当たり前ですがな、姐さんの兄君を斬れるかいっちゅう話ですわ。亡き稙通殿と殿が最後に交わした約束、きちんと聞いてまっせ。贅沢言うなら、生け捕りにしたかったんでっけどな」

「……礼を言う。お前も、平蜘蛛町を失って辛かろうにな」

「くよくよしてもしゃあない。人生は七転び八起きや」

「町の再建はせぬのか」

「や、女どもは各地に散らせることにしましたわ。出雲やら駿河やら越後やら。そっちの方が各地の生の話が入ってきますさかい、殿の役に立ちまっしゃろ」

「ふむ……。散り散りになって女たちは難儀せぬのか」

「何人かで寄り合って、目鼻の利く男衆もつけますよって。せやけどほんま、ありがたいことだす。遊女にまで情けをかけてくださるんは殿くらいですわ」

平蜘蛛町の話題になって、猫の“夜桜”を抱いていた慶興が神妙な顔つきになった。

「龍吉姐さんは見つからないのかい」

「へ。どないも、あきまへん」

「くっそ……」

情念の焔に焦がれる慶興に対して、久秀も姿勢を正して言葉を重ねる。

「若殿。これでよかったとは言いまへん。せやけど、お龍は救われとったんです」

「どういうことだよ」

「子どものおらんお龍にとって、若殿との旅は得難い思い出やったんですわ。あの同行は、お龍が自分から“行ってみたい”て名乗りでたんでっせ。帰ってきてからもえらい嬉しがってましたんや。それに……」

「それに?」

「いまやから言いますけど、あの子……元は、三好之長殿に滅ぼされた家の令嬢やったんですわ」

「なんだと」

思わず身を乗り出していた。長慶にとっても初めて聞く話だ。

「ならば、私と初めて出会ったあの夜」

「せや。わいは殿の目利きをお龍に委ねた。お龍は殿の宿命に惚れた。それがあの夜の顛末だす」

「なんという、ことだ……」

曾祖父が遺した因果。龍吉が見た過去と現在。長慶と慶興の間を通り過ぎていった――。

皆が黙りこくった。そして、しばらくしてから、沈鬱を振り払うように久秀が言う。

「話を戻しましょ。丹波制圧のご褒美が欲しいんでっけど」

「うむ……そうだな」

「この正虎。有能やのに世に出ることがでけへん。この不条理を正してもらえまへんやろか」

「なるほど。楠木家の赦免を朝廷に願い出よということだな」

「へい!」

南朝の英雄である正成公以来、楠木家は代々朝敵の扱いを受けている。表立っては日本のどこにも居場所がない。琴が修羅道に身を落としたのも、とどのつまりは家の復興を願ってのことだった。

悪くない、と思った。楠木家再興は足利公方の権威失墜に繋がる。何しろ“七生報国・滅殺足利”の楠木家である。公方の企む有力大名の結集を阻止するには、その前に公方単体を釣り出すことだ。

「だが、いまは時期がな。帝のご容態があまりにも……。む、待てよ」

「父上?」

「ふ、ふふふふ。慶興、久秀。よいことを思いついたぞ」

高潮の酸鼻。長慶が政権を獲って以来、初めて天に背かれた。六郎政権がそうであったように、民の離反は天災から始まるのが常である。とかく民は熱し易く忘れ易く、目先の難儀だけで施政者を責める。それを逸らすには、目立つ外敵、畿内への侵略者が必要なのだ。

足利公方、初めて彼らが役立つ時が来た。不敵に微笑む長慶を前に、皆は怪訝な面持ちだった。

 

続く

 

三十三 大空の段  ――三好長慶 元長二十五回忌を機に南宗寺を創建し、松永久秀 武将茶人として名を上げる――

三十三 大空の段

 

腹が減っていた。

盗みもやった。追剥もやった。そんなことに手を染めても暮らしは落ち着かないということを思い知った。

親しい配下も、頼もしき郎党も、慈しんだ豚たちもすべて置いてきた。しばらくは若狭の宗渭のところで世話になっていたが、丹波の戦に加わる気にはどうしてもなれなかった。甘いと言われたが、せめて長慶が生きている間は所払いを守り抜こうと思った。

自分に酔っていたのかもしれない。強がっていただけなのかもしれない。飢えに苦しみ、たちまち後悔するようになった。豚の夢を毎晩見た。鍋を振って黒飯をこしらえている。そうして、長慶と宗渭と、三人で膳を並べているのだ。眠りながら口を動かす。目が覚めてみれば更に腹が減っていた。

惨めに一日一日を生き長らえながら、丹後、但馬、因幡伯耆と彷徨う。当てはない。出雲まで来て、月山富田城を見上げてみたりはした。仕官の口を求めてみようかとも思ったが、畿内勢と戦う羽目になるかもしれないと思うと一歩を踏み出せなかった。

いまは、出雲と石見の国境辺りだろうか。長年、大内家と尼子家が争いを繰り返してきた土地である。前年、大内家は陶晴賢を失った。いずれ中国は毛利元就に、九州は大友義鎮辺りに喰らい尽くされ、大内家というものが消え去ってしまうかもしれない。この土地の者たちは真顔でそんなことを口にしている。畿内出身の孫十郎にとっては、あの大内家がなくなるということが想像もできなかった。

逆に、ここいらの民は足利公方がなくなるなどと考えたこともないだろう。どうやら人は皆、自分の土地のことしか思い描けないらしい。では、拠って立つ土地を失った己はどうしたらいい?

春。抜けるように空は高く、暖かな光が深緑の若芽を照らす。機嫌よく歌う鳥を襲い、炙って、空腹を凌ぐ。色々試してみたが、いまだにどの草や葉っぱが食べられるのか分からない。虫は食べる気にもならぬ。鳥が一番手に入り易く、安全で、うまかった。

川に降りた。喉を潤し、竹筒を満たし、身体を洗って、汚れた衣服や手ぬぐいを洗う。生水を飲んでも近頃は腹を壊さない。そのまま、半裸で河原に寝転がった。

 

物音。だんだん大きくなってくる。走っているようだ。風を切る音が重なった。懐かしい、矢唸りの気配。

起き上がった。川上の方角。茂みが揺れ流れ、やがて黒い影が飛び出してきた。

「猪か」

巨大な。山の主かもしれない。背に矢が二本突き立っているが、致命傷ではないらしい。猪に続いて、三人の男が茂みから出てきた。何かを叫びながら矢を放ち、その一本が猪の後ろ足に刺さった。それでも猪は止まらない。

蹄の音が聞こえてきた。猪ではない。向かい岸の岩山を何かが駆け下りてくる。目を凝らして見上げた。

「ぬう!」

眩しい。銀色に輝いている。馬、否、騎馬武者。信じられぬ。落ちるように坂を走りながら弓矢を構えている。弦の音が孫十郎のところまで届いた。刹那、猪の首を深々と矢が貫く。なんと巧みな騎射か。

騎馬武者がとどめの矢を構える。目が合った。こちらに気づいたようだ。弓。気迫。孫十郎に向いている。馬鹿な。わしはただの通りすがりだぞ。そう思った時には矢が飛んできていた。

「つっ」

痛い。肩口を狙ってきた矢を掴んで止めた。肉には入ったが、深くはない。が、痛いものは痛い。

素手で矢を防いだ孫十郎を見て、騎馬武者は弓の構えを解いた。猪に追いついてきた三人に血抜きを命じ、自身はこちらに近づいてくる。

「毛利の間者かと思ったが……どうも違うようだな」

「違うで済むか! なんてことしやがるんだ」

「ははは、勇ましいの。お主、名はなんという」

騎馬武者はまったく悪びれていない。

「先に詫びろ、それから先に名乗れ」

「ふん、こんなところをうろついているお主が悪い。この本城常光を前に命があっただけでもありがたく思え」

「落ちぶれたとはいえ芥川孫十郎、舐められるのは承服しかねる」

「ほう! 摂津のと金孫十郎か! はっはは、どおりで骨があるはずよ」

馬から降りて、恭しい態度に変わった。どうやら常光は孫十郎の名を知っているらしい。

「……あの猪をわしにも食わせろ。さすれば許してやろう」

「よいとも、よいとも。何かの縁じゃ、せっかくだからわしの館に寄っていってくれ」

飯と寝床にありつける。

真っ先にそう考えた自分が恥ずかしかった。恥ずかしいと感じるだけ、堕ちきってはいないとも思った。

 

  *

 

剣を振るう以外やることのない義輝は、藤孝を供にして旅に出ていた。

旅といっても朽木谷から出て琵琶湖をゆるり一周するだけ、日数にして十日足らずのものに過ぎない。それでも御所から一人で離れたことのない義輝にとっては胸湧き立つ冒険であった。齢は既に二十一歳。心身にますます活力が漲る中、朽木御所の中に逼塞しているのは耐え難かったのである。

藤孝の手引きで抜け出してきたが、三淵晴員・藤英父子や進士晴舎たちは今頃大騒ぎをしているに違いない。若干の後ろめたさを覚えたが、藤孝は義輝がこの旅で視野を広げ、英邁ぶりに磨きをかければよいのだと言ってくれた。

素性を隠し、道行く民と語らう。彼らの素朴で明け透けな物言いは新鮮で、学ぶことが多かった。

商人たちは口を揃えて京を治める長慶を褒め称えた。畿内に平穏が戻ったことで安心して商いに精を出すことができる。やる気さえあれば、堺で珍しいものを仕入れたり、三好家が運営する船に乗って四国へ渡ったりすることも可能なのだという。

農民は皆、六角義賢の凡庸さに辟易としていた。三好家の圧力が増す中、家中は団結するどころか、家臣や国人が銘々で好きなように動いている。長慶に接近する者もいれば、浅井や京極と密談する者、義賢の息子義治に取り入ろうとする者など、まるで統制がとれていない。定頼が存命の頃とは随分違う。公方もそう思っていたが、この点は民にとっても同じらしい。

東国からやって来た僧侶からは重大な噂を耳にした。先日、美濃の父子骨肉の争いに決着がついたというのである。土岐氏から美濃を奪った斎藤利政が、長良川で息子の義龍に討たれた。利政の娘婿、尾張織田信長が救援に駆けつけたが間に合わなかったという。義龍は土岐氏旧臣の支持を得る一方、父殺しの汚名を背負うことになった。これでは美濃に安寧が訪れるのはまだまだ先のことだろう。

近江、美濃、尾張は豊かな国である。豊かな分、中小国人の力が強い。それぞれの国を支配する、強力な大名がいないのが現状だった。つまり、長慶に追われた公方を助けられるような者がいないのだ。民は、誰一人として義輝のことを噂しなかった。公方の都落ちに動揺もしていないし、興味も持っていない。薄々分かっていたことだが、現実を直視するのは辛かった。このまま長慶の政権が長く続き、そのことに抗う大名も現れなければ、本当に足利将軍は忘れ去られた存在になってしまうかもしれぬ。

(余はここにいるのにな)

義輝を見ても誰も反応を示さない。精々、身なりのいい若者だと思うくらいだろう。

着ている服の生地くらいしか、自分と皆は違わないのだ。公方だと知らされなければ、誰も平伏しない。馳せ参じない。敬語を使いもしない。晴員が義輝を御所から出そうとしないのは、この不都合極まりない真実を見せたくなかったからなのか。

涙が出そうになって、琵琶湖に足を入れて木剣を振った。汗を流せば涙は乾く。長い朽木暮らしで身につけた知恵だった。

 

「上様、あれを」

藤孝に声をかけられた。彼の指さす方を見ると、湖岸で女がごろつき二人に絡まれている。女は相手にしていないが、ごろつきどもは無理やり手籠めにでもしかねない勢いだった。

「放っても置けぬな」

「関わりになるのですか」

「一度くらい、自らの手で民を救ってみたい」

木剣を手に近づいていく。こちらに気づいた男たちは乱暴な声を上げた。

「なんだ若造」

「葬式みたいな面しやがって、消えな!」

「はっははは! そいつはいい、おらおら邪魔すんじゃねえよ喪中小僧」

義輝は思わず動きを止めた。何を言われたのか、咄嗟には理解できなかったのだ。この世には、こんな言葉使いをする者がいるのか。

相手は義輝がびくついていると思ったらしい。ますます威張ってがなり立ててくる。続いて、その後頭部を女が朱傘ではっ倒した。

「ぐお!」

驚くごろつき。間髪入れずに義輝が木剣を振るい、たちまち男たちは気を失った。

「危ないところを救っていただきましたねえ」

女が礼を言う。芸人らしいが、都でも見たことのないような美人である。世は広いとあらためて思った。

事情を聴いてみると、舟を出してもらおうと交渉したところ、危うく卑猥な目に遭いかけたということだ。

「破廉恥な。生かしておいては世のためにならぬな」

木剣を置いて腰の刀を抜こうとした。童子切、人間の胴体くらいなら二体同時に断ち切ることができる大業物である。

「ちょ、ちょっとお待ちよ。そこまでするこたあないよ」

「ここで成敗せねば、他のおなごにも害をなす」

「こんなことでいちいち斬っていたら世の中から男がいなくなっちまいますよ」

女が笑みを浮かべながら間合いに入ってきて、斬るように扇子で義輝の胸を撫でる。その仕草と色艶に惑って義輝は刀から手を離した。

「あっ、いたいた。エーイ姐さん」

「何だか様子がおかしいぜ。おねんねしている殿方が二人、またまた絡まれてたのかね」

「姐さんといると揉め事がかえって増えてるんじゃないか」

「起きている方の殿方に助けてもらったってところかな」

呑気そうに女の連れらしい芸人が登場する。

一座は、それぞれお紋、熊吉、勝太郎と名乗った。

 

「さ、さ。菊丸さんも萬吉さんも。ぐーっと、ぐーっと」

「……むう」

「エーイ! いい呑みっぷりだあ!」

赤ら顔になった熊吉が酒を注いでくる。越前で手に入れたとかで、酒は上物である。彼らは東国を廻り、越後に出てからは日本海沿いの経路で京に向かってきたのだという。

お紋は一級の踊り子だった。勝太郎の笛に合わせて優美に舞うかと思えば、五つの手毬を自在に操る曲芸を披露してみせたりもする。湖岸で真っ昼間から始まった宴は殊の外面白いものだった。彼女の舞が終われば、返礼にと藤孝が太鼓を叩く。藤孝も芸達者さでは負けていない。太鼓の音色は瀟洒な調べ、羽毛で腹を撫でられるような名調子である。義輝も手拍子を打っておおいに場を盛りあげた。

「……こんなに愉快な思いをしたのは初めてだ。礼を言うぞ、熊吉よ」

「そうですかい? お侍さんは見たところ立派な生まれのようだし腕も立つ、人柄もよさそうだ。どこでだって楽しく暮らしていけそうじゃないですか」

「く、ははは。そんな甘くはない、世の中は窮屈なものだ。余……わし一人の力では、もうどうにもならぬ」

酒がまわってきた。こんな宴は初めてなのだ。立てなくなろうが杯を重ねたい。

「それでは生きてる甲斐がないでしょう」

「言うではないか。ならば熊吉は如何に生きるというのだ」

酔いに任せて絡んでみた。絡んだ程度のつもりだった。

「ふっふふ。ねえ菊丸さん、見上げてご覧よ。この広い空は誰のものだと思います」

言われた通りに空を見る。酒のせいか、頭がいつもより重い気がした。揺れる視界の中、空はどこまでも青く晴れ渡っている。

「空は……誰のものでもないだろう」

「そう、いまはその通り」

「いまは」

「いずれ、この空は俺様のものだと天下万民に認めさせてみせる。俺は大きくなったら空になりたいのさ! ちっぽけな大地にさようなら、すべてを俺様の手の内にするんだよ!」

熊吉の瞳がきらきらと眩しい。いったい、この小僧は何を話している。

「……大きく出たものだ」

「俺の親父はみみっちい奴でよう! 空を飛ぶだけの力があるのに周りに合わせて地面を這っているのよ。母ちゃんは愛想を尽かして出てっちまうしよう!」

「……」

「俺は空になるんだ。大空に歌い大空に戦う。有象無象の夢はみんな、俺の翼で包んでやらあ」

目が回ってきた。酒だけではない、お紋の舞に、熊吉の法螺話に酔っている。

「熊吉の翼には……何のしがらみもないのだな……」

「ははは、細けえこと……気にすんなよ……菊丸さん……」

ここまでだった。声が遠い、視界が暗い。草むらに大の字となって、義輝は深い眠りに落ちていた。

 

夕暮れ。気がつけばお紋一行の姿はない。藤孝だけが義輝の傍に付き従っていた。

「余は……何者と出会ったのだろう。逢魔が時というやつか」

「新たな驚異、ですかな」

「……」

「分別の枠外を往く者。三好殿によく似ておりました」

「お主も、そう思ったか。しかしまさか……そんなはずはな」

ただの芸人だとは思えないが、正体の掴みようがない。間者にしては目立ち過ぎていたのは確かだ。

「……楽しゅうございましたね」

「出会いとは、よいものだな。心底から思った」

「これで、上様もまた大きくなられますよ」

「大空か……。目指すことは、覚悟することよな」

心地よい風が湖から吹いてきて、酔い醒めの不快感が一掃されてゆく。

もう一度。彼らともう一度会ってみたいと思った。

 

  *

 

龍吉と合流した時から覚悟はしていたが、やはり自分の行動は筒抜けだったらしい。

京から西国街道を南下していくうちに、長逸が、基速が、松永兄弟が、次々と三好家一同が集まってくる。思っていたより皆の態度は温かだった。久秀と長頼などは目が潤んでいる。長逸にはこれ以上白髪を増やさせないでくれと苦笑された。基速からは清潔な衣服を手渡され、山崎の離宮八幡宮京都府乙訓郡)で身なりを整えさせてもらった。

長慶が商人の増員、既存産業への新規参入を奨励していることもあって、山崎の荏胡麻油座は昔の勢いがないと言われている。その一方、京と畿内の政庁と化した芥川の中間に位置する山崎は往来する旅人が急増しており、彼らを相手にする旅籠や履物屋が繁盛していた。

そう、ここから芥川山城は近いのである。長頼たちに土産話をして喜ばせながらも、慶興は父との面会を恐れていた。それは勝正も同じようで、今更ながら池田家に処刑されないかと憂い始めている。龍吉はどうという変わりも見せず、扇子で二人に風を送っていた。

 

「……」

「……」

長慶の私室で、二人は向かい合った。長慶の目は静かに澄んでいて、心情を読み取ることができない。汗が滲む。叱られる覚悟はしているが、どうせならひと思いに怒鳴ってもらいたい。身体を貫くような視線をこのまま向けられ続けると、それだけで心の臓が止まってしまいそうだった。

「息災のようだな」

「……詫びの申しようもありませぬ」

「あまねも、変わりなかったか」

「攫ってくるつもりが敵いませんでした。畢竟、思い知った旅でございました」

「何を学んだ」

「空の広さと、変わらぬ民の暮らしを」

加えて言うなら、長慶の大きさを。どこへ行っても長慶の噂を聞かぬ日はなかった。どんな田舎の民でも長慶の動向に関心を持っていたし、若い連中は長慶に続けと息巻いていた。

「……私も、ひとつ学んだぞ」

「……」

「お前がおらぬ間、頼りない心地がしてならなかった。もう、私を一人にしないでくれ」

「……!」

「よく無事に帰ってきてくれた」

ひれ伏す慶興の背中を軽く叩いて、長慶が部屋から出ていく。顔をごしごしと拭ってから、長慶の座っていたところに掌を当ててみた。幽かな温もりと薫りに、慶興は得も言われぬ幸福を感じ取った。

 

翌日、長慶に顕本寺の清掃を申し出て、受け容れられた。祖父、元長の二十五回忌が迫っている。幸いにして勝正の助命と同道も許された。但し、勝正は別途、池田家に所領の四分の三を返納することになったそうだ。友の名誉を回復するためにも、これからは心機を一転して励まねばならない。

 

  *

 

弘治二年(1556年)六月。長慶は堺の顕本寺にて元長の二十五回忌を執り行った。千人の僧で読経をあげる千部会である。一武人の法要としては古今例を見ない規模だった。

思えば長慶の定めは元長の死から始まったようなものである。元長とつるぎの思いを受け継ぎ、懸命に生き抜いてきた。木沢長政と三好宗三を討ち、細川六郎政権を滅ぼした。世を乱す根源、痩せた秩序の象徴である足利公方も京から追い出した。民は栄え、安寧を喜び、日を追うごとに豊かさを増している。堺公方府はなくなったが、元長の夢見た海外との交易は盛んになるばかりだ。鉄砲という新技術、かつて審判教と呼んでいたキリスト教など、新たな知恵も渡来してきた。いまでは鉄砲なしの戦は考えられないし、キリスト教は九州などで徐々に信者を獲得している。時代は、元長が思い描いた方向に動いているのだ。

あの頃を生きた者たちも同じ思いを抱いたらしい。長逸や康長たち、堺の会合衆法華宗の重鎮など、一定年齢以上の者は誰もが元長の偉業を覚えている。一人ひとりがそれぞれの三好元長を思い起こし、話題は尽きることがない。

鳴り物衆の頭もその一人で、“しまい太鼓”を演らせてほしいと長慶に訴え出てきた。快く許したところ、顕本寺の庭で太鼓、鉦、そして笛の調べが流れ始めた。日頃は勇ましい駆け太鼓や掛かり太鼓を鳴らす者たちである。彼らの太鼓がこのような哀切を帯び得ることを、長慶は今日初めて知った。

経も会話も止んでしまって、全員がしまい太鼓に耳を傾けている。涙を流さぬ者は一人もいなかった。緩やかな調子が一同の心を揺らし続ける。楽器のひと打ちひと吹きごとに元長の姿が蘇った。もう二度と元長に会えないという、当然の事実に胸が締め付けられた。

静寂が戻ってからも、名残を惜しむかのように誰も動こうとしなかった。長慶は弟妹たちと一列に並んで、鳴り物衆に向かって深々と頭を下げた。元長の位牌の前では、孫の慶興が目を瞑って黙考していた。

 

二日後、長慶は与四郎に誘われて“南海庵”を訊ねていた。与四郎の奢りで、珍しいものを食べさせてもらえるという話である。南海庵は堺でも知る人ぞ知る料理屋で、会合衆などの金持ちがここぞという時に大枚をはたいて利用するということだ。落ち着いた色合いに装飾された店内は清潔と緊張が漲っており、主の気構えの高さが伝わってくるようだった。

「二十五回忌でも過分な贈り物をいただいたというのに。悪いな、与四郎」

「気にしないでくれよ、元長殿は私の義父でもあるのだ。それより、年甲斐もなくしてきゃんきゃん泣き声を上げる妻が恥ずかしかった」

「ふふ、いねはあれでいいのさ。夫婦喧嘩も最近は減ったのだろう?」

「まあ、な。稼業も順調だし、茶の方でも少しは名が売れてきた。そのせいか、妙に機嫌がいい」

「めきめき評判を上げる夫と、その出世を喜ぶ妻。理想の夫婦だな」

与四郎が照れて目を伏せた。亡き紹鴎のような渋みを纏ってきているが、長慶にいじられるとはにかんでしまうところがある。主が膳を運んできたことで、助かったというような表情を見せた。

「さすがの千殿でも、これは口にしたことがない味だと思うよ」

「ほう。む……この匂いは」

温めた乳白色の平皿の上に、ひと口大に切り分けられたもの。この質感、照り、香ばしさは。

「肉。牛を焼いたのか」

「ご名答。千殿はいい鼻をしているな」

「しかし……牛の肉が、堺で喜ばれるとは」

「ははは、一食即解」

仕返しとばかりに与四郎がにやつく。言われるままにつまんでみた。……箸が、沈む。

持ち上げた。絹織物の端切れの如く、肉が弓なりにしなる。鼻を溶かすような甘い脂の匂い。口に含み、噛もうとした。噛む必要はなかった。舌で弄ぶだけで肉がときほぐれ、奥から奥から旨味が溢れ出す。塩を中心とした丁寧な下味、濃厚だが後切れよい風味。疲れた身体に活を入れるような怒涛の味攻め。

「これが……牛肉だというのか」

「その笑顔、今日一番だね」

「他のことなどどうでもよくなった」

南蛮の商人から学んだということだが、製法の一切は秘伝。どうやら、日本人の頭では思いもつかない工夫が幾つもなされているようだった。分析など諦めてしまって、熱いうちに食べてしまうのが賢いようだ。

葡萄酒が出された。この赤い酒がこれまた肉の味を膨らませる。気分がよくなって、与四郎との歓談にも花が咲く。慶興の帰着、元長の二十五回忌に続き、最上の一日を過ごすことができた。

 

  *

 

二十五回忌の翌月、久秀は滝山城にて長慶の御成を催した。

三好家による二箇月続いての大行事に、摂津の民が目を見張ったことは言うまでもない。主の御成は家臣にとって最大の栄誉である。ましてやその相手が三好長慶であるから、久秀の気負いも相当のものであった。

もともと摂津下郡は長慶が直接治めていた経緯があるから、土地の有力者と三好家の交誼は厚い。訪れた客たちは久秀の趣向をおおいに喜び、長慶との久方ぶりの語らいを楽しんだ。

注目を集めた演目のひとつは、やはり長慶自身が参加した千句連歌である。

 

難波津の言の葉おおふ霞かな――(長慶)

 

この発句で始まった千句では、長慶と久秀によってある遊びを仕込むことにしていた。“難波”“住吉”“水瀬川”“玉江”“湊川”“初島”“須磨”“生田”“芦屋”“布引滝”“羽束山”。以上、十一の摂津名所を各巻および追加の発句に詠み込んだのである。

三巻、四巻と続く頃には客たちにも意図が分かってくる。摂津を完全な支配下に置いた長慶の業績を称え、千句の形で伝えようという狙いだった。もちろん、これは単なる久秀のおべっかではない。三好家の連歌にはいい歌詠みが集まってくる。彼らは各地の大名や寺社に招かれて全国を行脚する。その過程で、千句の内容は流布されていく。結果、“武”だけではなく、“文”においても長慶の名が知れ渡っていくのだ。

長慶が堺に大林宗套老師を招いて、元長の菩提を弔う寺院を創建することも既に話題になっている。大林宗套は大徳寺の住持であり、禅だけでなく、連歌茶の湯とも深い関係にある。いずれは日ノ本の風流を長慶が先導していくことになるのではないか。こうした取り組みが次々と明らかになる中、そんな声も久秀のところには届いていた。

連歌に加えて、龍吉による猿楽能も反響を呼んでいた。専門の猿楽師を呼ぶこともできたが、かつての平蜘蛛町元締めとして、自分にしかできない出し物を加えておきたかった。東国から戻った龍吉の舞には一層の凄味が満ちていて、初めて彼女を目にした客たちを瞠目させた。

慶興の彷徨を無事に守り抜いた度胸と、平蜘蛛町のすべてを仕切る度量。もはや龍吉は久秀だけでなく、三好家にとってなくてはならぬ存在になってきていた。苦い過去を乗り越え、今日のこの日を美々しく邁進する彼女に、旧友ながら頭が下がる思いである。

龍吉に負けてはいられない。晴れ晴れしい宴の締めくくりは、久秀自身による茶数寄振舞いなのだ。

 

「ぎゃあっはっは、大成功やったのう。皆の衆、わいの点前に感心しきりやったでえ」

「平蜘蛛釜と九十九茄子のお蔭なのでは……」

「やかましわい、道具も持ち主の力や」

「どちらかというと前の持ち主、宗三殿や紹鴎殿を懐かしんでおられたような……」

そこまで言われたところで正虎の後頭部を殴った。本当のことを言えばいいというものではない。

「いてて……。まあ、確かに九十九茄子まで久秀殿が所持していたのですから。誰もが驚いたことは確かでしょうね」

「せやろ! 殿はあんまり茶の湯はやらんさかい、遠慮なく名あ上げられるわ! はあっはは」

「よいのですか、之虎殿に目をつけられても」

「うぐっ……」

「之虎殿も三日月茶壺とかいう大名物を手に入れられたのでしょう。張り合っているように受け取られたら後が怖いと思いますよ」

「そ、そやな。見せびらかし過ぎんのも品がないもんな」

気になることを指摘する奴である。事実、三好家中において久秀は人気がない。長慶に気に入られて成り上がったこと、長慶に対して馴れ馴れしいことが不興を買っているのである。成り上がりの三好の中で成り上がって何が悪い、主が喜ぶように知恵を絞って何が悪いと久秀は思う。しかし、独自の家臣を抱え、自分の領地を持つようになってくると、嫌われ者結構という訳にもいかなくなってくる。客分であり側近でもある正虎は、その辺りの細やかな事情をよく理解していた。

九十九茄子は死の直前に紹鴎が譲ってくれたものだ。茶の手ほどきをしてもらった恩もあり、見舞いに顔を出した時のことである。唐突に、江口の戦い、宗三との最後の会話を事細かに訊ねられた。問われるままに答えていたところ、しまいになぜか九十九茄子を託された。いまだに訳は分からないが、平蜘蛛釜に続いてふたつ目の大名物を手にしたことに違いはない。やってみれば、茶の湯も存外面白いものなのだ。

「せやけど、今回の御成でもよう働いてくれたのう。なんぞ礼せえなあかんな」

「人前に出られない僕に、やりがいのある居場所を与えてくれているだけでもありがたいですよ」

「欲がないやっちゃ。姉ちゃんにも世話になっとるし、いっぺん殿と相談してみるわ」

「恐縮なことです」

考えがないこともない。強い刺激を伴うが、長慶の目指す方向とは合致しているはずだ。

 

  *

 

「はあ、はあ……。一存様、も少し、待って。もう、堪忍……」

「まだまだこれからだぞ。さあ、足を上げろ。腰に力を入れるのだ」

「嫌。うち、駄目になってしまうわ。ああ……あああ」

息も絶え絶えに尚子が喘ぐ。それなりに丈夫とはいえ、公家で育った女である。無尽蔵を誇る一存の体力にはとてもついてこられない。

とはいえ、一存の後をなんとか追ってくるだけ尚子はましだった。存春と熊王丸は石段の遥か下の方で座り込んでしまっている。金毘羅宮香川県仲多度郡)の急坂は年寄りや子どもには酷だったようだ。

「仕方ない。少し、腰を下ろそうか」

「手え引いて……」

「馬鹿、人が見ておるぞ」

「一存様のおつむが珍しいんやわあ。ああ、無理。よう動かへん」

一存にもたれかかるように尚子が座り込む。身内を交えた参拝という態を取ったことを、少し後悔した。ここから香川氏の居城、天霧城(香川県善通寺市仲多度郡)は程近い。三好家と香川家の緊張関係が高まる中、金毘羅宮周辺の有力者を懐柔しておくことは重要なのだ。加えて、瀬戸内の守り神であるこの社を取り込むことは、海上交易に力を入れている三好家にとって戦支度だけに留まらない意味がある。香川氏を降伏させた後には寄進を惜しまないつもりだ。

「か、一存……」

熊王丸を背負って存春がようやく石段を登ってきた。最近はすっかり老け込んでしまい、義父に昔日の覇気はない。そして、それよりも情けないのが息子の熊王丸だった。

「甘やかし過ぎだぞ、尚子」

「やん、そんないけず言わんといてえ。学問には精出してるんやから」

「頭でっかちは戦で役に立たん」

商いや数寄が流行ることは構わない。古典や礼法もあって邪魔にはならない。だが、山野の駆け方、槍の握り方も知らないようでは困る。そんなことだから近頃は武士らしい武士が減ったと言われるのだ。

力が強い。身体が逞しい。その単純かつ明快な素晴らしさを覚えねばならぬ。

「おら……よっ」

「きゃっ」

やおら尚子を掴んで、肩の上に乗せた。続いて片手で存春を持ち上げ、反対の肩で担ぐ。

熊王丸は肩車だ。わしの額から手を離すなよ」

「ち、父上。すごい……」

息子がしがみつく。妻も義父も照れながら甘えている。丹田に気を入れ、一存は坂を駆け上がった。

 

続く

 

 

三十二 無頼の段  ――三好長慶 東播磨を平定し、三好宗渭 丹波で三好長逸・松永兄弟を撃退す――

三十二 無頼の段

 

三木城を取り囲む兵は三万を超えている。

長逸の一万、長慶の一万、之虎の一万。既に前年、三木城の支城網は長逸によって壊滅している。近隣の国人や寺社、惣村は四国衆先遣隊の長房が調略を済ませた。別所就治がこの劣勢を覆す手はまったくないと言ってよい。

その上でなお、就治は俊傑たる片鱗をおおいに示した。一箇月に亘って長慶たちの攻囲に耐え抜き、面目をおおいに施した後、潔く降伏を申し入れてきたのである。

無論、長慶の攻撃は本気ではなかった。鳴り物は盛んに轟かせたが、死傷者が増えるような攻め方はしていない。就治は就治でこちらの腹積もりをよく読んでいた。長慶に屈服した形にはなるが、播磨随一の武名もまた不動のものとなっている。いわば長慶が実を取り、就治が名を取った態であった。

双方の兵、近隣の民が見守る中、三木城近くの丘の上で長慶と就治両雄が並び立つ。既に和睦の儀は済ませており、今日の披露は示威を目的としている。たちまち丘を取り囲む群衆から歓声が上がった。三万の兵を容易く集めてみせた長慶を、敬慕の眼差しで見上げている。尼子よりも恐ろしく、頼もしい。群集の反応はそのことを充分に理解したことを示していた。

 

「残るは丹波ですな」

「ああ。引き続き期待しているぞ」

長逸の働きは見事だった。五十に近づいているが、その実力と存在感は深まるばかりである。

「……若殿は」

「いまは尾張三河辺りだろうな。龍吉の手引きで銭を掏られている。道中、それなりに苦労もしていよう」

「やはり承服いたしかねます。いますぐにでも連れ帰すべきです」

「ふ。何度も話したことさ」

長逸は家の安泰を願う向きが強い。嫡男を領国外に出すなど正気ではないと、繰り返し諌められた。基速や久秀も同意見である。平蜘蛛町の者が遠巻きに護衛し、龍吉に案内を務めさせるということまでやったものの、家臣は納得していない。

「三好家の繁栄は、ひとえに殿の存在あってこそ。その威光を受け継ぐべき大事な若殿を」

「いっそ、あまねを追って出家でもしてくれた方がな」

「な、何を仰る!」

形相を見てそれ以上言うのをやめた。人の世は前例を塗り替えて進んでいくものだ。家や血を残すことにどれほどの価値があるのか。六郎や公方を憎みながら、自分たちも同じようなことをしているのではないか。そう伝えても、長逸は納得しないだろう。施政の責任を軽んじている、可能な限り家の安定に努めることが治世と民心の安定に繋がるのだ、などと反論してくるだろう。

長逸も正しい。命を懸けて元長の忘れ形見を守ってくれた男に言うべきことではなかった。

「……口が過ぎた。いまは、慶興を信じようではないか」

「若殿の異才が、悪い方に流れなければよいのですが」

「母の顔を見れば気も晴れる。思い残すことがなければ、人はよく育つ」

「それは、そうですが」

そうしているうちに、友通が様子を伺いに来た。播磨攻めでもなかなかの活躍をしたと聞いている。

宿所の外では、播磨の有力者たちが長慶に挨拶しようと群がっている様子だった。

 

  *

 

春がやって来て、岡部の里は色めきを増している。

仕事の少ない冬の間、里の女たちは頻繁にあまねの寺を訪れてきた。東慶寺で暮らしていたといっても、あまねは厳密には尼ではない。切り髪にし、写経は欠かさないが、仏法の本格を修めた訳ではないのだ。それでも、女たちは余所者であるあまねに話を聴いてもらいたがった。

琴の力を借りて、実際の解決に乗り出したこともある。

ある女は夫から毎日暴力を振るわれていた。その夫が、原因不明の腹痛で三十日も寝込んだ。女があまねに相談した、その日の夜からである。あまねによる神通力ではないかと噂になった。恐れた夫が女に詫びたところ、翌日には痛みが消えていた。それ以来、あまねの寺には米や青物が潤沢に届くようになっている。騙りめいたことだが、難儀している女を放っておくよりはよいと割り切った。

 

駿府(静岡県静岡市)の桜が咲き始めたそうよ。踊り子の一座もやって来て、賑わっているみたい」

そう佳に勧められ、あまねと琴は駿府にやって来ていた。放っておけば寺から出てこようとしないあまねである。たまには世間の空気を吸わせようという佳の計らいだった。

つい出発が遅くなり、駿府に着いた頃には日が暮れていた。しかし、今川氏の本拠であるこの地は宿や盛り場が多く、夜になっても人出が減る様子はない。むしろ、桜目当ての客が増えているようだ。ちらほらと公家風の男が混じっているのは、今川義元が都の者を積極的に招聘しているからだろう。

駿府に多数の桜を植えさせた義元の気持ちはよく分かる。歌を好む者は、身近に歌題を求めてしまうものだ。義元ほど多忙になれば、山野に遊ぶことも難しいに違いない。側近の太原雪斎が病んでいるなら尚更だった。

人混みをかき分けて進むうち、一際大勢の人が集まっている場所を見つけた。囲むように人垣ができており、その中には篝火に照らし出された満開の桜と踊る女。

「きれい……」

思わず口に出ていた。白塗りの気品あふれる表情。この場に合う黒地に桜柄の衣装。伸びやかな指先、滑るような足の運び。あまねには、舞っている女が現実の人間には思えなかった。武士も農民も公家も、見物客は皆、息を呑んで見守っている。まるで桜の根っ子に意識を吸われていくような、胸の芯を夜桜の花びらに染め上げられるような……。

舞が終わったことに、しばらくは気づかなかった。音を鳴らせていたほっかむりの男たちが銭を集め始めて、ようやく観客たちは夢から覚めたのである。

「天人が……舞い降りたようでしたね」

「ああ。さすがは龍吉殿だな」

「……え?」

琴の横顔を覗きこもうとした途端、ほっかむりの男の一人が大声で叫んだ。

「見つけた! エーイ。母上、母上―!」

 

佳が手配してくれていた旅籠に無理を言って、龍吉一座も一緒に泊まることになった。

龍吉と琴はもともと面識があったらしい。その場に座り込んでしまったあまねの手を引いて、宿や食事の段取りをきびきびと整えていく。千熊丸と池田勝正という若者は見るからに渡世人といった態で、二階の部屋の窓から通行人をからかっていた。

息子の思い出を美化し過ぎていたのだろうか。それとも、男手で育てるとこんなにも禍々しくなってしまうのか? 母上、母上と甘えてきた千熊丸と、恐ろしげな男になった千熊丸。思いもかけなかった展開に、平静を保つことすら難しいように思えた。

聴けば、昨年の暮れに芥川山城を出奔。各地で芸を披露し、日銭を稼ぎながら旅を続けてきたという。琴はやはり畿内と連絡を取り合っていたようで、その筋からあまねのおおまかな居場所が漏れたらしい。

「……ということは、琴は知っていたのですね」

「教えてほしかったのか」

「心の、準備というものが」

「縁を切ったのは夫だけだろう。子どもと会うのに気兼ねもあるまい」

「白々しいんだから……」

龍吉という女に目を移す。

舞い終わった踊り子は色気半減と聞くが、龍吉は正真正銘の美人だった。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花。彼女の前では、そんな形容すらが空疎に思えてしまう。

(あの人とは……どんな関係なんだろう。こんな人がいたのに、あたしを……)

なぜだか、長慶に裏切られたような気がした。かつての夫の、知らない一面を覗いてしまったような。

誤解、思い込みだとは分かっていても、胸を締め付ける苦さは隠しようもない。切っても切っても長慶の生霊は自分を束縛してくるのだった。

あまねの沈んだ気配を察して、龍吉が明るい声を出した。

「さあさ皆が一緒じゃせっかくの再会も楽しめやしない。野暮なことせずお暇しようね」

立ち上がって、琴と勝正に退出を促す。

「エーイ。そうだね姐さんそれでは熊さん」

勝正が続き、琴も倣う。その頬がいつもより緩んでいる。

二人きりになると、部屋は急に静かになった。静けさを、意識してしまう。

「……」

「……会いたかった」

眼差し。威勢と依存が混じりあう息子の瞳から、みるみる涙が溢れ出す。

「千熊」

「会いたかったんだよ!」

遠吠えするように顔を上げ、あまねに抱きついてきた。ひと時の間、逞しい男なるものを思い出す。身体が強張った。だが、あまねの膝に埋まった千熊丸は幼子そのものである。倍ほどにも育ったが、肩の震え、泣き声の調子、時おりあまねの膝を額で叩く癖はまるで変わっていない。ここにきてようやく、かつての母性が千層の記憶と共に蘇ってきた。

「いつもいつも母を驚かせて……。お前はほんとにもう……」

母子の涙が重なり、随喜は絡まりあう。そこには何の覆いもなかった。洞穴を吹き抜ける風のように声が通り出てゆく。この時初めて、千熊丸の声が長慶と似ていることに気づいた。

 

夜通し、様々な話を聴いた。

元服して慶興と名乗っていること。長逸をからかうと面白いこと。基速がこっそり小遣いをくれること。松永兄弟に喧嘩の仕方を教えてもらったこと。越水城の頃と違って、皆で顔を合わす機会が減っていること。

「ところで、新しい母上とは上手くいっているの」

「は?」

「気を遣わなくともよい。遊佐長教殿の娘を後妻に貰ったんでしょう」

「ああ、あれ嘘。父上はずっとうじうじやもめだぜ」

「え……」

丹波攻めにも失敗してばかりだしよう、私情にとらわれ過ぎだよな。大人は嘘ばっかりつくけど、父上のは特に性質が悪いや。あれで本人は潔癖に生きてるつもりなんだぜ」

「……そう、なんだ」

動揺を隠すように、宿が用意してくれた夜食の黄粉餅に手を伸ばした。

「母上は変わりないなあ。唇、震えてるよ」

言われて黄粉が喉の変なところに入り、酷く咽た。笑いながら慶興も黄粉餅を食べている。話し続けて腹が減ったのか、次々と餅が消えていく。

「うめえな、これ。砂糖を混ぜたらもっとうまくなりそうだけどな」

畿内とは違う。砂糖などそうそう手に入らぬ」

「これからは分からねえぜ。堺の南蛮貿易は盛んになるばかりだし、だんだん東国にも流れてくるだろうよ」

「ふうん」

「葡萄の酒とか、珍しいものも入ってきているんだ。どうだい母上、呑んでみたいだろう」

「お、お酒なんて」

「ほら、やっぱり大人は嘘つきだよ」

くっくっと慶興が笑う。薫り。長慶がも少し乱暴になったような。

「自分だけは違うみたいな言い方をやめなさい。未熟者だと思われますよ」

「未熟でいいんだ俺は。……夜が明けたら、連れて帰るからな」

「何を言っているの」

「俺は父上とは違う。欲しいものは、力ずくで手に入れる」

「……なんてことを」

「母上を取り戻す。なんなら八上城も落としてやらあね」

「慶興殿」

「俺のお家再興は母上なんだ。母上のためなら、母上の願いだって踏み躙ってみせる」

「千熊!」

あまねの厳しい声に、慶興が若干怯んだ。怯んだが、屈する様子はない。頭ごなしに押さえつけられる年齢ではなかった。自分は、親として未熟なままだ。

「慮外者……。どうしてもと言うなら、あたしを殺しなさい。棺桶を引き摺って帰るといいわ」

「母上は俺のことが嫌いなのか」

「甘えないで。せめてあの人並に格好良くなってから言いなさい」

どうして息子にこんなことを言わねばならないのだろう。情けなさに溺れてしまいそうだった。

「……約束だな。俺がもっといい男になったら、戻ってきてくれるんだな」

「楽しみにしています」

「忘れるなよ!」

少年の顔がくしゃくしゃになっていく。十四歳の心情とは、なんと激しく揺れ動くものなんだろう。

「慶興殿」

「……」

「会いに来てくれて、ありがとう。……嬉しかった」

哀哭する背中に声をかけて、あまねは部屋を後にした。一緒に寝ようかと思っていたが、いまはそっとしておいた方がよさそうだ。

廊下に出ると、冬を思い出したような冷気が全身を包み込む。

息を指先に吹いてみる。白い。でも、温かい。一人でも大丈夫だと、自分に言い聞かせた。

 

  *

 

忘れられていた男、足利義冬が出奔してしまった。

権威だけは四国でも随一である。さすがの之虎や一存も止めることはできなかった。大内家に身を移すということで、結局は冬康が山口まで送り届けた。

義冬はいまも将軍就任を諦めていない。現将軍の義輝が京を追い出されてしまっているのに、である。時代の流れなど見ようともしていない。居を移せば、新たな軍兵が自分のもとへ集ってくると信じているのだ。現に、陶晴賢は義冬の来訪に大喜びだという。主君殺しの晴賢にとって、義冬を擁することは大義名分の回復に役立つという訳だ。

「もう少し、上手くやれたと思うのですが」

「之虎が阿波を治める上で、目の上の瘤でもあったしのう」

「我らには瘤であっても、陶にとっては値千金ですよ」

陶晴賢は大内家の掌握に苦心している。毛利元就など国人衆の離反も相次いでいる。だが、やがて中国や九州の覇権を手にした者が、足利義冬を担ぐようなことがあれば。

「長房の言うことも分かるが」

「私なら持隆様を殺めた後、当座は義冬様を立てておきましたな」

「物を扱うように言う」

「一つひとつの難題に、一つひとつ最適な答えを。それが政治でございましょう」

康長が苦笑する。近頃は老いを自覚したのか、長房に反論しなくなってきていた。物足りないようにも思うし、自信を持っていいのだとも思う。

三好家の領国が急速に広がる中、長房の存在は重みを増すばかりだった。長慶を筆頭とする畿内の三好家、之虎を筆頭とする四国の三好家。長房の役目は両者の実務者層を繋ぎ、相乗効果を得ることである。自然、長房のところには情報が集まる。情報目当てに、人心も集まってくる。既に石成友通など、聡い者は長房への付け届けを欠かさなくなってきていた。

「ま、之虎をよく支えてやってくれ。お主の言うことなら、之虎も疎かにしない」

「……私に之虎様ほどの魅力があれば、もっとお役に立てるのに」

「贅沢だな」

「本音ですよ。同じことでも、之虎様が言うのと私が言うのでは違う。私では角が立つことがある」

「お主の知恵は之虎を凌駕しているかもしれん。それでいいではないか」

「私より優れた者がいる。それを受け容れられないのです」

自分が一番正しい。そう思っていても、政や軍略では之虎に及ばず、武勇では一存に及ばない。何か足りないものがあるということだ。資質か、性根か、それとも機会なのか。

このままでは三好家の能臣程度で終わってしまう。長房は強い焦りを抱いていた。

 

  *

 

「多少の苦戦は覚悟していたが……」

「ええ。ここまでの大敗は想定外です」

長慶と基速は二人してため息をついた。長慶は京や播磨の反応が気になるし、基速は軍資金や兵糧の損失が気になって仕方ないのだろう。

六郎への加勢を続ける波多野家を懲らしめようと、長逸と松永兄弟による大軍を派兵した。前の敗戦を繰り返さぬよう、進軍は慎重を期していたはずである。それでも、宗渭や晴通の策略に嵌まって味方勢は総崩れになってしまった。

どうも、敵の間者が自陣に紛れていたらしい。長逸と松永兄弟の連絡の不備につけ込み、それぞれを隘路に誘導。足の鈍い大軍はどうすることもできず、各個撃破されてしまった。さすがに各将は無事生還してきたが、兵の損耗は甚大である。

「宗渭め……。淀川での宗三を彷彿とさせるような神出鬼没ぶり」

「どうもいけませんな。長逸殿と松永兄弟で手柄争いをしていたようですし」

「いかにも、人の配置とは難しいものよ」

顔と顔を寄せ合っているうちは、意思伝達は滑らかなものである。それが、お互い城持ちになり、自分の家来を抱えるようになると、色々と齟齬が生じてきてしまう。長慶自身、一度は之虎と喧嘩になったのだ。

「評定ばかりしていても仕方ありませんが。ある程度は皆が集う機会を設けるべきでしょうな」

「放任も度が過ぎれば統制を欠くか。失敗から学んでいくしかないのだろうな」

「殿から叱られれば効果覿面でしょう。殿に構ってもらいたいから目立とうとするのですよ」

「ふふ。だったら尚更私の責任だな」

長慶は、基速の前向きな分析が好きだった。戦には疎いが、世間や家中のことをよく把握できている。かつての主である義冬が去ったいまも、長慶への忠誠は微塵も変わっていない。

「長時殿に弓馬術の講義でもしてもらいましょうか」

「いい考えだ。皆を呼び出す口実にもなるし、戦意の回復にも繋がろう」

信濃守護の小笠原長時武田晴信に敗れ、同族ということになっている長慶を頼ってきていた。無論、長時は旧領復帰を願っている。長慶にとっては、東国情勢に介入する口実ができたということだ。

成り上がり者である三好家では、有職故実や古典、連歌などの講義を積極的に行っている。一定の教養を身に着けないと、京では日常会話にすら事欠くためだ。小笠原流の弓馬術や礼法ならば格好の教材である。

気取った公家や公方奉行とも、無骨な国人衆や惣村とも、自在に気脈を通じることができる。こうした懐の深さが三好家の強みだった。

(そしてその力は、他者への敬意や配慮があってこそ……。皆、偉くなり過ぎて忘れかけているのかな)

もう一度浅いため息をつき、長慶は家中への訓示内容を考え始めていた。

 

  *

 

「ああ! ちょっと熊さん待ってよこの一手。待って待って」

「またかよ勝っちゃん何度目だい」

勝正は将棋が下手である。本人の性格そのままに突っ込んでくるから、伏兵や奇襲にはすこぶる弱い。

「待って待ってで日が暮れる。坊主の念仏みたいね、待って待って待って……はい極楽往生でございます」

「からかわないでおくれよ姐さん」

「じゃあこっちから王手だな」

「うげえ!」

「うふふ、熊さんに勝てる訳ないわよねえ」

うなだれる勝正を宿屋に置いて、慶興と龍吉は表の通りに出た。

信濃国、浅間の湯(長野県松本市)。あまねを連れ帰ることに失敗した慶興は、このまま帰国するのは癪だからと東国一帯を見物して廻っていた。

この地に立ち寄ったのは、ここが三好一族の源流、小笠原氏の本拠だったからである。山深い当地を眺めていると、ご先祖様がなぜ四国の山奥に土着したのか、多少は合点がいくような気もした。

「おっかさんのことでも考えてらしたんですか」

龍吉が慶興の顔を覗きこんできた。湯から上がって間もない彼女の肌は薄桃色に和らいでいる。首筋、鎖骨の辺りに目を引かれて、慶興は思わず瞬きを繰り返した。

「ち、違うよ。俺だって色々物思いに耽ることもあらあね」

「あらあら、故郷捨てた若君だけど瞼の裏には母上浮かぶ……てなところかと思っちまいましたよ」

「姐さんには敵わねえや」

一緒に旅をして一年近くになるが、一向に頭が上がらない。

「長慶様に並ばなきゃいけないんでしょう。重たいお題でござんすね」

「言われなくても分かってるよ……。道々聞いた話じゃあ、都では公方も細川もいなくなっちまったってんで、いっそ改元したらどうかと話し合ってるらしいぜ。暦まで変えちまうたあたいした父上だよ」

「へえ、朽木の公方様が聞いたらまた激怒しそうな」

川中島で武田勢と睨みあってる長尾勢が動かねえのも、畿内の情勢を横目で見ているからなんだろ」

「そういう話ですねえ。湯治に来てるお侍方、そんな噂ばっかり」

日差し除けの朱傘をふりふり、龍吉が言葉を続ける。この女はなぜか、驚くほど武家の世界に明るい。

「父上はよう。子どもの頃から菩薩の化身だ、仏の生まれ変わりだって言われてたらしいんだよな。なんか、俺とは随分違うよなあ」

「確かに、ちょっと見たことのない男ぶりでしたねえ」

「知ってるのかい」

「長慶様が十八の頃に、少しだけですけど」

「どんな関係だったんだ」

「気になりますか」

眩惑するような笑顔ではぐらかされる。だいたい龍吉はいま幾つなんだ。

「姐さん、実は俺の本当の母親だってんじゃねえだろうな」

「あはっはは……! そいつはいい、そんなはずないじゃないですか。面白いお方ですねえ」

「ちっ、これだから大人は嫌いだよ」

「自信をお持ちなさいよ。いい子はいい子にしかなれないんですから」

話しながらぶらぶら歩いていると、酒屋の前に野武士風の一団がたむろっているのが目に入った。

向こうもこちらに気づいたようだ。酔っているのか元からか、一様に下卑た笑みを浮かべている。仲間内で何か冗談を言い合っているが、おそらく聞くに堪えないような内容に違いなかった。この辺りは小笠原の統治がよくなかったのか川中島の前線に近いからか、どうにも治安がよくない。

「おい兄ちゃん、いい女を連れているじゃねえか」

お決まりの言葉を投げてきた。龍吉と歩いているとこんなことがよく起こる。返事をするのも面倒だった。

野武士の一人がこちらに近寄ってくる。一歩、二歩、三歩。間合いに入った瞬間、懐中に忍ばせていた得物を振るった。

破裂するような音が鳴って、野武士の面の皮が千切れ飛んだ。打たれた男は気を失った。他の悪漢は呆気にとられている。奇妙な一瞬の静寂。

「な、何をしやがった」

「まさか……鉄砲じゃねえだろうな」

「それならお館様にお伝えしねえと」

こちらを警戒しながら遠巻きに囲んでくる。武田領の連中はこれが厄介だった。少し驚かせたくらいでは逃げようとしない。それどころか、変わったことがあるほど関心を持って迫ってくる。武田領では民が率先して不審者に喰らいつき、武田晴信に情報を上げようとする気風があった。侍が率先して民の暮らしを守り、難儀をかける者を成敗しようとする北条領とは随分違うものだ。

「姐さん、合図したら宿に向かって走ろう」

「あいよ」

じりじりと敵は距離を縮め、今度は二人掛かりで飛びかかってきた。

刹那、ぱん、ぱんと破裂音。虚しく慶興の前に倒れる。いずれの面にも大蛇が這ったような傷。慶興の得物は、松永長頼直伝の皮の鞭である。

「驚破したな、いまだ!」

駆けだした。残る相手は五人、血相を変えて追いかけてくる。軽い気持ちで龍吉にちょっかいを出そうとしただけだろうに、なぜそこまで必死になるのだ。凡愚の自尊心か、それとも国主に対する忠誠心か。

一人、足が速い男がいた。追いつかれる。鞭を放ち、足に引っ掛けて転ばせた。残るは四人。銘々が刀や槍を手にしている。弓矢を持っていない様子なのは幸いだった。

「おおい、勝っちゃーん!」

慶興の先をいく龍吉が、手を振りながら声を上げた。いつもながら勝正はいいところで現れてくれる。

「エーイ。お呼びとあらば即、参上!」

すごい勢いでこちらに突っ走ってきて慶興とすれ違い、そのまま敵の一人に両足で飛び蹴りを入れた。

「エーイ。頼りになるねやっぱり」

慶興も逃げるのをやめて、残る三人の方に身体を向ける。勝正は倒した一人の槍を奪って構えていた。勝正が槍を握ってしまえば、もう大丈夫だ。

「やいやいどうせそこの姐さんに悪さしようとしたんだろう。どうするお兄さん方続けるかい、どんな無法者とて震えだす我ら相手に火花を拡げてみせるかい。やるなら情けは無用、無頼には無頼を以て報いらあん!」

喧嘩をさせれば摂津では敵なしの勝正である。相手は明らかに動揺していた。考える暇を与えないよう地面を鞭で叩く。慌てて野武士たちは逃げ去っていった。

「勝っちゃんありがとよ」

「どういたしまして」

「面倒が増えないうちに武田領から離れた方がよさそうだなこりゃあ」

そうしていると、先ほど勝正に蹴り倒された男が起き上がってきた。勝正の背後を襲おうとしている。その頭を龍吉が朱傘で思い切り引っぱたき、男は再び気を失った。

 

  *

 

天文は二十四年で終わりを告げ、弘治元年(1555年)が始まった。改元の理由は“兵革”である。天文年間は細川高国政権の崩壊で始まり、細川六郎政権の崩壊と足利公方の追放で終わったということになる。言い換えれば、元長の死で始まり、長慶の天下獲りで締めくくった訳だ。

堺公方府もいまは昔。海船政所があった場所は昔日の面影もないが、堺はあの頃以上の好景気に沸いている。西国の混乱もあり、日明密貿易や南蛮貿易における堺衆の存在感は高まるばかりだった。厳島陶晴賢毛利元就に討たれるという大事件が起こり、これまでかろうじて体裁を保っていた大内家はいまや風前の灯である。必然、日明関係も新たな段階に突入せざるを得ない。そこに自分の付け入る隙もあると与四郎は考えていた。

「……また何やら、あくどいことを企んでいるな」

「堺の未来を夢見ているだけですよ」

武野紹鴎の隠棲する天神森の庵(大阪府大阪市)。夏場の感冒をこじらせた紹鴎はいつまでも床から起き上がることができず、弟子たちがかわるがわる見舞いに訪れていた。

「与四郎よ。何か、欲しい物はないか」

「いきなりどうしたのです」

「病に伏してからというもの、面倒ばかりかけている」

「ははは、水臭い。欲しい物ならたくさんありますが、紹鴎殿にはもう充分いただきましたよ」

「何か……差し上げたかな」

「正直に、慎み深く、おごらぬ様。毎朝目覚めに唱えております」

与四郎の返事に紹鴎が真顔になり、やがて瞑目した。それから、くっくっと渋い笑い声を漏らす。

「もう、他の者とは違うところへ辿り着いたのだな」

「そんなことはありません。私だって茄子の茶入が欲しゅうございますとも」

「……ひとつ、私が若い頃の話をしてやろう。ある茶人のところへ客として招かれた時のことだ。客は私一人のはずだったのに、つい他の者を連れていってしまった。一座には三人。されど主は菓子の饅頭をふたつしか用意していなかった。さ、主はどうしたと思うかね」

「己の分を遠慮して、客にひとつずつ出したのではないですか」

「くく。“ご相伴”と言って自分は饅頭をさっさと食べてしまい、残ったひとつを半分に割って我々に進めたのよ。あの衒いのなさはいまでも目に浮かぶな」

「なるほど、味わい深い……」

「言うは易く、行うは難し。茶の湯ほどその言葉が当てはまるものはあるまい」

「ふふ。だからこそ、大の大人がこんなにも夢中になれる」

「そうだ……その通りだ」

見舞いのはずが、もてなしを受けているような。交情を孕んだ紹鴎の頷きが何よりの馳走であった。

 

紹鴎が急逝したのはそれから五日後のことである。最期を看取った者はいない。

 

続く

 

 

三十一 洟垂れの段  ――安宅冬康 兄弟喧嘩を鎮め、三好長逸 播磨七城を抜く――

三十一 洟垂れの段

 

うら寂しい正月だった。

座に連なるのは僅か三十名。六角や朝倉からの援助があるとはいえ、祝いの膳はいかにも貧相である。例年はそれなりに顔を出していた公家や坊主も、今年は誰一人訪れてこない。それどころか、いずれ帝は長慶を武家の棟梁と見做すのではないかという風聞が届いてきた。

恥も外聞もなく仕掛けた暗殺は失敗に終わり、晴員と晴舎が全霊を注いだ策略“蝉取”も持隆により阻止された。残ったのは、誓約も道理も踏み躙った外道公方という悪評だけである。義晴と過ごしていた頃と比べても、朽木の民が公方を見る目はいかにも冷たい。

いまは天文二十三年(1554年)。気がつけば、長慶が都の支配者になって五年になろうとしている。足利公方を抱かぬ長慶の専制が、このままでは既成事実になってしまう。義輝も六郎も、初めは各地の大名が放っておくはずがないと考えていた。それが、朝倉は一向一揆と泥沼の争いを繰り返すわ、尼子は大内家の混乱に巻き込まれるわで、誰も上洛に応じる気配がない。唯一、今川義元が武田家・北条家と和睦し西進する素振りを見せていたが、京に向かう途中の織田家とは犬猿の仲であるし、武田晴信北条氏康が今川家の勢力拡大を黙って眺めているとも思えない。先行きは暗澹としていた。

「どうも、湿っぽくていかんな。誰か剣振りに付き合わんか」

酒杯を置いて立ち上がった。当面やることがなくなってから、義輝は剣術の鍛錬に励むようになっている。味方が少ないなら、せめて自分自身の力を高めたかったのだ。晴員たちには“雑兵の真似事など”と渋面をされたが、やってみるとこれが存外に楽しかった。やればやっただけ、強くなった実感を得ることができた。

「ならば、私がお相手いたしましょう」

藤孝が立ち上がる。若手の中では、随一の文武両道派である。

「よし! 庭へ。木剣を用意して参れ」

雪の残る庭へ素足で降りて、二人で素振り、型稽古を繰り返す。

「鋭!」

「応!」

厳しい寒さの中でも、刀を振っていれば汗玉が飛び散る。嫌なこと、辛いことも霧散していく。

「藤孝、打ち込んでこい!」

「承知!」

藤孝は文人のような面をしているが、恐ろしい馬鹿力を持っている。正面から彼の太刀を受けることはできない。ならばと、義輝は自己流で太刀筋をいなす技を体得しつつあった。ちょうどよい点、ちょうどよい向きで剣を合わせれば、腕力に頼らずとも優位な形をつくることができる。上手くいくのは十に一、二くらいだが、思い通りに藤孝の体を崩すことができたときの喜びはひとしおだ。

「賢光がいれば、よい奉公ができたであろうに」

縁で見守っている晴舎が無念そうな顔で呟く。一度だけ賢光の剣術を見たことがあるが、あれは異常な速さだった。しかし、長慶を守る手練れの護衛たちは、その神速殺法をも防ぎ切ったのだ。

「気にするな! お前たちはよくやってくれている!」

藤孝の攻撃をさばきながら、大声で叫んだ。

晴舎を始め、奉公衆が嗚咽し始めたのが横目に見える。

「泣くことはない! 超えてみせるさ、その時を楽しみにしておけ!」

精度がどんどん高まっていく。熱雲に包まれた義輝と藤孝の交わりは、雪原に踊る朱鷺のようであった。

 

  *

 

持隆の死後、長慶と之虎の関係が微妙なものになった。

表だっての諍いではないが、互いに思っていることを隠しているような余所余所しさ。長慶は持隆の死の経緯をあえて聞こうとせず、之虎は何も弁明しようとしない。その一方で長慶は納得していないし、之虎はすべてを一人で背負って苦しんでいるのだ。

冬康や長房と相談し、康長の仲介で淡路に兄弟を集めることになった。表向きの目的は播磨攻略の軍議、真の目的は対話である。百の文よりも、顔と顔を合わせることだった。

芥川山城に向かうにあたって、康長は堺で船を降りた。港にはいねが迎えに来てくれている。

「ご足労でしたわね、叔父様」

「なに、どうということもない」

「本当に、兄様も之虎も……。厭だ厭だ、大人になると素直じゃなくなるんだから」

「ははは、いねは子どもの頃から素直ではなかったがな」

「もう、私のことはいいでしょう!」

言われてみれば、いねは娘時代から何も変わっていないようだ。大店の女将になっても気さくで、情けが深い。苦労も多いだろうに、一通り愚痴さえ吐けばまたよく働く。

「私も淡路について行きたいくらいだけど……」

「や、ここは男だけの方がいいだろう」

「そうねえ、そうかもね」

歩いていると、人だかりができている場所があった。堺と言えば会合衆に代表されるような富商であるが、人が多い分、青物、魚、草履や籠などを売る行商も集まってくる。そうした小商いは珍しいものではないが、はて、この騒ぎはどうしたことであろうか。

「ああ、さては!」

「心当たりがあるのか」

「きっと、あいつよ。猿面冠者」

背伸びして、人垣の向こうの様子を覗いてみた。中には、啖呵売に励む若者。確かに猿に似ている。扱っている品は茜と茶葉のようだ。上物らしい。目の肥えた堺衆でも思わず目を引く。物の素性確かさを小気味よく語り、調子よく次々に価格交渉を纏めていくその姿は、商人の手本のようだった。

「ふらっと現れては、ああやって稼いで去っていくのよ。相場より二割くらい安い値をつけるから、会合衆から目をつけられているんだけど……、尻尾を掴ませないのよね」

「面白いな」

長慶への土産話になるかもしれない。いねと別れた後、康長は気配を消して若者の後を追った。

 

猿面の男は某商家で横流しの硫黄を仕入れた後、北へ向かっていく。ちょうど方角も同じだった。

用心棒を二人連れている。街道から人通りが減るのを待って仕掛けた。馬の後についている用心棒を音も立てずに締め落とし、続けて列の前を進む用心棒の背に触れる。驚いて刀を抜こうとした相手の足を払い、地面に頭を打ち付けて気絶させた。

「物取りかね」

若者。落ち着いている。危機に慣れている顔だ。

「驚かせてすまんな。少し話してみたかっただけだ」

「歩きながらでよろしいか」

「ああ」

違和感。朝、堺で見たのは、明るくて人懐っこい男だった。いまの彼は、まるであの元就のような――。

「話とは」

「この荷は硫黄であろう。こんなものをどうするつもりだ」

「京で売る。手間がかからない割にいい銭になる」

「銭が欲しいのか」

「いずれ必要になる」

隠そうともしない。康長のことを恐れている様子もなかった。

「何に使う」

「俺は侍になる。偉くなるには主命をこなす必要がある。成果を上げるには銭が要る」

「……」

「天下人を目指すには、銭が要るんだよ」

「な。て、天下人だと」

「三好様が世の中の仕組みを変えてしまっただろう。山奥の地侍が天下人になれるんだったら、農家の倅の俺だって目指していいはずだ」

「お主は……」

猿がにやりと笑った。

「俺がこう言うと、皆笑うよ。だけど、あんたは違う。あんたの顔は、同じような法螺を聞いたことがある顔だ。あんた、三好家の人かい」

「……!」

見透かされている。康長の反応を見ただけで。

「もしそうなら、口を利いてくれないか。三好家なら、実力さえあれば偉くなれるものな」

掌の汗を意識した。どうする。このまま、芥川山城へ連れていくか。それとも、生かしておくと危険か。

この斉天大聖、長慶ならば掌で飼いならすこともできようか?

「……お主の生国はどこだ。家族は」

尾張に母や姉、弟がいるが」

「ならば、尾張で仕官の口を見つけるのがいいだろう。三好長慶は、家族を大事にする男を好む」

「ほう。それはいいことを聞いた」

「ひとかどの男になったならば、あらためて訪ねてくるがよい。わしは――三好康長だ」

「思ったとおりだ。あんた、大物じゃないか」

きゃっきゃっと、猿のように笑う。底暗いものが薄れ、朗らかな顔を見せ始めている。

お主の名は。そう聞こうとして、やめた。次に会うときは、姓も名も変えていそうな男だ。

「武士ですらないお主が天下を獲れば、甥の偉業も霞んでしまうな」

「三好様は名を惜しむような人ではないだろう」

「ふ。知り合いのように話すものだ」

結局、親しく芥川まで歩いて、そこで別れた。

三好家に関わらせてはならぬ。なぜだか分からないが、そんな予感と悪寒とがあった。

 

  *

 

兄弟四人と康長で膳を囲んだが、埒が明かなかった。

長慶と之虎は目を合わせようともしない。一存はおろおろとするばかりである。

「叔父上。こうなれば、荒療治にかけましょうか」

「何か策があるのか」

「まあ見ておいてください」

一同に声をかけ、造船所へ案内する。既に日は沈んだ。安宅船を建造するこの大規模な建物では、天井の方まで蝋燭の灯りは届かない。昼間は百人を超える船大工が汗を流している場所で、五人きり。しじまは耳鳴りを呼ぶほどであった。

「冬康よう。こんなところまで連れてきて、どうしようってんだよ」

「安宅水軍名物。“闘勁神託”」

「なんだ、そりゃ」

「船乗りの風習ですよ。揉め事を海神に仲裁してもらいます」

「……意味が分かんねえ」

之虎はそっぽを向き、長慶はおとなしく聞いている。

「持隆様の死。あれ以来、慶兄と虎兄の仲はおかしくなってしまわれた」

「おかしくなってなんかいねえよ」

「いまは会話を避ける程度でしょう。こんなことでも、放置しておけば天下を二分することになるのですよ」

「余計な御世話だ! 兄上も黙ってねえでなんか言えよ!」

皆の視線が長慶に向いた。

「ふふ、案じさせてしまったようだな」

「その通りです。我々兄弟の結束にひびが入れば、持隆様がどれだけ悲しまれることか」

「それで、闘勁神託とやらは何をすればよいのだ」

「おい! 話を進めてるんじゃねえよ!」

「互い違いに、一言述べてから相手を殴ります。海神は最後まで立っていた方に味方する」

之虎が吠えるのを無視して段取りを説明する。

「ふふ、ははは。なんとも乱暴な神様がいたものだ。……之虎よ、先攻はくれてやろうぞ」

「本気かよ……」

首を振っているが、まんざらでもなさそうだった。之虎にも溜まっているものがある。

康長は姿を消した。一存は兄たちの会話についていくだけで精一杯だ。

「よう、始めていいのかい」

「この形代を二枚、海に浮かべてからといたしましょう」

「早くしてくれ」

短く経文を唱え、“長慶”“之虎”と墨で記した紙人形を流した。同時に之虎が踏み込む。

「いつもいつも、おいしいところを持っていきやがって!」

鋭い一撃が長慶の顎に入る。よろめいたが、倒れない。切れた口元を拭って長慶が動く。

「欲しがりはやめよと、何度も言ったであろう!」

胸元から真っ直ぐに繰り出した拳が、之虎の形のいい鼻に刺さった。穴の一方から鼻血が、一方からは鼻汁が吹き出す。眼には涙も浮かんできている。

「兄に甘えたら悪いのかよ!」

脇腹を斜め下から突き上げる。

「だったら、格好をつけるな!」

こめかみを打ち下ろす。

「うっせえ! こっちだって一杯一杯なんだよ!」

横頬。

「そう言って、容易く私を超えていくだろうが!」

心の臓。

次第に口上を述べるのを忘れ、ただの殴り合いになってきた。蹴りや肘打ちも混ざっている。

「お、おい冬兄。これ、収拾つくのかよ」

「二人とも鍛錬を怠っていないようだなあ」

「何を呑気な。止めなくていいのか」

「お前、あそこに割って入れるか」

「……」

銭を取れそうな迫力だった。長慶も之虎も、日頃は激情を面に出すことなどないはずだ。この際、すべて出し尽くせばよい。どれだけ偉くなろうが、人の本質は海の男とそう変わりはないのだから。

「きっと、持隆様がどこかで見ている。あの方らしく、高笑いをしながらな……。もう少しやらせておこうよ」

「お、おう。そうだな」

それから、更に十発ずつくらいの攻撃が続いた。二人とも膝が笑っている。汚れて分かりにくいが、顔にはどうしようもない哀しみが浮かんでいる。

「私はな! 持隆様を親のように!」

長慶が動いた。

「俺もだよ馬鹿野郎!」

之虎が合わせる。

二人の拳が交差し、両方の顎を打ち抜いた。効いた。きっと意識が飛んでいる。それでも、倒れない。倒れようとしない。

「――ここまでだな」

冬康が手を上げた。頭上で物音がして、二人の上に黒いものが振ってくる。反応して逃げる間もない。

「こ、これは」

「なんだあ! う、臭え!」

魚網である。さしもの長慶と之虎でも、独力で脱出するのは不可能だ。

「義兄上! 上手くいったかい?」

天上の梁から、冬長と康長が手を振っている。冬康も手を振って応えた。

「両者痛み分け、和睦すべしとのお告げです。よろしいですか」

「……勝手にしやがれ。もう、動けねえ」

之虎が観念した。

「私もだ……。このまま眠ってしまいたい」

珍しく、長慶まで投げやりになっている。

二人は一存と冬長に背負われ、冬康の屋敷へ運ばれていった。

「上手くいったな」

「ええ。思った以上に」

康長が声をかけてきた。あの様子だと、いままで以上に仲良くなる。

「ひとつ聞きたいのだが」

「なんでしょう」

「闘勁神託とは、本当に存在するのか」

「ははは。実は今朝思いつきました」

「やはりそうか。……呆れた奴だ」

「二人とも賢過ぎるのですよ。薬は荒唐無稽でいいのです」

今日は楽しかった。この齢になって兄弟喧嘩を拝めるとは。しかも、子どもの頃と対策が同じでよいとは。

浜風の上では、月も真ん丸になって笑っていた。

 

  *

 

瀬戸内地域のひとつである播磨の晩秋は、寒風吹く京に比べれば余程過ごしやすい。多忙を極める長逸は、慣れない土地や気候にも怯むことはなかった。

長慶、松永兄弟、四国・淡路衆を欠いていても、一万の兵が集まっている。摂津から播磨に進軍した途端、在地の国人衆が競うように旗下に参じてきたのだ。彼らの身元を洗い、編成するだけでもひと苦労だった。幸い、実務方の片腕として連れてきた石成友通がよい働きをし、いまのところ滞りは生じていない。友通は軽薄なところがあるが、手続きの速さや確かさでは卓越したものを持っていた。

長慶の意向で、三好家の実務は現地調査と直接交渉が旨とされている。従来の公方や細川内衆のように寺社や国人などの中間権利者を介すことなく、三好家の者が自分の目で現地を見、土地の人間と直接細部を詰めるのである。これは軍事でも内政でも評判がよく、三好家の実入りもよかったが、その分実務方の負荷は大きかった。公方や細川家から相当数を引き抜いたとはいえ、友通のような有能な人材はまだまだ不足している。

その点、松永兄弟は二人の力が上手く噛み合っていた。戦の長頼、人たらしの久秀。丹波では宗渭の奇襲で一敗地に塗れたかのように見えたが、しぶとく態勢を立て直し、再び波多野に圧力をかけている。久秀の礼を欠いた言動には眉をひそめてしまうが、長頼の武人らしい実直さには敬意を抱いていた。

「父上、吉報です! 松山重治、有馬村秀がそれぞれ敵を降伏させましたぞ!」

陣所に息子の弓介が入ってきた。これで、播磨で落とした城は七つになる。追従するように友通が顔を上げた。

「お見事ですな! 長逸殿の七城抜き、必ず後世に名を残しましょう」

城といっても、大半は付城や砦のようなものである。数を誇っても自慢にはなるまい。

「……残るは三木城(兵庫県三木市)」

この辺りで最も力を有している国人が、三木城の別所氏だ。別所氏を三好家に屈服せしめ、ついでに一応の播磨守護である赤松晴政と和睦を結ばせることが、この戦の目標である。

東播磨を押さえれば丹波攻略に弾みがつく。無事に丹波を平定できれば、いつかの波多野稙通との約束も果たすことができる。そして、長慶の心労も少しは減るはずだ。

「この勢いで、一気に攻めかかりましょう!」

若い弓介が血気に逸る。自分も早く手柄を立てたいのだろう。

「愚か者。三木城は尼子晴久ですら落とせなかった堅城ぞ。それに……別所を滅ぼしても駄目だ」

「ええ、ど、どうしてですか」

「別所就治は歴戦の強者だ。生かして我らの傘下に加え、尼子を防ぐ盾とするのがよかろう。赤松に播磨一国を預けても、備中や美作同様、尼子に呑み込まれてしまうだけよ」

「な、なるほど!」

弓介と友通が感心したように長逸を仰ぎ見る。……これくらいで驚いているから、まだまだ大事なところを任せられないのだ。久秀や四国の篠原長房は、常に主の頭の中を追っているぞ。

武人も奉行も足りない。それらを束ねることができる者は更に足りない。長慶のために、人材を一人でも多く育てることも長逸の役目だった。

 

  *

 

ひょんなことから、妙な小童を拾ってしまった。

播磨への出陣を前に、用水相論の裁定絡みで視察に出かけた。途中立ち寄った寺の門前茶屋で、料理人らしき少年に突然包丁を向けられたのである。

「お師匠の仇!」

彼はそう叫んだ。供回りが刀を抜こうとしたのを制して、長慶は話を聴いてみることにした。

「様々な所で恨みは買っていようが……。お師匠とは、いったい誰のことだ」

「孤児だった俺を拾って、料理を教えてくれた人だよ!」

「料理人を成敗した覚えはないが」

「お師匠は江口の戦いで、三好宗三様と一緒に最後まで戦ったんだ。総掛かりの前の晩に、俺をこっそり逃がしてよう」

なりゆきを口にしながら、少年の目には涙が浮かんでいる。長慶を憎んでいたというより、思わず身体と口が動いてしまったというところだろうか。

「ほう、宗三殿の」

「言いたいことは言った! 斬るなら斬りやがれ!」

「……ふふ、正直な奴。久しぶりによいことを思いついたわ」

茶店の主に事情を話し、城へ連れて帰ることにした。死を覚悟していたらしき主にとっては嫌も応もない。少年は抵抗したが、選び抜かれた長慶の護衛の前では無力だった。

ちょうど、おたきが手伝いを欲しがっていたはずだ。

 

芥川山城内、長慶の館。これほどの規模の山城となれば城主は麓の館で生活することが常であるが、長慶はあえて城中に館を築いて暮らしていた。ひとつには暗殺への備え、もうひとつには権威づけが狙いである。どんな貴人でも、長慶に面会するためには芥川まで来て山を登らねばならない。ささやかな演出ではあるが、なかなかの効果はあるものだった。いまや芥川山城は天下の政庁と見做されている。

目立つ場所に配した石垣、畿内随一の威容を誇る曲輪群、壮麗な長慶の館。孫十郎の頃から更に改修を加えた城郭と屈強な守備兵の群れを見て、少年はさすがに肝を冷やしたようである。使用人の間、長慶とおたきの前に座らされた頃には、すっかり怯えてしまっていた。

「名前は」

「し、茂三と申します」

口調まで改まっている。そんな茂三をおたきはひと目で気に入った様子だった。

「どうだ、おたき。使えそうか」

「いいですねえ、力もありそうだし。最近腰が張って仕方ないから、助かりますよ」

「俺を……斬らないのですか」

茂三は話の流れが見えないようだった。

「そうだな……。茂三よ。お主、料理の腕に自信はあるのか」

「あ、あります!」

「よし、吸い物をつくってみろ。うまければ料理人として遇する。そうでなければ、おたきのもとで下働きだ」

おたきに言って、冬康から土産に貰った淡路海苔を用意させた。海苔の椀物なら誤魔化しは効かない。料理人の腕を試すには最適だ。

「は、はい!」

おたきと共に台所へ向かっていく。長慶は私室に移って、久秀からの報告書に目を通した。慶興の件である。これまで何度かすり合わせてきたとおりに取り計らうよう、返書と依頼書を出しておく。

やがて二人が膳を運んできた。茂三は緊張感漲るいい顔をしている。おたきは何も言わない。椀の蓋を取った。透明な汁。少量の海苔。貝だとか魚だとか、余計なものは入っていない。自己申告の通り、腕に覚えがあるのだろう。

口に含んだ。上物の海苔の香気。鰹節と昆布で丁寧に取られた澄まし出汁。悪くはない……が。

「ちと、濃いな」

「……!」

茂三が青ざめ、うなだれる。やはり、という顔をおたきがした。

「やり直し」

「も、もう一度機会をいただけるのですか」

「料理は試行錯誤するものだろう」

「直ちに!」

再び台所へ戻っていった。いそいそとおたきが後を追う。まるで我が子を見守る母親のようだった。

 

二回目。温かな椀に口をつけ、匂いを愉しみながら含んでいく。

「うむ、よい塩梅だ」

「は、は!」

肩の力が抜けていくのが分かった。安心したのだろう。

「だが、言われた通りに直しただけではつまらんな」

「え……」

「もう一回だ」

あからさまな動揺を見せた。酷か。だが、才能があるのだ。

 

三回目。風味が変わった。海苔の真価を引き出す潮の玄妙。うまい。椀に芯が通ったではないか。

「……鯛?」

「ご、ご明察の通りです。鯛の骨で取った出汁を少量混ぜました」

「ほう、よく喧嘩させずに纏め上げたものよ。褒めて遣わす」

「ありがとうございます!」

茂三が号泣しだした。既に仇討ちなど忘れてしまっている。素直な才気はいいものだ。

「よく頑張ったものねえ」

おたきも涙ぐんでいた。情が移ったのだろう。

「……おたきよ。いっそのこと茂三を養子にとって、坪内家を再興したらどうだ」

「なんですって」

「亡き夫や子どもも喜ぶのではないか」

「も、もったいないお言葉……」

おたきが茂三を抱き締め、二人して泣き咽ぶ。真情から絞り出た涙は温かいことだろう。

次は自分の子どもの始末だった。腹は括ったが、同じようによい方向へ転がるといいのだが……。

 

  *

 

久秀を締め上げて母の居どころを掴んだ。長慶や長逸など主だった者は播磨に出陣している。留守を預かる基速は政務を一手に引き受けて忙殺されており、自分を見張る者はいない。迷うことなく、慶興は城を飛び出していた。

「芥川から離れてしまえばこっちのもんさ。なあ勝っちゃんよ」

「本当本当、さあ参りましょ。いざ旅烏、水面を横切り山をも越えて雲の向こうに何をや見つけん」

意気揚々、囚われの身から解き放たれたような気分だった。相方の池田勝正も細かいことを気にする男ではない。旅ができるというだけで喜んでついてきた。長慶と違って、慶興の顔を知る者は少ない。元服したとはいえ未だ十三歳、公の場に顔を出すことは稀である。道行き怪しまれることはないだろう。

 

そう思っていたが、京と近江との国境でいきなり躓くことになった。公方や六角家との緊張関係が続いていることから、三好家の者が山科の関所で身元改めを行っているのだ。

「熊さんどうしたものかねえ」

「面倒くせえなあ。あんな連中は田楽にして喰ってやろうぜ」

「エーイ、よしきた」

強行突破するつもりで得物を取り出そうとしていると、女がこちらに近づいてきた。朱傘片手の黒羽織。少年の目で見ても背筋が伸びてしまうような器量よしである。

「ちょいとお待ちよあんたたち。物騒なことするんじゃないよ」

「なんだい姐さん藪から棒に」

「ここはあたしに任せておきな」

そう言って女は関所番に近づき、何かひらひらと踊ってみせながら話をし始めた。何だか女のいる一帯が華やいだようで、辺りの男は関所番も行商も骨抜きにされてしまったようだ。

「首尾は上々、あんたたちは旅の芸人あたしは舞姫。そこのところよろしくね」

戻ってきた女の言う通り、関所はあっさりと抜けることができた。どういう次第かとんと分からない。

「姐さん狐か何かかい」

「いかにも伏見生まれの龍吉稲荷でござんすよ。さ、心安らぐおっかさんの胸を探しにいこうじゃないか」

そう言って綻びる女は、これまで慶興が見たどの女よりも美しかった。

 

続く

 

 

三十 青春の段  ――細川持隆 三好之虎に殉じて公方の策略を破壊し、三好長慶 足利義輝と芥川孫十郎を追放し単独政権を樹立す――

三十 青春の段

 

長慶と義輝の緊張を孕んだまま、一先ずは平穏に年が明けた。

天文二十二年(1553年)の春。堺を訪れた長慶は、与四郎が新築した茶湯座敷に招かれていた。屋敷の敷地の片隅にひっそりと建てられた庵は、竹垣や樹木で囲われ、ここが賑やかな市街であることを忘れさせる。庵まで導くように敷かれた庭石。古材を使ったのか、年月の経過、枯じけを感じさせる建物。

「……華美の欠片もなく、むしろ禅寺のような」

「最近は城に石垣を取り入れたりするだろう。だったら、我々も竹垣や飛石を拝借してもいいと思ってさ」

「大胆なことを考える。大林宗套老師に叱られても知らぬぞ」

「ははは、千殿がそれを言うかい」

庵は入口が極端に小さく、身体をにじらないと入れなかった。中は狭く、暗く、一層静かである。

「庭を渡り、狭い入口を潜ることで、いつしか日常を忘れている。なるほど、面白い工夫だ」

「正直、いねの助言が一番役に立った。それまでは部屋の中のことしか考えていなかったからなあ」

「きっかけがそうだっただけで、答は与四郎の中にあったのだろう」

「気に入ってくれたのかい」

「ああ。幽玄の境に入った気がする」

言われて、与四郎は嬉しそうにはにかんだ。長慶も、そんな彼から一番に招待されたことが嬉しい。

「しかし、こだわった点によく気づいてくれるものだ」

「……昔、竹垣や白砂を使った茶湯座敷を見たことがある。その時よりも、ここの方が落ち着くな」

「おいおい、ちょっと待ってくれ。同じようなことを考えた人がいるのか? そんな噂、聞いたことがない」

「過ぎた話さ。いまはもういない」

「まったく。千殿ときたら、いつも何かを隠しているなあ」

それ以上話を引っ張らず、与四郎は茶を用意し始めた。庵の手応えか、以前よりも自信がついたようだ。若い頃の与四郎は、他人のことが気になって仕方がないというところがあった。

「与四郎よ。こうやって二人で茶を飲んでいると、子どもの頃を思い出さないか」

「ああ。千殿は、よく菓子を食べ過ぎて叱られていたっけな」

「初めて堺に来たときは、何もかもが珍しかった。楽しかったな。……あれから、色んなことがあった」

「千殿は戦い続け、私は迷い続けた。それでも、振り返ってみれば悪くなかった気がする」

「私もそう思う。与四郎が友でいてくれたからな」

「それはお互い様だろう。千殿がいなければ、私は理想に辿り着けなかった」

「理想」

「この狭い庵を見ろよ。立場も家柄も、入り込む隙間すらないだろう。生まれた時より、もっと裸になれる。茶を挟んで向き合えば、天下人も商人もないのさ」

「与四郎……」

思えば、子どもの頃から不思議と気が合う二人ではあった。それぞれの苦悩を経て、いつしか似たような夢を抱いている。胸中、しみじみと感じ入るではないか。

「そこでだ。この庵に、名前を付けてくれないか」

「私がか」

「千殿の発案なら、いねも文句を言わない。気に入って、花いけなど手伝ってくれるかも」

「憎めない口実を。ならば……“宝心庵”というのはどうだ」

「宝は心魂だけでいい、他はすべて余計なこと……。いいな、ありがたくいただくよ」

この宝心庵はじきに評判になるだろう。長らく土の中で眠っていた与四郎が、芽生え、大樹になっていく。そんな未来が垣間見えた気がした。

「これを、礼に」

与四郎が懐から書付を取り出した。

「頼んでいたものか」

「まあ、見てくれ」

「……そうか、孫十郎がな」

畿内における兵糧や硝石の流れ。それを会合衆が分析すれば、籠城を企んでいる者が浮かび上がる。幾つかの中小国人の名が並んでいる中、芥川孫十郎の名は一際目立っていた。会合衆がこれを長慶に渡すということは、未だ三好家有利と思われているのだろう。

「江口の戦いまでは、何が何でも国人の支持を取り付ける必要があったものな。勘違いする者も出てくる」

「いいのだ、私が甘いのは間違いない。正直、新たな父なし子を増やしたくなかった」

「それももう、限界だろう。治安を守るためには、どうしても見せしめが必要になる」

「分かっている。だからこそ、公方を挑発したのだ」

不穏な動きを燻り出すために、あえて義輝を怒らせた。その効果が早くも現れたことになる。

「私が千殿なら、反抗した国人を安宅船に乗せて、倭寇として明に送り込むな」

「物騒なことを」

大寧寺の変のせいで、日明交易はもう滅茶苦茶だ。いい加減、海禁の愚を明に知らしめねば」

「取り締まりを諦めさせろと。日本が武力で開国を迫るなど、前代未聞のことだな」

「商人の活動を制限して、いいことなどひとつもない」

「この件になると与四郎はいつも過激になる。ふふ、慶興と話が合いそうだ」

「そう、若君を前倒しで元服させたのだったね。また、祝いを送らせてもらうよ」

「何度も襲われたから、万一の備えとしてな。家臣にやり込められたのは久しぶりだ」

十二歳の千熊丸が元服し、名を慶興と改めた。後継者の存在を打ち出しておくことで、いざという時の混乱を防ぐ。長逸を始め、多くの家臣がその必要性を主張していたのである。

「うちのとは大違いだと、いねが零していた」

「そう言ってやるな。他の子どもと比べられるのは、辛いものだぞ」

「千殿でもそんな覚えがあるのか」

「たまに弟が怖い」

「ははは。之虎殿たちも偉大な長兄が恐ろしいだろうよ」

「そして、全員いねに頭が上がらぬ」

「ううむ、それは私もだ」

苦笑しあう。これほどに自分をさらけ出したのは久しぶりだった。

あらためて、この庵と茶がいいのだと思う。与四郎の説く理想が、もっともっと世に広まればいい。

 

  *

 

持隆に誘われて、吉野川に舟を浮かべた。

悠長な、と思わないでもない。だが、朝靄の中、水面を気持ちよさげに眺める持隆の横顔を見ていると、孝行をしているような気持ちにもなってしまう。

「鍵は、河内衆の動向だろうなあ」

「ええ。新たに河内を掌握した安見宗房が、いままでどおり我らにつくかどうか」

「芥川孫十郎の裏切り。義輝公は霊山城(京都府京都市)に入り、六郎は丹波から京を窺う。しかし、他に動いたのは小さな国人ばかりで、六角や若狭の武田は動いていない。このままでは、河内衆が公方に味方するとは思えんな」

「まったくです。約定を破り続けて、公方の評判は地に落ちています。自らの権威をぼろぼろにした割には、戦の段取りもろくにできちゃあいない。いったい何を考えているんだか」

風はない。川面は穏やかで、水鳥が盛んに朝飯を獲っていた。

「河内衆なり四国衆なりが援軍を出せば、敵は半年も持つまいな」

「既に軍備を整えさせています。畿内の民も我らの軍装を見ればたまげましょう。阿波藍のよさを見せつけ、ますます商売を繁盛させてみせますよ」

景気よく笑い飛ばす。之虎が考案した藍染は、莫大な利益を生んでいる。同時に、阿波兵の軍規を改め、昔ながらの家柄に応じた拠出兵数の定めを撤廃していた。銭さえあれば、幾らでも兵数を増やせるようにしたのだ。これで、藍染の交易などで財を蓄えた之虎に近しい国人たちが更に力を発揮できる。

「……お前たちは、本当に大きくなったものだ」

「ははは。急にどうしたのです」

「いまや、天下の三好兄弟といっても過言ではあるまい。誰も、お前たちには逆らえない」

「そんなことはないでしょう。兄上や俺のことを面白く思っていない奴あ、阿波にだってごろごろいますよ」

謙遜ではない。守護代風情が偉くなれば、嫉妬もまた凄まじい。時代の流れについていけない者ほど、長慶や之虎を憎むようになってきている。

「之虎よ。もうお前に教えることなどほとんどないが……、ひとつ知恵競べをしようではないか」

「へえ、なんの趣向です」

「まあ聞くがよい。この状況、お前が義輝公ならどうする。相手の身になって、最善の手を考えてみろ」

面白い問いだった。確かに、こういったことを考えてからこちらの軍略を立てるべきである。

「甘んじて傀儡になり、平穏な余生を過ごす……というのは、なしですよねえ」

「うむ、それはない。あくまでこちらを滅ぼす構えだ」

「まず、兄上の暗殺……には失敗した。各地の守護大名を動員……しても、なかなか応じてはくれない。戦では兄上に勝てないよな。兄上が政務を執るようになってから、一揆もなくなってしまったし……」

考えれば考えるほど、義輝が気の毒になってくる。諦めた方がいいと思うが、それができる立場でもない。義冬もそうだが、足利氏に生まれたこと自体が呪いのようなものだった。

「難しいだろう。だがな、敵はこのことだけを毎日考えて暮らしているのだぞ。やるべき仕事は、すべて長慶に取り上げられてしまっているのだからな」

「ううん……。孫十郎を内応させたのは見事だったよな。芥川山城は摂津と京を結ぶ要衝だし、兄上が信頼していた男の一人だし。……そうか、内応、分断。三好家を割ることができれば」

「おう、さすが之虎、よう頭が回るものよ」

「とは言ってもなあ……。河内衆は利に聡過ぎて内応させてもすぐ反故にするだろうし、摂津の家臣たちは兄上に心酔しているし。和泉の松浦家は一存が後見しているだろ。当主を暗殺されたと噂の筒井家が、その首謀者に力を貸すとも思えないし……」

「大事なところを忘れているぞ」

持隆の顔つきが変わってきている。なぜだか、産毛が逆立つような感覚が身体に走った。

「まさか、四国衆と言いたいのではないでしょうね」

「そのまさかだ」

暗い笑みを向けられた。

「冗談じゃない! 俺が、兄上を裏切る訳がないじゃあありませんか」

「“俺が”……だと。之虎、いつからお前が四国の主になったのだ」

「も、持隆様……?」

親に見放されたような痛みが胸に刺さる。どうなっている。ただの例え話、空想遊びのはずでは。

「四国衆が公方につけば、安見宗房も同調するだろうな」

「もうやめましょう! 縁起でもない」

「……わしが、この時を待っていたのだとすればどうする」

「……」

「最高の時宜を見計らって、阿波細川家が天下を制す。六郎でも、氏綱でもなくな」

「馬鹿な! そのために俺たち兄弟を扶養したとでも言いたいのですか!」

「そんなに真っ赤になってどうした、かわいい之虎よ。お前は当然、わしに味方してくれるのだろう?」

強い怒りが吹き出しそうになるが、どうしてもそれを持隆にぶつけることができない。身体の中をぐるぐると巡って、之虎の精神を苛めるだけだった。

「いまの話が戯れでないのなら……。俺は、持隆様を押込めなくてはなりません」

こんなことを口にしなければならない辛さを、いままで想像したことはなかった。

「クク、カッカカ……。見性寺(徳島県板野郡)で待っているぞ。兄に味方してわしを討つか、わしに味方して兄を超えるか。決心したら来るがよい。正午までに現れなければ、お前を殺す」

いつの間にか、舟は岸に戻っていた。先に降りた持隆が、宣言通りに館の方角へ戻っていく。

取り残された之虎は朝日に向かって吠えた。

 

 

  *

 

血の匂いは陶酔するように甘く、持隆の内面を昂らせる。舞台の演出は済んだ。

悲しみもない。痛みもない。すべてを振り切って、殉の一語だけが詰まっている。

「お前の代わりをするのも、今日、これまでよ。なあ、元長――」

窓から差す柔らかな光の中、堂内の埃が踊っている。その様が、天下の縮図のようにも思えた。

足音がする。真っ直ぐに近づいてきた。扉が少し動き、やがて観音開きに。現れた。光と共に現れた。

「早かったな」

「……! これは、どういうことです」

持隆と之虎の間にあるものに目を奪われたようだ。小少将。持隆が二重に裏切ったとは思わない彼は、一刀のもとに絶命していた。

「お前の触れに従ったまでよ。見かけたから、成敗した。それだけだ」

「またも持隆様を」

「わしを見くびるな」

「……」

之虎が押し黙る。

「黙ってどうする。返事をしに来たのだろう」

「……できません」

「……ふ」

「できませんよ! できる訳がないじゃあないですか! 何を考えているんです。本心を仰ってくださいよ!何か深いお考えがあるんでしょう?」

「言ったこと、やったことがすべてだ。見たこと、聞いたことを頼りに判断するのがお前の仕事ではないか」

「違う! 俺には、できない。できねえ、胸が! 心が! あなたは敵じゃあないって言っている!」

「興が褪せるぞ。兄を裏切れないなら、お前がやることはひとつだろう」

立ち上がって、前へ進んだ。小少将の死体を踏み越え、之虎の間合いに入る。

そうして、動けない之虎の懐をまさぐり、中にあった物の鞘を外して手渡した。

「大事にしてくれているではないか。ほら、構えてみろ」

暁天。かつて元服祝いにくれてやった脇差は、研ぎ澄まされ、濡れたようにひかめいている。反対に之虎の顔は土気色にくすみ、呼吸も乱れていた。どうしていいか分からなくなった子どもが見せる、切ない姿だ。

「お、俺が悪いことをしたなら、謝ります。だから……」

之虎の言葉を無視して、更に前へ進んだ。右手で之虎の背中を、左手で暁天を握る手を掴む。

「ほら……。入ったぞ」

諸肌に、暁天が挿し込んでいく。震える之虎の手を、持隆の血が濡らしていく。

「どうだ、温かいか。遠慮せず、奥まで入れてみろ」

「そんな……そんな! あんた、何してるんだあ!」

抵抗されるが、死力を尽くした持隆の方が強い。抜かせはしないぞ。

「これで、いい。これがいいんだ」

「離して、お願い、離してくれ!」

「泣くなよ、之虎。泣くくらいなら、抱き締めてくれ。子どもが父親にするように」

之虎の方に体重を預ける。更に深く刺さるが、もうどっちにしろ大差ない。暁天から手を離した之虎が、持隆の背に腕を回してくれた。

「持隆様、教えてくれ……。俺はこれから、どうしたらいいんだ」

「カカ、カカカカ。過ちを恐れず、信じて生を貫け……」

「なんでだ、なんでだよ。何を信じろって言うんだよ」

「お前の気持ちが、伝わってくる……。分かる、重なっているぞ」

持隆も之虎を両手で包んだ。振り絞り、我が身に抱き寄せた。

之虎の涙が胸毛を伝って傷口に垂れてくる。持隆の血飛沫が、之虎を染め上げていく。

それだ。藍色一辺倒では、世は治まってくれないものな。朱の色があってこそ、藍が引き立つのよ。

「長慶たちに……よろしくな……。さらばだ、之虎。さらば……我が……青春!」

温もりと哀哭に覆われ、持隆は絶命した。その遺骸を、之虎はいつまでも離さなかった。

 

  *

 

持隆の死んだちょうどその日。芥川山城を囲んでいた長慶のもとへ、厳重に封印された密書が届いた。遺書である。届けた康長は悲しそうな顔をしただけで、何も言わなかった。

分厚い文の中には、公方の策略“蝉取”の詳細が記されていた。持隆が之虎を暗殺し、阿波・讃岐の反三好国人衆を糾合。同時に安見宗房が公方へ寝返り、長慶包囲網を完成させる。想像しただけで、肌が粟立つようだった。

この公方渾身の詭計は、持隆の行動により脆くも崩れ落ちた。持隆の死が知れ渡ると、安見宗房は即座に長慶へ味方することを表明。芥川山城の士気も明らかに下がっている。そして、之虎が弔い合戦を仕掛けてきた久米義広を躊躇なく討ち取ったことで、三好家に刃向う者がぴたりと現れなくなった。

自暴自棄にならず、義広を滅ぼし、阿波を完全に掌握した之虎の手腕は認めねばならない。これで、長慶の政権は一層強靭なものとなった。主を殺め、その仇討ちをも叩きのめした三好家は、さぞ恐ろしい集団に映っていることだろう。人は弱い。多くの者は正しい道より、安全な道を選ぶ。義広の忠義は語り草になっているが、後に続くものがいないことが何よりの証である。

(……だが、本当にこうするしかなかったのか。之虎なら、もっとやりようがあったのではないのか)

もはや、長慶の関心は孫十郎や公方にはない。嫌疑を振り払うかのように河内衆がよく働く。長逸や松永兄弟に加え、長逸の息子弓介、元本願寺僧兵の松山重治など、若い衆もおおいに活躍している。援軍の望みがなくなった芥川山城が陥落するのも、義輝が霊山城を捨てるのも、六郎が京への再進出を断念するのも、何もかもが時間の問題だった。

そんなことよりも、持隆への弔悼と、之虎への仄かな疑念。このふたつだ。このふたつだけが、長慶を苛む。夜を眠れなくする。薄く薄く心身を削り取っていく。

 

「参ったよ。まさかお主が、主殺しまでやり遂げるとは思わなんだ」

万策尽きた孫十郎が、城兵を殺さぬことを条件に降伏してきた。引っ立てられてきた彼は、何ごとかをやり切ったような、清々とした顔をしている。その野放図な言い草が、今日ばかりは気に入らなかった。

「……覚悟はよろしいな」

「はは、所領安堵など望むべくもないわな。さ、遠慮することはない。刎ねられよ」

自分の首をとんとんと叩きながら、堂々と居直っている。

「孫十郎殿。……あなたには所払いを申しつける」

「なに、なんだって」

五畿内。淡路。阿波。讃岐。それに近江、丹波、若狭、播磨、紀伊。これら以外の……分かるでしょう。私の目の届かぬところへ立ち去っていただきたい」

「待て。宗三殿に続き、持隆殿まで手にかけたお主だ。わしの命など軽いものだろう」

「……必要以上の犠牲など、虚しいだけです」

「なんだと! わしの首が安いとでも言うのか!」

「行きなさい」

両腕を取られた孫十郎が、喚きながら連行されていく。馬鹿馬鹿しいとすら思い、疲れだけが残った。

 

長慶はそのまま芥川山城に入り、この地を新たな居城と定めた。

畿内一円を支配するには芥川ほどの好適地はない。畿内の要は京と摂津であり、当地はその中間に位置しているのだ。程よく京と離れていることで、帝や公家に取り込まれてしまう恐れもない。河内を牽制する効果も高い。西宮や堺にも近い。西宮の民は残念がったが、課題の順位に応じて本拠を変えていくことは不可欠なのだ。土地に縛られると、芝生に居ながら畿内を治めなければならなくなってしまう。

孫十郎の降伏を受け、義輝は朽木へ落ちていき、六郎の影も再び消えた。この際、多少の強硬策が許容される雰囲気を利用し、義輝に従う奉行や公家の所領を徹底的に没収することにした。その結果、朽木に同行した者は数十名に過ぎなかったという。これで、しばらくは公方もたいした行動を起こせない。

再び、畿内の戦乱が一掃された。

同時に、激しい虚脱感に襲われ、長慶は数日を床に臥せることになった。布団の中では持隆を想い、めそめそと一人で泣いた。もう一度元長を失ったような、身体の重みが何割かなくなったような……。

家臣たちも長慶の心身を慮り、あえて近づこうとしてこない。慶興はここぞとばかり、幼友達の池田勝正と遊び呆けているようだ。与四郎やいねが顔を出してくれたが、何日も傍にいてくれる訳ではない。

孤独だった。自力で克服するしかなかった。

おたきが毎日湯漬けと、この地の名物らしい瓜の粕漬けを運んでくれた。瓜は暑気あたりに効くと言うが、残暑の疲労にも効果があるらしい。大ぶりな瓜の食べ味の快さ、粕漬けの複雑な旨味が、降り積もるようにして長慶を癒していく。毎日、毎日、会話をするように瓜を噛みしめた。

そうするうちに、少しずつ力が湧いてきて、広大な城中をようやく歩き回れるようになった。

「ばいばい」

突然、何者かに声をかけられた。

目をやると、薩摩豚の家族がそこにいる。孫十郎の置き土産の前に座り込んで、楽しげな豚の暮らしをずっと、ずっと眺めていた。そうしている間は、他のことを考えずにいられた。

 

  *

 

南から久秀が、東から長頼が進軍。手こずらされたが、今度こそ八上城は終わりだ。

公方の長慶包囲網を打ち破り、長慶は芥川山城に居を移した。その際、主のいなくなった摂津下郡が久秀に預けられたのである。既に丹波の内藤氏を後見している長頼と併せて、松永兄弟の出世ぶりは他の家臣を圧倒していた。

久秀は棲家を越水城ではなく、丹波・播磨のどちらにも目が届く滝山城兵庫県神戸市)に決めた。尼子の侵略以来、赤松家は支配力をほとんど失っており、抗争を続ける播磨国人衆が三好家の介入を求め始めている。播磨を押さえれば丹波を南西から伺うこともできるため、長慶がこの機を逃すことはないだろう。いまひとつ元気のない長慶を喜ばせるには、丹波・播磨戦線が重要だということだ。

畿内は無事に治まっていた。京では九条稙通と長慶の昵懇なのが気に入らない近衛前久が、越後の長尾景虎を上洛させようとしている。もともと近衛家は足利公方との結びつきが強かったが、近頃の評判があまりにも悪いため、とうとう義輝を見限った様子である。代わりの番犬として景虎に目をつけたということだろうが、越後から大軍を率いてこられるはずもなし、たいした脅威ではない。

河内の安見宗房には笑わせてもらった。蝉取へ関与した疑いを晴らそうと長慶の前に参上した男は、かつて木沢長政の名代として平蜘蛛町に現れた青瓢箪だったのだ。“偉くなったもんやなあ”と久秀に声をかけられた宗房は、全身から汗を吹き出していた。長政や長教に比べれば、取るに足らない小者である。それよりも、お飾りと見做されている畠山高政の方がよっぽど気骨がありそうだった。いずれにせよ、河内の政情が直ちにおかしくなることはなさそうだ。

「しかし、酷い霧ですね……。十歩先も見えやしない」

「見えへんのは皆一緒や。ばーっと進んでだーっと城落としたったらええんじゃい」

「見通しがよくなるまで、進軍を止めた方がいいのでは」

「そんな暇あるかい。ええか、いま、殿のご懸念は丹波だけなんや。波多野を降参させたら京も安泰やろ。公方も六郎も音を上げよる。それに、あまねの姐さんやお前の姉ちゃんも戻ってくるかもしれんわ」

「そんなに上手くいきますかね」

「上手くいかすんがわいらの仕事やろが」

側近として使っている楠木正虎が、不安げな顔をしている。彼は後南朝に伝わる有職故実などをよく修めていて、相談相手としても祐筆としても、非常に使える男だった。姉の琴ともども、先祖代々朝敵の扱いを受けていることから、日頃は偽名を使って暮らしている。晦摩衆という公方の手先も正虎の潜伏先を探していることから、彼の身辺は久秀配下が常に警護していた。

「僕も山育ちですからね……。霧の恐ろしさは、よく分かっているつもりです」

「もうじき長頼との合流地点や。こっちかて、丹波の地勢は充分に調べとる。そう間違いはないわ」

「そう信じ切った鎌倉軍を、僕のご先祖様は散々に打ち破りましたよ」

「晴通がそれほどの玉かい」

一理あることは分かっている。霧はますます濃くなってきており、確かに長頼と合流したら小休止した方がいいかもしれない。だが、ここでぬるい戦をやっていたら、長逸や四国衆に手柄を奪われる……。

考えあぐねていると、前方で兵が声を上げ始めた。続けて、矢唸りの音、軍勢の喊声。

「奇襲! 奇襲!」

兵たちが叫ぶ。霧の中、待ち伏せにあったらしい。

「落ち着かんかい! 敵の数は確かめたんか!」

「四方八方から矢が! 相当の数かと思われます」

(なんやて……。囲まれてんのやとしたら、ぐずずぐしとんのが一番まずいな……)

「よっしゃ、長頼の陣目指して突き抜けえ!」

「はっ!」

兵の練度は高い。突然の出来事にも混乱することなく、隊列を整えて駆けていく。

「もう少し状況を見極めた方が」

正虎が言う。

「阿呆! 霧ん中で一番怖いんは各個撃破されることやろが!」

長頼と合流し、ひと固まりの大軍になれば奇襲などどうということもない。

「正面に敵陣!」

「しばいたらんかい!」

「せ、精鋭です! 手強い!」

「そいつら倒したら勝ちっちゅうことやろが!」

霧の中、吠えあうように命令と復命を繰り返す。

気づけば、久秀や正虎も乱戦の渦に巻き込まれている。ほとんど顔は見えないが、暴れ回っている敵将の影が見えた。あれが、勇猛で知られた丹波兵の真髄か。長身の体躯、業物らしい長槍、見惚れずにはいられない武芸の乱舞。まるで長頼のような……。

「って、長頼やんけ! おい、やめえ! やめえ! 同士討ちやぞ!」

しかし、久秀の声は叫喚に掻き消され、不毛な内輪揉めは止むことがなかった。

そこに、今度こそ本物の敵兵が突っ込んできた――。

 

  *

 

「無敵の三好家が、遂に戦で負けたらしいな。しかも、相手はお前の兄だとさ」

「もう……。そんな話を聞きたくないから、ここに移ってきたというのに」

「縁は切れても、思いは切れていないようだな」

何年も一緒にいるうちに、琴は軽口をたたくようになっていた。色々と複雑な生まれ育ちだったようだが、性根はそこいらの娘と変わりないのかもしれない。

兄の晴通が三好宗渭・香西元成と共に松永兄弟を破った噂は、岡部家の者からも聞いていた。ここ、駿河の武士は、戦の話を三度の飯より好むところがある。対武田家・北条家の最前線であり続けたことがそうさせているのだろう。それでも、人の多い鎌倉に比べれば長慶の話題を聞くことは少ない。

三年間の寺暮らしを終えたあまねは、更に鄙びた地で暮らすことを望んだ。そこで世話をしてくれたのが、駿河の国人、岡部家の佳という女だった。東慶寺で知り合った彼女は、夫、岡部家の先代当主を早くに亡くしており、人生に倦んだような眼差しの持ち主で、なぜかあまねとは気が合った。岡部は駿河では名の知れた家だから、あまねと琴を養うくらいはどうということもないらしい。朝日山城(静岡県藤枝市)近くの空き寺をあまねのために用意してくれた。

岡部家は佳の僅か十一歳の息子、正綱が跡を継いでいる。佳の気苦労は並大抵ではないはずだ。佳はしばしばあまねのもとへやって来て、とりとめもない話をしていく。それだけでも夫に託されたものの重圧から少しは解放されると言ってくれる。こうしたひと時が、いつしかあまねにとっても慰めになっていた。

「早く戦がなくなればいいのに」

何かある度に、佳はそう口にする。

「そうね……」

「殺して殺されて、それでも家を残すために女は泣いて、子どもが耐えて。一向宗が流行るのも分かるわ」

「せめて、死んだ後は極楽浄土にって……。悲し過ぎる願いだと思うけれど」

「仕方ないじゃない。この世をよくしようなんて男はどこにもいやしないもの」

「……」

商工業が盛んな畿内と比べれば、東国は生活の手段が限られている。大半の民が農業、林業、漁業で暮らしており、戦に敗れて土地を失えば悲惨な運命が待っていた。だからこそ、東国の戦は厳しい。

「私の周りは、かわいそうな子どもばかりなの。正綱もそう。松平の若君もそう」

「松平……。正綱殿と、仲がいいという」

「父君も祖父君も暗殺されてしまって、母君とも生き別れ。時々面倒を見ているけれど……。どこか、心を閉ざしてしまっているわ。意地悪な人に“松平は呪われた血族だ”ってからかわれたのが大きかったみたい」

「……暗い目をした子どもには、何か夢が必要なんだと思う」

「義元様預かりの身で、夢なんて見ようにも見られないわよ」

「いま都を治めている人も、十一歳で父を失って、十八歳で母も亡くした……と、聞いたことがある」

「それは……特別な人の話でしょう」

「子どもは皆、特別だと思わない?」

長慶のことよりも、千熊丸のことを考えていた。七歳の時に別れたあの子はいま、どんな青春の日々を送っているのだろうか。いずれは戦に出たり、恋をしたりするのだろうか。ひと目、姿を見ることができれば。

分かった、そういう人もいるんだって伝えてみる。そう頷いて、佳は帰っていった。

 

続く

 

 

二十九 蝉取の段  ――畠山高政 鬱憤を根来衆にぶつけ、足利義輝 長慶包囲網の結成を急ぐ――

二十九 蝉取の段

 

これまで見てきた中で一番の怒りようだった。

天文二十一年(1552年)の正月、義輝と長慶の和睦が成った。公方からは、偽りの和睦と聞いている。三好家を安堵させておいて、裏で大掛かりな謀略を描いているとのことだ。無論、なまなかのことでは長慶は信用しない。三淵晴員は長慶を“御伴衆”に任じることで歓心を買おうとしたらしいが、これは鼻で笑われたらしい。そこで、晴員は氏綱の細川家家督継承と、六郎嫡子の人質供出まで譲歩したのである。この交渉の経緯は若狭にいる六郎には一切知らされなかった。気がつけば、あれだけ執着してきた家督を失い、近江に預けていた息子を差し出されてしまっていた。

何日経っても、六郎の怒りは静まらなかった。宗渭や香西元成も、近づくだけで当たり散らされる始末。そのうち、頭に血が上り過ぎて失神してしまい、それ以来ずっと寝込んだままでいる。宗三の戦死、京からの撤退、度重なる京回復の失敗など、疲れも溜まっていたに違いない。

宗渭自身、昨年は相国寺京都府京都市)で大敗を喫していた。丹波衆の助成を借りて洛中に進出したが、松永兄弟によって叩き潰されてしまった。敵の兵数は二万とも三万とも言われた。三好家の動員力を見せつけられた結果、公方と六郎は自力での京回復を断念せざるを得なくなった。それどころか、相国寺炎上の責任を三好家に押し付けられ、民からの評判は散々なものになっている。帰京した義輝も居心地の悪い暮らしをしているに違いない。

公方の考えている謀略の詳細は知らされていないが、情勢は悪くなるばかりのように思える。丹波では先の敗戦、三好長逸と松永長頼の侵略、内藤氏の離反などが効いていて、波多野晴通の勢力は縮小する一方だ。ここ、若狭は交易で栄える港町であり、この地を治める武田氏はかなりの権勢を有していたはずが、実際に来てみれば家中の諍いが激しくて頼りにならない。何より、近江では六角定頼が病没してしまった。跡を継いだ義賢は打倒三好の思いは強いものの、肝心の実力の方がいまいちである。これだけの悪条件が揃えば、晴員が一旦の和睦を義輝に進言したのも無理はない。

(俺はどうしたらいいのだろう。……父上なら、どうされるであろうか)

一人で思い悩むことが増えていた。六郎に付き従うものは百名程度で、まともな相談相手にも事欠く。六郎の心身は痛むばかりであるし、元成は軍務一筋、弟の為三は幼い。

八上城に残してきた母のことも気がかりだった。生気を失い、毎日山野をふらふらと歩いては花や野草を摘んできて、宗三の霊前に供えている。晴通が情け深く面倒を見てくれているが、誰かに心を開くことはないだろう。

宗三の死ですべてが崩れ去ってしまった。細川家も、宗渭の家族も。

(やはり、俺が死んで父上が生き残るべきだった)

江口の戦いのことは、悔やんでも悔やみきれなかった。自分が不甲斐ないせいで父が身代わりになったのだ。実際、六郎からはことあるごとにそう言われた。同感だから、宗渭も唇を噛む以外にない。

せめて、父の代わりに六郎を支えたいと思う。六郎は、駄目なところばかりが目につくが、放っておけない不可思議な魅力もあった。他の内衆はどうか分からないが、宗三と宗渭にとっては、己の力を最大限まで引き出してくれる名君なのだ。これは義輝にも長慶にもない、六郎だけの徳である。

父には及ばないまでも、何かできることはあるはずだ。眠る時も食べる時も出かける時も、宗渭は一心不乱に考え続けた。

 

  *

 

気がつけば、商売が楽しくて仕方ない。

長慶の宴や連歌会で食材発注を仕切り、之虎が創りだした藍染生地の大半を独占、冬康には破格の値で船を出させた。一存は武勇しか能がないが、民からの人気はすこぶる高い。白布に一存の手形を取って店先に張り出したら、見物客が集まるようになった。強くなれるようにと手形に手を当てて喜ぶ子ども、厄病退散と拝む年寄りなど、ちょっとした評判になっている。

兄弟たちには苦い顔をされたが、お蔭で身代は随分大きくなった。会合衆の寄合では与四郎の発言が重みを増しているようだし、大きな商いの口が頻繁に舞い込むようになってきている。そして、夫は茶の湯に思う存分精を出すことができているのだ。

「……なのに。あの人ったら、ありがとうって言うどころか家に寄りつこうともしないのよ。そんなの、おかしいと思わない?」

やもめ暮らしの長慶を見舞いに来たのだが、かれこれ一刻以上もいねが話し続けている。

「う、うむ。そうだな」

「それによ。天下一の茶人になるんだって期待させときながら、ぜんっぜんそうなる気配がないの。紹鴎殿も今井宗久殿のことがお気に入りみたいだし、物持ちの津田宗及殿もいらっしゃるし」

「ああ、今井宗久の名は私も聞いた」

「もともとは大和の人らしいんだけどね。明人が大好きな椎茸を仕入れるのが上手くって、明との密貿易を成功させちゃったのよ。それがきっかけで、皆から重宝されるようになった訳。もちろん、本人の才覚あってのことだけど」

「ほう」

「じゃああんたのうだつが上がらないのは銭が足りないからなのねって、私が駆け回って商売を繁盛させたんじゃない。それなのに、礼も言わないわ名も上がらないわ」

長慶はいねの話を聞くのに慣れている。与四郎のように苛ついてぎゃあぎゃあ言い返さず、程よく相槌を入れてくれる。胸がすくような思いであった。

「まあ、あまり夫のことを悪く言うな。与四郎も試行錯誤しているのだろう」

「色んな人の言うことを真面目に聞き過ぎて、どうしたらいいか分からなくなっちゃっているのよ。こないだも、自分で茶湯座敷を造りたいからって、わざわざ私にまで意見を聞いてきたの。私に聞いてどうするのって」

「それで、どうしたのだ」

「散々に言ってやったわ。侘びとか山居のようにとか言う癖に、全然そうは見えないんだもの」

「ふむ」

「だいたい、あの人は視野が狭いの。茶湯座敷の広さがどうとか暗さがどうとか言う前に、一歩外に出たら隣の家がまる見えな方をなんとかするべきだわ」

「そう伝えたのか」

「言ったわよ」

「ふふ、それは完成が楽しみだな」

いねは、与四郎の才を心底では認めていた。認めているからこそ、与四郎が世間から認められないのが口惜しい。長慶のように温かい目で見守ることなどできなかった。

「あ、あのう。そろそろ、殿に裁決を」

長慶の家臣が襖から顔を覗かせた。確か、石成友通とかいう実務方だ。

「ちょっと! 後にしてよ、せっかく兄妹で話しているのに、見て分からないの!」

ぴしゃりと言い放った。友通は青ざめたが、諦める気はなさそうである。書類をちらちら見せつつ、健気に長慶の方へ視線を送り続けている。

「待て待て。仕事を済ませてくるから、奥で時間を潰していてくれ。どうせ泊まっていくつもりなのだろう」

「もう。早くしてね」

「ああ」

友通の背後で喝采が聞こえた。どうやら、家臣一同を代表して水を差しに来たらしい。ああいう役目を率先して引き受けたというなら、なかなか使えそうな番頭である。

 

「うまいな、この葱」

「でしょう、難波葱の上物よ。あのおたきって女中はなかなか料理上手だわ」

兄妹で夕食の膳を共にしている。葱と野鳥を炙り焼きにしたものと、葱を多く入れた味噌汁。いずれも、手土産に持ってきた難波葱の真価を充分に引き出していた。難波葱は甘みとぬめりが強く、肉や汁物とよく合う。ひと口ふた口と齧ればかっかと身体が火照る。嫌なことを何もかも忘れさせてくれるくらい鮮烈な旨味で口中が洗い清められる。多忙な長慶の養生に繋がれば幸いだった。

「千ちゃん、大きくなったわね」

「身体はな」

「いくらなんでも、厳し過ぎるんじゃないの」

「……」

千熊丸は、長慶の家臣たちから最高の教育を受けている。本人もそれをよく吸収している。それなのに、彼の心が満たされていないのは明らかなのだ。原因は分かり切っていた。

「もう、いいじゃない。あまねさんを迎えにやれば、波多野だって頭を下げてくるわよ」

「あまねは東国にいる。もはやそれも叶わぬ」

「なんでそんなこと知っているのよ」

「……未練ではないぞ」

「意気地なし」

あまねを失ってからの長慶は明らかに心身を消耗させている。やもめ暮らしとは、心安らぎ、疲労を癒す時間がないことを意味しているのだ。千熊丸と違って不満や鬱屈を表に出さない分、長慶の孤独は一層深く、激しく身体を蝕んでいくはずなのだ。

元長が逝ってからのつるぎもそうだった。子どもや親族に囲まれようが、伴侶のいない暮らしはどこまでも悲しく、寂しく、絶望という傷穴に寿命という痛み止めを塗り続けるようなことになってしまう。

「少しでも私欲が混ざれば崩れ去ってしまう。私の立場は、それほどに脆いものでな」

「それで、いまでも葱くらいで大喜びするような暮らしをしているのね」

見たところ、長慶の生活は堺のそこそこの商家と変わらない水準だった。仮にも天下を制している男が、である。贅沢で気分を誤魔化すようなこともできない兄なのだ。

「うまい葱を食べて喜ばないような男など、つまらんだろう」

「本当に、そのうち千ちゃんに出奔されてもしらないわよ」

「それならそれでいい。あいつに籠の鳥は似合わん」

「嫡男に向かって言う言葉とは思えない。大事に思っているんでしょうに」

「大事だからこそ、あれの思うようにやらせてやりたい。思うようにやれるだけの力をつけてやりたい」

「手を貸し過ぎるなってこと?」

「人に考えてもらう癖がつくことは、何よりも危険だ」

「……」

偉大の兄の言うことである。突拍子もないようで、実は理に適っているのかもしれない。

「うちの子も、そうなのかしら」

「苦労しているのか」

「やんちゃばかりして、言うことをちっとも聞きやしない。あれも、あの子なりに考えているのかな」

「単にお前に似ただけだろう」

「ちょっとお、もう!」

腹いせに、長慶の焼き葱を食べてやった。

「ああ! 何をするのだ!」

奪われた長慶は、本気になって怒っていた。

怒らせて気を晴らさせること、おいしいものを食べさせて喜ばせることくらいしか自分にはできなかった。

 

  *

 

宗渭からの手紙は、孫十郎の胸を震わせた。

哀願するでも、虚勢を張るでもない。いまの境遇と心境を訥々と語るように記してある。飾らない文章の中にはどこか宗三に似た息づかいも感じられて、柄にもなく感傷的な気持ちになってしまう。

孫十郎にとって、宗渭は弟子のようなものである。父譲りの才気はあるのに、あまったれた性根が成長を阻害していたものだ。それだけに、かわいい奴でもあった。

そんな男が、いまではいっぱしの武将になっている。落ち目の六郎を支え、健気に耐えている。そのことが無性に羨ましい。長慶の縁戚である孫十郎は、いまでは政権の一柱のように目されていた。しかし、自分は政治のことはよく分からない。知りたくもない。長慶が何をしたいのかも想像がつかない。関心は所領の安堵と次の戦、それに自分の命運くらいなのだ。

畿内の治安がよくなったこともあって、西国街道を行き来する人の数が増えている。芥川宿にも活気が出ていて、いつの間にか税収がすごく増えていた。家来は喜んでいたが、儲かるから戦をしない方がいいというのは如何なものかという気がする。

江口の戦い以降、肌がひりひりするような、小勢で大敵に挑むような戦はなくなってしまった。公方との戦いにせよ六郎との戦いにせよ、長慶が圧倒的に優勢なのである。それで、全力で襲いかかるというよりは、向こうの命までは取らないように数で脅し、裏で交渉を重ねるような戦ばかりだ。

長慶の戦が変わってしまった。己の命運をかけて軍を率い、予想だにしない鬼謀で敵を翻弄し、意外なほど勇敢に突撃していく、あの長慶はもういない。いまの長慶の戦は、政治の延長線でしかないのだ。

一言で言うと、つまらなかった。

長慶が公方を追い出せば日本中の大名が攻め寄せてくるものだと思っていた。そのことは恐ろしかったが、楽しみでもあり、覚悟もしていた。それが、“長慶は特別だから”ということでなぜか丸く収まっている。

代わりに、暗殺の恐怖というものを思い知った。あの用心深い遊佐長教が殺された。大和の筒井順昭も毒を飲まされたとかで、既に順昭は死んでおり、影武者を立てていると噂されていた。

「公方は裏切りを許さない。次の標的は孫十郎殿との風説ですから、よくよくご身辺の警戒は怠りなく」

先日訪れた近江商人は、こう話していた。芥川山城を落とせば、京と摂津を分断できる。いかにもありそうな話だった。

戦で死ぬのはいい。男らしく散れば、勇名を遺すことにもなる。

暗殺は嫌だ。怖いし、防ぎきれない。長教の死体は見るも無残な有り様だったと聞いている。

そう。公方や六郎は、平気で人を成敗するのだ。今更ではあるが、それは長慶との大きな違いだった。長慶は“特別”かもしれないが、あくまで我々国人衆の代表者であり、決して主君ではない。長慶には我々を裁く大義がないのである。現に公方を裏切った遊佐長教、六郎を裏切った池田信正は殺されたが、長慶に反抗した伊丹親興たちはそのまま所領を安堵されている。

民の安寧と支持を第一に考える限り、国人衆に苛烈な態度で当たることはできない。それは、長慶の唯一にして最大の弱みなのではないか。

(どうしたことか、今日のわしは……)

所領の安堵、湧き立つような戦、謀殺の回避。そのために自分の取るべき道は。

何か考えが纏まりそうな気がしたが、頭を使うと急に腹が減ってきた。続きは、飯を食ってからにしよう。

 

  *

 

空は卯月雲。初夏の風は稚気を帯びて軽やかだが、その風も禁中にまでは届いてこない。

織田信秀献金で修復されたという築地は、京の雑踏から朝廷を完全に隔離していた。その信秀も、既にこの世の人ではないことを思い出す。跡を嫡子の信長が継いだが、尾張は内乱状態に入ったようだ。

直垂と烏帽子を纏うのは構わない。もったりとした公家言葉もたまにはいい。だが、御簾越しとはいえ、帝の視線を背に受けるのは緊張を覚えずにはいられなかった。

(なるほど、公方はこうなりたかったのだろうな)

そう思わずにはいられない。

二千年と二百年の差のせいか、伝説の神々から受け継いだ血脈のせいか、帝から感じる重みと威厳は義輝のそれとは桁が違っていた。誰も帝にはなれないのだと、理屈抜きに納得できた。清貧の道を選び、純粋な権威の化身へと至った存在。乱世を愁い、民の安寧を祈り続けているお方。帝だけは不可侵だ。この先、武家の世界で何が起ころうとも、この聖域が穢されることはないだろう。

その分、公家や官位の権威もしぶとく残り続けてしまうのだろうが……。この点は、痛し痒しである。

「謹んで拝受いたします」

かねてからの希望が叶って、宸筆の古今和歌集を賜った。少なくない額の献金に加え、連歌での名声、稙通による源氏伝授など、様々な積み重ねあっての栄典だった。これで、長慶の立場はますます“特別”になっていく。

「面を上げられよ」

九条稙通に声をかけられた。帝はいまだ御簾の中にあらせられる。躊躇して、顔を伏せたままでいた。

「叡慮でおじゃる」

今度の声は現関白、二条晴良だ。相応の威厳はあるが、長慶に対しては親しみを抱いてくれているのが分かる。申し渡し通り、少しだけ頭を上げた。

自分の面構えをご覧あそばされるというのか。冷や汗が背中を伝う。日頃眠っている意識がすべて目を覚ましたような、凍てつくような高揚を感じた。

「せやけど、ほんまにええんですやろか。匂い立つ貴公子みたいに振舞ってはりますけど、口さがない世間はその本性、兇徒や、梟雄や、いやいや大悪の大出や――と噂してんやて、なあ」

含み笑いを扇で隠しながら、若い公卿が口を挟んだ。公家の中でも貴種中の貴種、近衛前久である。稙通や晴良が主導したこの拝受に対して一言物申したいのだろう。御前でも思いのままに口を開くのが、かえって彼の生まれのよさを表している。

「うふふ、黙ってしまわれたか。可愛や侍、朴訥は武家の面目よの。それにしても手習に勅筆の古今とは、ちとおねだりが過ぎるん……」

 

ふくろうの黒うはなくて耳づくの耳のなきこそをかしかりける――

 

嫌味を遮って歌を一首詠んだ。あくまで長慶は澄まし顔である。不意を突かれて前久は顔を赤く染め、反対に稙通や晴良は口元に喜びを浮かべている。そして、御簾の中からも楽しげな笑い声が漏れてきた。

「“文机”に向かいたいと解くのですね。面白い男」

咄嗟に再度平伏した。玉音。直接、我が身に。居並ぶ公卿たちも一同、驚愕の態だ。

帝はその言葉だけを残して、静かに部屋から去っていく。

御簾の向こうの気配がなくなるまで、長慶はそのまま微動だにしなかった。

 

  *

 

遊佐長教の死後、河内と紀伊では畠山重臣同士の暗闘が起こった。

長教を殺した者は公方の手の者である。だが、重臣たちは他に真相があると言い、互いが元凶であると非難しあった。彼らの中では、長教の横死すらが陰謀の道具だった訳だ。

結果として、三好長慶にすり寄った安見宗房が政争に勝利した。もともと木沢長政の腹心だった彼は、尾州家では新参者に過ぎない。それが、並み居る有力者たちを懐柔し、あるいは滅ぼしたのだ。長慶とて背に腹はかえられなかったのだろう。河内の安定を図るためには、力ある誰かに肩入れするしかなかった。たとえ、自分を憎んでいるであろう木沢一派の残党であっても。

確かなことは、高政の立場は何も変わらなかったということだ。武家の中でも最高峰の名門、畠山家の御曹司として生まれながら、やっていることは替えのきく神輿に過ぎない。父は長教の方針に反対しただけで追放され、のたれ死んだ。高政が新当主として据えられたが、仕事は何もなかった。長教を睨んでも、一笑に付されただけである。

新たに実権を握った安見宗房も、その点は変わらない。長政の薫陶を受けただけあって、そもそも貴種に敬意を払うつもりなどはさらさらないようだ。しばらく紀伊で過ごしたいと言っても、宗房は頷いただけで、何の反応も示さなかった。ああそうですか、お好きにどうぞ。それくらいしか感じなかったのだと思う。横顔に蹴りをくれてやるのを我慢するのに、かなりの努力を要した。あんなうらなり野郎、一対一ではどうということもないのに。

 

紀伊では、重臣の一人である湯川直光の館に滞在することにした。彼の居館は小松原(和歌山県御坊市)にあって、金山寺味噌とたまりの名産地である。新鮮な魚介や山菜も豊富にあり、飯がやたらにうまい。

小松原を足場にしつつ、高政は紀伊国を見物して廻った。

紀三井寺、雑賀の賑わい、和歌浦の風光(いずれも和歌山県和歌山市)と巡ってから、紀の川に沿って根来寺和歌山県岩出市)を目指す。

途中、川岸で鉄砲の調練をしている法師武者を見かけた。指揮官の号令に合わせて轟音が鳴り響き、同時に板が割れる。なかなかの腕前と、鉄砲の品質だった。

「おうおう、それが噂の“根来筒”かよ。ちょっと貸してくれや」

愛想を言ったつもりだったが、僧兵たちの間に警戒が走った。こちらを不審に見て取ったらしい。

「なんだお主たちは」

「妙に身なりのよい奴。三好の者かもしれん」

髭面の指揮官が高政の腕を掴もうとしてくる。ぞんざいに扱われるのが癇に障って、近習が止めに入る前に相手を蹴り倒していた。鳩尾に一発、顎にも一発。子どもの頃から、蹴鞠も人を足蹴にするのも得意だった。殴るよりも爽快で、単純に楽しいのだ。

髭男の首を踏みしめて喝破する。

「“誰”に上等な口を利いてんだよう! ああ? 腐れ坊主が、どうせ経もろくに唱えられねえんだろう。その汚ねえ舌、引き千切ってやろうか。らあ!」

気持ちよかった。お飾りの当主に据えられて以来、こうやって啖呵を切ったことはない。長教や宗房などと違って、押込められて身柄を拘束されたり、刺客を送り込まれたりという危惧もない。ここは久しぶりに、気に入らない奴に対して思う存分暴力を振るってやるか。

だが、近習が死に物狂いで高政を羽交い絞めにしてきた。根来寺との友好に亀裂が入ってはまずい、堪えてくだされと頼み込んでくる。根来衆も、こちらの素性を説明されて恐れ入ったようだ。

「ちっ、いいじゃねえか。こいつらだって血の気が余ってるから鉄砲なんざに現を抜かしてやがるんだ。そうだろ、てめえらも“暴れ”足りねえよな? ああ面白くねえ、面白くねえ――」

「知らぬこととはいえとんだご無礼、何卒ご容赦くだされ」

「うっせえな。しょうもない口上垂れる前に名乗ったらどうだい、ええ? “筒自慢”の坊さんよ」

「されば、拙僧は往来右京と申す者。これらは手塩にかけて育てた根来鉄砲衆にござります」

「おう。じゃあ右京よ、そいつは“誰”と戦うための鉄砲なんだい」

「そ、それは拙僧の考える事ではございません」

「はん、じゃあ“案内”してくれや。鉄砲の“向け先”を“考える”奴によう」

「は、はは!」

供に右京たちを加えて、根来寺に向かう。

奔放に振舞った方が、やはり楽しいものだ。蹴られたことも気にせず、右京たち坊主は高政にあれこれと道すがらの風景を説明し、機嫌を取ろうとちやほやしてくる。

五畿内から遠くなればなるほど、“貴種”であることだけで人は高政に優しくなるのである。

紀伊に来てよかったと、あらためて実感した。

 

  *

 

「ご自身で政務を執られるとして、何かやりたいことはあるのですか」

長慶のその一言で、室町御所の一座は完全に凍りついた。

「……もう一度申してみよ」

「五十年後、百年後の日ノ本をどうしたいのかと伺ったのです」

涼しい顔を崩さない。義輝のことなど歯牙にもかけていないことがよく分かった。

「誰に何を申しているのか、分かっているのだな」

「お蔭様で御伴衆に加えていただきました。主君と家臣の率直な会話もまた楽しからずや」

「長慶、汝は……」

歯ぎしりしながら長慶を睨みつけた。傍らの藤英は激昂を面に出しており、もう一方の藤孝は瞑目している。長慶が朝廷にはそれなりの敬意を示していると聞いて、公方への忠誠を呑ませる余地もあるのではないかと考えた。しかし、その目論見がいかに甘かったかを義輝は痛感し始めている。公方に大政を奉還してみればどうかと軽く振ってみた結果が先ほどの返答だった。

「民が上様の政を望むならば、私は喜んで楽隠居いたしましょう」

「余の治世など求められておらぬと申すか!」

「まあ、落ち着かれませ。民が公方を望んでいるなら、なぜ細川の政権などが産まれたのです」

「決まっておろうが。政元、高国、六郎。彼らの野望が道理を踏み躙ったまでよ。長慶、汝もそうだ」

「……野望と、民の欲求に従う素直さは紙一重だと思いませぬか」

「なんだと」

「英雄。風雲児。中興の祖。……民は特異な存在を求めるものです。とりわけ、乱世においては」

「汝は何が言いたいのだ」

「民が望むから、傑出した人物が産まれる。特別な誰かが現れるということは、世の仕組みが疲弊している何よりの証なのです。清盛。頼朝。公方となった尊氏公、南北朝を合一した義満公もそうだったでしょう」

口中で血の味がする。恐れ多くも尊氏や義満の名を挙げて義輝を諌めるとは。

「公方が汝を産んだとでも」

「いまの公方よりは、後醍醐帝の方が余程優れたお意気込みをお持ちだったのでは」

「いい加減に……」

「親政が、失われた過去が目的になってはなりませぬ。上様が民に輝く未来を指し示してくださるのならば、この長慶、身命を賭して御伴仕りましょう」

「おのれ、黙らぬか! 出て行け、消えてなくなれ!」

「ふふ。今日は腹蔵なく語りあえて幸いでした。それでは、御免」

慇懃に平伏し、長慶が退出していく。

ほとんど手の付けられていない膳の上に、義輝は血の塊を吐き捨てた。慌てて藤英がすり寄ってくる。

「何度、斬り殺してやろうかと」

「……うむ」

「口を開けば、民、民、民……」

「まことにな」

「蝉ですか、あいつは」

「くっ、それはいい。そうか、長慶は蝉か」

「蝉は長くは生きられぬ定め」

「ふん。晴員と晴舎が進める策略、“蝉取”と名付けようではないか」

「それは妙案。あの蝉野郎も、止まっている木が倒れていくとは思いますまい」

「数々の無礼、堪忍するにも限度があるわ。……藤英。晴員に事を急ぐよう伝えよ」

「はっ」

きびきびと藤英が出ていった。父の晴員に似て、頼りになる腹心である。

長慶とて、公方がいまも謀略を企てていることくらい気づいている。晴員や晴舎、あるいは藤英といった実行部隊から三好家の目を逸らさせるために、老臣、上野信孝らが身を挺して反長慶を標榜していた。これで、ある程度は時間を稼げるはずである。衰えたとはいえ、まだまだ公方に人は多い。

 

二人になって、部屋に残っていた藤孝がようやく口を開いた。

「よいのですか。練り込みが足らぬ気がいたしますが」

「遠国の大名が間に合わぬのは承知している。それでも、長慶に与える衝撃は大きいはずだ」

「政。何を成すべきかの話です」

「長慶の言うことを真に受けているのか」

「現に、一言も返せなかったではありませぬか。長慶を成敗できたとしても、このままでは朝廷や寺社からは侮られてしまいましょう。長慶は古今東西の知識事例をよく修め、交易を奨励し、相論を鎮めています。やんわりとですが、家格ではなく実力が物を言う世界に民を導こうともしています」

「あれのどこがやんわりだ」

舌打ちをしたが、藤孝の真顔は動じなかった。義輝は、なぜか藤孝には頭が上がらない。

「ただ長慶を排除するだけでは、長慶に勝ったことにはなりませぬ」

「……お前は、長慶を立てるのう」

「ええ、尊敬しています」

「まだ、余は追いつけていないと言いたいのだな」

「近くに見て、余計に遠くお感じでしょう」

「……」

「おや、図星でしたか」

いちいち的確である。

義輝自身、自分と長慶の差が何なのか、はっきりと言葉にして分かっている訳ではない。

だが、民、公家、坊主に神官。両者に対する人々の接し方で、二人に違いがあることだけはまざまざと見せつけられている。

武力か、歌や古典の才か、それとももっと根源的なものなのか――。

「余と長慶の力が等しければ」

「家格の分だけ、上様が優位に立てましょう」

「そうなっていないということは」

「何かが足りない。早く“見つける”ことですな」

言い逃れることはできなさそうだ。腹立たしいが、藤孝の言うことはいつも筋が通っている。

長慶は、何をやりたいのかと問うてきた。

藤孝は、何かが足りないと迫ってきた。

果たして、己は何者なのだろうか。自分の芯にあるのは、義晴が遺した京への執念だけという気がする。

「……それはそれ、蝉取は蝉取だぞ」

「やがて死ぬ、景色も恐れず――。長慶もある程度覚悟はしていましょう。本当に、美しい男です」

「もうよせというに。少しは余を援けてくれたらどうだ」

微笑んで、藤孝が酒を注いでくれた。釈然としないが、背中を押されているような気分にはなってしまう。

長慶に勝つ。そうすれば、真に京を取り戻すことができる。

闇雲であっても、邁進を止める訳にはいかないのだ。

 

続く

 

 

二十八 夜討の段  ――遊佐長教 刺客の手に斃れ、三好長慶 刺客を退け千句を詠う――

二十八 夜討の段

 

いまは、どんな雑用でも進んで引き受けるべき時だった。

松永久秀の名前が注目されてきている。もともと長慶の祐筆として政務の奥深いところに関わっていた。それに加えて、近頃では戦の指揮まで任されるようになってきているのだ。久秀本人はあまり戦が得意ではないという話だったが、あの松永長頼の兄であるという事実と、長頼の元から借り受けてきた侍大将たちが彼の采配に重みと果断を与えている。

石成友通にとっては、まずは久秀に並ぶことが目標である。共に三好家の新参者で、頼るべき後ろ盾などを持っていない。逆に言えば、実力だけで長慶に取りたてられた者たちだった。それだけに、実力で差をつけられると挽回の余地がなくなってしまう。

実務の力では、久秀以上だという自負はあった。申次や調整ごとなどについて、二人の質や速さを比較したことがある。調べたところ、久秀が九件を処理する間に自分は十件をさばくことができていた。質だって自分の方がきめ細かい気がする。そのことに長慶や長逸、基速たちがいつ気づいてくれるか。

長慶に自分の顔と名前を印象付けるのは何より大事だ。しかし、この点においては祐筆を務める久秀の方が圧倒的に有利である。久秀が十回名前を呼ばれる間に、自分は一回か二回呼ばれるかどうか。

狙うべきは、長逸と基速の評価かもしれない。筆頭家臣たる長逸は、ここにきて更に男を上げたと専らの評判だった。公方と六郎がいなくなっても大きな混乱なく京が治まっているのは、彼が各所に目を配っているからだ。冷静沈着に各界の利害を調整し、長慶の意向を踏まえた上で、家臣の才覚や人物を見て仕事を配分する。彼は部下に対しては私情を交えない印象があるから、よい仕事をしていれば必ず目を止めてくれるはずだ。いや、長慶のお気に入りだから表面には出さないが、内心では久秀の言葉づかいや出自を苦々しく思っている節すらあった。

(ならば自分は、言動を丁寧で品のよいものにしなくてはならぬ)

それが久秀との差別化に繋がるだろう。

基速は寝返ってきた伊勢貞孝を抱き込み、政所の政務を上手に壟断しつつある。基速自身がもともと公方の奉公衆に連なる出自だから、飲み込みも早いようだ。伊勢貞孝という男は実に馬鹿な奴で、保身から政所に眠る膨大な証文を三好家に開示してしまっていた。本人は自分を高く売ったつもりなのだろうが、こんなものは数年もすれば我々実務方が吸収できてしまう性質のものだ。長慶が、朝廷や公方の有する前例知識をどれだけ貪欲に学ぼうとしているかを、貞孝は知らなかったのだろう。現に、これまで貞孝たちが示してきた判例を少しだけ民側有利にいじることで、京の町衆たちは強く三好を支持し始めている。

基速は友通の直接の上司であるし、もともと自分には目をかけてくれている。やはり、長逸の関心を引くことだ。そのためならば、地味な警護役を務めることなど何でもない。長逸は、長慶の護衛について特別の思いを持っているようで、常に人が多く集められる。

天文二十年(1551年)の春。今夜、この吉祥院京都府京都市)では長慶と貞孝による宴が開かれている。寝返って日が浅い貞孝は、長慶に気に入られようと必死だった。いまも、公方の機密などをぺらぺらと話しているに違いない。

(わしも、ああいう場に参加できるくらいにならんとなあ)

久秀は書記として同席している。色々考えてはみたが、こうして吉祥院の塀の内側と外側に分けられてしまうと、二人の評価の隔たりを実感してしまう。実務をどれだけ積み上げても、殿の近くに仕えている方が有利なのかな、などと腐ってしまう。

(くそ、つまらん)

立小便をしたくなって、立ち位置から離れた。少し歩けば、人気のない草っ原が広がっている。

すると、草むらから複数の影が飛び出してきた。その体躯は小さい。そして、何かがちゃがちゃという音がして、動きは機敏でなかった。あまり体術が得意でない友通でも、難なく一人を掴まえることができた。

「童か。なんだ、ここで何をしている」

いたいけな瞳。井戸の底のように光が揺らいでいる。

「て、天下の三好さまがいらっしゃってるというから、見物に来たんだよ。な、離しておくれよ」

長慶の行く先々では、しばしば見物人が集まってくる。一瞬、納得して手を緩めかけた。

(待て、こんな夜更けに子どもだけでか。それに、今夜会合を開くことはどこにも漏らしていないはずだ)

訝しんだ友通が、童の着物を探った。何かおかしい。身体には湿った縄を巻きつけ、腰もとには土瓶のような容器。そして、質の悪い油のすえた匂い。

「不審。これは不審。……おおい、集まれ! 誰かある!」

武芸は苦手でも、声の大きさには自信がある。たちまち雑兵たちが駆け寄ってきて、友通の指示通りに他の童を捕らえていった。

 

事件は、友通の考えた以上に重大なものだった。童たちは全員が油を身体じゅうに装備して、自分の身体もろとも火に包み、吉祥院に突入する手筈だったらしい。警戒されにくい子どもを使って、長慶と貞孝を焼き殺そうという策略。聞けば、全員が親に売られた子どもたちだという。

長逸から褒められて有頂天だった友通も、この詳細を知った時はさすがに胸糞が悪くなった。もちろん、公方の仕業であることは言を俟たない。

「わしが偉くなったら、仇を取ってやるからな」

呟き、友通は童たちの塚に手を合わせた。

 

  *

 

ザビエルというキリスト教の宣教師は、京の政情不安に失望して西国に戻っていったという。自分のことを責められているような気がして、長慶の気分は晴れなかった。

堺でザビエルの世話をしていた日比屋に与四郎が聞いたところによれば、大陸の西方で信仰されている審判教には大きく二派があって、そのひとつがキリスト教なのだそうだ。キリスト教は大陸の極西でよく普及していて、有力な海運国が多い。交易網が南蛮諸国や明、日本に広がっていくのに合わせて、キリスト教の教えを広めているということなのだろう。

彼らは日本にやってくる道を持っている。我々はかの地まで出向いていくなど思いもよらぬ。あちらの国主は、大陸の東方までを視野に入れた政をやっているのだろう。稼ぎやすい、教え込みやすい、未開の大地を探し求めているのだろう。畿内の大名が芝生の豪族を相手にするようなものだ。このまま放っておけば、そのうちいいように日本が扱われてしまうかもしれない。

(三十年も前にこのことを予見していた父上と持隆様は、やはり非凡というしかない)

元長も、金色の髪をした細川高国でも思い描いていたのかもしれない。

知れば知るほど、日本の中で内乱などをしている場合ではなかった。かつて九条稙通の祖先がそうしたように、異国の学問、商い、風流、宗教を学び、日本の風土へ取り込んでいくべきではないか……。

「さ、いよいよ斬り合いが始まりますぞ」

下卑た顔で伊勢貞孝が声をかけてきた。能をぼんやりと見ながら他の様々なことを思い浮かべるのは、なかなか楽しいひと時である。その没入を邪魔し、あまつさえ長慶の仇討ちをやんや褒め称えてくる。

“夜討曽我十番斬”は確かに見応えがあった。ばたばたと敵の侍が倒れていくさまは迫力があるし、兄弟の絆が涙を誘いもする。だからこそ、この男と一緒に見たくはなかった。長慶兄弟のこれまでの戦いを、安易な仇討出世譚のように語られたくもなかった。最近知り合った人物の中で、仇討ちや政治のことに触れず、長慶の性根だけを見据えていたのは大林宗套老師だけである。あのような人物は滅多にいない。

火付け騒ぎで台無しになった宴の穴埋めということで、貞孝の屋敷(京都府京都市)に招かれていた。能の出来はすこぶる上等だし、出された豆餅が実にうまい。赤豌豆は下ごしらえで程よく固さが残るように塩茹でされているようで、その食べ触りと塩気が単調になりがちな小豆餡を秀麗な絵巻物語に変えている。これなら、飽きることがない。何個でも食べられそうな、毎日でも食べたいような逸品であった。

「お気に召しましたか。よろしければ、毎日お屋敷にお届けいたしましょう」

しかし、貞孝に上目使いで語りかけられると、その食欲も失せる。有能ではあるのに、惜しい男だった。

貞孝だけではない。公方から寝返ってきた奉行などが引っ切り無しで挨拶に来る。その度に能から目を離し、豆餅を皿に戻さなくてはならない。酒杯を授けるのも、数が増えれば面倒なものである。

また一人、部屋に入って来るのが見えた。顔に見覚えはない。逞しい顔つきの侍だ。

「おや、進士賢光殿も京に留まっておられたか」

意外そうな顔つきで貞孝が言った。でかした。そう思った時、既に賢光は間合いを詰めてきていた。

目を疑うような踏込みと抜刀の速さ。咄嗟に後ろに飛んだ。胸元を薄く斬られている。

「ちっ」

脇息を投げた。賢光の額に当たったが、構わずに迫ってきて二の太刀が閃く。この角度、首筋に。

「すあ」

無理な姿勢に身体を捻り、かろうじて致命の一撃を避けた。しかし、首からは少なくない血が流れ出ている。千切られたような痛みと、焼けつくような熱さ。そして――三太刀目が、来る。

「千熊!」

声。元長の、声。

身体から力が抜けた。賢光の鋭く直線的な踏込みに対し、長慶の緩やかに円を描くような運歩。賢光の裏に入り、手首を取って柔らかく巻き込んでいく。己の重みを活かし、背筋はあくまで伸ばしたままで!

賢光の肉体が宙に浮かぶ。戸惑ったか、受け身もできていない。そのまま後頭部を床板に叩きつけた。

「……!」

何が起こったのか、信じられないよう顔をして賢光が天井を見上げている。長慶も同じだ。この窮地を、自力で抜けられるとは思えなかった。それほどに、賢光の斬撃は激烈だったのだ。琴から話を聞いたことがなければ、確実に仕留められていただろう。まして、元長から仕込まれた武芸がなければ――。

(父上は、まだ早いと仰るのですか)

さっき聞こえた声は、確かに元長のものだった。いまでも、どこかで自分を見てくれているのかもしれない。

首筋にさらしを当てながら夜空を仰ぐ。月も、星も、いつもと同じ光を届けてくれている。

「ぬ、あああ!」

断末魔。人に取り押さえられる前に、賢光が脇差で自分の胸を貫いていた。

 

  *

 

長慶を狙った二度の暗殺事件は、僅か十日で鎌倉にまで伝わってきた。

火付けは未然に防がれ、刺客は供回りが撃退したのだという。長慶は傷を負ったが、命に別状はない。越水城に戻って養生しているそうな。

東国に行けば噂を聞かずに済む、という見通しは甘かった。むしろ、話題の少ない東国の方が噂話を好むきらいがある。東慶寺の中に籠っていても、どこそこ家となになに家が婚姻を結んだだの、某が内応を企んだがすぐに露見しただの、風説が盛んに飛び交っていた。

中でも、畿内を制した三好長慶の話題は喜ばれているようだ。あくまで実権は細川氏綱にあるのだとか、いやいや氏綱も長慶に頭が上がらぬとか、真の首謀は河内の遊佐長教だとか、違うぞ実は朝廷の陰謀であろうとか。公方と六郎の逆襲が恐ろしいぞとか、むしろ長慶がこのまま足利の息の根を止めてしまうだろうとか。誰もが訳知り顔で中央政界の行く末を語りたがる。

鎌倉では、どちらかといえば長慶に期待する声が多かった。この地を治める北条家のしてきたことに似ているからだろう。中央もそうなのだから、関東もそうあっていいはずだ。そういう空気が流れている。理世安民という旗印の意味するところも、北条家の治世と相通じるものがあるらしい。実際、戦が続いている割には、北条領には活気があった。どこか、西宮や堺を思わせるものがあった。

あまねの素性を知る者は、東慶寺比丘尼と、下女に扮した琴だけである。長慶について問われることはない。

――そうは言っても、長慶の噂を聞く度に心が揺れるのはどうしようもなかった。

(千熊丸はどうしてるんだろう。寂しがって、拗ねてなければいいんだけど……)

片方の話を聞いてしまえば、噂にならないもう片方が気にかかる。彼も、そのうち天下を驚かせるようなことをしでかすのだろうか。やがては妻を娶って、子どもをつくるのだろうか……。

 

そんなある日、あまねのもとに客人が訪れた。

知り合いではないが、あまねとの面会を強く希望しているのだという。聞けば、比丘尼はこれまでもその申し出を断ってくれていたそうだが、とうとう押し切られてしまったとのことだった。

世話になっている寺に迷惑をかけるのは本意ではない。あまねは進んで承諾し、麓の門外に構えてある客間へ入った。客人は一人、初老の男である。僧体だが武士に見えなくもない。

「お初にお目にかかる。北条宗哲と申す」

誰だろう。しばらくぽかんとして、はっと気づいて頭を下げた。北条家一門の重鎮だ。

「お、恐れ入ります。あまねと申します」

「はは、ははは。固くならんでくれ。突然押しかけてさぞ迷惑だったろう」

「そんな、そんな……」

「どうしても話を聞いてみたくてな。すまぬが、その方の出自も存じておる」

「……」

ようやく用向きが分かった。北条家の人が、長慶のことを聞き取りにきたのだ。

「辛い思い出なのかもしれぬ。答えたくなければそう言ってくれい」

「いえ……」

宗哲は、長慶とあまねについて知っていることを話し始めた。三好元長のこと。波多野稙通のこと。細川六郎のこと、三好宗三のこと。一向一揆との和睦仲介、天文八年の上洛、太平寺の戦、舎利寺の戦、江口の戦……。それから、長慶の収益基盤である瀬戸内交易について。あまねと千熊丸について。之虎たち弟妹について。長逸や基速を始めとした、家臣について。

驚くべきことに、事実関係は正確を極めていた。昨日今日、長慶について調べ始めた訳ではないことは明白である。宗哲の方も、この辺りについてはあまねに質問すらしなかった。

「聞きたいことは、実はひとつだけなのだ。三好長慶殿が、どのような世を目指しているのかを知りたい」

「目指す、もの」

「そうだ。ただ仇討ちをしてきただけではないのだろう?」

「目指すもの……」

家格と血統の克服。交易を通じた富国。道理を以て世を治め、民を安んずる……。

様々な言葉が去来した。いずれも、長慶自身から聞いたことがある話だ。それが、離れて暮らすいま、空々しく思えてしまうのはなぜだろう。

「……難しかったかな」

「いまにして思えば」

「む」

「あの人は、捨て駒になりたいんだと思います」

「ぬう……」

「そんな人のところに、あたしは息子を置いてきたんですよ」

唇が震えているのが分かる。それ以上の言葉は喉から出てこなかった。

「滅びた後に、民の繁栄が続くなら……。いや、しかし、それでよいのか。武門に生まれた者が……」

自問自答した後、宗哲もまた考え込んでいる。

そのまま、沈黙が続いた。

「――あまね殿。貴重な話を伺うことができた。感謝する」

「いいえ、何も……」

「わしの父は、畿内は手遅れだと仰っていた。だからこそ、この地にやって来たのだと。関東に巣食う病魔を取り除き、理想の国づくりをやりたいのだと」

「……」

「長慶殿が、畿内の治癒に真正面から取り組もうというのなら。それだけで……。や、こんな話ももうよそう。あまね殿、すまなかったな。二度と現れぬと約束する」

「あの人の話以外なら、あたしはいいですよ」

「ははは。こんな年寄りが、尼寺で懸想しているように見られてはまずかろう」

「ふふ、そうですね」

よく分からないが、宗哲は上機嫌だった。様子を伺っていた比丘尼も一安心だろう。

あまねの方も、心に溜まった澱を少しだけ清めることができたような気がした。

 

  *

 

那智の大滝が眼前にあった。

夏の陽光。真っ白な霧となって吹き上がる飛沫。健やかに笑いあう善男善女。

長政と一緒に、初めて旅をしたのがこの場所だった。

これは夢だ。滔々たる二人の夢を包んで。

長政、どこだ。どこにいるのだ。

 

――目が覚めた。

若江城。いつもの朝と同じだった。

布団をまさぐったが、どこも汚れていない。その代わり、涙が頬を濡らしていた。

 

その日の夜。久しぶりに訪ねてきた珠阿弥に酒の相手をさせて、そのまま身体を揉ませることにした。

「だいぶん回復されましたねえ。肌に張りが戻っている」

「煩いごとが減ったからな。面倒は婿殿がやってくれる。わしは気ままなものよ」

長慶は実に便利な男だった。彼が睨みを利かせている限り、長教は平穏無事である。当主の首を再びすげ替えたが、誰も長教に意見すらしなかった。新当主の畠山高政は生意気顔の小僧だったが、長教の前ではきちんとおとなしくできている。

「お殿様は、ますます偉くなられたのでしょうね」

「なぜそう思う」

「くふふ。部屋の匂いで分かりますよ。この香木は、値の張る代物だ」

「くく、さすがは元盗賊だな」

天下獲りという名を捨て、利権確保という実を取った。畠山領国である河内と紀伊、加えて宗三旧領の淀川流域で私服を肥やしても、相当程度まで長慶は黙認してくれている。珠阿弥の言う通り、本来は帝や摂関家でしか使えなかったような貴重品も手に入るようになっていた。

長慶は二度も公方の刺客に襲われている。あの進士賢光の剣から逃れられたのは、奇跡と言っていいだろう。これからも彼は暗殺の恐怖に怯え続けなければならない。こうなってみると、長慶の背後に隠れたいまの立ち位置は、安全で、実に心地のよいものだった。

「今日は、鍼を使いましょうか」

「ううむ、鍼はちと恐いな。腕を疑っている訳ではないが」

「では、一度ご覧に入れましょう。申し、そこな方」

珠阿弥が長教の警護役に声をかけた。彼の身体を使って実演しようということらしい。

「……おもしろい、やってみせよ」

見世物のようなものだ。つまらなければ斬り捨ててしまえばよい。

警護役をうつ伏せに寝かせて、珠阿弥が皮膚の表面をなぞっていく。ある点で指を止め、短い鍼を浅く入れた。血は流れないし、痛みもないようだった。それどころか、日頃はいかめしいその男が、蕩けるように顔を崩している。

「如何でしょう」

「き、気持ちようござる……! もそっと、もそっと」

「鍼にも限りがあります故、あと一本だけ」

もう一本、今度は首筋に鍼が入った。やはり強い快楽が生じるらしい。肉体が軽く痙攣している。

「おい、そんなにいいのか」

「指や灸では届かないところをほぐしますので。よろしければ掌など、危なくないところで試してみますか」

「う、うむ。そうだな、掌ならいいだろう」

珠阿弥が長教の手を取った。右手と左手を揉み比べ、左手を選ぶ。そして、掌側の親指と人差し指の付け根が交わる辺りと、手の甲側の薬指と小指の間に一本ずつ、ごく浅く鍼を入れられた。

たちまち、痺れるような快楽が全身を駆け巡った。鍼が入ったのは左手なのに、下腹の血の流れがよくなったような感触がある。

「むむむ、こ、これほどの」

「お気に召されましたか」

「は、鍼はまだあるのか」

「ええ。よろしければ、右の太腿などに入れさせていただければ、より効能が現れるかと」

「そうしてくれ」

「かしこまりました。――ああ、すみませんが、灯りを消してもよろしいでしょうか。眩しい感じがして、手元が狂うといけません」

「構わん。好きにしろ」

警護役はまだ寝そべっている。珠阿弥は自ら灯りを吹き消して回って、再び長教の身体をさすり始めた。裾を捲られ、予告通り右腿の裏側に鍼が三本入ってくる。深い。今度は首筋と耳の裏に刺激が走った。耐えられず、喘ぎ声を漏らしてしまう。

「……そうそう、実は最近、手前の光を奪った男が死んでしまいまして」

唐突に、何の話だろうか。大事なことのようだったが、上手く考えが纏まらなかった。

「活きのいい坊やだったんですがねえ。長教様もご面識がおありでしょう。ほら、後南朝の女を叩っ斬った」

「……!」

声を出そうとしたが、顎が麻痺している。警護役が動く様子もない。

「こちらにもお鉢が回ってきたということです。三好長慶だけが標的だとでもお思いでしたか?」

「……う、ぐぐ」

手も、足も動かない。背中の上では、ぞっとするような気配がもぞもぞと動いている。

「リイリイ、公方は裏切り者を許さない。お命、いただいていきますね」

固い棒のようなもので、首の骨を砕かれたのが分かった。

 

  *

 

千句興行を大々的に催すことにした。

そうしなければならないだけの理由があった。遊佐長教が暗殺され、河内には暗雲が垂れ込めている。丹波では波多野晴通の支援を受けた三好宗渭や香西元成が京を脅かし始めた。ひとつ判断を誤れば、ようやく安定を取り戻した畿内で激しい争乱が起こるかもしれない。

人心を鎮めるためには、長慶の健在を示すことと、風流の力を借りることである。連歌の中でも、千句は格別の意味を有する。十の百韻を合わせたひとつの千句をつくりあげるためには、相応の力量を有する連歌師を集めねばならない。その他にも会場、食事、手土産、記録、見物客など、仕切らねばならない事項は数多く、それだけ銭も手間も人脈も必要となる。いわば、千句は連歌の大祭であった。

長慶自身、連歌の会にはよく顔を出しているが、千句を主催するのは初めてである。三十にして畿内を治めることになった自分が、ただの武辺者なのか、風流を解する君子たり得るのか。畿内中の文人に注目されていることだろう。

これまでの友誼の甲斐あって、連歌師は一流どころが集まった。宗養、寿慶、昌休といった当代きっての実力者たち。紹巴、理文、家順など、将来を嘱望される若手たち。この布陣に混じって、自分がどれだけの句を付けることができるか。

 

くるとあくといづれか千入花の色――(長慶)

月に霞の匂ふ山の端――(寿慶)

とぶ雁の羽風の名残雪散りて――(宗養)

 

主催者である長慶の発句から始まった。

世の移ろい、自身の開花を匂わせつつも、情景はあくまで優美。そんな句を詠むつもりでいた。手応えはよかった。寿慶、宗養が続けざまに句を付けていく。参加者や見物客のこの千句への期待を高めるには、上々の滑り出しだった。

 

 

水こほる枯野の霜に日は暮れて――(宗養)

みるみる月の影のさやけさ――(玄哉)

むら雲をさそひし風は涼ましく――(長慶)

杉間に霧の残るひとかた――(宥松)

 

清涼と静寂を保ちながら、景が快く移り変わっていく。三百句を終えた時には、成功を確信していた。

第三の百韻において、長慶が詠んだ句は十。寿慶、昌休の十一、宗養の十とほぼ同数。数の上でも付合の上でも、まず見劣りはしていない。一同が長慶を見る目にも、本心からの感嘆が見て取れた。

 

 

深くしも親の教えに任せ来て――(長慶)

すくなる道や神もうけまし――(慶牧)

その神のつたへも絶えぬ言の葉に――(寿慶)

たれか汲みしるさほ川の水――(正悦)

香に匂ふ露や打ち散る梅と見む――(玄哉)

巌の苔も若みどりなり――(宗養)

庭ひろくつくりなしたる春の山――(寿印)

折にふれつつとめるこの殿――(昌休)

 

十日目。“親の教えに任せ来て”と詠みながら、思わず目頭が熱くなった。そのことが千句の終了に趣を添えたらしい。若い紹巴など、座の中でもらい泣きをしている者がいる。首元の傷痕を撫でながら、長慶はゆっくりと閉会を告げた。

「素晴らしい出来栄えになりましたな。これほどの千句はいつ以来か……。今日、この場に立ち会えたことを神仏に感謝しております」

宗養が話しかけてきた。父の宗牧を失ったが、連歌師の名声には些かの翳りも生じていない。いまも、近衛家や三条西家、各地の大名などから厚い寵を寄せられているようだ。

「ふふ、宗養殿に感謝せねば。付け悩んでいる時に、何度も助け船を出してもらいました」

「何を仰いますやら。連歌は野戦、和歌は城攻めに例えられますが、長慶殿は両方がお上手だ」

「や、どうも私は考え過ぎてしまうようです」

宗養は人褒めの巧者である。尼子や北条が宗養を贔屓にするのも、こうした武家にとって親しみやすい物言いが大きいのだろう。

今日の千句は、必ず各所で話題になる。大名や国人は、公方や六郎から届く書状よりも、連歌師や商人から聞いた生々しい噂を信じるものだ。風流で名を上げることで、自然、外交もやり易くなっていく。

何よりも、纏まった時間を歌に捧げることは、いまの長慶にとって数少ない慰めであった。

 

  *

 

“長慶は特別”。そんな言い回しが阿波にも聞こえてきた。

長慶が行ったことは、通常ならば大逆と謗られるべきものである。ところが実際は、武家はもとより公家や坊主までもが長慶の治世を褒め称え、暗殺という外法に手を染めた公方を非難していた。長慶の統治を受け容れたい、しかし長慶の支配には正統性がない。この状況を、人々は“特別”、“特例”と整理することで呑み込み始めたようだ。

長慶は巧みだった。民心の動揺を防ぐため、表向きは可能な限り公方や六郎の前例を踏襲している。ときには細川氏綱を立てて家来のような振る舞いもしてみせる。戦、政務、調略、風流、礼法。あらゆる方面に才を示しながら、あくまで謙虚な姿勢を崩さない。この辺りの塩梅が絶妙なのである。

同じようなことをして、早くも躓いているのが陶晴賢だった。大内義隆が、晴賢によって遂に討たれた。康長によれば中国・九州はいまも混乱の只中にあり、収拾は容易でない見通しである。これは、義隆を自害させてしまったことが大きいのだろう。追放と殺害では、人々の受け止め方はこうも異なる。

(元長よ。お前の息子たちは、これからどこへ向かっていくのだろうな)

義兄を殺した晴賢にある種の敬意を抱いている自分に気づいた時、持隆は空漠たる思いに囚われた。かつて睦みあった主君を弑逆した晴賢の覚悟に、気高く、耽美なものを感じたのだ。一見悪手であったが、このことが将来、晴賢による支配に迫力と納得感を与えるのではないだろうか。晴賢と比べれば、長慶のやり方は甘いと言わざるを得まい。いまはよくとも、いずれ侮られることになりはしないか。公方が放った刺客にもまた、国を治める者の気構えが込められているのではないか……。

(長慶が理の人ならば、誰かが理不尽を補わねばならぬ。――その器量を有する者は)

之虎をおいて他にない。長慶に似て長慶にあらず。もしかすれば、長慶を超え得るただ一人の男。そう、之虎もまた特別な存在なのだ。

さて、ではどうやって。よい思案は浮かばなかった。

気分晴らしに、眉山徳島県徳島市)まで馬を走らせてみることにした。小春日和の今朝、持隆は諸肌を脱いでその上に陣羽織を纏う、いつものいでたちである。胸毛には白いものが増えていたが、身体の丈夫さにはまるで変わりがない。吉野川の船頭や道行く農夫が、気安く声をかけてくる。持隆もそれに手を振って応える。こんな光景が、もう何十年も続いていた。

麓に馬を繋ぎ、僅かな供回りを連れて山頂に登る。眉山は低い山だが、その親しみやすい見晴らしが持隆は好きだった。冗談などを交わしながら、寛いだ時間を愉しむ。

やがて雲行きが怪しくなってきて、下山することにした。その前にと、供回りから離れて用を足す。その時不意に、背後から胸と股間をまさぐられた。

「お久しゅうございます。……持隆様」

この手つき、含み声。間違いない。姿を消していた小少将だ。

再会を祝すかのように、生ぬるい雨が降ってきた。

 

続く